前回、前々回と、帝國陸軍中央中枢中堅のエリート幕僚将校たちに焦点を当てて、先の大戦に至る要因分析を試みました。ものごとの真の姿を捉えるのは、どんなことも、そしていつも、困難性を伴います。航空機の図面などで、よく「三面図」を目にする機会がありますが、複雑な形状や微妙な立体的カーブを持つ物体を、上から、横から、前からの三面、三方向からの形状で描く「三面図」にして、初めてその形状の概要が捉えられるのですが、それでも尚、全ての微細な曲率などは、さらに右斜め前、左斜め後ろ、斜め右下、斜め左上など、様々なアングルから舐めるように眺め渡すことまでしないと、なかなか全貌の形状やイメージは正確に捉えられないものです。であるからこそ、立体模型や三次元の回転可能な画像などが、重要なツールとなるのです。

 事程(ことほど)左様に、具象的なものでも実態を把握するのが難しいわけですから、まして歴史事象など、史料をもとにその実態や真相を解析・解明しなければならない、ある面で抽象性を帯びた対象をより正確に精度高く捉える作業には、一層の複眼的かつ多面的・多角的な調査と検討が必要なのです。

 例えば、それが書いたものであれ、語られた証言であれ、その記述者・証言者が、全て本当のことを書き、語っているかどうかはわかりません。また信頼に値する人物によるものであっても、その人物の誠実かつ真摯なスタンスによって、返って他の人の責任や罪禍、ミスや誤断を暴くことを避けるために、根本的には悪意に因るものではない、事実の改変や省略、部分的隠蔽とも言えるぼやかしや敢えて触れないという言動がなされることは、当然あり得るわけです。とはいえ、全てを疑って、一切信用しないということになれば、ますます実態や真相は闇の中に葬られてしまいます。

 従って、一般的に言う「史料批判」の範囲は、その文献史料の物的証拠能力や真偽の判定などが主体ですが、それ以上の、より人間的な分析・検討が必要になってきます。すなわちその記述者・証言者の来歴、背景、思想、立場に加え、情愛、嫌悪、思考能力のレベル、記憶力の良否など、ある意味では、探偵や刑事さんのような「捜査能力」も必要となってくるわけです。それでも尚、完全には解き明かすことのできない、未解明部分が残り続けるのが、世の中の実態であるとも言えましょう。その意味では、元よりフェイク・偽書・偽証を退けるのみならず、あたかも古代生物学者が恐竜の化石から恐竜の全体像を組み上げる様に、断片的なものからの再構成や、部分的な真実、部分的な偽りを見抜く検証・分析などの、知的作業の積み重ねが、完璧ではなくとも、少なくとも従来より少しでも、真相に近づく実証的方法として、肝要となるのです。

 この意味と文脈(context)における「歴史捜査」を行う作業の一貫として、本稿ではこれより、以前本ブログの別シリーズでも取り上げた、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書の中から、「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)と「昭和海軍秘史」(昭和44年番町書房刊)の二部作を見てゆきたいと存じます。この両書は、それぞれ戦後に存命していた陸軍将官・将校と、海軍将官・将校から直接、昭和42 (1967) 年頃に、中村先生が対談・インタビューされた内容を纏めたものです。その元は当時、時事問題研究所発行の「時の課題」に連載された「昭和秘史」の陸軍篇と海軍篇が、それぞれ単行本として刊行されたものなのですが、各々冒頭に「満洲事変・日華事変・大東亜戦争(太平洋戦争)」(*陸軍編)と、「海軍軍縮から日米戦争へ―太平洋戦争と海軍―」(*海軍編)という、中村菊男先生による優れた概観も掲載されています。これらについては、次の弊ブログ記事をご参照下さい。

ご参考:

大東亜戦争と日本(72)歴史における「客観性」と「史観」の問題

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12678461863.html

大東亜戦争と日本(73)満洲事変から大東亜戦争開戦までの俯瞰図

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12678566168.html

大東亜戦争と日本(75)昭和海軍史概観~第一次上海事変まで

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12679390509.html

大東亜戦争と日本(76)昭和海軍史概観~五・一五事件から開戦に至る過程

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12679577991.html

大東亜戦争と日本(77)全面戦争か制限戦争かという戦争観の問題

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12680022398.html

大東亜戦争と日本(78)太平洋戦争の推移と海軍伝統戦略の破綻

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12680243193.html

 

   もとより上記の二書「昭和陸軍秘史」と「昭和海軍秘史」は、現在絶版の書とはいえ、この両書の本体部分である各対談内容を全てご紹介することはできませんが、天に在します中村先生にお許しを請うて、この対談の一部を以下にピックアップし、皆さんと一緒に読んでみたいと思います。

   但し、上述した通り、ここで各証言者が語っている内容が、全て真実であるとは限りません。レーニン流の共産党細胞組織ではありませんが、軍隊の組織は、担当者はそれぞれタテ系統で上官・上司と繋がっており、必ずしも隣接している部課であっても、詳しくその事情や内実までは知らされていないことが多いのです。また、仮に知っていたとしても、その証言当時にまだ存命の当事者がいれば、その方への配慮から、敢えて証言しなかったり、内容を多少改変して話したりする場合も、当然あり得るのです。

   それから、これは旧陸海軍に限らず、組織人として生きてこられた以上は、自己の所属していた組織の立場や観点から完全に離れて、純然客観的に捉えたり話ししたりはできません。ある程度は身内を庇う意識でも話すことになります。ですから、これらの内容を吟味する「歴史的捜査作業」が肝要なのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、今一度昭和初期の日本を眺め、歴史的捜査をするにあたり、わたくしたちはもとより、極端な左・右両翼の「マルクス史観」や「皇国史観」に基づくべきではありません。そこで、今回取り上げるインタビュアーたる中村菊男先生は、戦後「民主社会党」(現在の国民民主党の系統)を支持されており、その歴史的視点は、保守・革新に極端に偏らず、比較的中道の立場の「史観」で、戦前の昭和日本を概観・把握されていた方であることも重要です。加えて、先生は何より上述の通り、実際に多数の元陸海軍軍人と直接面談を重ねつつ、かつご自身も大正8 (1919) 年三重県に生まれ (お父上は初代鳥羽市長の中村幸吉氏)、昭和18 (1943) 年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業された年代として、まさに昭和初期の「同時代人の目撃者」でもあります。こうしたご経歴を踏まえて、皆さんも読んでみてください。

 昭和前期の歴史を俯瞰し概観するためには、こうした中村先生が捉えておられた様な、中道的視点による陸軍史概観を、謂わば「歴史捜査の基準点」とし、その上でわたくしたち各「歴史捜査官」の、自分自身の価値観、価値基盤に基づいた「独自の史観」で改めて眺め直すこと、が肝要であると思われます。常に全体像をイメージしつつ、個々の歴史事象を、自分自身の価値観に基づいて捉え直してゆくことが、とても大切なのです。

   今回まずは、前掲「昭和陸軍秘史**」のⅣ章「陸大にみる動乱の陸軍」より、堀毛一麿陸軍少将(陸士28期、陸大37期、陸軍砲兵少佐・大佐時代に陸軍大学校教官勤務)へのインタビューによる、陸軍大学校の教育に関する証言内容を、見てゆきましょう。陸軍省軍務局や参謀本部作戦部などの、陸軍中央中枢に勤務するエリート中堅幕僚は、ほとんど全員が陸軍大学校を優等で卒業した「恩賜の軍刀組」であったことを念頭に、少し長い引用ですが、ぜひ読んでみて下さい。(*裕鴻註記・カナ等表記補正)

・・・(*前略)〔秀才はヨーロッパ留学〕の項より*

   中村:それで専門の地域によりまして、なんかランクみたいなものがあったんですか。つまり、(*参謀本部の)支那(*中国)班には秀才型は向かない、豪傑型がよい、とかそういうような……。

 堀毛:ありましたね。それは、支那班はどうこうというわけではありませんが、五十人ぐらいの学生の場合、その一割すなわち約五人が優秀組で恩賜の軍刀組です。換言すれば、卒業のときの席次によります。それにつづいてあと五人くらいが、まあ準軍刀組の優秀クラスであるわけです。その優秀組が卒業して一年ぐらいして中央官衙(*陸軍省・参謀本部・教育総監部)に勤務し、その後、外国留学を命ぜられるわけです。これは文部省その他の海外留学生と同じように、留学生なんですよ。その時分は留学先はだいたい欧米が主だった。ですから十人ぐらいまでの優秀クラスは……われわれのとき(*堀毛少将の陸大クラス)はちょっと数が多かったものですから(*大正14年卒の陸大37期は72名)、十四、五人ですが、これはだいたい駐在員になったんです。だからわれわれのクラスでは、トップと次がドイツ、次がフランスに行きました。そのほかドイツが二人、フランスが二人、イギリスが二人、アメリカが二人、ロシアが二人……。なるほど全部欧米ですね。

 秀才組で支那(*中国)留学はありませんでした。情報勤務としての海外駐在ではないのですから、支那は学ぶものがないから仕方がないといえばそうですけれど、そんなところからお尋ねのように、なにかランクがあったのかという感じが持たれ、そこからそれを打破するためにも、秀才組を支那に留学させるべきだという声がだんだん高くなりました。

 だいたい成績のよかった連中がご褒美みたいに欧米かぶれ(*特にドイツ)になって帰る。われわれにいちばんだいじであるべき支那を留学先としてみないということはまちがってる、というような声が高まり、支那留学もそうとう陸大の成績のよかった連中が行くことになった。

 実際、後日おおいに活動した軍刀組の秀才の影佐禎昭さん(*陸軍中将。陸士26期優等卒、陸大35期優等卒、のち東京帝大政治科に学ぶ)が、自分から希望をして支那へ行ったわけです。その後も軍刀組の秀才がだんだん支那研究員ということで留学するようになり、そのなかから後日おおいに活動したものが出ました。しかし、どうもヨーロッパ行きの秀才とは肌合いが違い、互いに相手を蔑視し、偏見も手伝って、後年のいくつかの事件でその不和が露呈したようです。しかし、われわれのころから、ヨーロッパというのがだんだんくずれて、将来を考えてもっと身近な研究をやるというようなふうにはなってきましたけれども、ランクがあったといえば確かにありましたね。

 〔“天保銭”廃止をめぐって〕

 中村:陸大出身者、いわゆる天保銭組と、そうでなかった人(*陸軍士官学校での同期生など)の心理的な齟齬感というんですか、違和感というんですか、そういうものはどうだったんでしょうか。(*天保銭とは、陸大卒に授与された徽章のあだ名で、その胸につけるバッジが、外見上天保銭に似ていたことからついたと言われる。陸大に進学しなかった残る九割の一般将校からの、ややシニカルな命名の感度がある。)

 堀毛:ひどいもんだったですね。大学(*陸大)を卒業して天保銭をくっつけて(*原隊に)帰ってくる。そうすると、陸大に入るまでは(*陸士)同期生として、それこそ士官候補生として同じ釜のメシを食って、野営に行っていっしょに酒保(*売店・食堂の付属施設)のうどんを食ったりなんかした仲であって、きわめて親しくやっていた。それが一方が陸大を出て天保銭つけて肩で風を切って帰ってくると、まあそうでなくてさえも“あのやろう”という嫉視羨望するということは、これは人間としてまぬがれがたいし、そして卒業して帰ってきたものがきわめて謙虚に、どこまでも友だちは友だちという態度をとって接しておればいいんですが、やはりエリートぶる。また事実、陸大を卒業して帰ってくれば一年ぐらい隊付(*原隊での勤務)をしたら、全部ダーッと隊付をオサラバする、つまりお義理に中隊長を一年もやれば、陸軍省とか参謀本部とか、あるいは各学校の教官というようなポストへずっといっちまうわけです。一方、隊付将校は営々として兵隊さんを訓練することを、とにかく一生の仕事と考え、それに打ち込んでおるわけでしょう。同時に士官候補生になった一方が、そういうふうにして、たちまちあと足で砂をかけてパッとそれぞれのしかるべきところへ栄転し、さらにまた二、三年たつと、一方は参謀本部におる連中は参謀肩章をつって検閲なんかに随員としてやって来る。そして一段と高いところから隊付将校を見おろすというようなかたちになる。軍人の生命は、軍隊にあって兵隊を訓練していくさに出ることだ、だからいちばんたいせつな軍人の仕事は隊付であるんだと、口ではそう言いますけれども、現実には、いま言ったようなかたちになるんです。しかも進級がずっと違ってきますから、同期生でむかし、おれ、貴様でやっておったものが、そういう差がついてくると、感情的に不和となってくる。これはまぬがれないことでしたね。

 中村:のちに、いつでしたか、天保銭を取った(*陸大卒徽章を廃止した)ことがありましたね。

 堀毛:ええ、取ったんです。

 中村:あれはそういうことに対処するための措置ですか。

 堀毛:そういうことです。のちに私が陸大の教官時代に天保銭廃止論がでてきたわけです。というのは、やはりこれは「三月事件」、「五・一五事件」以来の、だんだん青年将校のレジスタンス、それがある程度進んできますと、幕僚将校(*陸大卒の天保銭組)不信になるでしょう。そうすると、幕僚将校なんというものは自分の栄達をこい願って、だいじな隊付き勤務に力を注がずに陸大に入ったり、そうしてそればかりか権門の走狗となって自分の出世を図ってるというような連中が多い。おれはそんな道を歩くのはいやだというようなことを言って、陸大受験拒否運動というようなものをやった青年将校も事実あったんです。 (*陸大は隊付勤務を二年以上した少尉・中尉時代に受験し、陸士同期卒業者の約一割しか進学できなかった。) 現に試験を受けに来て、仲間から、おまえは陸大に受験しない同盟に入っておったのに、途中から陸大にこっそり試験を受けた、けしからん、と言って大いにやっつけられて困っています、というようなことを言うものが事実いた。だんだんそういう問題は表面化してきたために、そんなものなら取ったらよかろうというようなことですね。

 あれ(*天保銭)の廃止には、大なる抵抗がなく実施できましたけれども、それに極力反対したのが現在(*昭和42年当時)極左運動の旗を振っているEという男なんですよ。かれは、いまあんなことをやってますけれども、エリート意識の強い見栄坊でしてね……。(笑) かれの論旨は、天保銭はいいじゃないかというんですよ。むしろあれを廃止しろとかなんとかこだわるのがまちがってる。あれは大いに勉強したしるしなんだ。それだけのこととして考えれば、もうなんにも問題にならんじゃないかというんです。かれの性格から見て天保銭好みなんですね。大いにわが説が正論だ、ということをさかんに言っていましたよ。(*共産主義者は意外に排他的エリート主義でもある。民主集中制の根源。)

 中村:陸大の教官になられたのは何年ですか。

 堀毛:私はソ連(*駐在)から帰ったのが一九三二年(昭和七年)でしょう。三三年が砲兵学校(*教官)で、それから(*陸大教官)ですから三四年(*昭和九年)ですね。それからずっと陸大にいました。

 中村:在学時代(*大正14年卒)と教官時代(*昭和9~12年)と陸大の雰囲気は、どういうふうに変わってきていましたですか。

 堀毛:われわれの学生時代は、まったくの伝統的な、明治時代からの陸大の空気をそのままで受けていたといえましょう。ただし大きな転機の時代にいたということはいえます。というのは、私が陸大に入ったときは、まさに陸大から長閥(*長州閥)締め出しのときであったわけですよ。(*明治の元勲、山縣有朋公が率いた長州出身者閥を「長閥」と言い、陸軍部内の中央要職を占める傾向にあった。)

 〔“長州閥”への反抗〕

 堀毛:先ほど申し上げたように、陸大を出なければいかに藩閥関係がどうあろうとも、要職にはつけない。藩閥を打破するのには“毒をもって毒を制す”というか、藩閥というものを学閥を利用して打破しよう、派閥はよくないにしてもどっちが弊害が少ないかというと学閥のほうが藩閥よりは弊害が少ないんじゃないか。藩閥は偶然に郷里が同じということだけから生まれて排他的だが、学閥は各人が勉強すればだれでも入れるんだ。そうして大学に入ってからそこで学閥ができたとしても、これは害といえば害だけれども、まあ公正なものなんだ、少なくとも排他的ではなく、それを利用して陸軍をわがもの顔にした長閥の卵(*山口県出身者)を陸大に入れないことにしておけば、何年かののちにはおのずから長閥が陸軍の中央からぜんぶ締め出される。陸大を締め出せば、いわゆる藩閥の後継者がいないんだから、藩閥はなくなるじゃないか。こういう考えがあったんじゃないかと思うんです。少なくとも私のクラス(*陸大37期)には長州出身者が一人もいませんでしたよ。私より一期前(*陸大36期)に私の陸士の同期生(*陸士28期)で、昔からいくつも恩賜をいただいた秀才の長州人がおり、これは陸大に入り、陸大でも軍刀もらいました。これくらいのもんで、その前後にはほとんどいないでしょう。しかもその秀才氏もその後不遇だったようですね。というようなわけで、もしわれわれの時代にひとつの特色があるのはなにかといえば長閥締め出しです。

 現に私の陸大受験に際し、その実例に当面しました。試験場に入るときに名札を差し出すわけなんですよ。それに府県族籍と書いた欄があって、こういう紙に自書して試験官に出すんですよ。ある試験場で、私がついうっかり忘れて、府県族籍を書かずに名前だけ書いてそこへ出しておったんです。そうしたら、試験官の言葉つきからいって私に風当りがバカに強いんですよ。なんだか悪意をもってやってくるような気がするもんですから、ついムカムカしちゃって、非常に反抗的な態度で答えておった。そうしたら、私に知合いの同情的な教官がいまして、ヒョッと気がついたんでしょうね。“堀毛中尉、そこに府県族籍を書くようになってるが、なぜきみは書かないんだ”と私に聞きましたよ。ほんとうに忘れたのですから、平気で、ああ忘れましたと言って改めて岡山県士族と書いたものです。そうしたら、いままで非常に風当りの強かった教官が「なんだ、きさま岡山か」と言うんですよ。(笑) だから「はあ岡山です」とのん気に答えたものです。うーんと言ったきり、いままでの風当りがきわめて柔らかくなってきちゃって、その反動でしょう、うんうんよしよしというような調子で、悪意あるとっちめがなくなりましたよ。それから、これはおかしいぞと思っていたんですが、入校してからその知人の教官にこの話をしたら、おれが助船出してやったんだ、君が長州出身で山口って書いたらいじめられると思って意識して書かなかったのだろう卑怯なヤツだ、とあの教官に思われたらしい。それでは可哀そうだから府県族籍を書けと言ったから誤解が解けてよかったろう、ということでした。ああそうですかと言ったものの、ハハア、そういうことがあったかなということをあとで気がついた。うわさを裏書きするように、さては意識して長閥がやられたんだなと思いました。

 だから私の二、三年後に、これも陸士の同期生ですが、東北のある県人のところに養子に行ってから試験受けたものがいました。元来は長州人なんです。それをうんとつっこまれたそうです。ちゃんとわかっているから、おまえはなぜ養子に行ったか(笑)と意地悪く聞く、おまえは陸大に入りたいばっかりに養子にいくというようなことでは精神劣等だ、とこう言われた。その男はほんとうは陸大に入るために養子になったのではないので、開き直って、そこまで邪推されるのは心外だと、そこで家庭の事情を説明したそうです。それでやっとパスしましたが、うわさどおりでひでえもんだな、おれはあんな侮辱を受けたことはない。とうとう試験場で涙を流した、と言っていました。それほど長州閥排斥は強かったものです。しかしそういう時代も四、五年ぐらいじゃないでしょうか。その後だんだん、こんどは私たちが教官になり、再審試験をやるときには山口県だからどうとかそういうことは、すくなくとも私は考えませんでした。これは私だけでなく、同僚の教官もそうでした。それ(*長州閥排斥)が非常に強かったのは、東條(*英機)さんあたりじゃないですか。東條さんのおとうさんが東條英教という、非常に陸大で優秀な人ですが、常に不遇で終わったでしょう。それが要するに藩閥の弊だったというので、あの人(*東條英機)は閥族打破ということに非常に強い感じをもっておられたらしくて、その後に陸軍省の動員課で私が課員のとき、課長の東條さんが何かの拍子に、とにかく閥族打破にはあれがいちばんいい方法だったよ、ということを言っていましたものね。

 〔“下剋上”の実相〕

 中村:青年将校が上級のものをバカにする空気といいますか、つまり戦術がだんだん新しくなってきて、兵器が発達して最高幹部が勉強不足だということに対してバカにするといいますか、そういう空気が出てきたというのはいつごろですか。(*中略) 学生と教官との関係じゃございませんで、教官を含めて新しい時代の息吹きを受けた人が老年の将軍たちに対して……。

 堀毛:それは、やはり「三月事件」、「十月事件」、「五・一五事件」、「二・二六事件」というような一連の政治的な動きに対処して、アジテーター型の幕僚将校(*橋本欣五郎中佐など桜会指導者)が青年将校(*隊付将校が基幹)から、口先ばかりで実行力がないといって軽蔑されるようになると、青年将校は幕僚将校を抜きにして自分の親分を求めてその人(*荒木貞夫・眞崎甚三郎将軍など)と直結する。そのうちに、こんどは中堅クラスの幕僚をバカにして自分たちの運動をやる、というひとつの動きが出てくる。そこに青年将校と、それから中堅将校、幕僚将校とのあいだにひとつの壁ができる。その壁をそのままにして、年々定期進級がありますから、時とともに(*階級が)上のほうに移っていく、やがて青年将校が次に(*陸大を出て)幕僚将校になる。その幕僚将校が同志相集まって結社みたいになる。もっとも初めは中央部の課長クラス、課長補佐(高級部員、課員)クラスが、横の連絡を持った(*二葉会・木曜会、一夕会)のでしたが、それが同志的結合となると、横に連絡して縦を圧する、いわゆる下剋上の状態を起こすわけです。ことに青年将校時代に幕僚将校をバカにしておったような連中が、いつの間にか自分が幕僚将校となってある程度の実権を握ると、上司を圧するようなことをする。それは明らかに越権行為だけれど、相次ぐ事件処理のまずさから、一つの越権を見のがせば、次々と発生する越権行為をどうすることもできない。

 幕僚として越権をやったものが、自分の上司の地位に昇っても、幕僚の越権を抑えることができない。陸大の教育にも大きな責任があるのは、良い高級指揮官は幕僚を生かして使うことだ。つまり芒洋としていて、うん、うんと下僚まかせにし、責任だけをとればいい、大山巌元帥の形だけまねるようなことにしたのは、なんといっても陸大教育のまちがいでした。

 幕僚道のまちがいを行なった典型は、有名な辻政信(*陸士36期首席、陸大43期恩賜、のち陸軍大佐、戦後国会議員)でしょう。かれは参謀長とか、もう一歩上の軍司令官すらその意のままにひきずり回した。のちには辻とタイアップした服部卓四郎(*陸士34期、陸大42期恩賜。開戦時参謀本部作戦課長、戦後防衛庁顧問)らのグループができ、事実上かれらが参謀本部を動かし、それが日本のある時代(*開戦期)を引きずったかたちになっていますね。今日(*昭和42年当時)からいえば、引きずられた上司がだらしなかったということになりますが、これは一朝一夕に生まれたものでなく、かれらの青年将校時代に芽ばえた動きが、全軍の空気をああした方向にもっていったものといえましょう。いまさらかれらだけを責めても始まらないわけでして、大正末期から昭和初期への時代の波をかぶったわけでしょうね。

 中村:たとえば石原莞爾(*陸士21期、陸大30期次席恩賜)さんのような場合も、なんか下剋上が現れておりますね。その石原さんは第一次大戦後にドイツに留学されて、いろいろ向こうのことを学んでこられて、これじゃいかんというような気持があった。そのことが、やはり上級将校をバカにするといいますか、そういう空気をつくったんじゃないですか。

 堀毛:それはそうでしょうね。まあ、石原莞爾氏もそうだし、石原さんより少しあとに橋欣といわれたあの橋本欣五郎(*陸士23期、陸大32期、のち大佐で予備役後応召し、英砲艦レディバード号砲撃事件の指揮官)という人は、私がソ連に駐在していた時分にトルコにおりましたよ。トルコ駐在武官でしたが、ケマル・アタチュルク(*陸軍出身のトルコ初代大統領)に心酔して、その事績を研究し、帰国後あのイデオロギーを説き、そして自分の周辺にその同志的なもの(*長勇少佐(当時)、のち沖縄戦で自決・中将、陸士28期、陸大40期)を集めて、国家革新(*三月事件・十月事件・満洲事変等)をもくろみました。

 その同期生の神田正種(*陸士23期、陸大31期、のち中将)とか根本博(*陸士23期、陸大34期、のち中将)とかいった人びとは、これに共鳴し、いずれも政治的に動き、あるいは陸大あたりの講義などを通じて、青年将校に強い影響を与えながら一方、参謀本部に席を持つ幕僚将校として具体的活動を続けました。この人たちは上司であった参謀本部の部長クラスの人たちを動かし、動かぬものをバカにしていました。こうした動きを見聞していたその当時の青年将校は、ああいうことが許されることだと思い、幕僚将校が人もなげに上級将校を批判しているけれども、かれら自身、批判するだけはするが大したことないじゃないか、と言って、こんど青年将校がそういう人を批判するかたちになった。なるほど石原莞爾さんのような人は独特の性格があって、その周囲に崇拝者を集めることはできたでしょう。だけれども橋本欣五郎さんあたりは、どっちかというと政治的意図のもとに結合する政党的な野心家で、石原莞爾さんとは生き方がまた違っております。要するに下剋上というのは時代の風潮に乗って、だんだん蒔かれた種がああいうふうに成長していって、もう抜き差しならないというような気持で(*堀毛中将は)ながめていました。全く意気地がないといえばいえますけど。・・・(**前掲書、133~142頁より)

 以上は、堀毛一麿陸軍少将の証言です。様々な参考となる内容が含まれていますが、その検分は次回とします。