前回に引き続き、慶應義塾大学法学部政治学科の故・中村菊男名誉教授(法学博士)のご著書から、今回は「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)による「太平洋戦争の推移とその問題点」を概観したいと思います。

 その前に少し申し上げておきたいことは、筆者の立場ならびに理解としては、「満洲事変」と「第一次上海事変」はワンセットですが、第一次上海事変の停戦によって「事変」としては一旦終了すると考えます。その後「日華事変(*北支事変が第二次上海事変の発生に伴って中国全土に拡大したもの)」が発生してから、対米英蘭開戦までは単体としての「日華事変」であり、そして対米英蘭開戦によって発生した「太平洋戦争(*対米英蘭戦争)」と「日華事変」の二つを合わせて総称した戦争が「大東亜戦争」であると認識しています。

 中国共産党を含む左翼系統の立場では、「満洲事変」(昭和6年~7年)と「日華事変」(昭和12年~16年)と「太平洋戦争」(昭和16年~20年)の三つを、中国の立場から見て「日中戦争」(*昭和6年~昭和20年)、或いは「十四年抗戦」として一纏まりにひっくるめていますが、日華事変以降の「八年抗戦」はともかくとして、「満洲事変」と「第一次上海事変」は、昭和6年9月18日(*柳条溝事件)~昭和7年3月3日(*第一次上海事変の停戦日)迄であって、事実「上海停戦協定(*昭和7年5月5日付)」を日本政府と中華民国政府の間で締結していることから、ここで一旦終了していると見なし得ます。その後の、散発的な事件や軍事衝突(*熱河作戦や綏遠事件など)による軍事的支配領域の変更は若干あるものの、本格的な日中間の戦闘が大規模かつ連続的に継続していたわけではないことから、次の本格的かつ全面的軍事衝突である昭和12 (1937) 年7月以降の「日華事変:(盧溝橋事件による北支事変と大山海軍大尉殺害などによる第二次上海事変以降の全面衝突)」までの「戦間期」は存在していると、筆者は考えています。

 尚、「事変」というのは、日本側も中華民国(国民政府・蔣介石政権)側も、それぞれの必要から「宣戦布告」せずに「戦争」とはしなかったもので、いわば「軍事衝突事件」の拡大版でした。これを「戦争」にしてしまうと、日華双方ともにアメリカの「中立法」の関係で、米国からの物資の輸入が止まることを避けるためでした。中華民国は武器弾薬を含む軍需物資をアメリカから供給されており、日本も石油(八割を米国に依存)や屑(*くず)鉄、工作機械類などをアメリカからの輸入に頼っていたからです。つまり日華双方ともに各々の「台所事情」から国際法上の「戦争」にはできなかったのです。アメリカも勿論それをわかった上で、いざとなれば対日禁輸という「経済的圧迫」を発動できるように準備をしていました。

 それが「日米通商航海条約の廃棄」(*昭和14 (1939) 年7月26日通告、翌昭和15 (1940) 年1月26日失効)であり、「日本の中国侵略に抗議する」というのがその理由でした。これによって日本は、アメリカ政府が輸出許可した品目だけが輸入できるという状態となったため、石油や屑鉄などの戦略物資を段階的に制限されていったわけです。これは現代にも続くアメリカの常套手段であり、戦争に入る前に、まずは「経済制裁」を行います。輸出入制限や在米資産凍結などで、貿易ができないようにしてしまうのです。人的交流も「渡航制限」で制御します。こうしたアメリカの「国家としての警告」を、どれだけ真剣かつ深刻に日本は受け止めていたのでしょうか。この「日米通商航海条約」の「廃棄通告」は、アメリカの「宣戦布告一歩手前」となる重大な警告であったことを、当時の日本政府や陸海軍統帥部がきちんと理解し、重く受け止めていたかが問題なのです。

 歴史的事実としては、陸軍による英仏の天津租界封鎖事件(昭和14 (1939) 年1月~8月)や日本国内の排英運動(昭和14 (1939)年5月~8月(*本シリーズ第(50)~(53)回ご参照)、対英米協調的な米内光政内閣の陸軍による倒閣(昭和15 (1940) 年7月22日)、日独伊三国同盟締結(昭和15 (1940) 年9月27日)、北部仏印進駐(昭和15 (1940) 年9月23日)、南部仏印進駐(昭和16 (1941) 年7月28日)、米英による石油を含む対日禁輸制裁の発動(昭和16 (1941) 年8月1日)、米国務長官による「ハル四原則」の確認(昭和16 (1941) 年10月2日)、「ハル・ノート」手交(昭和16 (1941) 年11月26日)という具合に、どんどん日米関係は悪化してゆきました。

 この間、僅かに野村吉三郎駐米大使や陸軍省派遣の岩畔豪雄大佐らによる「日米諒解案」(昭和16 (1941) 年4月18日)の提案もありましたが、松岡洋右外相の反対と修正要求で結局頓挫し、独ソ開戦(昭和16 (1941) 年6月22日)により、アメリカはその対日スタンスを硬化させてしまいました。ソ連が、対独戦争の開始により「敵の敵は味方」ということから、米英蘭の「連合国側」に入ったという、重大な国際情勢の構造変化が生じたからです。

 ちなみに「うらみは深し、ハル・ノート」と言われるこのハル国務長官からの文書を、日本側では米国政府からの実質的「最後通牒」と受け止めましたが、しかし、前回取り上げた富岡定俊軍令部作戦課長(開戦時)は、戦後の自著「開戦と終戦***」(昭和43年毎日新聞社刊)の中で、アメリカ政府の四原則をベースにしたハルノートについて、当時のアメリカ側の見解を、ハーバート・ファイス著「真珠湾への道」から引用して、こう記述しています。

・・・この米国の提案(*ハルノート)を最後通牒とみなすのは、政治的な意味でも軍事的な意味でも至当ではないように著者(ファイス氏)には考えられる。日本には四つの選択が許されていた。即ち、

   ①米国の提案に同意してその政策を転換する。

   ②南北のいずれにも、これ以上武力進出は行わないが、中国における戦争は極力これを続ける。

   ③軍隊の撤収を開始して、これに対し中国、米国、英国からいかなる反応があるかを待ってみる。

   ④あくまでも勝利をうるための政策を強行する。

というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ。・・・(***上記富岡少将著「開戦と終戦」74~76頁)

 このように米政府からすれば、まだ日本側に対処の余地があるものと考えていたフシもあるのです。一方で、ハルノートの冒頭に「厳秘 一時的且拘束力ナシ」(Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)という但し書きが書いてあったことから、この文書はあくまでハル国務長官の「覚書」に過ぎず、これを公式的な米国政府の最後通牒と見なしたことにも問題があったものと思われます。

 また、おさらいしますと、ハルノートの要求とは、中国からの撤兵、日独伊三国同盟の実質的解消、仏印からの撤兵、蔣介石政権の承認(汪兆銘政権の否認)などが焦点でした。つまりは、蔣介石と和睦し、ヒットラーやムッソリーニの枢軸国側とは手を切って、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ(仏・蘭は亡命政権)の連合国側についてくれということでした。そうすれば輸出禁止した石油や屑鉄などの資源も供給し、在米日本資産の凍結も解除して、破棄した日米通商航海条約も再締結しようという提案でした。

 もっとも、ハルノートの中国(China)からの撤兵要求の、「中国」に満州が含まれているかいないかが、大きな要素になります。満州からも撤兵となると、満州国の否定となるのですが、当時も今も「満州を含むかどうか」は、見解が分かれています。須藤眞志先生の「ハル・ノートと満州問題」(慶應義塾大学法学研究Vol.69 No.12, 1996)によれば「含まれていなかったと考える方が妥当」と結論づけられています。当時の東郷茂徳外相もこの点については判然とした解釈はしていなかった様です。しかし「中国」には満州を含むものと陸軍関係者は理解し、到底受け入れ難い「米国の最後通牒」に近いものとして受け止められました。しかし本当は東郷外相が今一度、野村大使を経由してでも、或いは在京のジョセフ・グルー駐日米大使経由ででも、ハル国務長官に対し、この「中国」というのは「満洲」を含むのか含まないのかという点を確認するべきだったとも考えられます。もとより「後の祭り」ではありますが…。

 さて、ここからは、中村菊男博士の「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)に冒頭所収の「満洲事変・日華事変・大東亜戦争(太平洋戦争)」(*陸軍編)の末尾に記載されている、中村博士による太平洋戦争の推移概観をみたいと思います。(*裕鴻註記、漢数字など表記の一部は適宜補正)

・・・このようにして、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)を開始せざるをえなかったが、日本の海軍は伝統的に、アメリカの艦隊の進攻作戦を南方洋上において迎え撃つ(*邀撃)戦技訓練を続けていた。ハワイ(*真珠湾)作戦のごときは、開戦間近まで考えられておらなかった。ハワイ作戦が実行の段階に移されたのは、昭和16 (1941) 年7月のことであった。(*これについては前々回(76)回末尾及び別シリーズ「山本五十六長官は愚将ではない(4)下克上の問題」でご紹介した、開戦時に軍令部作戦課の対米対蘭作戦主務担当参謀であった内田成志海軍大佐(海兵52期、海大34期、開戦当時中佐)の記述をご参照下さい。)

 この緒戦の性格が、戦争の全局に大きな影響を与えることになった。緒戦における日本の作戦計画は、アジアにおける米・英・仏・蘭の植民地や拠点をたたき、これを制圧して不敗の態勢を築くことになっていた。この目的は、ほぼ達成することができたが、昭和17 (1942) 年4月の(*空母)機動部隊によるミッドウェー強襲作戦の失敗により、彼我の戦略態勢は逆転し、ガダルカナル島の戦い以降、戦勢が不利となり、アメリカ軍の「飛び石作戦*」による進攻をくいとめることはできなかった。(*全ての日本軍占領基地を順次攻略するのではなく、「飛び石」のように要所のみ飛ばし飛ばしで攻略してゆく作戦。この結果、後方に取り残された日本軍拠点は補給が途絶えて苦しむことになる。)

 サイパン島の陥落とマリアナ沖海戦により、日本は南太平洋における制海権を失い、アメリカの航空機(*B29戦略爆撃機など)による本土空襲が始まり、東京をはじめとする都市爆撃が相つぎ、それによって生産力が低下した。戦争遂行能力は減退し、国民の間に厭戦の気分がでてきたが、戦争指導層の人びとは強気の態度であった。(*B29の航続距離は、サイパンと日本を往復可能。)

 そもそも、日本が戦争に突入したのは、日米交渉において、アメリカが日本の中国からの撤兵を促したのに対して、日本側がこれを受諾しなかったからである。第二次近衛内閣の陸相・東條英機の立場からすれば、中国からの撤兵は、なんのために日華事変をやったのか、日本の名分がはっきりせず、それはとうてい受諾できないものとされた。日本が満洲事変以来とってきた政策の全面否定を意味することは、国家の面目にかけて「のむ」ことができないものであった。この点は陸海軍の認識が一致していたといえよう。(*但し、及川古志郎海軍大臣は、当時支那派遣軍総参謀長だった後宮淳陸軍中将による中国からの撤兵意見に期待し、これを後押しする考えがあったことが防衛庁戦史叢書「大本営海軍部・聯合艦隊<1>開戦まで」昭和50年刊、559頁に記述されています。詳しくは別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」第(36)回をご参照下さい。)

 しかし、天皇は日米間の和平に希望をもっており、なんとかして外交交渉によって妥結を図ろうとしたが、第二次、第三次近衛内閣はその目的を達成しえず、東條(*英機)内閣によって戦争が開始された。先述のように、戦い利あらず、当初目的とした南方資源の戦力化も希望どおり実現せず、東條内閣は崩壊した。

 あとを受け継いだ小磯(*國昭)内閣も、なんらなすところなく、決戦と目されたフィリピンをめぐる戦いに敗れ、退陣し、鈴木貫太郎内閣となってポツダム宣言を受諾し、昭和20 (1945) 年8月15日、敗戦を迎えたのであった。・・・(**前掲「昭和陸軍秘史」24~26頁)

 このように中村菊男博士は、コンパクトに太平洋戦争を概括されています。

 ここでもう少し、私見としての解説を加えたいと思います。太平洋戦争の重要な海空戦を主体として、時系列的に主要な戦闘を挙げれば、「真珠湾作戦」と「ミッドウェー作戦」及び直前の「珊瑚海海戦」、「ガダルカナル島攻防戦」とこれに関連する「ソロモン海空戦」及び「南太平洋海戦」、そして「マリアナ沖海戦」と「サイパン島防衛戦」、「レイテ沖海戦」と「フィリピン防衛戦」及び「硫黄島防衛戦」、更には「沖縄防衛戦」と一連の「海空特攻作戦」、そして「本土決戦」という流れで推移してゆくわけです。

 「真珠湾作戦」と「ミッドウェー作戦」は、山本五十六連合艦隊司令長官の真意としては、対米英蘭開戦を時の政府と陸海軍統帥部が決定した以上、戦わねばならない立場として、「米艦隊主力」の早期撃滅がありました。ここで何を「艦隊の主力」と考えるかについては、日米両海軍ともに、この開戦時点では海軍主流派の考え方は「戦艦部隊が主力」でした。これはチャーチル首相戦争指導下の英海軍でも同様であって、「マレー沖海空戦」で、日本海軍航空部隊が英新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号と巡洋戦艦レパルス号を撃沈するまでは、チャーチルは「戦艦は飛行機よりも強い」と信じていたのです。

 そしてこれはアメリカ海軍も同様であり、加えてより肝心なことは、日本海軍でも大勢を占めた主流派も全く同じ認識、つまり「海軍の主力は戦艦部隊」であったのです。もちろん、日米両海軍ともに「航空派(空母主力派)」の人々も存在していましたが、どちらかと言えば傍流の少数派だったのです。

 山本五十六長官は、大正時代の駐米勤務で「航空」の重要性に着目し、帰朝後自ら志願してそれまでの砲術畑から航空畑に移りました。そして霞ヶ浦航空隊副長兼教頭、空母赤城艦長、第一航空戦隊司令官、海軍航空本部技術部長のち海軍航空本部長として、航空部隊の育成強化、零戦などの最先端国産海軍機の開発に長年尽力してきた「空の提督」であったのです。従って、小沢治三郎提督が発案した空母を集中して運用する「空母機動部隊」創設にも尽力し、陸上の海軍航空基地の設営や整備にも努力を重ねてきた「海軍航空の育ての親」でもありました。

 従って山本長官は、海軍の主力は戦艦部隊ではなく、空母部隊及び各島嶼に展開した陸上基地航空部隊であるとの基本認識を胸に抱いていました。しかし、栄光の「日本海海戦」以降、連綿と続いてきた「戦艦中心主義・大艦巨砲主義」で建造・整備・教育訓練されてきた海軍全体の「戦艦主力」の舵を切って、針路を「航空主力」に変更することは、連合艦隊司令長官をもってしても、容易なことではありませんでした。そこには巨大で圧倒的多数の「抵抗勢力」が、長官の上下左右を取り巻いていた状況だったといっても過言ではありませんでした。

 例えば、前回も取り上げた軍令部の中枢である作戦課長を開戦時に務めていた富岡定俊海軍少将(*開戦当時大佐、海兵45期、海大27期首席卒業)や、「作戦の神様」と言われていた福留繁第一(*作戦)部長(海兵40期、海大24期首席卒業、海軍中将)、神重徳首席作戦参謀(*海兵48期、海大31期首席卒業、終戦直後殉職し海軍少将)など、並み居る海大出の「大秀才」は、軒並み「大艦巨砲主義・戦艦主力主義」だったのです。

 そして、この我が戦艦主力部隊(*対米比率7割)が、最終的に米戦艦主力部隊(*10割)を撃滅するために立案されたのが「漸減邀撃作戦」でした。更には主力戦艦部隊による「艦隊決戦」を遂行するための重要な「索敵・偵察・漸減」の任務を担ったのが潜水艦部隊でした。東京大学法学部出身の歴史家、秦郁彦先生の著書「昭和史の軍人たち****」(昭和53年文藝春秋刊)の「末次信正」の項から引用すれば、日本海軍の「漸減邀撃作戦」における潜水艦戦略は、次のように説明されています。

・・・第一次大戦の戦訓では、潜水艦は通商破壊戦に主用するのが通念となっていたが、日本海軍はその隠密機動性を活用して、あえて漸減作戦の主役的役割を与えたのである。すなわち、開戦初頭に米艦隊の出撃根拠地と予想されるハワイ(*真珠湾)を有力な潜水艦隊で包囲して出撃の時機を確認し、出撃後はただちにこれを追跡して兵力、隊形、航進方向などを断続的に確認通報し、好機を見て奇襲攻撃を反復しようというのである。そのために日本海軍は、燃料補給なしに太平洋の往復が可能で、水上20~23ノット*、水中8ノットの高速をほこる大型巡洋潜水艦を開発した。(*10ノットは時速18.52キロ)

 そして大正8 (*1919) 年いらい、連合艦隊に三隻編制の潜水艦三隊からなる潜水戦隊を編入して、艦隊決戦に応じる訓練を開始し、ワシントン(*海軍軍縮)会議のころにはすでに五十隻近い潜水艦隊を整備していた。当時の米戦艦の速力が最高20ノット、巡航12ノット程度であり、わが大型潜水艦による追跡、奇襲は可能であり、さらにすすんで決戦海面が近づけば、離脱先行してわが主力と合同し、主力(*艦隊)決戦に参加することも可能と判断された。(*中略) 対米6割の劣勢比(*ワシントン軍縮体制)で勝機を求めて苦悩していた日本海軍にとって、潜水艦を主体とする漸減戦略の見通しがついたことは、何物にも代えがたい朗報であったろう。(*後略) ・・・(****前掲書298~299頁)

 この戦略構想に基づいて、水上を高速で移動可能でかつ航続距離の長大な、大型の航洋型伊号潜水艦を多数建造整備し、上記の通り米艦隊が出撃する真珠湾を取り囲み、出撃時機を把握するとともに、追従触接しつつ連合艦隊司令部に逐次針路を報告します。この情報に基づき、連合艦隊司令部は適切な会敵海域に先遣攻撃部隊である水雷戦隊を送り込んで、夜襲魚雷攻撃などで米主力艦の漸減を行い、また空母や近隣諸島の航空基地から送り込んだ航空攻撃部隊による空襲・漸減も行います。

 そして敵米主力部隊が減少して日本主力艦隊とほぼ均等の戦力となったところで、マーシャル諸島の北方海域あたりで待ち受けている我が主力戦艦部隊が、米戦艦よりも射程距離の長い大和型戦艦の46センチ巨砲による巨弾を必殺の武器として、米戦艦の射程距離圏外からの長距離砲撃を敢行(これがアウトレンジ戦法)して、米艦隊を撃滅するというシナリオでした。

 これに加え、戦艦よりは高速で、かつ魚雷も装備する重巡洋艦部隊が機動的に連携攻撃を加え、また追従してきた軽巡洋艦と駆逐艦主体の高速の水雷戦隊、そして空母から発進してくる航空攻撃隊、同じく追従してきたり又は他の哨戒海域から決戦海域に集結して来た巡洋潜水艦の潜水戦隊、さらには高速輸送が可能な母艦から発進する甲標的と称する小型潜航艇群が米艦隊の針路上で待ち受けて、世界に誇る酸素魚雷で攻撃するという、壮大な絵巻物のような大作戦が展開される予定だったのです。

 各国が爆発事故の頻発などで開発を諦めた、酸素を駆動燃料に利用した魚雷を日本海軍は苦心の末に開発し、高速で長距離まで正確に駛走し、酸素が燃焼するために雷跡(*泡の航跡)も見えず、かつ爆発力の大きな秘密兵器が酸素魚雷でした。この酸素魚雷を縦横無尽に敵米艦隊に浴びせ、大和型や長門型の巨大戦艦の巨砲巨弾の長距離砲撃を浴びせて、米艦隊を撃滅するというわけです。

 この「漸減邀撃作戦」を基本とした「海戦要務令」という艦隊運動程式を、繰り返し頭と身体に叩き込み、建造する各艦種の性能、航続距離などは全てこの作戦を基にして定められ、休日を返上した「月月火水木金金」の猛訓練は、このシナリオを完全にこなすべく繰り返されてきました。現代流に言えば、「過剰適応」とも言うべき完璧な状態となるまで、全海軍が一意専心して慣熟をしていたのです。従って、海軍大学校出の秀才たちは、これを「所与の前提」として全てを判断するようになっており、山本長官に言わせれば、どの参謀に質問しても全く同じ回答が返ってくるという「金太郎飴」みたいな「同質性」が形成されていたわけです。

   いろいろと問題児でもあった黒島亀人先任参謀(*海兵44期、海大26期)を、山本長官が重用したのは、黒島参謀の「異質性」にあったのであり、こうした「定型的」「常識的」な思考に「囚われない」、別の表現をすれば「逸脱した」、ある意味では「常軌を逸した」発想や思考ができることにあったのです。しかしこの特質は裏目にも出て、山本長官戦死後に軍令部第二部長(*軍備担当)となった黒島少将は、山本長官なら決して許可しなかったであろう「特攻兵器」の開発に尽力するようになります。

 山本長官が考えていたのは、こうした「型にハマった」戦艦主力の洋上大艦隊決戦などは、恐らく今次の戦争では起きないだろう。そして戦艦よりも空母が主力となる。従って米空母部隊をなんとしても早急に撃滅しなければならない、というのが山本長官の真意であったと思われるのです。(次回に続く)