御所ヶ谷神籠石〜景行天皇の長峡宮伝承地〜 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

すごい石積み!

御所ヶ谷神籠石中門跡。



「御所ヶ谷」の「御所」というのは、12代景行天皇の行宮(一時的な宮殿)があったということから付いたという。


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​景行天皇といえば、ヤマトタケルの父であり仲哀天皇の祖父!


御所ヶ谷神籠石の住所は、福岡県行橋市大字津積と福岡県京都(みやこ)郡みやこ町にかかる辺り。



↑赤丸、黄色丸は今回行った場所。第3駐車場スタートで、御所ヶ谷住吉池公園辺りまで。


【日本書紀(現代語訳)
景行12年秋7月に熊襲が叛いて朝貢しなかった。8月15日に天皇は筑紫に向かい、9月5日に周芳の娑麼(現在の山口県防府市)に着いた。
天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない」と言われ、そこに留まり、まずは多臣の祖の武諸木と国前の臣の祖の菟名手と物部の君の祖の夏花を遣わして、その状況を調べさせた。



そこには女人がいて、神夏磯姫(田川市にある若八幡神社の祭神)と言い、人民も大勢いた。姫は国の首長だった。
神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津の山の榊を抜き取り、上の枝には八束の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて申し上げた。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くようなものではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。
一人は鼻垂と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、菟狭の川上にたむろしています。
二人目は耳垂と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木の川上に住んでいます。
三人目は麻剝と言い、ひそかに仲間を集めて高羽の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。
この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに討って下さい。時期を逃さないで下さい。」



そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にした。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えると、服従しない他の三人を連れて来るように言った。すると、仲間を連れて集まって来た。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺した。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡県(ながおあがた)に着いて、行宮を建てて住んだ。そこを(みやこ)と呼ぶようになった。



景行天皇は熊襲征伐の為に筑紫に向かって来た。
筑紫に入る前に一悶着あり、その後に建てた行宮がここ、御所ヶ谷神籠石の場所にあったのではないかという話である。

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あれ?ヤマトタケルって、景行天皇によって単独で熊襲征伐に向かわされたんじゃなかったの?


古事記では、景行天皇に疎まれて単独で熊襲征伐に向かわされた事になっている。

でも、日本書紀等では、景行天皇が自ら九州に来て一旦は平定してて、再び反乱が起きたところにヤマトタケルを向かわせたという事らしい。


古事記は、当時残っていた文献をかなり取捨選択してまとめてある。

古事記で受け取れる事と日本書紀その他をも知った上で感じる事は結構違ったりして面白い😆



これは排水の為の穴と考えられている。



今現在、この穴から水は流れ出てはないけれど、すぐ近くには水の流れがある。




ずんずん進む。



遺跡のほぼ中央の高台に、景行神社がある。



菊の御紋。



景行神社の向こう。



礎石建物跡。



これがかつては、景行天皇の行宮、長峡宮(ながおのみや)の跡なんじゃないかと考えられていた。

しかし、発掘調査の結果、御所ヶ谷神籠石は7世紀後半頃に築かれた山城であり、この石達はそれより新しいものだと考えられているそうな。


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でも、礎石は景行天皇の時代のものじゃなかったからといって、景行天皇の行宮がここになかったという証拠にはならないよね!


もともと何らかの建物があった場所に後々、それ以上に立派なものを建てた可能性はある。なきしにもあらず。


この近くには大宰府と京都平野をつなぐ古代の官道(国家によって整備された道)が東西にある。

敵軍の侵攻を監視し妨害する為に、その道を見張る見張り台がここにあったのではないかという話。



こちらは馬立場石塁。



貯水池の堤と推定されている。



水が通る溝があり、その横をぞろぞろ進む。




こちらは西門跡。



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ところで「神籠石(こうごいし)」って何?


「神籠石」という名称は、元々は久留米市の高良山のものを指していたらしい。


鎌倉時代頃に成立した『高良玉垂宮縁起』・『絹本著色高良大社縁起』・『高良記』・『高良山八葉石記』などでは、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が神馬の蹄の跡を付けたとされる、一般的に馬蹄石と呼ばれる穴のあいた石を「神籠石」として記載されている。


高良山にはもともと高木神(タカミムスビ)が鎮座していたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って籠ってしまい、高木神は追い出されたという伝説がある。(高良の神が籠ったところの石だから神籠石という名称。)


列石遺構のことは「八葉(はちよう)の石畳」と記載されていたのだけれど、

江戸時代中期の『筑後志』では列石遺構が「神籠石」として記載され、それ以降、名称に混乱が生じたそうな。


↑これは竈門山(宝満山)にある玉依姫の馬蹄石


明治に入り、高良山の列石遺構は霊域を示すもの(だから神籠石と呼ぶ)と解釈して「神籠石」の名称で小林庄次郎が学会に紹介してしまった事で、「神籠石=列石遺構の名前」という構図が出来上がってしまい、

昭和の発掘調査により列石遺構は山城だという結論に至ってからも、神籠石という名称のままというわけ。


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「神籠石」って名前は、誤用・誤解を重ねた結果の名称なのね💦
じゃあもう「列石遺構」って呼ぶか、「石畳」もしくは「城」「山城」とか呼ぼうよー。


最近ではこのタイプの古代の城を「神籠石系山城」とか、「城」と呼ぶ傾向にはある様子。

なかなか急に呼び方は変えられないから段々と、ね。