今回は、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書「昭和海軍秘史」(昭和44(1969)年番町書房刊)の中から、同書冒頭の概説「海軍軍縮から日米戦争へ―太平洋戦争と海軍―」(*海軍編)を読んでみたいと存じます。陸軍史と海軍史は、車の両輪のように、分立しつつも相まって昭和日本の歴史を動かしています。本シリーズでは、しばらく陸軍史に重心を置いて戦前の昭和前期史を眺めてきましたが、もう一方の海軍史の流れを見て置くことも肝要です。その際、これをどのような「建て付け」のストーリーとして捉えるかが肝心であり、左右に偏り過ぎることなく、バランスのとれた適正な視点で取り纏めることは簡単ではありません。そこで本シリーズ第(72) (73)回で取り上げた中村菊男博士の史観による描写を基準としつつ、適宜筆者による解説やコメントを添えながら、読み進めたいと思います。

 (*裕鴻註記・解説、適宜表記補正、尚*数字のみ記載の場合は海兵(海軍兵学校)卒業期数。海大*数字は海軍大学校の卒業期数を示します。但し、海大制度の変遷があり、将来の海軍の中枢幹部や将官を養成する課程は、甲号1~5期、将校科1~3期、将校科甲種1~4期、甲種5~39期と続くので、甲種10期以降は単なる数字のみの記載とします。因みに、海大を卒業せずとも海軍では将官に進級した人も多く、例えば、日本海海戦の連合艦隊作戦参謀だった秋山真之中将は、米国海大のマハン提督に個人的に指導は受けましたが、海大は卒業しておらず、海大教官のみを務めています。野村吉三郎提督や大西瀧治郎提督も海大卒業ではありませんし、海上勤務を重ねて提督(*海軍将官)になった方も少なからずおられます。)

 

・・・「海軍軍縮から日米戦争へ―太平洋戦争と海軍―」

 大正から昭和へかけての海軍の重要問題といえば、それは軍縮である。大きな会議といえば、大正10 (1921) 年には日英米など関係各国の間で、ワシントン(*海軍軍縮)会議がもたれ、昭和5(1930)年にはロンドン(*海軍軍縮)会議がもたれた(この間に昭和2(1927)年ジュネーブにおいて日英米の三国軍縮会議がひらかれ、日本からは斎藤實(*6、元海相、当時朝鮮総督、予備役海軍大将)、石井菊次郎(*元外相、駐米・駐仏大使等歴任)が全権として出席した)。

 前者(*ワシントン会議)は、主力艦保有の比率をどうするかについて話し合いが行なわれた訳であるが、結局、英米おのおの52万5千トン、日本31万5千トン、フランス、イタリアおのおの17万5千トンということで取りきめが行なわれ、英・米五、日本三、すなわち五・五・三(*10:10:6)の比率で会議はまとまった。その際、首席随員であった加藤寛治中将(*18)は強硬論を主張したが、首席全権加藤友三郎大将(*7、甲号1)の指導よろしきをえて、会議をとりまとめることができた。加藤知三郎は性格的には地味であったが、政治家としても優れた能力をもっていた提督であった。加藤は英米の代表に比較しても少しも遜色はなかったといわれている。

 ロンドン会議は海軍の巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの補助艦艇保有の比率をきめる軍縮会議であったが、この問題をめぐって国内に対立が起こった。それは加藤寛治がロンドン条約の際には軍令部部長として海軍の最高責任者となり、しかも、同じくワシントン会議の際、随員であった末次信正(*27、海大甲種7)が軍令部次長として加藤(*寛治)大将を補佐する立場にあったが、末次次長はとくに強硬論を主張し、活発な政治的動きを示した。海軍は伝統的に政治に関与するのを嫌う傾向にあったが、このときの加藤・末次の行動はそうではなかった。(*海軍で政治に関わるのは唯一海軍大臣のみという不文律があった。)

 ロンドン会議の際に日本側の出した条件は、

一、補助艦の総トン数を対米7割以上とする。

二、大型巡洋艦(*重巡洋艦)を同じく7割以上とする。

三、潜水艦の自主的所要量を約7万8千トン保有する。

 ことであり、この三大原則を軍令部としては打ち立てたわけである。(*しかも事前にこの条件を軍令部は公開・発表した。)

 ところが、会議の経過は非常に難航をきわめた。やはり比率の問題で関係各国の意見がなかなかまとまらなかったからである。

   (*因みに、そもそも外交戦術的には、事前に当方の最終目標を開示して一歩も引かないというやり方自体に問題があるとする見解もある。相手国側は当然それに「満額回答」すると、今度は自国民から「外交敗北」と批判される恐れがあるからで、やはり「落としどころ」の合意線を自国の目標値とするなら、最初にもし目標を公開・標榜するならば、少し水増しした目標設定を打ち出しておき、相手国の顔も立てつつ、妥協・譲歩して最後に落着させるが、その結果は当方として満足できる乃至は納得できる内容に落ち着かせるというのが、そもそも外交交渉の要諦のはずである。日本の「武士的精神」はこうした駆け引きを嫌うかもしれないが、生き馬の目を抜く、海千山千の外交交渉に長けている欧米諸国を相手に交渉するのであるから、あまりにも真正直な直球一本勝負は、こうした外交の駆け引きには向かない面があったことも否定できない要素だと思われる。「武家の商法」と同じ問題である。以上、裕鴻註記)

 このとき日本からは、全権委員として前首相若槻禮次郎、海相財部彪(*15)、駐英大使松平恒雄、駐白大使永井松三、顧問として海軍大将安保清種(*18、のち海相)、法制局長官宮川卓吉、貴族院議員山川端夫、同樺山愛輔などが出席した。

 結局、日本の比率は、100対69.75という割合となり、対米7割がわずかに0.25切れるという数字が出た。これに対して外務省は、この会議をまとめる方針であった。外相は、国際親善主義を唱える幣原喜重郎であり、幣原は英米協調のたてまえをとっていた。したがって、対英米強硬論者とは基本的に意見を異にしたわけである。政府としては、軍令部案に対して慎重な態度をとっていたが、ついにこの条約に同意することになり、軍令部長の意見は退けられ(*昭和5(1930)年)4月22日、ロンドン条約は調印された。

 これに対して、加藤寛治および末次信正は、非常な不満*を持ったが、とくに加藤は東郷平八郎元帥をかつぎ出して反対論を主張した。

 (*総括的比率よりも、重巡洋艦が対米6割となったこと、潜水艦が日米同量の5万2700トンとなったことを大きく不満とした。但し、現地での交渉努力により「製艦能力維持のための潜水艦の代換建造、軽巡洋艦や駆逐艦の繰上げ建造」「アメリカは大型巡洋艦(*重巡洋艦)四隻の起工を遅らせることになったので、懸案だった大型巡洋艦の対米比率は当面実質7割2分となり、条約最終年の昭和11(1936)年にはじめて7割を割って6割8分となる成果を挙げていた。つまり、表面を譲って実を獲っていたのである。しかしこのことは一般にはあまり知られず、不満のみが喧伝されることになる。」弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」NHK出版新書、88~89頁より抜粋。以上、裕鴻註記)

 東郷(*平八郎)元帥(*旧薩摩海軍士官、英国ウースター商船学校卒)は、日本海海戦のときの連合艦隊司令長官であり、海軍部内にあっては、神のごとくに尊敬されていた人物である。反対派はこの東郷元帥を政争に巻き込んで利用しようとした。とくに、いけなかったのは末次(*海軍軍令部)次長の政治的な態度で、強硬論を主張して政府を攻撃する立場に立った。だいたいこのロンドン条約に反対する海軍軍人は、連合艦隊の海上勤務の人が多かったので、世間ではこれを「艦隊派」と呼び、そして、(*軍縮)条約に賛成する人びとのことを「条約派」といった。「艦隊派」は右翼国家主義者たちによって支持された。条約反対派は条約の(*政府による)承認をもって「統帥権の干犯」(*末次次長が相談した北一輝が捻り出した言葉)であるとして、激昂した。そして、この問題で(*帝国)議会は紛糾し、統帥権問題で野党たる政友会(*犬養毅や鳩山一郎など)は政府(*民政党濱口雄幸内閣)を攻撃したのであった。政友会は軍令部支持の態度をもって政府攻撃にあたったが、まさしく筋の通らない発言が目立った(*つまり政争の具として利用した)。院外においては右翼国家主義者の団体の動きも活発であったが、濱口首相は条約に反対する佐郷屋留雄という右翼青年のために東京駅で狙撃せられる結果を招いた(*翌年逝去)。

 なぜ、ロンドン条約において、これほどまで強硬論者が主張したのかといえば、日米開戦の場合において、その主戦場が、西南太平洋洋上になることが予想され、しかも、アメリカ海軍を迎え撃って「艦隊決戦」をするには、対米7割をどうしても確保しなければならないというのが、その理由とするところであった。すなわち、海軍の戦略論から出てきた考え方で、日露戦争のときの日本海海戦の戦訓がものをいっているわけである。海軍軍人の立場に立てば、対米戦争はかならず「艦隊決戦」になって、彼我の艦隊と艦隊が衝突をする。そのときに雌雄を決する場合、対米7割を確保しておきたいという思想*が根本にあったからである。

 (*この海軍7割論については、本ブログ別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」第(11)回「海軍艦隊派の対米7割論の理論的根拠とは」で詳述していますので、ぜひご参照下さい。

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12365381162.html?frm=theme )

 ところが、本文において野村直邦大将(*35、海大18)の指摘せられるようにハワイの奇襲作戦は従来の伝統的な海軍の戦略を変革して、一気に敵の根拠地を攻撃したもので、事後、太平洋戦争の作戦は、この日本海軍の伝統的な戦略とは違ったものになってしまった。

 (*そもそも、主力艦(戦艦)同士の「艦隊決戦」自体が、第一次世界大戦のユトラント沖海戦で最後となり、空母航空戦力の発達した第二次世界大戦では時代遅れとなっていたこと、「艦隊決戦」ではなく、太平洋上の島嶼の奪い合いを基軸に勢力圏(*制海権・制空権)を奪い合う形態の戦いとなったこと、総力戦の戦力維持の観点からする海上護衛戦(シーレーンの防御戦)が重要な主体となっていたことなど、戦前に日本海軍が想定していた海軍戦略自体が既に陳腐化していたという変化に海軍全体が対応できていなかったことが、この伝統的「漸減邀撃作戦」を実施できなかった理由です。この海軍に関する戦争形態の変化については、井上成美航空本部長(*37、海大22)が海軍省と軍令部との会議でも問題提起し、戦前すでに研究・予測していた結果を、昭和16 (1941) 年1月30日付「新軍備計画論」として纏め、当時の及川古志郎海相(*31、海大13)に提出していました。本ブログ別シリーズ「海軍史を読む」第(6)(7)(8)回で取り上げていますので、ぜひご参照下さい。https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12489903750.html?frm=theme )

 しかも「漸減邀撃作戦」を強行実施した場合にも、偵察戦力、前衛の漸減戦力などの先行派遣で、ただでさえ総括7割の劣勢戦力しかない日本主力艦隊の戦力が低減することになります。つまり、太平洋上では「針の一点」に過ぎない米主力艦隊を事前にうまく発見・捕捉するためにも偵察部隊を太平洋上に散開させねばならず、仮に米艦隊を発見したとしても、それを捕捉攻撃できる位置に「漸減攻撃用」の水雷戦隊などを先遣部隊として分派すれば、ますます本体である戦艦主力部隊に付随する艦隊勢力は削減され、最悪のケースは、全勢力を擁する米主力艦隊が、先行して分派攻撃をしてくる日本先遣艦隊を各個撃破してしまい、いよいよ主力同士の「艦隊決戦」となるときには、総括7割の日本側艦隊勢力の総合戦力はさらに逓減してしまっており、いくら大和級戦艦の長距離巨弾砲撃(*命中率は高くない)をもってアウトレンジ戦法で戦おうとしても、逆に米艦隊に敗れる公算が大きかったものと思われます。すなわち秋山真之参謀(*17)が日露戦争時に日本水軍の極意から採用した「わが全力で敵の分力を討つ」という戦略・戦術を、逆に米海軍にやらせる結果となるわけです。この作戦上の欠陥には、既に「漸減邀撃作戦」の立案・完成に努力した末次信正提督自身が気づいて指摘していたということもあり、この欠陥を埋めるためには空母機動部隊の活用しかないと海軍内の「航空派」は考えていました。

 従って、現代でいう「戦略・戦術シミュレーション・ゲーム」である「図上演習」(戦略場面)と「兵棋演習」(戦術場面)を何度行っても、この「漸減邀撃作戦」で日本艦隊は米艦隊に大勝することは一度もなく、いつも形勢不利となった時点で「演習中止」とするのを恒例としていたといいます。この点を大変憂慮していた山本五十六連合艦隊司令長官(*32、海大14)は、こんな作戦で現実に米艦隊相手に戦えと言われても無理だ。だからこそ、昭和16年10月24日付の新任海相となった嶋田繁太郎大将(*32、海大13)に送った書簡の中で「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦(*漸減邀撃作戦の意)にては見越み立たず、結局桶狭間とひよどり越と川中島とを合せ行ふの已を得ざる羽目に追い込まれる次第に御座候。」*としたため、独自の作戦として「真珠湾作戦」を構想していたのです。弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」NHK出版新書、139頁・130頁ご参照。少し寄り道しましたが、以下また中村菊男先生の概説本文に戻ります。)

 しかしながら、ロンドン条約の海軍部内に与えた影響は大きかったといえる。それは、海軍(*統帥部)が政治に介入したということと、(*海軍)部内に対立が起こり、しかも(*特に軍政畑の将来の海軍大臣候補たる)優秀な人材(*山梨勝之進提督(*25、海大甲種5)や堀悌吉提督(*32,海大16)ほか)がこの軍縮問題をきっかけにして海軍を去らなければならなかったこと(*大角人事)。そして、ロンドン条約に反対する過激な青年将校があらわれ、五・一五事件の原因をなしたということである。

 要するに、本来、政治に介入をしない立場に立つ海軍軍人が、兵力量の決定を名として、憲法問題にまで首を突っ込んだところに問題が大きくなる原因があった。

 その後、海軍部内に起こった大きな問題といえば、ワシントン条約が期限満了になることで、ひところ「1935、1936年の危機*」ということがさかんに唱えられた。(*石川信吾海軍少佐(*42、海大25)らによる。また専門的には上記のコメントの通り、重巡洋艦の対米比率が1936年から7割を下回ることを“危機”としたもの) というのは、ワシントン条約の第23条によると、この条約の期限は、1936(*昭和11)年であるからである。したがって、1937(*昭和12)年からは、いわゆる(*海軍軍縮)無条約時代にはいるわけで、そうなると関係各国の間で大艦巨砲を目指す(*当時主力艦と考えられた戦艦の)建艦競争が激しくなることは明白であったが、海軍はそのことを予期していた。そして、ロンドン条約に不満の人たちは、とくに海上訓練に主力を注いだ。いわゆる「月月火水木金金」(*土日返上)という言葉も、のちほど世間に伝えられるようになったが、海軍は対米戦争のあるべきことを予測して猛訓練を積んでいたといえる。

 (*ワシントン条約締結時の無念を加藤寛治提督が東郷平八郎元帥に報告した際、「軍備に制限はあっても、訓練に制限はない」と諭されたことが猛訓練の元となっているといいます。尚、日露戦争でのロシア海軍撃滅後の太平洋では、アメリカ海軍のみが現実的に然るべき海軍力を持つという意味での「仮想敵国」として海軍軍備建造の目標対象としていただけであって、当初から帝国海軍がアメリカを憎悪して戦争気分でいたわけでは決してないことにも留意が必要です。)

 一方、昭和7(*1932)年ジュネーブにおいて一般軍縮会議が開かれ、日本から駐英大使松平恒雄、駐仏大使佐藤尚武、陸軍中将松井石根、海軍中将永野修身(*28、海大甲種8)などを送ったが、会議はまとまらず、無期延期となった。さらに第二次ロンドン会議(*予備交渉:日本代表は山本五十六海軍少将)が昭和9(*1934)年に開かれたが、これもまとまらなかった。そして日本はワシントン(*海軍軍縮)条約に対して昭和9(*1934)年12月、単独廃棄通告を決定したのであった。

 一方、(*昭和6(1931)年9月の)満洲事変の勃発に対して、海軍は、べつにその計画を知らされておらず、事変そのものに対しても消極的であった。

 ところが、(*昭和7(1932)年1月に)戦禍が上海(*海軍の警備担任区域)に及ぶにおよんで、第三艦隊*の編成(*第三艦隊としては日本海軍史上四代目となる新編成)となり、海軍は上海付近の戦闘に参加することになった。満洲事変の勃発によって、中国本土、とくに上海付近の空気は、きわめて険悪化した。というのは、列国の権益が錯綜する上海において事を起こす計画がなされていたからである。

 当時、上海において(*陸軍)武官補佐官をしていた田中隆吉(*陸軍)少佐は、ひそかに関東軍に呼ばれたが、それは(*満洲)事変の勃発から満洲建国までもっていこうとする板垣征四郎、石原莞爾など関東軍中枢幕僚将校の意図が、国際連盟の動きによって制約されることをおそれたので、上海で事を起こして、(*欧米)列国の関心をここに集中化しようとする謀略の計画をすすめるためであった。田中少佐はその意を受けて、上海に帰り、中国人を買収して、日蓮宗の托鉢僧を狙撃せしめ、それをきっかけとして上海に事件を起こすにいたった。(*この謀略工作に田中少佐の指令を受けて「東洋のマタハリ」と言われた川島芳子女史が暗躍した) 第一次上海事変がこれである(別冊知性「秘められた昭和史」)。

 この上海事変においては、海軍は第三艦隊(司令長官野村吉三郎中将*26)を中心に活動を開始し、(*海軍)陸戦隊が中心となって陸軍(軍司令官白川義則大将)と呼応して中国軍との間に激戦を行なったが、まもなく、停戦協定が結ばれた。その直前の(*昭和7(1932)年)4月29日の天長節に際して、その祝賀会が上海の公園で行なわれたときに、一朝鮮人の投げた爆弾によって白川(*陸軍)大将以下野村(*海軍)中将、植田謙吉(*陸軍)中将、重光葵(まもる)公使などが死傷し、ついに白川大将は亡くなるにいたった。しかし、停戦協定は5月5日に成立して第一次上海事変は終わるにいたった。

 (*上海に派遣された陸軍の白川義則司令官は、出征に際し昭和天皇より直々に、3月3日には満洲事変を審議する国際連盟の総会も予定されていることから、必要以上に戦火を拡大しないようこの日までに速やかに停戦するようにとのお言葉を受けており、東京の参謀本部からは上海戦闘の戦勝後、追撃の指令が出ていたにも関わらず、3月3日に上海から中国十九路軍を一掃すると司令官の権限で停戦を命じました。「鈴木貫太郎自伝」258~260頁によれば、この陛下のご指示を忠実に守った白川将軍の逝去を悼み、昭和天皇は遺族に対し、御製「をとめらの雛まつる日に戦をばとどめしいさほ思ひでにけり」を下賜され鈴木貫太郎侍従長(*予備役海軍大将、元海軍軍令部長・連合艦隊司令長官、*14、海大甲種1)が白川家に伝達しました。しかし陸軍はこの御製が陸軍の士気にかかわるとして、公表しないように要求し、本庄繁侍従武官長(*陸軍大将)からわざわざ鈴木侍従長に対し、これは今後十年間秘密を保ってもらいたいと言ってきたといいます。)・・・(**「昭和海軍秘史」10~14頁)

 いささか、コメントや解説が長くなり、中村菊男博士の本文を切れ切れにしてしまいましたが、若い世代を含め、もはや戦前の雰囲気を実際に知る日本国民が僅少となっていることに鑑み、中村博士が執筆された1960年代の日本では、まだまだ殆どの国民が自明としていた知識や感覚でさえも、もはや解説を加えなければ正確に伝わらないと思われるため、敢えて蛇足を致しましたこと、ご容赦願いたいと存じます。次回もこの続きを辿って参ります。