2011年3月に思ったこと*天使の梯子 | 楽円☆まぶや~*ゆきみかん

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~天使の梯子をみた時に思うことが変わった瞬間~

今できることをするしかないのだと思った2011年の3月

都内の小学校が勤務地で
校舎の2階校長室の正面で
子ども用のバレーボールのネットを張っていて
(中学生のときはバレー部)

いきなり体育館が横に大きく揺れはじめて
外の木が大きく横に揺れていた

不思議なことに棚のボールは一つも落ちてこなかった

揺れが止まってからヘルメットを取りに階段をかけ降りていくときに目が回った

校庭に全員避難

空には大きな大きな

そんな時に不謹慎だけれど

美しい天使の梯子が東北地方の方角に無数に降りていて

その日は電車がとまり
一晩教室の床に段ボールをしいて寝てみると

部屋に暖房がついていても
なんとも冷たくて

母の実家は南相馬で
連絡がつかない親戚もいて

そして今も原発区域で
家がダメになり
戻ることをせずに
新しい生活をスタートしている従兄弟や従姉妹もいて

その時に痛感したのは

なにもできないということ

物資も結局届かない

ルートは分断されているし
届ける人もそれどころではない

送るだけなんてただの良いとこどりにもならない

素人がボランティアでいくならばせめて現地の方の足手まといにならないように

と、いうのも失礼ながら
思ったり

気持ちだけでは伝わらないし

みんなでヒーリングを送りましょうという人たちにも

わたしにはあたまのなかで

『何言ってるの?』

祈りだけでは届かない

そんなの、自分が無事だからできる偽善にしかみえなかった

本気なら食料や物資をもっていったり

むしろ復興がまわりだしたときに

仕事をまわせることができたり

支援できることのほうが

よっぽど現実的だし
(実際のわたしは支援どころか南相馬の親戚からもらったお米があまってるからともらったり)

あとから、自分の大好物の
(福島の銘菓)
を東北の震災に関係なかった地域に行く機会にお土産と応援をかねてもっていったら

『原発地区のものだから』
(放射能で汚染されたものは食べたくないということらしかった)

と、迷惑がられたりしたのも

あとから今にみてろと思ったまま忘れてたり(笑)

電力も足りないらしく
電車が都内まで行かず

自分も職を失うのかと
覚悟を決めたあのとき

なにもできないなら

必要なときにタイミングよく動くには

結局蓄えにどれだけ余裕があるか

できるときにできることをする

別に誰のせいでもないこと

あのとき思ったのは

歌手っていいなーということ

もちろん

アカペラでも十分聴かせられるくらいなら

身一つで気持ちを広げらるなーと

たとえ一時でも

日本にいる以上

日本に限らず

古から繰り返されてきたこと

そこからまた前を向いていく

それだけ


(2018年7月Facebookから)






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