まずは前回取り上げた「名参謀、作戦の神様」と持て囃された開戦当時の辻政信陸軍中佐について、本シリーズで検分を重ねて来た「モンスター田中」こと田中隆吉陸軍少将の著書「裁かれる歴史-敗戦秘話-」長崎出版刊(昭和60年再版、元版は昭和23年10月5日発行の新風社刊)より「近衛総理と辻大佐」という同書第12節を読んで見ましょう。(*筆者註記、尚下記原文中の東条氏は東條*氏と表記)

・・・キーナン氏(* 東京裁判の米国首席検事)は、近衛(*文麿)氏を評して「聡明なる馬鹿者だ」と言った。聡明とは(*近衛)氏の抱く意見は常に妥当であるとの意味であり、馬鹿とはその妥当なる意見を実行に移す力が毫もなかったことを諷したものである。

 近衛氏は日華事変を成るべく速かに解決せんと考えて居たことは事実である。氏は事変の勃発を日華の間の此上もなき不幸であると信じていた。氏の此見解は正しい、故に氏は氏と協力せざる杉山(*元)陸相(*陸軍大臣)を板垣(*征四郎)陸相に置き換え外相に宇垣(*一成、予備役陸軍大将)を迎えて事変の解決を図らんとした。然るに英米を仲介とする事変の解決を喜ばざる陸軍の一喝によって宇垣氏先づ退き、板垣氏が独逸を仲介とする事変解決を目的として(*日独伊)三国同盟の締結を主張するに及んで(*近衛)氏はもろくもこの内閣(*第一次近衛内閣、昭和12年6月4日~昭和14年1月5日)を投げ出した。第二次近衛内閣(*昭和15年7月22日~昭和16年7月18日)も亦(*近衛)氏は日華事変の解決を目的として組織したものである。故に(*近衛)氏は国内の与論統一と軍部の政治干与を封ずることを目的として大政翼賛会を創設した。(*近衛)氏の外相松岡洋右氏と東條*氏(*東條英機陸軍大臣)との馴れあいに依って成立した(*日独伊)三国同盟も、(*近衛)氏としては、独逸を利用して日華事変の解決を図らんとしたものであることは(*近衛)氏の口より直接私(*田中隆吉将軍)の耳に聴いたことであるから事実であると思わねばならぬ。然るに三国同盟成立直後、リッペントロップ氏(*ナチスドイツ外相)が(*中華民国)駐独公使陳介氏を介し、蔣介石氏(*中華民国政府主席)をして撤兵を条件として日華の和平を決意せしめたとき、和平実現の絶好の機会であったにも拘らず、東條*陸相の横車に依って実現しなかった。東條*氏の言い分は「かくては靖国神社の英霊に済まぬ」と言うのである。茲に於て(*近衛)氏の事変解決の企ては又も挫折した。

 (*近衛)氏は人の言うことを聴くことは極めて上手であるが、人を見る明がない。(*近衛)氏が松岡(*洋右)氏を外相として選んだことは畢生の失敗であった。何となれば松岡氏は機会主義者で人気取り政治家であり又総理大臣たらんとする熱烈な野望を抱いて居たからである。松岡氏は此リッペントロップ氏の申出でには最初日華和平のため又と無き好機会であるとして、中国側と接衝のため出発準備すら整えて居た。然るに東條*陸相と阿部信行(*予備役陸軍大将、当時中華民国特派)大使の反対に会うや、内閣の運命に関するとて倉皇としてリ(*ッベントロップ)氏の申出を断った。松岡氏(*外務大臣)のこの態度は終に三国同盟を利用する日華事変の解決方策に終止符を打った。

 近衛氏は米英とは絶対に戦争を行わずとの堅き信念を抱いていた。この信念は確かに正しい。東條*一派の盲蛇に驚かざる(*ママ)無謀の開戦論に比ぶれば、日本の国力の限度を知り、国際情勢の見通しも正しく、誠に卓見であると言わねばならぬ。

 然し(*近衛)氏が内閣の首班として行った施策は概ね氏の信念の実現に反する方向のみを辿った。氏が「聡明なる馬鹿」と言われる所以は茲にある。

 昭和十六(*1941)年六月下旬、独逸が(*日独伊)三国同盟の附属取り極めに違反して、ソ連に対し進撃を開始したときはまさしく三国同盟を破棄すべき好機であった。蓋し三国同盟は日華事変の解決には既に何等効果なき死文となっていたからである。(*近衛)氏のブレーンの一人である鈴木(*貞一予備役陸軍中将)企画院総裁は熱心にこのことを主張した。然るに(*近衛)氏は松岡(*外相)、東條*(*陸相)両氏の意向を恐れて、敢てこの挙に出ようとしなかった。而も七月一日の御前会議では、陸海軍の主張に屈服して、英米と一戦を交うるも辞せずとの前提の下に南部仏印の進駐を決定した。この進駐は、日本と英米との関係を、戦争一歩前の経済断交に導いた。この経済断交は、一歩措置を誤れば、日本対英米の関係を破局に導く可能性と危険が十二分にある。

 聡明なる近衛氏は愕然とした。茲に於て、野村(*吉三郎予備役海軍大将、当時駐米)大使を介して太平洋上に於けるルーズベルト大統領との直接会見を申し込むと共に一旦辞職を行い松岡氏(*外相)を斥けて第三次近衛内閣(*昭和16年7月18日~昭和16年10月18日)を組織し、日米間の妥協を策した。このときのこの近衛氏の措置はまことに上乗であると言わねばならぬ。然るにこの措置を取りつつ一方(*近衛)氏は大なる過失を犯した。それは九月六日の御前会議で十月下旬迄に日米妥協を見ざれば戦争に突入するとの決定を行った。此会議の席上天皇は、明治天皇の「四方の海みなはらからと思ふ世に、など波風の立ち騒ぐらん」との御製を示されてまで戦争に反対せられたにも拘らず、東條*陸相の横車はこの悲しむべき結果をもたらした。近衛氏は敢てこの決定を重大視しなかった。何となれば、(*近衛)氏はル(*ーズベルト)大統領との会見に日米妥結成立の希望を抱いていたからである。

 此頃陸軍の所謂青年将校の中心人物として最も熱烈に日米開戦を煽った人は、参謀本部の南方作戦班長大佐(*当時は陸軍中佐、正確には戦力班長で南方作戦を研究していた)辻政信氏であった。(*辻政信)氏は、(*昭和16年)八月下旬総力戦研究所に於ける机上演習に自ら強制的に(*本来メンバーではないの意)出席して、太平洋戦争の必然性を力説して、日米間の妥協を図らんとする近衛氏を以て日本一の卑怯者であると罵倒した。陸軍士官学校に於ても同様の講演を行って生徒を煽動した。又多くの同志を動員し、中央三官衙 (参謀本部、陸軍省、教育総監部)の佐尉官級の青年将校を獲得し全軍(*全陸軍)に亘り熾んに開戦を鼓吹した。

 (*昭和16年)九月の初旬、近衛氏のル(*ーズベルト)大統領との会見の計画を察知した辻大佐は、妥協の成立を恐れ、之を阻止せんがために、実に戦慄すべき計画を立てた。その計画は約一屯の爆薬を右翼の闘士児玉誉士夫氏に渡して、若し近衛氏が東京を出発するならば、その列車を六郷川の鉄橋上に於て破砕して近衛氏及び其一行を鉄橋と共に爆殺せんとするものであった。その方法は昭和三年五月三日払暁の奉天西方満鉄の京奉戦のクロスに於て行われた、河本(*大作、陸軍)大佐の張作霖氏爆殺の故智に做**ったものである。(**做做:ササで真似をするの意味がある)

 近衛氏のル(*ーズベルト)大統領との会見の計画は、会見に先(*立)ち、予め(*これより後の)十一月二十八日に交付せられたハル・ノートに明かなる三原則(*実は四原則だが具体的内容は、中国からの撤兵、日独伊三国同盟の実質的解消、仏印からの撤兵、蔣介石政権の承認と汪兆銘政権の否認など)を決定する必要ありとのアメリカ側の提案を陸海軍(*主に陸軍)が拒否せるため終にその実現を見なかった。従って辻大佐(*政信、当時は陸軍中佐)の戦慄すべきこのテロ計画も幸いにして未遂に終った。かくして、(*昭和16年)十月中旬東條*氏(*陸相)は強く中国からの撤兵に反対し、近衛氏は遂にその志を遂ぐることなく退陣し、運命の悲劇太平洋戦争は東條*氏(*東條内閣、昭和16年10月18日~昭和19年7月22日)の手に依ってその幕を切って落とされた。私(*田中隆吉将軍)をして言わしむれば若し近衛氏にして断乎たる決意あらば、戦争阻止のため打つべき手は幾多残されてあった。天皇をして戦争阻止の詔勅を下さしむるのもその一つの方法である。然るに(*近衛)氏は陸海軍(*主に陸軍)の強引に圧倒せられて躊躇逡巡、事毎にその志と反する方向に日本を導いた。(*近衛)氏は所詮宰相の器にあらず、まさしく聡明なる馬鹿者であった。・・・

(田中隆吉陸軍少将著の前掲書「裁かれる歴史-敗戦秘話-」74~78頁より)

 

 戦前の和平派の首相や重臣たちは暗殺やテロ、クーデターを真剣に警戒していたといわれますが、当時田中隆吉少将は陸軍省兵務局長の職にあったので、憲兵隊や陸軍諜報機関もその統括下にある関係上、こうした辻政信中佐の動きや暗殺テロ計画なども耳に入っていたものと推察されます。本シリーズ(1)で取り上げた近衛文麿首相と当時の山本五十六連合艦隊司令長官の会談の模様も、こうした雰囲気や背景を鑑みれば、その情況がよりよく理解できるのではないでしょうか。「聡明なる馬鹿者」呼ばわりは気の毒な感じもしますが、この本によれば近衛首相は実際に暗殺される寸前だった可能性もあるのです。思い返せば、大正時代以降暗殺・テロやクーデターの対象となった戦前の首相と元首相は、原敬首相(死亡)、高橋是清元首相(死亡)、濱口雄幸首相(死亡)、犬養毅首相(死亡)、斎藤実元首相(死亡)、岡田啓介首相(未遂)、米内光政首相(未遂)、近衛文麿首相(未遂)、東條英機首相(戦時中、未遂)、鈴木貫太郎首相(終戦時、未遂)の10名であり、うち5名が死亡しているのです。しかもこの10名のうち、5名は政治家出身、4名は海軍出身、陸軍出身は例外的な戦時中の東條首相1名のみであることからも、当時の陸軍及び右翼勢力の意向が推量されます。ちなみに当時の右翼勢力の考え方を示す例として「聖戦貫徹同盟」の、山本五十六海軍次官の辞職を強要する「斬奸状」の文面を読んでみたいと思います。これは第一次日独伊三国同盟締結に海軍首脳が反対していた昭和14年7月頃、海軍部内一般にも葉書に印刷して郵送され、原書は海軍省に押し掛けて次官との面談を執拗に要求したものの秘書官たちに阻まれ、やむなく次官に渡す様にと手交していったものです。原文はカタカナですが、読み易い様にひらがな表記に直し、適宜句読点を添えて以下に示します。(*筆者註記)

・・・「今次戦争(*日華事変)が日英戦争を通じてなさるべき、皇道的世界新秩序建設の聖戦たることの真義よりして、対英国交断絶と日独伊軍事締結は、現前日本必須緊急の国策たるに拘らず、英国に依存する現代幕府的支配勢力は、彼等に利益なる現状の維持のために之を頑強に阻止しつつあり。貴官(*山本五十六海軍次官)は、その親英派勢力の前衛として米内海軍大臣と相結び事毎に、皇国体のままなる維新的国策の遂行を阻害し、赫赫たる皇国海軍をして、重臣財閥の私兵たらしむるの危険に導きつつあり。貴官が去る(*昭和14年)五月十七日、英国大使館の晩餐会に於て日英親善の酒盃を挙げたる(*英国大使館主催の映画鑑賞会に高松宮様と一緒に参列し国際親善を深めた)翌日、鼓浪嶼(コロンス島、福建省厦門市にあり当時は万国共同租界が置かれていた)に於て英米仏三国干渉の侮辱を受けたる事実(*詳細は不明だが、恐らく現地で日本軍と英米仏当局の間で何らかのイザコザがあったのではと思われる)の如きは、即ち(*日華事変による)幾万の戦死者の英霊と前線将兵の労苦を遺忘せる海軍次官の頭上に降されたる天警なりしが、貴官頑迷なほ悟る処なきが如し矣。我等は、皇民たるの任務に基き、皇国日本の防護の為め貴官の即時辞職を厳粛に勧告す。 昭和十四年七月十四日 聖戦貫徹同盟 海軍次官山本五十六閣下」・・・(*実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」光人社刊141~142頁より)

 著者の実松譲海軍少佐 (当時、海軍省副官兼大臣秘書官)によれば、この“斬奸状”なるものを受け取ろうとしたところ、彼等は実松少佐に「直立不動の姿勢」をとる様に要求し、その奉書の紙を広げ「天に代わりて山本五十六を誅するものなり」と前置きし、声高々にその全文を読み上げ、実松少佐に一礼を要求して手渡したそうです。その際、「山本次官が辞職しなければ、聖戦貫徹同盟は全国に呼びかけて、次官の立場を窮境に陥れるつもりだし、その他の手段も敢えて用いるつもりだから、その覚悟でいろ」と脅し文句を言ったとのことです。この時からすでに79年が経っていますが、昨今のネット右翼の一部に、その後戦死までされた山本元帥を誹謗中傷して貶める様な内容を見るとき、あたかも戦前右翼の亡霊が今だに形を変えて活動しているのではとの錯覚に陥ります。今流行の「海軍善玉論批判」の陰には、こうした当時からの海軍トリオ(米内・山本・井上各提督)に対する攻撃が、その源流となっている様に思えてなりません。

 

 大東亜戦争或いは太平洋戦争の原因は、米国の「中国からの撤兵要求」を呑むかどうかが焦点であったと言っても過言ではありません。少しおさらいしますと、本シリーズ(1)でも取り上げた通り、昭和 16 年 9 月 12 日(開戦の方向性を決めた9月6日の御前会議後)に、近衛文麿首相の求めに応じて山本五十六連合艦隊司令長官が面談した際、近衛首相は次のように述べています。

   「アメリカの主張する四原則といっても、問題は中国の撤兵がヤマであって、陸軍は承知しそうにも見えぬ。しかし、私は(*ルーズベルト)大統領に直接会って、 肚を割って相談すれば解決の途もあると思うから、是非交渉を まとめる方向に最後の努力をつくしてみたいと思いますがどうでしょう」と。これに対し、山本長官は次のように述べています。

   「ご決心はまことに結構です、あくまでもご努力をお願いします。(*中略) 総理もナマやさしく考えられずに、一つ死ぬ覚悟でぜひ交渉をやっていただきたい。 山本は政治について注文がましいことは申しませんが、 たとえ、大統領との会談が決裂することになっても、 尻をまくったりせず、一抹の余韻をのこして帰って下さい。 外交にラースト・ウォード(Last word)はありませんから」(*筆者註記、高木惣吉著「山本五十六と米内光政」62~63 頁より)

 

 結局この日米首脳会談は、米国側が事前に事務局同士で合意案を取り纏めることを求めたため、近衛首相の真意であった、現場で大統領と膝詰めで中国からの撤兵案を纏め、その場から直接通信して陛下の勅許を先に得てしまい、陸軍に有無を言わせずに決めてしまおうという肚づもりが崩れたため、結局日米和平交渉そのものも断念してしまいました。事務局案策定作業には当然陸軍当局が参加することから、東條陸相が頑強に反対している以上、中国からの撤兵案が日米合意用の日本側提案に盛り込まれることは不可能と思われたからです。そして近衛首相は自分には戦争の自信はない、自信のある方がおやりなさいと首相を辞職してしまいます。それならば、田中隆吉少将が指摘する通り、近衛首相はなぜ「九月六日の御前会議で十月下旬迄に日米妥協を見ざれば戦争に突入するとの決定を行った」のでしょうか。もしも日米首脳会談が実現できない場合の対策として、あくまで戦争に反対であるならば、ここまで踏み込んだ決定には待ったをかけるべきだったのではないか、そう思われます。しかし一方でまだまだ二・二六事件などの記憶が新しいなか、こうしたテロやクーデターの脅威の下で、陸海軍(主に陸軍)の強硬な主張には心理的にも押し負けてしまっていたのではないかとも推測できます。平和な今日の感覚でこれを臆病だ怯懦だと嗤うのは簡単ですが、例えば谷田勇陸軍中将の著書「実録・日本陸軍の派閥抗争」(旧版「龍虎の争い」) 2002年川喜田コーポレーション刊には、次の記述があります。

・・・折もおり、かつて昭和八年に神兵隊事件に関係した前田虎雄、影山正治が影山の主宰する「大東亜塾」の塾生約三十名を率いて、首相官邸を襲撃して米内(*光政、当時予備役海軍大将)首相を暗殺するとともに牧野(*伸顕)前内府、岡田(*啓介、予備役海軍大将)前首相、池田成彬(*三井財閥総帥)および**原田園公秘書役ら、自由主義ないし現状維持勢力の巨頭などを殺害しようとする計画が暴露し、(*昭和15年)七月五日午前五時、一味が三隊に分かれて出発しようとするところを警視庁に全員逮捕された。事件は記事差し止めとなり、一般に報道されなかったが、関係方面にはすぐ知れ渡り、倒閣の直接行動と見られて大きな衝撃を与えた。木戸(*幸一)内大臣は天皇の御諮ねに対し「彼らの行動は悪むべきも、その心情については為政者も亦大に反省せざるべからず」と奉答している。湯浅(*倉平)内府であったならばかくは答えなかったであろう。・・・

(同上書471~472頁、*筆者註記、**園公つまり元老・西園寺公望公爵の秘書役の原田熊雄男爵のこと)

 これ以前の昭和14年7月15日には、山本五十六海軍次官をはじめ、親英派と目された湯浅倉平内大臣、松平恆雄宮内大臣、結城豊太郎日銀総裁/元蔵相、池田成彬三井財閥総帥/元蔵相の暗殺計画が発覚し、首謀者の本間憲一郎らが逮捕された(*実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」光人社刊139頁)ことから、米内光政海相は山本次官の身を案じ、平沼騏一郎内閣総辞職を機に山本中将を海上の連合艦隊司令長官に転出させ、自らは吉田善吾提督に阿部信行内閣の海軍大臣を譲り軍事参議官に退いていました。その後阿部内閣の総辞職に伴い、何よりも昭和天皇が湯浅倉平内大臣に「次は米内にしてはどうか」と洩らされた(*実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」光人社刊190頁)ことにより、湯浅内府の要請を受けて内閣総理大臣に就任します。そしてその際「首相は文官であるべき」との原則に従い潔く自ら予備役に退いてしまいます。陸軍では後の東條英機陸相が首相に就任した際も現役軍人を離れなかった様にこの原則を無視していましたが、このことが首相退任後の米内提督が何もできない情況に置かれたことにつながります。

 山本五十六長官はこのことを憂慮し、伏見宮軍令部総長や及川古志郎海相に、米内大将を特旨を以て現役に復して連合艦隊司令長官とし、自らは降格して第一航空艦隊司令長官となって、万一にも戦争となったならば自ら空母機動部隊を率いて真珠湾攻撃に向かいたいと強く要望しましたが却下されました。筆者の推測としては、山本長官は米内提督に、できれば伏見宮総長の後任の軍令部総長に就いてもらい、自らは海軍大臣を引き受けて、統帥と政務の両方の首脳となり海軍として何としても対米英開戦を阻止する肚づもりであったのではないかと考えています。そのためには米内大将が予備役となったことは痛手であったと思いますし、この意味で米内大将を首相にされてしまったことは、陛下の思召しとはいえ真に残念であったと思われます。

 上記の田中隆吉著書にある通り、第一次近衛内閣が辞職した後、陸軍の要望で予備役陸軍大将の阿部信行将軍が首相となったのですが、すぐに陸軍にも見切りをつけられた阿部内閣(昭和14年8月30日~昭和15年1月16日)は僅か四ヶ月半で退陣し、米内内閣(昭和15年1月16日~昭和15年7月22日)が登場したのです。阿部首相は総辞職の際、「今日のように、まるで二つの国――陸軍という国と、それ以外の国とがあるようなことでは、到底政治はうまく行くわけがない。自分も陸軍出身であって、前々からなんとかこの陸軍部内の異常な状態を多少でも直したいと思っていたけれども、これほど深いものとは感じておらなかった。まことに自分の認識不足を恥じざるを得ない」と語ったそうです。(勝田龍夫著「重臣たちの昭和史」文春文庫下巻、132頁 1984年刊)

 本シリーズ (3) で取り上げた通り、昭和14(1939)年9月1日にポーランドに軍事侵攻したナチスドイツ軍により第二次欧州大戦が始まり、翌昭和15年には欧州大陸は殆どドイツ軍が占領し、残るは島国の英国だけとなります。つまり東南アジア植民地圏 (大東亜) はフランスやオランダなどの宗主国の本国が占領される事態となり、間もなく英国も占領されたならば、一気に大東亜は政治的・軍事的な空白地帯となります。これを好機と捉え、「南進して日本に欠乏している石油 (蘭印)、ゴムやボーキサイトなどの資源(英領マレー)、食糧としての米穀(仏印)を手に入れよう。加えて援蒋ルートを完全に遮断して、重慶の蔣介石政権を屈服させるのだ。」という陸軍を中心とする右翼勢力や、一部海軍中堅の親独・強硬派もこれに同調します。その為には、これを阻む親英米路線を採り、現状維持を図る米内内閣を倒閣しなければならないということになったのです。一方で宗主国を占領したナチスドイツが大東亜全域の植民地を支配することの懸念もありました。しかしドイツは日本が同盟国として参戦してくれるならば、東南アジアには侵出しない、日本に委ねるという意志を示していました。当時の「バスに乗り遅れるな」という標語のような言葉は、こうした事情を物語っています。「米内内閣ではダメだ、グズグズしていたら時機を失う。」焦る陸軍は遂に「軍部大臣現役武官制」を悪用します。先に昭和12年2月、かつて山本権兵衛内閣が予備役まで対象を広げていた「軍部大臣は予備役武官も可とする制度」を陸軍の要望で廃止した廣田弘毅内閣が総辞職した後、宇垣一成予備役陸軍大将に首相の大命が降下し、組閣しようとしたのですが陸軍が現役武官の陸軍大臣の候補を出さないために宇垣内閣は結局流産したのです。尤も皮肉なことに、予備役武官に軍部大臣(陸相・海相)の候補を広げようとした山本権兵衛第一次内閣に強硬に反対していたのが、当時陸軍省の課長だった宇垣一成大佐でした。ご自分がかつて反対して守ろうとした「現役武官制」により、今度は自らが組閣できなかったのです。

   これに次いでの米内内閣倒閣の陰謀です。この時の様子を谷田勇陸軍中将の前掲書から見て見ましょう。

・・・万一、南方作戦を行うとすれば、邪魔になるのは対英米協調主義の米内内閣である。(*昭和15年)七月四日午後、畑(*俊六、陸軍大将)陸相は閑院宮参謀総長の名をもってする一通の要望書を受け取った。「……この際挙国一致強力なる内閣を組織して右顧左眄することなく断乎国策を実行せしむること肝要なり。この際陸軍大臣の善処を切望す」。陸相は(*参謀)総長と同格ではあるが、陸軍の最長老で、皇族である閑院宮の国家大事に関する要望は、臣下の分として服従せざるを得ない。昭和十一年七月の真崎教育総監罷免問題以来、始めてその名を表面に出されたのである。なお閑院宮は、この要望書を気にされたのか、同年(*昭和15年)十月、その職を杉山元大将に譲っておられる。昭和六年十二月以来、在職約八ヵ年であった。(*中略、昭和15年)七月八日夕刻、ラジオは政変近しの放送を行った。陸軍が流したものである。翌九日午前、畑陸相は閣議の前、米内首相と面会し「近衛公の新体制運動は進展し、政党は解散の方向に進みつつある。この際軍人宰相らしく快く政権を近衛公に渡し、我々も近衛公に協力する態度が宜しくないか」と円満退陣を勧告した。米内はこれに同意を表示しつつも、辞職するとはいわない。二、三斡旋するものもあったが、結局十六日朝になって、畑陸相は米内首相に辞表を提出し、米内は後任陸相を求めたが陸軍は後任を引き受けるものがないと回答した。

 米内はその夜、葉山(*御用邸)に赴いて辞表を捧呈した。辞職後、米内大将は己れの部屋に畑大将を呼んで「君の立場はよく分かる。苦しかったであろう。自分は何とも思っていない。気を楽にして暮らしてくれ給え」と手を握った。畑大将は淋しく笑ってこれに応えた。その笑いは日本人特有の諦めの笑いであったと言う。畑大将を知っている著者(*谷田勇陸軍中将)はその光景を瞼に浮かべることができる。米内大将も畑大将も、その後に来るものが、なんであるかを知っていたからである。・・・(前掲書472頁より)


 以前も本ブログにてご紹介しましたが、終戦後東京裁判でこの時の倒閣の責任を追求された畑俊六大将の弁護に立った米内光政提督は、ウェッブ裁判長からこんな愚鈍な元首相は見たことがないと面罵されながらも、畑大将が不利になる証言を一切せず庇い通しました。その様子を見て、米国のキーナン首席検事はむしろ米内提督に好意を感じ尊敬の念を抱いていたといいます。血圧が200を超える状態で身体を酷使して終戦の成立に尽力した米内提督は、東京裁判出廷後の昭和23年4月20日に68歳で逝去しました。昭和35年、故郷の盛岡八幡宮の境内に米内提督の銅像が立った時、除幕式の直前まで会場の草むしりをしていたのは巣鴨から出所してきた畑将軍その人であったといいます。(今回はここまで)