前回に引き続き、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書「昭和海軍秘史**」(昭和44(1969)年番町書房刊)の中から、同書冒頭の概説「海軍軍縮から日米戦争へ―太平洋戦争と海軍―」(*海軍編)の末尾部分をまず読みたいと存じます。(*裕鴻註記)

・・・なにゆえに日米相戦わざるをえなかったかについては本書の姉妹編たる『昭和陸軍秘史』(*昭和43年番町書房刊、本シリーズ第(73)回ご参照)において述べたので、これを前著にゆずり、ここでは、なぜ日本が対米戦争に負けざるをえなかったのかについてふれてみたい。

 その第一にあげられるのは、彼我両国(*日米)の生産力の相違である。近代戦争はいうまでもなく、「国家総力戦」である。政治、経済、文化、思想など国家の総力をあげて戦い、その総合戦力を発揮した方が勝利を得ることになっている。とくに、日米戦争は海軍の戦争であり、海軍の戦争は科学、技術の力に負うところが非常に大きい。日本は、当初の目標たる南方資源を戦力化することに成功しなかったわけであるが、それは、アメリカの潜水艦が大きな役割を演じ、とくにレーダーを使用して、それがわが方の猛訓練(*熟練見張員・測的員の目視・目測など)を克服することになった。つまり、両国の経済力に大きな差があり、科学、技術の水準において、アメリカが日本よりまさっていたということである。アメリカの航空機生産力は、日本よりはるかにすぐれ、補充が容易であり、しかも人員の補充(*短期大量教育・養成)がたやすく行なわれたことによる。たしかに日本海軍は、非常に練度のいい飛行士(*搭乗員・整備員)を持っていたが、しかしアメリカは、量的にすぐれたものを持っていた。いかに質的にすぐれたものを持っていたとしても、長期消耗戦には耐えられない。要するに、アメリカの方が長期消耗戦に耐えうるだけの戦力(*要員補充・物資補給能力を含め)を持っていたことが、アメリカが勝利を占めた根本原因である。

 第二に、政戦両略の一致というか、戦争指導の根本は、政治が軍事を統制すること(*シビリアン・コントロールによる全体最適の判断)である。ところが、戦争遂行過程において、陸海軍の対立があり、しかも日本は、アジアの各域にわたって多方面に作戦を行なわねばならず、その多方面の作戦が、結局、戦争の終結をいかにもたらすかということについての(*全体的・綜合的)配慮を失わしめたものといえよう。海軍(*軍令部作戦課)は調子づいてひと頃は濠洲作戦を企てようとしたり、とにかく攻勢の終末点に対する判断をあやまり、戦線をみだりに拡大したことが、敗れる原因であったといえよう。

 第三に、南方資源を戦力化することが、船舶の撃沈によって困難になったことである。資源作戦は、はじめ予定した計画とは、だいぶ違った様相のあらわれるものである。とくに、南方地域と日本とを結ぶものは船舶であるが、アメリカ潜水艦の攻撃によってその消耗率が激しく、南方資源は予定どおり戦力化しなかった。

 第四に、先にドイツ、イタリアと軍事同盟(*日独伊三国同盟)を結んだが、先方(*独伊)の力は、かならずしも軍事的に日本を支援することはなかった。精神的な支持が得られただけで、彼我両国の戦力が結合して、それが大きな力を発揮するところまでいかなかった。

 第五に、広島、長崎に原子爆弾が投下され、それが非常に威力あるものであるということがわかった。もちろん、そのまえにサイパン島が陥落し、南方からするB 29 (*米大型長距離爆撃機)の本土爆撃は猛烈をきわめ、軍需工場が破壊され、銃後(*一般国民)の人命の殺傷があり、さらに焼夷弾によるアメリカ機の都市攻撃は、大半の都市をして焦土と化さしめ、日本国民の間に厭戦的な気分がでてきたことはたしかであった。

 しかしながら、本土決戦を呼号する軍の統制下に、国民は耐え忍んでいたといえるが、それも限界にきて、最後にソ連の参戦、および広島、長崎に対する原爆の投下によってとどめをさされることになった。

 この満洲事変前後から、太平洋戦争敗戦にいたる間の歴史を振り返ってみて日本の側で反省しなければならないことは、精神主義的なものが、合理主義的な考え方よりも優先をしたということである。

 海軍はもともとイギリスにその模範を求め、合理主義的な考え方が一貫して流れていたわけであるが、しかし同じ海軍部内に精神主義的な傾向が、出てきたことは否定できず、その精神主義的傾向が、政治介入となってあらわれた。それは「帝国海軍」の伝統を破壊する、大きな因子になった。

 たしかに、ロンドン(*海軍)軍縮条約という外交問題が、内政にはね返って、国内の統帥権干犯問題、そして濱口(*雄幸)首相暗殺、血盟団および五・一五事件となってあらわれてきた。もし、あのときに海軍の最高首脳部(*特に軍令部)が、事態を合理的に、冷静に処理する心がまえがあったならば、少なくとも外交問題が国内に持ち込まれて、国内の政争の具になるというようなことはなかったはずである。

 たしかに海軍としては、対米戦争をやった場合に、それが困難な戦争になることは、あらかじめ予想していたところである。心ある人びとは、アメリカの軍事情勢およびその国力をよく知っており、対米戦争の結果がいかなるものになるかがわかっていたが、しかし、それを決然といい切り、絶対不戦の立場をとる勇気をもたなかった。

 対米開戦に際して、海軍首脳部は、内乱を非常におそれていたと思う。最高首脳部は昭和16 (*1941) 年の秋の状況下において、もし戦争をやらなかったとしたならば、おそらく好戦分子は、クーデターでも行なって、さらに将来対米戦争をくわだてるに違いない。そのときは、もはや(*昭和)16年の時点よりももっと(*日本側にとって)不利な条件で戦わざるをえなくなるであろう。不利な条件で戦うよりは、もっとも有利な条件のときに戦うべきであるという、非常にせっぱ詰まった気持ちがあったことはたしかである。

 つまり海軍としては、いままで「無敵帝国海軍」を誇りにし、対米戦争が戦えないということは、面子にかけてもいえないことであった。そして、彼我戦力の差が、時々刻々に不利になってくるという状況に直面をして、「自存自衛」のために戦わざるをえなかったというのが真相である。・・・(**前掲書20~23頁)

 このように中村菊男博士は概括されています。因みに、海軍軍縮条約が無効となって、米海軍は膨大な建艦計画を実行に移します。即ち具体的には、米国の第三次ヴィンソン案と両洋艦隊法による海軍拡張(70%増強)の結果は、以下の通りの比率となる見込みでした。これは連合艦隊の開戦時保有規模にほぼ匹敵する米新造艦隊の増加です。

 日本艦隊の対米比率 (米は日本の何倍か);

   1941(昭和16)年末 対米75% (1.33倍)

   1942(昭和17)年末 対米65% (1.54倍)

   1943(昭和18)年    対米50% (2.00倍)

   1944(昭和19)年    対米30% (3.33倍)

 また、航空機数では1942年から1944年の間で、アメリカは日本の5倍前後となり、海軍機のみをとれば10倍となると見られていました。(当時日米の GNP 格差は約12倍、総合国力格差は20倍) これだけの生産力格差があったのです。従って、昭和17年末以降はまず勝ち目はなかったということです。

 それから、上述でも出てくる「クーデターと内乱」については、本シリーズの第(70)回でも見たとおり、「二・二六事件の亡霊」とも「置き土産」とも言うべき「陸軍によるクーデター・暗殺テロの恐怖」が、陸軍以外の政府(*内閣・各省庁)、政党(政治家)、宮廷、海軍、民間などに強く作用していた状況は、間違いなく存在していました。**前掲「昭和海軍秘史」の中に、富岡定俊海軍少将(海兵45期、海大27期首席卒業、開戦時軍令部作戦課長、終戦時同作戦部長)の中村菊男博士によるインタビューが掲載されていますが、その中に次のような発言と対談内容があります。

・・・(*富岡少将) 私は歴史を調べているので、開戦のときの軍令部総長である永野修身大将(*海兵28期、海大甲種8期)のところ(*A級戦犯として巣鴨収監中、のち獄中で肺炎を起こし病没)へいってきました。「あなたはなぜ開戦に同意されましたか、歴史にのこすことだから率直におきかせください」永野総長(*昭和16年4月就任)の返事はこうでした。

 (*開戦)一年前(*昭和15年)の、三国同盟(*締結前)ぐらいのときに舵を取る(*方針を和平に変更する)なら別だが、ここまできて、満洲から手を引けというアメリカ(*ハル・ノート)の条件を入れるとしたら、クーデターが起こるだろう、クーデターを起こすのはだいたい陸軍だろう、そうなると陸海軍が相討つことになる。海軍は二つ(*避戦派と主戦派)に別れるかもしれないが、とにかくまた(*日米)戦争になる。この戦争は支離滅裂なものだ。どうしても戦争をさけられないとすれば、大義名分にそった戦争を正々とやって収拾を考えた方がよい、と自分(*永野)は考えたのだ、といわれました。私(*富岡)も、まったく同感でした。

 (*中村博士) 私も当時学生(*慶應義塾大学)でしたが、そういうように感じました。これで戦争が起こらなかった内乱がおきるということが、冷静にみている若い者に感じられました。戦争はやってもらいたくないということと同時に、内乱の可能性ということを。

 (*富岡少将) 内乱をもって終わるのなら別ですが、内乱をもってまた戦争がはじまるというのは、一番悪いかたちだ、と永野総長のいわれたことは、まったくの同意でした。

 (*ここからは、「戦争観」の問題になります。)

 (*富岡少将) そこでつぎの問題になるのです。いったい太平洋戦争の意義はなんであったか、ということです。戦争はトータル・ウォー(*Total War:全面戦争、無限戦争)とリミテッド・ウォー(*Limited War:限定戦争、有限戦争)の二つの面で見ることができるのですが、われわれの見方からすると、トータルというのは完全占領、完全降伏の場合です。リミテッドの方は、ある条件をもって講和する、終戦となる場合です。記録を調べてみると、日本に不利な条件になるかもしれないが、ある条件で講和するという思想がありました。私は明らかにリミテッド(*限定戦争)の思想でした。第一次世界大戦でも、ドイツは敗けたが、一定の条件をもっていた。(*中略) そこで第二次世界大戦は、全面戦争でいくのかどうか、ということに私(*富岡作戦課長)はおろかにも気がつかなかったのです。私はすべてが条件でいくと思っていた。軍事専門家であるにもかかわらず、この点に気がつかなかったことはまったく申しわけないことだと思っております。しかし、こんなことを論じた文書は、私は一つも見ておりません。ただ開戦のときの最高会議(*陸・海軍統帥部を含む)で、(*終戦)処理問題がきめられていたのですが、そのなかに、英米に対しては早きにおいて手を打つ、とありました。早く終戦するということです。私どもの南方をとった思想はバーゲン(*取引)だと思っていました、取引だからこれは条件になります。そして、アメリカと手を打つ考えでした。

 これはまことに残念ですが、トータル(*全面戦争)の研究が足りなかったわけです。最近ですが、トーランド(*John W. Toland)という戦史の研究家がいうのに、ルーズベルト(*大統領)はトータル・ウォーの覚悟だった、というのです。第一次世界大戦で、ドイツに手ぬるい態度でのぞんだので、ナチを生む結果になったが、あれはアメリカは失敗だと見ている。こんどはトータル・ウォー(*全面戦争、無制限戦争)を決意して、日本に当たっている、というわけです。ルーズベルトの決意をわれわれは知らなかったのです。われわれの誤まりです。(*中略) 研究にはよく出てきますが、アメリカ(*米本土)を攻める手はない、と前提にあげているのですから、すくなくとも私はリミテッド・ウォー(*限定戦争)の思想でした。そこまでつきつめれば、なんとしても戦争に反対したかもしれません。海軍はもともと自存自衛の思想(*つまり侵略戦争の意図はない)ですが、これは根本にリミテッド・ウォーの思想がないと浮かび出てきません。(*中略) (*太平洋)戦争のときは永野総長が頂点ですが、そこからは別に大戦略構想は出てきてはいません。われわれの方(*中堅の事務局)から持っていって、印を押してもらってくる、たまには質問されるといったわけです。当事者としては、こうやれといわれたかったものです。

 相手(*米・英など連合国側)はいろいろ毛色が変わっているのに、われわれは江田島から、全部がまったく同じ一つの線で教育されてきているわけで、純一無雑なんですが、こういうのは実際困るわけです。強いといえません。違う思想の人を相手にするのですから。一般に年をとっていては困るわけです。海軍は、一口にいうと秀才の集団です。だからドングリの背くらべになる。戦争になって、時局を背負っていくという人は、私を含めてなかったのではないか、と思います。制度の問題なんでしょうね。(*後略) ・・・(**前掲書93~96頁より抜粋)

 このように富岡定俊提督は語っているのです。ほぼ同様の内容を富岡海軍少将は戦後の自著「開戦と終戦 人と機構と計画***」(昭和43年毎日新聞社刊)で次のように記述しています。やや重複しますが読んでみましょう。

・・・太平洋戦の認識(有限戦争と無限戦争)

 私(*富岡少将)は、太平洋戦争の開戦(*当時作戦課長)と終戦(*当時作戦部長)の様相を海軍部内にあってつぶさに見てきたし、また戦後も史料調査会に拠り、戦争の真相究明につとめてきたが、いま一番痛感しているのは太平洋戦争を顧みて、日本軍には「作戦研究」はあったが「戦争研究」はなかったということである。(*海軍部内で)私たちは「軍人は政治に干与すべからず」というシツケを、いやというほどたたきこまれてきたが「これはしまった」と今でも痛感する次第である。なぜ「しまった」かというと、陸軍はさほどではないが、海軍はことさら「サイレント・ネービー」に徹することを心掛けて、政治に対し、すっかり臆病になってしまったからである。これについては幾多の反省も出ているので、その代表的な例をあげてみることにしよう。

   陸軍は海軍と違って地方の連隊で中、小隊長をつとめれば農村出身の徴兵壮丁(*壮年の男子)と接する機会が多いし、彼らと起居を共にした場合、凶作で妹が身売りしたなどという話を聞いたならば、それは直接政治への不信と怒りとなって、いや応なしに政治的になってゆくことは必至である。(*中略) 五・一五事件では、海軍の青年将校が主導権を握っていたようだが、いまから想えば、ずいぶん未熟な政治観しか持合わせていなかったようだ。だが、年をとってから、つらつら海軍生活をふりかえってみて、軍人はもっと政治を理解しなければいけないなと痛感しているのである。(*中略)

 戦争研究といえば、当時「総力戦研究所」(*昭和15年10月開所)もできていたが「総力戦」に対する認識がおそすぎたと思う。いわばドロナワで底の浅いものだった。クラウゼビッツも言っているように、戦略といっても、結局は政治からのがれることはできず、戦略と政略とはオーバー・ラップ(重なり合い)していることは、当時政、戦両略の一致という言葉がしばしば使われたことをみても政治が大事であることはわかっていたのだが、認識が足りなかったのである。

 開戦前から、私(*富岡作戦課長)は、この戦争を有限戦争(リミテッド・ウォア)と見ていた。これは、私の非常な誤りであった。

 いったい、戦争には、有限戦争と無限戦争の二つの見方がある。最後まで推し詰められ、殲滅されるとか、無条件降伏するとかいうところまでいくのは、無限戦争である。そこまでいかなくて講和出来るもの――それには、対等の講和もあり、勝った方が有利な条件をとる講和もあるが、いずれにせよ、これが有限戦争である。

 昔の戦争は――なかには殲滅戦争もあるにはあったが、第一次大戦もふくめて、みな有限戦争だったといっていい。私は、この太平洋戦争のような近代戦も、有限戦争であると考えていた。

 そういうわけで、この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再び起ちうる余力を残したところで講和する、というのが、私たちのはじめからの考えであった。だが、そうはいっても、講和の希望にたいする裏付けが、とくにあったわけではない。しかし、当時は、欧州でも大戦が進行しており、最高指導者の間ではドイツも非常に勝っていることだし、バランスということもあるので、講和のキッカケはその間に出るだろう、と考えられていた。

 神州不滅などという(*精神主義的)要素は、もちろんとり入れられるはずのものではなかったが、よくいわれるような、めちゃくちゃな戦争を、ただ無暗やたらに仕掛けていこうとしたわけではない。それならば、なぜ開戦したのか。開戦の詔勅に、自存自衛のため、大東亜共栄圏確立、言いかえると(*欧米の)植民地解放のため、といわれているが、これが最も的確に表現してあると思う。

 また、あのとき、戦争に訴えないで、アメリカのいうとおり、満洲からも中国からも撤兵してしまったとすれば、一応、名目は立ったかもしれないが、満支の実権は、どうしても彼らに握られてしまう。そのうえ、油も止められていた(*石油禁輸)ので、それに屈すれば、日本の自立は、他国にコントロールされるといわれた。

 それでも、もし無限戦争であればやむを得ない。戦争せずに、屈した方がいい。しかし、有限戦争だとすれば、こちらも辛いが、ある点では妥協できるはずである。こういう考え方が正しかったかどうかは、一つの問題であるが、それは措くとして、当時は、戦わずして屈することはできなかった。まったく、やむを得なかった。

 もう一つ、戦争に向かわせた要素は、日本の内部革命の懸念であった。これは、永野(*修身)元帥あたりも非常に心配していたが、当時は、軍部内の戦争推進勢力が、慎重論に対して革命を起こす形勢にあった。軍部革命である。軍部同士も、国民の一部も、互いに相討って、その結果は、いずれにせよ戦争に訴えなければならなくなる情勢だった。もし、彼らが先に立って戦争にはいると、いっそう重大な損害が出る。これは結束して敵に当たり、早く講和に持ちこむべきだ、と考えられた。(*後略) ・・・(***富岡著前掲書、53~57頁より適宜抜粋)

 このように富岡提督は述懐しています。このクーデターや暗殺テロ説は、以前本シリーズ第(70)回で取り上げた通り、大谷敬二郎憲兵大佐は二・二六事件以後はその可能性を否定していますが、本シリーズ第(76)回で取り上げた内田成志海軍大佐(*52、海大34、開戦当時中佐)による戦後記事「海軍作戦計画の全貌」(当初「人物往来」昭和31年2月号所収、のちに「日米開戦と山本五十六****」新人物往来社2011年刊に再録)に次のような記述があります。

・・・尚従来しばしば軍令部の第一課(*作戦課)と参謀本部第二課(*作戦課)との間には芝の水交社(*海軍士官クラブ組織)の一室で、作戦思想の調節等を目的とする懇談会が行われて居たが、(*昭和16年)8月29日陸軍の対南方戦備促進に関する説明が行われた。その際には、陸軍の一参謀(特に名を秘す)は第三次近衛内閣の和戦何れともつかざる煮え切らない態度に憤慨し、自分は上海から持ち帰った手榴弾等の持合わせがあるが、いっそ近衛首相を暗殺してしまおう等の過激な言辞をすら吐いた人があった位であった。・・・(****前掲書281頁)

 本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」第(25)回をご参照戴きたいのですが、この人物は恐らく当時参謀本部作戦課戦力班長であった辻政信陸軍中佐(陸士36期首席、陸大43期恩賜)であったと思われます。

( https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12394157940.html?frm=theme )

 陸軍中央の中枢である参謀本部第二課(*作戦課)の参謀が、こうして近衛首相暗殺テロに言及していた事実からすれば、海軍をはじめ政府内閣その他の要人たちが「陸軍によるクーデターや暗殺テロ」を真剣に憂慮していたとしても、あながち杞憂とは言い切れません。

 ちなみに、世上には東條英機首相兼陸相が、海軍の「真珠湾作戦」を知らされていなかったなどとする妄説がありますが、少なくとも陸軍の参謀本部作戦課は、昭和16年8月下旬には海軍の軍令部作戦課から通告は受けています。もしこれを東條英機首相兼陸相に報告していなかったとすれば、それは海軍の責任ではなく、陸軍部内の報告と指揮・統制上の問題に他なりません。(*開戦当時の参謀本部作戦課参謀、高山信武陸軍少佐(*陸軍大佐、戦後陸将)の戦後著書「参謀本部作戦課」昭和53年芙蓉書房刊の106頁に「海軍 対米重点、八月下旬にはハワイ空襲を考え、陸軍に通告し来る。」という記述があります。) 

 閑話休題、以上のように「陸軍クーデター・内乱の恐れ」と、「総力戦の理解不足や限定戦争の戦争観」が、ある程度、開戦判断に影響を及ぼしたことは無視しえず、こうした「大観」のなかで、大東亜戦争の起因を考究してゆくことは常に大切なことなのです。(次回につづく)