前回見た陸軍の将軍たちの考え方と、蹶起将校たちに殺される側であった侍従長の鈴木貫太郎提督(*予備役海軍大将、元海軍軍令部長、連合艦隊司令長官、海軍兵学校長などを歴任、海兵14期、海大甲種1期)の考え方は、一体何が違っていたのでしょうか。今回はまず「鈴木貫太郎自伝」(鈴木一編、昭和43年時事通信社刊)より、次の章節を読みたいと思います。(*裕鴻註記)

・・・「二・二六事件 指揮官安藤輝三大尉」

 そこで、省みて、安藤輝三君が、この襲撃の責任に当たったことを回顧すると、この事件の二年前(*昭和9(1934)年)、安藤君は民間の友人と三人で来訪されたことがあった。その時の陸軍の青年将校の一部に提唱されていたいわゆる革新政策についていろいろと述べられて私(*鈴木貫太郎提督)の意見を尋ねられた。その意見のうち私は三点を挙げて非常に間違っていることを述べて反駁した。

 その第一は、軍人が政治に進出し政権を壟断することに対して、これは第一、明治天皇の御勅諭に反するものである。もともと軍備は国家の防衛のために国民の膏血を絞って備えられているもので、これを国内の政治に使用するということは間違っている。政治上のことならば警察があるからそれでたくさんである、軍人が政治を壟断するのは亡国の徴だ、兵は陛下のものである、もし軍人が政治を論ずることを許されるなら、いったい政治は甲乙丙丁違った意見を持つもので、それを論議して中庸に落ちつくことが政治の要道である。しかるに武力をもって論議することになれば、直ちに武力を政治に使うようになり、これは元亀天正間の戦国時代と同じようになりはしないか、そうなればもし常備軍がこんなところに力を用うるようになり、外国と戦争する時、幾何の兵力を用いられるか甚だ危険な状態になるのではないか、そういうことからして、いったい、明治十五年の御勅諭から軍人は政治にかかわらずと、お示しになったと、こう考えられるのである、なんとしても軍人が政治を壟断するというようなことは国家のため非常な罪悪となることゆえ慎しまねばならぬ。

 第二の問題は、貴君は、総理大臣を政治的に純真無垢な荒木(*貞夫陸軍)大将でなければいかんといわれるが、一人の人をどこまでもそれでなければいかんと主張することは、天皇の大権を拘束することになりはしないか、日本国民としてこういうことはいえないはずだ。もしこれ数人のなかからといえば、陛下のご選択の余地がある、一人の人を指定するのは強要することで、天皇の大権を無視するということになる、これが貴君たちのいい分のうち第二の不当な点である。こうしたことは日本国民の口にすべからざることだ。

 第三は、今陸軍の兵は多く農村から出ているが、農村が疲弊しておって後顧の憂いがある。この後顧の憂いのある兵をもって外国と戦うことは薄弱と思う、それだから農村改革を軍隊の手でやって後顧の憂いのないようにして外敵に対抗しなければならんといわれるが、これは一応もっとものように聞こえる。しかし外国の歴史はそれと反対の事実を語っており、いやしくも国家が外国と戦争するという場合において、後顧の憂いがあるから戦(*いくさ)ができないという弱い意志の国民ならその国は滅びても仕方があるまい、しかしながら事実はそうではないのだ、貴君はフランスの革命史を読んだことがあるかと反問したら、それはよく知りませんという、それではそのことの例を引いてお話しましょうと、フランスの帝制が倒れ共和制になったので他の国々は、それがうつっては困るというのでフランスの内政に干渉し軍隊を差し向けた、フランス国民はその時どうしたかといえば、たとえ政体はどうでも祖国を救わなければならないと敵愾心を振るい興こし、常備兵はもとより義務軍まで加わって国境の警備について、非常に強くまた勇敢に列国の侵入軍に対抗した、その時のフランス兵の一人一人について考えてみると、自分の親兄弟は政治上の内訌からギロチンに臨んでいるものもあり、また妻子が饑餓に瀕している者もあった、ナポレオンが太っているのを見て、お前はそうふとっているがお前は私に食を与えよと強要した一婦人もあるくらいでしたが、フランスの国境軍は熱烈に戦闘した、それが祖国に対しての国民の意気であった、そしてついにナポレオンのような英傑が出てフランス国民を率い、あれだけの鴻業を建てた、これはフランスの歴史において誇りとしているところである。

 しかし日本の民族が君がいうように、外国と戦をするのに、後顧の憂いがあって戦えないという民族だろうか、私はそうとは思わない。フランスくらいのことは日本人にできないはずがない。その証拠に日清、日露の戦役当時の日本人をご覧なさい、あの敵愾心の有様を、親兄弟が病床にあっても、また妻子が饑餓に瀕していてもお国のために征くのだから、お国のために身体を捧げて心残りなく奮闘していただきたいといって激励している、これが外国に対する時の国民の敵愾心である。しかるにその後顧の憂いがあるから戦争に負けるなどということは、飛んでもない間違った議論である、私は全然不同意だと。

 この問題を強調したら、安藤君は、今日は誠に有難いお話を伺って胸がサッパリしました、よく解りましたから友人にも説き聞かせますといって喜んで、また他日教えを受けることにしたいといった。そうして辞し去られた。そして帰る途中に、同伴の友人に、どうも鈴木閣下は見ると聞くとは大違いだ、あの方はちょうど西郷隆盛そっくりだ、これから青山の友人の下宿に立ち寄って、みなにこの話をしてやろうと語られたと聞いたが、素直に、少し強すぎると思う言葉さえ使って、三十分と申し込まれた面接の時間を三時間も、たしか昼食まで一緒にして語った甲斐があったと思いました。その後数日たって安藤君から、重ねて座右の銘にしたいからといって私に書を希望して来ましたので、書いて差し上げたはずです。

 安藤君は確かにその時は私の意見に同意された。しかし同志に話した上で、同志を説破するに至らず、かえって安藤は意志が動揺したといって評判された。首領になっていたから抜き差しならん場面に追いつめられて、あのままついに(*蹶起を)実行するに至ったが、その上で自決の決心もしたのであろうと思う。まことに立派な惜しいというよりも、むしろ可愛い青年将校であった。間違った思想の犠牲になったのは気の毒千万に思うのであります。・・・(**前掲書268~270頁)

 前々回(*68)回の鈴木貫太郎侍従長襲撃の話でも一部ご紹介した内容ですが、この「自伝」でのオリジナルの記述は以上の通りです。これは現代の海上自衛隊にもきっと受け継がれていると思うのですが、私の敬愛する元海上幕僚長の古庄幸一海将がご講演でよくおっしゃっる自分の「分を守ること」という船乗りの精神だと思うのです。海軍でも海自でもわたくしたちのような民間商船でも、フネの乗組員には一人も無駄な配置というものはありません。もちろん総員の配置・持ち場を全て上官・上司が常時監視しているわけでもなく、基本的には上下左右の相互信頼のもと乗組員各自が、黙々と自分の任務・職務を誠実に守り遂行することで、フネは成り立ち、沈まずに航行することができるのです。海軍軍人であれ、海上自衛隊員であれ、商船の船員であれ、自分の本務の分を守り、自己の当面する任務の遂行に全力を尽くすことにより、その乗組員総員の努力で万全にフネが航海できるのです。もし他者の配置・持ち場のことに口出しして、その担当者の判断や行動の邪魔をすれば、自分の任務も果たせず、相手の任務も阻害し、その結果としてフネは衝突して沈むかもしれません。海軍軍人の職責・任務とは何か、陸軍軍人の果たすべき本務は何かということでもあります。「政治が軍人の任務」なのでしょうか。「政治は政治家の任務」です。もちろん国民の監視と信頼と依託のなかでではありますが…。それが故に特に戦前日本では、明治大帝の御勅諭で「軍人は政治にかかわらず」とされていたはずです。

 確かに当時は政府、政治家の深刻な失政や腐敗もあったでしょうし、それは国家として国民として匡さねばなりません。しかし、であるから軍人が政治を壟断するということが許されるわけではないのです。あくまでも政治はまず政治家が責任を持って遂行しなければならないのです。そして現代日本は昭和初期の日本よりもはるかに、志を持った国民は政治に参加し、自身が希望すれば政治家になる自由と権利が与えられているのです。問題は、二・二六事件の蹶起将校たちのように、陸軍の武力をもって、彼らが敵と見なした者を襲撃して殺害するという行為と、そのために本来は正しい指揮運用を天皇陛下より信頼されて委ねられているはずの将校が、天皇の統帥権を私的に奪い、部下の兵隊を命令によって動かして凶行に及んだことが、どうしても軍隊の規律の根基を破壊する行為として、絶対に許されないことであったということです。戦前はまさしく鈴木提督の言葉の通り、「兵は陛下のもの」であって、将校は陛下から兵をお預かりしているだけであって、あくまでも国法と統帥系統に従った正規の命令権者からの、正規の命令によってでしか、兵は動かしてはならないものです。まして戦前であれば、天皇陛下のご命令に背いて、兵を用いて重臣や上官を殺害するなどは、もってのほかということになります。いくらその心情が貧窮国民の苦難を憂い、それを革新改造するためだといっても、自分たち陸軍将校を信頼して陛下が委ねられている部隊を、自分たちの恣意的な勝手な考えで動かしては決してならないのです。会津藩校ではありませんが「ならぬものはならぬ」のです。これこそが英語でいうプリンシプル(原則)というものです。こうした「基本原則は絶対忠実に守る」ということもまた、元海幕長古庄提督のおっしゃる己れの「分を守る」ということの意味であると思います。

 軍事クーデターというものが本質的に間違っているのは、まさにこのプリンシプルを破っている点です。それは言い替えれば、満洲事変も三月事件も十月事件もそうですが、「目的のためには手段を選ばない」という考え方に根本的な問題があるのです。軍人であれ他の公務員であれ、民間の会社員であれ、いくら目的が良いものであっても、原則として非合法の手段を用いてはならない、つまり「目的のためには手段を選ばねばならない」のです。ましてや軍隊であれば、統帥系統・指揮命令系統を、決して破ってはならないのです。

 こうした海軍提督の考えに触れて考えるところがあったはずの安藤輝三大尉は、どうして蹶起することになったのでしょうか。この辺りのことを、大谷敬二郎憲兵大佐(*陸士31期、東京帝大法学部派遣学生)の戦後著書「二・二六事件の謎―昭和クーデターの内側**」(1967年柏書房刊)の中から見てみましょう。(*裕鴻註記、*数字は陸士期数)

・・・歩三(*歩兵第三聨隊)の中心勢力だった安藤(*輝三)大尉は渡満(*第一師団の満洲移駐)を前にしながらも、あえて蹶起に躊躇した。磯部(*浅一)は安藤と(*陸士*38)同期の盟友である。磯部は初め安藤には何もいわなくても依心伝心(*ママ)、彼は必ず起つものときめていた。そこで(*昭和11年)2月10日夜歩三週番司令室で栗原(*安秀中尉)、安藤(*輝三大尉)、河野(*壽大尉)、磯部(*浅一元主計)、中橋(*基明中尉)の五人が集まって、いよいよ準備することについて話し合った。ところが、安藤の態度ははっきりしなかった。「まあ、そろそろ準備を始めようかな」といった態度で、磯部をヤキモキさせた。磯部は2月18日栗原宅で村中(*孝次元大尉)、安藤を交えて、決行期日、決行方法などを協議決定しようとした。ところが、この席で安藤は「今はやれない」と断わった。村中がその理由をただすと彼はたいした理由も述べないで時期尚早だという。とうとうその夜は物別れにおわったが、磯部はさらに(*2月) 21日夜安藤を自宅に訪ねて具体的に成功の確信を述べ、説得これ努め彼の参加を求めた。しかし安藤はなおも今夜一晩考えさせてくれといって即答を与えなかった。やっと、翌22日の早朝磯部は安藤宅を訪ねて、彼の参加の決意を聞いたのである。このように安藤は決行5日前になって漸く決意したのである。彼が時期尚早を唱えたのは、すぐる昭和7年4月、五・一五(*事件)海軍同志から陸軍の蹶起を求められたときに、これを拒絶したのと同じ理由である。それは一口にいえば、今起ってもその機は熟しておらず、したがって成功の見込みもないということだった(事実、磯部も二・二六(*事件)の不成功は時期尚早にあったと、その遺書で反省しているし、事件直後の訊問では時機の未熟については一抹の不安をもっていたと告白していた)。ともかくも、安藤も磯部の説得で決行に踏み切ったのであるが、その安藤が西田税にこんな話をしている。それは2月20日頃西田を訪ねてのことであるが……。

   「最近若い連中はその気持が非常に強い、この間も四、五人寄った際に自分にやってくれと云われたが、自分はやるやらんは別だが、やれないと考えたので断ってしまった。そしてその事を週番中の野中(*四郎)大尉(*36)に話した処、大尉は何故断ったかと自分を叱りました。そして相沢(*三郎)中佐(*22)の行動、最近一般の情勢等を考えると、今、自分達が起って国家の為めに犠牲にならなければ、却って天誅が吾人に降るだろう。自分は今、週番中であるが、今週中にもやろうではないかといわれて、私は非常にはずかしく思った」(*西田税調書)

 さて、こうなると野中大尉がたいへんに強硬な決行論者で、いまやらなければかえってわれらに天誅が下ると思いつめていたことになる。野中は歩三にあって2月15日から22日まで週番司令として勤務していた。その勤務中、彼は「決意書」なるものを認めている。

 この決意書は22日午後4時頃、村中と磯部が野中宅を訪ねたとき、村中がもらいうけ、これを原本として村中の手で「蹶起趣意書」がつくられている。このとき野中は、この文章を村中、磯部に示しながら、ここでも「今、われわれが不義を打たなかったならば、われわれに天誅が下ります」とはっきり断言している。そして、その決意書の中には、「尚も一剣奉公の士、絶対絶命に及んでや茲に閃発せざるを得ず、或は逆賊の名を冠せらるるとも」との一大文字がある。彼に「絶体絶命」を認識させ、「今にしてやらなければ天誅われに下る」と自覚せしめたものは何だったのか。

 野中大尉といえば蹶起将校中の最年長者、彼が当時の軍内情勢、それは十一月事件以来あいつぐ青年将校への弾圧、真崎教育総監の罷免、相沢事件(*永田鉄山少将斬殺事件)の発生、渡邉教育総監排撃運動にからんでの青年将校の粛正等々、相次ぐ粛正のあらしは、ウカウカしておれば、自分達も一網打尽に全滅の厄にあうことを、ひしひしと感じとったものではなかろうか。ここに決行への強い一筋の動因があり、決行の機を、粛正を加えるものへの反発反撃の機としたとみるのは、私(*大谷敬二郎憲兵大尉:当時)の僻目*であろうか。

 (*事件発生直前の当時、大谷憲兵大尉は千葉憲兵分隊長で陸軍歩兵学校の青年将校(*少尉*46)に対し、渡邉教育総監に辞職勧告を送りつけた件で重謹慎処分にするなどの対処を自ら行っていた。大谷敬二郎著「憲兵―自伝的回想」新人物往来社昭和48年刊、35~40頁)

 しかして、その陸軍の彼等への弾圧中枢は、いうまでもなく中央部幕僚の一群であった。したがってまた、この蹶起は必然的にこれら中央部幕僚の一群を粉砕するものでなくてはならなかった。もともと、彼等の一群は、青年将校にとっては国体反逆の討奸目標でもあったのである。・・・(***前掲書61~63頁)

 この大谷憲兵大佐の著述に従えば、むしろ陸軍部内での、中央幕僚や憲兵からの急進派青年将校たちの検挙や弾圧の激化を恐れたことが直接的な引き金となり、また背景にはもとより事件発生翌月の3月頃に予定されていた、第一師団の満洲移駐となってしまえば、あてにしている蹶起主力部隊は当分東京に戻れないことによる時期的な切迫感はあったのです。

 さて、大谷憲兵大尉はその後、東京で事件の捜査に関する職務に就き、蹶起将校たちの訊問に従事したのですが、収監後死刑執行までの彼らの様子が、大谷敬二郎著「憲兵秘録****」原書房昭和43年刊(*旧題「にくまれ憲兵」日本週報社昭和32年刊の加筆増補版)に記述されています。

・・・安藤輝三大尉にも会った。彼が「死にぞこないです」と平然とうそぶいていたことを思い出す。私(*大谷憲兵大尉)が彼に会ったときは、すでにその(*自決未遂の)創(*きず)も癒えて、僅かに下顎(*がく)部に痕が残っていた。私は、彼の自決現場を見たのではないが、実に悲壮極まるものであったという。

 安藤大尉は当時歩兵第三聨隊の中隊長であったが、その中隊はかつて秩父宮が統率された歴史のある中隊だった。安藤の統率と訓育はこの中隊長の下、真に生死を共にする鞏固なる団結にまで完成されていた。これは安藤の人格とその訓練の成果だった。2月29日、大勢は非、事すでにおわれりと達観した安藤は、例の「幸楽」前の歩道に中隊を整列させ、ともに中隊歌を合唱すること三回、まさに歌いおわらんとするとき、手にした拳銃をもって喉下より頭部へと撃った。彼は血にまみれて倒れた。中隊の兵たちは安藤の許に蝟集して、中隊長の名を叫び泣きくずれた。兵の中の一人はつかつかと叉銃線に走り出て銃を手にし、狂気のように、「中隊長を殺した奴は誰だ」と怒号しながら、道路の反対側に布陣した攻囲部隊に対して、まさに射撃を加えようとした。傍らにあった一将校が咄嗟に「天皇陛下万歳」を叫んだ。するとこの兵も、また中隊の兵隊たちも共に天皇陛下万歳を連呼した。そしてこの兵の射撃は阻止された。そこへ桜井中佐がやってきた。彼は第一師団増加参謀である。さきの銃を手にした兵はまたも「中隊長を殺した奴は誰だ」と絶叫しながら、この参謀将校に突進した。桜井少佐は途端に上衣を脱いで天皇陛下万歳と叫んだ。兵もまたこれに和した。

 このような状態で、中隊の兵たちは安藤の自決によって異常な興奮に駆られていた。その間、安藤には応急手当が施され、総理官邸の方へ運ばれて行ったが、なおの四、五名兵は人々の制止も聴かず、中隊長と一緒に死ぬと叫びながら、その車のあとを追った。当時、ここに居合せた人々は、この悲壮な情景に、いたく感動した。なかんずく、部下の上官を思うの至情をまのあたりに見て、言葉に尽せぬ深い感動を覚えたとは、ひとしく皆の伝えるところであった。安藤は兵に、これほどの感化力を与えた中隊長だった。しかし、私が会った頃の彼は、非常に荘重な態度だった。すでに死生を超えていた。胸中深く痛恨を蔵しながらも、潔く運命に随順して死の栄光を待っているといった落付きを示していた。私はたった一回の会見ではあったが、今でも彼を思うと、その悟諦の風貌がありありと眼の前にちらつく。・・・(****前掲書181~182頁)

 大谷憲兵大尉はこうして捜査のために、死刑囚となった青年将校たち、香田清貞大尉、磯部浅一元一等主計、村中孝次元大尉、対馬勝雄中尉などとの接見の模様を同書などに著述していますが、特にその中で、同郷滋賀県出身で陸士恩賜卒業の快活な竹嶌継夫中尉(*40)のことを次のように書いています。

・・・いわば彼(*竹嶌中尉)が(*満洲事変勃発時の)初陣において、血をもって満洲事変の世界史的意義を自覚したことが、国内政治への開眼となり、維新運動へ挺身するに至ったというのである。私はこのとき、このような純情無垢の青年を今日の無残な運命におとしいれたものは、一に上長によき人を得なかったからだと思った。彼は将来を嘱望され、陸軍の中堅となるべき逸材だったろうに、幸か不幸か、その指導に人を得なかったことが、ついに今日の彼の運命を決定したのだと、つくづく思い至ったことであった。聞けば彼には母と弟一人がある。父はすでに亡く、かつて軍の栄職にあった古い将軍だった。この子一人に将来を託した母は、愛児の悲運をいかにみつめ、いかに嘆いていることだろう。しみじみと哀切を覚えたことであった。・・・(****前掲書179~181頁)

・・・事敗れて逆賊の汚名をうけ、峻厳なる軍法の裁きによってその夏、代々木原頭に従容として叛乱の罪をつぐなった蹶起将校たち。軍部の弾圧に歯を切る悲憤の怒りに燃えつつも、なお、国体の悠久を信じ皇室の弥栄を念じて、“撃たれたらまた直ぐ陛下の御側に集まろう”と誓い合ったこの若者たち。刑死、自決二十二の諸霊は、ゆかりの地麻布賢崇寺に、静かに、はげしかった三十一年(*執筆当時)の推移をじっと見つめている。果たして彼等は何を観じ、何を念じていることだろうか。・・・(****前掲書171頁)

 こう大谷憲兵大佐は書き残しています。若い人々に「思想と教育」の与える影響がいかに大きく、また大切であることか。「過ちを繰り返さない」ために、令和時代を生きるわたくしたちも、しっかりとこの昭和の歴史を受けとめてゆかねばならないのです。