大東亜戦争開戦直前の昭和16年11月15日に、「大本営・政府連絡会議」が決定した「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案*」なるものが存在します。これが唯一、開戦前に取り纏められた、大日本帝國の「戦争終結への道程を示した構想」なのです。

   陸軍の統帥部の中枢である、参謀本部作戦部の服部卓四郎作戦課長(当時陸軍大佐、陸士34期、陸大42期優等)が、部下の俊鋭なる高山信武元陸軍大佐(当時少佐、陸士39期、陸大47期首席、戦後陸将)に、この「戦争の終末促進の腹案*」を起案させました。

   本ブログ別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」の(47)回でその「策定過程」を、(48)回でその「腹案内容」を取り上げましたが、さらに別シリーズの「大東亜戦争と日本(3)戦争の現実と開戦の論理」の後半部分でも、同腹案*の内容を読み易く表記して、ご紹介しています。出典は、高山信武元陸軍大佐著「参謀本部作戦課―作戦論争の実相と反省―」(昭和53(1978)年芙蓉書房刊) 158~162頁です。まずは皆さんも、これらをご一読下さい。

なぜ日本はアメリカと戦争したのか(47) 帝国陸軍の開戦時の大局観を見る

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なぜ日本はアメリカと戦争したのか(48) 「戦争の終末促進の腹案」に見る開戦時の大局観

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大東亜戦争と日本(3)戦争の現実と開戦の論理

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 この「*腹案」なる「戦争終結への道程案」を総覧するに、開戦時の陸軍中央の統帥部(中核は参謀本部作戦部作戦課)は、ナチスドイツが日本の参戦にも力を得て、必ず英国とソ連を屈服させるとを信じ、それを前提に開戦初期に主に米海軍の主力たる太平洋艦隊を、帝國海軍が早期撃滅さえしてくれれば、東南アジアを占領して石油と資源を確保することで「長期不敗の持久態勢」を確立し、「英国及びソ連の敗戦・脱落」に加え、「長期戦により厭戦気分となるであろう」米国を、「講和に持ち込める」という構想であったといえます。簡単に言えば「ドイツ頼みの勝利」です。

 しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、米国の膨大な生産力と豊富な資源、そして強靭な「フロンティア・スピリット(開拓精神)」を持つ国民性から、そもそもこのような「長期不敗・持久態勢」を確立すること自体や、ドイツが英国とソ連を打ち負かすという「予想」に対する、根本的な不信と危惧がありました。

   今回はその山本長官の胸中を推測した、防衛庁防衛研修所戦史室(*現・防衛省防衛研究所)著の戦史叢書(80)「**大本営海軍部・聯合艦隊<2>―昭和十七年六月まで―」(*昭和50年朝雲新聞社刊)の記述を、まずはしっかり読んでみたいと思います。執筆者は、角田求士戦史編纂官(*元海軍中佐、海兵55期)と西深志戦史編纂官(*元海軍中尉、海兵73期)です。尚、随時必要箇所には適宜補説を加えています。(*裕鴻註記・補説、漢数字表記等一部修正。尚、同戦史叢書では、連合艦隊を旧字体の、当時の「本来の名称表記」であった「聯合艦隊」としています。またドイツは「獨逸」、独を「獨」と表記していますので、これらは尊重して原文のままとしました。)

 

・・・今次戦争は米英を含む対多国作戦となり、彼我国力の大差などからみて、わが国はなんとかして短期戦に導く必要があったが、これを短期戦に導きうる見通しは立て得なかった。そこでやむを得ずわが国は、最も苦痛とするところではあるが長期戦を覚悟して、このような戦争指導方針(*「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案*」)を採った。すなわちまず南方資源を確保し、米艦隊主力を撃滅して長期持久を固めておいて、主として欧州戦局の進展による英国の崩壊、これに伴う連合国の中核と判断される米国の戦意喪失を期待し、これにより戦争終末を図ろうとする方針である。その背後には獨逸の勝利、すくなくとも敗けないという判断があったのである。

 本腹案*を見ると、不敗態勢の確立など戦争初期の方策に主な努力が払われ、それ以後いかにして戦争終末の促進を図るかの方策については、当時各種不確定要素が多かったとはいえ、願望に基づくところが多く見受けられる。たとえば獨伊との連合戦略などに触れているが、これらについては、まだ三国間の話し合いさえできておらず、単にわがほうにとって望ましいと思われる獨伊の作戦をあげている。また長期不敗態勢の確立というが、具体的にどうすれば固めうるのか、果たして可能なのかの検討さえ不十分であって、これまた願望からでたものといえよう。

 「海軍の早期戦争終末などの願望」

 長年想定敵国として米国を研究してきた海軍は、彼我の間に保有兵力、国力、軍備力などに格段の大差があることを深刻に認識していた。したがって開戦後一、二年ならばわがほうの努力によっては軍事的勝利も期待できるが、時日の経過とともに彼(*米国)がしだいに底力を発揮し、彼我の戦力は急速に懸隔を増し、遠からずわがほうは到底対抗できない情勢となることは必至と考えられていた。そのため対米一国作戦計画でも早期決戦が企図されていたのである。

(*裕鴻補説:米海軍の膨大な建艦計画、具体的には、米国の第三次ヴィンソン案と両洋艦隊法による海軍拡張(70%増強)の結果は、以下の通りの艦隊比率となる見込みでした。

  日本艦隊の対米比率 (米は日本の何倍か)

   1941(昭和16)年末 対米75% (1.33倍)

   1942(昭和17)年末 対米65% (1.54倍)

   1943(昭和18)年    対米50% (2.00倍)

   1944(昭和19)年    対米30% (3.33倍)

  また、航空機数では1942年から1944年の間で、アメリカは日本の5倍前後となり、海軍機のみをとれば10倍となると見られていました。当時日米の GNP 格差は約12倍、総合国力格差は20倍です。以上裕鴻補説。)

 

 ところが今次戦争(*大東亜戦争)は対多国作戦となり、海軍(*中央)としては早期戦争終末に導きうる決め手を発見できず、長期戦必至と判断せざるを得なかった。そこでできうる限り早期戦争終末に導くことを強く念願していたのである。

 また海軍は長期持久の戦略態勢についても、機動力の大きな海洋作戦の特徴から、広域にこれを固める必要があると認めていた。しかし開戦時には、保有兵力、補給力、特に米艦隊主力の来攻などを考えると、到底満足できる範囲にまでの進出は企図できなかった。そのため海軍は、この不十分な戦略態勢に多大な不安を抱き、米艦隊主力を撃滅したのち戦略態勢を拡大したいとの願望が強かった。しかしなお長期にわたる不敗態勢の維持には多大の不安を抱いていた。

 「山本長官の短期戦構想」

  そもそも聯合艦隊司令長官は外戦部隊の最高指揮官として、大本営の方針に基づき作戦を実施する立場にあった。ところが山本聯合艦隊司令長官は、中央(*大本営)の採った戦争指導方針にあきたらず、独自の方針を抱いて、これを実現しようとしていたとみられる。この異例なことは、山本五十六大将という人が聯合艦隊司令長官であったため起こったものといえる。

 山本長官が抱いていた戦争指導方針を明記した資料は見当たらない。それは同長官が自己の抱いていた方針が中央(*大本営)のものと大きく違っていたので、一般大勢からみてこれを表面に出しても中央(*大本営・陸海軍省)の反対は必至であり、これを実行に移すことはできないと判断したためであろう。そこで自己の方針は極力表面に出さず秘匿に努め、実行によってこれに導こうとしたと思われる。同長官は、中央の抱いている長期戦必至の戦争指導方針では、到底わが国に利する戦争終末はできないと信じていたからであろう。

 山本長官は、たとえば、反対を予期される作戦を中央に要望するとき、自己の抱く真の作戦目的を示さず、中央が納得できる理由や目的をあげていると思われる節が多く見受けられる。そのため同長官の抱いていたとみられる方針は、断片式資料を総合して推定するほかはない。

 「参考」

 山本長官が自己の腹の中を端的に表面に出さなかったものと思われる数例をあげてみる。

一 国内の大勢は戦争へ進展する可能性の大きな一途をたどっていたので、一人の反対でその流れを変えることは不可能といえる情勢にあった。山本長官は戦争に進むのを阻止するためであろう。三国同盟締結時、わが国が最も悩んでいた物動(*物資動員)問題を持ち出し、その後当時到底実現不可能であった陸攻(*陸上攻撃機)及び零戦各1,000機の整備を要望し、到底わが国には戦争遂行能力がないことを関係者に悟らせ、戦争回避を図ろうとした節がある。

二 山本長官が発想したハワイ奇襲作戦は、海軍一般の対米守勢作戦思想と異なり、攻勢による対米決戦の第一段階とみるべきである。このことは及川古志郎海軍大臣にあてた「戦備ニ関スル意見」や開戦日同長官が認(*したた)めた「述志」に「名を惜み己を潔くせんの私心ありては、とても此の大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり」との他の批判を恐れないという意味にとれる字句があることや、のちにハワイ攻略を研究させたことなどから推定できる。

 しかし同長官は先の及川大臣あての書簡(*事実は直接面談しての意見具申、同文書はその覚書)には欄外に「大臣一人限御含迄 誰ニモ示サズ焼却ノコト」と朱書し、幕僚にも一部のほかこれを見せず、また、のちにこの写しを他の重要なものとともに封筒に入れて海軍次官の金庫に保管を頼み、その旨を海軍兵学校同期の親友であった堀悌吉中将に伝えている。万一の場合の遺書として、自己の真意を後世に残そうとしたものであろう。

 一方同長官が海軍部に開戦劈頭のハワイ作戦の採用を要望したとき、その理由として海軍部(*軍令部)の計画中最も苦手であった、南方進攻作戦中米艦隊主力が来攻するのを未然に防止することをあげ、また嶋田(*繁太郎)海軍大臣にあてた書簡には、南方資源地域を入手しても、本土が米空母の空襲を受け焦土となる危険があるから、これを未然に防ぐためこの計画を実施する要がある、と別々の理由を述べている。

三 山本長官は後述のとおり、開戦の翌日、幕僚にセイロン島(*現スリランカ)攻略とハワイ攻略の研究を命じたが、その作戦目的を説明しなかった。そのため、たとえば幕僚はセイロン島攻略の目的を、西方進出の第一段階と解していたが、その後の同長官の折に触れた発言により、その主目的は印度洋にある英艦隊の捕捉撃滅にあったことがわかったと、黒島(*亀人)、渡邉(*安次)両参謀は戦後回想している。

四 山本長官の訓示などには、そんなことで長期持久の態勢は固め得ないとの意味のことが述べられている。これは短期戦を意図していた同長官の真意ではなく、短期戦に導くため積極作戦を続ける必要があることを、長期持久態勢確立を考えている相手にわかりやすくするために用いた便法と思われる。

 

 山本長官が抱いていた戦争指導方針は、徹底した積極作戦によって短期戦に徹しようとしたものであったと思われる。

 同長官は日米両国の国内事情に精通しており、米国の各般にわたる戦争能力を高く評価していた。そのため同長官は対米避戦論者であった。同長官は万一日米戦が生起した場合、従来わが海軍の採ってきた守勢を採る邀撃(*迎撃)作戦方針では、結局長期戦に引き入れられる危険が多いから、自主的積極作戦によって一挙に米国の戦意を喪失させ、短期戦に導くよりほか方策はないとの考えを持っていたことは間違いない。

 また同長官は早くから、航空の発達により戦争(作戦)様相が変化してきたことを深く認識していた。

 今次戦争(*大東亜戦争)は対多国作戦であり、対米一国作戦より更にわがほうにとって条件が悪くなってきた。したがって同長官は中央が企図する長期戦構想は採るべきではなく、一層積極的な作戦を進めて早期戦争終末を図り、短期戦に徹すべきであるとした。なお同長官は、長期持久の態勢などは固めうるものではないとみていたと思われる。

 同長官はその方策として、連合国の中核をなす米国に対し、“八方破れ”ともいうべき徹底した積極作戦を行い、早期にハワイを攻略し、米艦隊主力を撃滅して、米国との間に戦争終末の切っ掛けを作り、条件を譲っても戦争終末に導くべきだとしていたと思われる。なお同長官が欧州の戦局の見通しをどうみていたかはわからないが、側近に在った宇垣(*纏)参謀長は既述のとおり、獨軍が中東進出の能力があるかとの疑問をさえその日記に記している。

 「参考」

一 山本長官がハワイ攻略を考えていた資料は次のとおりである。

 ア (*昭和)16年12月ころ、山本長官は開戦劈頭のハワイ奇襲に関連し、ハワイ攻略はできないだろうかと、幕僚に質問している。(渡邉参謀回想)

 イ 開戦前ハワイ攻略が話題に上っていた。(黒島参謀回想) これが機動部隊首脳にも伝わっていたのであろう。同部隊がハワイ奇襲の帰途、部隊内に出した信号の中に次の行動予定がある。(五航戦戦時日誌)

 「L地点ヨリ急速南下 第四艦隊ト協力『ウェーキ』ヲ攻略 続イテ『ミッドウェー』『ジョンストン』『パルミラ』ヲ攻撃 基地 航空部隊ヲ破壊『ハワイ』攻略ニ備フ」

 ウ 開戦の翌日、同長官は幕僚にハワイ攻略、セイロン島攻略の研究下令。

 エ これらからみて開戦劈頭のハワイ奇襲作戦は、これにより先手をとる、ハワイ攻略の第一準備作戦とみられる。

二 山本長官が一挙に戦争終末に導こうとしていたことを示すと思われる資料は次のとおりである。

 ア (*昭和)17年4月中旬、第二段作戦への転換時出した長官訓示に、「戦局決戦段階ニ入ル」の字句がある。

 イ 第一段作戦終了に伴い、中央(*軍令部・海軍省)は作戦一段落としての処置を採り、聯合艦隊の戦力を一時低下させた。これに対し同長官は、「このまま一挙に勝負を決めるべきなのに、中央は聯合艦隊の戦力を落とすようなことをした」と憤慨した。(渡邉参謀回想)

三 山本長官がハワイ攻略によって米国の戦意を喪失させることが期待できると判断したと思われる。

 ア ハワイは米国領(*当時は準州)であり、軍以外の住民だけでも約42万いる。これらが日本軍の手に落ちる。これが米国に与える精神的打撃は甚大なものがあろう。

 イ ハワイの喪失により米国は対日戦の拠点を失うばかりでなく、日本軍により米本土西岸が直接脅威を受ける。

 ウ 攻略作戦に伴う米艦隊主力の撃滅により米国内の士気低下が期待できる。(*ニミッツ長官率いる米太平洋艦隊司令部の本拠地でもある。)

四 同長官は、このようにして得た好機は戦争終末の切っ掛けとなり、思い切って(*講和の)条件を譲れば、戦争終末につなぎうると判断したと思われる。資料は次のとおりである。

 「桑原虎雄中将(当時少将―兵37期、航空専攻、山本長官と親しかった)の戦後回想」

 ……私(*桑原少将)は(*昭和)17年3月下旬、(*第三航空戦隊司令官)退任のあいさつののち山本長官と二人だけで雑談した。その際私は長官に戦争の見通しについて個人的意見を尋ねた。長官は「今が戦争のやめどきだ。それには今までに手に入れたものを全部投げ出さねばならない。しかし中央にはとてもそれだけの腹はない。われわれは結局斬り死にするほかはなかろう」と答えた。私はそれまでの話からみて、「今まで手に入れたもの」とは支那(*日華)事変を含むものと解釈した。……

五 山本長官のハワイ攻略の主目的が、米艦隊主力を撃滅し、同島を攻略確保より、確固たる東正面の持久態勢を整えるものでなかったことは間違いなかろう。わが本土から約3,300浬(*約6100キロ)の遠距離にあるハワイを確保するのには、前進根拠地設営維持のためなどの軍事輸送量、食料の生産力が少ない同地にある、捕虜を含む50万を越す米国人の生存に必要な食料の輸送量を確保する必要がある。当時の一般貨物船では一カ月に一航海程度であることを考えると、ばくだいな船腹量が必要である。当時のわが国の保有船腹量からして、到底割き得る量ではない。物動などに特に関心が強く軍政に明るかった山本長官が、このようなことを考えることはあり得ないと判断できる。(*中略)

 (*裕鴻補註:つまり山本長官はハワイ攻略直後に中央に対し対米講和交渉を求め、その交渉の切り札にする考えであったものと推定される。)

 同長官がこのように早期戦争終末に徹した戦争指導方針を抱いていたとみると、次のこともいずれも戦争終末の切っ掛けをつかむことを容易にしようと考慮してのことであったとも考えられる。すなわち同長官は開戦前後、対米最後通告が遅れないよう幾度も念を押していたこと、南方要域を攻略して資源を確保するとともに、その政治的、経済的安定を強調して、しっかりとわが足元を固めようとしたこと、更に既述のとおりクリスマスの夜の米本土西岸要地砲撃計画を延期させたことなどである。

 要するに山本長官は開戦前から、短期戦に導くことに徹底し、直接連合国の中核である米国に対し攻勢をとり、ハワイ攻略によりなんとか戦争終末に導こうとする一貫した方針をもっていたとみられる。しかし同長官は、この抱いていた方針を実現に移すため、これを自己の幕僚にも明示しなかったため、幕僚さえ長官の真意を誤解していたところがあったようである。

 (*裕鴻補註:こういうことは戦っている聯合艦隊の「主将」である立場としては、一切明かすことのできない最高度に「政治的」な機微を必要とする極秘事項であり、かつ「海軍で政治に関わるのは海軍大臣ただ一人」という厳然たる海軍部内の不文律からしても、決して軽々しく口外できる内容ではありません。従って長官は自分の胸中奥深くにしまい、実際にハワイを攻略したあかつきに、初めて同期の嶋田繁太郎海軍大臣と永野修身軍令部総長に対して、強力に意見具申するつもりであったものと思われます。)

 「陸軍の戦争指導方針」

 陸軍の戦争指導方針は、前記(*上記の本ブログ該当回に掲載)の「対米英蘭蔣戦争終末促進ニ関スル腹案」のとおりである。獨逸の戦力を大きく評価していた陸軍は、まず長期持久の態勢を固めて欧州戦線の進展(*英・ソの敗戦)を待とうとした。陸軍としてこの長期持久態勢を固めるのに最も脅威を感ずるものはソ連の動向であり、また蔣(*介石)政権の存在であると考えていたので、自然関心は大陸方面に向かっていた。そして戦争終末促進方策として、獨軍と相呼応し、主として海軍力をもって西亜(*西アジア)に進出して、獨逸と連絡する方針を採った。そのため印度に関心が強く、またわが海軍が米艦隊主力の邀撃撃滅後、その主力を西方に指向することを望んでいた。(*つまりは陸軍の手前勝手な希望である。)・・・(**同上戦史叢書239~245頁より抜粋)

 

 ハワイ攻略後、そのまま長期間ハワイを占領維持しようとするのは食料をはじめ物資の輸送のために日本船腹を充当することができないから非現実的な「愚策」だとの批判がありますが、上記のように山本長官の真意は、ハワイを攻略した時点で直ちに米国政府との講和交渉を行い、占領したハワイはもとより相当部分の占領地から引き揚げることを条件にして「早期講和」を図るように政府・統帥部に強硬に申し入れる腹積りであったものと思われるのです。

 「ハワイ占領」というと、当時も今も大半の日本人は「冗談だろう」という反応が多いのですが、実は、アメリカはそうではありませんでした。元海軍中尉(*海兵68期)の豊田穣氏は、九九艦上爆撃機のパイロットとして、山本長官が陣頭指揮した「い号作戦」で昭和18年4月7日にラバウルから出撃し、米グラマン戦闘機との交戦の末、撃墜されて一週間海上を搭載していた救命浮舟で漂流したのち、死の寸前でニュージーランド海軍哨戒艇に発見され捕虜となり、米国の収容所に送られました。その豊田氏が昭和47年に書き上げた南雲忠一提督の生涯を描く「波まくらいくたびぞ***」(講談社文庫昭和55年刊版)に、次の記述があります。

・・・筆者(*豊田穣中尉)は、昭和18年4月のイ号作戦で、ソロモン海域で連合軍の捕虜となり、ハワイに送られた。オアフ島のマリン(海兵隊)拘置所で訊問が行われた。そのとき、アメリカのアナポリス(日本の海軍兵学校に相当する)出の情報将校が物々しい剣幕で、筆者に訊いた。

「日本はなぜ、パール・ハーバー(*真珠湾)を攻撃したとき、オアフ島を占領しなかったのですか。そうすれば、アメリカは、ミッドウェー以前、(*昭和17年)2月のシンガポール陥落の時点で講和条約にサインしていたかも知れない」

 それに対して、筆者は、「よくわからない」と答えた。

 彼(*米海軍将校)は何度も同じ問いを繰り返した。怨念ともいえるほどのしつこさであった。彼は、自分が指揮官であったなら、当然そう(*ハワイを占領)して、シーザーのような偉功を立てたであろうのに、それが残念で仕方がない、という口ぶりであった。南雲(*忠一長官)は、第二のトウゴウ(*東郷平八郎元帥)になり得る最大のチャンスを逃したというのである。

 しかし、第二のシーザーが出そこなおうと、南雲中将が東郷元帥になれなかろうと、私にはどうしようもないことである。そういうことは、機動部隊の指揮官なり、G F (*連合艦隊)、あるいは軍令部の参謀が考えることなのであって、艦上爆撃機乗りの、一海軍中尉には、まったくかかわりのないことなのである。

 最後に、情報将校は、威丈高となり、ほとんどつかみかかるような調子で怒鳴りつけた。

「こちらには全然わからない。なぜあのとき陸戦隊をあげて占領しなかった?なぜ? なぜ?」

 いくら、なぜ? と言われてもわからないものはわからない。アメリカ側では、当日は完全に奇襲を受けて混乱していたので、陸戦隊が一個大隊を揚陸すれば、簡単にオアフ島を制圧出来ただろう、ということに戦術研究がなっているらしい。それなのに、赤児の手をねじりあげることをしないで、戦艦だけを浅い海面に沈めて、簡単に引き揚げてしまったのは、そこにいかなる秘密、あるいはこんたんがあったのか、それが知りたい。一体、日本の戦術研究というのは、どうなっているのか。グレート・アドミラルであるヤマモトと、航空戦の鬼ともいわれるナグモが組んで、どうしてあの程度の戦果で満足してしまったのか?というわけである。・・・(***同上書88~90頁)

 パイロットとはいえ、海軍兵学校を出た「本チャンの海軍将校」ならば、こうした疑問に答えられるのではないかと思われ、予備士官の多いアメリカ海軍でもわざわざ「本チャンのアナポリス海軍兵学校出身」の情報将校が出てきて豊田中尉の訊問にあたったものと思われます。ハワイは太平洋におけるアメリカ海軍の主基地であり、ニミッツ司令長官も所在する「敵の本丸」であり、上記戦史叢書の記述にもある通り、米国国民が50万人以上も住んでいるわけですから、ここがもし「攻略・占領」されたならば、その領土と米国民の生命と引き換えに、少なくとも「講和交渉のテーブルに就く」という可能性はあったものと推察するに足る逸話です。

   従って、この山本長官の「ハワイ攻略作戦」の構想自体はそんなに非現実的なものではなかったことを、逆に米海軍将校が語っていることになるのです。そして、ハワイを攻略するということは、ニミッツ長官以下の米太平洋艦隊を降伏させるか、米本土西海岸に敗走させていることを意味しますから、「講和条件次第」では、「早期講和」の少なくとも切っ掛けにはなり得るくらいの「軍事的かつ政治的衝撃」を米国政府に与えることにはなったものと思われるのです。

 翻って、もし皆さんがその時の連合艦隊司令長官であったとしたら、一体どうしますか? あるいは、山本長官と同期生の嶋田繁太郎大将(*海兵32期)が同長官であったら、一体どうしたでしょうか。それとも他に、先任序列からして山口多聞少将(*海兵40期)は若すぎて無理としたら、一体誰が山本長官を上回る手段で米国相手の大戦争に勝利できたでしょうか。昭和19年2月以降に出来上がってきた連合艦隊と同規模の米新造艦隊を加えて、「17対7(10対4)」の対米艦隊比率になってから、戦艦主力の伝統的「漸減邀撃作戦」による艦隊決戦をやって「米艦隊を撃滅」することが、本当にできる提督が、日本海軍のなかに本当に存在していたでしょうか?

 山本長官と海兵同期の親友で、「未来の海軍大臣」と言われていたにも関わらず、条約派だとして「大角人事」により、早くに予備役に編入された堀悌吉海軍中将は、次のように回想しています。

・・・< 対米作戦は、わが国運を賭してかからねばならぬ。しかも対英戦をともなう場合、国家の興亡と海上権の消長との関係を究むべきことは勿論である。また近代の国家総力戦においては、当事国の資源、経済力、工業力がとくに決定的要素になることはいうまでもない。この点において日米両国間には、比較にならないほどの差がある。なかんずく航空兵力は、その質および生産力において、絶大の懸隔のあることは全く致命的である。以上の見地から山本が対米戦争に反対し、したがって対米作戦というものが実に容易ならぬものであることを承知していたことは、よく了解できる。いやしくも対米作戦をやるならば、劈頭敵主力を屠(*ほふ)って彼我戦力のバランスを破り、充分のハンディキャップをつけるよりほかに、わが作戦の施しようがない、ということを確信した上でのことであって、彼がハワイ攻撃を絶対のものとしたのは全くここに存する >・・・山本親雄(*海軍少将、元軍令部作戦課長)著「大本営海軍部―回想の大東亜戦争」(昭和49年白金書房刊)の56頁より。

 こうして、米海軍の新造艦隊が加わる前に、真珠湾攻撃により米太平洋艦隊主力を撃滅せんとしましたが、米空母を撃ち漏らしたため、ミッドウェー作戦で誘出した米空母部隊を撃滅せんとしたわけです。そしてもし、米空母三隻をこのミッドウェー海戦で撃沈破できていたとすれば、占領したミッドウェー島基地を足掛かりにして、いよいよ「ハワイ攻略作戦」を実施することも全く不可能ではありませんでした。

   そうなっていれば、ハワイのニミッツ長官には、もはや戦艦も空母も失っていたわけですから、あらためて南雲機動部隊(*空母4隻)に回復なった瑞鶴・翔鶴の第五航空戦隊と、龍驤・隼鷹の第四航空戦隊に特設空母(*客船改造空母)大鷹・雲鷹などを加えた、計10隻の空母を基幹とした大機動部隊で「ハワイ攻略」に向かえば、さしものニミッツ長官も残存する巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などでは到底太刀打ちできないことから、已むを得ず一旦米本土西海岸の諸港に引き揚げて再起を図るしか方策はなかったのではと思われ、さすれば「ハワイ占領」自体も成功したものと思われるのです。

   その上で、長期占領ではなく、直ちに米国政府に対して条件つき休戦と講和を申し込めば、すでに対独伊戦に突入し、何としても英国を支えねばならない米国としては、場合によっては講和交渉のテーブルに就く可能性が全くゼロではなかったのではないかと考えられるのです。場合によっては、さらに「講和への圧力」をかけるための、米本土の西海岸への機動的空襲やパナマ運河への爆撃破壊なども考えられます。もしも、山本長官の立場であったならば、当然に検討されるべき「戦争終末のための一つの戦略」であると、わたくしは考えるのです。

 しかしもし、この「山本政戦略」を否定して、大本営(陸海軍統帥部)の描く通り「長期持久態勢」を維持し、来攻する米艦隊相手の「漸減邀撃作戦」を指向したとしても、結局は史実に近く、実際の戦況の推移の通り、まずはチャーチル首相率いる英国も、スターリンのソ連も、そして蔣介石総統の中華民国政権も、結局期待したようには倒れず、逆にムッソリーニのファシスト党イタリアがまず脱落し、そしてヒットラーのナチスドイツも崩壊してしまうのです。

   そして米国は戦意を喪失するどころか、国力と生産力にいよいよものを言わせて圧倒的な戦力と補給能力により、昭和19年6月頃から、最終的には数十隻の米大型制式空母と百隻に近い米護衛空母を基幹とする強力な米空母機動部隊によって、より大規模のマリアナ沖海戦のような空母決戦で連合艦隊は敗れ、サイパンも硫黄島もフィリピンも沖縄も陥落して占領され、東京、大阪をはじめとする全国主要都市は米戦略爆撃により焼き尽くされた上に、原爆が広島と長崎に投下され、さらには日ソ中立条約を破ってソ連が満州、南樺太、千島列島に次々と侵攻を開始し、ついに大日本帝国は本土決戦か終戦かの決断を迫られる事態となって、陸軍統帥部が描いていた「ドイツ頼みの長期不敗態勢」は成り立たず、結局はポツダム宣言の受諾による終戦を迎えていたものと思われるのです。

 そもそも、開戦となる前、海軍部内において山本長官は、及川古志郎海相(嶋田海相の前任)と永野総長に対し、はっきりと日米開戦反対の意見を言っていました。澤本頼雄海軍大将(当時海軍次官)の戦後証言と記録からです。

 イ)昭和 16 年 9 月 26 日頃、山本長官上京の際、

   山本長官は「長官としての意見と一大将としての意見は違う。

   (連合艦隊)長官としては、十一月末までには一般戦備が完成する。戦争初期は何とか戦えるが、南方作戦は四ヵ月よりも延びよう。艦隊としては零戦、中攻各一千機ほしいが、現在零戦は三百機しかない。しかしこれでも(*緒戦は)やれぬことはない。

   一(海軍)大将として言わせるなら日本は戦ってはならぬ。結局は国力戦になって負ける。日本は支那事変で疲れてる。(・・・)」といわれた。

   高須(第一艦隊)、近藤(第二艦隊)、高橋(第三艦隊)、井上(第四艦隊)各長官も同意見であった。(新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録」135 頁より)

 ロ)「澤本頼雄海軍次官日記」より、昭和 16 年 9 月 29日、永野総長への山本長官意見 。

「日米戦は長期戦となること明(あきらか)なり。日本が有利なる戦を続け居る限り米は戦を止めざるべきを以て、戦争数年に亘り、資材は消耗し、艦艇、兵器は傷き、補充には大困難を来し、遂に拮抗し得ざるに至る・・・。かかる成算小なる戦はなすべきに非ず。」(川田稔著「昭和陸軍全史3」378~379 頁)

 しかし結局、永野軍令部総長も、及川海軍大臣とその後任の嶋田繁太郎海軍大臣も、この山本長官の反対意見を容れることなく、日米開戦を決定してしまったのです。そして「米英蘭蔣と戦え」と国家から命令された山本長官は、可能な限りの「短期戦」での「早期講和」を追求するより、他に道はなかったのです。