長編ブログ「オハラのイギリス留学4年間」 渡英前 04
「オハラくん、ちょっと手空いてる?」社員の稲葉さんが僕に軽作業を頼んできた、いわゆる雑用である。
池袋の東口から10分くらいの立地にあるこじんまりとしたデザイン事務所はまだ創立して10年もたっていない新しい事務所だ。僕は専門学校の先生の紹介でこの会社にバイトとして雇ってもらっていた。IllustratorやPhotoshopといったグラフィックデザイナーに必要なスキルの基礎はここで学び、あとはほとんど独学である。
僕のシフトは朝11時から夕方18時までだった。デザイナーの会社のバイトは完全に雑用係で、特に何もやることがないと本当に何も任せてくれない。僕の担当をしてくれたのは岡村さんというまだ20代後半の背が高くて若い男性でとても物腰が柔らかな好青年だった。岡村さんは僕に任せることがないと、名刺の入力作業などを任せてくれた。
グラフィックデザインと聞いて、ようやくその名前が世の中で聞こえ始めてきたが大半の人はよくピンとこないと思う。グラフィックデザインはポスターやロゴなど、商業的に必要なものをデザインすることが主な仕事だ。パッケージを作ったりするのも立派なグラフィックデザインの仕事である。ビールの缶に施されているデザイン、お菓子の箱のデザイン、道端で配られているリーフレットやスーパーのチラシ、企業用の小冊子のデザイン、会社のロゴや病院の案内図や病室の番号札など日常の様々な部分でグラフィックデザインはその存在感をアピールしている。
しかしながら、誰もがお菓子のパッケージやCDジャケットなどのデザインを作れるかというとそういう訳ではない。実際の小さなデザイン事務所で請け負っているデザインの仕事はあらかじめ決められたフォーマットに文字を流し込んだり、「2005年○○企業展示会」と書いてあるものを「2006年」に変えて、その年に参加する企業名を打ち込んだり、たまにちょっとしたデザインを求められることもある。それはクライアントによりけりだ。
正直なところ「グラフィックデザイン」と横文字でかっこよくしてるだけで、仕事内容はいわゆる印刷業と変わらない場合もある。あまり若者が印刷業をやりたがらないので、少しでも若者を定着させるために「グラフィックデザイン」とした会社もあると思う。
稲葉さんにとある作業を任された。それはこの会社で当時請け負っていたかなり大きな案件で、新しい学校でのケガなどの保険のシステムの説明するためのちょっとしたアニメーションの製作及びそのCD-RラベルのデザインとDMのデザインだった。といっても僕の仕事はその出来上がったCD-Rを一枚一枚封筒に入れる作業だった。どうやら全国の小学校に配るらしい。締切も迫っているようで、手が空いている社員はとにかくその梱包作業を手伝っていた。
「オハラくん、いつイギリス行くんだっけ?」稲葉さんは作業を進めながら僕にきいた。「3月です」僕も作業を止めずに答えた。「そっか、さみしくなるよ」他の社員がゲラゲラ笑った。「でも、僕ちょっと悩んでいるんです」僕が誰にともなくつぶやいた。「どうしたの?なんかあったの?」稲葉さんは一瞬作業の手を止めた。僕はこの前の友人Hとのやりとりを簡単に話した。さらに僕はもう1つ悩んでいることがあった、それは親のお金で留学に行くことだった。「親は安心して行って来いっていうんですが、やはり大きいお金を親に出してもらうわけだし、友人Hくんに鋭いことを突っ込まれて、そんな状態で行くのがなんか後ろめたい気がして…」そういうと稲葉さんは作業を一度中断して「タバコでも吸おうか?」と僕を誘い出した、
この会社は社長を含め喫煙者が多い会社で、タバコを吸う場合は給湯室の換気扇の下で吸うことになっていた。狭い給湯室でタバコに火をつけ「ふー」と煙が換気扇の向こうに消えるように上に吐いた。「そうか、オハラ君は親に申し訳ないって考えているのか?」稲葉さんは自前のマグカップに入ったコーヒーを飲みながらしみじみと言った。「実はね、俺も昔若い頃にイタリアに留学したことがあったんだよ」と言って稲葉さんはほほ笑んだ。
「え、そうなんですか?」僕にとって初耳だった。「その時はお金どうしました?」話の流れから僕は反射的にその質問を浴びせた。「うん、親に出してもらったよ」稲葉さんはフーと煙を上に吐くと続けた「でも、俺はオハラくんみたいには考えなかったよ。そりゃ、お金出してもらって当たり前なんて思っていなかったけど、でも俺は発想をちょっと変えたんだ」稲葉さんは足を組み替えて改まった口調で語りはじめた。「だって世の中にはさ、留学に行きたくてもどうしても家庭の事情とか身体的なことが原因で行けない人が山ほどいるわけだろ?ていうか留学なんてほとんどの人が行けないで人生を終えると思うよ。そう考えたら、逆に俺はたまたま留学に行くことを支援してくれる家に生まれたんだなと考えを変えてありがたく行かせてもらったよ」稲葉さんはもう一度煙を吸い込むと貯金箱サイズの缶の灰皿にタバコを押し付けて火を消した。
「まあ、オハラ君もありがたく行かせてもらいなよ。親に申し訳ないっていうその気持ちがあればそれでいいんじゃない?現にこうして自分で稼げる分をがんばってやってるんだからさ」そういうと稲葉さんは立ち上がって大量のCD-Rとパンフレットがおいてある作業机に戻っていった。僕は吸っていたタバコをフィルターギリギリになるまで吸い続けて、稲葉さんの言ったことを何度も頭で反芻していた。
とても気持ちが軽くなったのを感じた。留学を決心してからいろんな人の考えが僕に投げかけられ、僕はそれらの取捨選択に戸惑っていた。この中から自分に都合の良いものだけを信じることもできる、でも果たしてそれが本当にいいことなのか?自分に都合のいいことだけを鵜呑みにするのも必至に自分を肯定して留学にいく理由を後付してるだけな気がする。でも、それでいいんじゃないか?留学に限らず何か大きなことをやってみるときはどんなことでも良いから自分を肯定する理由がほしいのはみんな一緒だ。ネガティブなことを考えればそれはきりがない、乗っている飛行機が落ちたらとか滞在先で殺人事件に巻き込まれたらとか、悪い点も良い点もあげればきりがない。自分がやりたいと思う方向に進むべきだという考えが自分の中でようやく固まった。
タバコをの火を消して、僕は作業机に戻っていった。稲葉さんは意味ありげに僕を見て微笑み、そして僕も作業を再開した。
もう出発が迫っていた。
続く
池袋の東口から10分くらいの立地にあるこじんまりとしたデザイン事務所はまだ創立して10年もたっていない新しい事務所だ。僕は専門学校の先生の紹介でこの会社にバイトとして雇ってもらっていた。IllustratorやPhotoshopといったグラフィックデザイナーに必要なスキルの基礎はここで学び、あとはほとんど独学である。
僕のシフトは朝11時から夕方18時までだった。デザイナーの会社のバイトは完全に雑用係で、特に何もやることがないと本当に何も任せてくれない。僕の担当をしてくれたのは岡村さんというまだ20代後半の背が高くて若い男性でとても物腰が柔らかな好青年だった。岡村さんは僕に任せることがないと、名刺の入力作業などを任せてくれた。
グラフィックデザインと聞いて、ようやくその名前が世の中で聞こえ始めてきたが大半の人はよくピンとこないと思う。グラフィックデザインはポスターやロゴなど、商業的に必要なものをデザインすることが主な仕事だ。パッケージを作ったりするのも立派なグラフィックデザインの仕事である。ビールの缶に施されているデザイン、お菓子の箱のデザイン、道端で配られているリーフレットやスーパーのチラシ、企業用の小冊子のデザイン、会社のロゴや病院の案内図や病室の番号札など日常の様々な部分でグラフィックデザインはその存在感をアピールしている。
しかしながら、誰もがお菓子のパッケージやCDジャケットなどのデザインを作れるかというとそういう訳ではない。実際の小さなデザイン事務所で請け負っているデザインの仕事はあらかじめ決められたフォーマットに文字を流し込んだり、「2005年○○企業展示会」と書いてあるものを「2006年」に変えて、その年に参加する企業名を打ち込んだり、たまにちょっとしたデザインを求められることもある。それはクライアントによりけりだ。
正直なところ「グラフィックデザイン」と横文字でかっこよくしてるだけで、仕事内容はいわゆる印刷業と変わらない場合もある。あまり若者が印刷業をやりたがらないので、少しでも若者を定着させるために「グラフィックデザイン」とした会社もあると思う。
稲葉さんにとある作業を任された。それはこの会社で当時請け負っていたかなり大きな案件で、新しい学校でのケガなどの保険のシステムの説明するためのちょっとしたアニメーションの製作及びそのCD-RラベルのデザインとDMのデザインだった。といっても僕の仕事はその出来上がったCD-Rを一枚一枚封筒に入れる作業だった。どうやら全国の小学校に配るらしい。締切も迫っているようで、手が空いている社員はとにかくその梱包作業を手伝っていた。
「オハラくん、いつイギリス行くんだっけ?」稲葉さんは作業を進めながら僕にきいた。「3月です」僕も作業を止めずに答えた。「そっか、さみしくなるよ」他の社員がゲラゲラ笑った。「でも、僕ちょっと悩んでいるんです」僕が誰にともなくつぶやいた。「どうしたの?なんかあったの?」稲葉さんは一瞬作業の手を止めた。僕はこの前の友人Hとのやりとりを簡単に話した。さらに僕はもう1つ悩んでいることがあった、それは親のお金で留学に行くことだった。「親は安心して行って来いっていうんですが、やはり大きいお金を親に出してもらうわけだし、友人Hくんに鋭いことを突っ込まれて、そんな状態で行くのがなんか後ろめたい気がして…」そういうと稲葉さんは作業を一度中断して「タバコでも吸おうか?」と僕を誘い出した、
この会社は社長を含め喫煙者が多い会社で、タバコを吸う場合は給湯室の換気扇の下で吸うことになっていた。狭い給湯室でタバコに火をつけ「ふー」と煙が換気扇の向こうに消えるように上に吐いた。「そうか、オハラ君は親に申し訳ないって考えているのか?」稲葉さんは自前のマグカップに入ったコーヒーを飲みながらしみじみと言った。「実はね、俺も昔若い頃にイタリアに留学したことがあったんだよ」と言って稲葉さんはほほ笑んだ。
「え、そうなんですか?」僕にとって初耳だった。「その時はお金どうしました?」話の流れから僕は反射的にその質問を浴びせた。「うん、親に出してもらったよ」稲葉さんはフーと煙を上に吐くと続けた「でも、俺はオハラくんみたいには考えなかったよ。そりゃ、お金出してもらって当たり前なんて思っていなかったけど、でも俺は発想をちょっと変えたんだ」稲葉さんは足を組み替えて改まった口調で語りはじめた。「だって世の中にはさ、留学に行きたくてもどうしても家庭の事情とか身体的なことが原因で行けない人が山ほどいるわけだろ?ていうか留学なんてほとんどの人が行けないで人生を終えると思うよ。そう考えたら、逆に俺はたまたま留学に行くことを支援してくれる家に生まれたんだなと考えを変えてありがたく行かせてもらったよ」稲葉さんはもう一度煙を吸い込むと貯金箱サイズの缶の灰皿にタバコを押し付けて火を消した。
「まあ、オハラ君もありがたく行かせてもらいなよ。親に申し訳ないっていうその気持ちがあればそれでいいんじゃない?現にこうして自分で稼げる分をがんばってやってるんだからさ」そういうと稲葉さんは立ち上がって大量のCD-Rとパンフレットがおいてある作業机に戻っていった。僕は吸っていたタバコをフィルターギリギリになるまで吸い続けて、稲葉さんの言ったことを何度も頭で反芻していた。
とても気持ちが軽くなったのを感じた。留学を決心してからいろんな人の考えが僕に投げかけられ、僕はそれらの取捨選択に戸惑っていた。この中から自分に都合の良いものだけを信じることもできる、でも果たしてそれが本当にいいことなのか?自分に都合のいいことだけを鵜呑みにするのも必至に自分を肯定して留学にいく理由を後付してるだけな気がする。でも、それでいいんじゃないか?留学に限らず何か大きなことをやってみるときはどんなことでも良いから自分を肯定する理由がほしいのはみんな一緒だ。ネガティブなことを考えればそれはきりがない、乗っている飛行機が落ちたらとか滞在先で殺人事件に巻き込まれたらとか、悪い点も良い点もあげればきりがない。自分がやりたいと思う方向に進むべきだという考えが自分の中でようやく固まった。
タバコをの火を消して、僕は作業机に戻っていった。稲葉さんは意味ありげに僕を見て微笑み、そして僕も作業を再開した。
もう出発が迫っていた。
続く
長編ブログ「オハラのイギリス留学4年間」 渡英前 03
「オハラ、それは本気か?」御茶ノ水の安いチェーンのコーヒーショップで当時は1杯160円のブレンドコーヒーを飲みながら、友人Hは眉ひとつ動かさず僕に言った。もう本格的な冬が始まり、外は刺さるような寒さだった。
Hはあきれたような苦笑い顔でコーヒーカップを口に運んだ。Hはブラックコーヒーが好きだった。「お前、今からイギリスに行って、そこから勉強して、何年間行くつもりなんだよ?」Hは圧迫して相手を試す面接官のように至って冷静に淡々と言葉を発した。「うーん、4年くらいだけど」僕が自信なさげに言うと「4年も?それで、お前は帰ってきていくつだ?27か8歳くらいだろ?そこから就職して、しかもお前は職歴が無いわけだろ?27歳まで仕事もせずに留学してました、なんてやつ雇いたいと思うか?」Hは至極まっとうな持論を展開した。
留学を志すと、誰もが応援してくれるわけではなくネガティブなことを言ってくる人もいる、そんなことはわかっていたが、僕にとってのその人物はあろうことか長く親友だったHだった。Hは中学くらいからの友人でお互い漫画を描いたりする仲でつながっていた。Hはかつてはお笑い芸人を目指していて冗談の通じるとても面白く、一緒にいて楽しい友人だった。そんなHが少し変わり始めたのはこの当時の2005年に入ってからだった気がする。Hは漫画家を目指していたが、僕とほぼ同時期の2005年くらいからグラフィックデザインの道を志し始めた。Hは当時夜間の大学生だったが、大学に通いながらもこの年からデザインの専門学校に通い始めたのだ。
「…」僕は何も言い返せず、タバコを取り出してフィルターの底をトントンを軽くタップさせてから火をつけた。煙がHにかからないように誰もいない右隣の席に吹いた。Hは専門学校と大学をなんとか両立させ夢に燃えているとても立派な青年だった。学費も親に出してもらっていたが、いずれは必ず返すという約束をしたらしい。もともと自立心の旺盛な男で、親に頼らずなんでも一人でやる癖のあるHだった。その彼がグラフィックデザイナーになるという野望を抱き始めてから、彼はすっかり変わってしまった。
「お前そんなんで留学行って大丈夫か?」Hは半笑いであきれたように言った。「でも、ずっと行きたかった夢だし、それに今いかなかったら、たぶんもう行くことは無いと思うし…」と僕がやっとの思いで反論をすると「いや、その今しかできないっていう理由が俺は違うと思うね」と僕を遮った。「俺のいとこで若いころからそうやって海外に行ったりとかして、今しかできないを理由にしてなんだかんだ40歳になったおっさんがいるけど、正直見ていて痛い人だよ、いまだに定職にもついてねーし」何を言ってもHを説き伏せることは不可能に思えた。生来、僕は気が弱い性格だからこうしてHに「行くだけ無駄」とまで言われてしまうと本当にそんな気に思えてきた。
「まあ、よく考えなよ。行くまでまだ時間あるだろ?今から考え直しても遅くないと思うぜ」Hは言った。酒でも飲もうかという話になったが僕は1秒でも早くこの場を離れたかった。帰りの電車の中で、僕はHの言ったことを反芻していた。Hの言うことはきつかったが、現実的で的を得ている考えだった。「デザインはイギリスじゃなくても、日本でも学べる」という言葉だけは聞きたくなかった。それを言われると全く反論ができないからだ。でも、それを言うなら世の中の留学にいく全員を敵に回すような発言だ。建築だって、アートだって、ビジネスだって、日本で学ぶことができる。でもどこで学ぶかは本人の自由だ。もちろん日本でしか得られない物もあるし、イギリスでしか学べないこともある。センスを磨くってことで言えば日本で勉強するよりかははるかに海外の方が刺激になる。
Hの指摘で僕は改めて自分が自分の将来を現実的に見据えていないということがわかった。Hはそれを僕に気付かせてくれた。打ちひしがれたような暗い気持ちで地元の駅に着いた。愛する街yotsugiは住宅地で遅めに帰宅するサラリーマンが多く下車する東京の端くれだ。ガードの甘い僕の心に何発もパンチを食らい、すっかり辟易してしまったまま僕は暗い商店街を歩いた。
「よう」僕の後ろから声がした。それは僕の幼馴染のUだった。Uとは生涯一番最初の友達で、幼稚園に入る前から一緒だった。Uは当時は服飾の専門学校を卒業し、アパレル関係で仕事をしていた。「ちょっと飲もうぜ」Uは相変わらずのひょうひょうとしたテンションで僕を自宅へと誘った。
Uはとてもうらやましい性格だった。周りをあまり気にせず自分のやりたいことや利益になること以外はさらっとかわす、人に合わせるということをしない。わが道を行くタイプだが、悪く言えば自己中心的な男である。Uの家はこのYotsugiの商店街を抜けてすぐの場所にある4階建ての家に住んでいる。彼の部屋はいつもCDや雑誌などで散らかっていてあまり整理整頓が得意ではない性格だった。
「じゃお疲れ」Uは早速パンツ一丁に着替えてコンビニで購入した発泡酒を飲み始めた。Uは中学生のころからずっとギターやベースを弾いてバンド活動を続けていた。当時2005年の時点で組んでいたバンドは今までで一番本格的に取り組んでおり、CDも発売していた。
「バンドの方はどう?」僕がか細い声できくと「ま、順調だよ」と答えた。「すごいね、CDも出したんでしょ?このままメジャーデビューしちゃうんじゃない?」と僕が訊くと「うーん、まあ難しいよな」とUは言った。
Uはバンドで夢に燃えているが、いつでも現実的な男だった。ひょうひょうとした性格とキャラとは裏腹に彼はいつでも現実的で未来を見据えている男だった。バンドはあくまでも夢、いつまでも追っているわけにはいかないので、26歳くらいまでは夢を見て追っかけるけどそれでも芽も出ていないような状態だったらさっぱりあきらめるという考えがあった。もともとおしゃれな男なので洋服を扱うのも大好きなので今の仕事を将来続けていく気ではいるようだ。
実家にいながら身の回りのことはほとんど自分でやっている。親から1円の援助も受けていない、自立した男だった。それがゆえにケチなのがたまに傷だが、僕は彼に憧れていた。さっきのHと「好きなことにまっすぐ取り組む」姿勢は二人とも同じだった。でもUは本当に楽しそうに自分の好きなものや夢を追いかけていた。僕が知らない洋楽のバンドや音楽をたくさん知っているし、そのためにはケチな彼でも一切お金を惜しまなかった。オススメなバンドを僕によく教えてくれるし、そのどれもが僕のお気に入りとしてipodに入っていた。
Uも僕の留学には否定的なのか、僕は聞いてみたくなった。「ねえ、僕って留学するだけ無駄かな?」と自信なさげに訊くと「え、別にいんじゃないの?お前の人生なんだからお前が決めろよ」とUは言った。「でも、今日友達に色々と否定的なこと言われちゃって」と言うとUはもう1本目の発泡酒を飲み終え続けた「いや、別にいいだろそんなの。簡単にいうとさ、俺もお前もぶっちゃけバカなんだよ」かなりぶっきらぼうな言い方だった。「バカって?」と僕が訊くと、「だってさ、本当に頭がよかったり、才能があるやつは留学なんて行かなくてももうとっくに日本で成功しているよ。俺の友達に、まだ22歳なのに小さい会社を立ち上げようと色んな人が集まりところ行ったりして、うまくやっているやつがいるぜ」とUは言った。
僕は少し期待して次を促すように「なるほどな」と答えた。「その点、俺らは別に頭がいいわけじゃないし何か協力なコネがあったり才能があるわけじゃないんだから、そこは留学でもなんでも回り道しながらじゃないと進めないんじゃないの?俺はそう思うぜ」そういうとおもむろにUは壁に立てかけてあったアコースティックギターを手に取って、ほろ酔いに任せて気持ちよさそうに曲を弾き始めた。繊細で優しいメロディが僕の心を落ち着かせてくれた。
もうあと3か月を切っていた。
続く
Hはあきれたような苦笑い顔でコーヒーカップを口に運んだ。Hはブラックコーヒーが好きだった。「お前、今からイギリスに行って、そこから勉強して、何年間行くつもりなんだよ?」Hは圧迫して相手を試す面接官のように至って冷静に淡々と言葉を発した。「うーん、4年くらいだけど」僕が自信なさげに言うと「4年も?それで、お前は帰ってきていくつだ?27か8歳くらいだろ?そこから就職して、しかもお前は職歴が無いわけだろ?27歳まで仕事もせずに留学してました、なんてやつ雇いたいと思うか?」Hは至極まっとうな持論を展開した。
留学を志すと、誰もが応援してくれるわけではなくネガティブなことを言ってくる人もいる、そんなことはわかっていたが、僕にとってのその人物はあろうことか長く親友だったHだった。Hは中学くらいからの友人でお互い漫画を描いたりする仲でつながっていた。Hはかつてはお笑い芸人を目指していて冗談の通じるとても面白く、一緒にいて楽しい友人だった。そんなHが少し変わり始めたのはこの当時の2005年に入ってからだった気がする。Hは漫画家を目指していたが、僕とほぼ同時期の2005年くらいからグラフィックデザインの道を志し始めた。Hは当時夜間の大学生だったが、大学に通いながらもこの年からデザインの専門学校に通い始めたのだ。
「…」僕は何も言い返せず、タバコを取り出してフィルターの底をトントンを軽くタップさせてから火をつけた。煙がHにかからないように誰もいない右隣の席に吹いた。Hは専門学校と大学をなんとか両立させ夢に燃えているとても立派な青年だった。学費も親に出してもらっていたが、いずれは必ず返すという約束をしたらしい。もともと自立心の旺盛な男で、親に頼らずなんでも一人でやる癖のあるHだった。その彼がグラフィックデザイナーになるという野望を抱き始めてから、彼はすっかり変わってしまった。
「お前そんなんで留学行って大丈夫か?」Hは半笑いであきれたように言った。「でも、ずっと行きたかった夢だし、それに今いかなかったら、たぶんもう行くことは無いと思うし…」と僕がやっとの思いで反論をすると「いや、その今しかできないっていう理由が俺は違うと思うね」と僕を遮った。「俺のいとこで若いころからそうやって海外に行ったりとかして、今しかできないを理由にしてなんだかんだ40歳になったおっさんがいるけど、正直見ていて痛い人だよ、いまだに定職にもついてねーし」何を言ってもHを説き伏せることは不可能に思えた。生来、僕は気が弱い性格だからこうしてHに「行くだけ無駄」とまで言われてしまうと本当にそんな気に思えてきた。
「まあ、よく考えなよ。行くまでまだ時間あるだろ?今から考え直しても遅くないと思うぜ」Hは言った。酒でも飲もうかという話になったが僕は1秒でも早くこの場を離れたかった。帰りの電車の中で、僕はHの言ったことを反芻していた。Hの言うことはきつかったが、現実的で的を得ている考えだった。「デザインはイギリスじゃなくても、日本でも学べる」という言葉だけは聞きたくなかった。それを言われると全く反論ができないからだ。でも、それを言うなら世の中の留学にいく全員を敵に回すような発言だ。建築だって、アートだって、ビジネスだって、日本で学ぶことができる。でもどこで学ぶかは本人の自由だ。もちろん日本でしか得られない物もあるし、イギリスでしか学べないこともある。センスを磨くってことで言えば日本で勉強するよりかははるかに海外の方が刺激になる。
Hの指摘で僕は改めて自分が自分の将来を現実的に見据えていないということがわかった。Hはそれを僕に気付かせてくれた。打ちひしがれたような暗い気持ちで地元の駅に着いた。愛する街yotsugiは住宅地で遅めに帰宅するサラリーマンが多く下車する東京の端くれだ。ガードの甘い僕の心に何発もパンチを食らい、すっかり辟易してしまったまま僕は暗い商店街を歩いた。
「よう」僕の後ろから声がした。それは僕の幼馴染のUだった。Uとは生涯一番最初の友達で、幼稚園に入る前から一緒だった。Uは当時は服飾の専門学校を卒業し、アパレル関係で仕事をしていた。「ちょっと飲もうぜ」Uは相変わらずのひょうひょうとしたテンションで僕を自宅へと誘った。
Uはとてもうらやましい性格だった。周りをあまり気にせず自分のやりたいことや利益になること以外はさらっとかわす、人に合わせるということをしない。わが道を行くタイプだが、悪く言えば自己中心的な男である。Uの家はこのYotsugiの商店街を抜けてすぐの場所にある4階建ての家に住んでいる。彼の部屋はいつもCDや雑誌などで散らかっていてあまり整理整頓が得意ではない性格だった。
「じゃお疲れ」Uは早速パンツ一丁に着替えてコンビニで購入した発泡酒を飲み始めた。Uは中学生のころからずっとギターやベースを弾いてバンド活動を続けていた。当時2005年の時点で組んでいたバンドは今までで一番本格的に取り組んでおり、CDも発売していた。
「バンドの方はどう?」僕がか細い声できくと「ま、順調だよ」と答えた。「すごいね、CDも出したんでしょ?このままメジャーデビューしちゃうんじゃない?」と僕が訊くと「うーん、まあ難しいよな」とUは言った。
Uはバンドで夢に燃えているが、いつでも現実的な男だった。ひょうひょうとした性格とキャラとは裏腹に彼はいつでも現実的で未来を見据えている男だった。バンドはあくまでも夢、いつまでも追っているわけにはいかないので、26歳くらいまでは夢を見て追っかけるけどそれでも芽も出ていないような状態だったらさっぱりあきらめるという考えがあった。もともとおしゃれな男なので洋服を扱うのも大好きなので今の仕事を将来続けていく気ではいるようだ。
実家にいながら身の回りのことはほとんど自分でやっている。親から1円の援助も受けていない、自立した男だった。それがゆえにケチなのがたまに傷だが、僕は彼に憧れていた。さっきのHと「好きなことにまっすぐ取り組む」姿勢は二人とも同じだった。でもUは本当に楽しそうに自分の好きなものや夢を追いかけていた。僕が知らない洋楽のバンドや音楽をたくさん知っているし、そのためにはケチな彼でも一切お金を惜しまなかった。オススメなバンドを僕によく教えてくれるし、そのどれもが僕のお気に入りとしてipodに入っていた。
Uも僕の留学には否定的なのか、僕は聞いてみたくなった。「ねえ、僕って留学するだけ無駄かな?」と自信なさげに訊くと「え、別にいんじゃないの?お前の人生なんだからお前が決めろよ」とUは言った。「でも、今日友達に色々と否定的なこと言われちゃって」と言うとUはもう1本目の発泡酒を飲み終え続けた「いや、別にいいだろそんなの。簡単にいうとさ、俺もお前もぶっちゃけバカなんだよ」かなりぶっきらぼうな言い方だった。「バカって?」と僕が訊くと、「だってさ、本当に頭がよかったり、才能があるやつは留学なんて行かなくてももうとっくに日本で成功しているよ。俺の友達に、まだ22歳なのに小さい会社を立ち上げようと色んな人が集まりところ行ったりして、うまくやっているやつがいるぜ」とUは言った。
僕は少し期待して次を促すように「なるほどな」と答えた。「その点、俺らは別に頭がいいわけじゃないし何か協力なコネがあったり才能があるわけじゃないんだから、そこは留学でもなんでも回り道しながらじゃないと進めないんじゃないの?俺はそう思うぜ」そういうとおもむろにUは壁に立てかけてあったアコースティックギターを手に取って、ほろ酔いに任せて気持ちよさそうに曲を弾き始めた。繊細で優しいメロディが僕の心を落ち着かせてくれた。
もうあと3か月を切っていた。
続く
長編ブログ「オハラのイギリス留学4年間」 渡英前 02
「See you next week, bye!」相変わらず陽気なラテン系の女先生に満面の笑みで見送られ、教室を後にする。この女の先生はジブラルタルというイベリア半島の南東端にある小さな国出身の女性で褐色の肌に思いっきりノリがラテン系だ。ジブラルタルはイギリス領となっていて、公用語がイギリス英語である。
「お疲れ様でした」受付の女性が僕に会員証を手渡す。決して若くて綺麗というわけでもない女性だが、僕は女性と話すといつもしどろもどろになる。僕の家は東京の端くれなのでかなり田舎、そのため英会話を習うにしても自転車で15分くらいの隣町まで遠征しなくてはいけない。ここはイギリス英語を教えてくれる英会話教室だった。イギリスへ留学すると専門学校在籍中に決めた僕は2005年の初めころからこの学校に通い始めた。英語が得意だったとはいえ、僕のレベルは中の中、会話となると全く勝手が違う。英検も準2級までしか持っていないが、会話となると準2級ほども喋れない。「えっと、I…went to…」みたいにつっかえつっかえやっと話せるレベルだった、それよりまず耳を慣らすところからスタートだが、いかんせんそんな時間もない。タイムリミットはもうすぐそこだった。
「また来週お願いします」教室のビルから外へ出るともう日が傾き始めていた。ポケットからメンソールのタバコを取り出して火をつけた。バイトで忙しい日々だったがちゃくちゃくと留学までの準備は整いつつあった。「ふー」と紫の煙を吐きながら自転車にまたがる。家に帰る道すがら僕は今年の初めを思い出していた。
「イギリス留学をしたい」突拍子もないバカ息子のわがままに親は顔色一つ変えずに話を聞いていた。僕はそれこそ何年かけてでもお金を貯めていこうと思っていた。イギリスでデザインを勉強するとなるとCollegeかUniversityに行くことになる。Collegeは2年、Universityは4年というのが通例のようだが、たいていどのコースも2年区切りが多いみたいだ。
CollegeとUniversityはどちらも大学と翻訳できる。しかし、違いはというとCollegeは技術や専門知識などを教える比較的職業に直結したことを教える学校で、Universityはもっと学術的、専門的にとことん掘り下げたい人が行くところである。
当時、留学を決意した2005年の僕はすでに22歳で今からお金を貯めてようやく渡英できるとなると3年または4年間くらいは日本でお金を貯めなければならなかった。そこで親は「そんなに時間がかかるなら、今すぐ行った方が良い。お金はお前が将来、出世払いすればいい」と言ってくれた。親の優しさに涙が出そうになった、と同時にものすごく申し訳ない気持ちが襲ってきた。僕の意思では無いにしろ、小さい頃から進学塾、私立の学校などに通わせてもらって多額の金を僕に使ってくれた。そして今度はもっと大きなお金が必要になる。
僕がその援助を受けることに渋っていると「お前を産んで育てると決めたときから、ちゃんと必要な分は蓄えてあるさ。お前が心配することじゃないんだよ」と優しく言ってくれた。普段はそっけない父親だが、この時ばかりは父親の偉大さにただ涙するばかりだった。親は僕がどんなにバカなことを言い出しても、やっぱり親だった。それでも全部の援助を受けるわけにはいかず「一年間のじっくり準備するからその間に貯められるだけバイトをします」と約束した。こうして4つのバイトをすることになったのだ。目標貯金額は100万円だった。
家までの道すがら、寂れた本屋さんに立ち寄った。留学の情報となる雑誌などを漁ったが、いかんせん地元の寂れた本屋では目ぼしいものがなかった。今はインターネットでいろんな情報が手に入るしそれなりに資料が充実しているが、当時はスマホもなければ一家に一台パソコンがあるような時代でもなかったのでそこまでネットの普及はなかった、youtubeですらまだ誰も知らないような状況だった。留学専門雑誌もあるにはあったが、大半が短期の語学留学ばかりで本格的にイギリスにデザイン留学するにはどうしたらいいか、見当がつかなかった。
5か月前ほどの2005年の夏、当時使っていた僕の初のパソコン、e-macで情報収集をしていると都内にアートとデザインの留学を支援する専門学校があることを知った。そこはとてもユニークな専門学校で、1年間この学校に通うことでアートとデザインの海外留学をしたい若者たちに何が必要か、デザインやアートの専門用語の英語を教える授業も充実していたり、入学試験用のポートフォリオ(作品集)作りも手伝ってくれるという学校だった。
定期的にこの学校の無料説明会を行っているというので、僕は早速うだるような暑さの中、その学校に行ってみた。あまり詳しくは言わないが、高田馬場近辺である。そこの学長というおじさんも若い頃はイギリスにアート留学をしていたということで色々と思い出話や留学の苦労話などを披露した。現在、この学校を卒業してイギリスでアートの勉強をしている学生のビデオが流れたりして、向こうのキャンバスライフなど海外生活にあこがれている僕たちをかなり刺激する内容だった。
学校のパンフレットももらいどんなカリキュラムなのかなんとなくわかったが、いかんせん1年間ここに通ってさらに学費も100万円ほど必要だった。たしかに右も左もわからないアート留学を全て斡旋してくれるなら魅力的かもしれない。でも僕にはそんな時間と金が無かった。さらに、これから海外で言葉も文化も違う場所で生活するのに行く前から誰かを頼るってのは何かが違う気がした。
結局この学校には頼らずバイトの傍らで自分自身で何とかすると決めた。しかしながら、どう情報を収集すればいいかわからない。「UK graphic design college」とネットで検索してイギリスの学校のホームページがたくさん出てくるが、便利な日本語訳なんてついてない。頑張って解読してやるとホームページを読んでも、英語慣れしていないとこんな長ったらしい英文を読む気にもなれない、1分で拒否反応が出てしまう。
インターネットで、留学体験記のような個人ホームページなどを見てなんとかわかったことは、アートとデザインの留学の際にしなければいけないことは以下の通りだった。
まずは英語力を証明するもの、つまりTOEICやTOEFLなどだった。どんな学校でも大抵TOEIC 600点が最低条件だった。ことイギリスにおいてはIELTS(アイエルツ)という英語試験を求められる。ヨーロッパの方ではIELTSという試験を採用基準にするのが一般的でLevelが1~9まである。TOEICよりは難しくTOEFLに似てスピーキングの試験がある。9が最高レベルで、イギリスのデザインとアート留学には大体5~6を要求される、かなりハイスコアだ。
そして、作品集を作ること。これからデザインを学びに行くのだから、最初っからプロレベルの物を作る必要はない、むしろ「自分はこんなことに興味がある、こんなデザインが好き」というその人のテイストを見るためだ。もちろん小学生レベルのイラストやセンスしかない様では落とされると思うが。
これらを用意して学校側へ国際郵便で送付するなりして、入学における簡単な意思を英語でつづって学校側からの許可が出れば晴れて入学が可能。当時はまだなかったが、最近ではスカイプなどで面接をするパターンもあるらしい。
こうして書けば簡単に思えるが、まず作品集ってどんなものを用意すればいいのか当時は皆目見当がつかなかった。ネットで仕入れた情報だったが、作品集の見本が公開されてあるわけでもないし、上述した「プロである必要はない、興味を示せばいい」なんて軽く書いてあるが、こっちにしてみたら一発勝負、逃したらまた来年まで待つはめになる。何を用意すればいいかまったく見当がつかずかなり不安になった。
さらに、学校選びも困難を極めた。日本にいる限りイギリスの大学の情報なんてまったく入ってこない。資料請求もやりようがなく、先ほどのアート留学の専門学校のことが頭をよぎり「やっぱり入ろうかな…」と弱気になった。
「いらっしゃいませ」とくに留学に関する本は見つからず、この日は英会話の教材の本を買った。僕は英会話の教材はいつもCD付録つきのドラマ仕立ての物を購入する。場面ごとにどういう言い回しができるか参考になるからだ。本屋から外へ出るともう辺りは真っ暗になっていた。もう1本タバコを取り出して火をつけた。冬の寒空の下で澄んだ空気と一緒に吸う煙は格別だった。今では信じられないが、当時は1箱280円だった。
結局、僕はまだどの学校に入るのか決めていなかった。とりあえず語学学校への入学は決めてあった。今通っている英会話教室の提携しているイギリスの語学学校に行くことにした。僕は無謀にも向こうの語学学校に在籍中に学校を探すと決めたのだった。「行けばなんとかなる」と思っていると留学は失敗しやすい。「英語がわからない、でも行けばなんとかなるでしょ?」と思っている人は大抵日本人とつるんで英語を使わないで帰国する。僕も向こうで探しても結局は失敗に終わるのか?でもそれ以外にできることが思いつかなかった。海外に友達がいるわけでもない、資料請求やネットの英語の長文を理解できるほど語学力は無かった。それに日本でもそうだが、実際に学校を見てみるまでは何も決められない。
どんどん寒さは増していき、夜の闇も深くなっていた。自転車をこぎながら暗い夜道を自転車のライトだけが先を照らしていた。
続く
「お疲れ様でした」受付の女性が僕に会員証を手渡す。決して若くて綺麗というわけでもない女性だが、僕は女性と話すといつもしどろもどろになる。僕の家は東京の端くれなのでかなり田舎、そのため英会話を習うにしても自転車で15分くらいの隣町まで遠征しなくてはいけない。ここはイギリス英語を教えてくれる英会話教室だった。イギリスへ留学すると専門学校在籍中に決めた僕は2005年の初めころからこの学校に通い始めた。英語が得意だったとはいえ、僕のレベルは中の中、会話となると全く勝手が違う。英検も準2級までしか持っていないが、会話となると準2級ほども喋れない。「えっと、I…went to…」みたいにつっかえつっかえやっと話せるレベルだった、それよりまず耳を慣らすところからスタートだが、いかんせんそんな時間もない。タイムリミットはもうすぐそこだった。
「また来週お願いします」教室のビルから外へ出るともう日が傾き始めていた。ポケットからメンソールのタバコを取り出して火をつけた。バイトで忙しい日々だったがちゃくちゃくと留学までの準備は整いつつあった。「ふー」と紫の煙を吐きながら自転車にまたがる。家に帰る道すがら僕は今年の初めを思い出していた。
「イギリス留学をしたい」突拍子もないバカ息子のわがままに親は顔色一つ変えずに話を聞いていた。僕はそれこそ何年かけてでもお金を貯めていこうと思っていた。イギリスでデザインを勉強するとなるとCollegeかUniversityに行くことになる。Collegeは2年、Universityは4年というのが通例のようだが、たいていどのコースも2年区切りが多いみたいだ。
CollegeとUniversityはどちらも大学と翻訳できる。しかし、違いはというとCollegeは技術や専門知識などを教える比較的職業に直結したことを教える学校で、Universityはもっと学術的、専門的にとことん掘り下げたい人が行くところである。
当時、留学を決意した2005年の僕はすでに22歳で今からお金を貯めてようやく渡英できるとなると3年または4年間くらいは日本でお金を貯めなければならなかった。そこで親は「そんなに時間がかかるなら、今すぐ行った方が良い。お金はお前が将来、出世払いすればいい」と言ってくれた。親の優しさに涙が出そうになった、と同時にものすごく申し訳ない気持ちが襲ってきた。僕の意思では無いにしろ、小さい頃から進学塾、私立の学校などに通わせてもらって多額の金を僕に使ってくれた。そして今度はもっと大きなお金が必要になる。
僕がその援助を受けることに渋っていると「お前を産んで育てると決めたときから、ちゃんと必要な分は蓄えてあるさ。お前が心配することじゃないんだよ」と優しく言ってくれた。普段はそっけない父親だが、この時ばかりは父親の偉大さにただ涙するばかりだった。親は僕がどんなにバカなことを言い出しても、やっぱり親だった。それでも全部の援助を受けるわけにはいかず「一年間のじっくり準備するからその間に貯められるだけバイトをします」と約束した。こうして4つのバイトをすることになったのだ。目標貯金額は100万円だった。
家までの道すがら、寂れた本屋さんに立ち寄った。留学の情報となる雑誌などを漁ったが、いかんせん地元の寂れた本屋では目ぼしいものがなかった。今はインターネットでいろんな情報が手に入るしそれなりに資料が充実しているが、当時はスマホもなければ一家に一台パソコンがあるような時代でもなかったのでそこまでネットの普及はなかった、youtubeですらまだ誰も知らないような状況だった。留学専門雑誌もあるにはあったが、大半が短期の語学留学ばかりで本格的にイギリスにデザイン留学するにはどうしたらいいか、見当がつかなかった。
5か月前ほどの2005年の夏、当時使っていた僕の初のパソコン、e-macで情報収集をしていると都内にアートとデザインの留学を支援する専門学校があることを知った。そこはとてもユニークな専門学校で、1年間この学校に通うことでアートとデザインの海外留学をしたい若者たちに何が必要か、デザインやアートの専門用語の英語を教える授業も充実していたり、入学試験用のポートフォリオ(作品集)作りも手伝ってくれるという学校だった。
定期的にこの学校の無料説明会を行っているというので、僕は早速うだるような暑さの中、その学校に行ってみた。あまり詳しくは言わないが、高田馬場近辺である。そこの学長というおじさんも若い頃はイギリスにアート留学をしていたということで色々と思い出話や留学の苦労話などを披露した。現在、この学校を卒業してイギリスでアートの勉強をしている学生のビデオが流れたりして、向こうのキャンバスライフなど海外生活にあこがれている僕たちをかなり刺激する内容だった。
学校のパンフレットももらいどんなカリキュラムなのかなんとなくわかったが、いかんせん1年間ここに通ってさらに学費も100万円ほど必要だった。たしかに右も左もわからないアート留学を全て斡旋してくれるなら魅力的かもしれない。でも僕にはそんな時間と金が無かった。さらに、これから海外で言葉も文化も違う場所で生活するのに行く前から誰かを頼るってのは何かが違う気がした。
結局この学校には頼らずバイトの傍らで自分自身で何とかすると決めた。しかしながら、どう情報を収集すればいいかわからない。「UK graphic design college」とネットで検索してイギリスの学校のホームページがたくさん出てくるが、便利な日本語訳なんてついてない。頑張って解読してやるとホームページを読んでも、英語慣れしていないとこんな長ったらしい英文を読む気にもなれない、1分で拒否反応が出てしまう。
インターネットで、留学体験記のような個人ホームページなどを見てなんとかわかったことは、アートとデザインの留学の際にしなければいけないことは以下の通りだった。
まずは英語力を証明するもの、つまりTOEICやTOEFLなどだった。どんな学校でも大抵TOEIC 600点が最低条件だった。ことイギリスにおいてはIELTS(アイエルツ)という英語試験を求められる。ヨーロッパの方ではIELTSという試験を採用基準にするのが一般的でLevelが1~9まである。TOEICよりは難しくTOEFLに似てスピーキングの試験がある。9が最高レベルで、イギリスのデザインとアート留学には大体5~6を要求される、かなりハイスコアだ。
そして、作品集を作ること。これからデザインを学びに行くのだから、最初っからプロレベルの物を作る必要はない、むしろ「自分はこんなことに興味がある、こんなデザインが好き」というその人のテイストを見るためだ。もちろん小学生レベルのイラストやセンスしかない様では落とされると思うが。
これらを用意して学校側へ国際郵便で送付するなりして、入学における簡単な意思を英語でつづって学校側からの許可が出れば晴れて入学が可能。当時はまだなかったが、最近ではスカイプなどで面接をするパターンもあるらしい。
こうして書けば簡単に思えるが、まず作品集ってどんなものを用意すればいいのか当時は皆目見当がつかなかった。ネットで仕入れた情報だったが、作品集の見本が公開されてあるわけでもないし、上述した「プロである必要はない、興味を示せばいい」なんて軽く書いてあるが、こっちにしてみたら一発勝負、逃したらまた来年まで待つはめになる。何を用意すればいいかまったく見当がつかずかなり不安になった。
さらに、学校選びも困難を極めた。日本にいる限りイギリスの大学の情報なんてまったく入ってこない。資料請求もやりようがなく、先ほどのアート留学の専門学校のことが頭をよぎり「やっぱり入ろうかな…」と弱気になった。
「いらっしゃいませ」とくに留学に関する本は見つからず、この日は英会話の教材の本を買った。僕は英会話の教材はいつもCD付録つきのドラマ仕立ての物を購入する。場面ごとにどういう言い回しができるか参考になるからだ。本屋から外へ出るともう辺りは真っ暗になっていた。もう1本タバコを取り出して火をつけた。冬の寒空の下で澄んだ空気と一緒に吸う煙は格別だった。今では信じられないが、当時は1箱280円だった。
結局、僕はまだどの学校に入るのか決めていなかった。とりあえず語学学校への入学は決めてあった。今通っている英会話教室の提携しているイギリスの語学学校に行くことにした。僕は無謀にも向こうの語学学校に在籍中に学校を探すと決めたのだった。「行けばなんとかなる」と思っていると留学は失敗しやすい。「英語がわからない、でも行けばなんとかなるでしょ?」と思っている人は大抵日本人とつるんで英語を使わないで帰国する。僕も向こうで探しても結局は失敗に終わるのか?でもそれ以外にできることが思いつかなかった。海外に友達がいるわけでもない、資料請求やネットの英語の長文を理解できるほど語学力は無かった。それに日本でもそうだが、実際に学校を見てみるまでは何も決められない。
どんどん寒さは増していき、夜の闇も深くなっていた。自転車をこぎながら暗い夜道を自転車のライトだけが先を照らしていた。
続く
長編ブログ「オハラのイギリス留学4年間」 渡英前 01
「ぴぴぴ…」携帯のアラームが鳴って目が覚めた。時刻はまだ朝の4時30分だった。ベッドから降りると一気に寒気が全身にまとわりついてきた。全身を震わせながらなんとかシャツに袖を通して着替えを終えた。さすがにタイツなしではこの夜明け前の冬場はきつかった。
まだ眠っている家族を気遣って物音立てずに玄関を閉めて家を出た。1日の始まりなのに夜が明けておらずさらには鼻が凍りそうなほどの寒さだった。
今日は週に一度のオープンのバイトだった。2005年の1年間、僕はバイトに明け暮れていた。当時はデザイン事務所、印刷所、カフェ、ネットカフェの合計4つもバイトを掛け持ちしていて、少しでもお金を貯めることに専念していた。そのうちの今日はカフェのバイトで、週に一度、木曜日だけは朝一のオープンからのシフトが入っていた。
まだ薄暗い通りは誰も歩いていなくて、まだ主筋まで時間がある僕は勤務地である神田のカフェのすぐ近くの喫煙所でタバコを吸っていた。22歳になった僕は喫煙生活2年目、すなわち僕はちゃんと合法的に20歳からタバコを始めたのだ。
僕はいわゆる「まじめ系クズ」だった。中学高校も決して頭は良くなかった、むしろいつも赤点ギリギリで運動はからっきしダメで唯一の取り柄は「物静か」ということだけ。先生にしてみれば何にも手のかからない扱いやすい生徒だけで何も記憶に残らない。とにかく、人にも親にも迷惑をかけないように生きてきた。でも、どんなに先生に迷惑をかけてもタバコを吸って停学を食らっても、最後までいれば結局は同じ日に卒業して同じように卒業するだけ。
とりあえず大学には行ってくれという親の頼みで進学を考えて進んできたけど、どうしても勉強に身が入らなかった。やりたいことが全く見つからなかったのだ。そんなこんなで大学進学に見事失敗した僕はその後、イラストを専攻する専門学校に入った。唯一僕の特技と言えるのは絵を描くことだった。しかし、そこはアニメ系の職業を目指す人が多く在籍する場所で、結果そこでも僕は自分を見失ってしまった。
「フー」タバコを吸い終えた僕はようやく仕事場へと入っていった。「おはようございます」狭い事務所で着替えを済ませて、開店準備に取り掛かった。この時期はホットコーヒーやカフェラテがたくさん売れる。朝食を取ってから出社する会社員もたくさんいるので、サンドイッチや菓子パンの準備も入念に行う。僕は4つのバイトの内、このカフェのバイトが一番好きだった。同年代の若い女の子と一緒に仕事ができるからである。
僕はずっと男子校だった。私立の男子校に中学生から入ってしまったので青春の6年間を男だけで過ごさねばらななかった。人格形成や人間関係の基礎を築く大事な思春期に男子だけで過ごすことがどれほどその後の人生に大きな影響を及ぼすか、子供の頃の僕は全く予想していなかった、むしろ子供にそこまでの思慮が及ぶわけがなかった。結局、親の言うまま僕はおもちゃになっていたのである。
恋愛というもの、そして女性というものをよく理解せずに卒業し、社会に放り出されてしまった僕は前述の専門学校に行ってからようやく女性たちとの交流を得た。やはり、僕は女というものをわかっておらず、そこでようやく迎えた人生の初恋は悲惨に終わった。片思いだった可愛い女の子がいたのだが、その子はいわゆるビッチだった。可愛い顔をしていたが男癖は悪く、地元のヤンキーみたいな彼氏がいたり、それと同時にいろんな男とも寝たりという滅茶苦茶な女だった。そのヤンキーの彼氏に殺害予告を受けたりして、僕の初恋は見事砕け散った。
「いらっしゃいませ」本日の第一号のお客さんに元気よく僕は挨拶した。もともと商売人の親の元に生まれたせいか、僕は接客業が得意だった。ちゃんと演技をして「申し訳ありません」や「ありがとうございます」が言える社員より愛想が良いと評判だった。
この日はホットのカフェラテが飛ぶように売れた。カフェラテはまず鉄製のミルクウォーマーに適量の牛乳をいれて、エスプレッソマシーンに付随しているノズルから放出できるスチームで瞬間的に温める。この間にエスプレッソマシーンのボタンを押して、マグカップの中にエスプレッソを落としておく。ミルクを温めるコツはまず初めにミルクの表面をスチームで軽く泡立てること。スチームは轟音がするので、こうして表面に少量の泡があると音が響きにくいのである。物の10秒ほどでミルクは沸点ギリギリの熱いミルクになる。表面にきめの細かいクリーミーな泡が出来ているので先ほどのエスプレッソを注いだマグカップに勢いよく注ぎ、最後の方にクリーミーな泡がマグカップのフチのギリギリまでを多い隠す。この時に最後の泡1滴をスーっと横にスライドするように引けば、白い泡がハートの形を描くようになる。この時少し工夫を凝らせば泡が美しい葉っぱの形(リーフと呼ばれる)や爪楊枝などを駆使すれば似顔絵を描くことも可能、いわゆるラテアートというものだ。
太陽の光が顔をだし、お客さんもだんだんと席を埋めるようになってくると僕の最初の15分休憩が許される。休憩用にアイスコーヒーを自分で用意して、狭い事務所で一息ついていた。ふと、カレンダーに目をやると、もう12月の半ばを過ぎていた。
専門学校時代に初恋も経験し、自分がいかに幼稚で世の中というものを理解していなかったかを思い知らされた僕はさらに思い悩んでしまった。「このまま社会に出て大人になっていいのだろうか?」という疑問が僕を悩ませた。世の中は決して景気が良いとも言えなかったし、就職難の暗い時代と先の見えない未来が若者を落胆させていた。僕は社会に出る前にもっと経験したいことが山ほどあった、というよりこのまま女性経験もなく、ただ狭い男子校という井戸の中で何も知らずに成長してきた自分がこのまま社会に出ていくことが不安でしかたなかった。それを痛いほど知らされた事件があの専門学校での初恋であった。
好きになった女性の彼氏(本当かどうかわからないが)と名乗る男からの殺害予告ともとはと言えばその女の方から僕にけしかけてきたのだが「人の女に手を出した最低野郎」と暮らす中に言いふらされてしまい、かなり自暴自棄になってしまった僕はその年の卒業制作の時に「EXIT」という作品のイラストをB全の大きさのキャンバスに描いた。「EXIT」は全体が真っ黒に塗りつぶされたキャンバスを横位置で使い、画面右下に暗闇からドアを開けてオレンジの光がそのドアから差し込み、人影がぬーっと伸びているというイラストをベースに余っている左上の真っ黒のスペースにコラージュで様々な英語の羅列や精神に異常をきたした人が描いたようなよれよれの手書きの線の奇妙な動物の絵やネガポジ反転させた風景写真などを次から次へと貼り付けた。もうあの専門学校から抜け出したいという気持ちと暗く混沌とした青春を抜け出し、新しいところへ行きたいという表れだったと思う。
今思うとこの作品は自分の中でも転換期を迎えた記念すべき作品だが、実はこの作品の所在が不明のままだ。卒業展示が終わった後に全員に返されるはずだったが、なぜか僕だけは返却されなかった。
しかしながら、この作品はもうイラストというよりはどちらかというとグラフィックデザインだった。僕はあんなに大好きだったアニメや漫画にもう嫌気がさして、グラフィックデザインに興味が湧いていた。「EXIT」は当時心底陶酔していたイギリスのバンドRadioheadの「Amnesiac」というアルバムのアートワークにかなり影響されたもので、このアートワークを作ったアーティストのことを色々と調べたところスタンリー・ドンウッドという芸術家によるものだったようだ。イギリスでデザイナーなどを調べるとやたらと留学という言葉がヒットした。当時からイギリスはアートや芸術の学びの地として有名だった。自暴自棄で新しい可能性を探っていた僕はどうしてもイギリスに留学したい気持ちにかられた。専攻していたわけではないグラフィックデザインを自ら実践し、気が付いたらそれに心底惚れていたのだ。
もう1つ理由があった。それは僕の唯一の得意教科と呼べるものが英語だったのである。英語が得意だったのは中学1年生の最初の授業から予習をしていたからだ。私立の中学受験に受かった僕だったが、教育熱心な親は受験戦争から解放された僕をすぐにまた個人塾にいれた。現役大学生と1対1で勉強する塾で、まだ学校の授業も始まっていないのに通わされた僕はとりあえず初めて習う英語の予習をしようと思ったのだ。こうして英語を予習していた僕は必然と学校の授業が身に入るようになり、英語だけは成績がよかった。学校で勉強していた科目の中で唯一将来の仕事に役に立ちそうだと思えたのも英語だった。
「休憩いただきました」僕は空になったコーヒーのグラスを持って店内に入った。千代田区ということもあり店内は喫煙者が多く、会社員が多く見受けられた。ふと見るとショートのブロンドヘアに青眼の外国人のお客さんが飲み終わったトレーを返却口まで戻すのかどうかを悩んでいるようだった。僕がとっさに出た言葉は「Don’t Worry」だけだった。英語の成績は良かったが、実際にしゃべるのと机上で勉強するのは訳が違った。外人は「変な発音だな」と言わんばかりに苦笑いをしていて行ってしまった。
僕は3か月後の2006年3月にイギリスへ留学すると決めていた。自分の人生で自分を変える最後の賭けになるだろう。総身に力を入れて僕は少しでも金を稼ごうとバイトをしていた。もちろん自分の金だけでは到底足りなかった。恥を忍んで親に頭を下げて残りの金は出してもらった。今まで僕は塾に行きたいとか私立の学校に行きたいとか言ったことはなかった、初めて自分から切り出した勉学のわがままだった。
もう昼のピークを過ぎて客もまばらになっていた。バイト終了まで後1時間とちょっとだった。店内にはなぜか時計がたくさん飾ってあり、世界主要都市の現在時刻をそれぞれ刻んでいた。
その中に「London」があった。Londonは朝の6時を回っていた。
続く
まだ眠っている家族を気遣って物音立てずに玄関を閉めて家を出た。1日の始まりなのに夜が明けておらずさらには鼻が凍りそうなほどの寒さだった。
今日は週に一度のオープンのバイトだった。2005年の1年間、僕はバイトに明け暮れていた。当時はデザイン事務所、印刷所、カフェ、ネットカフェの合計4つもバイトを掛け持ちしていて、少しでもお金を貯めることに専念していた。そのうちの今日はカフェのバイトで、週に一度、木曜日だけは朝一のオープンからのシフトが入っていた。
まだ薄暗い通りは誰も歩いていなくて、まだ主筋まで時間がある僕は勤務地である神田のカフェのすぐ近くの喫煙所でタバコを吸っていた。22歳になった僕は喫煙生活2年目、すなわち僕はちゃんと合法的に20歳からタバコを始めたのだ。
僕はいわゆる「まじめ系クズ」だった。中学高校も決して頭は良くなかった、むしろいつも赤点ギリギリで運動はからっきしダメで唯一の取り柄は「物静か」ということだけ。先生にしてみれば何にも手のかからない扱いやすい生徒だけで何も記憶に残らない。とにかく、人にも親にも迷惑をかけないように生きてきた。でも、どんなに先生に迷惑をかけてもタバコを吸って停学を食らっても、最後までいれば結局は同じ日に卒業して同じように卒業するだけ。
とりあえず大学には行ってくれという親の頼みで進学を考えて進んできたけど、どうしても勉強に身が入らなかった。やりたいことが全く見つからなかったのだ。そんなこんなで大学進学に見事失敗した僕はその後、イラストを専攻する専門学校に入った。唯一僕の特技と言えるのは絵を描くことだった。しかし、そこはアニメ系の職業を目指す人が多く在籍する場所で、結果そこでも僕は自分を見失ってしまった。
「フー」タバコを吸い終えた僕はようやく仕事場へと入っていった。「おはようございます」狭い事務所で着替えを済ませて、開店準備に取り掛かった。この時期はホットコーヒーやカフェラテがたくさん売れる。朝食を取ってから出社する会社員もたくさんいるので、サンドイッチや菓子パンの準備も入念に行う。僕は4つのバイトの内、このカフェのバイトが一番好きだった。同年代の若い女の子と一緒に仕事ができるからである。
僕はずっと男子校だった。私立の男子校に中学生から入ってしまったので青春の6年間を男だけで過ごさねばらななかった。人格形成や人間関係の基礎を築く大事な思春期に男子だけで過ごすことがどれほどその後の人生に大きな影響を及ぼすか、子供の頃の僕は全く予想していなかった、むしろ子供にそこまでの思慮が及ぶわけがなかった。結局、親の言うまま僕はおもちゃになっていたのである。
恋愛というもの、そして女性というものをよく理解せずに卒業し、社会に放り出されてしまった僕は前述の専門学校に行ってからようやく女性たちとの交流を得た。やはり、僕は女というものをわかっておらず、そこでようやく迎えた人生の初恋は悲惨に終わった。片思いだった可愛い女の子がいたのだが、その子はいわゆるビッチだった。可愛い顔をしていたが男癖は悪く、地元のヤンキーみたいな彼氏がいたり、それと同時にいろんな男とも寝たりという滅茶苦茶な女だった。そのヤンキーの彼氏に殺害予告を受けたりして、僕の初恋は見事砕け散った。
「いらっしゃいませ」本日の第一号のお客さんに元気よく僕は挨拶した。もともと商売人の親の元に生まれたせいか、僕は接客業が得意だった。ちゃんと演技をして「申し訳ありません」や「ありがとうございます」が言える社員より愛想が良いと評判だった。
この日はホットのカフェラテが飛ぶように売れた。カフェラテはまず鉄製のミルクウォーマーに適量の牛乳をいれて、エスプレッソマシーンに付随しているノズルから放出できるスチームで瞬間的に温める。この間にエスプレッソマシーンのボタンを押して、マグカップの中にエスプレッソを落としておく。ミルクを温めるコツはまず初めにミルクの表面をスチームで軽く泡立てること。スチームは轟音がするので、こうして表面に少量の泡があると音が響きにくいのである。物の10秒ほどでミルクは沸点ギリギリの熱いミルクになる。表面にきめの細かいクリーミーな泡が出来ているので先ほどのエスプレッソを注いだマグカップに勢いよく注ぎ、最後の方にクリーミーな泡がマグカップのフチのギリギリまでを多い隠す。この時に最後の泡1滴をスーっと横にスライドするように引けば、白い泡がハートの形を描くようになる。この時少し工夫を凝らせば泡が美しい葉っぱの形(リーフと呼ばれる)や爪楊枝などを駆使すれば似顔絵を描くことも可能、いわゆるラテアートというものだ。
太陽の光が顔をだし、お客さんもだんだんと席を埋めるようになってくると僕の最初の15分休憩が許される。休憩用にアイスコーヒーを自分で用意して、狭い事務所で一息ついていた。ふと、カレンダーに目をやると、もう12月の半ばを過ぎていた。
専門学校時代に初恋も経験し、自分がいかに幼稚で世の中というものを理解していなかったかを思い知らされた僕はさらに思い悩んでしまった。「このまま社会に出て大人になっていいのだろうか?」という疑問が僕を悩ませた。世の中は決して景気が良いとも言えなかったし、就職難の暗い時代と先の見えない未来が若者を落胆させていた。僕は社会に出る前にもっと経験したいことが山ほどあった、というよりこのまま女性経験もなく、ただ狭い男子校という井戸の中で何も知らずに成長してきた自分がこのまま社会に出ていくことが不安でしかたなかった。それを痛いほど知らされた事件があの専門学校での初恋であった。
好きになった女性の彼氏(本当かどうかわからないが)と名乗る男からの殺害予告ともとはと言えばその女の方から僕にけしかけてきたのだが「人の女に手を出した最低野郎」と暮らす中に言いふらされてしまい、かなり自暴自棄になってしまった僕はその年の卒業制作の時に「EXIT」という作品のイラストをB全の大きさのキャンバスに描いた。「EXIT」は全体が真っ黒に塗りつぶされたキャンバスを横位置で使い、画面右下に暗闇からドアを開けてオレンジの光がそのドアから差し込み、人影がぬーっと伸びているというイラストをベースに余っている左上の真っ黒のスペースにコラージュで様々な英語の羅列や精神に異常をきたした人が描いたようなよれよれの手書きの線の奇妙な動物の絵やネガポジ反転させた風景写真などを次から次へと貼り付けた。もうあの専門学校から抜け出したいという気持ちと暗く混沌とした青春を抜け出し、新しいところへ行きたいという表れだったと思う。
今思うとこの作品は自分の中でも転換期を迎えた記念すべき作品だが、実はこの作品の所在が不明のままだ。卒業展示が終わった後に全員に返されるはずだったが、なぜか僕だけは返却されなかった。
しかしながら、この作品はもうイラストというよりはどちらかというとグラフィックデザインだった。僕はあんなに大好きだったアニメや漫画にもう嫌気がさして、グラフィックデザインに興味が湧いていた。「EXIT」は当時心底陶酔していたイギリスのバンドRadioheadの「Amnesiac」というアルバムのアートワークにかなり影響されたもので、このアートワークを作ったアーティストのことを色々と調べたところスタンリー・ドンウッドという芸術家によるものだったようだ。イギリスでデザイナーなどを調べるとやたらと留学という言葉がヒットした。当時からイギリスはアートや芸術の学びの地として有名だった。自暴自棄で新しい可能性を探っていた僕はどうしてもイギリスに留学したい気持ちにかられた。専攻していたわけではないグラフィックデザインを自ら実践し、気が付いたらそれに心底惚れていたのだ。
もう1つ理由があった。それは僕の唯一の得意教科と呼べるものが英語だったのである。英語が得意だったのは中学1年生の最初の授業から予習をしていたからだ。私立の中学受験に受かった僕だったが、教育熱心な親は受験戦争から解放された僕をすぐにまた個人塾にいれた。現役大学生と1対1で勉強する塾で、まだ学校の授業も始まっていないのに通わされた僕はとりあえず初めて習う英語の予習をしようと思ったのだ。こうして英語を予習していた僕は必然と学校の授業が身に入るようになり、英語だけは成績がよかった。学校で勉強していた科目の中で唯一将来の仕事に役に立ちそうだと思えたのも英語だった。
「休憩いただきました」僕は空になったコーヒーのグラスを持って店内に入った。千代田区ということもあり店内は喫煙者が多く、会社員が多く見受けられた。ふと見るとショートのブロンドヘアに青眼の外国人のお客さんが飲み終わったトレーを返却口まで戻すのかどうかを悩んでいるようだった。僕がとっさに出た言葉は「Don’t Worry」だけだった。英語の成績は良かったが、実際にしゃべるのと机上で勉強するのは訳が違った。外人は「変な発音だな」と言わんばかりに苦笑いをしていて行ってしまった。
僕は3か月後の2006年3月にイギリスへ留学すると決めていた。自分の人生で自分を変える最後の賭けになるだろう。総身に力を入れて僕は少しでも金を稼ごうとバイトをしていた。もちろん自分の金だけでは到底足りなかった。恥を忍んで親に頭を下げて残りの金は出してもらった。今まで僕は塾に行きたいとか私立の学校に行きたいとか言ったことはなかった、初めて自分から切り出した勉学のわがままだった。
もう昼のピークを過ぎて客もまばらになっていた。バイト終了まで後1時間とちょっとだった。店内にはなぜか時計がたくさん飾ってあり、世界主要都市の現在時刻をそれぞれ刻んでいた。
その中に「London」があった。Londonは朝の6時を回っていた。
続く
長編ブログ「オハラのイギリス留学4年間」 プロローグ
プロローグ
「ヒュオッ」Benはめいっぱいの力を振り絞ってフィッシングロットを海へ向かってカーストさせた。
この日はイギリスにしては珍しい快晴で、こうしてビーチから眺める海とその上に広がる空は上に行くほどその青さを増していた。ひっくり返るほど上を見上げても空はどこまでも青く広がっていて、地球が丸いドームで覆われているような感覚を覚えた。
適当な長さにBenはリールを回してそのロッドを砂浜に突き刺して固定した。砂浜といってもここの海岸は砂利だらけの海岸で履物なしであるくと足裏に激痛が走る。
Benがロッドの横にどさっと腰を下ろすと僕の方を見て首をくいっとななめにしゃくるように動かした。僕はよろよろ立ち上がってBenのもとへと歩いて行った。
Benのスポーティーなサングラスとツルツルに剃った頭が陽光をあびて光っていた。もうすぐ夏休みが始まる時期だった。相変わらず、風は冷たいままだった。それでもイギリス人は天気が良ければ半袖Tシャツで平気な顔をしていた。
Benは砂利だらけの砂浜にごろんと横になって空を仰いだ。僕も同じように横になった。
太陽が若干傾いていて、目を直撃することは無かった。こんな青空だが、もう夕方の6時になろうとしていた。イギリスはサマータイムの習慣があり3月の最終日曜日から10月最終日曜日までが太陽の働く時間が長いのである。この頃になると夜8時頃まで太陽が顔を出している。9時くらいから一気に夕方になって10時にやっと夜がやってくるという不思議な時間を体験できる。
フィッシングロッドが風に揺られて時に波に揺られて糸の先が海の向こうに消えていた。
「どこまで飛んだのかな?」糸の先の場所を聞くとBenは「フランスだ」とジョークを言った。
「ザザァー」寄せては返す穏やかな波の音を聞きながら僕とBenは久々の日光浴を楽しんでいた。「オハラ、そういえばお前が来てから何年になるんだ?」Benが僕に訊いた。「もう2年だよ」と僕が答えると「2年か…」Benがしみじみとつぶやいた。
僕とBenの交友関係も2年目に突入ということになる。Benは僕の恩人でこのイギリスの過酷な生活の中で何度も僕を助けてくれた。僕は2006年にイギリスへ留学に来た。それから早2年が経過しようとしていた。イギリスに行く前も行ってからも色々と人生に悩んでいる時期だった。誰だってそんな時期があると思う、でも僕はそんな不安定な20代中盤を仕事もせず、海外で大学生生活を送っていた。
僕とBenはこの日は特にやることがなく釣りをすることになった。今晩の夕食はこの釣りの結果にかかっている。「この辺の海はうまくいけばサバが釣れるはずだ」とBenがつぶやいた。「釣れなかったらどうするの?」と僕が訊くと、Benはそのサングラス越しの目線を僕に向けて「そんときゃそんときさ。釣れることが保障されている釣りなんて楽しいか?」と僕に言った。
「…」無言が続いた。海からくる風はとても心地よく大学の課題で万年寝不足の僕の体を癒してくれた。「ピーン」糸が激しく反応していた。「かかったぞ」Benは飛び起きて、フィッシングロッドのリールをぐるぐると戻した。海面から糸に食らいついたサバが引っ張り出された。Benはサバの口から釣り糸を外すと砂利の上で勢いよく跳ねるサバの頭めがけて小石を軽くぶつけた。ほどなくしてサバは気絶し抵抗をしなくなった。「これで夕飯の心配はなくなったな」Benがにっこりと笑った。僕はその頼りがいのある笑顔にいつも癒されて安心感を得ていた。
これから話すのはそんな僕の不器用で不安定な青春冒険譚である。
続く
「ヒュオッ」Benはめいっぱいの力を振り絞ってフィッシングロットを海へ向かってカーストさせた。
この日はイギリスにしては珍しい快晴で、こうしてビーチから眺める海とその上に広がる空は上に行くほどその青さを増していた。ひっくり返るほど上を見上げても空はどこまでも青く広がっていて、地球が丸いドームで覆われているような感覚を覚えた。
適当な長さにBenはリールを回してそのロッドを砂浜に突き刺して固定した。砂浜といってもここの海岸は砂利だらけの海岸で履物なしであるくと足裏に激痛が走る。
Benがロッドの横にどさっと腰を下ろすと僕の方を見て首をくいっとななめにしゃくるように動かした。僕はよろよろ立ち上がってBenのもとへと歩いて行った。
Benのスポーティーなサングラスとツルツルに剃った頭が陽光をあびて光っていた。もうすぐ夏休みが始まる時期だった。相変わらず、風は冷たいままだった。それでもイギリス人は天気が良ければ半袖Tシャツで平気な顔をしていた。
Benは砂利だらけの砂浜にごろんと横になって空を仰いだ。僕も同じように横になった。
太陽が若干傾いていて、目を直撃することは無かった。こんな青空だが、もう夕方の6時になろうとしていた。イギリスはサマータイムの習慣があり3月の最終日曜日から10月最終日曜日までが太陽の働く時間が長いのである。この頃になると夜8時頃まで太陽が顔を出している。9時くらいから一気に夕方になって10時にやっと夜がやってくるという不思議な時間を体験できる。
フィッシングロッドが風に揺られて時に波に揺られて糸の先が海の向こうに消えていた。
「どこまで飛んだのかな?」糸の先の場所を聞くとBenは「フランスだ」とジョークを言った。
「ザザァー」寄せては返す穏やかな波の音を聞きながら僕とBenは久々の日光浴を楽しんでいた。「オハラ、そういえばお前が来てから何年になるんだ?」Benが僕に訊いた。「もう2年だよ」と僕が答えると「2年か…」Benがしみじみとつぶやいた。
僕とBenの交友関係も2年目に突入ということになる。Benは僕の恩人でこのイギリスの過酷な生活の中で何度も僕を助けてくれた。僕は2006年にイギリスへ留学に来た。それから早2年が経過しようとしていた。イギリスに行く前も行ってからも色々と人生に悩んでいる時期だった。誰だってそんな時期があると思う、でも僕はそんな不安定な20代中盤を仕事もせず、海外で大学生生活を送っていた。
僕とBenはこの日は特にやることがなく釣りをすることになった。今晩の夕食はこの釣りの結果にかかっている。「この辺の海はうまくいけばサバが釣れるはずだ」とBenがつぶやいた。「釣れなかったらどうするの?」と僕が訊くと、Benはそのサングラス越しの目線を僕に向けて「そんときゃそんときさ。釣れることが保障されている釣りなんて楽しいか?」と僕に言った。
「…」無言が続いた。海からくる風はとても心地よく大学の課題で万年寝不足の僕の体を癒してくれた。「ピーン」糸が激しく反応していた。「かかったぞ」Benは飛び起きて、フィッシングロッドのリールをぐるぐると戻した。海面から糸に食らいついたサバが引っ張り出された。Benはサバの口から釣り糸を外すと砂利の上で勢いよく跳ねるサバの頭めがけて小石を軽くぶつけた。ほどなくしてサバは気絶し抵抗をしなくなった。「これで夕飯の心配はなくなったな」Benがにっこりと笑った。僕はその頼りがいのある笑顔にいつも癒されて安心感を得ていた。
これから話すのはそんな僕の不器用で不安定な青春冒険譚である。
続く
長編ブログの予告
どーも、オハラです。
今年も残すところあとわずかになりました。
みなさん今年はどうでしたか?
僕は今年はたくさんの良いことがありました。
まあ嫌なこともたくさんありましたが、それ以上にいいことの方が光っていますね。
もう僕も今年で31歳になりました。時がたつのは早いですね。
30を過ぎて、人生も後半戦に突入してきました。もう若者気分ではいられません。
そこで、忘れないうちに僕の人生におけるハイライトであるイギリス留学の思い出をつづっていこうと思います。
もしこれから留学を目指している人がいたら何かの参考になればと思います。
4年に渡る長い留学だったので、かなりの量になると思いますが、事実に基づいてなるべくエンターテインメントも交えつつ、つづっていきたいと思います。
それでは次回から開始です。
オハラ
今年も残すところあとわずかになりました。
みなさん今年はどうでしたか?
僕は今年はたくさんの良いことがありました。
まあ嫌なこともたくさんありましたが、それ以上にいいことの方が光っていますね。
もう僕も今年で31歳になりました。時がたつのは早いですね。
30を過ぎて、人生も後半戦に突入してきました。もう若者気分ではいられません。
そこで、忘れないうちに僕の人生におけるハイライトであるイギリス留学の思い出をつづっていこうと思います。
もしこれから留学を目指している人がいたら何かの参考になればと思います。
4年に渡る長い留学だったので、かなりの量になると思いますが、事実に基づいてなるべくエンターテインメントも交えつつ、つづっていきたいと思います。
それでは次回から開始です。
オハラ
ナンパ奮闘記 銀座編 無想転生編 06
ウィリーさんは基本、自慰行為をしない。自分に「抜かず」の誓いを立て性欲を高め、女をハントする、この自分の手を汚さない生活をもう3年以上続けている。たまに我慢が出来ずに寝ているときに暴発するときがあるがそれ以外は基本性行為で出している。
この時も1週間以上たまっている状態での死闘だった。以前に池袋で飲んでその後、方南町にしけ込んだ女がいたが酒を飲みすぎて不能で終わってしまったことがあった、実質ウィリーさんの初の敗北である。それからというものいくら酔っぱらっていても奮い立たせることが出来るように修行を重ねた。その結果、いくら泥酔しても立つようになったのである。
いざ服を脱がせるとウィリーさんは驚愕した。なんと真美の胸ははちきれんほど大きかったのだ。服の上からではなかなか気が付かなかったが、その大きさに一瞬心を奪われてしまった。おっぱいマイスターのウィリーさんは即座にそれが偽物か本物かがわかるがまぎれもない本物であった。その証拠に触るとそれはそれは柔らかい、いわゆる水パイというものだった。「で、でかい…」ついついウィリーさんは声を出してしまった。真美はよほど自信があるのか「何カップだと思う?」と逆に聞いてきたのだ。ウィリーさんのスカウターは戦闘力Eを表示していた。
「Eだな」と自信満々にいうも「ブー」とまさkの不正解。正解はなんとGだったのだ。
Gと言えば真木よう子さんレベルだ。さすがのウィリーさんも戦闘力Gは今までにない強敵だった。もしかしたらあと3回くらい変身を残しているかもしれない。
意を決して揉んでみる。シリコンの固さのないまぎれもないオーガニックなおっぱいだった。「たらちねの 母が手放れ かくばかり すべなき事は いまだ為なくに」なぜか一句読んでしまうほどの気持ちよさにウィリーさんは心底酔いしれてしまった。
久しぶりの女性の恵体にウィリーさんは合計5回も死闘を繰り広げた。実際は3回目でもうゴムが無くなってしまったのだ。その後の2回は手なり口の技を駆使した死闘だった。真美もかなりの好色で朝起きていきなり舌技を披露してきたらしい。
こうして、真美という新たな強敵(とも)を得たウィリーさん。
最近では銀座コリドで「俺もウィリーさんみたくなりたい」と憧れてナンパに繰り出してくる人をたくさん見かけるが、ウィリーさんみたくなるには5回も死闘ができるほどの戦闘力を蓄えなければいけない。毎回、女にもびっくりされるようだが。
それでは次回もお楽しみに。
次回予告
ついにウィリーさんの前に最強の強敵が現れる。
今年最後の死闘にウィリーさんは一体何を見るのか?
次回「さらば、強敵よ。ウィリーは死すとも愛は語らず」
ご期待ください。
オハラ
この時も1週間以上たまっている状態での死闘だった。以前に池袋で飲んでその後、方南町にしけ込んだ女がいたが酒を飲みすぎて不能で終わってしまったことがあった、実質ウィリーさんの初の敗北である。それからというものいくら酔っぱらっていても奮い立たせることが出来るように修行を重ねた。その結果、いくら泥酔しても立つようになったのである。
いざ服を脱がせるとウィリーさんは驚愕した。なんと真美の胸ははちきれんほど大きかったのだ。服の上からではなかなか気が付かなかったが、その大きさに一瞬心を奪われてしまった。おっぱいマイスターのウィリーさんは即座にそれが偽物か本物かがわかるがまぎれもない本物であった。その証拠に触るとそれはそれは柔らかい、いわゆる水パイというものだった。「で、でかい…」ついついウィリーさんは声を出してしまった。真美はよほど自信があるのか「何カップだと思う?」と逆に聞いてきたのだ。ウィリーさんのスカウターは戦闘力Eを表示していた。
「Eだな」と自信満々にいうも「ブー」とまさkの不正解。正解はなんとGだったのだ。
Gと言えば真木よう子さんレベルだ。さすがのウィリーさんも戦闘力Gは今までにない強敵だった。もしかしたらあと3回くらい変身を残しているかもしれない。
意を決して揉んでみる。シリコンの固さのないまぎれもないオーガニックなおっぱいだった。「たらちねの 母が手放れ かくばかり すべなき事は いまだ為なくに」なぜか一句読んでしまうほどの気持ちよさにウィリーさんは心底酔いしれてしまった。
久しぶりの女性の恵体にウィリーさんは合計5回も死闘を繰り広げた。実際は3回目でもうゴムが無くなってしまったのだ。その後の2回は手なり口の技を駆使した死闘だった。真美もかなりの好色で朝起きていきなり舌技を披露してきたらしい。
こうして、真美という新たな強敵(とも)を得たウィリーさん。
最近では銀座コリドで「俺もウィリーさんみたくなりたい」と憧れてナンパに繰り出してくる人をたくさん見かけるが、ウィリーさんみたくなるには5回も死闘ができるほどの戦闘力を蓄えなければいけない。毎回、女にもびっくりされるようだが。
それでは次回もお楽しみに。
次回予告
ついにウィリーさんの前に最強の強敵が現れる。
今年最後の死闘にウィリーさんは一体何を見るのか?
次回「さらば、強敵よ。ウィリーは死すとも愛は語らず」
ご期待ください。
オハラ
ナンパ奮闘記 銀座編 無想転生編 05
暗闇で見ていた時と違い、真美はいきものがかりではなかった。奥二重だが目がパッチリの三白眼気味で、ディファインタイプのカラコンがその白目部分を良い比率で埋めていた。髪は黒で鎖骨の辺りまで伸びていた。化粧もナチュラルで普通のOLだった。ランクでいうと中の中といったところだ。
しかしながら、あのそっけないメールに反してかなり嬉しそうだ。男とこうして酒を飲むなんて久しぶりなのかもしれない。ウィリーさんは池袋に行くとスペインバルへ行くことにしている。ここは女を落とすには絶交の場、値段もリーズナブルだ。やはり暗がりの照明とワインは必需品だ。ワインはその美しい色から女性に人気があるが相当アルコール度数は高い、日本酒とほとんど一緒である。それをストレートで飲むということはどれだけ酔いが速いか、容易に想像ができる。
赤いワインをグラスに注ぎ、グラスを鳴らす。真美はなかなか行ける口で酒が好きなようだ。この方が男としては楽しい。酒が好きでサシで飲む、この後に何か起きそうなこのドキドキ感が大人の楽しみ方だ。「真実はワインの中にあり」という西洋のことわざがある。どんなに口の堅い人でもワインで酔わせてしまえば本当のことを話すということだ。
場の雰囲気も手伝い、あっというまにワインのボトルを2本も開けてしまった。ほとんどがウィリーさんの胃の中にあるが。かなり出来上がった二人。これは久しぶりのウィリーさんの勝ちパターンだ。「さて、この後どうするか?」この質問の意図は勘のいい女ならもうわかるはずだ。施設へ行くかどうするかということである。「どうしよっか~」と悩む場合はもうこれはYes、誘ってほしいのである。興味が無ければ女自ら「そろそろ終電だから」といって切り出す。
ウィリーさんは最近ではあえて施設にはいかず、女性の家に行くことにしている。こうすることで相手の人となりを見ることが出来る、その人間の暮らし、性格、趣味嗜好、家族構成や生い立ち、それらすべての要素が興奮を高める。女性もホームに戻ることで大胆になれる。まあそれよりも一番の理由はホテル代の節約である。
真美の家は浦安で小奇麗な部屋に住んでいた。B型女性はメール無精だが部屋はやたら片付いているのも特徴だ。そしてついに死闘が始まった。
続く
しかしながら、あのそっけないメールに反してかなり嬉しそうだ。男とこうして酒を飲むなんて久しぶりなのかもしれない。ウィリーさんは池袋に行くとスペインバルへ行くことにしている。ここは女を落とすには絶交の場、値段もリーズナブルだ。やはり暗がりの照明とワインは必需品だ。ワインはその美しい色から女性に人気があるが相当アルコール度数は高い、日本酒とほとんど一緒である。それをストレートで飲むということはどれだけ酔いが速いか、容易に想像ができる。
赤いワインをグラスに注ぎ、グラスを鳴らす。真美はなかなか行ける口で酒が好きなようだ。この方が男としては楽しい。酒が好きでサシで飲む、この後に何か起きそうなこのドキドキ感が大人の楽しみ方だ。「真実はワインの中にあり」という西洋のことわざがある。どんなに口の堅い人でもワインで酔わせてしまえば本当のことを話すということだ。
場の雰囲気も手伝い、あっというまにワインのボトルを2本も開けてしまった。ほとんどがウィリーさんの胃の中にあるが。かなり出来上がった二人。これは久しぶりのウィリーさんの勝ちパターンだ。「さて、この後どうするか?」この質問の意図は勘のいい女ならもうわかるはずだ。施設へ行くかどうするかということである。「どうしよっか~」と悩む場合はもうこれはYes、誘ってほしいのである。興味が無ければ女自ら「そろそろ終電だから」といって切り出す。
ウィリーさんは最近ではあえて施設にはいかず、女性の家に行くことにしている。こうすることで相手の人となりを見ることが出来る、その人間の暮らし、性格、趣味嗜好、家族構成や生い立ち、それらすべての要素が興奮を高める。女性もホームに戻ることで大胆になれる。まあそれよりも一番の理由はホテル代の節約である。
真美の家は浦安で小奇麗な部屋に住んでいた。B型女性はメール無精だが部屋はやたら片付いているのも特徴だ。そしてついに死闘が始まった。
続く
ナンパ奮闘記 銀座編 無想転生編 04
どちらかというと平野綾を相手にしていたのは僕の方なので、ウィリーさんはいきものがかりとだけLINEを交換していた。仮にこの女性を真美と呼称。連絡はずっと続いていたのだが1つだけ困ったことがあった。それは真美のLINEの返事があまりにもそっけないのである。
ウィリーさんが頑張って絵文字とかを使ってメッセージを出すが、「うん、わかった」とか味気のないプレーンなメッセージしか返ってこないのである。しかしながら、「また飲みに行こうね」と誘うと「うん、ぜひぜひ☆」とここだけは何故かノリが良いのだ。おそらく飲みに行きたいのは本心なのだろう。
だが、何かひっかかる。どうしても25のうら若い乙女が絵文字も何も使わないほぼ業務連絡のようなメッセージしか送ってこないのだ?そこであることを思い出した。真美をナンパしたときに血液型を聞いたのだ。我々は血液型を必ず聞くことにしている。女を攻略するためにはあらゆる情報が必要だ、血液型もその一つ。科学的根拠はないが、参考にはできる。
真美はB型だったのだ。B型の女はオハラの経験上、メール無精である。返信が必要な用事や向こうから聞いてきたことなどでも平気で返ってこないことが多い。場合によっては約束してあったデートや遊ぶ用事ですら連絡がとれずにご破算になることもある。その癖、twitterなどにつぶやくのは大好きなのがB型女の特徴、ちょっとかまってちゃん気質である。
こうして本当に会う気があるのかわからないがウィリーさんは池袋で飲むことを提案してみた。真美は浦和に住んでいるのである。すると「いいよー、行こう☆」とやはり飲みには積極的だった。
あまり真美のキャラがつかめていないが、ウィリーさんは一路池袋へと赴いた。池袋は僕オハラが「漢江の奇跡編」で敗北して以来、ブログには登場していないが昔は良くウィリーさんと酒を飲みに行っていたのだ。
池袋はあまりナンパには向かない場所だ。まず狩場がなかなか整っていないし、さらに駅前で暇そうにしている女子のほとんどが援助交際もしくは神待ちの子ばかりである。駅前には交番があるがおっさんが普通に女の子声をかけて援助交際を申し込んでいるのが日常である。さらに、池袋はガールズバーやキャバクラが豊富にそろっていて、どれも値段がリーズナブルで現役JDが多く所属しているのである。つまりナンパに頼らずとも女性と酒が飲めるという環境が男を堕落させている。ある時を最後に僕たちは池袋のキャバ通いをやめた。もはやセミプロには興味はないのだ。
ウィリーさんが駅前で待ち合わせをしていると真美は現れた。
続く
ウィリーさんが頑張って絵文字とかを使ってメッセージを出すが、「うん、わかった」とか味気のないプレーンなメッセージしか返ってこないのである。しかしながら、「また飲みに行こうね」と誘うと「うん、ぜひぜひ☆」とここだけは何故かノリが良いのだ。おそらく飲みに行きたいのは本心なのだろう。
だが、何かひっかかる。どうしても25のうら若い乙女が絵文字も何も使わないほぼ業務連絡のようなメッセージしか送ってこないのだ?そこであることを思い出した。真美をナンパしたときに血液型を聞いたのだ。我々は血液型を必ず聞くことにしている。女を攻略するためにはあらゆる情報が必要だ、血液型もその一つ。科学的根拠はないが、参考にはできる。
真美はB型だったのだ。B型の女はオハラの経験上、メール無精である。返信が必要な用事や向こうから聞いてきたことなどでも平気で返ってこないことが多い。場合によっては約束してあったデートや遊ぶ用事ですら連絡がとれずにご破算になることもある。その癖、twitterなどにつぶやくのは大好きなのがB型女の特徴、ちょっとかまってちゃん気質である。
こうして本当に会う気があるのかわからないがウィリーさんは池袋で飲むことを提案してみた。真美は浦和に住んでいるのである。すると「いいよー、行こう☆」とやはり飲みには積極的だった。
あまり真美のキャラがつかめていないが、ウィリーさんは一路池袋へと赴いた。池袋は僕オハラが「漢江の奇跡編」で敗北して以来、ブログには登場していないが昔は良くウィリーさんと酒を飲みに行っていたのだ。
池袋はあまりナンパには向かない場所だ。まず狩場がなかなか整っていないし、さらに駅前で暇そうにしている女子のほとんどが援助交際もしくは神待ちの子ばかりである。駅前には交番があるがおっさんが普通に女の子声をかけて援助交際を申し込んでいるのが日常である。さらに、池袋はガールズバーやキャバクラが豊富にそろっていて、どれも値段がリーズナブルで現役JDが多く所属しているのである。つまりナンパに頼らずとも女性と酒が飲めるという環境が男を堕落させている。ある時を最後に僕たちは池袋のキャバ通いをやめた。もはやセミプロには興味はないのだ。
ウィリーさんが駅前で待ち合わせをしていると真美は現れた。
続く
ナンパ奮闘記 銀座編 無想転生編 03
10人もいるので他にもあてはあるのだが、どうにも食いつきが良くない。1人、ギャルな子がいたがこの子はどうやら某ギャル雑誌のモデルをやっていたことがあるという。筋金入りのギャルだが、こういうパーティピープルはどういうわけか宣伝のために来日したハリウッドセレブなみの過密スケジュールで、なかなか会って酒を飲むことが出来ないようだ。もう来月までいわゆる「ポーリィー(こういう人たちは英語の歌の影響でPartyをポーリィーと言う)」がほぼ毎週あるようで、ウィリーさんとなかなかスケジュールが合わないようだ。
これは少し残念。ウィリーさんも僕もギャルは嫌いではない。というのもギャルたちは意外と優しい子が多いのだ。見た目の偏見でちゃらんぽらんなイメージがあるが、確かにちゃらんぽらんな子が多いが明るく気さくでノリも良く、人懐っこく話かけてくれるギャルは男にとってもありがたい存在である。ちゃらちゃらしている風でいて特定の彼氏ができると一途になったりとそのギャップがたまらないという人もいる。
ギャルは分け隔てが無いため、僕は個人的に女性に不慣れなオタクたちの克服として、ギャルセラピーを提唱したい。こういう実験はいろんなところで行われていて、オタクのサークルなどにギャルを一人投入したところ、大盛り上がりだったという結果も出ている。最近のギャルもアニメとかを良く見るので、オタクたちとも話は盛り上がることができる。オタクたちも最初はギャルの風貌とそのノリに面食らっているが、最後はほっこり顔で「すごく楽しかった」とコメントしている。
閑話休題
ギャルのストックも希望無しと踏んだウィリーさん、だが彼は必ず常に先を読んで行動している、ちゃんと奥の手も用意してあるのだ。それが前回、オハラと共に銀座でナンパをした平野綾といきものがかりである。
続く
これは少し残念。ウィリーさんも僕もギャルは嫌いではない。というのもギャルたちは意外と優しい子が多いのだ。見た目の偏見でちゃらんぽらんなイメージがあるが、確かにちゃらんぽらんな子が多いが明るく気さくでノリも良く、人懐っこく話かけてくれるギャルは男にとってもありがたい存在である。ちゃらちゃらしている風でいて特定の彼氏ができると一途になったりとそのギャップがたまらないという人もいる。
ギャルは分け隔てが無いため、僕は個人的に女性に不慣れなオタクたちの克服として、ギャルセラピーを提唱したい。こういう実験はいろんなところで行われていて、オタクのサークルなどにギャルを一人投入したところ、大盛り上がりだったという結果も出ている。最近のギャルもアニメとかを良く見るので、オタクたちとも話は盛り上がることができる。オタクたちも最初はギャルの風貌とそのノリに面食らっているが、最後はほっこり顔で「すごく楽しかった」とコメントしている。
閑話休題
ギャルのストックも希望無しと踏んだウィリーさん、だが彼は必ず常に先を読んで行動している、ちゃんと奥の手も用意してあるのだ。それが前回、オハラと共に銀座でナンパをした平野綾といきものがかりである。
続く