前回に引き続き、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)に冒頭所収の「満洲事変・日華事変・大東亜戦争(太平洋戦争)」(*陸軍編)を読んでゆきたいと存じます。満洲事変による満洲国成立の続きです。

・・・この「満洲国」の成立過程において、たまたま上海において日華両軍の間に衝突事件が起こり、戦禍が「中支」(*中国中部)に波及した。第一次上海事変がこれである。この事変の発端は、「満洲国」の建国を容易にするため、列国の関心を上海に向ける方針で企てられた謀略に発するもので、そのときの火つけ役は、上海の(*陸軍)駐在武官補佐官の田中隆吉(*当時陸軍少佐)であった。

 上海に戦禍が及んだことは、日華の全面戦争を誘致するおそれがあった。というのは、上海は中国の排日抗日反帝国主義運動の有力な拠点であり、とくに、列国の利害関係が錯綜する重要地点でもあったからである。

 激烈な戦闘が現地で展開されたが、まもなく停戦協定の議がすすみ、(*昭和7(*1932)年)5月5日に調印をみるにいたった。この直前、4月29日の天長節に、白川義則軍司令官(*陸軍)、野村吉三郎第三艦隊司令長官(*海軍)、重光葵公使(*外務省)など軍官日本側首脳部が、一朝鮮人の投げた爆弾によって死傷するという事件が起こっている。(*白川司令官が入院後死亡、野村長官は隻眼に、重光公使は隻脚となった。)

 満洲事変の勃発に関して、中国側は同問題の処理を国際連盟に訴えた。そこで、国際連盟において評議が行なわれたが、昭和6(1931)年の暮になり、連盟理事会は調査団を極東に派遣することになり、紛糾する事態を解決しようとした。調査団はイギリスのリットン卿(Victor Alexander George Robert, 2nd Earl of Lytton)を団長として構成せられ、昭和7(1932)年春、東京に来て、ついで中国本土を経て渡満し、さらに日本に来て、再び中国に渡って調査を続けたが、この間、日華両国の首脳部と会見し、報告書を作成して、連盟に提出した。このリットン報告書は、一般には10月2日公開された。

 リットン報告書の内容は、今日の観点からみると、きわめて冷静な立場から満洲問題を解決しようと意図したものであったが、軍部によって推進されようとしている方針の線に添うものではなかった。それは「満洲国」の成立を否定する見解の上に立っていた。と同時に、日本の国民感情も、リットン報告書の考え方に耳を傾ける余裕はなく、昭和7(1932)年には血盟団事件や五・一五事件が起こり、過激な国家主義者の行動に刺激された国内体制は、一歩もひくことのできないところまできており、どのような妥協案の承認も不可能であるかのようにみえた。

 このリットン報告書の審議をする(*国際)連盟理事会は、スイスのジュネーブで11月21日から開かれることになったが、日本は全権として松岡洋右を送った。この連盟理事会において、日華両国の代表の間に激しい意見の応酬があった。しかし、連盟会議の空気は日本にとってよくならず、翌昭和8(1933)年の2月24日の最終会議(総会)において、日本の主張は42対1(棄権1)の差をもって敗れ、そのために3月27日、国際連盟を脱退するにいたった。

 極東における現実の事態に即応して、ひいては世界の世論に目をおおい、これを無視して日本は、国際連盟と訣別してわが道を行くことになった。

 さらに昭和9(1934)年の暮、日本はワシントン(*海軍軍縮)条約の期限満了をきっかけとして、これを廃棄することを関係国に通告し、いわゆる「無条約時代」が出現するにいたった。

 この間、国内政治の面では暗殺事件が頻発し、そのために政局もたびたび動揺した。満洲事変後の昭和7(1932)年、先述のように血盟団事件が起こり、つづいて五・一五事件によって政友会の犬養毅内閣が倒れ、斎藤實内閣に代わったが、これによって政党政治に終止符が打たれ、非常時内閣が続くことになった。それ以後、神兵隊事件、永田鉄山少将暗殺事件、二・二六事件などの暗殺およびその未遂事件が頻発し、国家の最高首脳部が現役軍人の銃弾によって倒れるという事態が起こった。

 満洲事変から日華事変にいたる特徴は、国内的には軍部の発言権が高まったことであり、国際的には日本の大陸政策の発展と、これは反発して起こってきた中国の民族主義的抵抗が激しくなったことであった。このころの中国本土における民族主義運動は、日本に対して抗日救国運動のかたちをとって集中的に現れてきた。

 このような事態に直面して、日本は「満洲国」の育成にあたるとともに、ソ連の軍事力の増強に備えなければならない事態にたちいたった。というのは、ソ連国境のソ連の軍事力が非常に強化され、日本側としてはその脅威を受けて、どうしてもこれに対処せざるをえなかったからである。同時に、日本は国際連盟からの脱退によって国際的孤立状態にあったので、ナチス・ドイツと結ぶことによって、孤立状態から脱け出ようとした。昭和11(1936)年11月の日独防共協定の締結がこれである。

 この協定は、表面上コミンテルン(国際共産党)の活動を日独共同で防止するかたちになっていたが、実際は日本がその大陸政策を遂行するうえにおいて、ソ連の勢力をナチス・ドイツによってけん(*牽)制しようとする意図と、ナチス・ドイツが対ヨーロッパ政策を実行しようとするうえの利害が一致したからにほかならない。この防共協定は、翌(*昭和12)年11月、イタリアを加えて日独伊三国防共協定となった。

 これよりさき、昭和10(1935)年から昭和11(1936)年の間に、中国の華北に対する日本の軍事的進出は多大の進展をみせ、梅津・何応欽協定および土肥原・秦徳純協定によって中国政府機関の華北後退が行なわれ、やがて冀東地区を支配する日本のかいらい(*傀儡)である殷汝耕を首班とする政権ができあがった。また、蒙古においては、関東軍の参謀将校の支援のもとに企てられた、いわゆる綏遠事件は傳作義麾下の中国軍隊によって反撃せられ、敗退することになったが、華北に対する日本の軍事的および政治的工作は積極化していった。このとき勃発したのが盧溝橋事件である。

 昭和12(1937)年7月7日の夜、北平(北京)郊外の盧溝橋で演習していた支那駐屯軍(天津軍)に対して発砲するものがあり、これがきっかけとなって日華両軍の間に衝突事件が起こった。

 当時の政府は第一次近衛文麿内閣であり、政府は事件不拡大の方針をたてたにもかかわらず、戦禍は華北一帯にのび、さらに、大山(*勇夫海軍)大尉らの射殺事件をきっかけとして再び上海に波及し、華北における局地的戦争が、日中(*日華)の対決という全面戦争にまで発展していった。

 盧溝橋事件は、柳条溝事件のような謀略によって起こったものではない。華北における日華の険悪な事態がまねいたものであるが、当事者が本気になって解決を図ろうとすれば、解決できえないような事件ではなかった。ところが、陸軍の一部において、中国の力を軽視する考え方があり、このさい中国をたたけば一気にまいるだろう、という甘い見通しの上に立つ者がいた。これが対華強硬論となって現われたが、「暴支膺懲」のスローガンは、このとき掲げられたものであった。

 政府部内においても、先述のように事変不拡大の方針がたてられたにもかかわらず、その方針を貫くことができず、現地における軍事行動は拡大し、華北の局地的戦争は全中国に及ぶ戦争にまで拡大していった。

 戦禍が華中に及んだとき、日本は国民政府との間に、ドイツ駐華大使トラウトマン(Osker P. Trautmann)を通じて和平交渉をすすめていたが、戦闘行為と和平交渉が同時に行なわれていたという事情と、日華双方の相手側に対する不信感が重なって、それは成功せず、翌年、政府は「爾後国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明を出し、国民政府を否認して、中国に新しい政権の樹立せられることを期待した。しかし、そのためには、まもなく態度を変えざるをえず、さきの第一次近衛声明を修正する同年11月3日の「国民政府と雖(*いえど)も拒否せざる」旨の第二次近衛声明を発したが、この声明に呼応して重慶を脱出してきた汪兆銘(汪精衛)をたてて、これを擁立すべく企画した。ところが、汪の勢威は蔣介石に及ぶべくもなく、しかも、日本は汪政権を中国の中央政権と認めながら、暗に国民政府(*蔣介石)と手を握ろうとする秘密裡の和平交渉を続けていた。

 それでは、日華事変の解決がなぜ長びいたかといえば、第一に、中国人の民族意識の高まりを過小評価したことである。すなわち、「抗日救国」をスローガンとする中国の反帝抗日運動は、日本軍の中国侵入(*万里の長城以南)によってますます燃え上がり、その抗戦意識を高めたのであった。日本軍は、いわゆる「点」と「線」を占領しただけで、大都市および鉄道沿線の治安を確保しえても、中国国民の信頼を得ず、中国国民の親日的傾向をまねきえなかった。

 第二に、英・米・仏・ソの諸国が国民政府の背後にあって、これを精神的にも物質的にも支援したことである。とくに、その精神的支援は大きかったといえる。

 第三に、日本の政治において国務事項と統帥事項との関連がうまくいかなかったことである。戦争政治の要諦は、政治が軍事を指導することであって、軍事が政治を指導することではない。ところが明治憲法のたてまえは、天皇が統治権を総攬というかたちで政治と軍事が統合されていたものの、先述のように、国務事項と統帥事項とでは輔弼(*輔翼)機関が違い、両者の連絡がうまくいかなかった。この国務と統帥の乖離という問題に、もっとも頭を悩ましていたのは、首相の近衛文麿であった。近衛は両者の乖離をいかにして克服するかを考えていたが、最初は新党を結成することによってそれを成し遂げようとした。新党といっても、政友会や民政党などの既成政党の統合したものではなく、新しい構想のもとに、労働者、農民を母体としたものを結成しようと意図していた。国民組織論ないし新体制論とよばれるものがこれである。

 一方、日独伊三国の結び付きを強化すべきであるという動きが起こってきたのは、第一次近衛内閣の末期からである。それが平沼騏一郎内閣に引き継がれた。平沼内閣は、この問題について、関係各大臣が会議をすること六十数回に及んだが、なお決定をみるにいたらなかった。この三国関係強化案に対して、これを強硬に主張したのは陸相の板垣征四郎であり、自重論をもってのぞんだのは外相の有田八郎や海相の米内光政であった。

 このときの、日独関係強化案の対象は主としてソ連であり、状況に応じて英仏をも対象とすることがあるという趣旨のものであったが、突如として昭和14(1939)年8月23日、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、防共協定は全くその効力を失う結果となった。

 なぜならば、日独の防共協定には、この協定の存続中相互の同意なくしてソ連との間にこの協定の精神と両立しないいっさいの政治的条約を結ぶことのないように、という秘密付属協定がついていたからである。独ソ不可侵条約の締結は明らかに、この条項に対する(*ナチス)ドイツの背信行為であった。この情勢に直面して平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」である旨の有名な声明を発表して退陣したが、そのあとを継いだ阿部信行内閣の時代にヨーロッパ戦争が勃発した。日本はヨーロッパ戦争に介入せず、もっぱら日華事変の解決のために邁進する態度を明らかにした。

 しかるに、阿部内閣は弱体で、国内問題の処理ができず退陣したが、代わって米内光政内閣が成立した。

 この内閣は、平沼内閣時代の米内(海相)、有田(外相)、石渡荘太郎(蔵相)などが内閣の主軸をなしている以上、日独伊三国関係強化については消極的であった。

 そのうちに、昭和15(1940)年春から、ドイツは北欧作戦を開始し、引き続いてオランダおよびベルギー、ルクセンブルグなどの中立を破って対仏軍事行動を始めたが、イタリアはドイツの側に立って参戦した。フランス軍を攻略したドイツ軍は、首都パリを手中にした。そして、イギリス軍をダンケルクに追い落とし、英本土上陸作戦を企てるかにみえた。ドイツの勢いはなかなか盛んであったため、日本の国内では、あすの日にもヨーロッパ新秩序ができるかのような空気がかもしだされてきた。そして、外交的転換をもとめる声*が、陸軍を中心にでてきたのであった。(*いわゆる「バスに乗り遅れるな」の声)

 ちょうどこのとき、大東塾を中心とする右翼一派が米内内閣の閣僚および重臣を暗殺しようと企て、それは未遂に終わったが、陸軍の強硬意見によって(*米内)内閣は崩壊せざるをえなかった。(*陸軍は畑俊六陸相を辞職させ、後任の陸相を送らず、米内内閣を倒閣した。)

 米内内閣のあとをうけて近衛文麿が再び内閣を組織したが、この前ごろから新党運動がまき起こり、政治新体制の樹立が叫ばれた。

 しかしながら近衛は、一国一党的な新党組織は幕府的存在になる、という非難をおそれて消極的になり、新政治力を結集するための準備と計画がなされたものの、結局、強力な政治勢力をつくりえず、大政翼賛会の結成となった。

 大政翼賛会は昭和15(1940)年10月、首相である近衛文麿が初代総裁になり、事務総長には有馬頼寧、中央協力会議長には末次信正(*予備役海軍大将、艦隊派)が就任し、膨大な機構と地方支部を整備した。

 ところが、大政翼賛会に対して、自由主義的な憲法学者や、同じく自由主義的な議員の間から違憲論が出て、内相・平沼騏一郎は、大政翼賛会をもって公事結社たることを言明し、その政治活動を禁止して以来、大政翼賛会そのものは無力な精神団体のようなものになってしまった。

 一方、第二次近衛内閣の外相として就任した松岡洋右は、(*日独伊)三国軍事同盟の締結にもっとも熱心であり、ドイツの絶対的優勢下にあった8月中旬、ヒトラーの特派公使として派遣されたシュターマー(H. Stahmer)の活躍と相まって、ついに昭和15(1940)年9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結されることになった。

 もともと、この三国軍事同盟の熱心な推進者は駐独大使館付(*陸軍)武官、のちの駐独大使・大島浩(在任は昭和13(1938)年10月から翌年10月までと、16(1941)年2月から21(1946)年2月引揚げまで)であり、これに同調して駐伊大使の白鳥敏夫(在任は昭和13(1938)年12月から14(1939)年9月まで)も熱心であった。陸軍ならびに松岡外相が三国軍事同盟に熱心であったのは、独伊と同盟することによって、日本の国際的地位を高め、それによって日華事変を解決し、そして、世界新秩序建設に対する日本の立場を有利にしようとしたものである。――ドイツはフランスを攻略し、やがてイギリスをも制圧するであろう。そうなると、もはやヨーロッパにおいては、独伊に対して敵対するものはなくなる。アメリカもこのような体制ができあがった場合、戦争手段に訴えることはあるまい。世界は日・独・米・ソの四大広域圏に分割せられ、ここに世界の新秩序ができあがる。日本はこの新秩序建設に積極的に参加しなければならない――という意見が、政府、陸軍、民間を通じて盛んに行なわれつつあった。

   心ある人びとは、この同盟の結果が、かえってアメリカを刺激して、対米関係を悪化させるのではないかということを恐れた。しかも、ドイツの力はたとえ強力であっても、その競争相手であるイギリスは大国であり、けっして容易にドイツの前には屈服しないだろう。それにソ連の立場も微妙である。しかも、軍事同盟を締結するとなれば、お互いに遠く離れていて、日本の日華事変解決や太平洋政策に、ドイツ・イタリア側の協力を得ることは困難であるから得策ではない、という意見であった。

 日米関係は日華事変以来、変化しつつあったが、三国軍事同盟の締結によっていっそう悪くなった。そこで、対米関係調整のために、駐米大使として海軍大将の野村吉三郎が派遣されることになった。

 一方、松岡外相は昭和16(1941)年3月、自ら独、伊、ソ三国を訪問し、独、伊において盛大な歓迎をうけ、さらに、モスクワで日ソ中立条約を締結した。ここにおいて、日本の北守・南進の体制が具体化したわけである。

 野村大使とアメリカ当局者との間に関係がもたれ、日米間に懸案解決のための交渉が行なわれたが、ついに妥協をみることなく、日本は昭和16(1941)年12月8日、対米・英・蘭の戦争に踏み切ったのであった。

 それでは、なぜ日本が対米戦争に踏み切らざるをえなかったかといえば、まず第一に、日米両国の対アジア政策に基本的な考え方の違いがあったからである。アメリカはジョン・ヘイ(John Hey)国務長官の声明以来、門戸開放・機会均等の政策をもって中国にのぞみ、特定国の中国市場独占を認めようとはしなかった。このアメリカの門戸開放・機会均等の政策が法律的に具体化されたのが、大正11(1922)年2月、ワシントン(*海軍軍縮)会議に際して締結せられた「中国に関する九カ国条約」である。

 ところが、日本は満洲において、日露戦争以来「特殊権益」をもち、満洲の問題に関しては特別の関心があった。そのために満洲事変も起こったようなしだいだが、アメリカはこれに対して終始一貫、反対の態度をとってきた。アメリカの立場は、軍事力による中国の現状変更は昭和3(1928)年の不戦条約違反であり、中国に関する九カ国条約違反である、というにあった。日本が中国大陸において軍事行動をとることは、アメリカの許容するところではなかった。これに対して、日本側もいちずにアメリカを敵と思い、これに対して柔軟な態度で応ずることをしなかった。そのために相互不信感がいやが上にも増したといえる。日米の関係を戦争にみちびいたものは、実に、この相互不信感であった。

 第二に、日本としては、ナチス・ドイツの力を過大評価し、独伊を中心とする世界新秩序の建設が、たやすくできると思い込んでいたことである。それは、いわば他力本願的な考え方があり、希望的観測が現実の施策の前に優先したことを意味する。ドイツがイギリスを早々に降し、さらにソ連に挑戦したとき、これに容易に勝つと判断したことである。この点に大きな見通しと判断の誤りがあった。ナチス・ドイツと結ぶことは、結局、日本も全体主義の国と同一歩調をとったことを意味し、民主主義国の「兵器廠」をもって任ずるアメリカの意向に反するものであった。ドイツの国力の過大評価は、逆にアメリカの国力の過小評価となって現われ、その戦力を正当に評価することができなかった。

 このようないきさつから、避けられうる摩擦をあたえて避けようとせず、戦争に突入してしまったといえる。

 第三に、日本は戦争遂行について戦略資源が乏しく、どうしてもそれを海外にあおがなければならなかった。そこで、自給自足圏の形成という考え方に関心がもたれていた。とくに、海軍の活動の源泉は石油である。日本海軍は対米戦争を予想して、約二年分の石油の貯蔵をしたが、南部仏印進駐をめぐってのアメリカの石油の禁輸措置にあい、そのままいけばじり貧の窮地に陥り、艦隊や航空機の活動ができなくなるおそれがあった。そこで、最後には「自存自衛」のために戦わざるをえないはめに陥ったわけである。

 このようにして、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)を開始せざるをえなかった(*後略)・・・(**前掲書14~24頁)

 このように中村菊男博士は、満洲事変から大東亜戦争に至る道程を俯瞰して概観しておられます。基本的な筋立てをどう捉えるかによって、歴史の描像もその叙述や分析・批判も当然異なってきますが、大筋においてわたくしがこの半世紀に亙って研究してきた内容にほぼ重なる見解なのです。(次回につづく)