前回見た通り、日米開戦に至る道程に於いて、ソ連のスターリンが指揮する国際的政治謀略活動は、その論理整合性を推考することにより、ある程度その姿を描き出すことができます。その特徴を整理・分析・描出してみましょう。

   (1) ソ連を共産主義者の理想を実現した唯一の社会主義国であるとし、またその指導者のレーニン、その後継者たるスターリンの「神格化」に等しい、教条的個人崇拝を内外で推進し、共産主義思想に魅せられた人々の忠誠心を獲得する。基本的には「学習会・研究会・集会」などで、当該する工作対象国の「社会的な矛盾や貧困などの問題」を指摘してその問題意識を認識・拡大・深化させ、その「唯一絶対の解決策」としての「科学的社会主義・共産主義思想」という解答を与え、それを徹底的に頭脳に染み込ませて洗脳する手段を用いる。

   (2) 同時に、英・米・日などの主要敵対国とする資本主義国(帝国主義国)の、主にエリート大学に、共産主義要員育成のための「細胞」(共産主義者組織)を扶植する。そこで学生運動の指導も行うが、一方で「隠れ共産主義者(スリーパー)要員」の発掘・勧誘を行い、彼らを大学卒業後に、政府官庁(中枢官僚要員)や言論界(大手新聞・テレビ等のマスメディア要員)、学術界(大学教授要員)、教育界(教員組合要員)、労働界(組合活動要員)、政界(政党政治家要員)として、各界中央中枢の将来幹部要員として潜入させる。(国によっては軍隊にも潜入)

   (3) これらの「隠れ共産主義者(スリーパー)要員」が出世したら、各界での中央中枢のセクションに異動させ、さらに高位者・高官となるべく様々な陰の支援を行う。その際場合によっては、際立つ実績を挙げさせるための「秘密情報」を敢えて提供することも厭わない。勿論、これらの「漏洩情報」は事前に慎重に評価・検討或いは捏造され、本質的にはソ連及び他の共産主義勢力にとって、致命的な打撃とはならない程度と内容のものが準備される。

   (4) そしてこれらの要員が、それぞれが所属する機関・組織に於いて、影響力を発揮できるポジションに就いたところで、当該要員から各中枢の機密情報を取得するとともに、ソ連並びに他の共産主義勢力側にとって有利な状況を作り出すための、様々な謀略活動を遂行させる。

 以上のステップによって、今まで本シリーズで取り上げてきた、アメリカのハーバード大学出身であるハリー・デクスター・ホワイト(財務省財務次官補)やアルジャー・ヒス(国務省高官・大統領側近)、イギリスの「ケンブリッジ・ファイブ(Cambridge Five)」〔キム・フィルビー(ジャーナリストからMI6高官へ)、ドナルド・マクリーン(英外務省米国課長)など、ケンブリッジ大学出身の五名のソ連スパイ〕、そして日本の尾崎秀實(東大出身で朝日新聞記者から近衛内閣嘱託等)というような人々が、まさにこうしたソ連の謀略工作に従事したのです。

   厳密には「スリーパー・エージェント(sleeper agent)あるいはスリーパー・セル(sleeper cell)」というのは、別人の身分に成りすまして敵国に潜入し、長年そこで普通に仕事や生活をしながら、本国からの秘密指令を待っていて、いざ指令が来たならば発動し、その命令(暗殺やテロも含む)を遂行するような秘密潜伏工作要員を指すことが多いのですが、なかには上記のように、本名で同国人ながら、思想・信条または脅迫や金銭的利益などのために、或いは自己の共産主義思想を隠して就職し、その組織内で得た情報を流したり、その組織を操ったりして、結果的にソ連のために有利となる方向へ、当該国・当該組織を動かすような秘密謀略活動を行う場合もあります。いずれも表面的には、同国人として活動しているため、なかなか摘発することは困難です。スリーパー(sleeper)の他にも「モグラ(Mole)」というスパイ用語もあり、これは元々ソ連KGBでの呼称であって、意味は西側のスリーパーと同様といいます。

   また「二重スパイ(double agent, double secret agent)」という存在は、例えばCIAのagentでKGBを探っている人物が、逆にKGBに寝返って(あるいは当初からKGBのagentで)、CIAの情報をKGBに流しているようなケースを言いますが、「逆スパイ(reverse spy」はCIAにCIA要員を偽って潜入し破壊活動などを行うKGB要員などの例を意味します。さらには「三重スパイ(triple agent)」という例えばCIA要員がKGBに寝返ったふりをして実は元のCIAにKGBの情報を流すなどの、虚々実々の駆け引きが行われるケースもあるとのことです。

 前回ご紹介した、斎藤三知雄著『日米開戦と二人のソ連スパイ** ホワイトとヒスが石油禁輸を促した』(2022年PHP研究所刊)の第十章の末尾にある原注にも、こうした寝返ったソ連スパイのことが触れられています。そこを少し見てみましょう。(*裕鴻註記、漢数字は一部表記修正)

・・・*1945年(*昭和20年)に、ソ連スパイ網の密使を務めた、ベントリーという女性が寝返って、FBIにソ連スパイ網のことを暴露した。ところが、当時のアメリカはイギリスと諜報情報を交換しており、ソ連は、イギリスに侵入させていたスパイから、数日以内にベントリーの裏切りを知った。そしてすぐに、アメリカ政府内のソ連協力者に、証拠を隠滅して捜査の手が伸びたら疑いを否定するように指令した。FBIは、ベントリーの証言は多くの点から信ぴょう(*憑)性が高いと考えていたが、証拠不十分のため捜査は難航した。こうして、1947年(*昭和22年)6月~1948年(*昭和23年)12月まで、大陪審が開かれることになり、約100名の証人が呼ばれた。ベントリーは「ブロンド・スパイ・クイーン」(金髪スパイ女王)と呼ばれてマスコミをにぎわせた(ベントリーの髪の毛は茶色だった)。・・・(**同上書339~340頁)

 このように、ソ連のスパイが寝返ることもあれば、それをイギリスの情報機関に潜入しているソ連のスパイが、米国からの連絡で知ってソ連諜報部に報告し、ソ連は米国内のソ連スパイに指令を出して証拠隠滅工作をさせる、などという活動が、実際に行われていたことがわかります。

   また、情況によっては、当該国の軍隊にも「スリーパー」を潜入させる場合があります。かつて本ブログ別シリーズで取り上げた「スリーパー」張治中 (チャンチーチョン)司令官のような例もあり、長期間の「冬眠」から目覚める決定的瞬間に至るまでは、当該組織内でひたすら出世を図って努力を重ねているのです。ユン・チアン/ジョン・ハリディ著『マオ 誰も知らなかった毛沢東***』(土屋京子訳2005年講談社刊)によれば、1937年(昭和12年)8月に第二次上海事件を引き起こし、かつ拡大させた国民党軍(蔣介石側)の張治中将軍(当時、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官)は、1925年(大正14年)の夏、黄埔軍官学校時代に周恩来へ共産党入党を申し出ましたが、周恩来はむしろそのまま国民党軍に残って「スリーパー」となるように指示したと言います。そして、日華事変を拡大させたいソ連と中国共産党は、盧溝橋事件による北支での日中両軍衝突が、早期に停戦して事態が終結しないよう、決定的なこの瞬間に、張治中将軍に指示して、第二次上海事変を起こさせ、さらにそれを泥沼化させるベく戦火を拡大させたものと推測されています。

   前掲書***には「蔣介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蔣介石の戦争続行を支援する動きに出た。(*中略) モスクワは戦局の展開に小躍りして喜んだ、と、ソ連外相マクシム・リトヴィノフはフランスのレオン・ブリュム副首相に認めている。(*中略) たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威をかわしたのだから、これは、おそらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう。」と記述されています。詳しくは、次の弊ブログ記事をぜひご一読ください。

 ご参考:大東亜戦争と日本(40)日華事変を起こした犯人は誰か

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663082124.html

 そもそも、盧溝橋事件自体も、中国共産党の劉少奇が背後で共産系学生たちを動かして、日中両軍の中間地点から両方に発砲したとも考えられるのです。それには功名心に逸る現地駐在特務機関の茂川秀和陸軍少佐(*当時、のち大佐、陸士30期、東京外語支那語派遣、北京留学組)も単独で、この謀略に一枚噛んでいる可能性はあります。つまりは、現地の日本陸軍将校の中には、満洲事変の成功に倣って、さらに華北・華中を日本の勢力圏下に置くための謀略を辞さない考えを持つ強硬派もいたことは否定できないのです。もともと日本に必要な軍需資源を自給するためには、満洲・内蒙古の資源だけでは不十分であると、永田鉄山将軍等の研究でもわかっていたからです。

   さて一方の中国側では、蔣介石の指導で、当時の国民党軍(*国府軍ともいう) による、昭和9(1934)年に135万の兵力を投入した第五次の「囲剿戦」が成功し、共産党軍は追い詰められて江西省の根拠地を放棄して、いわゆる「長征」を行います。つまりは「長い脱出逃避行」に入ったのです。共産党軍は兵力を四方面軍に分けて転進し、結果的に12,500キロを歩いて昭和11 (1936)年に陝西省延安にたどり着き、ここを新たな根拠地としました。この間、脱落者や死亡者で多数を失い、10万名が数千名にまで兵力を減じました。

 「長征」の物語は、その後は共産党のお得意の「宣伝戦」により、あたかも英雄的な長期遠征行軍のように仕立てられていますが、実際は敗走につぐ敗走で、戦力の殆どを失い、まさに滅亡寸前で延安に逃げ延びたと見るべき内容です。

   これが昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件直前の中国共産党軍の実情でした。従って、このまま蔣介石率いる国府軍との戦闘が続けば、もはや陝西省の山の中で壊滅するしかない状況にまで追い詰められていたのです。そこで、この長征の途中から毛沢東が率いるようになった中国共産党軍は、なんとかして蔣介石率いる国府軍の矛先を転じる必要に迫られていたのです。

 ご参考:大東亜戦争と日本(41)盧溝橋事件を起こした犯人は誰か(1)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663161474.html

 大東亜戦争と日本(42)盧溝橋事件を起こした犯人は誰か(2)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663473601.html

 近現代史を読み解く際に、こうした公式史料には残されない「謀略」によって引き起こされたり戦火が拡大したりする事象は、十分にあり得るのですが、アカデミズムの世界では、史料がないことや、そもそも謀略などは「陰謀論」であるとして、門前払いしてしまう傾向があることは否めません。しかし、勿論「陰謀論」を流布することは間違いであるとしても、実際にスターリンや毛沢東といった共産圏指導者が、その始祖レーニンの「政治謀略教程」を学んでいる以上は、「革命のためなら、陰謀、謀略、裏切り」でも何でもやって構わない、「悪魔とその祖母とさえも手を結ぶべき」と教えられているわけですから、こうした「謀略の可能性」を全て排除してしまうことは、むしろ真摯なる「真実の追究」を歪めさせる結果を招来する可能性もあることに、わたくしたちは留意しなければならないのです。

 この意味と文脈(context)に於いて、何事も頭から除外してしまうのではなく、あらゆる可能性を視座の中に据えて、歴史事象の真実解明の努力を真面目に続けて行かねばなりません。この延長線上に、本シリーズで取り上げている、ソ連崩壊直後に流出した旧ソ連KGB等の機密文書である〔リッツキドニー文書(1991年)・ヴェノナ文書(1995年)・マスク文書(1990年代後半)・イスコット文書(1990年代後半)・ヴァシリエフ・ノート(2009年)・ミトロヒン文書(2014年:但し、解説書刊行は1999年と2005年)〕の学術的研究や、「レフチェンコ証言」の検証などが位置付けられるのです。

 もう一つ、忘れてならないのは、マスメディアや言論機関への謀略工作です。そもそも「情報を取り扱う」という意味では、非常に近い性質があるのですが、本来のジャーナリストが中立公正にまた社会的正義のために取材し報道しているとしても、その記者の中に「スリーパー」を潜入させ、あたかも客観的かつ公正な報道をしているフリをしつつ、その記事や報道内容に、ソ連・中国・北朝鮮などの共産圏諸国にとって有利となるような、テーマの選択、報道姿勢、事実の意図的な取捨選択による印象操作などを行わせることは、十分に可能なのです。これが政府自体やある特定政党の機関紙・広報誌であれば、それは予め読者もそれを念頭に読解することが可能ですが、「中立公正公平」を標榜する報道機関の中で、そうした偽装・擬変を施して記事を作成したならば、これは十分に謀略の手段となり得るのです。

 それは我が国のみならず、アメリカでも同様であり、例えば、前掲の斎藤三知雄著『日米開戦と二人のソ連スパイ**』第十章末の原注にも、次のような記述があります。

・・・本書**で詳しく扱わなかったが、(*大戦前の米国内での)反日マスコミの影響も大きかった。反日マスコミは、日本に石油を禁輸すれば日本はひざまずくとか、もし戦争になっても日本はすぐに負けるといった報道を繰り返して、アメリカ国民や政治家に間違った情報を伝えた。1960年代に研究者のマーチンはこのような反日報道を詳しく調査して、反日マスコミがいかに戦争を煽ったかを調査した。例えば、ストーン、ビッソン、ストレート、ジェーンウェーのようなジャーナリストが禁輸や戦争を煽っていたことを明らかにしている(Martin, pp.1243-1318)。こういったジャーナリストはアメリカの一般的なリベラル派あるいは左翼ジャーナリストと見られていた。これを現代のヴェノナ文書やKGB資料などの新資料を参照するとどのようになるのであろうか。

 ストーンのコードネーム(*暗号名)は「パンケーキ」で一時期KGBと関係を持っていた。ビッソンのコードネームは「アーサー」でGRU(*ソ連赤軍情報部)に情報を流していたことがわかっている。ストレートは一時期KGBのスパイを務めていた。ジェーンウェーはイギリス留学中に英国共産党に入党したことがわかっている。このような、反日マスコミとソ連諜報網あるいは共産党地下組織との関係は、今後の研究課題であろう(Haynes, Klehr and Vassiliev, Spies, pp.146-152, 245-252: Haynes and Klehr, VENONA, pp.177-8, 247-9: Romerstein and Breindel, The Venona Secrets, pp.169, 432-8: Michael Janeway, The Fall of the House of Roosevert (New York Columbia University Press 2004), pp.122-142)。・・・(**前掲書340頁)

 このように、当時のアメリカのマスメディアに浸透していたNKVD(KGBの前身)やGRU(ソ連軍情報部)のエージェント(工作員)が、ジャーナリストとして情報発信を続けていたわけですから、これらによる大手新聞の記事の論調によって、「反日ムード」や日本の軍事力(特に海軍)の実力を見下すイメージが、一般国民のみならず米国政府内にも広がっていたとすれば、それがアメリカの対日強硬姿勢につながってゆく下地を形成したとも捉えられるのです。尚、当時のアメリカでは、日本人を含む東洋人(黄色人種)には、まだまだ根強い人種的偏見があり、「日本人は近眼だから飛行士に適さないし、まっすぐ射撃することもできない式の、戦前のワシントンで広まっていた推測」があったと、後にニミッツ太平洋艦隊司令部の情報参謀を務めたエドウィン・T・レートン海軍少将の著作『太平洋戦争暗号作戦』(上下二巻、TBSブリタニカ1987年邦訳刊)の上巻80頁には書かれています。

 尤もこれは逆に日本でも裏返しの「先入観」があって、「米国青年は日頃ダンスなどにうつつを抜かしていて軟弱だから、戦争になったらすぐに逃げ出す」とか、「女性の強い国だから、戦争になっても女性陣の世論ですぐに戦争を終結させるだろう」などという観測を、当時陸軍中枢にいた佐藤賢了陸軍省軍務局長や辻政信参謀本部作戦課戦力班長などは主張していたのです。

 ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(31) 日華事変解決と対米開戦を廻る議論

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12402238128.html

 これに対して、昭和16年(1941年)9月19日の出来事ですが、郷里長岡の人々に対して、山本五十六長官は次のように語ったといいます。

・・・(*前略) 郷里の後進がおしかけて、いろいろ長官の話を聞いたが、その席上一人が、日本には大和魂(*やまとだましい)があるから、アメリカなどは恐るるに足らないでしょうと豪語した。すると長官は、

   「それは違う。米国にはアメリカ魂がある。アメリカ魂は科学的基礎に立っているが、大和魂はむしろ暴虎馮河のきらいがある。

 リンドバークが大西洋を横断(*単独飛行)したのは大冒険ではあるが、しかし、それは、あらゆる研究実験の上に、科学的横断の確信を得て決行したのであって、日本におけるがごとく、ただ空漠なる観念論で騒ぐのとは意味が違う。ここに米国精神の偉大な背景がある。米国人のこの学問に立脚した勇猛心、冒険心、それにあの明朗な元気、それにたいして、大和魂などと自惚れていては大間違いである。

 現在、世界を見わたして飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし、工業力の点では、まったく比較にならぬ。米国の科学水準と工業力とあわせ考え、また、かの石油のことだけをとって見ても、日本は絶対に米国と戦うべきではない。なお一言つけくわえれば、米国の光学および電波研究は驚くべき進歩をとげている」

 他の一人が、日米戦があるでしょうか、とたずねたところ、

「 仇浪(*あだなみ)のしづまりはてて四方の海

          のどかにならむ世をいのるかな

  この明治天皇の御製の精神が実現するようにあらゆる手段をつくし、絶対に戦争の不幸を避けなければならん」と断言するのであった。

・・・『山本五十六と米内光政』高木惣吉著(昭和57年光人社刊、64~65頁)

 いつの時代も、そして洋の東西を問わず、常に威勢のいい強硬な意見ほど大衆には受けがよいという傾向がありますが、しかし、そういう時こそ、要路にあってしかも実際に戦う立場にある人物が、きちんとした見通しに基づく正鵠を得た見解を示すことが肝心です。これは、なかなかできないことです。

   しかも山本長官は、開戦直前の秋、及川古志郞海軍大臣(*当時)と永野修身軍令部総長に対し、直接対米戦争開戦反対の意見を伝えていました。国家の戦争を決める帝国海軍の軍政と軍令のトップに意見具申したのです。しかし、この意見は却下され、山本連合艦隊司令長官は、英米蘭と戦うよう、正式に国家として命令されたのです。


   こういう冷静適確な意見には、えてして「弱腰」とか「弱虫」というような下らない非難を浴びせる勢力がいるのです。そういう「威勢がいいだけの強硬な主張」をした人々にも、先の大戦へと日本を押し流した責任があるのです。そして、そういう強硬意見が、実はソ連や中共が有利となるために、日本を米英と戦わそうとする謀略によるものであれば、それは決して無視し得ない歴史的要素となるのです。

 レーニンは、次のような言葉を発しています。

「われわれが全世界を征服せず、かつ資本主義諸国家より劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を利用し、これらの諸国家を互にかみ合せよ」


 これは明瞭に国家戦略です。まさにこの戦略通り、日本と米英蘭華とを噛み合わさせ、戦わせて、敗れた側は「敗戦革命」に持ち込まさせ、勝った側も疲弊させることで、その後のソ連・中共側の優位性を確保するという、したたかな考え方です。

 日本は、幸いソ連に本土を占領されなかったため、ドイツのような東西分断は避けることができましたが、しかし日華事変に疲弊していた蔣介石は、大戦後、毛沢東が率いる共産党軍に国共内戦で敗れて台湾に逃れ、広大な中国大陸は中国共産党が支配する中華人民共和国となったのです。大局的には、まさに「レーニン戦略」の勝利とも捉えることができます。

 日本では、ゾルゲ事件で逮捕される直前まで、「真正の共産主義者」にしてモスクワのソ連諜報本部にエージェントとして正式に登録されていた尾崎秀實が、さまざまな雑誌などのメディアを通じて「支那事変完遂」を訴えていました。また「東亜新秩序」の形成を促進し、つまりは「南進政策」を推進していたのです。そして「汪兆銘政権」の成立にも西園寺公一の助力も得て、力を注いでいました。

   「支那事変完遂」は、やがて英米との深刻な対立につながるであろうことを予見し、日本を勝てる見込みのない相手と戦わせるための工作であり、「東亜新秩序」は「大東亜共栄圏」(実は尾崎秀實の希求していた本質は「大東亜共産圏」でしたが)につながる「南進政策」であり、かつ英・米・蘭との緊張をもたらす方向性であり、つまりは日本(主に陸軍)がソ連に向かって「北進」しないようにするためでした。また、「汪兆銘政権」を樹立し、「蒋介石政権を相手にしないこと」は、逆に蔣介石をして日本との和平を結ばせないために、大きな障害を設けることとなり、結果的に日華事変が泥沼化・長期化して終結不可能になる効果をもたらすという計算に基づく政略だったのです。

   これらはいずれも、ソ連にとって必要でかつ有利となる方向性であったわけですから、戦後ソ連政府はゾルゲとともに尾崎秀實と宮城与徳に勲章を授与しているのです。それだけのソ連の国益への貢献があったことをソ連政府が公式に評価したしるしなのです。

 ご参考:毎日新聞2010年 01月 15日付記事

https://lupdf2.exblog.jp/9665277/

   (本シリーズ第(64)(65)(66)回記事もご参照)


 誠に壮大な、ソ連・スターリンによる国際的な政治謀略の姿が、こうして浮かび上がってくるのです。これは決して根拠のない「陰謀論」ではありません。まさしくソ連政府が勲章を授与したことで、ソ連自らがこれを証明しているのです。わたくしたち日本人は、もう少し真剣に現実感を持って、こうした主に共産圏諸国の「政治謀略」に向き合わねばならないのです。(次回につづく)