ラジオ!Yotsugi Busters!! -9ページ目

ナンパ奮闘記~銀座 天魔降伏編 02

ウィリーさんはすかさず僕に目で合図をして飲み物のオーダーの列に並ぶように指示した。女二人組がチケットを買って飲み物を買う列に並ぶ時が勝負だ。スマートに二人組に「よかったら入りますか?」とウィリーさんは自分の前に二人組を誘導することに成功した。ここまでくればしめたもの。

女子二人のグラスと僕たちのビールを持って奥まで移動した。この移動の間に誰もが振り向いた。「あ、あの子可愛くね?」と羨望のまなざしを向けていた。

早速グラスをぶつけあい乾杯。女子たちは何やら甘い酒を頼んでいた。
二人ともいつも笑顔で愛想のいい顔をしていた。おそらく会社とかでも上司のおっさんに気に入られているだろう。
まず1人は少し長めの黒髪で、ちょうど「いきものがかり」のボーカルみたいな感じだった。眼は奥二重で本家の「いきものがかり」よりは顔が幾分が小さく整っていた。
もう1人は、非常に華奢で長身細身の女性でどこかはんなりとした穏やかな独特空気を持った女性で、顔は平野綾に似ていた。上品な茶色の長い髪の上方の髪を両側面から後頭部にかけてまとめ、後ろで1つに結んだ髪型、いわゆるお嬢様結びというものだ。顔がにこやかでとても好感のもてる女性だった。

二人とも高校の時の友達だという。地元は東京ではなく、今は一人暮らしということだ。
年齢は24歳で、それぞれ会社の事務を担当しているようだ。職種は特に明かしてくれなかった。話をしてもちゃんと返してくれるなんとも小気味の良いテンポで、発せられる言葉の1つ1つがまるで霰が顔に当たるように何とも心地よかった。

しかしながら、この平野綾の方はなかなかの傾奇者で以前に40歳の男と付き合っていたという。やはり女性は特に大学生の時は社会人に妙な憧れがあり、年上が好きな時期があるという。今はもう二人とも社会人になってしまったのでそこまでの憧れは無いがそれでも同年代より頼りがいはあるというところから年上はたとえ40歳でも見た目に清潔感などがあれば全然平気で付き合えるという。

これは30代の男には朗報。30代、僕たちの世代は空虚な時代だ。ゆとりのように寵愛されたわけでもなく、バブルの恩恵も受けた訳ではない。しいていうなれば、そのバブルの親たちによって親のおもちゃにされた世代である。金に物を言わせ進学塾に通わせるお受験ブームがその骨頂だ。社会に出るタイミングもちょうど氷河期、いいことなんて何もなかった我々が唯一見いだせる救いはそこなんじゃないか?このまま放っておいても日本はどんどん衰退していく、経済の破綻はすぐそこまで見えている、ヨーロッパの国々で起こっている悲惨な現状は対岸の火事ではすまないのだ。2020年の東京オリンピックまでは日本は体裁を繕うだろう。でも、その後の日本は具体的なプランが無い。一時は経済が潤ったような勘違いをするだろうがそれはまやかしだ、そのすぐ後で僕たちは取り返しのつかない事態が待っているに違いない。国の寿命もあとわずか、大地震だっていつ襲ってくるかわからない、つい先日に数ある活火山の内の1つが噴火してしまったし、これはまるで大和の神がどんどん衰退していく日本国に憤慨しまるで怒りに震えているかのようなそんな錯覚すら感じるのだ。

待っていても始まらない、こうして銀座に来ればチャンスはありふれている。今回はかなり高値な戦利品となったが、地元で固まっているだけじゃ何も手に入らない。さあ、若者よ銀座へ来るがいい。

続く

ナンパ奮闘記~銀座 天魔降伏編 01

どーも、オハラです。

久しぶりのナンパ奮闘記です。
以前に2人組の法則として、たいてい一人が可愛くてもう一人は残念な子が多いということを書きました。
しかし今回は例外的な両方とも可愛いというバランスの取れた2人組との死闘をみなさんにご報告します。

このブログを始めてからというものあの銀座のコリドの通りは土日の夜になると多くのナンパ師を見かけます。
そろそろHubとかで座っている隣の席から「俺もウィリーさんみたくなりたい」という会話が聞こえてきそうですね。
大抵、2人か3人組の男子で行動しているグループが多いように見えますね、そのうちの一人がアグレッシブに話しかけ、その後ろを他のメンツががっちりガード、逃げ場をなくす。一見、理にかなったフォーメーションですが、これじゃまるで誘拐でもしそうな恐怖感を女性に与えてしまいますね。ウィリーさんはどんな時でも紳士であることを忘れません。女性が嫌がっていたり乗り気じゃなければそれ以上深追いはしません。「無理やり押せばやれる」と考えている人もいますが、優しさは大事にしたいですね。

久しぶりに300 barに狩場を定めて地下へと入っていきましたが、かなり男性の数が増えていますね。
常に男たちがテーブルに肘をついて入口へ目線を向けている。入ってる客が男だとわかると「ちっ」という感じで目をそらす。
女性もいるにはいるがかなり年齢が高くなっている。どう見ても40後半にしか見えないおばちゃんが頑張って肩を露出したりしていて、頑張って若い男と高いテンションで張り合っている、そんな状況だった。

煙とアルコールが充満するすし詰めのバーでやっと僕たちは若い女性を二人見つけた。話かけて奥に行こうと誘ったが「煙が嫌だ」と言って奥までついてきてくれなかった。しまいには酒も嫌いだという、何しに来たんだ?こういう女性にはさっさと見切りをつける。何も発展しないのが見え見えで盛り上がらないだろう。

仕方なくハートランドを片手に所在なく佇んでいた。相変わらずミュージックはガンガンにかかっていて、中にはこんな狭いのにマジなテンションで踊ろうとする輩もいてかなり迷惑だった。というのも、やはり客が柄悪いのが増えた気がする。常にぎらついていて、隙あれば人が話している女も横から奪ってやろうという魂胆が見え見えの連中も多くいた。

もう特に発展が望めないと踏んだ我々は店を出ることに決めた。出入口へと向かうとその瞬間、二人組の女性が入ってくるのが見えた。誰もが入口に目を向けた、二人ともなかなかの容姿だった。

続く

稲川淳二さんがついにパチンコに?

どーも、オハラです。

ついに稲川淳二さんがパチンコになりました。

CR 稲川淳二

稲川さんファンとしてはやってみたいですが、最近は不景気ですからね。
こんな景気の悪い時にパチンコやったって、儲かるような設定にはなっていないですからね。
お店側の思うつぼになってしまいますからね、僕は遠慮しておきます。

みなさんも気をつけましょう。パチンコもビジネスなんでお店は何かしら細工はしています。

オハラ

どしゃ降りのジェネレーション

どーも、オハラです。

最近お腹が出てきてしまいました。
もう僕も中年です。このブログを始めたころは25歳くらいでしたが、もう31歳になりました。
もういつまでもチャランポランタンに生きているわけにはいきません。そろそろ自分の人生の方角を定めなければいけません。

時がたつのは早い。もう僕の青春は去ってしまった。
ずっと尖って生きてきました。絶対に迎合しない、サークルに入って「ウェーイ」とかやらない。
孤独に歩め、悪をなさず、林の中の象のようにをモットーとして生きてきた。

僕はそんな自分を「土砂降りのジェネレーション」と呼称している。
自分の目と自分の全部をどこにいても信じている。
他人が作るガードレールに守られ生きていたくない。
ナイフの上を転がり続け、逆らいながら変えてやる。
俺たちは土砂降りのジェネレーション、雨に打たれて超えてやる。
Every day is upside-down、俺のハートに火が付いた。
戦い続けてやるのさ。

とそんな感じで生きてきた。

そもそもなぜそんなに反骨的に生きてきたかというと、やはり幼い頃の記憶が大きく影響している。

僕は根暗で教室でもいてもいなくても同じようなそんな性格だった。
とにかくみんなの目に触れられたくない、注目をされたくないというネガティブな子だった。
というより僕は赤面恐怖症だったのだ。誰かが自分を注目しているというだけでたちまち顔が真っ赤になってしまう。
「この問題の答えを、じゃあ、オハラ君言ってみて」と先生さされ立たされようものならたちまち顔が真っ赤になって体温が一気に上昇し、額から汗がだらだらでてしまうのである。このことで僕は当時よく苛められたのだ。

僕は授業中ももちろん手を挙げて発言しない子だった。
とにかく非自発的、後ろ向きな子供なのである。
しかしながら、そんな自分を変えようとある日決心した。このままではいけない、日の光を浴びて健全に育つのだ。
そう思ってその日は一時間目から頑張って手を挙げて積極的に発言をした。
先生もまんざらではないという感じで「オハラ君も積極的になってくれたか」と満足気に頷いていた。

すると国語の授業の際に、当時「おじさんの傘」という物語を読んでいた。
その話はダンディなスーツにハットのおじさんがいつもお気に入りの黒い傘を晴れの日も雨の日も持って歩いていて、
でもそのおじさんは雨の時にはその傘はささないで他人の傘に「ちょっと失礼」と入ったり、どんなに濡れてもその傘を差さない。それくらいお気に入りの傘だった。

そんなおじさんがあるとき公園のベンチで佇んでいると雨が降ってきて、それでもおじさんは傘をささずベンチに座ったまま雨に打たれている。そこに男の子がやってきて「おじさん、その傘貸してよ?」と頼んでも無視。男の子が困っているとそこに友達の女の子がやってきて「あら、マー君どうしたの?よかったら一緒に帰りましょう」と相合傘で仲良く「雨がふったらポンポロロン、雨が降ったらピッチャンチャン」とスキップして唄いながら帰っていく。

その様を見て、おじさんもおもむろに傘を広げて同じように「雨がふったらポンポロロン、雨が降ったらピッチャンチャン」とスキップしながら帰っていく。という物語だった。

この日、先生はこの最後の男の子と女の子そしておじさんのやりとりの部分を実際に演じてみようということになった。この時、すこぶる嫌な予感がした。おじさん役は先生がやることにそして「じゃあ男の子の役は…今日は元気よく発言しているオハラ君」と指名された。女の子の方は別段好きでもない子が抜擢された。

僕は絶望を覚えた。どうして僕なのだ?今日、こんなに頑張って自分を変えようと思ったのに。

教室の一番前に立たされ、先生は傘を持って椅子に座っている。そこに僕が「おじさん、その傘貸してよ」と入っていくのだが、もうこの時点で顔面が火を噴きそうに真っ赤になっていて汗が全身から噴き出していた。みんなが注目している、くすくすと僕の下手な演技に笑っている。そこに「あらマー君」と女の子が入ってくる。

そしてここからだ。「雨がふったらポンポロロン、雨が降ったらピッチャンチャン」と相合傘でスキップしながら教室の真ん中をみんなの嘲笑の中、歩くことになった。「ぎゃははは」とみんなが僕を笑う。僕はせっかく変わろうとしたのに、どうして頑張ったのにこんな笑いものにされなければいけないのだろう?どうしてこんな恥をさらさねばならないのだろう?頑張った報いはこれなのか?恥ずかしい、今すぐ殺してくれ。

この日から僕は一切手を挙げることを拒否した。サルでもわかるようなあほな問題でも僕は手を挙げなかった。全身で先生に向かってNOを示した。おそらくあの先生も僕の異変に気付いたと思う。あんなに頑張ったオハラ君があの国語の授業以来、一切発言をしなくなった。そのトラウマを今でも覚えているのだからどれほど僕の心に傷を残したことか。

これが僕の反逆心の芽生えだった。発言をするよりはしない方が良い、注目されるよりは無視される方が良い。ひっそりと自分の道を行けばそれでいい。だから、僕は先生に迷惑をかけない代わりに先生も僕に構わないでくれという決心だった。

子供の頃の体験は非常に重要だ。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
尖り続けよう。みんな心のどこかでパンクスでい続けよう。でも、痛い大人にはならないように。

オハラ

イギリス留学時代の大学の卒論 Chapter 04

Chapter 4

今日ではファッションのトレンドは次々と変わっているが(それもいささかトレンドの繰り返しが少なからず見られるが)ファッションフォトグラフィはほとんどその撮影方法がやりつくされたと言われている。そして、21世紀を迎えた現在、フィルムや紙、印刷技法やポストプロダクションまでもが進化しとりわけ驚くべきことがデジタルのテクノロジーはフィルムの必要を消し去ってしまった。

この革命と進化は、1990年代初頭にphotoshopの誕生とともに始まった。コンピューターによるデジタルフォトレタッチが写真にかけうるおよそ全てのエフェクトが可能になった。1860年代に始まった手製フォトレタッチの歴史を通りコンピューターレタッチの導入により写真家たちはいわゆる「Photography Afterwards」が理想的な形で可能になったのだ。




さらに今日では技術者が分業化されてしまっている。ファッションフォトグラファーは写真を取るのが仕事、モデルも今では専業の人間が事務所に所属、macオペレーターたちが雑誌の為に写真を加工し、どういう写真を撮影するかというテーマを決めるアートダイレクター。全てのファッションフォトグラフィーの工程を分散し、100年と少ししかその歴史が無いファッションフォトグラフィーという分野においてtechnologyの発展、大量生産大量消費、商業的な意図、モダニズムの芸術観念の変化、などがファッションフォトグラフィが芸術たりうるその価値(オーラ)を失わせてしまった。数々のファッションフォトグラフィの先駆者達の試行錯誤の賜物を多くの恵まれたスタジオセットやカメラ、作業環境といったものによりキッチュなものへと変化させてしまった。

最後にWalter Benjaminのこんな一言で締めくくりたいと思う。

Photographyは缶詰め食品のブリキの缶と宇宙を関連づけることが出来る、しかしながら、個々の人間の関係性は捉えることができない中でブリキは存在する。この上ない夢幻のような構図の中にあるPhotographyさえ、理解というよりは結果としては商品性が考慮されている…つまりこのPhotographic Creativityの真実は結局は広告である。

イギリス留学時代の大学の卒論 Chapter 03

Chapter 3
上述したようにファッションフォトグラフィーの維新的なアーティスチックな歴史は数々の才能に恵まれたファッションフォトグラファー達の試行錯誤と共に刻まれていった。ファッションフォトグラフィーの歴史はファッションマガジンの出版がスタートした19世紀初期が起源なので他のアートの歴史に比べれば驚くほどにその歴史は短い。しかしながら、その約100年ばかりの短い歴史の中で数多くの芸術的なファッションフォトグラファーを生み出してきた。彼らはあくまで商業目的であるファッション雑誌というフィールドの中でアーティストとしての活動を行ってきた、グラフィックデザイナーとも芸術家とも呼び難い不思議な部類に所属するクリエイターたちである。

彼らは当時のごく限られた作業環境において着実にファッションフォトグラフィの礎を築き、今日までそれらを紡いできた。しかしながら、その維新的に発展を遂げてきたファッションフォトグラフィの試行錯誤の歴史は1960年代頃に一応の完結を遂げてしまうことになる。その大きな原因の要素としてテクノロジーの進化に伴ないスタジオやセット技法などが大幅に発達したこと、と1940年代の後半あたりからファッションマガジンの商業的な意図が強まりアートダイレクターが主導権を大きく握り、フォトグラファーの芸術性に暗に歯止めをかけることになってしまう。スポンサーなどの関係上、モデルよりも服飾に重きをおき、どうやったら服が綺麗に映るかと被写体がだんだんとモデルから商品に移動してくるようになった。

その大まかな歴史は6つに分類して考えられている。

草創期
初期においては、アドルフ・ド・メイヤー(Adolf de Meyer; 1868-1946、ヴォーグの最初の専属写真家)とエドワード・スタイケン(Edward Steichen; 1879-1973、ヴォーグ)が、スタジオにおいてピクトリアリスム的なソフトフォーカスなどの手法で、いわば耽美的・幻想的かつ優雅なファッション写真を撮影している。



成熟期
これを受けて、セシル・ビートン(Cecil Beaton; 1904-1980、イギリス版ヴォーグ)とホルスト・P・ホルスト(Horst P. Horst; 1906-1999、フランス版ヴォーグ)は、ピクトリアリスムを捨て、シャープな視線で、モデルの撮影を続け、競い合うようにして、スタジオにおけるファッション写真の質を、著しく高めた。この結果、1920年代後半から1930年代にかけて、スタジオにおけるファッション写真は、一応の完成をみたといえるだろう。いわば、最高のモデルを、スタジオ・ライティングなど最高の撮影条件のもとで撮影する、というスタイルである。
これ以降は、この完成したスタイルをどう壊し、どう変化させて、新しいものを作っていくか、という歴史となる。
なお、この2人といえども、このスタイルに安住してその後変化を怠っている、という訳ではなく、後進の動きを取り入れつつ、自分たちが完成させたスタイルを乗り越えて、大きく変化させて行く事に成功している。



解放期
スタジオ・ファッション写真の完成と並行して、戦後へと続いていく、大きな動きが始まっていた。
1920年代後半には、ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(George Hoyningen-Huene; 1900-1968、ヴォーグのちハーパース・バザー)が、屋外に出て撮影したり、複数のモデルを1枚の作品に用いるといった、今まででは考えにくい、手法を用い始めた。
さらに、1930年代に入ると、ジャーナリズム出身(報道写真出身)のマーティン・ムンカッチ(Martin Munkacsi; 1896-1963、ハーパース・バザー)が登場し、ホイニンゲン=ヒューンの手法に加えて、タブーともいえる、動きとモデルの自然な表情をとりいれた。例えば、「笑いながら走る女性」([1])という、現在では何の変哲もないが、当時で言えば革命的ともいえる写真である。これにより、以前は、動きも表情もない(または凍りついたような笑いの)正にマネキンのようだったモデルが、その呪縛から解放されることになる。
なお、このような動きは、同時期にノーマン・パーキンソン(Norman Parkinson; 1913-、ハーパース・バザー)も採用しており、戦後のファッション写真に向かう大きな動きが、この1930年代に始まったといえる。
また、この時期にもう1つ指摘しておかねばならないのは、ファッション写真にシュルレアリスム的な感性の流入があったということである(ヴォーグよりも、ハーパース・バザーの方が傾向として強い)。
マン・レイ(Man Ray ; 1890-1976)、アーウィン・ブルーメンフェルド(Erwin Blumenfeld; 1897-1969)、アンドレ・ダースト (André Durst; 1907-1949)といった作家による、シュルレアリスム的美学(ピクトリアリスムとはまた違った幻想性・耽美性)を持った作品が、ファッション雑誌に掲載され(むしろファッション雑誌が積極的に採用し)、その感覚も、以降のあらゆるファッション写真に取り込まれていくことになる。




演出期
1930年代後半から1940年代にかけて、スタジオ的感覚も、屋外的感覚も、消化の上、すべて取り入れ、ぎこちなさもなく、自由に扱うことができるような時代が到来しつつあった。
多様な感性が流入してくるとともに、演出性が増していき、ストーリー性にもつながっていくのがこの時代の特徴である。写真だけを独立させてとらえにくくなる、別の言葉でいえば、アートディレクション(デザイン)と強く関係してきて、それと切り離せなくなるのである。総論で述べた、アートディレクターの活躍と深い関係があり、アートディレクター主導といっていい作品も増えてくる。女性作家が大きく活躍し始めるのも、この時期である。
この時期を代表する具体的な作家としては、
▪ クリフォード・コフィン(Clifford Coffin; born 1916、ヴォーグ)
▪ ジョージ・プラット・ラインス(George Platt Lynes;1907-1955、ハーパース・バザーおよびヴォーグ)
▪ ルイーズ・ダール=ウォルフ(Louise Dahl-Wolfe; 1895-1989、女性/ハーパース・バザー)
▪ リリアン・バスマン(Lillian Bassman; b. 1917、女性/ハーパース・バザー)
▪ フランシス・マクローリン=ギル(Frances McLaughlin-Gill; b. 1919、女性/ヴォーグ)
▪ ハーマン・ランショフ(Harman Landshoff; b. 1905、ハーパース・バザーおよびヴォーグ)
▪ ルイス・フォア(ルイス・ファウア、Louis Faurer; 1916-2001)
などが有名である。



完成期
1950年代から1960年代にかけては、最大限の演出を見せたり、本当は演出されているに隠して自然に見せたり、自由自在に演出を操っていく時代になった。
モブ・シーンあり、動物(ゾウなど)あり、町の中のスナップ的写真(演出があるのに隠している)ありと、およそファッション写真に、できないことは無くなったとまで言える。
具体的な主要作家としては、以下のとおりである。
▪ フランク・ホーヴァット(Frank Horvat; b. 1928、途中からハーパース・バザー)
▪ リチャード・アヴェドン(Richard Avedon; 1923-2004、ハーパース・バザー)
▪ アーヴィング・ペン(Irving Penn; b. 1917、ヴォーグ)
▪ ウィリアム・クライン(William Klein; b. 1928、ヴォーグ)
とくに、アヴェドンとペンのファッション写真における活躍、他への影響は、以前のなにものにも増して、重要であるとされる。
1960年代には、現在の感覚からいう、ファッション写真の完成を見、ここにおいて1930年代の「古めかしい」スタジオ系のファッション写真が終わった、といえるだろう。
この時代以降は、ここで完成されたスタイルをさらに壊していくという動きが始まり、ファッション写真は混沌へ向かったと言う者も居る。




以上が大まかなファッションフォトグラフィの始まりと最盛期、そして円熟期への流れである。

この歴史と並行してモダニズムという運動が盛んな時代でもあった、この芸術運動もひょっとしたら写真芸術の歴史に大きく関わっているという議論の余地がある。

モダニズムとは伝統的な枠組みにとらわれない、19世紀芸術に対抗した20世紀に起こった芸術運動である。それらは幅広く影響を及ぼし、文学、建築、絵画にまでいたる。テクノロジーの進化、そして時代が流れ人々の価値観は大きく変わっていった、とくに消費社会の傾向が顕著に見られる。人々は芸術の根本的、哲学的な深い考えを排除しより合理的そして受け入れやすい新たな考えを打ち立てようとした。特に建築にその傾向がよく見られ、過去の装飾を用いた様式建築を否定するウィーン分離派、デ・スティル、バウハウスなどの動向から、やがて合理的、機能的な建築を理想と考える近代建築運動が起こった。芸術界においては伝統的・保守的な画壇に反抗した運動が起こった。写真技術などの向上からカメラがペインターの役割を果すようになり、当時の芸術家たちは写真では捉えられないものを打ち出す、その結果が未来派、キュビズム、シュールリアリズム、ポップアート等の様々なアートスタイルだ。




モダニズムについて核心を得た発言をしているのが1939年に論文『アヴァンギャルドとキッチュ』を発表した米国の美術評論家クレメント・グリーンバーグであった。同論文で彼は、芸術がアヴァンギャルド(前衛)とキッチュ(俗悪なもの)に分化している状況を指摘し、アヴァンギャルドやモダニズムは、消費社会によって引き起こされた文化の「大衆化(dumbing down)」に抵抗する手段であると書いた。ここでグリーンバーグは文化の大衆化を表す語としてドイツ語の「キッチュ(kitsch)」を用いた。彼によればモダニズムは、哲学同様に、我々が世界を経験し理解する枠組みを探求するものであり、単に正確な絵画的描写によって世界を記述するものではない。




それに付け加え、写真史を語る上で欠かせない評論の一つとしてWalter Benjaminの「写真小史」がある。その中でBenjaminは写真の持つ芸術性、価値といったものを「オーラ」を通じて説明している。



1. 写真の発明時期は書籍印刷術より明らかである。イタリアで生まれた「カメラオブスキュラ」の発明から始まり、写真の絶頂期は写真がまだ産業化されていない時期にあたる写真の発明よりほんの10年間だけだった。(ヒル、キャメロン、ユーゴ、ナダール)
写真乾板の登場により写真の産業化が初めて行われる。

2. 肖像写真について
無名の人を撮影した肖像写真と、無名の人の肖像画の違い。
肖像画—時間が経つと誰が描かれているかは問題ではなくなり、作家の作家性を証明するものとして残る。
肖像写真—それを撮影した作家性だけでは語れない部分が出てくる。映し出されている人がどんな人物だったかと観者は探そうとしてしまう。

3. 初期肖像写真とスナップ写真
肖像写真のあらゆる可能性は時事性(新聞など)と写真が接触していなかったことに基づいてる、すなわち写真と文字が一緒に提示されることのなかった時代。
初期の肖像写真の特徴
初期の写真において、屋外の人物写真はまるで我が家のようにくつろぎ室内のような感覚を作り出してる。
それは技術の問題で長い露光時間を必要とし、そういった撮影に支障をきたさないため静かで隔離された場所が選ばれている。また長時間に及ぶ撮影の為にそれに対応したポーズが自然に作り出された。つまり初期の写真で作り出された特徴は写真の技術的要因が大きい。また長い露光時間の為に映し出された全ての要因に不自然さや緊張感を排除することができた。
スナップ写真
何分の一秒のシャッタースピードが可能になることによって「あるスポーツマンが有名になり、その結果マガジンの注文がカメラマンたちによって撮影されるかどうか」という次元にまで至った。

4. 写真の登場により絵画に与えた打撃は大きい。多くの画家が写真家に転向している。しかしながら、彼らの様に過渡期にあたる職業写真家は質の高い写真を多く残した。しかし、写真が普及しネガの修整が一般に行われることで急激に趣の低下が起こった。それは写真が個人の家庭のアルバムに納められるようになった時代でもある。

5. 肖像写真の初期と凋落期との対象関係
初期の頃はモデルのポーズを固定するための(首支え)や(膝おさえ)しかなかったが、凋落期には絵画を模倣して不自然でキッチュな小道具やセット、衣装が持ち込まれた。(まるでFashion Photography)
初期の写真
写されたすべてのものにオーラが存在し、もっと明るい部分から最も暗い部分にまで絶対的な連続性が存在していた。
凋落期
モデルは不自然でキッチュなイメージの中に閉じ込められ窮屈に孤立する。

写真の初期は対象と技術が厳密に対応していたのに対し、凋落期はこの2つが厳密に離ればなれになっていったことが大きい。つまり初期の頃は写真家は最新の流派に属するプロの技術者でありモデルも上流階級の人々ばかりで衣服や着こなしも質が高い(オーラが染み付いていた)それに対し、凋落期には比較的カンタンにカメラを入手し写真を撮影することが可能となったのである。これが結果的にキッチュなものを生みオーラの消失につながった。

興味深いことに技術の進歩が進み、一つの成熟を迎え、写真が鏡のように鮮明になった時、写真家はオーラの捏造にとりかかった。1880年以降、不鮮明で人工的に煌きを散りばめた写真の流行等。
にもかかわらず人物のポーズはパターン化し硬直ぶりが目につくようになったことは結局オーラの喪失に対して無力であったと言える。

つづく

イギリス留学時代の大学の卒論 Chapter 02

Chapter 2

1920年代、第一次世界大戦を経て世界中が大きな変革を迎えている時代、ヨーロッパでは特に「Golden Twenties」と呼称され世界経済の中心はロンドンからアメリカへと移り、アメリカはのちの1929年に起こる世界恐慌などつゆ知らず、新しいメディアとしてレコードとラジオが普及し始め、大量生産、大量消費の生活様式が確立していた。一方でヨーロッパではワイマール共和国のように戦争によりアメリカとは逆に経済危機が訪れて苦しむ国々やドイツでファシズムの台頭が始まり混沌の時代を迎えていた。
1920年代は歴史を語る上でさけては通れない時代、Fashion Photographyの歴史においてもまたさけては通れない重要な時代でもあった。

Vogue創刊初期からfashion photographerとして活躍していたEdward Steichen、彼が今日のfashion photographyの礎を築いたと言っても過言ではないだろう。Edward Steichenは1879年にLuxembourgで生まれ、間もなくして家族とともに1881年にアメリカへと移住した。1900年にパリへ渡りpaintingを学んだ、しかしながら彼はpaintingに興味が無かったという、パリへ渡った彼の本当の理由は当時パリがimpressionismやArt Nouveauなどのart movementで世界中のアート学生の注目の的だったからだ。
彼のポートレート写真を見てみると、彼はこの時代のパリのアートに少なからず影響を受けていることが伺える。とりわけArt Nouveauの影響が強いと言えるだろう。女性をRectangularなcompositionのフレームに納め、simpleでエレガントなスタイルがアルフォンス・ミュシャのグラフィックを彷彿とさせる。



この頃から彼はフォトグラファーとして精力的な活動をし始め、ロンドンやパリなどでexhibitionを開催し、とうとう資金がそこを付いてアメリカへと戻って来た。彼はこの頃にはポートレート写真家として有名になっておりNew York criticは「One should not say that he recalls Rembrandt, but that Rembrandt will, in time, remind of Steichen」とも評された。1914年、第一次世界大戦が勃発しSteichenは偵察隊としてカメラを手に軍隊へと入隊した。この戦争の惨い経験が彼に二つのことを教えてくれたという「the camera’s capacity for utter clarity and “ the monstrous horror of war.”」。




戦後、彼はニューヨークに戻ってついにcommercial photographyのキャリアをスタートさせる。1923年にマガジン出版社であるConde Nast(Vogueや当時もう一つのファッションマガジンであるVanity Fairなどで有名)がSteichenをfashion photographerとして雇ったのだ。
SteichenはVogueに最も貢献したfashion photographerの一人だった。彼は自在なsoft focus、明暗法を駆使しまるで一枚の絵画のように仕上げた。彼の決定的なリアリズムは服を細かく写すことではなく、モデル達のその様を描くことだった。足を組んでリラックスしたりドアウェイに立たせたり、柱によりかかったりさせモデルの本質を引き出すことに専念した。
彼のスタイルをよく表してる事例に彼はある有名なフレーズを残している「ポートレートはもはやカメラの前に展開された普遍の自己意識である。もしその瞬間が表れないのなら、あなたは自らそれを引き出さねばならない、その人物を証明するポートレートを作るためにはね。大切なことは偽りの無い反応を呼び覚ますことだ」。
NastはかつてFashionだけではなくモデルに視点をおいたSteichenの新たなスタイルについてこんな賛辞を述べている「たいていのファッションモデルはかわいらしく撮影されるがSteichenはモデルを女に変えてしまう」と。
彼がVogueに提供したfashion photographyの中でとりわけ彼の驚くべき才能を示している写真が1936年に撮影された「White」である。彼のイルミネートされた写真はもはや伝説的であった、彼は自然光と人口光をコンバインしたのであった。Whiteはタイトル通り白を基調にしたphotographyであり、白の服に身を包んだモデル達と白い壁、さらには白い馬をメインビジュアルのためにスタジオに連れて来たのだ。白黒の写真で白を強調するには背景に黒いものを置いてコントラストを出すのが普通だが、彼は全く逆の発想で白で統一させ、さらには白が飛んでしまわないようにスタジオの大きな窓を全開にし自然の光を取り入れたのだ。通常、コントロールの難しい自然の光はこういう撮影に不適切だが彼はあえてその自然光のラフさを逆手に取り自然な明暗が白い服の中に表れるように工夫したのだ。



Steichenのお気に入りのモデルはMarion Morehouse(初期のファッションモデルとして有名)だった。彼女は彼のいくつかのベストショットに登場している。Art directorであるAlexander Libermanはかつて若いphotographer達に1927年に撮られたMorehouseがモデルのSteichenの写真を見せ「これが今日のfashion photographyにおけるkeyだ」と述べた。「Fashionは鮮明でなければならない、でももっと大切なことはモデルの女性が最も魅力的に見える瞬間を映し出すことだ」と。

続く

イギリス留学時代の大学の卒論 Chapter 01

いかにして白黒ファッション写真は今日のファッション写真に影響を与え、かつテクノロジーの発展に伴いその芸術性を失いつつあるか

Chapter 1

“ファッションフォトグラフィーはドレスの写真ではなく、女性を映し出すものだ”—Alexander Liberman

1892年に初めて刊行された「世界で最も影響力のあるファッション雑誌」であるVogue。数々のファッショントレンドを世に広め、今なお影響を与え続けているこのファッション雑誌の誌面を飾る装飾と服飾、そして麗しいモデル、これらすべてを統合し一つの芸術として一枚のフレームにおさめる使命を担っているファッションフォトグラファーたち。とりわけVogueは数々のファッションフォトグラファーを写真家から芸術家として輩出したメディアとしても有名である。その歴史の陰にはたくさんの試行錯誤と技術の発展があったことは言うまでもない。




その長いファッションフォトグラフィーの歴史の初めはもちろん白黒による限定された技術のみだった。美しいモデル達が纏うその色とりどりの服をたった白黒とグレースケールだけで表現し、人々はその美しさに魅了された。現在ではテクノロジーの発展によりフォトグラファーたちは多くの表現が可能となった。スタジオのセットやライト、撮影機材なども充実し納得のいくまで撮影が可能である。それに付け加えカラーによる表現で読み手に多くの情報を与えることができる。さらには撮影された写真がエディターの手に渡り誌面用にphotoshopできれいにレタッチを施すことも可能である。
現在もなお若者たちのtrendに影響を与え続けてるファッションフォトグラフィであるが、昔の(絶頂期と呼ばれた20s~30s)と比べてみると何か不思議な違いに気がつく。当時はコンピューターレタッチングはおろか、カラーですらないのだ。しかしそこからは言葉にし難い確実な魅力、洗練さ、magnificenceが醸し出されている、その歴史や背景、アーティストは何者なのかそういった視覚では捉えられない物を見ようと駆り立てられる。
Vogue創刊期に活躍していたフォトグラファーBaron Adolf de MeyerやEdward Steichenなどがもし今日のカラーできれいに装飾されたファッションフォトグラフィを見たら彼らはどう思うのだろうか?




1920年から30年代(最もVogueのファッションフォトグラフィが維新的に発展したと言われる時代)に多くの魅力的な白黒ファッションフォトグラフィをプロデュースしていた写真家達、充実した撮影機材と洗練された先人達の撮影技術を駆使してエレガントなカラーファッションフォトグラフィをプロデュースし続ける現代の写真家達、彼らはそれぞれのおかれた時代と環境のもとで同時代のカメラを使いファインダー越しに何を見ていたのか?

この論文は主に1920年から30年代にかけて活躍したB&W fashion photographerたちの作品を研究し、いかに白黒のファッションフォトグラファーはその卓越した技術と限られた表現方法だけで魅力的な作品を作り、今日のcolour fashion photographerがそのincredibleなtechniqueに影響を受け撮影技法とデジタル技術の発展が作業を簡略化し芸術的な価値を減らしてしまったかについて述べる物である。

続く

イギリス留学時代の大学の卒論

どうも、オハラです。

このブログを始めた頃、僕はイギリスに留学をしていました。
その頃はグラフィックデザインを勉強していて、夢に燃える青年でした。

今は全く違う道に進んでいます。でも、趣味で時々自分の好きなデザインを作成したりしています。正直、それで満足です。好きにやってこそ納得のいく作品ができると僕は信じています。

ふと、昔の作品などを探してみたら面白い物がありました。それは僕が卒業の年に描いた論文です。テーマはアート関係であれば自由だったのですが、僕はグラフィックデザインに属していながらファッションフォトグラフィのことについて描きました。理由はその時に白黒写真にとても興味を持っていたからです。当時の技術の限界から白色と黒色だけであれだけの情報を伝えることのできるアートは大変興味深く、掘り下げてみたいなと思っていたからです。

次のブログからその論文の原本を紹介します。もちろん最後はこの論文は英語に翻訳しましたが、最初から英語で考えた訳ではありません。日本語でじっくりと考えてから英語に翻訳しました。その日本語の原本を公開します。英語の完成版はいまでもイギリスの全国の大学生の卒業論文を保管する教育機関に大切に保管されています。

この論文が留学を志す人の参考やアート学生の何かのヒントになれば幸いです。

それでは始めます。

オハラ

インド映画「バルフィ! 人生に唄えば」を見てきました。

どーも、オハラです。

先日、映画を見てきました。
タイトルは「バルフィ! 人生に唄えば」という作品です。
インドの映画で、恋愛ものですね。

ストーリーは生まれつき耳の聞こえない主人公の青年バルフィ、彼は天真爛漫でいたずらが大好き、まるで子供のまま大人になってしまったような青年。でも、気は優しくてひょうきんで困っている人を放っておかないようなお人よし。

そんなバルフィがあるとき、街にたまたまやってきた女性シュルティに恋をする。まっすぐでそれでいてお茶目にバルフィは彼女への愛を身振り手振りで伝えるが、シェルティはすでに婚約していた。それでも「友達から始めよう」とバルフィは手紙を渡して二人はだんだんと親密な関係になっていく。

その一方でバルフィは小さい頃からずっと仲良しの女の子ジルミルがいた。ジルミルは裕福な家に生まれたが祖父母からしか愛情を受けられなかった影響で自閉症を患い他人とうまくコミュニケーションがとれずにいた。祖父母以外に彼女が心を許すのは小さい頃からずっと家に会いに来てくれていたバルフィのみ。

バルフィは必死にシェルティにアプローチするが人妻ということで最終的には断られてしまう。しかし一方で幼馴染ジルミルとの関係が少しずつ親密になり、次第にジルミルはバルフィのことが好きになっていくが…。

というのが話の大筋。

インド映画は以前に「きっとうまくいく」を紹介しましたが、今回のこの作品もかなり見ごたえありでした。
インド映画にしては珍しく「いきなりの踊り」はありません。ただ、歌はたくさんあります。
どうやらインド映画は歌で場面や主人公の気持ちを表現するみたいで、その歌の字幕も場面にあっていて見事な融合です。

この作品、とにかく心がキュンとなる恋愛ものです。それでいて、バルフィがあの手この手のジェスチャーで笑わせてくれます。

しかもこの映画のすごいところは主人公は手話やジェスチャーで会話しますが、この手話に字幕が付きません。でも不思議と主人公が何を言いたいかわかります。表情や背中だけで演技したりとその表現力には目を見張るものがあります。

さらに、絵がとてもきれい。インドの美しい風景や、夕暮れ迫る街並み、街の灯りや日の暮れた森林に漂う蛍などを美しい音楽とともに効果的に入っていて、思わずぞわっと鳥肌が立つ感動です。

そして、「きっとうまくいく」でも注目されていましたが、話がとてもよくできている。2時間以上の上映ですが全く苦になりません。泣かせるシーンもちゃんと用意してあります。

何より僕が注目したところは女優さんの美しさです。まずしょっぱなから人妻役のシェルティの美しさにあなたはため息が出るでしょう。オリエンタルなきめの細かい浅黒の肌に琥珀色の瞳が美しく、数ミリの狂いもなく左右対称に整った顔立ちをしています。彼女の顔のアップも随所にちりばめられていて、それだけで見る価値がありです。

そしてもう一人のヒロイン、幼馴染のジルミルも天然パーマの純真な少女という感じでかわいい顔をしています。眼がくりっとしていて、キラキラ光るものや綺麗なものを見ると目を輝かせて喜ぶ顔はとても心が洗われます。ただ意外に声が野太いです。

この女優さんたち、これからたくさんオファーがかかるんじゃないでしょうか、今後の活躍に期待です。
ストーリーは人生讃歌、愛する人と一緒にいられることの喜びを表現しています。カップルで見に行くときっとデートは大成功でしょう。

みなさんもぜひ劇場で見てくださいね。

オハラ