前回(8)で今村均将軍の回顧録から、陸軍の下剋上というか、中堅エリート幕僚が陸軍中央を動かしてゆく構造が、満州事変首謀者などへの人事措置に端を発したという指摘を取り上げましたが、今回はその具体的な構造を更に別の証言から探りたいと思います。


   以前本シリーズ(2)にてご紹介しましたが、少しおさらいしますと、岩畔豪雄(いわくろひでお)元陸軍少将は、明治30(1897)年広島県倉橋島出身で、名古屋地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校(30期)を経て、大正15(1926)年に陸軍大学校を卒業したエリートです。それ以後の主要経歴は「諜報、謀略の科学化」を主張して新設された参謀本部第八課(別名謀略課)の主任として汪兆銘政権樹立や秘匿名「山」と称する諜報機関の設立、そして有名な後の陸軍中野学校を創設し、陸軍省の中核である軍務局軍事課長に就任してからも謀略資材を開発する陸軍登戸研究所(通称)などを設立、「謀略の岩畔」と呼ばれていたという人物です。

   そして日米の緊張関係が嵩じてくるなか、本シリーズ(2)で取り上げた通り、岩畔陸軍大佐(当時)は、米国に駐在武官補佐官として派遣され日米交渉に従事します。そして「日米諒解案」という両国が歩み寄る案を纏めますが、当時の松岡洋右外相は自分の訪独訪ソ中に進められた同交渉が気に入らず、余分な追加要求を加えて、結局これを壊してしまいます。その後、戦争中はインド独立運動の工作などに従事するのですが、少し遡って 昭和14(1939)年2月から昭和16年3月までの日本が対米英開戦に向かってゆく重要な時代に、上述の通り陸軍省軍務局軍事課長を勤めていました。

   これは本シリーズ(7)で取り上げた永田鉄山将軍も就いていたポストで、まさに陸軍軍政の要であり、陸軍の政策や予算を取り仕切る重要部署です。この時代に、やはり本シリーズ(5)でご紹介した通り、二・二六事件の後始末として、「予備役となった皇道派の将軍が陸軍大臣に就任することを防ぐため」との理屈付けで陸軍主導で復活させた陸海軍大臣の現役武官制を悪用し、畑俊六陸軍大臣を辞任させて、後任の陸軍大臣を出さないことにより、陸軍が米内光政内閣を倒閣した時に、まさにこれを推進した人物でもあります。

   この人に戦後、木戸日記研究会・日本近代史料研究会が三回に亙り聴き取り調査を行いました。その記録他を纏めたものが平成27(2015)年に日本経済新聞出版社から「昭和陸軍謀略秘史」岩畔豪雄(談)として刊行されています。この本の中に、今回のテーマである陸軍中堅エリートによる幕僚統帥の構造についての岩畔証言がありますので、少し長くなりますが以下に引用したいと思います。(同書216頁「陸軍の空気」という項より、尚、*印は筆者による註記)


・・・(*東京裁判で戦犯として処刑された)東条さん(*東條英機総理大臣・陸軍大臣)ですらあれは犯罪の主犯とか共犯ではなくて、被害者ですよ。これは私(*岩畔将軍)は、これは間違いなくそうだと思います。なぜかというと、不特定多数の五、六〇人の三宅坂(*陸軍省・参謀本部)の幕僚団とも言うようなそういうようなものの動きではないでしょうか。そういうものが飯を食いながら、「今度の内閣(*米内光政内閣)はなっておらん」ということになって、「あれはやめさせなければならない」ということになると、自分のところの課長に、「あれはもう内閣をやめさせなければいけませんな」と言うわけです。そうすると、課長の中でも半分は、「そういうことを言っても反対だ」という人がある。「同意だ」という人もいる。そうすると、その同意だという人が部長のところへ行って「やめさせなければいかん」という。部長の中にも「やめさせなければならない」という人があると、それがだんだん上に行ってパーッと具体的なものに固まってしまう。


    東条さんなんかも最後には、自分の意思ではいかようにもならないというところにまで来てしまったのです。それをいままで下剋上だとか、青年将校の突き上げとか言っていましたが、いわゆる青年将校(*中央官衙勤務のエリートではない一部の隊附き勤務の大尉及び中尉・少尉級、二・二六事件を起こしたのはこういう将校たち)というのはなんの力にもならなかったのです。その(*陸軍大学校を出たエリートの)大尉から大佐ぐらいの間の参謀本部と陸軍省の課長とか部員とか課員というものの話し合い、そういう場が出来た、そういう空気が出来たこと、それが国を誤った根本じゃありませんかね。


    私もその中の一人になったことがありますが、それが少将(*将官クラス)になったらだめなんです。石原(*莞爾)さんなども大佐の時まではその空気の一人です。少将になって部長になって(*その幕僚団グループから)追い出されるのですからね。それは、ほんとうにああいうふうになって来たということは困ったものでしたね。・・・


   これに引き続き、「『大人物』の誤解」と題した項で、質問者が「どうしてだめなんですかね」と訊いたのに対し岩畔将軍は次のように答えています。(同上書217~219頁より)


・・・それが、そうなるにはそれなりの理由があったわけですね。こういうことなんです。いよいよ「あいつ(*上官)はだめだ」ということになるでしょう。「あれは反対だ」ということになる。そうすると、今度は、そういう同志がみんな人事局に何人もいるわけですから、「あれを変えようか(*人事異動させるの意)」ということになる。そうすると(*人事局の)上へ行くわけです。何かの(*別のもっともらしい)理由を持って行って一人や二人変えたって誰も問題にするものはないのですね。そうすると、今度はそこへやりよい人(*同意する人)を持って来るわけです。そこの人事までこれに併行して来たわけです。それでうまくいかなかった(*幕僚団の思い通りにできたの意)。


    私(*岩畔将軍)は、ここで一番誤った原因として反省していることが一つあるのですが、一つは、上の者が下を押さえる力がなかったことです。人気を取ればいいぐらいのつもりでいた。今度は、下のほうは下のほうで、「あの人は言うことを聞く人だ」ということで、つまり、なんにも自分の意見がなくて下の意見を聞く人を大人物というふうに誤認したところに非常な誤りがあった。(*中略)それで、なにかというと、「人の意見を十分呑み込む、あれは人物が大きい」と、そういう誤解があるわけで、それが一つの大きな罪を作っておりますね。(*言い換えれば)自分で責任をとらない。外国の将軍というのは全部自分で責任を取ります。ナポレオンなんという奴でも、あれは命令を下す時に自分が書くのです。参謀長は書記ですよ。(*中略)ほんとうの上に立って責任を取る人はそういうことでなければいけない。それを、(*下の者が持って来た起案そのままで)「おう」ということでいきなりやるという、これがいいと思うような弊風の出来たことがいけないのですね。・・・


   (*続けて「責任を取らない体質」という項に入り、質問者が「それはいつ頃から出来たのですか。」と訊ねたのに対して岩畔将軍はこう答えています。)


・・・それはかなり前からだったろうが、特に昭和の初め頃からではないでしょうか。(*中略)時勢が非常に移って来て、いろいろ過激な案を持って来る人もおり、それを呑み込めない人がはじめはおるわけです。それをだんだん呑み込むようなのが偉い人だというようなことで、(*都合の)いい人を(*要職に)持って来るというようなこと(*人事)になるわけです。そうすると、出世するためには、杉山元(*元帥陸軍大将、開戦時の参謀総長)なんというのが代表的な人物ですよ。案を誰かが持って行くと、「ああ、そうだ」という(*同意する)と、次の人がまた別の案を持って行くと、「ああ、そうだな」とすぐ変わるのだ。

   先入斎と後入斎がある。先入斎というのは東条さん型です。一ぺん頭にはいったらなかなか変らない。あの人の場合は最初に言って行かなければだめなんだ。あの人はあとからなにを言ってもだめ、杉山さんの場合は、現実に事が起きる時に持って行った人(*下僚の案)が勝つのです。だから、そういうように、先入斎型と後入斎型があるわけです。後入斎型が杉山さんが典型です。杉山さんなど、あんな人がどうして大将元帥になったかといまだにぼくは疑問ですが、そういう空気が軍部の中で出来てしまった。これが一つです。・・・


   (*続けて「精神は良いが行為が悪い」という項に入り、岩畔将軍はこう話しています。)


・・・それから、もう一つは、ものごとは最初の根の時に決まらなければ、大きくなったらなんと言ったって斧やカンナを持って行ったところで倒せるものではないのですよ。だから、三月事件の時にスパッと切ってしまえばよかったのです。この間も言ったように、「精神は良いが行為が悪い」というような態度を取ったことがいけないので、精神が良くて行為が悪いということはないのですよ。行為が悪ければ、精神も悪いはずなんですね。それを割切ってピシャッと押さえればいいものを、それを人気を考えたりして生半可なことをしたものですから芽がだんだん大きくなって、「あれはいいことか、褒められることか」というようなことでやって来た。


    そして一○月事件、これもウヤムヤ。五・一五は少しはっきりした態度を取ったが、あとはみんなわからないようなことになってしまった。それで二・二六事件の時に至って、「いよいよこれはいかん」ということになったわけです。それは徹底的にやった(*死刑などの厳罰に処した)からです。「精神が良くて行為が悪い」なんというあいまいなことは、みなさんも一つおっしゃらないようにしてください(笑い)。・・・(前掲書、217~219頁一部抜粋して引用。*印は筆者註記)


   もっともこうはおっしゃいますが、岩畔将軍は知ってか知らずか、本シリーズ(6)で取り上げた通り、そもそも三月事件は、処分する側の時の宇垣一成陸軍大臣、杉山元陸軍次官、小磯国昭陸軍省軍務局長たちが参与していたわけですから、橋本欣五郎中佐や長勇少佐以下の首謀者たちを処断することはできなかったわけです。そこから連なる問題が、岩畔流に言えば、陸軍部内でどんどん枝を延ばし葉を広げていったわけです。


   ここで注目すべきは、「不特定多数の五、六〇人の三宅坂(*陸軍省・参謀本部)の幕僚団」という存在です。それは陸軍大学校を六番以内の優秀な成績で卒業し、卒業式で恩賜の軍刀を陛下から下賜されることから「軍刀組」と呼ばれるエリート集団とそれに準ずる成績の人たちであり、ドイツを中心とする欧州勤務や、陸軍中央の三官衙と言われた陸軍省・参謀本部・教育総監部に勤務することが約束されているグループです。

   ところでこの人々には何故ドイツ贔屓が多いかについては、陸軍が当初のフランス式から普仏戦争後、プロシア(ドイツ)式を手本とし、陸軍大学校の参謀教育にドイツからメッケル少佐を教官として招いたことなどがありますが、もう一つは、カデット(「士官候補生」の意)の異名を持つ陸軍幼年学校の存在があるのです。陸軍士官学校(本科)に入学するには、旧制中学校を経て中学校4年生修了程度の入試に合格して入校する者と、13~14歳で、旧制中学校2年生修了程度の入試に合格すれば中学生のみならず高等小学校からでも特に学歴制限はないので入校することができました。そしてある時期以降は、幼年学校を卒業すればエスカレーター式に陸軍士官学校に入校することができたのです。海軍では明治の創設期に兵学校幼年生徒の制度はなくなり、終戦間際に海軍兵学校予科に相当する78期が針生分校として誕生しますが四ヶ月ほどで終焉を迎えました。


   しかし陸軍では、幼年学校(地方・中央)、士官学校、大学校という順に純粋培養で育ち、しかも優秀な成績で卒業した者たちが、本当のエリートと言われていたようです。永田鉄山将軍も石原莞爾将軍も東條英機将軍も、上述の岩畔豪雄将軍もそうしたコースを歩んで来ています。そして幼年学校では通常の旧制中学校では教えない、ドイツ語、ロシア語、フランス語など、英語以外の語学を選択して学ぶことができ、どちらかと言えば英語は一般中学出身者に任せるという風潮で、優等生はドイツ語を学ぶ生徒が多かった模様です。

   士官学校と大学校を首席で卒業したにも拘わらず一般中学出身であった今村均将軍は比較的に例外的な存在で、在外勤務はやはり英語国のイギリスでしたが、前回の(8)で見た通り、参謀本部で作戦課長を務めたあとは、あまり中央の要職には就いていません。もっとも制度上こうした差別が中学校出身者と幼年学校出身者の間にあったわけではありませんが、少なくとも三年間位は「軍隊の飯を食う」のが早い幼年学校出身者の方が実際上有利な面はあったかもしれません。

   その反面、多感な成長期の少年時代に一般社会から隔離されて陸軍の内部で純粋培養されるわけですから、それなりにものの見方や考え方に影響があったことも考えられます。因みに海軍では幼年学校は存在せず、中学校出身者及び稀に勤労少年や夜間中学校出身の秀才(高木惣吉海軍少将や黒島亀人海軍少将など)が入試(学歴制限はなく受験時の年齢制限のみ)に合格して海軍兵学校に入校するのですから、この約三年の一般社会(軍隊の外という意味での)の経験は、中学校出身者の陸軍士官学校入校者と同じです。


   13~14歳で陸軍幼年学校に入って以来その後の長い人生を陸軍の中だけで過ごすのですから、教えられる学科は普通学中心であったとはいえ、恐らくは良くも悪くも陸軍こそがその心的世界の中心であった軍人人生を、幼年学校出身者は過ごしていたのでしょう。海軍の井上成美提督が、「陸軍は陸軍第一、国家第二なんだ」と指摘されている遠因のひとつにこうした幼年学校の影響があるのかもしれません。そして、更に幼年学校、士官学校、大学校を優等の成績で卒業し、陛下から恩賜(正確には陸軍では御賜という)の軍刀を戴いたエリート集団は、岩畔将軍の言う「不特定多数の五、六〇人の三宅坂(*陸軍省・参謀本部)の幕僚団」のメンバーとなり、帝国陸軍全体を動かし、さらには大日本帝国そのものをも動かし得るという使命感と高揚感に包まれていたと考えられます。従って、自分たちのものの見方や考え方にそぐわない、例えば上記の海軍出身の米内光政内閣などは倒閣してしまえ、そうすることが帝国にとっては正しいのだということになるのでしょう。


   実際上米内内閣が倒れ、次の第二次近衛内閣が発足〔昭和15(1940)年7月22日〕してすぐに、陸軍と松岡洋右外相が推進していた「日独伊三国同盟」が成立します〔昭和15(1940)年9月27日〕。この時はすでに前年の9月1日から第二次世界大戦が始まっているわけですから、イギリスからすれば交戦相手であるドイツ・イタリアと同盟を結んだ日本はすでに敵国側陣営(枢軸国)ということになります。当然、まだ参戦はしていなくともイギリスに味方しているアメリカにとっても日本は敵性国家となったわけです。その後、北部・南部の仏印進駐から、アメリカによる対日石油禁輸措置となり、石油がないと困る日本は対英米蘭開戦を決めるわけですから、この「不特定多数の五、六〇人の三宅坂(*陸軍省・参謀本部)の幕僚団」が日本の針路に及ぼした影響は確かに大きかったと言えるでしょう。(今回はここまで)