前回は、戦前昭和日本の大東亜戦争へと向かう道程において、その大きな要因となった、昭和陸軍中央中枢のエリート中堅幕僚・参謀将校層に焦点を合わせて、「一夕会」メンバーの動向を取り上げました。その後、この「一夕会」メンバーが、人事と予算と政策を握る陸軍省と、陸軍の作戦計画や謀略・対外施策を司る参謀本部の要職者を占め、日本の「ボトムアップ型」組織決裁構造に基づき、事務局が起案する陸軍政策・国策の内容と方向性を、打ち出す存在として機能しはじめます。

   そうしたエリート中堅将校層によって持ち上げられて、陸軍省部の大臣・総長・次官・次長などに就任するも、自らの意志による上意下達や部内指揮統制を十分できなかった陸軍将官たちが、ずるずると満洲事変や上海事変、満州国建国、日華事変、汪兆銘(精衛)政権の樹立、日独伊三国同盟締結、北部・南部仏印進駐などの大陸政策や対外国策を、事務局が起案してくる一連の施策の通りに追認・承認し、陸軍以外の国家諸機関に対して、それら「陸軍の総意」なるものを推進し、強要する役割を担ってゆく構造となっていったのです。これがいわゆる「幕僚統帥」と呼ばれる、組織的システムと化してゆくのです。

   つまり国策の基本的方向性を決めるのが、トップ層ではなくミドル層の中堅幕僚事務局となってしまったわけです。それでも、しっかりした実力のあるトップが、案件によっては却下したり、方向性を正したりできていれば、このような「幕僚統帥」にはならないのですが、それをトップがしない、あるいはできないと、まさに下剋上的に中堅事務局が首脳陣を操縦し、ロボット化することにも繋がってしまいます。わたくしは、昭和陸軍の内部で特にこうした事象が起こっていたことが、帝國陸軍の内部統制を歪め、ひいては大日本帝國自体の進路をも左右したものと判断しています。

   その場合に問題となるのは、いくら同世代では、ずば抜けた秀才で優秀な頭脳と能力を持つ者であっても、やはり二十代、三十代、四十代、五十代と、年輪を重ねることで、いわばその人物の「飛行高度」が上昇してゆくに連れて、初めて見えてくる景色や風景があるという事実です。若い頃よりは壮年、壮年よりは老練となるに連れて、より遠くまでの見通し距離や幅広い視野で、ものごとをよく見透して把握できるようになり、しかも目先の近視眼的な、狭くて浅い判断よりも、より広く深く、長期的かつ大局的に、本質を穿ち正鵠を得た、展望・観望や判断・決断が、できるようになるのです。

   飛行機に例えれば、エンジン(頭脳・能力)の優劣もあれば、機体(人物・器量)の大小など、いくつかの組み合わせがあり、零戦のようにエンジンも優秀な小型機もあれば、大型機だけれどもエンジンの出力不足である場合もあります。エンジンもイマイチな小型機は、大して飛ぶこともできず、稀にエンジンが優秀なB-29のような大型機があれば、遠くまで高高度を速く飛ぶこともできるでしょう。人間は生まれついた頭脳や素質・性格と、成長・教育・経験の過程で得る人格や教養や器量・使命感・倫理観・根性など、様々な人間的要素の組み合わせやその成長・退化などによっても、その人物の識見や判断力は異なります。野球でも「名選手必ずしも名監督ならず」と言われますが、稀には名選手にして偉大な名監督になる場合もあり得ます。しかし、選手としては中堅であっても、監督になってからは名監督になる場合、名選手であっても監督としてはイマイチで終わる場合など、様々なケースがあり得るのです。スポーツの世界のみならず、当然、陸・海軍の将校・将官であれ、中央政府の上級官僚であれ、民間会社の社員・経営者であれ、いろんなケースがあるのです。

   しかし、どんなに優秀なエンジンと機体を持つ飛行機でも、離陸前の地上滑走では、自動車と同じ二次元平面(地面)の高度と視界・視野しかない状態で走り、離陸しても当初は低空での視界・視野に限られます。そして上昇高度が上がってゆくに連れて、ようやく見える範囲が広がり、次第により遠くの景色も視野に入ってきて、最終的な巡航高度に達して、ようやく速度も巡航速度に達し、針路も定まり安定した飛行状態になるわけです。その時は、その飛行機の巡航性能が発揮された状態で、地上や空中の視界・視野が広がり、遠くまで見通しかつ広く見渡しつつ、適切なベストの航路を正しく飛んでゆくことができるようになるのです。

   人間も同様に、まだ若くて地上滑走中の状態、少し慣れてきて離陸する段階、更に上昇を続ける中堅の段階、そしてようやく組織のトップに近い飛行高度に達しての巡航状態となるわけです。従って素質も能力も優秀な人材・人物であっても、離陸上昇中の飛行高度で当人から見えている視野・視界は、当然限られたものとなり、すでに高高度の巡航高度に達しているトップ層から見えている広い視野・遠くまでの視界とは、相当な違いが生じることになります。

   しかしどんなことにも例外はあります。若くて優秀な人物が、早くから高高度に達して、より広い視野と先行きの遠くまでを見通している場合も、稀ながらあり得るわけで、例えば、本シリーズで取り上げた橋本左内(景岳)先生も、そうした一人であろうし、海軍で言えば、堀悌吉海軍中将や山本五十六元帥海軍大将、そして井上成美海軍大将もそうでしょう。陸軍でも、永田鉄山陸軍中将(没後進級)や石原莞爾陸軍中将も、能力的には、こうした人材の人々であったと思われます。ただ、永田将軍や石原将軍が中堅時代に打ち出していた方向性が、果たして日本にとって本当によかったかといえば、そうではなかったとわたくしは思います。けれども優秀なこのお二人のどちらかが、もし開戦直前の陸軍大臣であれば、恐らく彼らは対米英蘭開戦には踏み切らなかったのではないかと、わたくしは推察します。また日華事変も泥沼化させずに、ある程度のところで矛を納め、ある範囲までは撤兵もさせたのではないでしょうか。

 こうした検討と分析を重ねてくると、この大東亜戦争開戦に至る道筋の、どの分岐点で、異なる道を選ぶべきであったのか、を考えさせられます。鉄道の転轍機に似て、ここで違う路線へと進んでいれば、あの戦争は避けられたのではないか、そのような分岐点が、実はいくつもあったのではないかと思われます。その時、その歴史を担った当事者たちは、それぞれに自分たちが正しいと思った方向に、施策・国策を進めたわけですが、やはりその基準とする針路、すなわち国家・国軍を進める方向性・志向性に、なんらかの誤りがあったものと推察されます。

 それは基本的に、日本が進むべき海洋貿易立国の針路を選ばず、中国大陸進出による植民地拡大主義を選び取ったことが、いけなかったのではないか、と考えられます。やはり日露戦争後、明治末期以降の日本は、大韓帝国(現・韓国)や中華民国(現・台湾)の主権と独立を認めた上で、基本的に日本が両国の近隣友好国として善導する協力体制を志向する針路を選ぶべきではなかったか、と思料する次第です。

 話を戻し、中堅幕僚層の暴走と、それを許し、また首脳陣が統制できない状態となる「幕僚統帥」について、海軍ではどうだったのかを検討したいと思います。

   帝國海軍も陸軍と同様に、海軍兵学校からさらに海軍大学校に進んで、しかも優秀な卒業生には恩賜の軍刀が与えられ、枢要な配置に就く者が多かったのですが、その反面で船乗りとしての海上勤務や、潜水艦や航空機など海中・空中での勤務、そして何よりこうした機械類を駆使した戦闘における実力発揮が、基本である海軍では、必ずしも海軍大学校を卒業せずとも、海軍提督(将官)に栄進する例もかなりありました。

   野村吉三郎海軍大将(海兵26期)、栗田健男海軍中将(海兵38期)、西村祥治海軍中将(海兵39期)、大西瀧治郎海軍中将(海兵40期)、太田實海軍中将(海兵41期)、木村昌福海軍中将(海兵41期)など、多数の海軍提督は、海軍大学校(甲種)を卒業していません。ただ、海軍省軍務局や軍令部第一部第一課(作戦部作戦課)など中央・中枢の勤務には、海軍大学校卒業成績優秀者が就くケースが多かったことは間違いないのですが、そもそも海軍参謀には、直接ライン職としての命令権はなく、あくまで司令官や司令長官のスタッフ職としての補佐としての起案だけで、それを踏まえての最終的な命令は、必ずライン職である長官、司令官、司令、艦長が自ら決断・決裁して出す、という厳正とした規律が徹底していました。例え航海長や砲術長が、取り舵を進言・意見具申していても、艦長が自ら判断して面舵を令すれば、艦は整々粛々と右に針路を曲げるのです。さもないと衝突・座礁などの危険がある海上で、転瞬の判断で艦の安全や戦闘の可否を決断しなければならない、全責任を負った艦長の職責を、果たすことはできないのです。もちろんその結果、艦が損傷・沈没の危難に見舞われたときは、その艦長は全責任を背負うのです。これが、当時も現在も全世界の真っ当な海軍の艦長に与えられた権限であり、課せられた責務であるのです。もちろん航空機のパイロットや機長も同じです。この意味で、海軍という組織では、下剋上や幕僚統帥は起こりにくい体質がありました。スタッフ(参謀)はあくまでラインの責任者(指揮官)の判断・権限を犯さない。部下が意見具申し、参謀が起案しても、その採否や変更・修正などの判断と、それに基づく命令は、ライン職の艦長・司令・司令官・司令長官が自ら行い、その結果についての全責任を負う、という厳正なる規律と指揮系統が、海軍の本領なのです。

   こうした整然かつ厳格な命令系統からは、そもそも陸軍に見られる下剋上などは生じにくい体質があるのです。一方で海軍部内では研究会などが開催されると、階級の上下の隔てなく自由に意見を言い、議論する雰囲気があったと言います。つまり指揮官やその責任者が決断するまでは、自由に意見を言っても差し支えないし、それを参考に指揮官は状況判断もするのですが、一旦その衝に当たる責任者や指揮官が決断を下したら、皆持論と異なっていてもそれに従うという組織文化だったのです。「海軍部開戦経緯**」にもこう記述されています。

・・・命令があるまでは、自由に意見を述べよ、いったん命令が下されたうえは、自説を捨て、誠心誠意、命令の完遂に努めよ、その結果が予期されたものでなくとも、その言い訳に、かねての主張の正当性を引き合いに出すことは恥ずべきことである、以上のような訓(*おし)えが、海軍軍人の躾(*しつけ)教育の基本項目になっていた。「艦船職員服務規程」(大正八年六月達第一一一号)の綱領が、よくこの躾の源泉をなしていたものと認められる。・・・(防衛庁戦史叢書『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯**』〈1〉巻、25頁より)

   →本項ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(37) 戦史叢書海軍部開戦経緯を読む

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12418304523.html?frm=theme

 

   ところが、特に戦争中の陸軍参謀は、自分よりは階級も軍歴も遥かに上位である陸軍司令官や部隊長に対しても、上位軍(組織系統上、指揮命令権のある上位組織)の参謀が、現地で直接部隊に命令を出す、というようなことが行われていました。ガダルカナル戦最中に、東京から現地に出張していた参謀本部作戦参謀の辻政信陸軍中佐が、現地軍指揮官の川口建清陸軍少将と作戦方針に関して対立し、辻参謀が川口支隊長を罷免しようとしたり、結局辻参謀の指導で無理な攻撃をさせて敗北したりしました。これ以外にもシンガポール華僑虐殺や、フィリピン・バターンでの捕虜射殺命令、ポートモレスビー作戦においても、辻参謀は現地で独断専行の作戦指導を行い、ニューギニア島を縦断するオーエン・スタンレー山脈(標高約2千m級のココダ峠)を超えて、陸路ポートモレスビーを攻略する攻撃は失敗し、多数の将兵が戦死・餓死する無惨な結果となりました。こうして無理な実施を辻参謀から強要されても、その敗戦の責任はその部隊長や司令官に負わされるという構造を、陸軍のエリート参謀主義はもたらしていたのです。そもそもこの陸軍参謀の仕組みは、帝國陸軍が師匠としたプロイセン(ドイツ)参謀本部から来ていて、要は中央のエリート参謀集団が、全軍を統一指揮するという考え方が基本となっています。出先現地軍を指揮する陸軍司令官や部隊長といえども、中央の参謀本部からすれば「将棋の駒」に過ぎないのです。

 →本項ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(24) 日本の「無謬性の文化」の過ち

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12388276867.html?frm=theme

 

 この点、帝國海軍では、陸軍の参謀本部に相当する軍令部が、連合艦隊に任務を与え、作戦の目的を指示しますが、それをどのような手段で実行するか、その作戦計画の立案と実施は、原則として実施部隊たる連合艦隊司令部に委ねられていました。開戦時の軍令部作戦部長を務めていた福留繁海軍中将(当時少将)は、戦後の自著『海軍の反省***』(昭和26年日本出版協同社刊)で次のように述べています。

・・・ 世上には、大本営(*軍令部作戦部)と連合艦隊との間に意見の杆格(*扞格:相容れぬこと)があって、結局大本営(*軍令部)が山本長官に屈したと取沙汰されているようであるが、これは恐らく一部の人々の片言隻語に基く憶測であろうと思われる。作戦計画については、作戦最高指導部たる大本営(*軍令部)でも、実戦指導部たる連合艦隊司令部でも、次々と不断に(*作戦)研究をつづけているので、いつでもいろいろの案がある。そこで大本営(*軍令部)はこれらの諸案を勘考して、連合艦隊の達成すべき次期作戦目的を決定する。これが主将連合艦隊司令長官の任務として与えられるのである。

 そしてこの任務を果たすべき手段方法は主将に一任されるのが、日本海軍の伝統であって、日露戦争における東郷連合艦隊司令長官の場合、バルチック艦隊の邀撃に当って、大本営にも艦隊側にも種々の意見はあったが、結局「何時」、「何処で」、「如何にして」これを撃滅するかの手段は、主将東郷の所信に一任された。その如くに、ミッドウェー作戦の場合も、大本営としては同じく決戦目的を達成するために、山本司令長官の最も自信をもつ作戦方策を採択する当然の措置をとったまでであって、(*同海戦の)結果が悪かったから大きく問題にするのであろうが、結果の悪かったのは作戦実施に油断があるからで、後章更に説明を加えるつもりである。・・・(***前掲書115~116頁)

 

 因みに帝國陸軍では、連合艦隊に相当する陸軍全軍の総司令部的組織はなく、参謀本部(戦時は大本営陸軍部)から直接、各軍や各部隊に対して作戦命令が発せられる仕組みになっていました。平たく言えば、この意味では参謀本部(参謀総長)の命令で、直接出先の各方面の軍や部隊が動くのですから、ラインの命令を実質的には参謀総長(作戦部長・作戦課長)が発している(名目的には大元帥陛下の命令)わけです。これに対して、軍令部(戦時は大本営海軍部)は、陛下のスタッフとしてあくまで陛下の大号令(大海令)を、実施部隊のいわば元締め統括者である連合艦隊司令長官に「伝宣」しますが、これを受けて実際の作戦命令を整えて、麾下の各艦隊や各部隊を指揮・命令するのは、連合艦隊司令部(司令長官)なのです。

 戦後の自衛隊でも、海上自衛隊には当初から連合艦隊に相当する組織として自衛艦隊が置かれ、自衛艦隊司令官が海上・海中・航空・陸上の麾下主力戦闘部隊の統合指揮を執っていますが、陸上自衛隊には、このような組織がないままでした。しかしようやく2018年(平成30年) 3月27日になって、陸上総隊(Ground Component Command)が創設され、陸上総隊司令部は各地方の方面隊を統合指揮することになり、航空自衛隊の航空総隊司令部とともに、自衛艦隊司令部に相当する、全国の陸自戦闘部隊を直接、統合指揮する総司令部となりました。

 さて、時間を巻き戻し、話を帝國陸軍に戻しますと、明治期にプロイセン陸軍の参謀本部制度と参謀システムを導入した関係で、上述したように、陸軍中央・中枢の中堅幕僚・参謀たちが、実質的には全陸軍を統合指揮する仕組みになっていました。更に、三月事件・十月事件や満洲事変などにおける、この中堅幕僚層によるクーデター計画や、出先の関東軍と朝鮮軍(独断越境)の参謀、及び上海駐在武官補佐官などによる各種の謀略によって、本来の統帥権者であるはずの天皇陛下の勅許もご命令をも得ないまま、現地軍が独断暴走し、事変を起こして戦線を拡大してから、中央の陸軍省・参謀本部に追認・承認させ、しかもその謀略の当事者に、恩賞を与えるということが常態化して行きます。これこそ陛下の御意に反する「統帥権の干犯」そのものの行動です。

 本シリーズでも取り上げた、終戦時の鈴木貫太郎首相(退役海軍大将)は、満洲事変当時は侍従長でしたが、この時の林銑十郎朝鮮軍司令官による独断越境攻撃は、陛下の命令なくして行った「(統帥)大権干犯」であることを、時の南次郎陸相に指摘したため、陸軍部内から恨まれて「陛下のご聖明を覆う君側の奸」であると断定され、二・二六事件でこれを真に受けていた青年将校たちから襲撃され、銃弾を四発打ち込まれました。瀕死の重傷で一時は心肺が停止したものの、駆けつけた医師や病院での懸命の蘇生救命措置により、奇跡的に息を吹き返したといいます。また鈴木提督のお孫さんから直接ご講演で伺った話では、提督ご逝去によりご遺体を火葬した際、この時の銃弾がお骨と共に残っていたそうです。

 →ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(65) 戦前の「御聖断」とはどういうものだったのか(陸軍司令官による統帥権干犯の指摘の件)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12459724531.html

大東亜戦争と日本(66)二・二六事件襲撃の実相と陸軍中央の反応

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12676412694.html

大東亜戦争と日本(68)陸軍青年将校の胸に響いた海軍提督の説話

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12676722120.html

 

 昭和天皇は、こうした陸軍の勝手な行動を苦々しく思っておられたので、昭和13(1938)年7月、ソ満国境(*張鼓峰)での武力行使の際、当時の板垣征四郎陸軍大臣が願いによって拝謁したとき、次のように仰せられたといいます。

・・・『元来陸軍のやり方はけしからん。満洲事変の柳條溝の場合といひ、今回の事件(*日華事変)の最初の盧溝橋のやり方といひ、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕(*天皇陛下)の軍隊としてはあるまじきやうな卑劣な方法を用ひるやうなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思ふ。このたびはそんなやうなことがあってはならんが……』といふことをたしなめられ、さうして(*板垣征四郎)陸軍大臣に向って、『今後は朕(*昭和天皇)の命令なくして一兵だも動かすことはならん』と、非常に語気強く仰せられたので、陸軍大臣は恐懼措くところを知らずして、退出した。・・・(原田熊雄述『西園寺公と政局』(岩波書店)第七巻、51~52頁より)

 →ご参考:大東亜戦争と日本(38)昭和天皇と帝国陸軍の軍紀紊乱

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12646534043.html

 

 陸海軍も含め、日本の公官庁や大企業といった組織を動かしているのが、課長クラスからの起案に基づく「ボトムアップ方式」の組織決裁構造であることにより、こうしたエリート中堅幕僚層は、陸軍部内においてもその主導力を発揮することができました。わたくし自身もかつてある企業で経験しましたが、仮にトップ自身が何かをやりたいとか、ある方向に進めたいと思っても、それを正式の組織決定とするためには、その案件の担当部課から、そうした内容を起案させ、それに関連する他の部課や関連担当役員の合意を得て、定められた順番に部長、担当役員の決裁を得た上で、さらに所要の委員会なり役員会に付議し、それらの賛同を得て、はじめて正式な機関決定がなされることになります。もちろんその上程する過程で、さまざまな修正がなされたり、最悪の場合はどこかで引っ掛かって却下され、ボツになってしまう案件もあるわけです。しかし、これはトップといえども、独裁的な独断専行を許さない、組織的合意を基幹とする意思決定システムだといえるのです。

 ここが、欧米流のトップダウンの意思決定システムと大きく異なる構造なのです。日本流のボトムアップも、欧米流のトップダウンも、それぞれにその良し悪しは、いろいろとあるとは思いますが、日本流の場合は、最初に起案をする課長と当該担当課員(つまりミドルクラス)の判断や希求が、基本的には組織全体を動かしてゆくのですから、そうした組織におけるトップクラスの役職者・責任者の、果たすべき役割や、部下から望まれる執務スタイルと人間としてのタイプは、ある方向性を帯びることになります。

 欧米流の場合は、例えばナポレオン将軍のように、自分自身で考え、必要な命令を自分で書くか口述して参謀に書かせ、それを麾下の各軍・各部隊の指揮官に伝達することで、自らが主体・中心となって全軍を動かしてゆくわけです。まさにトップダウンそのものです。そのためには、トップ自身にそれだけの実務能力が要求されます。

   太平洋戦争中の米海軍には「海軍とは1%の天才が考え、99%の愚者が実行する一大計画である」という言葉があったそうですが、大戦中の米海軍トップであったアーネスト・キング海軍元帥などは、まさにこうした「1%の天才」的なワンマンタイプのトップであったようです。しかし、戦争が複雑多岐に亙り、かつ業務量も膨大になるにつれて、キング提督はナポレオン方式の限界を悟り、トップは部下に「何をするべきか」という指示を与えるが、「それをどうやって実行するか」は、その部下自身に考えさせる方式に転換したといいます。つまりは基本的にはトップダウンであるけれども、部分的にボトムアップの仕組みも組み合わせたというところでしょうか。

 一方の日本流では、会社組織を例にすれば、起案をするミドルクラスの担当者もその上司たる課長も、自分達が案出・企画した起案案件を、当然に通したいのです。さすれば、関連する他のセクションの意見はともあれ、自分達の上司である部長や担当役員や役員会議や社長・会長には、うるさいことを言われたり、差し戻されたりすることを、当然ながら嫌がるわけです。まあ、余計なことを言ったり、邪魔したりしないで、さっさとこの案件に同意して決裁してくれ、と内心では思うことになります。こうした心境の部下から見て、ありがたい上司・上官は、文句も言わずに、そのまま一緒になって、その案件を役員会でも賛成し援護射撃してくれて、その案件を通してくれるタイプが好ましいわけです。そして社長や会長には、何も言わずに賛同してくれる人が「大人物」として、部下たちからは好まれることになります。更にいえば、その決定が何かあとで問題を生じた場合には、トップないしは上司・上官が、その責任を負ってくれて、部下である自分たち起案者と起案課を守ってくれれば、最高なのです。

 真相はわかりませんが、恐らく西南戦争の際の西郷隆盛公は、まさにそのような上司・上官であり、トップであったのではないでしょうか。部下がやりたいことを、自分も一緒になってやらせてやり、失敗したときは自らの死を以ってその責任を背負ってくれる。そのような人物には、皆がついて行きたいと思うのではないでしょうか。まあ実際には、特に最近は、こうした上司・上官やトップは、天然記念物の絶滅危惧種なみに少なくなっている実態があるかもしれませんが…。

 陸軍のエリート中堅幕僚たちも、その意味では同様であり、上司・上官にはこういう人物像を、求めていたものと思われます。しかし、そのやろうとしていることが、本当に日本のためになる、素晴らしいことであれば、何も文句はないかもしれませんが、もしもそれが間違った方向に向いている場合は、やはり上司・上官、トップは、それを阻止し、向かうべき方向を変えさせなければなりません。ところが、起案している中堅層は、自分達の考えが正しいと当然に思っているわけですから、そういう彼らからすれば「わからずや」ないしは「暗愚」の上司・上官に対しては、激昂して詰め寄り、場合によっては斬って捨てるぞ、というような気迫で威嚇することにもなるのです。こうなると、それを阻もうとする上司やトップも命懸けです。「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」となるわけです。

 本シリーズで見た、終戦時の宮城事件(クーデター)で殺害された近衛第一師団長の森赳(もりたけし)陸軍中将や、ある意味では自刃した阿南惟幾陸軍大臣も、こうして命と引き換えに、部下・下僚の暴走を食い止めたとみることができます。

 西郷さんのようなトップは、日本流ではとても敬愛されるのですが、それは全てを信頼する部下たちに任せ、自分はその責任を執ってやればよい、という一種の悟りのような心境でなければならないのです。しかし、問題はその部下たちの考えることが、本当にその組織体にとってのベストであるか、どうかが、より大きく深刻な問題なのです。中堅層が正しければ結構、しかし間違っている場合はどうなるのか、トップはどうするべきであるのか。トップは、上司・上官は、その時、上程されてきた部下のミドルの提案を、嫌われようが憎まれようが、厳しく差し戻したり、却下できるのか。この問題の本質的な正解は、やはりその当該案件の、内容自体とそれがもたらす方向性の如何に、かかっているのです。

 正しい起案なら、当然それを承認し、間違っている起案なら、それを却下する。この当たり前のことが、きちんとできるかどうかが、結局はトップも、上司・上官も問われているし、またその裁断・裁決の結果を、謙虚にかつ真摯に受け止め、もう一度考え直す部下であらねばなりません。そうした問題を、このミドルからのボトムアップ方式と「幕僚統帥」は内包しているのです。

 →ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(9)陸軍中堅エリートによる幕僚統帥の構造、岩畔豪雄将軍談より

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12361723727.html?frm=theme