前回に引き続き、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書「昭和海軍秘史」(昭和44(1969)年番町書房刊)の中から、同書冒頭の概説「海軍軍縮から日米戦争へ―太平洋戦争と海軍―」(*海軍編)を、適宜補足解説を加えつつ読んでゆきたいと存じます。今回は満洲事変以降からです。

   (*裕鴻註記・解説、適宜表記補正。尚*数字のみ記載の場合は海兵(海軍兵学校)卒業期数。海大*数字は海軍大学校の卒業期数を示します。但し、海大制度の変遷があり、将来の海軍の中枢幹部や将官を養成する課程は、甲号1~5期、将校科1~3期、将校科甲種1~4期、甲種5~39期と続くので、甲種10期以降は単なる数字のみの記載とします。)

 

・・・海軍は、満洲国の成立、溥儀の擁立については消極的であり、むしろ陸軍とは対立する関係にあった。ところが事変後、国内においては血盟団事件が起こり、井上日召を中心とする一味の者が、「一人一殺主義」をもって、当時の政界・財界の最高首脳部を暗殺しようとはかり、それを実行に移した。そのために、前蔵相井上準之助、三井財閥の巨頭団琢磨などがこの犠牲となって倒れた。この血盟団事件の直後に、海軍現役軍人の一団が、陸軍の士官候補生(*陸軍士官学校生徒)と一緒になって総理官邸をおそい、犬養毅首相を暗殺するにいたった。五・一五事件がこれである。彼らのねらいは、政界(*政党)の最高首脳部を暗殺することによって、国家の革新を遂げようとするものである。

 従来、政治に関与することをいさぎよ(*潔)しとしなかった海軍軍人が、たとえ青年将校とはいえ、このように白昼首相を暗殺する手段に出たことは軍規の紊乱を意味するものであった。しかし、満洲事変以来高揚した軍国主義的な風潮によって、むしろ逆にこれら下手人たちが世間の注目を浴び、志士的待遇を受ける結果になった。

   (*全国の一般国民から血盟団事件も併せて百万通もの減刑嘆願書が寄せられ、うち千通以上は血書血判だったのです。中野雅夫著、昭和史の原点第3巻「五・一五事件 消された真実」(昭和49年講談社刊)、246~247頁より)

 また、(*海軍)軍法会議における山本(*孝治)検察官の論告*が被告たちに対してきびしかったことについても、海軍部内から批判が起こり、これらの関係者は重大な事件に関与したにもかかわらず、比較的軽い罪ですみ、のちほど(*恩赦などで)出獄することができた。

 (*論告内容の解説:・・・堂々たる山本検察官の批判をここに紹介しておこう。まず、事件の動機として、①いわゆる政党財閥及び特権階級の堕落、②農村の窮状、③ロンドン条約問題の三つの要素をあげ、その第一点については、「これをもって国家の危機となし、非合法的行為に訴うるに至りましたことは、相当認識の不足の点もあるのでありまして国家のため誠に痛嘆に堪えない」といい、第二点については「況(*いわ)んや非合法手段に訴え現在の経済機構を破壊して一足飛びに理想の彼岸に到達しようと企つるが如きに至りましては無謀の甚だしきものである」と痛論し、問題の第三点に関しては「各機関の間に多少の経緯があったとしても、これをもって直ちに被告人等が統帥権干犯の事実ありとみたるは首肯し能わざるところであります。またいわゆる上奏権阻止の問題については、当公廷において肯定する何らの資料もありませんから単に被告人の陳述は根拠なき陳述として聞きおくに止むるの外ありません」とつよく統帥権干犯の事実をみとめない態度を示していることは、まことに正論というべきではなかろうか。そして、さらに同論告は、軍人の政治運動に言及して、「被告人中一部の者はこの優渥(*ゆうあく)なる聖旨(*明治大帝の「軍人勅諭」)のあるところを曲解して<政治に拘(*かかわ)らず>とは政治に拘泥することなくの意にて政治に関係しても差支えなきものの如く解するものであります。この如き一種異様の解釈は、世間一部人士間にも行わるるものでありますがまことに思はざるも甚だしきものといわねばなりませぬ。軍人にして若し聖旨の存するところを辯(*わきま)えず、現代政治を是非し、これに関係し遂に力をもって自己の政治的所見を実現せしめんと企つるが如きに至りては誠に由々しき大事でありまして、ただに軍隊の蠹毒(*とどく)たるのみならず国家の治安を害すること正に計り難きものがある」と極論し、動機の如何を問わず、暴力行為は絶対に排斥すべきものであると論じている。・・・以上、前田治美著「昭和叛乱史」昭和39年日本週報社刊、214~215頁より。

 尚、「岡田啓介回顧録」(中公文庫)、東京大学名誉教授の小堀桂一郎著「鈴木貫太郎」(ミネルヴァ書房刊)など関連書籍を総合するに、ロンドン条約締結時の海軍部内手続きで、最終的に条約案受諾を決定した昭和5(1930) 年4月1日の海軍首脳会議には、加藤寛治海軍軍令部長(*18)も末次信正次長(*27、海大甲種7)も共に出席しており、席上回訓文案の若干の修正はしたものの、受諾決定自体には最終的に誰一人異議を申し出ておらず、この意味で海軍部内の正規の意思決定過程上は合意が確認されていることが記述されており、事実として「統帥権干犯はなかった」ことは同じく同会議に出席していた当時の堀悌吉海軍省軍務局長(*32、海大16)も記録に残し、かつ戦後の幣原喜重郎内閣が立ち上げた戦争調査会でも証言しています。加藤寛治海軍軍令部長がもしどうしても条約案に反対なのであれば、この海軍首脳会議での最終決定にあくまでも反対すべきであったのですが、そこまでの反対は貫いていないのです。これらの情勢を受けて、伏見宮様も、東郷平八郎元帥も、一旦は政府条約案に同意していました。しかし、後日の帝国議会での野党政友会の犬養毅、鳩山一郎などの代議士が、この問題を「政争の具」とし、幣原喜重郎外相の失言も相俟って、濱口雄幸民政党内閣の倒閣を狙った政治的な攻撃に使用されたことから、世論の喚起とともに本件が政治問題化し、その後、加藤部長も態度を再度硬化させるに至ったのです。また、加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏の阻止といわれる問題も、基本的には陛下の御日程上の都合で、希望していた時日より遅れただけで、上奏自体は4月2日に行なわれましたし、またその内容も「回訓案の批判でも條約締結への反対でもなく、只軍縮條約の締結といふ新事態により大正12年に策定した帝国国防方針には変更の必要が生じた、と言上するまでのものであった。その程度のことならば天皇としては唯聞き置くだけでよいのであり、侍従長や武官長が案じた様な過激な内容ではなかった。」(上掲、小堀桂一郎著「鈴木貫太郎」270頁) というものでした。

   ただ、鈴木貫太郎侍従長(*14、海大甲種1、前海軍軍令部長、元連合艦隊司令長官)は、自身が加藤寛治海軍軍令部長の前任者でもあり、「海軍の先輩として」という前置きを言った上で、加藤部長に政府と海軍統帥部との正しい関係を諭しましたが、その時は加藤部長はその助言内容に納得して、政府首相の回訓案上奏前に加藤部長が上奏することは取り下げたと「鈴木貫太郎自伝」(256~258頁)には明記・詳述されています。従って事実は、のちに世上で喧伝された侍従長による「上奏阻止」というようなことではなかったのです。以上、裕鴻註記。以下「昭和海軍秘史」再掲。)

 その後、満洲事変は満洲国の領域内に止まりえず、日華事変を誘発するにいたった。というのは、日本の満洲から華北に対する進出に対して、中国における反帝(*国主義)抗日民族運動は、ますます激化するにいたり、対立は一触即発の危機にあったからである。とくに満洲を追われた張学良(*日本陸軍によって爆殺された張作霖の息子)は中国の実力者蔣介石を西安に監禁し、抗日を決意せしめ、これによって第二次国共合作の礎石が築かれた。

 中国国民党は、当初、国民革命を遂行するために、共産党と共同歩調をとった。国民革命の父といわれた孫文は、連ソ容共政策を採用し、国民党と共産党の合作をはかった。しかし、その後国民党の蔣介石は共産主義を排撃して、第一次国共合作は破綻をみたが、西安事件をきっかけにふたたび国共合作が成立することになり、中国の排日政策は、激しくなる一方であった。もちろん、それまでに日華の間に妥協の空気もないわけではなかったが、日本の国内事情と、中国の国内事情は、両者の友好和解を許さなかった。そして、昭和12 (1937) 年7月(*7日夜)、盧溝橋事件が勃発したのである。

   この盧溝橋事件は、陸軍の関係したものであり、事変の遂行は最初陸軍によって行なわれたが、大山(*勇夫海軍)大尉(*60)暗殺事件をきっかけに、やがてまた、戦禍が上海に飛火して、8月13日、第二次上海事変が勃発するにいたった。

   (*この盧溝橋事件と第二次上海事変の勃発状況については、本シリーズ第(40)(41)(42)(44)(45)回で詳しく取り上げていますので、ぜひご参照ください。

 https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663082124.html )

 これはもはや、第一次上海事変のような小規模なもので終わるはずのものでなく、海陸あげての大きな戦争に発展していった。松井石根(*陸軍)大将を中心とする陸軍の大部隊が上海に派遣され、これに柳川兵助(*陸軍)中将を兵団長とする杭州湾上陸部隊(*第10軍)が、別の経路から南京攻略に加わり、ついに(*国民党政府の首都)南京を占領するにいたった。この間、駐華イギリス大使ヒューゲッセンの乗用車が太倉付近でわが方の海軍機によって掃射されたり、アメリカの軍艦パネー号の誤爆事件、イギリスの軍艦レディーバード号爆沈事件(*同号を陸上から砲撃したのは、応召して参戦していた野重砲兵第13連隊長橋本欣五郎陸軍大佐)などが起こった。

 そして、戦闘継続中、駐華ドイツ大使トラウトマンを通ずる和平交渉が行なわれたが、それは成功せず、南京陥落後日本は昭和13 (1938) 年1月16日、「国民政府を相手とせず」という蔣介石政権否認の声明を発表し、事変の前途を甘くみる軽率な判断をした。

   (*同声明の発出は、当時の末次信正内務大臣(*27、海大甲種7、予備役海軍大将)が強く主張したといいます。**「昭和海軍秘史」37頁より)

   その後、海軍は支那方面艦隊を編成し、中国沿岸の封鎖作戦に従事し、陸軍と協力関係にあった。

 日華事変の遂行はアメリカをはじめ利害関係国を刺激し、アメリカ大統領ルーズベルトは、1937 (*昭和12) 年10月シカゴにおいて、日独両国を侵略国として非難するいわゆる「隔離演説」を行なったが、国際連盟も日華事変に際し、日本の行動は九ヶ国条約および不戦条約違反であるとの決議を採択した。アメリカも同様の声明を行ない、日米の関係は悪化の一路をたどっていった。

   日本は、シナ(*中国)大陸に大軍を派遣し、中国軍と戦っていたが、いわゆる点と線とを占領するだけで、中国全体にわたってこれを支配することができなかった。「シナ大陸百万の大軍を呑む」といわれたくらい(*陸軍)兵力を投入しても事変解決にいたらず、政府も軍部も弱っていた。先に蔣介石政権を否定した日本は、汪兆銘を立てて国民政府の首班としたが、しかし、汪兆銘の政府は無力で日本の意図するような中国の建設はできなかった。

 このとき、1939 (*昭和14) 年9月、ヨーロッパ戦争が勃発し、ヒトラーの率いるナチスドイツが、破竹の勢いをもってポーランドに進撃を始めた。戦争勃発直後、ポーランドを一気に葬ったヒトラーは、しばらくなりを鎮めて、神経戦なるものを展開していたが、1940 (*昭和15) 年の春には積極的に行動を開始し、ノルウェー・デンマーク作戦を行ない、さらに5月、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに進入、6月にはイタリアが英仏に宣戦を布告した。

 ドイツ軍はフランスに進撃をしてパリを一気におとしいれた。そして、英本土の猛烈な爆撃を行ない、やがて上陸作戦をするのではないかと見られた。このとき、ヒトラー、ムッソリーニが相携えて英本土に上陸をして、独伊が大勝利をおさめるかのような風評が伝わった。あまりにもヒトラーのあざやかな勝ちっぷりに眩惑されて、あたかも独伊両国が、ヨーロッパにおいて近い将来新秩序を建設するかのようにみえ、そして、大英帝国の没落近し、というような声も聞かれるにいたった。

 そこで、日華事変の解決にとまどっていた陸軍は、世界情勢との関連のうえに日華事変を解決しようとして、日独伊三国の関係の強化をはかろうとした。

 この日独伊三国の関係強化の問題は、第一次近衛内閣の末期に起こり、平沼(*騏一郎)内閣に引き継がれたが、平沼内閣の米内光政海相(*29、海大12)、ならびに(*海軍)次官の山本五十六中将(*32、海大14)は、これに反対をした。というのは、日独伊三国の同盟を結ぶ結果、対米関係が悪くなり、日米戦争になることを苦慮したからである。

 これに対して陸軍(*板垣征四郎陸相)の方は、日独伊強化案を強力に推進しようとして関係閣僚の間で何十回となく会議がもたれたが、1939 (*昭和14) 年8月の独ソ不可侵条約の締結によって、平沼内閣は、「ヨーロッパの情勢は複雑怪奇である」という有名な言葉を残して退陣し、その後日独伊強化案は、たな上げの形になった。

 日華事変の解決に行き悩んだ陸軍は、すばらしい勢いにあったヒトラーと結ぶことによって、これを解決しようとし、ついに昭和15 (1940) 年の9月に日独伊三国軍事同盟を結んだのであった。このときには、海軍部内においても、すでに反対論を積極的に主張する者はなく、簡単に三国軍事同盟の方針は決まってしまった。

   (*この間の経緯については本シリーズ第(73)(74)回をご参照ください。

 https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12678566168.html )

 日本は三国軍事同盟を締結したことによって、対米関係が一層悪化することになったが、この対米関係を打開するために、野村吉三郎海軍大将(*26、予備役)が、駐米大使としてアメリカに派遣されることになった。第二次近衛内閣の外相松岡洋右は一方において日独伊の枢軸関係を強化し、ソ連の中立化をはかり、この「新興勢力」の軍事力の結合によって対米関係の打開をはかろうとしたわけである。

 野村大使は、昭和16 (1941) 年2月、アメリカに着任して、ワシントンでルーズベルト大統領およびハル国務長官と接触を始めた。野村は、駐在武官の当時、ルーズベルト大統領と親交があり、彼我の交渉は最初はうまくいくかのごとくみえた。

   (*この対米交渉には特に陸軍省から派遣された岩畔豪雄陸軍大佐も参画・協力していました。) 

   とくに、4月になって、「日米諒解案」なるものが成立し、これを基礎にして日米間に交渉が行なわれるはずであったが、当時、松岡洋右は、三国軍事同盟の祝賀と、対ソ新交渉を兼ねてヨーロッパにおもむき、ドイツ、イタリアで大歓迎を受け、帰途、モスクワにおいて、スターリン(*最高指導者)、モロトフ(*外相)と会見し、4月13日、日ソ中立条約を結ぶにいたった。

 このとき、松岡の立場としては、旧友の駐ソ・アメリカ大使スタインハートを通じて、ルーズベルトの意向を打診し、対米交渉に当たろうとした。松岡は、対米交渉を行なうにあたって、日本は弱い態度でもって臨んではいけない。やはり、強い態度でアメリカに当たるべきであるという意見をもっていた。

   (*松岡洋右は、若いとき苦学してオレゴン大学を卒業していますが、その時の在米経験から、アメリカ人相手には強気で対処しないといけないという信念を抱いていたといいます。)

 ところが、野村大使などのつくった「日米諒解案」は、この松岡の意図とは違ったラインでまとめられたものであった。そこで、松岡は不満だったので、対米回答がおくれてしまった。

   (*松岡外相は、自分の知らぬ間に出来上がったことが気に入らなかったために、余計な質問や要求を加えて合意をダメにしてしまいました。その後、独ソ戦開戦によりソ連が連合国側となったため、米・英は日本と結ぶ意欲を減退させてしまっていたことも一因です。つまりは日米合意の絶好の時期を逸してしまったのです。)

   その後、日米間に引き続いて交渉が持たれていたが、このとき海軍として、もっとも心配になったのは石油の貯蔵に限度があるということであった。海軍としては、約600万トンの石油を貯蔵していたが、それは艦隊の行動については一年から一年半くらいの活動を保証するものであった。そこで、この石油の貯蔵が切れてくることを懸念し、対米開戦を急ぐ空気が出てきたのである。

 対米戦争をやる場合に、海軍としては先述(*前回(75)記載)のように伝統的な艦隊決戦の戦略(*漸減邀撃作戦構想)があったが、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、ハワイに先制攻撃をかけ、それによってアメリカ太平洋艦隊に一撃を与え、その間に乗じてアメリカ海軍の進出を食い止め、この間南方資源を戦力化するという構想のもとに作戦(*の研究・立案)をすすめていった。とにかく、海軍にとっては、石油の貯蔵が切れてくるということが、気が気でなかったわけである。

 ところが、先に陸軍の北部仏印進駐が企てられ、さらに昭和16 (1941) 年7月南部仏印進駐の要求が行なわれたために、アメリカは在米日本資産の凍結を行ない、イギリスもこれにならった。さらにアメリカは対日石油輸出禁止の措置(*昭和16 (1941) 年8月)に出た。

 このような一連のアメリカの経済圧迫に対して、日本としては、南方進出を貫かねばならず、対米妥協ができなくて開戦に踏み切らざるをえなかったわけである。開戦に先だって、その直前のアメリカから11月26日に、ハル・ノートなるものが到着したが、これは満洲事変以来の日本の対外政策を完全に否定し去るものであった。そのために軍部当局は「これでは」ということで、ついに開戦最後の断を下すにいたった。・・・(**前掲「昭和海軍秘史」14~20頁)

 

 こうした流れのなかで、帝国海軍は対米英蘭開戦に向かうのですが、山本五十六連合艦隊司令長官(*32、海大14)の「真珠湾作戦」や「ミッドウェー作戦」について、世上には、軍令部の反対意見を山本長官が下剋上で覆して実施したなどの妄説が最近に至るまで流布されています。

   もちろん連合艦隊司令部と軍令部作戦課との間に、当初様々な意見の相違があったにせよ、真珠湾作戦もミッドウェー作戦も最終的には、正規の軍令部決裁手続きを経て、軍令部が命令して行なわれている海軍作戦です。つまり永野修身軍令部総長(*28、海大甲種8)、伊藤整一軍令部次長(*39、海大21)、福留繁第一(*作戦)部長(*40、海大24)、そして富岡定俊第一(*作戦)課長(*45、海大27)の、決裁印による正規決裁がなければ、海軍の大作戦は実施できないのです。

 戦後、当時の軍令部作戦課航空参謀であった三代辰吉(*のち一就に改名)海軍大佐(*51、海大33、開戦当時中佐)が、「自分たち作戦課はミッドウェー作戦に反対した」と主張したことなどから、こうした説が出ていますが、富岡作戦課長も同じく当初は反対してむしろF・S作戦(*フィージー・サモア)作戦を主張していましたが、昭和17 (1942) 年4月18日のドーリットル空襲を受けて、空気が一変しミッドウェー作戦の実施が決まりました。作戦課航空参謀が反対していても、作戦課長、作戦部長、次長、総長のライン職位者が同意捺印し、当然軍令部としての正規決裁がなされた以上は、軍令部が承認して実施したということです。これは現代のどの官庁、企業でも同じであり、担当者の一部が反対であったから、「下剋上だ」という立論の方がおかしいのです。

 また、「真珠湾作戦」については、むしろ軍令部作戦課の対米対蘭作戦主務担当参謀であった内田成志海軍大佐(*52、海大34、開戦当時中佐)が、昭和15 (1940) 年12月に富岡作戦課長から山本長官の真珠湾空襲案を聞かされて直ちに賛成し、富岡課長の指示により「真珠湾作戦」を含んだ第一段海軍作戦の計画細項の策定を行ない、翌昭和16 (1941) 年6月には、軍令部内の部長以下の捺印も得ていましたが、最後に永野総長だけ決裁印が遅れていたので、内田参謀が直接永野総長に決裁印をもらったということが、内田大佐の戦後記事「海軍作戦計画の全貌」(当初「人物往来」昭和31年2月号所収、のちに「日米開戦と山本五十六」新人物往来社2011年刊に再録、同275~284頁)で詳細に記述されています。本件については、また改めて論じたいと思いますが、昨今の動画サイトなどで、いかにも専門家のような人々が、こうした基礎的な研究もきちんとせずに、世上の妄説をさも真実のように語っているのを視聴すると、まだまだこうした誤解を糺してゆかねばならないとの責務を痛感する次第です。(今回はここまで)