「大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯(以下「海軍部開戦経緯」と略称)〈1〉巻及び〈2〉巻」の執筆者である内田一臣提督は、海軍兵学校(海兵)63期卒業の元海軍少佐で戦艦大和に乗り組んでミッドウェー海戦にも参加され、戦後は海上自衛隊の海上幕僚監部(海幕)防衛部長、護衛艦隊司令官を経て、第8代海上幕僚長に就任され、退官後は志願して戦史部調査員としてこの両巻の執筆に心血を注がれたことは、本シリーズ前回の「二つの開戦経緯」でもご紹介しましたが、この内田提督のもとで同書執筆を支援したのは中村悌次提督(海兵67期首席卒業)でした。中村提督は、大戦中駆逐艦夕立に水雷長として乗り組み、昭和17年11月11日ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を戦艦比叡、霧島以下の艦隊で艦砲射撃するために出撃し、迎撃する米艦隊と遭遇して熾烈な海上戦闘(第三次ソロモン海戦)を繰り広げ、屈指の名艦長と称えられる吉川潔中佐(この一年後駆逐艦大波艦長として戦死、二階級特進にて海軍少将)の指揮により敵艦隊の中央に単艦で突入して大混乱を生ぜしめ、魚雷8本を発射し米艦隊の隊列の中に入り込んだ夕立は、吉川艦長の「砲撃はじめ、ドンドン打て」の号令で主砲以下全砲門が多数の命中弾を米艦隊に与えました。しかし自らも乱戦で敵味方から多数被弾し大破、航行不能となり戦闘後ついに沈んだものの、この夕立の大活躍もあり日本艦隊は、米艦隊の軽巡2隻、駆逐艦4隻を撃沈し、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦3隻に大規模な損傷を与えるという戦果を挙げました。この戦闘で吉川艦長も中村水雷長も敵艦の弾片で戦傷を受けました。こうした武勲を挙げた中村海軍大尉は戦後、海上自衛隊に入り護衛艦さくら艦長、海幕防衛部長、自衛艦隊司令官(昔の連合艦隊司令長官に相当)を経て、海自トップの第11代海上幕僚長に就任しました。従ってこの戦史叢書「海軍部開戦経緯」は、旧海軍軍人であるとともに海上自衛隊のトップを務めたお二人の提督により完成したわけです。しかも内田海幕長と中村海幕長は、特に今日の海上自衛隊の基礎を築く上でも大きな功績を残された提督なのです。


 また同書完成には、他にも末國正雄海軍大佐(海兵52期)も支援しています。末國大佐は後年「海軍反省会」でも活躍されましたが、終戦時海軍省人事局員として米内光政海軍大臣に仕えた方です。この末國大佐によれば、こうした人々により完成した同書の元原稿のうち約三百枚分が、旧陸軍出身の戦史室長以下のメンバーから「陸軍の都合の悪い」部分として削除されたことが海軍反省会の議論の中で明らかにされています。(戸高一成編「 [証言録]海軍反省会」第1巻42~43頁、PHP 研究所2009年刊)何が一体「陸軍に不都合」であったのか、それは本シリーズで追跡してきた陸軍の軌跡から総合的に推察するしかありませんが、この戦史叢書「海軍部開戦経緯」のまえがきにはこう記されています。

・・・大東亜戦争の発端をいつとみるべきかは、意見の分かれるところであろうが、本書では、そのような評論にはかかわらず、書き出しの時点を昭和六年九月、満州事変からとし、それ以前のものについては、海軍の体質形成に影響したと思われる主要なもののみ取り出し、第一章に取りまとめることとした。書き出しの時点を満州事変からとしたのは、次のような理由による。

(一)歴史上の事件は、ある特定の時期、特定の原因から突如として発生するものではなく、多くの潜在的、顕在的因果関係の長期に累積の結果生じるものであろうが、満州事変は、ワシントン、ロンドン両軍縮条約の結果、国防上不安を感じているとき、対外的に慎重であるべきにかかわらず、あえてこれを無視して危険の多い性急な大陸政策にふみだしたもので、国策としては分裂であり、他のできごとと異なり、特筆すべきものと考えられること。

(二)満州事変以後、政治と統帥との均衡が崩れ、かつ、国内の風潮も著しく国家主義的となり、このことが支那事変の解決を困難にし、ひいては、大東亜戦争への道を決定的にする結果になったと認められること。・・・(戦史叢書「海軍部開戦経緯」第一巻の「まえがき」より)


 つまり前回ご紹介した大本営陸軍部編の「開戦経緯」は、その荒筋としては「海軍が日米開戦の原因となった。海軍の政策第一委員会が出した昭和16年6月5日付の『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ採ルベキ態度』(石川信吾委員起案、以降『執るべき態度』と略称)という文書により、海軍中央が態度を変え、南部仏印進駐を促進し、対米七割を越えている昭和16(1941)年 のうちに開戦しなければならないと引っ張ったため、アメリカをよく知らない陸軍はこれに引き摺られたのであり、日米戦争は陸軍が起こした戦争ではない」と言いたいわけです。しかし、本シリーズで見てきたように、確かに石川信吾大佐ら対米強硬派・親独派が、海軍中央の要職者に多くなり、こうした動きがあったことは事実としても、陸軍とは異なり、決して海軍は中堅層の「幕僚統帥」で動いたのではなく、あくまでその時点の最高責任者である当時の海軍大臣と軍令部総長の決断なくしてはこのような大戦争は決まらないのだということを海軍側としては主張しています。そして少なくとも及川古志郎海相は日米開戦に消極的であり、永野修身軍令部総長も決して日米戦争を望んではいなかったけれども、米国が石油の輸出をストップしたが故に、時限的に決断を迫られたわけで、対米交渉が妥結さえすれば開戦はしたくないというのが本音であったと思われます。しかしそのためには陸軍大臣と(陸軍)参謀総長が米国側の焦点である「中国からの撤兵」に同意してくれなければならず、東條英機陸相があくまで「撤兵に断固反対」である以上、開戦回避の道は塞がれてしまったわけです。

 おそらく「執るべき態度」という文書が南部仏印進駐を促進したと見れば、それが最後の引き金となってアメリカの経済断交(在米資産凍結と石油全面禁輸)に結びついたわけですから、開戦の導引の一つとなったと見ることはできるでしょう。しかし、そこに至るまでの道のりを無視したり捨象して、いきなりこの昭和16年6月以降の情勢のみを、日米開戦の原因と見なすことは、同戦史叢書「海軍部開戦経緯」が記述する通り、あまりにも近視眼的であるともいえるのです。また南部仏印進駐は、本シリーズ (27)~(31)で見てきた通り、独ソ開戦を承けて極東での日ソ開戦を促進した陸軍部内の動きによって発動された「関東軍特種演習」という名の実質上の対ソ開戦準備を見て、なんとかこれを阻止すべく、北方から南方へ陸軍の目を逸らさせる狙いが本音としてはあったのではないかとも思われるのです。支那事変という名称の対中国大戦争を四年経っても終結できず、ますます泥沼化しているさなかに、今度は北方の大国であるソ連と戦争を始めるなどということは亡国をもたらすから、絶対に阻止しなければならないというのが、海軍に基調として流れるスタンスでした。確かに事務当局のレベルでは、支那事変に加えて対ソ戦争となれば、その殆どは陸軍主力の陸上戦争であり、海軍が必要とする予算や物資が配当されなくなると困る。一方ではアメリカも第三次ビンソン法案や両洋艦隊法により、ほぼ連合艦隊全部の規模に匹敵する新造艦隊が、昭和19年以降には続々と出来上がってくるという情勢の中、少しでも艦隊を増強しなければならない危急の時に、日本が侵攻されたわけでもないのに、そんな必要のない大戦争をソ連を相手に始めることは、決して日本のためにならないという判断であったと推察されます。


〔補足〕:本シリーズ (1)(7)(11)(33)でも取り上げた通り、米海軍の膨大な建艦計画、即ち具体的には、米国の第三次ヴィンソン案と両洋艦隊法による海軍拡張(70%増強)の結果は、以下の比率となる見込みでした。

  日米保有艦艇比率  (米は日本の何倍か);

  1941(昭和16)年末   対米75% (1.33倍)

  1942(昭和17)年末   対米65% (1.54倍)

  1943(昭和18)年      対米50% (2.00倍)

  1944(昭和19)年      対米30% (3.33倍)

また、航空機では 1942 年から 44 年の間で、アメリカは日本の5倍前後となり、海軍機のみをとれば10倍となると見られていました。(当時日米の GNP 格差は約12倍、総合国力格差は20倍)


 さて「海軍部開戦経緯」第一巻の第一章は「陸海軍人気質の相違」という第一節から始まります。今回はそれを主に見てゆきたいと思いますが、その前に同じく同書第一章第三節に次の記述があります。(*裕鴻註記、**片仮名を平仮名に修正)

・・・昭和十八年、太平洋戦争が悪化の一途をたどっていたある日、軍事参議官兼海軍大学校校長(*当時)及川古志郎大将は、大学校の一室で、深刻な表情をなし、高山岩男京都大学教授・矢部貞治東京大学教授などに対し、「海軍が米英を相手に戦う事態になった理由はいろいろあるが、その主因は、海軍軍人が、もっぱら戦闘技術の習練と研究に努め、政治と軍事の正しい関係を、いかにして達成すべきかについて顧みなかったことである」と述懐したという。それは、昭和十六年十月十日ごろ(荻窪会談の前)近衛総理に対し、「**海軍にて陸軍を押へ得ると思はるるか知れざるも、閣内一緒になり押へざれば駄目なり、総理が陣頭に立たざれば駄目なり」と、海軍の政治的影響力の不足を述べたのと同じ憂いに出るものであろう。・・・(同書21頁)

 これはある意味で正論であり、要は近衛文麿首相が「夷を以って夷を制す」が如き発想で「海軍を以って陸軍を押さえ込もう」としていたことに対する反論であり牽制でもあったと思われます。国策の焦点を「海軍と陸軍の対立」に持ち込み、海軍に「アメリカとは戦えない、戦えば負ける」と言わせて、陸軍に対米開戦を断念させようとするスタンスです。しかし日本海軍は少なくともアメリカ海軍が安易には日本を侵攻できないだけの勢力と実力を持ち、立派に戦争抑止力としての効果や、少なくとも中国大陸での日本軍が米軍事力の掣肘を受けないだけの効果は発揮していました。そして日露戦争以来営々として艦隊や航空隊を整備し「月月火水木金金」と謳われた猛訓練を続けて兵を養ってきたのです。その本質は「不戦海軍」つまり現代流に言えば「戦争抑止力」としての意義を重視する伝統があったとも言えましょう。いくら強大なアメリカと雖も、幕末の頃の日本とは異なり、今や「黒船」を派遣して来ても、もう昔の様には思う通りにさせないゾ、今や世界第三位の大海軍、国際戦略上の確固たる大海軍が厳然として待ち構えており、万一日本に侵攻でもすれば米海軍も多大なる犠牲を払うことになるゾ、というのが帝国海軍の基本的スタンスでもあったのです。これは幕末に勝海舟の海軍塾に学んだ坂本龍馬が「船中八策」で書いたとされる「海軍宜しく拡張すべき事」という海防の思想の根幹を成すものでもあります。


 その帝国海軍に「アメリカとは戦えない。戦えば必ず負ける。」と言わせるのかという、海軍からすればあまりにも酷な要求でもあったのです。この様な「陸軍のなだめかた、納めかた」は、独り近衛首相のみならず、この時点では日米開戦回避に動いていた武藤章陸軍省軍務局長も、同様の発想で当時相方であった岡敬純海軍省軍務局長に対して同様の要請をしています。しかし海軍から言わせれば「そんなことを海軍に頼む前に、先ず同じ陸軍部内で開戦阻止をすればいいではないか、散々今まで国内外で戦争熱を煽っておきながら、今さら海軍のせいにして陸軍の鉾を納めさせようというのは、あまりにも虫のいい話ではないか」という反発もあったわけです。以前本シリーズ(7)でもご紹介した川田稔著「昭和陸軍全史3太平洋戦争」講談社現代新書2015年刊の297頁にはこう記述されています。・・・同日(*昭和16年10月14日)午後、富田内閣書記官長の回想によれば、武藤章軍務局長が、「海軍が本当に戦争を欲しないなら、陸軍も考えねばならぬ。……(*近衛)総理の裁断ということだけでは陸軍部内を抑えることは到底できない。しかし海軍が、この際は戦争を欲しないと公式に陸軍に言ってくれば、若い連中(*三宅坂の陸軍中堅幕僚団、本シリーズ(9)ご参照)も抑えやすい。海軍がそういう風に言ってくるように仕向けてもらえないか」、と申し入れてきたとのことである。これを富田から聞いた岡海軍省軍務局長は、「海軍としては、戦争を欲しないなどと正式には言えない。(*近衛)首相の裁断に一任というのが精一杯のことである」、と答えている(富田『敗戦日本の内側』:*原註)。・・・


 その一方で、前述の及川大将の述懐は、軍令部や艦隊の勤務しか経験していなかった同提督の職務経歴も関係していると思われます。海軍省軍務局などで勤務すれば、海軍部内のみならず政府や議会、予算折衝では大蔵省などの各省庁とも関わりを持ち、当時は新聞記者が主でしたが言論界(今でいうマスコミ)とも接触しつつ、ひいては各国大使館などとの外交的折衝(例えば「米砲艦パナイ号誤爆事件」の解決など)を通じて、国際政治の実務にも携わることになります。本来はこうした「軍政分野」の経験を積み、海軍省勤務に適した人物が将来の海軍大臣候補となって行くのですが、いわゆる「大角人事」と言われる艦隊派による条約派の粛清が行われたため、山梨勝之進、寺島健、堀悌吉、坂野常善などの軍政畑の諸提督が次々と馘首(予備役編入)されたことから、この昭和16年の時点では、軍政に明るい海軍大臣候補が極めて少ない状態となっていたことも事実です。特に山本五十六元帥や嶋田繁太郎大将と海兵同期の英才堀悌吉中将がもし現役であれば、海軍大臣として全智全能を傾け何としても開戦を阻止したであろうと推測されます。皮肉なことに開戦時の海軍大臣となった嶋田繁太郎大将自身が戦後、もし堀が海軍大臣であったら開戦は避けられたであろうと述懐したことは以前本シリーズ(32)でも触れた通りです。嶋田大将も及川大将と同じく軍令部や艦隊での職務経験しかなく、この難局に直面して海軍大臣として軍政を担うには経験不足であったことは否めません。従って上記の及川大将の述懐は、艦隊派将官の発言と解すればより一層意味のあるものとなるのです。つまりは軍政経験豊かな良識のある将来の海軍大臣候補である提督群を一斉に予備役にした「大角人事」の深刻な影響をここに読み取ることができますし、さらに敷衍すれば、幅広い国際的視野に基づく、加藤友三郎提督や斎藤實提督、山本権兵衛提督に遡る国家全体を考えた海軍主流(元主流と言ってもよいですが)の海軍大臣に相応しい人材の排除が、この開戦直前の海軍首脳人事に大きな悪影響を与えたとも言えるのです。しかもここにはいわゆる艦隊派に担がれていた伏見宮元軍令部総長のご意向も働いていたと思われます。この問題は別途また本シリーズで検討したいと思います。

 それではここから「海軍部開戦経緯」第一章第一節の「陸海軍人気質の相違」を見てゆきます。

・・・陸軍は主としてドイツ陸軍に学び、海軍はイギリス海軍に学んだため、陸海軍は、思考や慣習上、多くの互いに異なる点を持っていると一般にいわれている。しかし、その相違は、より本質的なものであることを、海軍大学校研究部は解説した。研究資料「陸海軍人気質の相違」がそれである。大東亜戦争の前途も不安となった昭和十九年五月十日、海軍の嘱託、東京帝国大学教授矢部貞治を中心に研究されたものである。その研究は、両者の相違を二つの面からとらえ、おおむね次のとおり述べている。

 一 歴史的、伝統的相違

(一)陸軍の創設・強化は、明治初期における国内統一の要請に基づくものであり、裏面から見れば、帝国陸軍の建制そのものが国内政略と不可分であるに反し、海軍は、対外的意味をもって創建せられたといっても過言でなく、国内政略との内的結合関係はほとんど見いだしえない。海軍が国内政治より疎遠の感のあることは、このような由来にも関連がある。

(二)陸軍は、顕著に軍国主義で兵権の独立を確立し、軍及び官僚が政治を指導し、議会・政党・資本家等の政治的勢力が極度に抑圧せられ、かつ、海軍のほとんど存在しないプロイセン(*ドイツ)の感化を受けた山縣(*有朋元帥陸軍大将)・桂(*太郎陸軍大将)によって育成された。海軍はこれに反し、本来海軍国であって作為を要せずして海軍の重要性を知る自由主義的議会政治の国イギリスにその範をとった。帝国海軍は、海軍の技術を摂取するに急で、英海軍の背景をなすこのような政治的性格を看過し、政治的中立の根源を理解することが浅かった。

(三)日本は、地政学的にみて英国に類似するが、その存立のため、国防及び経済上、大陸の重要性を無視することはできない。すなわち、日本は、海洋的かつ大陸的国家の両性格を併有する。陸軍は、本質的に大陸思想をとり、海軍は、海洋的思想をとる。いずれを主とすべきかは時勢によるが、大東亜共栄圏建設のためには、海空軍がその矢面に立つ。

二 陸・海軍の本質上、兵術上の相違

(一)陸軍は、兵中心、歩兵中心であり、海軍は機械中心、軍艦中心である。また、陸軍は、常時国民の間に伍してその生活と接触するが、海軍は、常に海上にあり、国民と疎遠になりがちである。

(二)陸軍の戦闘は、勝敗の推移に相当の時間を要するが、海軍の戦闘は、艦隊の勝敗が短時間に決まり、一般にやりなおしができない。

(三)陸軍は、戦時、平時を区分して編制を考えることができるが、海軍は、その建造が間に合わず、また、その機動力により随時随所に出現が可能であるため、一般に平時即戦時の観念をもってあらゆる体制を整えておく必要がある。勢い前者は説法的、後者は沈黙的となる。

(四)陸軍は、統帥上、意志的で従って主観的、人為的かつ政治的な判断力を重用する傾向があり、海軍は、知性的で従って客観的、合理的な人柄を必要とする。前者は、野生的、実践的な性格が尊重されるに反し、後者は、妥協的で非実践的な習性におちいる憾みがある。

(五)陸軍が幼年学校教育により、優秀で柔軟な若い頭脳を軍事的に尖鋭に鍛錬するに対し、海軍は、兵学校教育及び遠洋航海訓練等により、視野を広からしめることを強調した。


 この研究資料は、最後に、陸海軍に対する要望と方策として、まず陸軍に対し、政治的独断や謀略的行為を排すべきこと、大陸政策ないし陸主海従方式に偏することを改めるべきことを述べ、ついで、海軍自身に対し、次のとおり警告している。

 海軍は総力戦を自覚し政治力を強化せよ。

 海軍は主体的、意欲的たれ。

 (**筆者前略:**執筆者の内田提督による)対外政略等において如何に高邁なる識見を有するも その発動の基調たる国内体制を忽(*ゆるが)せにするときは ひっきょう(*畢竟)無意味なり。海軍は一層国内問題に関心を払い 其の政治力を強化せざるべからず(*しなければならない)。固(*もと)より陸軍が政治に干与することにより伴えるが如き派閥的、下剋上的、謀略的、強権的の傾向を導入することは 極力之(*これ)を避くべしと雖(*いえど)も 海軍大臣を通じて発揮すべき政治力又は政治指導力は 益々之を強化する必要あるべし。

 (**筆者前略)戦争の現状 陸軍航空隊の海洋進出 寧ろ海軍化、陸軍の高度機械化 渡洋作戦は海軍に学ぶべき例多し。海軍における航空対峙戦 局地防衛等は 消耗補給戦に根底を置き 従来の (*艦隊)決戦主義に終始するを許されず。

 太平洋戦争も末期に近い(*昭和19年)当時の所見は、もはや時機を失し、回生の妙策となり得なかったことは明らかであるが、建軍以来の積弊を総括的に反省するものとして、きわめて意義深いものがある。ここに記されたものこそ、陸軍と対比される海軍、いわば海軍の体質と呼ばれるものなのであった。・・・(前掲「海軍部開戦経緯」1~3頁より。*裕鴻註記:若年読者層のために少々煩雑でも補註を施したもの)


 当時よく言われた「サイレント・ネービー:沈黙の海軍」という言葉があります。この言葉は、①「軍人は政治に干与すべからず」という明治大帝の軍人勅諭に忠実であろうとし、政治や言論に口出ししない姿勢や、②また師匠の英海軍に学んだ「シビリアン・コントロール(軍事に対する政治の優位)」にもつながる自己抑制的な精神、③一方では海上を住処として陸上の政治・言論などの汚濁昏迷の俗世界とは、一線を画した規律正しい艦上生活をベースとした海軍軍人の姿を表したものでもあり、④さらには、一瞬を争う航海中や戦闘中の艦橋などの常務配置・戦闘配置に於いて、私語を慎み、司令官、司令、艦長などの指揮官の転瞬の命令や指示に集中し、瞬時に命令を全力で遂行・発動できるように、普段から余計なことを言わない「沈黙の習慣」が身についていることなども影響しているものと思われます。⑤またぐだぐだとした長い議論や言い訳を嫌う、簡潔明瞭を是とする船乗り気質もこれを支えているのです。

 以前本シリーズでも触れましたが、海軍の規律とは、その責任当事者の状況判断と決断を何よりも尊重し、自己の担当以外のことに口出ししないことを是とし不文律とする組織文化がありました。これを「列外の者は言挙げせず」といいます。また、航海中・戦闘中の軍艦では、いくら航海長や砲術長が直前まで「取り舵」を意見具申したとしても、艦長がその上で決断し一旦「面舵」と号令すれば、フネは直ちに粛々整々と右に曲がるのです。それは全世界の海軍に共通する「海軍の厳正な規律」即ち「軍紀」なのです。こうした整然かつ厳格な命令系統からは、そもそも陸軍に見られる下剋上などは生じにくい体質があるのです。一方で海軍部内では研究会などが開催されると、階級の上下の隔てなく自由に意見を言い、議論する雰囲気があったと言います。つまり指揮官やその責任者が決断するまでは、自由に意見を言っても差し支えないし、それを参考に指揮官は状況判断もするのですが、一旦その衝に当たる責任者や指揮官が決断を下したら、皆持論と異なっていてもそれに従うという組織文化だったのです。「海軍部開戦経緯」にもこう記述されています。・・・命令があるまでは、自由に意見を述べよ、いったん命令が下されたうえは、自説を捨て、誠心誠意、命令の完遂に努めよ、その結果が予期されたものでなくとも、その言い訳に、かねての主張の正当性を引き合いに出すことは恥ずべきことである、以上のような訓(*おし)えが、海軍軍人の躾(*しつけ)教育の基本項目になっていた。「艦船職員服務規程」(大正八年六月達第一一一号)の綱領が、よくこの躾の源泉をなしていたものと認められる。・・・(同書25頁より)

 内田提督は「海軍部開戦経緯」の中で、海軍と政治の問題に言及し、こう記述しています。

・・・海軍の一般的な政治的無関心は、英国が既にその教訓を示すように、海洋国家としての発展は、海外との貿易に求めるべきで、深く大陸にかかわるべきものではない、という観念が強いことに因る。従って、日本が、明治の中期から著しく(*中国)大陸に介入し、一九一五年いわゆる「二十一カ条要求」にみられるように、性急で独善的な大陸進出を志す政策に、なじまなかったためであることも見逃しえず、これも海軍の体質というべきものであろう。及川校長の前記の後悔は、しかし、海軍省内にあった「政治にたずさわる者は海軍大臣のみ」とする、潔癖な気風に対するものであったと思われる。その点、理解できるところであるが、同時に、政治については、単に理解を深めることだけで終わるものではなく、いかにこれに参画し、やがて、いかにこれを、所望の方向に向かわしめるかの、活動にまで及ばなければすまないのであり、その限界はむずかしい。海軍が、深く検討し、教育の強化を図るべきであったのは、「政治論」もさることながら、むしろまず、それと密接不可分の関係にあった、国家戦略あるいは統帥論のほうであったであろう。これらを突き詰めることにより、政治は、かえって正しく理解される点があったのである。・・・(「海軍部開戦経緯」22頁より)

 このことは、今日の現代日本にも通じる問題でもあるように、筆者には思えてなりません。(今回はここまで)