新約聖書 マルコによる福音書 10章21~27節
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』 弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」
昨日の続き。
昨日、
「(この話は)悲しい結末・・・ のような響きがあります。しかし、わたしはイエス・キリストの言動から深い平安と喜びを感じています。あなたは、どうですか?」という問いで閉じました。
小さいころから「神様の教え(ルール:律法)を守りなさい!」と教えられて育った一人の人。
彼は教えをしっかり守ってきました。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」というような掟をずっと守ってきました。
でも、心に平安がない…
神様は自分を受け入れて下さっているのだろうか?
自分の弱さや罪は受け入れられ、ゆるされているのだろうか?
滅ぼされることなく、永遠の命へと導き入れられるのだろうか?
不安がずっとありました。
彼はイエス・キリストにその質問をしました。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」
イエスは、彼が「教え」をずっと守ろうとしてきた人であることを確認した上で、一言付け加えました。
「あなたに欠けているものが一つある。
行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
彼は「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」のです。
彼が「たくさんの財産を持っていたから」。
この結末からだけ判断すると、一人の人が財産を手放さなかったので「永遠の命を受け継ぐことができなかった」という悲しい話のように思えます。
しかし、聖書にはこう書かれています。
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」
イエス・キリストは、彼を『いつくしみ』ながら「あなたに欠けているものが一つある。・・・」と言われたのです。
「いつくしむ」と訳された原語のギリシア語は「アガパオー」。
その意味は、「愛する」。
私たちが使いなれている「愛する(条件付き:“愛さなくなる”可能性がある)」ではなく、「無限無条件に愛する」という意味。
イエス・キリストはその男性を“無限に”“無条件に”「受け入れ、ゆるし、愛し」ておられました。
彼が自分の言葉を受け入れようと受け入れまいと、神様が彼を100パーセント受け入れておられることをご存知でした。
確かに、今イエスの招きを拒否して財産にこだわった彼は、まだしばらく『お金』にしばられた生き方を続けなくてはならないでしょう。
『愛』によってあらゆる「縛り」から自由にされて生きる世界(神の国)には入れないでしょう。
しかし、神様の愛はそんな彼もいつか必ず神の国に招き入れて下さいます。
だからこそ、イエスが最後に明瞭に告げておられます。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
神様は、その全能を用いてその人が必ず宝物として生きられるようにしてくださいます。
たとえ一時的に神様(愛)に逆らうような行動をとっているとしても、必ずそこから救い出して無限の愛(神の国)の中に入れて下さいます。
みんな、そしてあなたは、かけがえのない宝物ですから!
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』 弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」
昨日の続き。
昨日、
「(この話は)悲しい結末・・・ のような響きがあります。しかし、わたしはイエス・キリストの言動から深い平安と喜びを感じています。あなたは、どうですか?」という問いで閉じました。
小さいころから「神様の教え(ルール:律法)を守りなさい!」と教えられて育った一人の人。
彼は教えをしっかり守ってきました。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」というような掟をずっと守ってきました。
でも、心に平安がない…
神様は自分を受け入れて下さっているのだろうか?
自分の弱さや罪は受け入れられ、ゆるされているのだろうか?
滅ぼされることなく、永遠の命へと導き入れられるのだろうか?
不安がずっとありました。
彼はイエス・キリストにその質問をしました。
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」
イエスは、彼が「教え」をずっと守ろうとしてきた人であることを確認した上で、一言付け加えました。
「あなたに欠けているものが一つある。
行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
彼は「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」のです。
彼が「たくさんの財産を持っていたから」。
この結末からだけ判断すると、一人の人が財産を手放さなかったので「永遠の命を受け継ぐことができなかった」という悲しい話のように思えます。
しかし、聖書にはこう書かれています。
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」
イエス・キリストは、彼を『いつくしみ』ながら「あなたに欠けているものが一つある。・・・」と言われたのです。
「いつくしむ」と訳された原語のギリシア語は「アガパオー」。
その意味は、「愛する」。
私たちが使いなれている「愛する(条件付き:“愛さなくなる”可能性がある)」ではなく、「無限無条件に愛する」という意味。
イエス・キリストはその男性を“無限に”“無条件に”「受け入れ、ゆるし、愛し」ておられました。
彼が自分の言葉を受け入れようと受け入れまいと、神様が彼を100パーセント受け入れておられることをご存知でした。
確かに、今イエスの招きを拒否して財産にこだわった彼は、まだしばらく『お金』にしばられた生き方を続けなくてはならないでしょう。
『愛』によってあらゆる「縛り」から自由にされて生きる世界(神の国)には入れないでしょう。
しかし、神様の愛はそんな彼もいつか必ず神の国に招き入れて下さいます。
だからこそ、イエスが最後に明瞭に告げておられます。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
神様は、その全能を用いてその人が必ず宝物として生きられるようにしてくださいます。
たとえ一時的に神様(愛)に逆らうような行動をとっているとしても、必ずそこから救い出して無限の愛(神の国)の中に入れて下さいます。
みんな、そしてあなたは、かけがえのない宝物ですから!