ゾルゲ諜報団の重要な一員にして、単にスパイというよりは、近衛文麿政権中枢に入り込み、また当時の陸軍省軍務局など陸軍中央中枢への影響力も含め、戦前日本の舵取りに無視し得ない影響を及ぼしたと思われる尾崎秀實について、今回は見てゆきたいと存じます。本シリーズでも、また以前の本ブログ記事でも取り上げた三田村武夫著「戦争と共産主義**(改題:大東亜戦争とスターリンの謀略)」(昭和25年初版、昭和62年自由社自由選書再版)より、その「あとがき」を、まずご紹介したいと存じます。(*裕鴻註記)

・・・あとがき

 悪夢の十五年、悲劇の昭和政治史を回顧し終って、まことに感慨なきを得ない。ことに戦時中衆議院に議席を持つてゐた一人として全国民諸君に謝すべき言葉がない。軍閥官僚に阿諛迎合、追従した一連の政党、政治家の不甲斐なさをせめてみても、同じ政治家の一人であった自分の責任を免れることは出来ない。私(*三田村氏)は、政治こそ一国の――そして同じ社会条件のもとに生きてゐる多くの同胞の運命を決する最大の、最高のものであること、そしてその政治は、常に大衆の中に、今日の言葉で言へば「人民の中」にあらねばならないこと、更に常に掘り下げて、真実の、「あるべき姿」を正確に把握しなければならないことを、この稿を進めるペンを通して、改めて切実に、骨身に刺すほど痛感したことを告白せざるを得ない。そして更に、政治は平面的な現実面の中にあるのではなく、立体的な歴史過程の中に、見えざる大きな流れとして絶へざる生長を続けて行くものであること、権力の上に築かれた空虚なる政治支配は、見えざる社会の底流を累積して俄然たる崩壊を馴致するものであることを切実に学び得たのである。

 アメリカの故ルーズベルト大統領は、スターリンとのヤルタ協定に煩悶してその死を早からしめたと伝へられている。最近(*1950年当時)米国では戦時中の政府施策または要路の人々の行動に過誤なかりしかを頻りに検討してゐるかのやうである。例へば、ヒス(*アルジャー・ヒス:アメリカ共産党員)事件及その一連の所謂(*ソ連による)スパイ容疑事件の如き国会の委員会で熱心に論議究明され、司法権の発動すら促してゐる。戦争に勝ったアメリカに於て然り、しかるに史上未曾有の過誤を犯した日本に於て、その責任の究明を一切連合国側にのみ委ね、自ら深く反省するところ少きは甚だ遺憾に堪えない次第である。前者の覆るを見て、後者のいましめとすることは、われわれが古くから教へられて来た言葉であるが、われわれは、もっと真剣に過去を反省する必要があるのではないか。

   最後に、この昭和政治史の中で最も重要な役割を果して来た尾崎秀實君について、別な立場から一言しておきたい。彼(*尾崎秀實)は私(*三田村氏)と同郷の岐阜県出身である。日華事変の始まつた直後、風見章氏(*近衛内閣内閣書記官長)から「すばらしい人物を発見した。これが本当の進歩的愛国者といふのだらう……」と聞かされたのが、この尾崎秀實君であった。その後私(*三田村氏)も二、三回は尾崎君に会ってゐる。しかし思想的に何ものか別のもの秘してゐるかのように直感されたので立入つた政治論など試みる機会もなかつた。

   ところが、昭和十八年(*1943)十二月十五日、私(*三田村氏)が(*東條内閣倒閣運動により)巣鴨拘置所に送られて行つたとき、尾崎君はゾルゲとともにこの巣鴨の(*東京)拘置所にゐたのである。この頃は既に死刑の判決が下されてゐた筈であるが、私(*三田村氏)は拘置所の廊下で尾崎君がハンカチを振り、ニコニコとしてゾルゲと挨拶をかわしてゐる姿を二度ばかり見かけた。何事か大事を為し終つたといふ感じの、少しも動揺の見えない落着いた態度であった。

   その頃彼は、妻に与えた書簡の中で、前にも一度その一部を引用したが、「元来、私(*尾崎秀實)にとつては思想なり、主義主張なりは文字通り命がけのものであつたことは申すまでもありません。――従つて、それを根本的に考へなほすということは、一度死んで生きかへるにも等しい困難なことだったのです。――併しながら一度これを成し遂げた後は殆ど想像も及ばぬ確乎たる平安の境地に達したわけであります。この点は命がけで思想し行動したものだけが知るところで、到底、失礼ないひ分ですが、駈け出しのマルクス・ボーイの所謂転向者などの理解し能ふところではありません。――」「私(*尾崎秀實)は時局の緊迫に圧され、フト眼の覚めた時、順逆を誤つたことに卒然思ひ到つた時には何ともいへない焦燥を感じました。あゝ、もし僕がこんな立場になかつたら、どんなに国家のため有力な活動を為し得ただろうかと。しかし実に今は平静な気持にあることは、英子(*妻君)もよく存じの通りです。この境地に達し得た理由は実に国家の生命と栄光の永遠なることに対する確信を得たからであり、このよき国の土に融け込むことを喜びとするに到つたからであります。生死を越えた落ち着きは、我々にあつてはたゞの宗教的な信仰だけからは由来せず、国家と民族の悠久性の確信に立つものと悟りました。――」(愛情はふる星のごとく一二一、一二三頁―(*昭和)十八年十月二十三日付書簡)と書き送つてゐる。

   即ち彼(*尾崎秀實)は一度死んで生きかへるにも等しい困難な思想転向を成し遂げたと宣言し、フト眼が覚めて順逆を誤つたことに卒然思ひ到つた時には何ともいへない焦燥を感じたと告白してゐる。そして「今の私(*尾崎秀實)には内部には多くの思想と貴い経験の集積が充ちてゐるのです。しかし客観的にもまた主観的にもそれは絶対に許され難いことでせう。永遠に私一個の内部のものとして地下へ持つて去りませう。それでいゝのです」(同二〇一頁、(*昭和)十九年五月十日付書簡)と言つてゐる。(*中略)共産主義の問題は、たとへ万巻の書物をひもといても書斎の思索からは断じてその本質は把握し得ない。マルクス主義も共産主義もその真髄はあくまで政治綱領であり、実践の哲学だ。したがつて、これを肯定することも否定することも、実践の中から学ばなければならないことを切言して本篇の結語とする。

・・・(**同上書307~310頁)

 このように三田村武夫氏は前掲書**の「あとがき」で述べています。自ら「真正の共産主義者」を名乗る尾崎秀實は、如何なる革命的謀略活動をしたのでしょうか。それを探るに先立ち、その人物や思想がどうであったなどについて見てみたいと思います。前回まで取上げてきた、ゾルゲを当時訊問した警視庁外事課警部補であった大橋秀雄氏と、戦後の後輩警察官である松橋忠光氏の共著『ゾルゲとの約束を果たす*** ― 真相ゾルゲ事件』(1988年オリジン出版センター刊)より、大橋氏著述部分の「第三章 主要メンバー」から「5 尾崎秀実(*實)」に関する記述を、次に読みたいと存じます。

・・・元満鉄嘱託 尾崎秀実(*實)

 尾崎秀実は明治三十四年(*1901)五月一日東京市芝区伊皿子で生まれた。訊問調書の家族欄には、父秀真は新聞記者、母きた、兄秀波、弟秀束との三人兄弟と記され、母きたと弟秀束は(*検挙当時)死去していた。『ゾルゲ事件』等の著者で異母弟の秀樹氏は記載されていない。これは、スパイの家族として世間から非難されるのを考えて、少しでも迷惑をかけないよう考慮したものと思われる。妻英子は、尾崎家の親戚で、初め兄秀波が大学生のときに結婚したが、秀波の入営中に別居し、後に離婚した。秀実は大学卒業後英子と結婚し、長女楊子が生まれたが、妻は諜報活動には関係がなかった。

 尾崎家は岐阜県加茂郡西白川村の旧家で、尾崎秀実のペンネーム「白川次郎」は故郷の白川村からとったということである。一歳のとき母に伴われて台湾に渡り、父秀真は後藤新平総督の知遇を受け、植民地における新聞記者としては相当の地位につき、兄弟は台北中学を卒業した後内地に留学した。秀実は、東京で第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部政治学科を大正十四年(*1925)に卒業、さらに大学院に一年在学した。

            思想上の推移過程

 東京帝大在学中に、学内の左翼団体であった新人会に入会し、講習会などに出席するうちに、経済学部助教授大森義太郎の指導する「ブハーリン研究会」にも参加して理論の研究に努めたが、大正十五年(*1926)五月東京朝日新聞社に入社した。朝日新聞社内では、同僚の清家敏住等と共にスターリン著『レーニン主義の諸問題』の研究会を催し、理論と実践活動を通じて共産主義を信奉するに至り、清家敏住の勧誘により、ペンネーム草野源吉の名で日本労働組合評議会関東出版労働組合東京支部新聞班に加入し、朝日新聞オルグとして諸会合にも出席していた。翌年大阪朝日新聞社に転勤したので、昭和三年(*1928)三月十五日のいわゆる三・一五事件の検挙を免れ、同年十二月朝日新聞特派員として上海に渡航した。

            上海における活動

 当時は国民政府が南京に樹立された直後で、上海には共産主義的潮流が横溢していた。その雰囲気の中にあって尾崎は、支那問題を中心に各種のマルクス主義文献を渉読してますます共産主義に対する信念を深めるうち、東亜同文書院学生の水野成、中西功、安斉庫治、加藤米太郎等とともに、自らチューターとなってブハーリン著『史的唯物論』の研究会を持つうちに、これらの左翼学生に中国共産青年同盟及び反帝同盟等の手が延びて、その指導者であった中国人の揚柳靑、蘇某、熊得山、王学文(馬烈学院副院長)、成仿、陣翰篁などの中国共産党関係者や左翼学者と交渉を持つようになった。

 昭和五年(*1930)末頃、中国共産党員で反帝同盟の地区責任者揚柳靑より資金援助を依頼され、尾崎は昭和七年(*1932)二月帰国するまで継続して毎月二十元位と、さらに揚の活動資金として毎月二十~三十元を提供していた。(原注:その頃の邦貨一円は二元位であった。)

 昭和六年(*1931)秋頃、中国労働通信代表で中共の相当地位にいたと思われる張某の紹介で、中共駐滬政治顧問団の集会に参加し、昭和七年(*1932)二月に帰国するまで数回出席して、中国を中心とする内外の政治情勢とそれに対する意見を提供し、中共党員と同等に待遇されていた。

 昭和五年(*1930)頃陣翰篁の紹介で、蘇州河通の書籍店主でモップル(赤色救援会)に関係のあるワイテ・マリヤー女史を知り、さらにドイツのフランクフルト紙特派員で米国人のアグネス・スメドレー女史を紹介されて、同人に国民政府関係情報や日本の情勢などを提供していた。

 昭和五年(*1930)末頃、東亜同文書院の左翼学生の一人から、米国から来たというコミンテルン関係の鬼頭銀一を紹介され、鬼頭から米国人「ジョンソン」という人に会うようすすめられたが、尾崎は用心してスメドレー女史にきくと、女史は非常に緊張し、「そのことは誰にも話していないか」ときいた上で「非常に優れた人だ」といったので、安心したという。そして、鬼頭から南京路の中華料理店冠生園でジョンソンを紹介され、ジョンソンから

 一、日本の新聞記者として集め得る限りの中国の内部情勢

 二、日本の対支政策の現地における適用状況

等について知らせてもらいたいと依頼され、昭和七年(*1932)二月に帰国するまで、毎月一回位南京路にある料亭またはスメドレー女史の部屋でジョンソンと連絡し、情報の提供と意見を述べていた。

 この「ジョンソン」はリヒアルト・ゾルゲであるが、尾崎は中国時代にその本名を教えられなかった。また、ゾルゲはスメドレー女史から尾崎を紹介されたといい、尾崎は鬼頭銀一にジョンソンを紹介されたというので、この点は両人の供述が相違していた。尾崎はその後ゾルゲに対して、日本人協力者として新聞通信関係者の川合貞吉、川村好雄、船越寿雄を紹介しているが、昭和七年(*1932)二月大阪朝日新聞社に転勤を命ぜられたので、上海における連絡関係を断って帰国した。

            日本で諜報活動に参加

 昭和九年(*1934)五月末頃、大阪朝日新聞社に「南龍一」という名刺をもった青年が来訪し、「上海時代に非常に親しくしていた外国人が日本にきていて、是非会いたいといっているから、一度会ってくれないか」といった。尾崎は、上海時代の活動を知って警察のスパイが来たのではないかと警戒したが、話をきくうちにその懸念がなくなり、外国人というのが「ジョンソン」と推定されたので、午後六時頃附近の中華料理店白蘭亭で会食してジョンソンであることを確認し、さらに翌日の日曜日に、兵庫県川辺郡稲野村御願塚二二三番地の自宅で南と会い、次の日曜日午後に奈良公園博物館脇でジョンソンと会うことを約束した。このときの南龍一は宮城与徳で、ゾルゲの命令で尾崎との連絡回復にきたものであった。

 尾崎は、その次の日曜日午後に奈良公園の指定場所でジョンソンと再会し、「また日本の情勢について手伝ってくれ。今度は支那でなく日本だ」といわれて、日本における政治・経済・外交・軍事その他一般情勢についての情報と、それらの問題に対する意見を知らせることを要求され、コミンテルンの情報活動をするジョンソンに協力することを決意し、与えられた任務を遂行することを承諾した。そして同年秋に東京朝日新聞社に転勤した。

 ゾルゲの尾崎への連絡が遅かったのは、最初は日本における諜報活動に尾崎をメンバーとして加えることを考えていなかったからで、他に適当な協力者が得られなかったために、上海時代の協力者であった尾崎を思い出して勧誘したのではないかと推察された。この点をとくにゾルゲに訊ねたが、日本渡来九ヶ月も経ってから尾崎を探して連絡した理由は、言葉を濁して遂に説明しなかった。勿論ゾルゲも、尾崎が後に内閣顧問になり、近衛(*文麿)公側近の一人として最高の国家機密を入手して提報するようになるとは考えていなかったのである。

 尾崎は、昭和十一年(*1936)九月頃帝国ホテルで催された太平洋問題調査会(汎太平洋会議)のお茶の会で、蘭印代表某からジョンソンをドイツ新聞通信員の「ドクターゾルゲ」と紹介されて、ドイツ人ゾルゲという名前を始めて知ったのである。それまでは、ゾルゲは尾崎に本名を教えていなかったが、話のついでに、両親の一方はドイツ人で一方はロシア人だと話したので、尾崎はゾルゲがドイツとソ連邦の両方に国籍があるのではないかと考えていたという。

 一九三五年(*昭和10年)六月ゾルゲがひそかにソ連邦に一時帰国したとき、モスコー中央部に申請したので、尾崎秀実は正式のメンバーとしてモスコー本部に登録された。

            任務と活動

 尾崎は、新聞関係情報に自己の判断を加えてゾルゲに提報していたが、後に内閣顧問になり、近衛首相側近者から最高の国家機密なども入手した。さらに満鉄の調査室嘱託となり、満鉄の資料や一般情報も入手して提報していたが、ゾルゲは尾崎の識見を高く評価し、重要な情報は必ず尾崎の意見をきいてからモスコー本部に報告していた。(*後略:報告内容は本シリーズ第(61)(62)(63)回でご紹介した1番から102番までの報告項目と各事件・情勢に関する情報ご参照)・・・(***同上書269~274頁)

 尾崎秀實は、単なるゾルゲやソ連の手足ではなく、自らの共産主義思想に基づく世界観のなかで来るべき東アジアと日本の「構想」を描き、その実現のために彼ができる謀略を実践していたのです。その諜報・謀略活動の基礎となった「ものの見方・考え方」を、大橋秀雄氏の抜粋・記述で見てみましょう。

・・・「東亜新秩序社会」の構想(第九回訊問調書抜粋)

 「資本主義社会より共産主義社会への転換は、既に現在の資本主義社会が完全にその行詰りに達し、古き秩序がもはや社会経済力の発展に役立たないのみでなく、却って社会発展の桎梏となって来た為に、必然的に起るものであることは勿論であります。然し乍ら、資本主義社会内部に於て、社会の生産力増大の当の担当者なる労働者農民階級の利害とは反対に、資本家階級は、現在の社会機構を維持することを以て却って利益とするものである為に、総ゆる手段を以て、労働者農民階級を中心とする勤労者階級の要求乃至抬頭を抑圧せんとすることは当然であります。

 斯くて、崩壊期にある資本主義社会に於て、階級闘争が必然激化するに至るのであります。即ち、共産主義社会の完成された形に於ては、搾取関係は排除され、階級なき社会が実現されるのでありますが、其処に至る過程に於ては、只今述べた様な関係で、プロレタリアートの独裁政権の樹立が必然の経路であり、斯るプロレタリアートの独裁政権に依る社会主義国家を通じて共産主義社会へと移行するのであります。

 以上の様な方法が社会変革の必然過程である限り、共産党は私有財産制度そのものを否認するものでありますが、共産主義社会実現に至る過程は一足飛びには行かないのでありますから、私有財産と云っても、資本家的機構としての『私有』と個人並(*び)に家族の生計維持の為の『私有』とは別個の性質を持つものであることは、ソ連の経験等に徴しても明らかなことであります。

 次に、日本に於ては、特に国体の問題、即ち天皇制の問題が重大な意義を持つものでありますが、日本共産党や吾々原則的立場に立つ共産主義者にとつては、日本に於ても、前述の法則(*史的唯物論の発展段階説なる歴史の必然法則)と別個の関係ではないのであって、其の目標は資本家階級中心の政治権力を奪取することにあるのでありますが、日本に於ける支配機構は極めて日本的特質を持って居り、此の特質を持った日本の支配機構が即ち天皇制に名を以て呼ばれる日本の支配機構でありまして、日本共産党乃至日本共産党を支持する共産主義者は、当然その打倒を必要とするものであります。」

 「更に私(*尾崎秀實)は、世界共産主義社会実現に至る迄の一つの過程として、私の言う所謂『東亜新秩序社会』の実現を意図して居ったのであります。」

 「世界資本主義社会は必然に世界共産主義社会に転換すべきものでありますが、斯る転換は、歴史的に見ても一時に達成さるべきものではなく、現実にも、一九一七年(*大正6年)以来ソ連邦が只一つの共産主義国家として存在して居るのみであり、此の外には、地域的にやや自主性を持って居る中国ソヴェート政権(*中国共産党支配領域)が存在して居るだけであります。(*昭和17年の供述時点)

 然し、欧州情勢や支那を繞る帝国主義国家の角遂等国際情勢から、一九三五年(*昭和10年)頃から第二次世界戦争(*ママ)は将に近しとの見通しをつけて居り、其後支那事変(*日華事変)の勃発に依って之を断定致しました。そうして、第一次世界大戦がソ連を生んだ如く、第二次世界大戦は、其の戦争に敗れ或は疲弊した側から始めて多くの社会主義国家を生み、やがて世界革命を成就するに至るものと思って居りました。

 そしてその関係は、経過的に、

 (イ)ソ連は、飽くまで平和政策を以てこの帝国主義国家の抗争の外に立つであろう。

 (ロ)日独伊対英米の抗争(帝国主義の変形国家と本来的帝国主義国家との抗争)は深刻な持久戦となるであろうが、その結果は、共倒れとなるか、何れかの勝利に一応は帰するであろうが、前者の場合は、敗れた側に社会革命が起るであろう。

 (ハ)勝ち残った国家に於ても充分疲弊して居り、且つソ連の比重の相対的な増大、強大国家の社会主義国家への転換を余儀なくされる可能性が多い。

という様に観測して居りました。

 斯る観点に立って東亜に於ける日本の立場を考えるに、日本は、支那事変(*日華事変)を中心に汎ゆる角度から見て、例えば日本がソ連攻撃に出ようが英米に協調しようが或は南進政策を強行して英米と戦おうが、而かも其の戦争の過程に於て一時的には軍事的に成功の可能性ありとするも、やがて国内の疲弊行詰りを生じて遂に社会革命の起る可能性が最も多く、その時期は早ければ昭和十七年から、斯る社会革命への第一歩である日本の転換が現れてくるものと考え、昭和十六年七月頃ゾルゲにも述べて置きました。

 私の所謂『東亜新秩序社会』と云うのは、斯る転換期に於て、日本の国内の革命的勢力が非常に弱いと云う現実と、斯る重要なる日本の転換は日本だけでは行い難いし、又行っても安定しないと考えるし、又英米帝国主義国との敵対関係の中で日本が斯の如き転換を遂げる為には、ソ連及び資本主義機構を離脱したる日本(*つまり共産主義政権の日本)並に中国共産党が完全にそのヘゲモニーを握った形の支那(*中国、つまり後に建国される中華人民共和国)、この三民族の緊密な提携援助を必要とし、この三民族(*ソ連・中共・日共)の緊密な結合を中核として先づ東亜民族共同体の確立を目指すのであります。(*まさに近年日本共産党が提唱している「北東アジア平和協力構想」にそっくりです。)

〔ご参照:共産党の「北東アジア平和協力構想」(アネアン?)とは一体どのようなものになるのか https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12750306581.html 〕

 而して其の場合、それ等の民族国家が直ちに完全なる共産主義国家たり得るとは必ずしも考えて居らず、其の過渡的形態としては、例えば、支那(*中国)に於ては孫文主義を徹底せしめた所謂『新民主主義』国家であっても差支えなく、又日本に於ても、過渡的には日本的な特殊性(*天皇制のことと思われる)を保存した社会主義的民族共同体(*天皇制社会主義の様なものか)であっても差支えなく、兎に角、日ソ支(*日ソ中)三民族国家の緊密友好なる提携に依る東亜諸民族の解放を条件とするものであります。

 更に、英米仏蘭等から解放された印度・ビルマ・タイ・蘭印・仏印・フィリッピン等の諸民族は、各々一個の民族共同体として、日ソ支(*日ソ中)三民族共同体との政治的経済的文化的提携に入り、之等解放された諸民族共同体が直ちに共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、各民族の独立と東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を一応自ら採択して差支えないのであります。

 尚この『東亜新秩序社会』に於ては、この外に、蒙古(*モンゴル)民族共同体、回教(*ウイグル)民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が、当然考えられなければならない問題ですが、其の中、朝鮮民族については、朝鮮を民族国家として独立させるか日本民族共同体の一部として存ぜしむるかは、朝鮮民族の意向、其の経済的自立性、その他その時期に於ける東亜全域の種々なる観点から決定されるべきことであり、満洲国に於ては、諸民族協力の新しい共産社会としての舞台に置き換えて見るという様なことも意図して居りました。以上が私(*尾崎秀實)の意図する所謂『東亜新秩序社会』の大要ですが、之が世界革命の一環をなすべきものであることは申す迄もありません。

 而も、この世界資本主義社会崩壊の過程に於て重要なる意義を持つべき所謂東亜新秩序社会の実現は、支那(*日華)事変を契機として、其の決定的なものであるということは最初から信じて疑わなかったところのものであり、其の時期に於けるソ連との提携援助については、幸にして私自身が十余年来ゾルゲとの諜報活動を通じて、コミンテルン乃至ソ連邦機構の有力なる部門と密接に結び付いて居ると云う事実に依って、容易であると思って居りましたし、其の場合に於ける支那(*中国共産党)との提携に付いても、充分な自信を持って居ったのであります。」

・・・(***同上書277~281頁)

 このように「真正の共産主義者」尾崎秀實は供述していたのです。(次回につづく)