帝國陸軍の統帥派の中核理論家であった池田純久陸軍中将(陸士28期、陸大36期)が、戦後昭和43(1968)年に刊行した「日本の曲り角**」(千城出版)という著書があります。まずはその中から、北京大学学長であった胡適博士(*戦後、台湾の外交部顧問、中央研究院長)の言葉を見てみたいと思います。(以下、*裕鴻註記、尚漢数字・一部表現(支那)等は適宜修正)

・・・(*胡適)博士は常に次のような意見を述べていた。「日本は武力をもって東三省(*満洲)の土地を奪い取った。その代り四億の民衆を敵に走らせた。実に愚かなことだ。もし日本に大政治家がいて、満洲を支那に返せば、中国民衆は欣然として日本に手を差し伸べるであろう。日本の政治家は中国民衆の心をつかむことを知らない」と嘆いた。博士は排日の巨頭のごとくいわれていた。そこで私(*池田純久氏)はその問題について、忌憚のない意見を聞いてみた。(*中略) 

 「(*前略) 私は中国人だから、中国に対して限りない愛国心をもっている。ところが日本はなんといっても東洋の重鎮である。そして中国から見れば、日本は東洋平和のための防波堤である。防波堤日本が破壊すれば、東洋はたちまち大混乱を招くことは、火を見るよりも明らかである。だから私は防波堤日本の健在を祈ってやまない。それは中国を愛するゆえんでもある。しかるに最近の日本はどうであるか。満洲事変以後侵略を事としている。この調子だと、今に、世界の袋叩きに会って、防波堤日本は崩壊し去るであろう。日本は自業自得であろうが、その結果、中国も巻き添えを食うおそれがある。だから私は、日本に筆誅を加えて反省を求めているのだ。日本に筆誅を加えるからとて私を排日と評するのは、近視眼的見解である」と。

 これが日本を思う、心からの親日論者かもしれなかった。はたせるかな、胡適博士の述べたとおり、日本は世界の袋叩きに会って壊滅したと同時に、防波堤を失った中国や朝鮮、ベトナムが巻き添えを食って赤化(*共産圏化)に悩んでいるのである。博士の先見の明には、ただただ頭の下がるばかりである。

・・・(**前掲書80~81頁)

 前回、「日華事変を望み、日華事変で最も得をしたのは誰か」について考えてみましたが、それは結果的には「ソ連のスターリン」と「中共の毛沢東」だと言えるでしょう。胡適先生の言葉の通り、中国大陸本土と北朝鮮、そしてベトナム・ラオス・カンボジアなど東南アジアの広範囲の地域が、事実として戦後「社会主義圏・共産圏」に塗り替えられたからです。そして本当は決して日本と戦いたくなかった蔣介石率いる国民党政権の中華民国は、日本との終戦後に毛沢東率いる中国共産党軍と内戦して敗北し、台湾に追いやられました。それは、日華事変とそれに引き続いて発生した大東亜戦争の結果と見ることもできるのです。

 この日華事変が全面戦争に発展した第二次上海事変の発生経緯は、前回見た通りですが、それでは更にその発端となった盧溝橋事件は一体誰が起こしたのか、その犯人像を今回は探ってみたいと思います。本件は専門家による各種研究もありますが、門外漢なりの着眼点で「高度な平凡性」で挑んでみます。

 本分析の検討材料としては、次の三冊の書籍を用いたいと存じます。

(A) 池田純久陸軍中将著「日本の曲り角**」(千城出版1968年刊)

(B) 今井武夫陸軍少将著「昭和の謀略***」(原書房1967年刊)

(C) 田中隆吉陸軍少将著「裁かれる歴史****」(新風社1948年刊)

 そして、この三冊に出てくる、盧溝橋事件の最初の銃弾を発射した可能性のある犯人像は次の三グループです。

(1) 中国共産党軍特別工作隊の王少将(当時、上尉連長)以下30余名

(2) 雑牌軍の石友三将軍配下の中国兵と、日本特務機関の茂川秀和陸軍中佐

(3) 中国共産党系の青年・学生と、日本特務機関の茂川秀和陸軍少佐(*当時)

 

 まず(1)の中国共産党軍特別工作隊の王少将については、上記書籍(A) 池田中将著「日本の曲り角**」に次の記述が出てきます。(*以下、支那は中国に、日支は日華に、支那軍は国府軍(*中華民国国民政府の国民革命軍)等に適宜修正)

・・・さてしからば、*日華事変はどうして起こったのか。それは明らかに第三者の陰謀によって起こったという観測が多いようだ。もちろんそれは断定はできない。最初に射撃したのは日本軍でもなければ、*国府軍でもない。両軍とも手出しはしていないのだが、両軍の中間にあって第一発を発射して事件をデッチ上げたものがあった。*日華両軍ともその魔手に踊らされたのである。その第三者とは、ソ連の使嗾する(*中国)共産党のしわざである、という公算が大きい。当時、日本軍は第二期検閲の直前であったから、中隊は毎夜盛んな夜間訓練を行ない、盧溝橋付近の演習場は小銃声(空包/*実弾は携帯していない)や突貫の喊声でにぎやかなものであった。

 盧溝橋付近の*国府軍(*国民政府側、宋哲元将軍指揮の二十九軍)は、日本の演習場から二キロと離れていない苑平城に陣を布いて、日本軍のにぎやかな銃声や喊声を演習とは知らず、日本軍の攻撃を仮想し、戦々兢々として警戒を怠らず、一種のノイローゼ気味になっていた。このとき、正確に言うならば(*昭和12(1937)年) 7月7日の夜、*国府軍陣地に向かって、実弾を数発撃ち込んだものがある。*中国兵は「スワ」日本軍の攻撃が始まった、と勘違いして守備陣地につき、一斉に、演習中の日本軍に向かって射撃を開始した。

 日本軍は不意に*国府軍から射撃を受けたので、これまた、「スワ」*国府軍の攻撃と早合点し、*国府軍に向かって応戦したのである。応戦するといっても演習中のことで、実弾は持っていない。急遽、数キロ離れている豊台の兵営から自動車で実弾を取り寄せるという始末であった。これを見てもわかるように、日華*両軍とも何者かに踊らされたわけで、思えばたわいのないものであった。第一発を日華*両軍陣地に撃ち込んだ第三者こそ、どこかで小躍りして喜んでいたであろう。(*中略)

 それでは、ソ連がなぜ第三者を使嗾して第一発を*国府軍陣地にたたき込ませ、日華*両軍の戦闘開始をねらったか。それにはハッキリした理由がある。当時、日本陸軍は対ソ戦備に孜々(*しし)とし、関東軍を増強し、軍隊は日夜対ソ訓練に余念がなかった。ソ連からすれば“日ソ戦必至”と見ていたであろう。そこで日本軍を*国府軍と衝突させるならば、ソ連に対する日本軍のウェートは軽くなる。そこがソ連のねらいどころである。というわけで第三者による第一発を発射させたのである。*国府軍も日本軍も、巧妙なソ連の謀略にひっかかったと見るべきではあるまいか。恐るべきソ連の策略であって、はたしてソ連がその策略を弄したとしたならば、それは見事功を奏したと言えよう。

 また一説には、盧溝橋事件の発端は、中国共産軍(八路軍)の謀略であって、八路軍特別工作隊上尉連長・王少将以下三十余名が、第一発を撃ったという説である。これは元満洲國黒竜江省警防課長斉藤平五郎氏が終戦と同時にシベリアに抑留され、同じラーゲル(*ラーゲリ:ソ連の強制収容所)で働いていた*中国人の中の、王と称する少将から「盧溝橋の火つけはおれだった」と言うのを聞き、それを昭和40年に雑誌『丸』の5月号に投稿されて、その真相を発表されているのである。その記事の一部を引用してみよう。

《中共側の王少将は、じぶんの経歴から申し述べた。彼は、河南省の貧農の家に生まれ、年少から共産主義に共鳴し、党学校で基本教育を受け、中国各地で、ゲリラはもとより、各種工作を実践できたえ上げた、きっすいの共産党員であった。盧溝橋事件の当時、彼は八路軍特別工作隊上尉連長として、各種謀略工作に従事していた。(*中略) 手を替え品を替えての共産党の妨害工作も効果なく、満洲國は、列国の承認を受け、関東軍は強化される。国府中国は日増しに整備するなど、彼らにとっては、ことごとく悲観的なものであった。

 そこで(*中国共産党)首脳部は種々熟慮した結果、「鷸蚌(*いつぼう)の争い、漁夫の利」という中国のことわざを、そのまま実行に移すことに決定したのであった。これは言うまでもなく、日本軍と国府軍とを、互いに相撃たしめて、共産党が漁夫の利を占めるということである。かくてその実行準備と訓練が行なわれた。「日時は不定であるが、場所は日中両軍の接近する北京郊外」と決定し、各担当業務ごとに、着々とその準備が進められ、特に「宣伝工作」に重点をおき、そのころまでに(*中国共産党)宣伝部では、北京郊外一帯の農民はもとより、国民党各部隊内の指揮官から兵士にいたるまで、捏造したさまざまな情報を注入宣伝して、排日・抗日の昂揚を図り、(*昭和12(1937)年)6月中には、各部面ともに一切完了し、命令一下、ただちに実行に移りうる態勢にあった。

 このとき、王連長の任務は、「敵中深く潜入し、日中両軍を挑発して、戦端の口火を切る」ことで、もとよりはなはだ危険な仕事ではあったが、それだけにまた大へんな栄誉でもあった。彼はあらかじめ腹心の部下の中から、一騎当千の三十余名を選抜し、全員便衣(*工作用衣服)に偽装させて命令を待った。

 おりから(*昭和12(1937)年) 7月上旬、盧溝橋付近で日本軍の演習が行なわれ、あたかもこれに呼応するかのように、国府軍もまた演習を開始した。この演習に参加していた国府軍将兵の間には、何か、異常な殺気がみなぎっていた。事前の扇動工作は、十分の功を奏したのであった。7月5日、上司(*劉少奇か?)から「この機を逸せずただちに決行」の命令を受けた王連長は、部下とともに勇躍して行動にうつった。

 7月7日、日中両軍は盧溝橋付近で、対峙のまま日没に至るのを見届けた彼は、暗やみをついて、かねて十分に偵察しておいた地点で、隊を二分し、同時に日・中両軍に向けて、一斉射撃を浴びせかけた。

 このとき、両軍のいずれが先、いずれがあとともなく、激しい撃ち合いが始まり、喊声と銃声とが未明までつづいた。これを見届けた王連長は、たくみに部下をまとめて根拠地に引き揚げた。

 しかるに翌日(*8日)になって、現地の日中両軍の間に停戦の気配さえ見えて、予期どおりに戦闘は進展しなかった。そこで上司は狼狽し、その翌日(*9日)さらに「工作続行」の厳命を下した。王連長は、日中両軍の情況を十分に偵察し、その夜おそく、直接「日本軍に夜襲」をかけ、その帰途「国府軍に乱射」した結果、ついに両軍の戦闘は本格化して、ようやく所期の目的を達成したのであった。》

 以上のような王少将の述懐は、彼の人格と思い合わせて、これが絶対真実であることを、いまなお確信していると、筆者斉藤氏は述べておられるのである。・・・(**前掲書105~109頁より部分抜粋)

 池田純久将軍はこれに引き続き、当時「八路軍(*同年8月22日に国民革命軍に編入)」本体は、北京付近にはまだ進出していなかったことや、ソ連ではなく中国共産党軍の「漁夫の利」とは何の意味があるのか、また日本軍が「夜襲」を受けた事実はないなどのことから、証拠もなく信憑性を疑うとも記述しています。しかし「夜襲」はともあれ、前回見た通り、毛沢東の政戦略では、日本軍と国府軍(蔣介石)を戦わせる方針があったことから、ソ連でなくとも中国共産党軍の特殊ゲリラ部隊「特別工作隊」が王連長の指揮のもとに活動した可能性は否定できません。十分に毛沢東にとっての「漁夫の利」はあるのです。

 さて、もう一つの犯人像を窺わせる記述がこの池田著同上書**にあります。

・・・さらにまた、盧溝橋事件をもって、日本軍の下級将校たちの独断的謀略によるとする説もある。私(*池田純久将軍)が日華*事変の発端について迷っていると、ある私の友人の*中国人が、「そりゃ、第三者が日華*両軍に弾丸を撃ち込んだというきみの推測は正しい。しかしそれが共産党だというきみの推測は間違っている」(*池田:)「どうして共産党でないということがわかるか」(*友人:)「日本軍の演習場に共産党がはいることはできない。はいるならそれは軍服をまとった中国*兵だよ」(*池田:)「そうすると、中国*兵が謀略をやったというのか?」(*友人:)「謀略をやったのは日本人さ。しかしその駒に使われたのが、中国*の兵隊だ」(*池田:)「きみはばかに事情に詳しいようだが、まさか現場を見たわけではあるまい。聞いたのか?」(*友人:)「僕は当時北京にいた。そして、それに参加した中国*兵から、直接聞いたのだ」(*池田:)「中国*の兵士というのはどこの軍隊か、宋哲元旗下の兵か?」(*友人:)「違う」(*池田:)「宋哲元軍隊以外には考えられないが」(*友人:)「そう。石友三将軍の兵士たちだよ。石友三将軍は済南の南の人だが、約五万ぐらいの手兵を擁し、親日といわれるが、どちらかというと、中立の軍隊(*軍閥)で各地を遊撃していた軍だ。つまり中国*でいわゆる雑牌軍(*ざつはいぐん)のことだ」(*池田:)「石友三将軍といえば、私も知っている。石友三の軍隊がどうして、そんな謀略をやったのか?」(*友人:)「日本軍によって宋哲元軍を撃破させ、その地盤を譲り受けようとする魂胆があったかのかもしれない。あるいは単に金もうけのためかもしれない」(*池田:)「しかし、今きみは、謀略は日本人だと言ったね。いったいそれは誰なのか?」(*友人:)「さあ、それはあまり公言したくないが、北京にあった特務機関の茂川(*秀和)中佐(陸士30期)だと聞いている。彼は石友三軍の顧問じゃなかったかね」

 さあ、大変だ。この説によると、日華*事変の発端は日本軍の謀略であったことになる。しかしこの説にも私(*池田純久将軍)は疑問をいだかざるをえない。私はただちに茂川中佐の住所を調べて電話してみた。ところが茂川は七年前から中風で寝ていて、頭がもう混濁しているので、問答はむずかしいという夫人の返事である。はたして茂川がそんな謀略をやったのだろうか? もし企画したとしたら当然北支軍司令部の橋本群参謀長なり、少なくとも私(*当時、支那駐屯軍参謀)には連絡があってしかるべきだ。あの謀略のあとに続くものは、日華*両軍の全面的な戦闘だ。したがって作戦主任なり、参謀長には、諒解を受ける必要がある。もしそれを怠ったとしたら、茂川中佐の行為はまったく無謀であり、軍の方針に反するものである。すでに参謀長は他界していないし、茂川中佐はいわば“生ける屍”である。けっきょく日華*事変の発端は、茂川中佐の病気が直って正気に戻らぬかぎり、永遠の迷宮入りである。まったく日華*事変の発端は謎であると言うほかはない。

・・・(**前掲書110~112頁)

 このように池田純久陸軍中将は述べています。この盧溝橋事件の第一発を放ったのは、日本軍か、蒋介石軍か、中国共産党軍か。この茂川秀和少佐については、ここで(C) 田中隆吉陸軍少将著「裁かれる歴史****」からその第4節「盧溝橋の銃声」の抜粋を以下に引用したいと思います。(*印は裕鴻註記・註釈)

・・・排日の気勢は日に日に高まつた。顧問として冀察政権に入つた日本の官吏、軍人は誰も相手にするものが無くなつた。次で(*昭和)十年十二月起つた綏遠事変で、日本軍が敗退した如く宣伝せらるに及んで排日は侮日と変り、華北の日華関係は恰も満洲事変勃発の前夜に似た情勢となつた。  (*昭和)十二年春頃からは、屡々、中国の軍隊と天津(*駐屯日本)軍とが、演習其他のとき小競合ひを演じたが其都度、双方の指導者の鎮撫に依つて事なきを得た。然るに十二年七月七日夜盧溝橋上から日華両軍に向つて放たれた二発の小銃弾は、終に両軍の大規模な衝突を惹起し、運命の日華事変の端緒となつた。

  中国側は之を以て日本側の発砲であると主張し、日本側は中国側の挑戦だと断定した。然し私(*田中隆吉)はその何れも真実でないことを知つて居る。

  私(*田中隆吉)はこの日、徳王の招待を受けて綏遠事変の戦歿者の慰霊祭に参列のため、蒙古の徳化に在つた。時偶々関東軍から電報があつて連絡のため、天津に到れとの命令を受けたので、八日払暁飛行機で天津に向つて出発し、正午(*天津)駐屯軍司令部に着した。その夜天津の芙蓉館(*旅館)の一室で茂川秀和(*陸軍)少佐に会つた。

   茂川少佐はもと私と一緒に参謀本部に勤務したことがあり、当時、冀察政権の軍人顧問であつた。(*茂川)氏は語る、

  「あの発砲をしたのは共産系の学生ですよ。丁度あの晩、盧溝橋を隔て、日本軍の一ヶ大隊と中国側の一団が各々夜間演習をして居たので、之を知つた共産系の学生が双方に向つて発砲し日華両軍の衝突を惹き起させたのです」と。

 私(*田中隆吉)は茂川氏が平素、北平(*北京)の共産系の学生と親交があるのを知つて居るので 「やらせた元兇は君だろう」と詰つた(*詰問した)。(*茂川)氏は顔を赫(*あから)めて之を肯定した。

   当時(*中国)共産軍は蒋介石氏のために陝西延安の一角に追ひ詰められ、気息正に淹々(*えんえん)たるものがあつた。その運命の打開は日華の衝突によつて蔣(*介石)氏の鋒(*鉾)先を日本に向はしめるより外に手段がない。私(*田中隆吉)は事を好む茂川氏の謀略が成功したのも無理はないと思つた。・・・(「裁かれる歴史****」田中隆吉著、新風社版27~28頁)

 このように田中隆吉陸軍少将(陸士26期、陸大34期)は著述しています。これは一応当時の茂川少佐本人に直接確かめたという内容であるだけに、池田純久陸軍中将の友人からの伝聞情報よりは確度があると思われますが、何しろ「怪物田中」と呼ばれ、東京裁判では全陸軍を敵に回した田中隆吉将軍の著書だけに、信憑性があるのかという意見も出てきそうではあります。

   その意味では、陸軍部内にも、そして終戦後蔣介石軍の何応欽上将から「今井は戦犯ではない」と明言されて信頼され、そのまま南京に残留して終戦処理と将兵の復員や、戦犯指定を受けた者の援護活動に従事し、後始末をしてから帰国した今井武夫陸軍少将(陸士30期、陸大40期)の著書、(B)「昭和の謀略***」(原書房1967年刊)が、より客観的であると思われますので、次回に引き続き本件を検分したいと存じます。