前回、前々回と、開戦時そして終戦時の御前会議の様子を見てきました。先ずは終戦時の御諚(*陛下のお言葉)を記述して残してくれた当時内閣情報局総裁の下村宏(*号:海南)氏の著作「終戦記」(*昭和23年鎌倉文庫刊)から、御聖断に関する部分をご一緒に読んでゆきたいと思います。(*裕鴻註記、適宜旧字等修正)

・・・第六六節 聖断を仰ぎし事例(田中(*義一)内閣の瓦解、二・二六事件、越境事件)

 (*昭和20年)十月一日朝風荘に鈴木、関屋、左近司三君をお招きして小集を催した。席上談たまたま御聖断を煩わしたる点につき鈴木(*貫太郎、元)首相は次のように話された。

 どうも日本の国体は充分に会得されていない。日本の(*大日本帝國)憲法は天皇は神聖なるものとして凡ては輔弼する者の責任になっている。それぞれの職責にあるものが合法なる手順を踏んでくれば、之を御裁可になるのが建前である。従って親しく御聖断を仰ぎし事例というものはそうそうあるものではない。

 自分(*鈴木貫太郎)の長い間の体験によるも御聖断にまちしは前後三回にすぎない。その第一回は田中(*義一)内閣の時に田中首相は満洲事変(*正しくは張作霖爆殺事件)の責任者は厳罰に処しますと奏上申上げたが、それがついのびのびになって半年に及んだ。偶々白川(*義則)陸相より満洲その後の経過を申上げ、之を厳罰に処する事は種々面倒なる事態を発生する事になるので何卒行政処分にて相済ませるようにという事であった。

   それでお上(*陛下)は田中首相に白川よりかくかく申出たが話がちがうではないかというお詞(*ことば)があり、首相は恐懼して(*当時)侍従長であった私にまで辞職する旨を申し出て引き下った。

   そこで田中首相の政友会(*母体政党)では会の総裁として我々に無断にて辞職する事は怪しからんというので、首相につめより、党の幹部二三は自分にまで談じに来た。しかし元々侍従長に申し通ずる筋合ではないので、自分としては只聞いただけにすぎない旨を述べたが、もともと本件は田中首相が白川陸相をして言上したのが筋ちがいで自ら事情を具して申上げればよかった。

   お上は田中にその職をやめよとまでは仰せられなかったと思う。だから田中の辞職は聖断によりしものでなく、田中首相の一存に出でしものである。尚此事ありて後世間では宮中の陰謀として噂されたる事が上聞(*陛下のお耳)に達し、以後首相の進退に対しては慎重に取り扱われる事となりたる様承っている。

 第二回は二・二六事件で斎藤(*實)内大臣、高橋是清子(*子爵)、渡邉(*錠太郎)陸軍大将等々兇手に斃れ、岡田(*啓介)首相も命を失えり、鈴木(*貫太郎)侍従長も重傷の為危うしと伝えられた。閣僚枢密顧問官等閣議や会議を開いたが黒雲の如く蔽いかぶさりし(*陸)軍の威力に押されて何等まとまらない。お上には 自分はこれから鎮撫に出かける、直ちに乗馬の用意をせよ と仰せられ、側近の者等極力おなだめ申上げた。やがて閑院宮参謀総長、川島陸相を召して、 朕(*わたし)の軍隊が命令なく自由行動を起した事は叛乱軍と認める。叛乱軍なるからは速(*やか)に討伐せよ という聖断が下ったという事であるが、いづれもいわゆる御前会議における聖断というのではない。

   それだけに今次(終戦時)の聖断は全く最初であるといってよく、それだけお上に責任を帰するに至りし私の輔弼の責軽からず、しかもそれを敢てせねばならぬ国家存亡の危機に直面したのである。

 之は余談であるが満洲事変には朝鮮軍司令官林銑十郎大将の国境を越えての満洲進軍があった。自分は宮中にて座談の際之は大権干犯であって明かに違法であると申したのを、ある侍従武官は之を南陸相にしらせる、陸相はかけつけて来て自分に詰問に及んだから、私ははっきり明言した旨を答えた。そしてつけたした。国境を越え無断で出兵したのは明かに大権違反である。

   抑(*そもそ)も独断専行には二種あり、第一の場合は命令により独断専行せよと言われたる場合、第二の場合は御上よりの命令を待たず緊急の措置として独断専行するのである。即ち孫子の所謂進んで名を求めず退いて罪を避けずとの国家に殉ずるの決意である。但しその時はその事由を述べてその責に任ずべきであるといった。

   南陸相はよく分ったというので辞去する。それから事由を具して引責の旨を申し出る、その義に及ばずという事で解決したのであったが、その後林将軍は越境将軍というので評判になった(*後に陸相、首相に就任)のであったが真相は右の如くである。結局はいわゆる御前会議に聖断を下されし事は今次(*終戦時)を以てはじめてと見るべきである。(*同上書152~154頁)

 第六七節 宣戦と聖断

 聖断を待つ事はめったに無い。又聖断を待つといっても前申したような時であり、大勢の赴くところ大義名分の示す処により御裁定されるのであるから、此の辺の事情は中外に明かにしておく必要がある。ここに私見(*下村海南)としてはっきりいえる事は、真の聖断と云うのは今回のような国家存亡の重大時期に仰がれるのであってそれを再度まで聖断を仰ぎし重責にかんがみ鈴木首相は辞表を奉ったのであった。(*終戦時二度の御聖断を仰いだこと) もちろん鈴木首相の辞職せし理由は只それのみでは無い。後に記せる如く辞職する事が終戦のため必要である、留任している事は終戦の始末をつけるべくよろしくないと確信したからと私は信じている。

   以上数次にわたり聖断に関する存じよりを筆にしたのは、かかる事情は私(*下村海南)にはすべて初耳であった。従って如何に聖断の下る事が稀なものであり、又稀であるべきであるという事は広く世上に知らるべきであるからである。同時にその最も稀である聖断を最も有意義に生かしたのが此度の終戦御前会議である。又同時に満洲事変以後支那事変より対米戦に至るまでの間を通じ、平和愛好者である近衛首相が三次の内閣首相として、その間遂に御聖断を仰ぐ迄の決意信念を缺いていた事が遺憾至極と、今更に死児の齢を数うるものである。ここにくりかえして申し添えたい事は、それならば終戦の時のように宣戦の時に聖断あるべきであるという点である。私(*下村海南)は今次たまたま入閣して宮中及び内閣の事情につきいささか知るところあり、又開戦当時の内情も新聞紙上等により知るにつけ、私には次のように判断されるのである。

 東條(*英機)内閣の時にはすべての機が熟して統帥の方も国府の方ももはや開戦に一致してしまっているのである。内閣に於て意見の相違はないのである。すべてが一致している時に進んで聖断の下されるべき余地が無い。それだけに近衛首相にして苟も対米戦不可なりとすれば、内閣を投げ出す事をせず、(*昭和20年)八月十三日の場合の如く、首相自ら決意して之を閣議にはかれば断じて開戦に一致をみるはずがない。何よりも首相自身が反対であるからである。又海軍出身でも無い近衛首相に和平御一任という海軍もをかしなものであるが、それだけに首相が反対ならば海軍もついてくるはずである。ここに於て近衛首相は陸軍の力に心ならずも押されてしまったか、左もなくば開戦亦可なり、止むなしという心持であったとしか思えない。左もなくば極めて重責を負える立場にありながら、あまりにも重大なる過誤を敢てしたのである。その心情には憐むべきものありとするも、結果のあまりにも重大なるを思えばその罪万死に当るものである。苟も対米戦不可なりと信ずれば一身を捧げるだけの決意にて沢山である。まして聖断を仰ぐべき道が残されてあったのである。まして後任に東條陸相を推したとすれば責任をとらぬ程度に開戦に賛成同意する、少くとも反対しなかったか、然らずんばあまりにも重大なる見込みちがいである、恐らく神経衰弱になっていたのであろう。

 さらに付言しておく事は宣戦とか媾和とかいう事になると、凡てが秘中の秘として首相、外務、陸海(*軍)関係等の間にかぎられて論議せられ、その他の閣僚の多くは知らされずに居るという事である。平素首相の公室へ無断で出入りしていた私は相当信任を得ていると自惚れている。又私は情報局総裁である。しかし直接関係の職にない。又総裁であるために却って私から情報の漏洩を恐れたのであろう。媾和の問題については私の方から内外の情報の報告につれ、首相よりそれとなく第六感により、ある消息を感知し得た程度であり、閣僚の多くは少くとも表向いて知る処なく、又知るべきでも知らずべきでもなかったのであろう。東條内閣の時にも宣戦の場合に現に或閣僚は不意に呼び出され宣戦の詔勅に副署した時は既に真珠湾攻撃の後であったとさえ伝聞されている。私はすべてこうした事情は委曲をつくして之を公けに審議し、後日公平なる判断に委ねるべく先づ(*大日本帝國)憲法の改正を絶対に必要なりとする者である。

 第六八節 国体護持と憲法

 此機会にふれて一言したい事は、国体の護持と憲法の関係である。天皇制については、それは理屈では無い。一系の皇室をいただいているという事にて沢山であり、そこにその尊さが有りがたさは現に今次も如実に示されたのである。

 それだけに考えられる事は、憲法に天皇は神聖にして侵すべからずとあるのは、天皇にはわるいという事はあり得ない。又あり得ないように輔弼の責をつくすべきであるという事である。

 近頃天皇親政という説を耳にしたが、お上には自ら恰も内閣の首相の如くにして、しかもいつまでも政をつづけてとるという事は不可能である。ましてやこれを歴代に通じてという事はさらにさらに無理というものである。それだけに一層輔弼の責が重かつ大である。御前会議とか御裁可を仰ぐというのも一種の手続きであって、政治家が正義観国家観を持し、一面議会の意思を反映したならば申分はないはずであるが、事実は議会の自由意思は反映せられず、官僚軍閥が専制政治を強行し、全く取りかえしのつかぬ破目に陥れてしまったのである。しかし真に国家興亡のさなかに重大事態に直面して論議定まらざる時は、先づ総辞職に先だち、総辞職の結果がいかに成りゆくかは見定めねばならぬ。それが国家のために不可なりと信ずる限り、一命を投げ出して御聖断を仰ぎ最善の努力を傾注せねばならぬ。

 しかし更に長い将来を考えたならばいつも最後に来たるべき重大なる聖断がいつも必らず最善のものとは断ぜられない。いわゆる明治天皇の五箇條の御誓文のはじめにある如く万機公論に決すべきであり、皇室は我等の家長として我等民族の中心として親和敬愛の的とすべきであって今までのように天皇の大権重きに失し統帥は国政よりはなれて独りあるきし宣戦媾和の大権まで議会から遊離している。しかも天皇の名をかりて一部階級が国家を誤るの機をつくるが如きは厳に之を避くべきである。憲法は容易に変改すべきでない。しかしかりに憲法が台湾、朝鮮、樺太を領土とせる後に公布されたならば決して今日の如きものでない。憲法は永久に平和に栄えゆくべき一線に沿いて根本より改正さるべきであり、ここに初めて皇室も真に平和の象徴としてその安定と尊厳が保たるべきであると信ずる。・・・ (*同上書154~157頁)


 下村海南氏が述べた中に、「天皇親政」という言葉がありますが、一般的には「明治維新」の「王政復古」により徳川将軍家の「幕府政治」から明治大帝による「天皇親政」になったものの、大日本帝国憲法の公布とそれに基づく民撰議院(国会)の設立により、選挙で当選した衆議院議員のうち多数を占める政党の首領を総理大臣にするという「憲政の常道」による「政党内閣制」の出現により、また政党による「幕府的」政治が再現し、それが悪政をもたらしたため、もう一度「昭和維新」を断行して「天皇親政」を取り戻さねばならないというような戦前右翼の主張を想い起こします。しかし果たして「天皇親政」とは本当はどのようなものであったのでしょうか。これを解明することによって、上記の「御前会議」や「御聖断」の問題もより明らかにすることができるのではないかと思います。

 そこで、ここからは坂田吉雄著「天皇親政」(思文閣出版1984年刊)をご一緒に読み解いて行きたいと思います。著者の略歴は、1906年新潟県高田市生まれ。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。京都大学人文科学研究所教授。京都産業大学法学部教授。1980年退職という方です。同書は、昭和期の基礎を造った明治期の「天皇親政」を、ほぼ時系列に沿って各「テーマ」毎に叙述し、末尾には「天皇機関説論争」を取り上げています。それでは同書の構成に従って部分的に抜粋しながら、読んでゆきましょう。(*裕鴻註記、適宜片仮名等修正)

「はしがき」(*同書3~4頁より抜粋)

・・・明治は天皇親政の政治体制をもって始まり、この政治体制は明治の終りまでつづいた。それは、対外関係に対応するために国民の強固な統一を必要としたことから、天皇を国家意志の最終決定者とし、天皇の決定には国民が無条件に服役するということにした政治体制である。

   しかし、明治の全期を通じて同じ内容の天皇親政がつづいていたのではなく、時と共にその内容は変化していた。王政復古当時の対外関係と国内事情とに応じて公議輿論制を基盤にはじまった天皇親政は、国内情勢の変化にともなって、官僚専制政治になり、次いで立憲君主制へ移行した。

   したがって、天皇親政とは何であったかを、その内容に及んでまで概念的に規定するわけにはいかない。また、人々が天皇親政という言葉で同じことを考えていたものでもない。政府首脳の間においてさえ、それについて意見の相違があり、そのために時として彼らの間に政治的対立が生まれていたのである。そのどれが正しくどれが間違っているということはできない。それぞれの意見はそれぞれの根拠の上に成立していたものであり、人々はそれぞれに自分の意見が正しいと信じていたのである。

   それでいながら、いざという時には、人々は意見の相違を差し置いて、天皇の最終決定に無条件に服従した。国民は、天皇の最終決定には無条件に服従しなければならないと考えることにおいては一致していたのである。このようにして国民は、天皇親政政治のもとで日清・日露の両戦争を戦い抜いた。・・・(*3~4頁)

「一 王政復古」(*同書7~21頁より抜粋)

・・・明治維新は王政復古に始まっている。だが、王政復古と明治維新とは分けて考えられなければならない。というのは、明治維新の中心事業は封建社会の変革、すなわち、廃藩置県とそれに続く身分制の廃止という社会的変革にあったが、このような社会的変革の構想は、王政復古成就の後になって始めて現れたものであって、王政復古の過程の中では、まだ誰の頭にも浮かんでいなかったからである。(*中略) 王政復古は、あくまでも、封建政治体制の枠内で考えられていたのであって、現存の封建政治体制のもとで、天皇を国策の最終決定者とすることによって、国論の統一、したがってまた国民の統一をはかるということに王政復古のねらいがあったのである。・・・(*7~8頁)

・・・そもそも、幕府独裁の体制のもとでは、国家意志の決定ということは必要でなかったのであるが、しかし、幕府独裁が可能であったのには、鎖国という前提条件があった。諸外国に開国を迫られることになって、幕府の独裁が不可能になった。開国・鎖国の国策を決定するのは、諸大名の協力が是非とも必要であった。事は幕府の存亡に関するだけでなく、日本国全体の存亡に関するものであった。諸般の事情から幕府が開国に決定したとき、御三家の当主徳川斉昭を始めとして全国の攘夷派が、開鎖の国策は、公議輿論に問い、最終的には日本における最高権威者である天皇の裁定にまつべきであると唱えて幕府の独裁に反対した。これが尊王攘夷論である。・・・(*8~9頁)

・・・大政を奉還して、「*朝権一途に出る」ようにするということは、幕府が自己の立場を固執することなく、天皇の決定を真に絶対的なものとして、国論の統一をはかるということであった。ただし、このことは、天皇独裁の政治体制をみとめるということではない。国策の決定に当っては、「*広く天下の公議を尽す」という手続きを踏むということが前提とされていたのである。公議が一つの決論に帰着した場合には、問題なく、この決論が天皇によって裁可されて最終決定となる。問題は、公議が分裂して一つの決論に帰着することができない場合にある。この場合にはやむを得ず「*聖断を仰」ぐことになる。「聖断」は理非を超越する。このようにして、国民統一を確保するために、「*広く天下の公議を尽」し、最終的には、理非を超越した「聖断」に国民の全てが服従する、というルールを確立することに王政復古の意味があった。(*中略) 

   要するに、王政復古とは、天皇親政・公議輿論の二大原則のもとに国民統一を確保しようとしておこなわれた政治体制の変革であり、天皇は日本における唯一最高の権威者であって、この最高権威者による裁定は理非を超越する絶対的裁定であるということで、天皇親政の原則は非合理的なものであったが、決して不合理なものでなく、当時においては、最も合理的であるとともに最も現実的なものであった。公議輿論にもとづいて国策を決定するという場合、それが一つの決論に帰着すれば、問題はないけれども、意見が分裂するのが普通であって、意見が分裂した場合の処置があらかじめ決められていなければならない。

   この場合、多数決制という方式がとられることがあるけれども、多数者の意見が必ずしも正しいとは限らず、少数者の意見が必ずしも誤っているとは限らない。(*中略) 

   王政復古の場合、公議にもとづいて国策を決定するといっても、それは諸大名中心の公議、すなわち、列侯会議以外ではあり得なかった。諸大名といっても、一万石から百万石までの差があった。徳川家自体は、将軍職を辞退しても、なお四百万石の大名であった。したがって、列侯会議における多数決ということは全く非現実的であった。その点において、尊王ということに関しては全員が一致していたことから、最終的には理非を超越して「聖断」に従うという方法が唯一の現実的な国策決定方式だったのである。・・・ (*前掲書9~11頁)


   如何ですか。どの様に「御聖断」が生まれたのかが段々とわかってきました。次回も引き続き、この坂田吉雄著「天皇親政」を読み進めたいと思います。(今回はここまで)