元寇防塁と元寇神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

紅葉八幡宮へ行った日。

地図上で近くに見付けた神社に行ってみた。



左が今回の目的地なんだけど、右の西南学院大学にも「遺跡 元寇防塁」の記載。



私はこれ見た時、左側ののお知らせがここにもかいてあるんだと受け取ってしまったのだけど、後で調べたところによるとどうやら、大学の中にも元寇防塁があるらしい。

(なぜ右向きの矢印を消したのかは謎。今は入れないとか?理由は分からない。)



元寇防塁

Genkou-Bourui Stone-Wall at Hakata Bay

国指定史跡
Nationally Designated Historical Site

元寇防塁は1931年 (昭和6年)に国の史跡に指定され保存されている。


元寇神社

福岡県福岡市早良区西新7-4-1



「元寇」は聞いた事あるけど、「元寇神社」⁉︎とビックリして来てみましたよ。



この場所に説明書きはない。

ネットで検索すると、紅葉八幡宮のブログが出て来た。

https://momijihachimangu.or.jp/20191021292/

「元寇の役で犠牲となった日本の武士や庶民の方々はもとより、元軍の中でお亡くなりになられた方々も併せてお祀りしております。」とのこと。


元(もと)軍って何?って思っちゃった。

敵方、元(げん)軍の戦死者も祀ってるってことね💡



13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。
その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。

しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、1274年博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました (文永の役)。


幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる石築地 (元寇防塁) を築かせ、その場所を警備させました。

1281年元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした (弘安の役)。



防塁は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。
石材は近くの山や海岸などから運び、 全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどのエ法が採用されています。 防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。

この西新地区(当時の百道原) 分担国は分かっていません。 防塁の構造は粘土による基礎工事を行い、 基底部幅3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめています。 石材の節約をはかった独特の工法となっています。

防塁の歴史的価値もさることなが、松が立派だった。


10/20には祭典があって舞や演武が奉納されるって事なので、かなり大事にされているんだなぁと思ったのでした。






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