芸術の秋
10月8日楢葉町天神岬スポーツ公園にて焚火ライブ。
6年ほど前にこの場所にある露天風呂に入ったことがありました。太平洋を真正面にしてお湯に浸かるのは大変に贅沢な気分でした。そして同時につい数年前にこの豊饒な海が沢山の人の命と暮らしを飲み込んだのだと心に留めたものでした。あれからまた月日がたち、きれいなキャンプ場もできて素敵なテントが並び、食べ物を焼く匂いが漂っています。
このキャンプ場で焚火を用意してくれたのは楢葉町で町議会議員をやっている佐藤さんと町役場の人たちです。
東京からナマステ楽団の末森さん、ディネーシュの二人も合流して、黄昏の中楽器を出したとたんに雨が降り出しました。2時間ほど様子を見ましたが豪雨に変わりライブは中止になりました。
小さなテントの下で身を寄せ合いながら皆でしばらくひっそりと話をしました。
佐藤努さんに出会ったのは2011年の夏です。まだ30歳そこそこ、子供は避難先で生まれました。
今回も車で私を連れてきてくれた内山さん達との東北沿岸部の旅でした。震災から5か月後、地図もカーナビも役には立たない道なき道を釜石、角田、山元町、名取、そして福島のいわきへ。
佐藤さんは楢葉町から家族で千葉に避難をして、この年の夏にまずはお父さんお母さんの入る仮設住宅がいわき市の郊外に出来上がり、ちょうど入居という日に私たちは出会いました。
その日私たちは集会所で唄わせてもらい、その新築でお赤飯やお菓子やたくさんのご馳走のお相伴にあずかりました。真新しいログハウス風の仮設住宅はそれまでの避難所や間借り生活からは比べものにならない御殿のようだったでしょう。
その後、彼は楢葉町の再建活動に参加して、数年前に町議になり、今日はその後初めての再会でした。
テントを雨粒が叩く音、避難所みたいなもんだねと言い合いながら、
私は彼に、原発汚染水の海洋放出のことをどう思っているのかを聴きました。行政側という立場にいるから答えにくいことだとは思いましたが、彼の考えを少し聴くことができました。あと10年待ってほしい。半減期を待ってほしい。人々の心がある程度納得するまで。
小さなテントに身を寄せ合って雨をしのぎましたが、皆お互いにずいぶん濡れています。
She said NO!をぜひ聴きたかったといわれたのですが、大雨で楽器を出すことができずに唄えませんでした。
今思えばアカペラで唄えばよかった。。。のです。。
楢葉町には若い人たちも少しずつ移住しているようです。
また、来年焚火をしようね!
しっかりと乾燥させて組み上げた薪だけはこの豪雨の中でも最後まで燃え続けました。
10月9日いわきのクウカイにて。
朝にはすっかり雨は上がり海は輝いています。
昨夜は宿の部屋で楽器のケースや服を干しました。
楢葉から富岡のJR駅へ。ここには何度も立ち寄りましたが
どんどん景色は変わっていきます。海は遠くなり、そびえたつ防潮堤、まだまだこれから変化するのでしょう。
大熊,双葉、浪江と北上しながら、人の住めない場所も通ります。線量計が手元にはありませんでしたが、沿道の計測器の数字は場所によって高くなったりします。
あの日から時の止まってしまった町を何度も何度も自分の目に焼き付けておこうと思います。
仙台の山中で行われている小さき花の祭りをちょこっと覗いて、いわきの町に戻るとそこはすっかり都会です。
クウカイは日曜日の夜にもかかわらず繁盛をしていました。
頃合いを見計らって1時間ほど唄いました。
ここで特別に唄わせてもらっているのは、自分を確認するためかもしれない。。ということ。
11年が経ちました。店は移転したし、支店もできた。あの神棚のカウンターは今ではこの店の梁にぶら下がって、メニューが張られる板となっています。スタッフも変わり、高野くんには風格が漂い、ひたすらに動かすその手にはボロボロになった団扇。この団扇だけはずっと使い続けているのでしょう。
お互い何という話もしないのですが、ここが私の定点観測所のひとつなのです。
初めて聞いてくれた人たちもいたでしょう、みなさんありがとうございました。
楢葉の佐藤さん、いわきの高野くん、二人ともますます逞しく生きています。その姿に会いに行けて私も元気をもらいました。ありがとう!
五浦海岸にて
福島の帰り道に寄ったのは
天心記念五浦美術館と六角堂。
そして日立にて吉田正記念館。
五浦海岸というのがこんな景色の場所だったのに感動しました。
岡倉天心が近代日本の美術の開拓者であるということと、タゴールとの交流したくらいしか知らなかったので、この場所にこれたことは幸運なタイミングでした。
天心が晩年、横山大観、菱田春草、下村観山などの画家をこの地に呼び込んで創作活動をサポートしていました。画家たちは一つ場所に寝起きし互いに切磋琢磨で創作している貴重な写真も展示されていました。
3.11の津波で流されたという岸壁に立つ六角堂という小さな部屋はもし中に入ることができたらば海の波と一体になり瞑想ができることでしょう。多くの画家が波を描くことへ思いを馳せます。
日立にある吉田正記念館は、作曲家吉田正さんの没後に建てられました。
生涯作曲数は2400曲。戦後シベリア抑留中につくった歌は作曲者不明のまま「異国の丘」という歌になって日本で流行っていた。シベリアから引き上げ後それを知ります。プロ作曲家となってヒット曲を作り続けても、歌の在りようについてこのような言葉を語り続けます。「いつか自分の歌が読み人知らずとなったときに歌は永遠の命をもつだろう」
困難な時期の恩人の一人である吉田先生に伝えたかった感謝の気持ち「大変お世話になりました。私、今は歌をうたっているのです。」
そのころの私は吉田先生と歌についてお話をする場所にはいなかった。。
10月12日茅ヶ崎ボチボチにて。
たくさん唄いました。
気がつくと2時間半くらいになっていて、遠くからの人たちは急いで帰らなくてはなりませんでした。最後までありがとうございます。
通い続けると、少しずつ仲良くなれる人たちが増えていきます。
この店を紹介してくれた杉本さんはほかにも2軒ほど連れて行ってくれました。どこの店も少しずつ馴染んでもらって、定期的に唄いに行くようになりました。
茅ヶ崎は日帰りできる場所ですが、年に2回ほどのライブです。あと何回来れるのかな。。。と、今夜も唄いながら思いました。
おわってから、心通うようになった人たちとの会話はほっとします。
皆さん、足を運んでくださりありがとうございます。またね、お元気で!
10月16日泪橋ホールにて。
汗ばむ陽気の一日でした。
南千住の泪橋ホールは路面に面していて外の路上にもイスとテーブルを出しています。ビールが美味しい日曜の午後「3/4あたり」から唄い始めました。
二部は広瀬波子と二人でたくさん演りました。
波ちゃんと初めて合わせる曲がいくつかありましたので楽しみでしたし、少しドキドキもしました。
特に「惑星の旅人」という歌は真っ黒毛ぼっくすの大槻泰永さんの書下ろし曲です。
以前、大槻さんから「よしこさんはラブソングつくらないんですか?」と言われ「大槻さん、つくってください。」と私。それから月日が流れ
出来上がってきたのは今年の夏の盛り、発表するのはこの泪橋ホールがいいなあと思いました。
初めての歌をステージで唄うときの気分は特別です。
一番最初に勝る瞬間はないのです。
そして、その一番目の瞬間に作者も居合わせてくれました。
秋はイベントが多くて、今日もいろいろ重なってどこに行こうか迷った人たちもあったようです。足を運んでくださった皆さんありがとうございました。
ライブが終わって名物餃子をいただいていると、泪橋ホールの常連の人たちが次々に唄い始めました。
ナポリ民謡のオーソレミオ。何人もの声色で唄うシャンソン。作曲家という人からは自筆の譜面を数曲分もらいました。ありゃ、この人たちが今まで私の歌を聴いていてくれたのか。。。役者揃いです。
泪橋ホールの裕子さんは、泪橋芸能部はまだまだ凄い顔ぶれがいるんだからと。。。そうだと思います。
豊かな時間が溢れました。
10月22日京都ハリーナにて。
京都駅からタクシーに乗ると渋滞で動きが取れなくなりました。時代まつりの行列に出くわしてしまったのです。
でもおかげで初めての時代行列を見物できました。仮装行列なのですが、戦国武将たちのキャスティングはなかなかで、どういう人が扮しているのか。。
ハリーナは京大農学部のヒマラヤスギ並木の入り口にあります。
今日は平賀久裕さんと二人ライブ。平賀さんは75歳になっていました。12年前に一度ご一緒したきりでしたが、お元気そうです。
平賀さんのギターはスペイン製でレナードコーエンと同じメーカーだそうです。
それから今回平賀さんと会ったことで面白い話を聴くことができました。
私のマウンテンダルシマーを眺めながら
「鶴見俊輔さんの奥さんもダルシマー弾くんだよ。」というのです。
平賀さんは以前タクシードライバーをやっていて、鶴見さんを乗せることがなんどもあり、あるとき奥さんの横山貞子さんが楽器を抱えて乗ってきたので「何の楽器ですか?」と尋ねたら、マウンテンダルシマーだったのだそうです。
横山貞子さんは翻訳家。私は横山さんの訳された本は、ディセーネンの「アフリカの日々」しか読んだことはないけれど、ダルシマーでどんな曲を弾かれるのだろうか。。。
そういえば、長野辰野の三浦久さんのお宅にもダルシマーがあって、
奥さんの薫子さんにプレゼントしたものだといって,私もちょっぴり弾かせてもらったことがありました。
部屋に飾って置くだけでも美しいものだから、、、と話しながら。
私もこの楽器は男性から女性にプレゼントするイメージが似合う楽器でもあるといつも思っています。昔映画の中にもそんなシーンがありました。
ハリーナには遠くからも近くからもうれしい顔ぶれが集まってくださいました。
そしていつも良い出会いをつくってくれる佐々木さんありがとうございます。
平賀さんお元気で!
10月23日大阪チャクラにて。
一人で唄うライブなのにチャクラの中は早い時間から賑やかです。
配信のカメラマン池上&増田チーム。音響の弓谷&岡本チーム。チャクラのあつこ&たっちゃん。そして入り口のモギリのおばちゃん役のママ。それ以外にもヤアヤアと早い時間から入ってくる人たち。お客さん同士で盛り上がっている声を聴いているだけで幸せな気持ちになります。
「音楽は人の居場所をつくる」のだとつくづくに思います。
ツアーの途中のスーマー君が飛び入りしてくれました。ダルシマーと彼のバンジョーでぶっつけにしてはよいデュエットになりました。ありがとう!
3時間の長丁場だったけれど、用意していた曲以上に唄ってしまいました。アンコールにマンドリンじゃんぼさん、ハモニカのクニさんありがとう。
音楽は人の居場所をつくる~私の唄う場所はそこに集まってくれる人たちがつくってくれます。
最後は「だびよんの鳥」また来年も、来年も、らい、、ねん、、も、、、らいねんも、、、らいねん、、も、、ヨロシク♪
散歩の途中、キウイフルーツ豊作
10月29日板橋ドリームズカフェにて。
ドリームズカフェの向かいにある米屋さんは、昼間おにぎりやお弁当を売っています。おにぎりも注文してから握るので温かいのです。二つ買ってリハーサル。
ドリームズカフェで素敵なのは、ステージ周りの美しさです。
ステージにはマイクスタンドやマイクのシールド(私はシールドでなくて線といいますが)や譜面台やイスや、とにかく雑然とするものです。特に狭いスペースの店はシールドがこんがらがってカオスの世界。
ところが、この店では一回もシールドを踏んだりすることはなく、何か倒したりぶつけたりしないように整理整頓されているのです。このステージのスペースに立つたびに、家の整頓をしようとおもいます。
午後四時から始めて
先週のチャクラと同じように、石川逸子さんの詩を朗読してから「サリーアン」を唄いました。2008年慰安婦問題解決へ~院内集会で証言をした台湾の陳桃さんの話を詩にしたものです。もうそれから14年ですから、当時86歳だった陳桃さんは生きていれば今年で100歳。もしいまも生きていて話をしてくださいとお願いしたら、昨日のことのように声を詰まらせながら話されるのでしょう。
陳桃さんがすでに亡くなっていても、こうして伝えてくれる詩があります。
戦争が破壊してしまうのは一人の人間の尊い人生。その人が亡くなっていたとしても、永遠に。
戦争がどうしてなくならないのか、、、責任を追及していったとしても、本当のところはわからない。
しかし戦争をするのが人間なのであれば、この人間一人一人が戦争しない人間に変わっていくしかないのでは、、と、とっても単純ですがそう思っています。人がより良く変わるために、そのために面倒でも人と関わり、そのために難しくても政治も監視していき、そのために勇気がいるけれど心開いて対話をする。その長くて遠い道をつくって歩いていく一人でありますように。。自分が良く変わっていこう、それだけをそこだけを突き詰めて生きていこうと思うのです。
チャクラのライブで「戦争の親玉たち」を唄ってからその思いが心に湧き出したので、、私なりに拙い言葉で語りました。
「政治のことなどよくわからない。わからないことでいっぱい。でも人の不幸の上に自分の幸せを築くことはしてはならない。このことばかりを考えながら生きています。」
やはり秋なのでしょうか。10月はいろいろな人のライブ、コンサートに出かけました。
どのステージも行ってよかったなあという余韻の残るものばかりでした。
10/1川崎にてPlum
10/2大森にて飛楽人とアミ・アイリ
10/6初台オペラシティホールにて琉球交響楽団
10/13東中野にて小松崎健
10/25水道橋にて大野えり、板橋文雄、米木康志
小田原の友だちから夜半にメールが来ました。
「シリウスが見えるね。」
冬の大三角形に見守られる季節です。
家の近くの大きな金木犀の木、遅咲きなのかな?
ついこのあいだまで香りを楽しめました。
不自由
9月3日上尾プラスイレブンにて
一年ぶりの場所。
昨年の今頃はコロナ感染蔓延防止等重点措置区域???でよかったか???
つまり政府が日本の多くの飲食店に営業時間、収容人数、酒類提供規制の要請をしたために、
その時のライブは定員10名でもソールドアウト!ノンアルビールが飛ぶように売れました。
ライブが終わってお客さんが引けて、清算の時でした「お店は協力金があるけれど、ミュージシャンにはないでしょう?」と出演料を多めに渡してもらい驚きました。忘れられないお店の心使いでした。
さて今夜の客席は規制はありませんが去年とだいたいおなじくらい、それでもビールを飲みながら皆さんありがとうございました。私はソロライブがひと月ぶりだったのでたくさん唄いました。
9月4日上尾エコーズカフェにて。
ライブは夕方からですが、コミュニティラジオの録音などをしながらゆっくりと過ごしました。
北本を中心にアコースティックライブを主催してきた奥田さんは毎月こうしてライブを続けてきました。アマチュアの人たちの発表の場であり、そこに時々ゲストも参加するのですが、ひたすら継続させていることに敬服します。
その中で育った大学生たちが1960年代のアメリカモダンフォークと言われていたピーター・ポール&マリーのコピーバンドを作って活躍しているという話も聞き、ちょっと嬉しくなりました。
このエコーズカフェでのライブは今日で最後とのことですが、
オーナーの持っているトレーラーを見せてもらいました。
通称トランポというのだそうです。ツアー用のトラック。
9月10日陸前高田ジャズタイムジョニーにて。
一関から車に乗せてもらい陸前高田までの道。
稲穂は実り、甘い香り。晴れ渡った9月の一日。良い人たちとの時間が始まりました。内陸から沿岸部へ、、
陸前高田の町並みは、真新しい絵本のページを開いたような匂いまでするようです。
ジャズタイムジョニーは駅前通りを少し行ったところに出来上がってもうすぐ一年。真新しい店の前に立って主人の由紀子さんが中から現れる瞬間はなんだか恥ずかしくドギマギしてしまいました。店の中は木の香り、響きのよい空間でありました。
しばらく中に座って、奥の台所で立ち働く主人を眺めながら、ああ、ここが陸前高田のジョニー。。。
ペンギンとシロクマ、辻井貴子、私。ここまで車で連れてきてくれた千厩の佐喜雄さんもうたいました。
写真:志穂ちゃん?
そして客席を見渡しながら、やはり、ああ、ここが陸前高田ジョニーなんだね。。。という顔ぶれに心はうなずくのです。
窓には十五夜の明るいまあるい月です。
ほぼ全員で囲むテーブルに大鍋の熱々ひっつみ汁や銘々皿に盛られた由紀子さんのご馳走、差し入れの数々。。。
お酒飲む人もないのに賑やかな会話の尽きないお月見の宴。
台所であとかたずけをしながら、由紀子さんがポツンといいました。「不思議なの。今夜はなんだかやなぎさんの気配がしないの。。」
そういえば、私も。。唄いながら思いました。
「やなぎさん、戸口まで来たけれど、みんなが楽しそうにしているから、どこか他に飲みに行ったのかもしれないね。有恒(菅野)さんでも誘って。。」と由紀子さん。
震災からこのかた、日々誰かの気配を感じながら生きてこられたのか。。と思います。
この店の再建のための募金活動、やなぎくんが先頭となって始まりました。所縁のあるミュージシャンや友人たちがそこに連なりました。
私もやなぎくんのメッセージの書かれたフライヤーを手にライブ会場で募金を募りました。これを読んでくださっている方にも協力された方があるでしょう。。
ですから、陸前高田ジョニーはみんなの場所です。
いつか機会があれば覗いてみてください。
集った人たちの想いに縁取りされた2022年の中秋の名月のジョニー。ずっと心の中に飾っておきましょう。
9月11日気仙沼ブリッジエイドステージにて。
陸前高田から気仙沼への道も何度も通ったところ。
くねくねとした山道を走りながら、時折美しい入り江が見えるのです。山道と時折現れる海、、ああリアス式海岸なんだなあと思うのです。
震災直後はボランティア拠点の一つだったという建物を素晴らしい空間に改装してステージがありました。言葉では尽くせない想いの棲みついた場所なのだと思います。
昨夜とは違った選曲で皆たくさん唄いました。
それをほんとうに嬉しそうに楽しそうに聴いてくれる人たちのおかげで初めての場所とは思えない充実感がありました。
陸前高田、気仙沼とコーディネイトしてくれた鈴木しのぶさん、気仙沼に大人数の私たちを快く向かい入れてくれた常山さん、この場所の主人である菅原さんと仲間の皆さん、
集まってくださった皆さん、ありがとうございました。
招いてもらった食事会の席で、皆が思いを語りました。
まるで昨日のことのように津波の日のことを、避難所でのことを涙ながらに話すのを聴きました。地域のこと、未来のことへの想いも。
唄った者たちも、それぞれの想いを背負ってやってきたこのリアス海岸の二日間がどれだけ大切な時間であったかを、語りました。
別れるときには見えなくなるまで手を振りあいました。
9月21日東中野じみへんにて。
さて、なにを唄おうか。。。じみへんのステージ。と毎回一所懸命考えます。
ダルシマーの音色で5曲。何年ぶりという曲もやりました。
まだまだチューニングを変えてやってみたい曲もあります。いつかまた。
それからギターで数日間練習をしていたのは、唄う前にながいながい語りがあります。
そういうことを実験的に聴いてもらう場所でもあります。
よかったら今度一度聴きに来てください。
いつもおつきあいくださる皆さんありがとうございます。次回は11月、お楽しみに。
ちょっと練習しすぎて喉が危ないのでツムラの小柴胡湯加桔梗石膏を飲んで寝ます。
9月22日、23日群馬ながめ余興場にて。
前日の漢方が効いたみたいでなんとか喉を保って群馬は赤城まで。
松島よしおさんと花岡かよこさん夫妻が用意をしてくれたステージ。今日は前日のリハーサルです。
今年4月にはここで松島さんたちの音楽活動50年のコンサートがありました。
昭和12年に建てられた由緒ある余興場。松島さんはコロナの感染状況を考えて予備日を押さえていたそうで、キャンセルするのももったいないし、せっかくだから唄いに来ませんか?と誘ってもらったのです。
私にはもったいないような立派な会場で。。。と迷っていると
「そんなことは無駄な謙遜です。」と叱られてしまいました。
気楽にと言われましたが、それでも松島さんからは、
「僕たちはどんなに小さなコンサートでも、
やりっぱなし、うたいっぱなしはしないのです。面倒かもしれませんが、それにおつきあいください。」と言われました。
プログラムもつくることになり短いあいさつ文を書きました。
再び唄いだしてから約20年の積み重ねの中で実感していることを書きました。
タイトルは「自分らしく生きる」そのために唄う
それに応えるように松島さんが「フォークシンガーとは」という一文を寄せてくださいました。
ここにその一部を載せておきます。
「フォークシンガーとは」 松島よしお
「自分らしく生きたい!」「ありのままでいたい!」誰もが求める生き方だが、だれもが現実の中では自分らしさを見つけ維持することは難しく、自分の居場所を求め続ける。それが人生になってしまう。
よしださんは、唄うことの中に答えを見つけた。それこそよしださんにとって「幸せ」なことだと思う。
よしださんは、様々な地域に出かけ様々な人たちに出会い、唄うことを通してかかわりあってきた、そして、そのことで多くのことを学んできたのだと思う。ただ唄いっぱなし、やりっぱなしでなく、自分を見つめたり、人を知ったり、唄うことは勉強し学ぶことだと思う。自分を知り他を知り、社会を見つめ世界を見つめ、考えることなしには、本当に人の心に響く歌は生まれない。
松島さん、花岡さん、そしてながめ余興場に足を運んでくださった皆さんありがとうございます。また会いましょう!
最近とても良い音になってきました。
9月24日新宿南口フォーク集会にて。
連日のステージと移動ですが、なんとか体と喉は無事です。
沢山の出演者が一堂に会します。
私の出番は一番目。待ち時間が少ないのは余計なことを考えずに唄えてありがたいのですが、大きなホールで開演を待ち構えている客席の熱量を一手に受ける感覚を味わいました。
「道ばたでおぼえた唄」「戦争の親玉たち」「卵焼き」3曲を唄い二番手の中川五郎さんへ。
出演者も客席も60代70代、、日本でフォークソングというものを分かち合ってきた仲間同士です。
アメリカのようにルーツ音楽という遠く長く深い流れを持っているわけではありませんが、アメリカのルーツ音楽から発展したフォークミュージックやロックブルースに影響を受けてささやかに根付いた日本のフォークソング。民衆の歌が飾らず繕わずそしてしぶとく、精神を絶やさずに流れて行きますように。
そしてもっと身近に暮らしとともに歌が生きていきますように。
9月25日大館にて。
前日は新宿フォーク集会の楽屋の時点から始まっていた賑わい。当然打ち上げはもっと盛り上がるに決まっていましたから参加したい気持ちいっぱいでしたが我慢して帰宅。
早朝の飛行機に備えて6時前には起床。しかし前日予約していたタクシー会社と早朝からトラブルがあり、すっかり慌ててしまったのと、連日の疲れと、元来の忘れん坊はスマフォを家において出かけてしまいました。
羽田空港では前日も一緒だったいわさききょうこさんが待っていて、慌てる私にメールチェックするために自分のスマフォを貸してくれようとするのですが、パスワードの二重認証で結局自分の電話がなければメールなどのアプリに入れないことがわかり、もう、その時点で諦めて、妙に腹が座るというか反対になんだかほっとしてしまったのです。
秋田大館に降り立つのはほぼ初めてです。昔々エレック時代に一度くらい来ていると思うのですが、当時は駅とコンサート会場だけの往復だったでしょう。
9月最後の日曜日の道中、見渡す限りの田んぼでは稲刈り真っ最中でした。甘い香りは車に乗っていてもわかります。
前日から大きなホールでのコンサートが続きます。私には稀なことですからしっかり味わおうと思いました。
寝不足のステージで一番怖いのは、歌詞が飛ぶことですが、長い歌も唄いきりほっとした直後、スマフォよりも大切なものを忘れてしまいました!
自分一人のセットの後にいわさききょうこさんとのデュエットを予定していたのに、すっかり忘れて帰ろうとしてしまったのです。司会の人たちもきょうこさんもビックリです。
皆さん、「これで場が和んだ」と言ってくれましたが、唄う歌を忘れるなんてこれまでのステージ人生で初めての忘れものでした。
猫、いわさききょうこ、私、三浦和人、原田真二。
普段会うことがない人たちの歌も客席でしっかり聴くことができました。
打ち上げは比内鶏料理の店でした。店の社長がコンサートで私の歌を聴き、急いで打ち上げのメニューに
「レバーのタレ」と「卵焼き」を追加するように店に連絡をしたのだそうです。比内鶏のレバー焼きと卵焼きなんて初めていただきました。ごちそうさまでした。
こんなに贅沢なステージや歓迎は身に余ることではあるけれど、秋田の静かな町のホールに300人近い人が集まって歌を聴いてくれました。主催の大館ケーブルテレビの所長は舞台袖ですべての歌に耳を傾けていました。ホールのスタッフの人たちはまだまだ若い世代でした。これからもよいコンサートがこの町で開かれていきますように。
危うく忘れそうになったデュエット!
9月26日弘前発酵カフェフローラにて
いわさききょうこ&常富氏の二人も弘前でライブがあるので
車に乗せてもらいました。お互いに共通する店や主催者の人たちの話をしながら、、途中、日景温泉という山の温泉に浸かることも、おいしいランチをごちそうになることもできました。そしてスマフォのない私を次の場所まで運んでもらい、ご褒美のような秋田から青森へ秋の旅です。
二日間スマフォを持たずにいると、はじめは手持無沙汰を感じましたが、同時に心が楽になってくるのです。
長い待ち時間を楽屋でずっとギターを弾くしかなかったし、持って行った本はいつのまにか読み終わってしまったし、新聞もくまなく読みました。道具の使い方を見直す機会になったかもしれません。
発酵カフェ・フローラに入ると主の小野田明子さんが駆け付け一杯の甘酒を出してくれました。美味しいと言ったら本番前にももう一杯。
小さなスペースに13人のお客さんになんとか座って聴いてもらいました。発酵料理のカフェには、面白い人たちが集まるようで、若い研究者夫妻、暮らしの手帳のコラムの筆者、それから青森市内からは仲良しの友だちも来てくれ、ここを紹介してくれた鈴木しのぶさんも水沢から来て受付をしてくれました。
空間一杯に人と歌と溢れて秋の夜です。
青森市内へ馴染みの赤い車に乗せてもらい、お世話になる家で、ねぶたの夜以来の小さな宴をして、、「もう少ししたら寒いねえ」と言いながら、一年の中でも美しく快適なこの季節を愛おしみました。
写真:しのぶさん
9月27日ホテルのブランチのようなご飯を久見ちゃんが用意してくれて、しのぶさんと二人ごちそうになり、新青森から東京へ。
写真:久見さん
帰宅して、留守番してくれたスマフォには沢山のメールやメッセージや着信がありました。
元首相の国葬が行われた日。
国葬でない形にできないのだろうか?
政府は国民に向かって真っすぐのまなざしをカメラに向けて
ビデオメッセージで良いから説明と理解を求める行動をしてほしい。
8月末に以上二点を支持政党に投書をしました。もちろんきちんとした回答はなく「貴重なご意見をありがとうございます」という自動返信のあいさつ文しか送られてきません。
それ以前、ちょうど参議院選挙戦のころには、安倍元首相の疑惑追及の手を緩めないでという投書をしていて、直後に銃殺されて驚きました。
あきらめずに意見を送り付けていこうと思います。
「貴重なご意見」ですから。
月末の深夜、台所の水道のコックが壊れて水が止まらなくなってしまいました。慌てて家の裏の元栓を閉めて水は止まりました。お風呂の水をためていたおかげでトイレに使うことはできましたが、工事の業者さんは立て込んでいるそうで、まだしばらくは断水状態です。
いま昼ご飯を終えて、ペットボトルの水を少しだけコップについで歯を磨いたところ。
スマフォと水に教えてもらうことは沢山あるようです。
便利なこと、不便なこと。
江刺にて。 店はお休みでしたが、
はーでぃがーでぃという名前に惹かれます
近所まで買い物に。。。
香りに呼ばれる心。。。
あぁ、そうか。。。金木犀だね!たまにはあなたの姿も収めておきましょう。
絵描きと詩人と歌うたい
8月4日
東北新幹線水沢江刺駅に降り立つと空気はひんやりとしていました。
ギャラリー1231で唄うのは3年ぶり。
国道沿いの広い空き地にポツンとある小さな箱。建物自体がアート。
中は狭い空間なのに小さなライトがあたるとお母さんのおなかの中のような安心の部屋に。。。
たくさん唄いました。
何回もこの場所で一緒に楽しい時間を過ごした人たちの中で、3年の間に亡くなった人が二人。その二人も来てくれているのでしょう。。。だから歌が止まらなくなってしまいました。
それから一番前の椅子に小学生の少女。3年前には2年生だった。。すっかり意志の強い表情になっていて。ギターを弾いているんだって!今度は一緒にやろうね。
1231のharuhiさんと伸さんの家で友達も交えて遅いご飯。
伸さんはリンゴ農園をやりながらのギタリスト。haruhiさんは絵描きでありカフェのオーナーでありチェロを弾きます。私のCD「今日一人の友だちを見送って」のジャケットやエコバッグも彼女の絵。
来年はあの少女Nちゃんと、伸さんと、haruhiさんのチェロも一緒にやろう!
遠く花巻からも、そしてこの場所で必ず会える人たち、皆さんありがとう!また来年。
水沢で会えるともだち
8月5日
十和田の駅まで迎えに来てくれた太田さんが車中、今年の4月に亡くなったキューダスのマスター工藤さんのことを教えてくれました。店は有志が続けているというので、連れて行ってもらい工藤さんを偲びました。
長年お世話になった店。「向かうところ客なし」の看板通り、入りの寂しい時もあったけれど、、お土産に手作りのニンニク味噌や蕨をたくさん持たせてくれて、心温かい人でした。
カウンターには良い笑顔の写真が。また来るね。
数日前の豪雨で奥入瀬が氾濫しました。
今日のライブ会場ひめはうすは無事でしたが、川は泥色で橋の欄干に流木が沢山突き刺さっているのには驚きました。これまでになかったような水の被害だそうです。
青森で通わせてもらえるようになったのはこの、ひめはうすが最初です。だから来年は20年。
奥入瀬のように、漆戸さんとのおつきあいも水の流れる如く。だったのに。。。
マスター漆戸さんは思ったより元気そうで安心しました。
なにより、思いのほかたくさんの人たちがここまで足を運んでくださいました。
夕方前に青森まで。八甲田のブナ林の山道は真っ白のガスで前が見えないくらい。
山を下りると夕焼け。
気の置けない人たちと晩ご飯をごちそうになって。そして一番のごちそうはこの涼しさだと、何度も何度もつぶやいてしまいました。明日はねぶた祭りへ。
写真:久見ちゃん
8月6日
広島原爆投下の時刻、まだ布団の中で静かに祈りました。
夕べからお世話になっている友人の家には大阪からの友だちも参加して女三人所帯。階下に降りるとすっかり朝ごはんが用意されています。
夕方からのねぶた祭観戦のまえに、ねぶた小屋見学へ。
昼のねぶたは、灯りのないねぶた。一年かけてつくられたねぶた。夏の三日間のために。
気温が関東と15℃近く違っていて緩んだのか、旅の合間の休日にほっとしたのか、腰がとても痛くなりました。
夕方からは祭りに行くのでアイシングをしながら休みました。
友だちが尽力してくれて用意された桟敷席で生まれて初めてのねぶた祭の中に入り込んでいきました。
コロナで3年ぶり、踊る人も囃子の人もそしてこうして観る者たちからも特別な思いが伝わります。
昼間見たねぶた達に灯りが入りました。故事にある英雄や、お伽噺の女神、縄文もアニメのヒーローも、生命吹き込まれて、山車から躍り出てきます。
今から40年前、当時の職場に青森出身の女性がいました。
ある時私がインフルエンザになって寝込んでいると、わざわざアパートまで来てくれて豚汁と大きなおにぎりをたくさん作ってくれました。「いつか必ずねぶたに行こうね。案内するからね。」
約束したのにそれからお互いに別の道を歩き会うことはありませんでした。
「ねぶた」と聞くと彼女との約束が果たせなかったことを思い出してきました。
ひょっとしたら、恵美ちゃんも観客になっているのかもしれないな。。。やっとこれたよ。。。
8月7日
レストラン オルケスタにて昼間のライブです。
夕べの祭りの余韻で不思議な賑やかな夢を見てたっぷり眠りました。腰も回復。
たくさん唄いました。
オルケスタでは今までずっとディナータイムのライブでした。
祭りのさなか夜は花火大会があるから、はじめての珈琲とケーキのテーブル。お店にとっては料理を出したかったでしょうが、このタイミングで来た私に合わせてくれました。
必ずこの場所で会える人たち、いつもはワイン3本くらい空けちゃう人たちも、それから関東からの友だちも、皆さんありがとうございます。
夜はオルケスタ夫妻のお疲れ様をしながらで皆でたこ焼きパーティー。たこ焼き器はずいぶん前に送ってきて大阪から指導する人あり。彼女は粉もソースも持参して真心溢れるたこ焼きでした。
そして家を開放して3泊4日お世話してくれた家主女史本当にお世話になりました。
8月8日
4泊5日の岩手、青森。
夏の東北には、亡くなった人や、長く会っていない人もやってきて一緒に過ごしているような気持になるときがあります。
私の感覚。
水沢、奥入瀬、青森、今年もあえた人たち、また来年もよろしく!青森では必ず唄う「だびよんの鳥」
東京駅はサウナ!
8月10日
絵描きの春日はるなさんの一回限りのイベント。
ライブのコーナーはすべて彼女のつくった曲を演奏します。
その20曲たちはとても自由で、音符にするのがとても難しいものも。エレキギターのユタさんとは初顔合わせでしたが
バンドリーダーとしてよくまとめてくれました。
パーカッションのともちゃん、そして私のギターとダルシマーと歌となんとピアノ!
この日のために中古の電子ピアノを買いました。小学生の発表会以来の演奏です。
はるなさんから本番直前まで私のピアノにダメ出しがあって、出番までずっと膝の上でイメージトレーニングしました。スターパインズカフェの立派なグランドピアノを演奏することもこれ一回限りかも。貴重な体験でした。
春日はるなさんは私のはじめてのCDのジャケットとブックレットの絵を描いてくれました。
絵描きのつくる歌と一緒に演奏をするのはちょっとオペラのよう。。。と言ってくれる人がいたそうです。
私の夏休みの宿題1号。でした。
8月14日
国立のはっぽんにて、5月に亡くなった音楽仲間の女性のお別れ会がありました。
オープンにはしていなかったようですが、彼女の仲良しの人たちが集まって、みんなで唄う時間でした。
唄うことでつながっていて、私もそういう場所でしか会ったことはなかったから、どんな暮らしをしているのか、幾つなのか、何にも知らない。それでも大切な思い出があります。
声が出なくなってしまった私にそっと渡してくれた喉の薬と、中山ラビさんが大好きとは知らずにラビさんが亡くなって少ししたときに彼女の前で「川に沿って」を唄ったらずっと泣き止まなかった時のこと。もうそのころには彼女も病魔と必死に闘っていたのでした。
ありがとう。またね。きっと歌のある場所で。
8月27日
フィレンツェ在住の絵本作家、向井順子さんの絵本「はしのいえ」の中に収められている同タイトルの歌のレコーディングに呼んでもらいました。
マンドリンのアンサンブルグループである「e田橋クレイジーズ」のCDの中の唯一の歌の曲です。
市ヶ谷のスタジオは防衛省の向かいにありました。真正面から防衛省を眺めたことがなかったので、その建物の造りには驚きました。本棟迄は長く高く遠い階段がそびえ、権威を主張しているような建築でした。
スタジオはとっても立派で、こういうところで録音するのは何十年ぶりです。
今まで一度も歌として聞いたことのないものを唄うのは、地図を持たずにはじめての場所に行くようです。
フィレンツェにいると思っていた作家の向井さんもコロナで帰国できないままということで録音に来ていました。作者にお会いできてよかったです。
歌入れは向井さんに向けて歌っているようなところもありました。
夏休の宿題その2です。
8月28日
宮尾節子さんとの二人ライブ。タイトルは「Special Thanks!
ありがとうの日」
お互いに変わりばんこに唄ったり、朗読したり、そして話をします。
宮尾節子さんの詩に出会ったのは共通の友人が渡してくれた「明日戦争がはじまる」という詩集。
タイトルになっている明日戦争がはじまる~という詩は逆説の詩で、私は最初馴染むことができずにいました。
それでも時々手に取って読んでいくうちに、宮尾節子の詩というよりも宮尾節子~せっちゃんという人に親しみを持っていくようになっていきました。そしてメロディーが湧き出したのが「しあわせには名前がない」という詩でした。
この詩集のあとがきに、節子さんはこのように言います。
ずいぶん前の話、円周率の3.14の少数点以下を切り捨てる,当時の文部省が決めるらしいという噂が流れたときに。。。(中略)
もしきっぱり円周率=3にした場合「円周=直径×円周率3」の計算で出てた図形は、どうなるのか。~それは鉛筆の断面の形正六角形をしているのです。厄介なものを切り捨てるということ、言えないものを切り捨てていくということはこういうことになるのですね。(中略)
さて、詩とはなんでしょう。
詩を書くという行為とは、この切り捨ててわかりやすく便利な3の方向に行くのではなく、その反対側の右側へつまり小数点以下の「言えなさ」に向かって「言おう」という思いが、どこまでも言葉という「近似値」~真の価値に向かって果てしない旅をつづけること~
詩を書くことは、曲線で描かれる弧が(すなわち個!)が切り捨てられないように「近似値の番人」をする行為なのではないでしょうか?
何のために?
それはとげとげしい角ばった世界へではなく、円満な世界のほうへ、わが身を削らずににできるだけたくさんが生きられる方へ、それぞれの命を大切に生かす方へと穏やかな和やかな世界を模索する、愛の行為ではないでしょうか。
詩に向かうことは自分自身に向かう一つの方法。かけがえのない個を取り戻す行為、ことばによる自己救済の旅のことだと私は思います。
これは、そのまま歌をつくり唄うことでもあります。
言えなさに向かって、言おうとする思いが突き動かしてくれる時が毎日毎日何度も何度もあります。
節子さんの詩に気がつけば7曲のメロディーがつきました。
そのたびに思うのは、メロディーはもともとその詩に宿っている。。。これはあるフォークシンガーがある人の詩にメロディーをつけて歌ったときに話してくれた言葉です。
もちろん私の独特のメロディーラインはあるのだけれど、そこにはその詩を読んだ時の感激、共感、それから新たに引き出される自分の思いがメロディーになってひとつの曲になるのだとおもいます。
今日の節子さんとの対話は、そのとおり果てしなく小数点以下へ向かっていきました。気が付けば2時間を超えてしまって、休憩なしにずっと聞いてくださった皆さん、本当にありがとうございました。これに懲りずにまた一緒に過ごしてもらえたらと願います。
店に入るときに降っていた雨はすっかりあがって、まだ夕暮れ前の時間。夏休み最後の日曜日。
夏休みの宿題その3でした。
8月31日
子どもが学校に通っていた頃の今日この日を思い出すだけで切ない気持ちになります。
どうして?学校行ってくれたほうが楽じゃない。。とよくいわれたけれど、私は憂鬱でした。
子どもの心境に同化してしまうのか、自分の幼いころに帰っていったのか。
そんな気分を振り払うように、いつも夏休み最後の日は二人で思いっきり遊びました。映画や遊園地やドライブで山まで行ったり。遊びの帰りに渋滞に巻き込まれて始業式の朝は寝不足だったこともありました。
今日はこれから、ひとりで泳ぎに行こうか。
ブログ7月分がアップされていなくて心配になった方が秋の果物を送ってくださいました。
私も言われるまで気が付きませんでした。
ホームページにリンクされていなかったようです。
正常になりました。
◆今月初めからニューヨークで開かれていたNPT核兵器不拡散条約再検討会議では、核保有国に「核の先制不使用」政策採用を促す記述が残念ながら削除されたという。
核兵器の使用をいかに〝他国〟に思いとどまらせるかという抑止の考え方でなく、これまで〝他国〟に向けてきた厳しいまなざしを〝自国〟の核政策がはらむ危険性に向けるよう促している「先制不使用」政策。
この約束が保有国間で取り交わされれば大きな前進だと思いました。
あきらめずに、どうすれば〝他国〟の核使用を思いとどまらせるかという発想を捨て、「核戦争の防止」のために〝自国〟として何ができるのかを真剣に検討し具体的措置を進めるべきだと思います。
日本は現実にはアメリカの核の傘にいるけれど唯一の被爆国。そうであるからこそ核廃絶への道への現実的な声を上げ行動していく大きな役目があるのだから。
★核兵器禁止条約の締約国会議にもオブザーバーという立場で日本政府として堂々と参加をすること。
★NPT会議でも「核の先制不使用」政策を強く訴えること。
この二つの★をこれからも強く願っていきます。
本当に強い国とは核廃絶に向かって行動できる国!
核兵器廃絶を願う心と行動は国境や人種、宗教、あらゆる差異を超えて地球と自分を愛おしむ道を照らすのだと確信します。