前回ご紹介した盧溝橋事件を起こした犯人像の追究を続けたいと存じます。まずはおさらいすると、本分析の検討材料としては、次の三冊の書籍を用いています。

(A) 池田純久陸軍中将著「日本の曲り角**」(千城出版1968年刊)

(B) 今井武夫陸軍少将著「昭和の謀略***」(原書房1967年刊)

(C) 田中隆吉陸軍少将著「裁かれる歴史****」(新風社1948年刊)

 そして、この三冊に出てくる、盧溝橋事件の最初の銃弾を発射した可能性のある犯人像は次の三グループです。

(1) 中国共産党軍特別工作隊の王少将(当時、上尉連長)以下30余名

(2) 雑牌軍の石友三将軍配下の中国兵と、日本特務機関の茂川秀和陸軍中佐

(3) 中国共産党系の青年・学生と、日本特務機関の茂川秀和陸軍少佐(*当時)

 前回はこのうち、書籍(A)と(C)による犯人像の三グループ(1) (2) (3)を確認しました。今回は、書籍(B)今井武夫陸軍少将著「昭和の謀略***」(原書房1967年刊)を精査したいと思います。(以下、*裕鴻註記、尚漢数字・一部表現等は適宜修正、尚引用文中の「中共」はなるべく「中国共産党」とした)

 今井武夫陸軍少将(陸士30期、陸大40期)は、陸軍幼年学校出身ではなく旧制長野中学校の出身で、陸軍士官学校に進んだ人物です。余談ですが、一般的に旧制中学校出身者は16歳以上で士官学校に入校するので、13歳から入校して陸軍式に「純粋培養」される陸軍幼年学校出身者よりは、世間の実情に触れていることから視野が広い傾向にある反面、実は陸軍部内ではあまり出世しない経歴です。例外は旧制新発田中学校出身の今村均陸軍大将(陸士19期、陸大27期首席)などで、決して多くはありませんでした。殆どの陸軍将官や陸軍要職者は、陸軍幼年学校出身で陸軍士官学校に進み、かつ陸軍大学校卒業成績上位(*6位まで)出身者が特に陸軍中枢部を占めていました。

 さて前回末尾でご紹介した通り、終戦時、支那派遣軍総参謀副長兼中国大使館付陸軍駐在武官であった今井武夫陸軍少将は、蔣介石率いる中国軍総司令の何応欽上将から「今井は戦犯ではない」と明言されて信頼され、そのまま南京に残留して終戦処理と将兵の復員や、戦犯指定を受けた日本人の援護活動に従事し、後始末をしてから帰国しました。これを見ても中国要人からも、また陸軍部内でも今井武夫陸軍少将への信頼が厚かったことがわかります。その著述である「昭和の謀略***」から、以下に関連箇所を拾い読みしてゆきましょう。

・・・昭和12(1937)年7月7日夜、北京(北平)郊外の盧溝橋北方地区で、夜間演習を行っていた支那駐屯軍歩兵第一連隊の豊台駐屯第八中隊が、前段の訓練を終って、午後十時半頃部隊を集合中、その西側を流れている永定河の堤防上にあった竜王廟付近から、突然数発の実弾を射撃された。これが動機となって、日中両軍の間に三週間も紛争が続いた挙句、結局7月28日になって、両軍の本格的戦闘に発展していった。

 この最初の数発こそ、実にその後八年間の戦争の動機となり、大東亜戦争にも繋がるものだけに、何者の陰謀だろうかと、調査が重ねられたが、すでに三十年を経った今日(*1967年時点)に至るまで、その真犯人を追究することが出来ず、今では一つの謎とされている。(*中略)

 これは後年の話であるが、当時盧溝橋における日中両軍交戦の情況は、ちょうど満洲事変の発火点となった柳条溝事件が、実は関東軍によって企てられた謀略工作であったことに酷似しているばかりでなく、爾来日本軍は中国各地で、しばしば同じような手口の謀略を行った前科があるだけに、盧溝橋事件も同じように日本軍の仕業であろうと、頭からきめつけて考える者が多かったことも、強(あなが)ち咎められないことであった。しかも単に外国人ばかりでなく、同胞の日本人でさえ長い間、そう信じこんでいた位だから、中国人は今なおそう主張して、意見を変えようとしない。

 しかしこれは、日頃の行状から推して真犯人と疑われ、無実の罪に泣くようなもので、真実を枉(ま)げることの出来ない冤罪であり、戦後の今日まで日本軍の謀略と思われるような資料は、何一つ発見されていない。仮に百歩を譲って、日本人の何者かがこれに関係していたとしても、満洲事変の場合のように、日本陸軍の(*組織的)謀議に基づく、計画的のものでないことは明らかである。そればかりでなく、この事件に万一謀略があったとすれば、それは日本軍ではなく寧ろ中国側にこそその疑が濃厚であると、いわなければならない。・・・(***前掲書107~110頁より部分抜粋)

 このあと今井少将は、当日の日本陸軍部隊の配置状況を説明し、河辺旅団長も遠く秦皇島に出張中、北京城内の第一大隊も警備用の一個中隊以外は演習のため北京東方20キロの通州に出払っており、連隊本部と一個中隊だけの極めて手薄な兵力しかいなかったことを挙げて、次のように述べています。

・・・一体、日本軍がこれから戦闘をするという計画があったとしたら、わざわざこんな不利な軍隊配置にすることが、あり得るだろうか。しかもそのうえ、盧溝橋付近で最初に中国軍と交戦した第八中隊は、平常の通りの演習状態で、全員空包を携帯して実弾を携帯せず、ただ分隊長だけ万一の場合の非常用として、実弾三十発後盒に納めていた。又全員鉄甲(てつかぶと)を携行せず、演習用の服装であったことも、何等他意のなかったことを裏書きするものであった。・・・(***前掲書110~111頁)

 満洲事変の際は、兵力配置から大砲の据付準備まで、万全の準備態勢を整え、戦闘開始直後から迅速果敢な戦果を一気に挙げていることからすれば、この今井少将の指摘する通り、日本軍が組織的かつ計画的に行動したとはとても思えない情況だったのです。一方で、当時の華北地方の情勢は極めて不安定で緊迫していたことも事実です。満洲事変以降、中国民心は排日感情に傾き、しかも華北分離政策を採った日本陸軍は、華北地方に日本寄りの地方軍閥自治政権を樹立するなど、その実質的な支配領域を広げようとしていたため、一触即発ともいうべき危険な情勢となっていたのです。今井将軍の記述です。

・・・したがって、たとえ盧溝橋事件が起らなかったとしても、遠からず何等かの原因で、両国間に火を噴かねばおさまらないような、異常な雰囲気であったことも事実であり、現地では種々の謡言(ようげん:デマ)が行われていた。

 この頃、中国人の間に、日本軍が盧溝橋で事を構えて中国軍との衝突を陰謀しているという謡言があり、事件の前日にあたる7月6日には、北京大使館付武官(*陸軍武官補佐官、通称北京武官)であった私(*今井少佐)は、冀北保安総司令の石友三(*将軍)から、当日盧溝橋で日中両軍が衝突して交戦中だという誤報を知らされた。後日になって私は、これを石(*友三将軍)の好意ある予報的警告ではなかったかと思う位、翌7日の事件との暗合を不思議に思っている。

 またその数日前には、当時心なき日本人から、華北における排日の元兇と見られ、しかも盧溝橋事件造成の張本人のように伝えられた、河北省主席兼第三十七師長の馮知安(ヒョウチヤン)から、日本軍が6月末のある晩、盧溝橋に機関銃弾を撃ちこんだと抗議されて、調査の結果、日本軍の行動とは無関係のことを確認したこともある等、北京では夜間特別警戒を行いながら、人心洶々(きょうきょう)としていたことも、承知していた。

 同じ頃これら中国側謡言に基づくものかと思われるが、東京の政界消息通の間にも、7月7日七夕の晩、満洲の柳条溝事件のような事件が、華北に勃発するという流言があった。これを耳にした参謀本部第一部長の石原莞爾少将は、日本出先部隊の謀略を危惧し、陸軍省軍務局長とはかって、軍事課の高級課員岡本清福中佐を華北に派遣して、それとなく支那駐屯軍その他華北の血気な日本軍青年将校の内情を探索させたが、その結果この流言は全く根拠のない風声鶴涙に過ぎず、かかる陰謀の絶無なことに安心して帰朝し、その旨上司に報告している。(*中略)この事は、当時華北の動揺していた不安な空気をものがたる事実であるが、同時にその調査報告によっても、日本軍に(*組織的)謀略の黒い動きのなかったことの証言ともなるであろう。

 ところが事件は実際に、その直後に勃発した。然らばこの事件はどうして起きたものだろうか。前述のように果たして日本軍にその疑いがないというなら、事件は偶発的なものか、あるいは他にこれが謀略を行った者がなかったか、勢い調査の対象を他に求める外ないであろう。

 私は当時現地の実情を仔細に、研究点検した結果、最初の銃撃はあるいは陰謀でなくて、中国兵が険悪な謡言に脅かされ、恐怖心のあまり、偶発的に発射したこともあり得たと思う。

 しかし万一最初の第一発が陰謀であったとすれば、その前後に起った中国軍の行動から、それは日本軍でなくて、むしろ中国側にあったと思うことに変りはないが、それ以上に注目すべきことは、一旦事件が勃発してから、中国共産党が事件拡大のため、如何に必死に狂奔(きょうほん)したかは、天下周知の蔽(おお)い難い事実でこれを究明する必要がある。これこそ陰謀の有無、陰謀があったとすれば、日中何れにあったかを推理するため重要なことと思うからである。・・・(***前掲書111~113頁より)

 この記述には、前回の池田純久陸軍中将著「日本の曲り角**」(A)にも登場した「石友三将軍」からの「7月6日勃発という誤報」の話が出ています。また東京の消息通筋の情報として、「7月7日七夕の晩、満洲の柳条溝事件のような事件が、華北に勃発する」という流言があったという事実と、それに基づいて参謀本部の石原莞爾作戦部長と陸軍省の後宮淳軍務局長が図ってわざわざ岡本清福中佐を派遣するだけの信憑性がこの情報にはあったことになります。

 昔から「火の無い所に煙は立たぬ」という諺がある通り、なんらかの「キナ臭い」情報が洩れ出ていたと推測はできるのです。また茂川秀和陸軍大佐(*当時少佐、陸士30期、東京外語支那語派遣、北京留学)は、昭和11(1936)年8月付で支那駐屯軍司令部参謀部付となっており、昭和12(1937)年7月7日時点では天津特務機関に所属していたのか、北京の特務機関にいて石友三軍の顧問だった(*池田純久中将の中国人友人説)のか、冀察政権の軍人顧問だった(*田中隆吉少将説)のか、複数の情報があります。公式の履歴ではその後昭和13 (1938)年1月に新民学院学生隊長に任じられています。北支の新民学院は、華北地方が日本軍の支配下となって樹立された、王克敏を首班とする中華民国臨時政府を支えるための、日本語ができる中国人官吏の中央養成機関でした。こういう経歴から類推するに、茂川少佐が特務機関の仕事をしていたこと、共産党系中国人学生とも繋がりがあったこと、石友三将軍とも繋がりがあったとすれば、盧溝橋事件に何らかの関わりがあった可能性はあります。

 であると同時に、もし茂川少佐が動いていたとしても、それは今井武夫在北京陸軍武官補佐官や、支那駐屯軍司令部さえ預かり知らぬ、一部の陸軍部内強硬派と結んだ非公式活動だった可能性もあると推測できます。そして、当時の茂川少佐が相方としていたのが、石友三将軍なのか、北京の共産党系学生なのか、或いはその両方だったのかは判然としません。茂川少佐自身がどうであったかは別としても、日本陸軍青年将校の中には、満洲事変の成功に倣ってさらに華北・華中を日本の勢力圏下に置くための謀略を辞さない考えを持つ強硬派もいたことは否定できないのです。もともと日本に必要な軍需資源を自給するためには、満洲・内蒙古の資源だけでは不十分であると、永田鉄山将軍等の研究でもわかっていたからです。その意味で当時ナチスドイツの地政学的な「生存圏(Lebensraum)」の影響もあり、日華事変が拡大していった原因の一つに華北・華中の資源確保を目指す向きも存在していたのです。

 さて一方の中国では、時期的には昭和の初めに国民党が南京を首都として政府を樹立して以降、満洲を除く中国全土を統一しつつあったのですが、中国共産党は江西省瑞金に「中華ソビエト政府」を樹立し約10万の兵力を擁して、国民党政府軍(*国府軍)と激しく戦闘を重ねていました。第一次から第四次までの国府軍の「囲剿戦」(包囲殲滅戦)はあまり成果を挙げられませんでしたが、蔣介石の指導で昭和9(1934)年に、135万の兵力を投入した第五次の「囲剿戦」は成功し、共産党軍は追い詰められて江西省の根拠地を放棄し、いわゆる「長征」を行います。つまりは長い脱出逃避行に入ったのです。共産党軍は兵力を四方面軍に分けて転進し、結果的に12,500キロを歩いて昭和11 (1936)年に陝西省延安にたどり着き、ここを新たな根拠地としました。この間、脱落者や死亡者で多数を失い、10万名が数千名にまで兵力を減じました。

 「長征」の物語は、その後は共産党のお得意の宣伝戦により、あたかも英雄的な長期遠征行軍のように仕立てられていますが、実際は敗走につぐ敗走で、戦力の殆どを失い、まさに滅亡寸前で延安に逃げ延びたと見るべき内容です。

これが昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件直前の中国共産党軍の実情でした。従って、このまま蔣介石率いる国府軍との戦闘が続けば、もはや陝西省の山の中で壊滅するしかない状況にまで追い詰められていたのです。そこで、この長征の途中から毛沢東が率いるようになった中国共産党軍は、なんとかして蔣介石率いる国府軍の矛先を転じる必要に迫られていたのです。ここからまた、今井将軍の前掲書の記述を読みましょう。(*裕鴻註記、適宜補正)

・・・ところが昭和11(1936)年11月になると関東軍(*満洲駐屯日本軍)の暴発した綏遠事件で、蒙古軍が敗退し、中国軍の志気が昂揚した時、張学良と楊虎城が蔣介石を監禁した西安事件が起った。このとき中共(*中国共産党)は張*学良、楊*虎城両将を説いて蔣介石を釈放し、その代り蔣*介石に迫って対日開戦の黙契をかち得たから、中国はここに全国をあげて、対日開戦の諸準備を完了することが出来た。(*実際は、毛沢東は蔣介石を殺害したかったのですが、スターリンは蔣介石を生かして、国共合作により日本軍と全面戦争させることを要求しました。ユン・チアン/ジョン・ハリディ著「マオ 誰も知らなかった毛沢東」講談社刊上巻の300~323頁に、この間の事情が詳述されています。)

 この直後に盧溝橋事件が突発した。多年この時に備えた中国共産党が、どうしてこれを黙過しようか。直ちに立って開戦に誘導することは、蓋し当然であり、現に中国共産党は(*対日)戦線拡大のため必死の努力を払った。(*盧溝橋)事件が勃発するや、従来もしばしば発生したような、この局地的事件を(*大々的に)取上げ、翌(*昭和12 (1937)年)7月8日、日本軍盧溝橋進撃に関する通電*を公式に発表し、全国陸海空軍を総動員して、応戦準備を呼びかけた。(*通電とは、中国で広く各地へ送る電報のこと) 通電が発せられた7月8日は、犯人不明の射撃があってからまだ数時間しかたたず、日中両軍当事者にも、事の真相が必ずしも判明していなかったにもかかわらず、一方的に中国共産党が激越な対日開戦を主張したことも、中国共産党陰謀説に対する一つの裏付けと考えられないこともない。(*常識的に事前準備もなく、事件直後にそのような迅速なる公式発表を、中国全土の各地宛に電報で送れるとは思えない。)

 7月13日には、午前二時頃北京永定門付近で、満洲事変以来長い間、中国政府から厳禁されていた爆竹をならして銃声に擬し、人心を惑乱するものがあった。翌日の中国紙や英字紙はこれを大きく取上げて、《日本軍は中国側に対し、これを中国軍の不法射撃として、難詰する材料にするため、故意に行った》と、日本軍を非難した記事を掲載した。

 同様な事実は八宝山でも行われ、引続き戦線の各所で頻発するようになり、停戦中の日中両軍から、互いに相手方の不法射撃としてその不信を難詰し合い、両軍の間にあって事件の不拡大を調停中であった私共当事者(*当時、今井少佐は在北京陸軍武官補佐官)を困惑させた。

 調査の結果これらは、いずれも日中両軍の中間地区に潜入した、中国の男女学生達の仕業とわかった。(*ここが重要)

 この年の5月頃から、中国共産党華北局書記劉少奇(*リュウショウキ)等の活動によって、中国共産党の人民戦線運動の結果、青年学生が夏季訓練と呼称して、大挙軍隊になだれこむように入営し、将兵の(*対日)抗戦熱を鼓舞していたことと思い合せ、彼等が日中両軍の衝突拡大に狂奔した挙句の仕業であることも、間違いない。

 また支那事変(*日華事変)後、中国国民党と中国共産党はともに、一致抗敵の歴史的宣言を発表した。(*第二次国共合作) その期日は公式には中国共産党が9月22日付、国民党は9月25日付であったが、事変後三十年(*1967年)の最近入手した内蒙人民出版社の(*中国共産)党史学習参考資料によれば、中国共産党が本宣言の起草を終ったのは、実に盧溝橋事件直前の(*昭和12 (1937)年) 7月4日であり、国民党に送付したのは7月15日であることが明らかになった。

 これによってみても、当時中国共産党は既にこの種事件の発生を計画していたか、あるいは少なくともその勃発を待機していて、国民党と協議のうえ(*対日)開戦に踏みきったことは、間違いないことであろう。

 勿論かくいえばとて中国側のみならず、日本側にもまた開戦を促進した勢力のあったことは事実で、いわゆる強硬派があった。しかし中国では孫子の誡めの通り、兵は国の大事として長年に亘り極めて慎重に研究の上決意したに対し、日本は敵を軽視し、単に恫喝で事件を終り得ると信じ特別の決意なくして大事に突入した。(*中略)

 またこの時、(*陸軍)中央部の参謀本部と陸軍省は、突発した盧溝橋事件をめぐり、多年山積した中国問題懸案を一挙に解決するため、絶好の機会として出兵を主張する者多く、一握りの少数者が長期消耗戦を危惧して不拡大を主張したが、時の参謀総長は元帥閑院宮載仁親王、次長は今井清中将、第二部長渡久雄中将であった。然るに最も肝腎な責任者の今井と渡は、ともに病床にあって執務出来ず、実務は第一部長(*作戦部長)石原莞爾少将の双肩にかかり、従って石原の責任は重大であるとともに、その不拡大の意見は元来ならば参謀本部を動かし得た筈である。

 ところが石原の部下の作戦課長武藤章大佐(*のち中将)は、石原の不拡大方針に反し、強硬派を代表して出兵を強調し、奇しくも前年綏遠事件の制止をめぐって対立した関係を再現したが、結局、参謀本部や陸軍省の大勢は武藤大佐に同調した。石原も一時関内兵力の全部の満洲引揚説まで主張して、事件の早期解決をはかったが、ついに居留民保護を名として、内地師団の動員を決定せねばならなくなり、事件は逐次拡大の一途をたどり、次いで石原自身も関東軍に追われて(*転勤させられて)その位置を去った。後に石原はこの間の経緯を語って、結局面従腹背の徒にやられたと言ったそうだが、国の大事である開戦をめぐって、国論が円滑に運ばず、そのうちにずるずると特別の決意なくして戦争にもちこまれたわけである。

 これ等を綜合して考えると、当時の中国は多年にわたる中国共産党の日中開戦政策の予定計画に誘導されて開戦にふみきり、日本(*陸軍)はこの数年来徒らに不謹慎な挑戦行動によって、中国の民族思想を刺激したうえ、中国内部の複雑な内情と、事件の重大性を理解せず、一歩一歩全面戦争の泥沼に、自らはまっていったものと言っては、言い過ぎであろうか。・・・(***前掲書115~118頁より)

 自身が盧溝橋事件当時の北京で勤務していた今井武夫陸軍少将のこの述懐と分析は、非常に正しい見解だと思います。前回と綜合して、盧溝橋事件の実行犯は、まずは共産党系の青年・学生であった公算が強く、しかもその一部は、前回見た中国共産党軍特別工作隊連長の王少将(当時上尉)麾下の精鋭要員であった可能性もあるし、中国兵の軍服を着て偽装し石友三部隊にまぎれ込んだ要員であった可能性も捨て切れません。厳密な歴史史料では「謎」のままですが、推理小説的には、盧溝橋事件の「実行犯」には、やはり中国共産党の組織的関与があったものと合理的に推定できるのです。