YURIKAの囁き -2ページ目

「ミッション」


’86 イギリス映画 126分

 18世紀末、南米で伝道活動を行ったイエズス会の神父たちと、イグアス滝上流に住むグァラニー・インディオ、そして奴隷商人と結んで経済的支配を目論んでいたポルトガルとスペイン。三者三様の対立と葛藤が、4キロ近い幅で100メートルの落差を駆け落ちてゆくイグアス滝そのままの壮大なドラマを繰り広げてゆく。

 物語は、ローマから派遣された枢機卿の回想で始まる。その数年前、滝を登ってインディオの中に単身乗り込んだガブリエル神父(ジェレミー・アイアンズ)。彼は一本のオーボエで彼らの心を掴む。音楽を愛するグァラニー・インディオは、信仰と共に教会音楽を身につける。枢機卿との謁見では、インディオの少年が天使のような歌声で魅了する。もっとも、スペイン総督やポルトガル大使には【仕込まれたオウムが美しく鳴くのと同じ】と決めつけられ、元奴隷商人だがインディオの寛容さに目覚めて入信したメンドーサ(ロバート・デ・ニーロ)が激怒する。やがて、神父たちとインディオがジャングルの奥地に築きあげた楽園にも最後の日が訪れる・・・。


 この映画は、特に音楽が素晴らしい。伝統的西洋音楽と民族音楽とを見事に融合させたのはエンニオ・モリコーネ。教会音楽を思わせる荘重なコーラスとオーケストラの響きと、エスニックなリズムが絡み合い、見事な美しさを表現しています。


 土着民族などを多数出演させ、その奇抜なテーマや音楽で度肝を抜かせたのは、ドイツの異端の映画作家ヴェルナー・ヘルツォークだけど、この『ミッション』は、そこへキリスト教的主題を置くことによって、より民族との対話が成されているといっていい。カンヌ映画祭パルムドールの栄冠もうなづける作品です。

「許されざる者」

 

今にして思うと、西部劇って見たことあったかなと思い出してみるんだけど、それらしいのはいくつか観てるかもしれない。でも、例えば、メル・ギブソン主演の『マーヴェリック』とか西部劇と言えるのか疑問です。
西部劇ってこういうものだっていう定義があるんだとしたら、多分それは、アメリカ西部開拓時代のお話なら、とりあえず西部劇でいんじゃないかと思うんだけど、そのあたりは詳しい人に聞いてみたいものですね。
で、お題の『許されざる者』ですけれど、実はこの映画、ずっと避けてた映画です。なぜなら、西部劇だから(笑)そう、これが正統派の西部劇だと思うから。西部劇ってなぜか好きになれない。祖父が、一時西部劇マニア(ヲタク)で、ポスターやらサントラやらを集めては、祖母に怒られてるのを見てきたけれど、西部劇のどこに魅力があるのか、未だに理解できないでいる。西部劇の名作と言われる作品はけっこう多い。例えば『シェーン』、『駅馬車』、『夕陽のガンマン』等。そもそも、アメリカの開拓史なんて知らなくてもいいわけで、ましてや拳銃所持が当たり前のこの時代の男たちの無法振りは、見てても呆れて来る。拳銃が男であることの証明みたいな、女は身体を売ってるのが当たり前みたいな、こういう時代のアメリカが好きになれない。
クリント・イーストウッドは、男の視点で映画を撮る人です。男の視点で映画を撮ると、それは優れたエンターテイメントとなる。男の映画には、様々な葛藤や試練や哀愁があって、物語性にも優れたものが多いですね.。アクション、闘い、友情、友の死、女への愛、プライドを賭けた闘い。そういった男臭さをさり気無く演出する術に長けているイーストウッドだから、この映画でも、その個性をいかんなく発揮しています。ただ、アクションの面においては、やはり年齢的なものがあるのか、やや大人しい。
彼の映画で一貫として感じるものは、そのニヒリズムの表現にあると思う。年輪を重ねているだけあって、知性と品性に溢れ、映画全体からは、イーストウッドの映画に対する愛情みたいなものが伝わってくる。
映画の中でイーストウッドが演じているマニーが、昔、列車を爆破し、女子供までも犠牲にした最悪の男であるのに、この映画の中では、ジーン・ハックマン演じる保安官が悪に見えるのは何でか。凶悪犯であった男が、聖母のような妻の献身的な愛に応え改心し、それとは逆に、正義を振り翳しながらも、本当の正義を見失っている保安官が悪なのだと表現している。真の意味で【許されざる者】は誰なのか、イーストウッドが投げかけているこのテーマは、宗教的な意味において、非常に深いものがあるようです。

「猟人日記」

ツルゲーネフの短編小説『狼』を題材にしたソ連映画『猟人日記』というのがあるんだけど、それとこれは全然関係なくて、これはアレグザンダー・トロッキの『ヤング・アダム』が原作。
船着場で女の水死体を発見した二人の男、ジョーとレズリー。彼らは貨物船で船荷を運搬する仕事をしている。貨物船は家でもあり、レズリーは妻と息子もいる所帯持ち。ジョーは言わば居候みたいな存在です。下着姿で発見された水死体のことは翌日に新聞に載る。レズリーと妻エラとは、あまり夫婦生活がうまくいっていない。そんな中、ジョーとエラが関係を持ってしまった。このあたりから、このジョーという青年の奇妙な性遍歴と、最初の水死体とが微妙な接点となって淡々とストーリーは進んでいきます。
この映画、全体を通して暗く重い空気に包まれていて、そういった陰鬱な中では、殺人でも不倫でも、あらゆる犯罪が起きても不思議は無いような思いにさせられる。
ジョーは、まるで食事をするかのように、次々と女性と交わる。この貪欲さは飽きれるばかりだけど、船員をする前のジョーが作家志望であり、ものが書けないというジレンマが、女性の肉体に対して粘着する原因となっているのかも。
【猟】という漢字の意味を調べると、一般的には【狩り】を指すけれど、別の意味として【漁る】という意味もあるらしい。まさにジョーの女漁りと一致するタイトルをつけたなと感心しました。
ジョーと女性とのそういうシーンが沢山出てくるけれど、ウチが一番エロティックだと思ったのは、なぜか最初の下着姿の水死体です。その妙に白けた肌といい、下着から覗くお尻のラインといい、この映画のテーマを象徴しているかのような絶望感を感じました。
イアン・マクレガー・ファンが卒倒しそうな映画でもある(笑)

「イン・アメリカ・三つの小さな願い事」

職を失い、アイルランドから夢を抱きつつアメリカNYへ移住してきた一家4人の話。父ジョニー、母サラと、10歳のクリスティと5歳アリエルの姉妹。この一家には、かつて2歳で不慮の事故で亡くした息子フランキーがいた。移り住むことになったアパートでの生活。娘たちは近所とすぐ仲良くなり、父は役者の夢を追いつつタクシー運転手を務め、母はパートに出、その日暮らしではあるけれど、幸せそうに写る。そして、階下に住むアフリカ系移民の男マテオと出会い、一家の生活に少しずつ影響を及ぼしていく。マテオは、神秘主義の伝道者よろしく、まるで、御伽噺に出て来そうな占い師のごときに一家を導く。
サラが妊娠し、マテオは、「そのお腹の子が産まれたら、全てはうまくいく」と謎の言葉を言う。しかし、サラの妊娠は弊害を伴うものだった。入院費、出産費用など、ジョニーには払える額ではない。そしてある日、マテオが重病で倒れる。
微妙な作品なんだなぁ。前半の貧困層を中心とした物語構成には、色々な困難を乗り越えて、健気に、逞しく生きていく家族の物語なのかと、ある面、展開に期待を持たせておいて、マテオの登場から一転、まるで御伽噺のようなラストへと進むあたり、期待ハズレもいいとこでしたね。
そもそも、あんなに怖く、暗く、何か得体の知れないものを持っていそうなマテオが、姉妹との接触から、急にいい黒人に変身してしまう、この返り身の速さは疑問だ。彼の残した遺産が、サラの妊娠と無事な出産である、という解釈で、このマテオの存在を位置付けてしまっているあたり、ご都合主義の何物でもない。

これからの記事

ええと、今日の記事から、少し書き方を変えます。

今まで、学校で記事を書き、いったん保存しておいて、家帰ってからここへUPしてたんですが、

昼間、もうあんまり余裕がなくなってきました。

授業にちゃんと出ないとマズイことになりそうです(笑)

なので、これまでよりも、記事は簡潔になってしまいますが、ご了承ください^^

「ダーク・ウォーター」

 

■2004年、アメリカ映画、105分
■監督:ウォルター・サレス
■製作:ダグ・ディヴィソン、ロイ・リー、ビル・メカニック
■原作:鈴木光司
■脚本:ラファエル・イグレシアス
■撮影:アフォンソ・ビアト
■音楽:アンジェロ・バダラメンティ
■出演:ジェニファー・コネリー、アリエル・ゲイド、ティム・ロス
     ジョン・C・ライリー、パーラ・ヘイリー=ジャーディン
【ストーリー】
ダリアは離婚協議中で、娘セシリアを連れて家賃の安い地区の古い集合住宅へ引っ越した。天井から黒い水漏れ、階上の部屋を歩く足音、不可解な事の連続、そして、階上に住んでいたであろう少女の、悲しい過去が明らかになっていく。
【評】
人気のホラー作家鈴木光司氏の『仄暗い水の底から』を、まず日本が黒木瞳主演で映画化し、その日本版映画をハリウッドがリメイクしたのがこの『ダーク・ウォーター』です。完璧にゴシックホラーになっています。なので、残酷なシーンとか、サスペンスフルな映画を期待した人には肩透かしを食らうでしょう。
原作は読んでないので、原作との比較はできないけれど、日本版『仄暗い・・・』を観てるので、そちらと比較してみたい。実は『仄暗い』のほうは、ぜんぜん怖くなくって、むしろ表現的に矛盾している部分が目立っていたので、最終的にどう解釈したらいいのか困ったものです。その点、『ダーク・ウォーター』は、そういう矛盾点をしっかり辻褄を合わせ修正しているので、鑑賞後に疑問が残らなくてよかったと思う。この点に関しては後で解説したいと思います。
で、『ダーク・ウォーター』ですが、最初からとにかく暗い。ニューヨークのルーズベルト島ってこんな都市なんですね。古いマンションが立ち並んでいて、そういう高層マンションのせいか、空があまり見えなくて、その空からは、ひっきりなしに雨が落ちてくる。『ダーク・ウォーター』というタイトルが示すように、雨や水といったものが重要なファクターとなっています。雨だけでなく、水溜りや水道から出る水、エレベーターの水溜り、天井からの雫、お風呂の水など、水が苦手な人には耐えられないシチュエーションの数々。水という媒体を通して恐怖を煽る監督の演出はなかなか冴えてるなと感じました。
母親のダリアは離婚調停中で、娘のセシー(セシリア)を連れてNYの離れ島ルーズベルト島の古めかしいマンションへ引っ越してくる。そして起こる数々の超常現象。それは天井からの水漏れから始まりますが、ダリアは幼い頃に母親に捨てられたことがトラウマになり、偏頭痛持ちになっている。そして、霊感の強いセシーは、何かを感じ取る。セシーの幻想の中の友達【ナターシャ】が、全ての鍵を握っています。サレス監督は、意外なところで接点を繋ぎ合わせたり、ひょんなところに解く鍵を置いてみたりと、なかなか憎い演出をしてくれています。そして、何といっても、そのダークな映像表現がうまい。映画を観ながら、劇場の外も雨かしらと思わせてしまう。ほとんど雨のシーンなので、妙な寒さも感じたりする。
最初に言った、『仄暗い』の矛盾点は、母親が上の階に住んでいた死んだ少女と共にエレベーターに乗って消えますね。その後、この母親がどうなったのかが曖昧になっていたような気がする。死んだという確証がないまま映画は終わってしまう。上の階の少女の件も、曖昧でしたよね。このあたりの曖昧に終わらせてしまっていた面を、サレス監督は、ちゃんと矛盾することなく描いている。少女の一件は、管理人の管理ミスによって起こったとして、管理人が逮捕され、少女の両親も事情聴取されることになり、ダリアも死んだことをハッキリと表現しているし。
最後に俳優人。ジェニファー・コネリーの母親、なかなかイイです。映画の内容に合わせたのか、着ている衣装も地味で暗くて、それをさりげなく着こなしている。それと、ジョン・C・ライリーの不動産屋とか、『ブラス!』に出てたオッサンの人、名前忘れちゃったけど、この人が胡散臭い管理人役でいい味出してたし、あと、ティム・ロスが出てたんだけど、どこに出ていたか気がつかなかった。母親ダリアの調停弁護士役だったんですよね。なんか雰囲気変わったわ彼は。

「テオレマ」

■1968年、イタリア映画、99分
■監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
■撮影:ジョゼッペ・ルッツォリーニ
■音楽:エンニオ・モリコーネ
■出演:テレンス・スタンプ、シルヴァーナ・マンガーノ
     アンヌ・ヴィアゼムスキー、ラウラ・ベッティ
     マッシモ・ジロッティ、ニネット・ダヴォリ
【ストーリー】
北イタリアの工業都市ミラノの、とある高級住宅に住む一家の元に、「明日着く」という差出人不明の電報が届く。翌日開かれたパーティに謎の青年がいて、彼が電報の人物だった。青年はそのまま一家の家に滞在し、母親、父親、息子、娘、家政婦、の5人と性的交渉を結ぶ。そして、また突然、電報が届き、青年は「明日起つ」といい、翌日に立ち去ってしまう。その後、この家族たちは、おかしな奇行をするようになる。
【評】
この映画について色々と調べてみたら、イタリアで公開当時、カトリック系新聞などがこぞってこの映画を非難し、カソリック内部では映画の評価を巡り対立騒ぎがあったらしい。そういう賛否が波及したため、公開中止にまで追い込まれた曰く着きの映画です。ローマなどでは、「官能の芸術とも猥褻の美学とも映画史上最高のポルノグラフィー」と評されて、一時公開までされたけれど、結局は上映禁止。そういうスキャンダラスな話題を振り撒いたパゾリーニ本人は、鼻で笑っていたそうです。
『テオレマ』の主題は、簡単に言ってしまうと次の3つから成っていると思います。第一は【歴史を救済的要因に支配される弁証法的過程、有産階級とプロレタリアの階級闘争とみるマルクス主義の立場】、第二に【人間の心理、行動が無意識の領域にある非合理的な性欲によって規定されるとするフロイドの精神分析学の見地】、第三に【神が歴史を支配し、人はそれに応答するとみるキリスト教的歴史観】自らを無神論者と公言しているらしいパゾリーニとしては、本来矛盾する三思想が、強調点を変えつつも奇妙に混然一体となって存在していると見ているかもしれない。
『テオレマ』の物語は、青年宛てに届く2通の電報により現れ、去る青年の登場と退場を境にして、アリストテレスが詩学で述べた発端、中間、終局の三部分に整然と区別されています。発端では、美しい邸宅、緑の芝生、工場経営者の父親、良き妻、教養のある子供たちと働き者の女中、このブルジョアの理想状況が、無声映画の手芸を基に紹介されていく。中間には、青年を中心に繰り広げられる性的交渉を記録映画風に描写する前半と、青年出立の予告に動揺した心中の告白をテレビ的なクローズアップ法で捉えた後半から成り立っています。終局では、一家の人々の内、ある者は救済へ、残る者は破滅へ向う終末論が、パゾリーニの独断場だと言える【映像言語による抒情詩】の技法で、象徴的に展開されていきます。
パゾリーニの他の作品を観たりしても、ある外的動因を転回点とする登場人物の運命の変換を、時間的序列と因果律に従って描写する古典的様式を基礎としているようです。しかし、他作品と照らし合わせると、単一の主人公に焦点を合わせていたのに対して、『テオレマ』では、お互いに無関心な家族五人の物語が別個に展開していく。各々に始め、中、終りの部分があり、合計15の挿話群から成る複雑な構成は、一見表現の分裂的印象と内容の難解さを醸し出しているけれど、モンタージュの方法を吟味するならば、挿話は適当に配置されたものではなく、青年を中軸に、ある放学的正確さを持ってて、論理的に、同時進行的に展開されていることが明らかになる。
現実はもはや、単一ではなくなり、激変するイデオロギーと生活様式に対応するために、現実を多様で多義的な意識の層に分解した上で再構成する必要性が生じてくる。『テオレマ』の重層構造は、冒頭のインタビューで言われる【新しい要請】に対する答えであり、また画面から登場人物たちが観客の意識の深淵へと次々と投げかける鋭い凝視の美学によって、私たちにも応答を迫ってくる。硝子板のように作品群、五重の物語、観客の想像力と感受性を重ね合わせると、パゾリーニの意図した映像空間が完成するのだと思う。

「どん底」

■1957年、日本映画、137分
■監督・製作・脚本:黒澤明
■原作:マクシム・ゴーリキー
■脚本:小国英雄
■撮影:山崎市雄
■音楽:佐藤勝
■出演:中村鴈二郎、山田五十鈴、香川京子、三船敏郎
     東野英治郎、三好栄子、根岸明美、清川虹子
【ストーリー】
江戸時代、日も当たらない場末のとある貧乏長屋。そこには、鋳掛屋や夜鷹、飴売り、お遍路、遊び人に泥棒まで、さまざまな人々が暮らしていた。彼らはそれぞれの事情でここに流れ着き、その日暮らしのどん底生活を送っていた…。
【評】
ソビエト社会の底辺に生きる人々の生活の悲惨さと、それでも尚、幻想を夢見つつ逞しく生きぬく精神を鋭く観察した戯曲『どん底』、これを書いたのは、ロシア革命の時代を生きたゴーリキーです。
黒澤監督は、これまでも、海外の有名な文学作品を映画化していて、『リア王』『白痴』『どん底』と、海外文学の日本的民族性への転換と、黒澤流解釈によって、見事な映画作品として作り上げられています。
登場人物の名前が日本名に変えられているとはいえ、おかしさと悲しさに彩られた様々な人物は、容易く見分けられるでしょう。当時の日本映画の最高の俳優陣が、泥棒のペーペル(捨吉)、大家のコストゥイリョフ(六兵衛)、その女房のワシリーサ(お杉)、そして巡礼のルカ(喜平)などの異様な面々を演じています。時として論議の的とされる演劇性を素直に取り入れたこの作品は、長屋の内部と中庭だけで話しが進んでいく。カメラがゴミに塗れた穴倉へとパンダウンする冒頭の見事なショットから、絶望を糧に生きる人々――ゴーリキーの表現を用いれば過去の人々――が蠢く【どん底】を見つめ続ける。黒澤監督はまさに外の世界を見せることなく、私たちを彼の世界に閉じ込めることに徹したと言えます。
他の監督ならば、原作を古風で形に嵌った映像として描くことで満足するのかもしれない。あるいは自分たちが、人間であることを時として忘れてしまう人々の悲痛な運命を描こうと、陰鬱なる自然主義に陥ってしまうかもしれない。
黒澤監督の『どん底』は、まさに【絶望の果てから生まれた】と言えるユーモアを交えた解釈を施したと言っていい。零落した人間たちを描くこの悲喜劇を演じた役者たちは素晴らしく、演技以上のものを出し切っていると言えます。自ら編集を行っている黒澤監督は、演劇的な表現方法など安々と飛び越え、全ての瞬間において、まさしく映画的な時を刻み込んでしまったに違いない。

「ダメージ」

■1992年、イギリス・フランス合作映画、111分
■監督・製作:ルイ・マル
■製作:ヴァンサン・マル、サイモン・レルフ
■原作:ジョゼフィン・ハート
■脚本:デヴィット・ヘア
■撮影:ピーター・ビジウ
■音楽:ズビグニエフ・プレイスネル
■出演:ジェレミー・アイアンズ、ジュリエット・ビノシュ
     ミランダ・リチャードソン、ルパート・グレイヴス
1992年、NY批評家協会賞、助演女優賞=ミランダ・リチャードソン
1992年、英国アカデミー賞、助演女優賞=ミランダ・リチャードソン
1992年、LA批評家協会賞、音楽賞
【ストーリー】
イギリスの保守党 MP の大臣スティーブンは、カクテルパーティで息子マーティンの恋人アンナを一目見ただけで、すっかり彼女のトリコになってしまう。彼女も彼をフィアンセの父親と知りながら積極的に誘惑する。そしてふたりは人目を避けつつ、とろけるような恋に落ちる。家庭では良き父であり良き夫であったはずの男が、どんどん恋に堕ちてゆき・・・。
【評】
またまたジェレミー・アイアンズの登場。ここでも破滅型のダラシナイ男を演じて、ますます下半身が元気です(笑) この映画、相手が息子の恋人だ、という処に問題あり。恋愛は自由なものだから、結婚しているからしちゃいけないわけではない。結婚していることは大きな制約ではあるけれど、絶対的な壁ではない。むしろそれは一般的に言って、恋愛から自然に遠ざかろうとする心のバリアが働いて、この映画のようなことからは離れようとする気持ちが強く前面に出て、このような事件は未然に防げられるはずだ。と、主人公もきっと考えていたはず。ところが冷静な第三者として自分を見ることが出来なくなっている自分を発見し、又愕然とする。いけないことだと思いながら、離れられないでいる。誰もがそうはなりたくないのに、誰もがそうなってしまう恐ろしさ。夏目漱石の「心」に似たものをこの映画から感じた。気持ちは分かっているのだけれど、身体の方が言うことを聞いてくれない、と寅さんの言葉じゃないけれど、するどく真実を突いている。
アナはどうして二人の男、それも親子を同時に愛することが出来たのか。だいたい、始めに誘ったのはアナだったではないか。彼女が自分の気持ちに正直に行動にしてしまうとどういうことになるかを、最もよく知っていたにもか関わらず、誘い水を仕掛けたのはなぜなのか。アナは何を最終目標にしていたのか。スティーヴンか、マーティンか。息子の方だったら、父親との関係を続けたまま、結婚してもいつかばれてしまうに決まっているから、父親を選ぶとは思えないし、事実、スティーヴンから結婚を迫られた時、はっきり断っている。彼が彼女と結婚するということは、息子も妻も、平穏な家庭をも捨てることを意味し、そんなことはカッカしている男が一時的に思い詰めることであり、彼よりもはるかに恋愛経験豊富なアナがこの関係をこのままの形で持続させましょう、と言ったのも分かる。
少し衝撃的ではあるものの、人間の心の普通の混乱さ加減を普通に描いていて、やっぱりルイ・マルらしい映画ではあった。ただ、彼がどうしても作らなくてはならない映画ではないと思うんですが。こんな映画を作っていないで、もっとフランス的なしゃれたのを見せてほしいなあ。

「木靴の樹」

1978年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞

■1978年、イタリア映画、187分
■監督・脚本・撮影・編集:エルマンノ・オルミ
■美術:エンリコ・トヴァリエ
■音楽:J・S・バッハ
■製作:ミラノ映画製作集団(G.P.C)
■出演:ルイジ・オルナーギ、フランチェスカ・モリッジ
     テレーザ・ブレッシャニーニ、ジョゼッペ・ブリニョッリ
     バティスタ・トレヴァイニ、ルチア・ペツォーニ
【ストーリー】
19世紀末の北イタリア。バティスティ一家は他の数家族と一緒に、小作人として働いていた。子供の誕生、結婚、親子喧嘩、牛の看病にトマトの栽培。そこには貧しい生活の中にも小さな喜びと悲しみがあった。ある日、バティスティは息子のミネクの表情が暗いのに気付きく。ミネクは一足しかない木靴を、学校の石段で割ってしまったのだ。バティスティは息子のために、河の岬に並ぶポプラの木を伐り、木靴を作った。ところが、そのポプラは地主の所有物であり、これが原因でバティスティ一家は農場を追われる。過酷な世界が彼ら一家を待ちうけるのだった・・・。
【評】
『木靴の樹』の舞台は、19世紀末、北イタリアの農場です。この時代、農場の土地、住居、畜舎、農具、そして樹木の一本一本に至るまで地主が所有し、小作人があげる収穫の三分の二が地主の物となったそうです。
映画は、小作人の一人バティスティが、貧しい中から息子のミネクを小学校に行かせる決意をするところから始まる。粗末なカバンをかけ木靴を履いて往復6キロもある学校までの道を早朝に歩み出すミネク少年。ある日このミネクが、学校帰りに転んで木靴を割ってしまう。深夜にポプラの木を伐り、徹夜で息子の木靴を作るバティスティ。だが、無断で木を伐ったことが知れて、一家は農場から追われることになる。
上映時間3時間7分。この父子の物語を中心に、小作農場に暮らす四家族の生活と、四季のうつろいが、実に丹念な描写で積み重ねられていく。人間の誕生と死、愛と別れ、結婚、争い、喜び、悲哀。そして農民たちの生活の知恵――雪が降った夜に鶏糞を土に混ぜて春のトマトの収穫を狙う老人、小石を馬車に積めこんで地主に差し出すトウモロコシの計量をごまかす農民。鎌でニワトリの首を叩き切ったり、ブタを殺して四肢をバラバラにするショッキングな場面も、ここでは土と農民の自然な営みとして淡々と描かれていく。
一切のドラマティックな粉飾を排して悠然と繰り広げられる人間と自然の生業。それを、ほとんど自然光だけで撮影し、リアリズム・タッチの底にみずみずしい詩的な美しさすら漂わせたオルミ監督の演出効果は、【ネオナチュラリスモ】と評されて然るべき。しかも、農場を追われ、ジッと唇を噛みしめて涙を流すミネク少年の姿には、地主対小作農という階級対立の中で耐え忍び、土にしがみ付かなければ生きていかれなかった人々の、静かな怒りが込められている。
農民にとって何よりの価値は、土からの大いなる教えを受け継いできたことにあり、生命の深い意味、家族の集まり、そのように価値あるものを私たちはいとも簡単に放棄してしまう。間違いはそこから始まっていると言っていいと思う。つまり、社会の近代化、文明化の過程で、人間は本質的なもの、土と生命の手触りを捨て、無意味で空虚な生活を選んでしまったのではないだろうか、そんな偽りの文明の中で、階級闘争を呼びかけても、それに何の意味があるのか、とオルミ監督は問い掛けている気がする。