御所ヶ谷神籠石の住所は、福岡県行橋市大字津積と福岡県京都(みやこ)郡みやこ町にかかる辺り。
古事記では、景行天皇に疎まれて単独で熊襲征伐に向かわされた事になっている。
でも、日本書紀等では、景行天皇が自ら九州に来て一旦は平定してて、再び反乱が起きたところにヤマトタケルを向かわせたという事らしい。
古事記は、当時残っていた文献をかなり取捨選択してまとめてある。
古事記で受け取れる事と日本書紀その他をも知った上で感じる事は結構違ったりして面白い😆
これは排水の為の穴と考えられている。
今現在、この穴から水は流れ出てはないけれど、すぐ近くには水の流れがある。
ずんずん進む。
遺跡のほぼ中央の高台に、景行神社がある。
菊の御紋。
景行神社の向こう。
礎石建物跡。
これがかつては、景行天皇の行宮、長峡宮(ながおのみや)の跡なんじゃないかと考えられていた。
しかし、発掘調査の結果、御所ヶ谷神籠石は7世紀後半頃に築かれた山城であり、この石達はそれより新しいものだと考えられているそうな。
もともと何らかの建物があった場所に後々、それ以上に立派なものを建てた可能性はある。なきしにもあらず。
この近くには大宰府と京都平野をつなぐ古代の官道(国家によって整備された道)が東西にある。
敵軍の侵攻を監視し妨害する為に、その道を見張る見張り台がここにあったのではないかという話。
こちらは馬立場石塁。
貯水池の堤と推定されている。
水が通る溝があり、その横をぞろぞろ進む。
こちらは西門跡。
「神籠石」という名称は、元々は久留米市の高良山のものを指していたらしい。
鎌倉時代頃に成立した『高良玉垂宮縁起』・『絹本著色高良大社縁起』・『高良記』・『高良山八葉石記』などでは、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が神馬の蹄の跡を付けたとされる、一般的に馬蹄石と呼ばれる穴のあいた石を「神籠石」として記載されている。
高良山にはもともと高木神(タカミムスビ)が鎮座していたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って籠ってしまい、高木神は追い出されたという伝説がある。(高良の神が籠ったところの石だから神籠石という名称。)
列石遺構のことは「八葉(はちよう)の石畳」と記載されていたのだけれど、
江戸時代中期の『筑後志』では列石遺構が「神籠石」として記載され、それ以降、名称に混乱が生じたそうな。
明治に入り、高良山の列石遺構は霊域を示すもの(だから神籠石と呼ぶ)と解釈して「神籠石」の名称で小林庄次郎が学会に紹介してしまった事で、「神籠石=列石遺構の名前」という構図が出来上がってしまい、
昭和の発掘調査により列石遺構は山城だという結論に至ってからも、神籠石という名称のままというわけ。
最近ではこのタイプの古代の城を「神籠石系山城」とか、「城」と呼ぶ傾向にはある様子。
なかなか急に呼び方は変えられないから段々と、ね。
本題は以上。
ただ、この場所は他にも色々と楽しかったので、その他の事を別記事にして書く✍️