まずは前回見た東京大学名誉教授の小堀桂一郎著「鈴木貫太郎 用うるに玄黙より大なるはなし**」(2016年ミネルヴァ書房刊)より、二・二六事件のあるシーンをご紹介したいと思います。なお原著では小堀博士の哲学と美学から旧漢字と文語仮名遣いとなっていますが、ワープロの関係もありまた若年各層の読者も考えて、小堀先生にはお赦しを請いつつ、ここでは表記を一部替えています。(*裕鴻註記)

・・・昭和11 (*1936)年は雪の多い年だった。東京では2月4日の立春の日の午(*ひる)頃から降り出した雪が翌日には約32糎(*センチ)の深さに積もって54年ぶりの大雪と発表された。2月24日には再び降雪となり、約35糎に達して二十日前の積雪記録を更新した。その大雪の夜が明けた2月25日には、夜、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーが、(*内大臣)齋藤實夫妻、(*侍従長)鈴木貫太郎夫妻、松田一元大使、榎本重治海軍参事官等の親しい日本人知友を大使館邸の晩餐会に招いてゐた。食事が終るとグルー大使夫妻はハリウッド映画を上映して客人達をもてなした。映画は「お転婆娘マリエッタ」という、古風で優雅な背景音楽を流し乍らの可憐な物語であったという。常々十時には社交の場から引揚げる習慣の齋藤(*實)子爵夫妻は、この夜は例外的に十一時半頃までの長居を楽しんで機嫌宜く大使の官邸を辞去した。此が此の世での齋藤の姿の見納めとなった。鈴木も客一同と楽しみを共にして夜遅く帰宅したのだが、大使官邸での大変な歓待にも拘らず、どうした予感のはづみでもあったのか、<電燈の所為か何となく暗く陰気に感じたのです>と回想してゐる。

 そして日付が変って暁暗の四時頃、麹町区三番町二番地の侍従長官邸にも蹶起部隊は襲って来た。熟睡してゐた鈴木を女中が起しに来て、兵隊が堀を乗り越えて侵入して来ましたと急報した。鈴木は直ちに、愈々蹶起を実行したな、と直感し、取り敢えず身辺にあるはずの武器を探して納戸に入ってみたが、役に立ちそうな物は見当らない。納戸の中で殺されるのは恥辱だ、と思い直して、既に大勢が闖入して来た気配のある八畳の間に入って電燈を点けた。すると周囲から二・三十人の兵士が銃剣を突き付ける形で鈴木を取り囲んだ。

 襲って来たのは歩兵第三聨隊第六中隊の中隊長安藤輝三大尉指揮下の下士官・兵約二百名で、士官としては安藤の他に第一中隊の坂井直中尉、第十中隊の鈴木金次郎少尉、第三中隊の清原康平少尉が引率格だった。

 その中から一人が進み出て、閣下ですか、と一言問うた。口調は丁寧なものであったらしい。この問いをかけた者の名は判ってゐない。以下鈴木が兵士等の銃撃を受けて倒れた瞬間の場面は「(*鈴木貫太郎)自伝」に記された洵に冷静な記述を引いておくのがよいであろう。高宮(*太平)氏執筆の『鈴木貫太郎傳』も遭難の夜の事は「自伝」からの長文(約六頁に亙る)の引用を以てし、注釈というほどの文字は加えてゐない。

 <そこで私(*鈴木貫太郎)は双手を拡げて、まあ静かになさいとまづそう言うと、皆私の顔を注視した。そこで、何かこういう事があるについては、理由があるだろうから、どういう事かその理由を聞かせて貰いたいと言った。けれども誰もただ私の顔を見てゐるばかりで、返事をする者が一人もない。重ねてまた、何か理由があるだろう、それを話して貰いたいと言ったが、それでも皆黙ってゐる。それから三度目に理由のない筈はないからその理由を聞かして貰いたい、と言うと、その中の下士官らしいのが帯剣でピストルをさげ、もう時間がありませんから撃ちますと、こう言うから、そこで甚だ不審な話で、理由を聞いても言わない、撃つというのだから、そこにゐるものは理由が明瞭でなくただ上官の旨を受けて行動するだけの者だと考えられたから、それなら已むを得ません、お撃ちなさいと言うて、一間(*約1.8m)ばかり隔った距離に直立不動で立った。その背後の欄間には両親の(*写真)額が丁度私の頭の上に掲ってゐた>

 そこで鈴木にピストルを向けてゐた二人の下士官が同時に最初の一発を放ったが、やはり心が動揺してゐたと見えて初発は当らず、二発目が股の部分に、三発目が胸に当って鈴木は倒れた。倒れる瞬間に頭と肩に又一発づつ当った。都合四発の弾丸を受けたことになる。胸を撃たれたのだから畳の上に倒れた鈴木の身体は既に流れ出る血に浸って惨憺たる状を呈してゐたであろう。そこで兵の中からトドメを刺せという声が上った。(*鈴木)たか夫人も鈴木の身体から一間も離れていない位置で銃剣とピストルを突きつけられてゐたが、そこで声を上げて、とどめだけはやめて下さい、と制した。丁度その場に入って来たのが、かねて鈴木を訪ねてその度量に敬服したものである叛乱の首魁格安藤輝三だった。安藤が指揮官でありながら、既に鈴木が倒れて後に現場に姿を現すという順序を取った理由はよくわからない。或いは自らが鈴木に手を下すという行為を憚るところがあったのだろうか。安藤は鈴木にとどめを刺そうとして喉元に銃をあてがってゐる下士官に、それはやめろ、と制止し、閣下に対し敬礼、という号令を下した。兵士達は折敷き跪いて捧銃(*ささげつつ)の礼をした。安藤は、起て、引揚げ、と命じて兵士達を室から出させ、そこでたか夫人に向ってさきに引いた通りの弁明とも詫びとも取れる言葉(*後記)を述べ、安藤輝三、と我名をはっきり名告って、兵士達を集合させて邸を出て行った。女中部屋の前を通過する時、閣下を殺した以上、自分は自決する、と口に出してゐた事を女中が聞きつけてゐた。

 首都での叛乱を指揮した将校の中で警視庁を襲撃した野中四郎大尉は自決し、安藤も自決を試みたが失敗し、軍法会議の判決によって7月12日に至り死刑に処せられた。鈴木を襲撃した坂井直中尉も死刑となったが、鈴木金次郎、清原康平の両少尉は死刑の求刑を受けたものの判決は無期禁錮ということになった。もう一人、門脇某という下士官が、戦後になって、縁故を伝って鈴木未亡人の前に現れ、閣下を最初に撃ったのは自分である、さあ撃て、といって直立不動で立たれた閣下の豪毅さに圧倒されて眼を瞑(*つぶ)って撃ったのです、とたか夫人に叩頭百拝して罪を詫びた由である。叛乱軍の兵士の中で上等兵以下の兵卒は原則として全員無罪とされ、直接殺害の下手人三名だけが執行猶予付の刑を受けた。下士官も極刑(*死刑)ではないが将校に準じて有罪とされる例は多くあった。上記の門脇某も下士官であり、直接の下手人でもあった故、禁錮刑を受けた組ではないかと思われるが委細は不詳である。(*後略)・・・(*前掲書**300~304頁)

・・・鈴木(*貫太郎)が「君側の奸」視された理由としては幾つかの誤解に基く不運な因子があった。前にも触れた事だが、(*張作霖爆殺事件の処理について)田中義一総理が天皇の厳しい叱責に直面した時、天皇と首相との間を取成す役割を果すべきだったのにそれをしなかった(それは勿論侍従長の権限から外れた差出口である)と誤解された事、加藤寛治軍令部長の帷幄奏上を阻止した、とこれもあらぬ誤解を受けた事(*ロンドン海軍軍縮条約締結案に関しての奏上が陛下の日程のご都合で回訓日の翌日となった事を鈴木侍従長が阻んだものと勝手に誤解された事)、満洲事変勃発時に、林銑十郎中将(*当時の朝鮮軍司令官)の独断専行(*勅許なくして越境攻撃した事)を統帥権干犯(*事実その通り)であるとの見解を持していた事が、南(*次郎)陸相が納得し諒解したにも拘らず陸軍部内に洩れ伝わってゐた事等である。只斯様な具体的事例が、青年将校達の知識の中に記憶されてゐて負の影響を与えてゐたとも考えにくい。結局は、安藤輝三大尉が、襲撃直後に、たか夫人に語ったという言葉*、<吾々は閣下に対して何も恨みはありません。ただ吾々の考えてゐる躍進日本の将来に対して閣下と意見を異にするが為にやむを得ずこういう事にたち至ったのであります>との弁明が、案外に実情を暗示してゐるであろう。如何に世間知らずの彼等青年将校と雖も、天皇の侍従長に国政を積極的に推進したり或いは消極的に抑制したりの権限がないことくらゐは知識としてあるはずである。とすれば、やはり「君側の奸」を除くといった通俗の情念に支配されての行動としか評価できない。

・・・(**前掲書299~300頁)

 革新派青年将校たちの最大の不幸は、実際の天皇陛下ご自身のお考えが、自分たちが「心の中で抱く天皇像」と異なっていることを知らず、実は自分たちが天皇陛下の「聖旨」に反しているということを全く認識していなかったことにあります。それはむしろ彼ら青年将校の責任ではなく、彼らを教導すべき陸軍の上官たちと、陛下の思し召しを直接知る立場にあった陸軍の最上層部(*侍従武官長、陸軍大臣、参謀次長など)が、陛下のお考えをきちんと理解して下逹しなかったことにあるとわたくしは思っています。それどころか、陛下のご意思をわかった上で、それに反する意図を隠し持っていたとさえ思える兆しがあることです。また、皇道派の将軍たちはもとより、陸軍中堅幹部層(部長・課長級)の一部にも、そうした気配が感じられます。それらを示す大谷敬二郎憲兵大尉(*当時)が実際に直接聴取したところを、順次確かめたいと思います。まずは、二・二六事件勃発後、陸軍中堅幹部の幕僚層、中でも山下奉文軍事調査部長、石原莞爾作戦課長、村上啓作軍事課長の三人の行動を見て見ましょう。大谷敬二郎憲兵大佐(*陸士31期、東京帝大法学部派遣学生)の戦後著書「二・二六事件の謎―昭和クーデターの内側***」(1967年柏書房刊)の中からです。(*裕鴻註記、一部表記補正、*数字は陸士期数)

・・・蹶起前においてその事前工作に専念したのは磯部(*浅一*38一等主計)であった。その磯部がどのような対軍工作を進めていたかはすでに述べたし、また彼がこのためにその手帳に当初の首脳者の名前を列記していたことも書いておいた。このリストから中央部幕僚を拾って見ると、

陸軍省:古荘(*幹郎中将*14)次官、今井(*清中将*15)軍務局長、山下(*奉文少将*18)軍事調査部長、村上(*啓作大佐*22)軍事課長、西村(*琢磨大佐*22)兵務課長/参謀本部:岡村(*寧次少将*16)第二部長、石原(*莞爾大佐*21)第二課長、牟田口(*廉也大佐*22)庶務課長(*参謀人事担当)

 ということになる。そしてこのうち事件が勃発して実際に活躍した人々は、山下、村上、西村、岡村、石原 といったところなのであるが、これらの幕僚は石原を除いて、皇道派系あるいは皇道派に理解と同情をもつと見られていた中堅幕僚であった。さて、山下(*奉文)少将はかつて歩三(*歩兵第三聨隊)の聨隊長であり菅波(*三郎*37)大尉の無軌道を許しあるいは血盟団への安藤(*輝三*38)大尉の協力をおお目に見ていた、蹶起将校たちの旧上官で、その親しみの最も深い人だった。だから彼は事件中蹶起将校と軍首脳部との間に介在して奔走これ努めた第一任者である。

 彼(*山下奉文少将*18)は事件勃発の報をうけるや急ぎ陸相官邸に出向いたが、磯部は山下の登庁を見つけ「やりました、どうか善処して頂きたい」というのに、ただ、むっつりウムとうなづいただけだった。彼は事件を聞いてどんな心境だったのだろう。報せの電話口にでた彼は「何、どうした」と大声でどなるように応答していたが、電話をきったあと、「馬鹿め、とうとうやった」といかにも残念そうにつぶやいたと、彼の養子九三夫氏が中学生の頃の思い出を語っている(「天皇と覆面将軍山下奉文の謎」、沖修二)。だが、彼はこの事件前安藤大尉ら歩三*将校数人が訪ねたとき、青年将校の一人が岡田(*啓介)総理はどうですかと尋ねたのに、山下は言下に「岡田なんかはぶった斬るんだ」といったことは事実で、同席の将校達は、この言葉のもつ意味は青年将校のテロによる内閣の打倒と直感したというのであるから、蹶起将校らの彼に寄せる信頼は大きかった。しかし、彼は心中彼らを思いながら表面よそよそしい態度をとっていた。(*2月) 26日午後陸軍大臣告示が宮中(*臨時軍事参議官会議)ででき上り、山下が使者となりこれをもって彼等を解散させることになった。彼は蹶起将校を集めてこれを読みきかせたが、一言も余言をはさまなかった。彼等(*蹶起将校)の質問にも答えず、また、宮中を出るとき真崎大将は「叱ってはいかんぞ、穏かに直ぐに(*原隊に)かえれと説諭せよ」と注意したが、山下は(*蹶起将校達に)「かえれ」といわなかった。その後青年将校の請いをいれて軍事参議官との会見に運んだが、この間一言も蹶起将校のための言動はなかった。28日午前、討伐軍の攻撃開始が12時と予定されているのに憂慮した彼は、(*蹶起部隊が占拠している)陸相官邸に至り将校を集め、奉勅命令(*武力討伐)の下逹が切迫しているが、お前達はどうするかと、その決意を問うた。ここではいろいろないきさつもあったが、栗原(*安秀中尉*41)の提案で、「今一度統帥系統を通じて大御心を伺う、その上で進退をきめよう、もし死を賜わることにでもなれば、将校たちは自決しよう、自決するときには勅使の御差遣ぐらい仰ぐようにでもなれば幸わせではないか」ということになった。山下はこれを聞いて栗原やその他の将校たちに握手し「ありがとう、ありがとう」と叫びながら泣いていた。これが山下のほんとうの姿だったろう。だから彼は既述したように、意を決してその日午後川島(*義之大将*10)陸相と共に本庄(*繁大将*9)武官長を訪ねて勅使差遣方の伝奏をたのんだのである。ともかくも、彼は冷厳でその職務上の立場もあってか、対策については何一つ意見らしいものは述べていなかったが、その内心では、始め彼等の成功を願い、これも不可能とわかるとひそかに彼等の心情を思い、彼等がその道を誤らないことを念願していたことが読みとれる。

 石原(*莞爾*21)大佐のことはすでに述べた。彼は参謀本部の作戦課長、戒厳司令部編成と共にその作戦課長を兼ねたが、彼に一貫せるものは討伐気構えの威力鎮定であり、蹶起部隊に対する態度はきびしいものがあった。その彼の最もあざやかな態度は、(*2月) 27日夜半、小藤(*惠*20)大佐、鈴木(*貞一*22)大佐、山口(*一太郎*33)大尉らが戒厳司令官に討伐延期の意見具申に出たときに見られた。これは山口(*一太郎)大尉が、戒厳司令部に臨時勤務する柴有時大尉(同期*33で皇道派系)から、戒厳司令部ではいよいよ奉勅命令によって討伐に決定したと聞いた山口が、小藤、鈴木を促がして香椎(*浩平中将*12)司令官、安井(*藤治少将*18)参謀長その他幕僚列席の上に、討伐延期を求めたものだったが、なかでも山口は声涙共にくだる大熱弁で人々を感動の渦の中に入れた。だが、この大演説がおわったとたん、石原はすっと席を立ち、「討伐命令を下す、命令受領者集まれ」と大声し、廊下に集まった各隊命令受領者に討伐命令を下した。下しおわった彼は、「さあ、討伐命令は下りました。重砲も、戦車も飛行機もあります。言うことをきかねば殲滅するだけです。貴方がたは立派な軍使です。どうか彼等にこの旨を伝えて下さい」といいながら、小藤、鈴木らを廊下の外に連れ出してしまった。だが彼は一面、この機会に強力内閣によって国政の改革、それは彼によれば国防の充実を一挙になし遂げようとしていたことは既述の通りである。

 石原の威力鎮定に対して、政治的に動いた幕僚に村上(*啓作*22)大佐がいた。もちろん、彼は(*陸軍省軍務局)軍事課長として政務の事務中心者ではあったが、彼は皇道派の同情者であった。前年相沢(*三郎中佐*22)事件(*永田鉄山(少将*16)軍務局長斬殺事件)直後、橋本群(*大佐*20)軍事課長の責任転職のあと、千葉陸軍歩兵学校教導聨隊長より陸軍省入りをした。どちらかといえば学究の人であった(「戦争要論」の名著がある)、すでに触れたように事件前、磯部の訪問を受け、何事かおこった方が早くかたがついてよいとも語っている。彼は事件の朝大臣に軍の態度を早急に決めてはならぬと進言したが、事を右か左か、はっきりするなということは、この機に維新に入ることを期待したとみられる。彼は川島大臣と共に宮中に入ったが、大臣に対し、「蹶起部隊は叛徒と認めず穏健に処置することを天皇に上奏し、かつ、これを全軍に布告すること」を具申したが、この提案は一部参議官の同意を得られなかったといわれる。だから、彼は蹶起部隊を義軍と認めての昭和維新に心を傾けたのであって、その最も顕著なものに「維新大詔案」なるものがある。(*2月) 26日正午頃彼は部下の軍事課員に維新大詔の草案の起案を命じた。正午頃といえば宮中で軍事参議官たちの手によって、説得による事件対策が練られていた頃である。

 当時軍事課員だった岩畔豪雄元少将(*30当時少佐)は、これについて、「事件の勃発で陸軍全体が混乱の真最中の2月26日正午頃、所は陸軍省の移転先だった九段下の憲兵司令部であった。村上啓作軍事課長が河村参郎少佐(*29)と私に“維新大詔”の原案の起草を命ぜられた。陸軍に関する勅語は軍事課で作ることになっていた。しかしこれは容易ならぬ文書であるので、河村少佐と協力して苦心しながら起案にかかった。ところが午後三時頃だったと思う、再び村上課長がアタフタと入って来て、至急に草案が欲しいという。だが、まだその時には半分ぐらいしか書けていない。半分ぐらいしかできておりませんと言うと、それでもよいからと、書きかけの草案をもって急いで蹶起部隊の青年将校が集まっている陸相官邸へ車をとばして行った。

 仄聞すると、すでに“陸軍大臣告示”が山下奉文少将から伝達されて欣喜している青年将校達に、村上大佐はこの草案を示して、いよいよ維新大詔の渙発も間近い情勢にあることを伝えたと云う。ところが、この草案は再び私の所に帰って来なかった。その後の事態の変化を見れば、死産に終った維新の大詔の運命は自明のことであろう。今では草案原稿の控えもないし、その内容は忘れたが、青年将校らの蹶起趣意書を認めた意味のものだったように憶えている。もちろん、天皇の御意思ではなく村上大佐の独断ではなかったか、その後の推移からそう思われるのである」(河野司編二・二六事件「維新大詔」)と述べている。右の岩畔氏のいう陸相官邸でこれを彼等に示したという事実はないので、岩畔氏の誤聞であろうが、この時政治幕僚たる軍事課長が維新の大詔を準備したということは重大である。いうように、それは彼の独断であろうが、(*陸軍)大臣補佐の軍事課長が、すでに宮中での空気を知りながら、なお大詔渙発による維新への道を開こうとしたことは、どう理解すべきなのだろうか。

 なお、彼が午後三時頃未完成のまま、これを取上げたのは、すでにそれが不要になったことを示している。彼は軍事課員にさきの大詔案の起草を命じ再び宮中に入って軍事参議官たちの説得文起案に参加した。そこでは、すでに維新大詔の夢であることを知って、急ぎこれを回収したものとみるのが正しい。だが、彼はこれを懐中深くしまい込んでいた。(28日彼は安藤大尉の撤退勧告にこれをとり出し、事態はここまで来ているから兵を退けと説得した)

 なお、村上大佐のもとには高級課員として武藤章中佐(*25)がいた。彼は参謀本部の石原大佐とならんで討伐即行の強硬態度を示していたが、青年将校よりその罷免を要求されており表面に出ることはなかった。

 村上大佐と共に蹶起将校の期待した幕僚に西村(*琢磨大佐*22)兵務課長がいた。彼は五・一五(*事件)陸軍側公判の判士長で、彼等の志向をよく理解する人とされていた。西村大佐も相沢事件以後山田(*長三郎*20)大佐(*事件後自決)のあとをうけて兵務課長の任についたが、この事件にはその職務柄(*軍紀監督)、積極的に介入していない。また、参謀本部第二部長岡村寧次少将(*16)は皇道派の同情者と見られていたが、この事件にはその名分をはっきりしていた。この朝、(*陸軍)部内での会議ではまっさきに討伐を主張したといわれている。そのほか、古荘(*幹郎中将*14)次官、今井(*清中将*15)軍務局長らも磯部の予想にたがい、彼等の味方ではなかった。・・・(***前掲書、190~194頁)

 このように、陸軍中央中堅幹部たちの動きの中にも、人によっては蹶起将校たちに寄り添う様な行動が見られました。しかし、一方でその立場上、職責上の問題から、それぞれの動きには限界もあったと思われます。一歩間違えば自分も捕らえられて軍法会議で死刑にされる恐れが十分にあったからです。しかしそれ以前に、同じ「皇軍」であるはずの帝国海軍の、しかも日露戦争などでの戦功もあり連合艦隊司令長官などの要職を務めた老提督たちや、現職の陸軍三長官の一人である渡邉錠太郎教育総監(現役陸軍大将*8)をも、無残・残虐に殺害したことに対しての陸軍中央部の「怒り」があまり感じられない事に、より深く大きな問題があるように思います。凶悪・凶行の「犯罪」というよりも、むしろ「義挙」として捉える感性や思想が、陸軍中枢にまで浸透していたということこそが深刻な問題だったのです。