くたびれたブーツ真新しいブーツ
12月1日大森風に吹かれてにて。
出演:生田敬太郎、中川五郎、シバ、野澤亨司、佐藤龍一&The Dragon、よしだよしこ
重厚なステージ。それぞれ30分ほどの持ち時間に半世紀分の音楽を歌をきっちり詰め込んでまだまだ余力は果てしなく拡がっていました。
楽屋は団子のようになって出番を待つ少年たち。
よしこちゃん、なんでハーモニカ吹き出したの?とシバさんから訊かれて、
ああそうか、もっとちゃん吹けるようにならないとね。
シバさんのハーモニカホルダーは50年以上前の当時のディランとおんなじモデル。
野澤さんはいそいそと爪を補修。いまでもピンポン玉を貼っている。
敬太郎さんはノンアルビールを何本もおかわり。
五郎さんとは久しぶりに近況情報交換。
佐藤龍一くんが風フェスをまとめてくれて感謝します。
風ふかの主もCDの録音も終え、最近元気になってきた様子が嬉しいです。
12月6日町屋ムーヴホールにて。
「ほしのいえ」の年に一度のクリスマスコンサートに。呼んでもらえたのは中川五郎さんからのつながりです。
1991年から始まった活動。簡単に紹介します。
山谷地域において、共に生きること、共に創り出すこと、互いに自己の自立と回復を図ること、山谷からの視点で社会的に不利な立場に置かれた人々の生活や人権を守るための連帯を大切にすることを目的とし、炊き出しや夜回り、居場所つくりとしての作業所活動を行っています。
中心者の方々に会うのはこの日初めてでしたが、会場には、知り合いの顔もちらほら。そして歌い終わると、この歌知っているよと、声をかけてくれる人があり、もう初めての場所という垣根はなくなりました。
来年は、もっと関わっていきたい人たちの集いでした。
12月7日前夜寝るのが遅くなって、ドアのノックの音で目が覚めました。辻井貴子さんが車で迎えに来てくれて長野清内路へ。
清内路村は2009年に阿智村に編入されて消滅した地名。
廃校となった中学校のホールで各地から集合した人たちとのコンサート。
外はみぞれが降り出していましたが、温かく充実した音楽で満ちました。
数日前に亡くなった音楽家の安達元彦さんを偲んでピアニスト鈴木たか子さんが普段弾いたことのないというエレクトリックピアノで安達さんの曲、初めて聴きました。
笠木透さんが亡くなって10年、笠木さんの想いを継承して歌作り、演奏活動をしてきた雑花塾の新旧メンバーの歌、そして、やはり今月急逝した仲間を偲んでの歌、、
地域に根差し、離合集散で歌を育ててきた草の根のひとたちと出会えたこと、親交を深めてこれたこと、心から感謝をします。
12月8日昼神温泉での忘年会明け、水分の多い雪景色に誘われて、貴子さんと朝市へ。朝食のために宿に戻ると靴下がビショビショに。ブーツの底がすっかりひび割れていました。もう5~6年以上旅に付き合ってくれた相棒。頑張りました。
松本マイシャトーにて、貴子さんと二人のライブ。
この店はやなぎ君が足しげく通ったところ、気配を感じながら唄い始めると、ほかにもやはり先にこの世から旅立ってしまった人の気配もあり、気が向くままの選曲になりましたが、客席がこれまた格別な笑顔笑顔、そして美味しいご馳走の匂い。外は相当寒かったけれど、ああ胸はこんなに温かい。
貴子さんとの二日間の共演、デュエット益々楽しいです。
マイシャトーおけいさんの家庭料理、それからともちゃん姉妹のシフォンケーキ。
そして前日に続き農産物のお土産。
店の大きな音響用の機材は、コンパクトなデジタルコンソールになったけれど、おけいさんは、この機械の前に座っているのが一番落ち着くという。そしてライブを目の前で聴くことが何よりの薬だという。
貴ちゃんが、おけいさんにふわふわのストールをプレゼント。
翌日は気の置けない女性だけの松本散策とランチ。
お世話になりました!
無性にプリンが食べたくなったのは,風邪の前兆だったかな。昔から。。。
貴ちゃん号で我が家の前まで。車のトランクぎっしりの、この三日間にいただいた野菜や果物、お菓子やいろいろ、二人で山分けです。
12月12日風邪をひきました。大声で唄ったときに喉が痛いなあと思っていたのですが、みるみる風邪の症状になり、下北沢lownのライブは中止させてもらいました。
予定していたステージを休むのは、本当に心が苦しい。
予約の人たちには店が連絡をしてくれて、それだけでもホットしました。共演の生田敬太郎氏とlownには近いうちの再演を約束。
声帯は何とか無事でしたが、気管支が赤く腫れて、声が思うようには出ません。久々に寝込む1週間。
いろいろなお見舞いをありがとう。恐縮。
12月19日奈良バンダメリリーにて。
声はまだ戻らなかったけれど、体はずいぶん楽になって、今年最後の旅の始まり。
新しい場所に引っ越しをしたバンダメリリーはとても広くて立派なステージです。
いちもとみつるくんとそのBandとの共演。みつるくんは高石ともやさんの曲を見事に唄います。バンドメンバーも素晴らしいプレイヤーばかりで、聴きごたえあります。じゃんぼさんもマンドリンと一緒に遊びに来てくれました。
リハーサルが終わって,この日の仕切りをしてくれたみつる君のお父さんから、柿の葉寿司の差し入れ。私たちのリハーサルの終わるころ合い見計らって、少し温めてくれたという。
未だ、少し熱っぽい私には本当にありがたかったです。
皆で食べたら、一気に仲良くなって、本番のセッションはほんとうに楽しいものでした。
12月20日翌朝、旧友が東大寺の戒壇堂へ案内してくれました。
奈良へ何度も何度も唄いに行っていても東大寺には行ったことがありません。たぶん中学の修学旅行以来。
戒壇堂は僧侶の授戒の場所で、そこには釈迦、多方の二仏像と,四方に大きな四天王像が配置されています。四天王はそれぞれ役目が違い、仏法を修行する者を守護する役目の仏。
大仏殿からは少し離れた場所にあるこの堂はひっそりと、鹿たちでさえ見かけない静寂の場所でした。
岡山へ移動。夜は笠岡カフェ・ド萌にて。
寒い寒い夜でしたが、少しずつ客席が埋まり、20回目の萌のライブ。静かな空気のなかで、昨日奈良で思い出したように唄った「奈良少年刑務所詩集 空が青いから白をえらんだのです」のCDに録音した曲も唄うことができました。そして、リクエストもらっていたのに危うく忘れていた曲も、ちゃんと教えてくれる人があり、ちゃんとうたえました。長い曲も最後まで聴いてもらえて、この場所はしっかりと歌を包み込んでくれる力のあるところ。
12月21日岡山禁酒會館にて。
蛯名宇摩さんとの共演、タイトルは「ソングライン~伝承された歌への旅~」素敵です。
主催の尾崎ツトムさんから、タイトルのアイディアありますか?と訊かれて、すぐに思いついたのが「ソングライン」でした。
欧米人がソングラインと呼ぶのは、オーストラリア全土に迷路のように伸びる歌の道のことで、アボリジニにとっての先祖の道、先祖たちが放浪の途中で出会うあらゆるものに名前をつけ歌にうたい世界を彼らの土地を存在させていったという、その考え方だそうです。
でも私がこのソングラインという言葉に出会ったときに、思い浮かべたのは~すべての音楽は必ずつながっていて、その迷路のような網の目のようなつながりの中で、自分を表現し、出会いをつくり、足元を掘り起こし、また未来へつなげていく、その行為がソングラインそのもの、大いなる思いを抱きしめながら、自分の歌の道を歩いている~という、イメージを心に刻みました。
ともあれ、宇摩さんの三味線、尺八、三線、そして歌、力強い音に誘われ支えられるような二人のセッションが始まりました。どれもほとんど即興でしたが、お互いの歌の道を感じながら。
宇摩さんが三味線で弾き語った、「鉱夫の祈り」素晴らしかった。秋田草刈り歌では、彼女の育った奄美大島の夕暮れ時の畑が想像できました。そしてアイヌのウララスウエ、かつて宇摩さんは平取のアシリレラさんから、私は白糠のりょう子さんという女性から教えてもらいました。お互い少しずつイントネーションが違うのですが、輪唱をするとその違いが面白くなりました。
三味線で見事に弾いてくれた道ばたでおぼえた唄、その昔アイルランドの盲目の吟遊詩人キャロランのつくったメロディーですが、同じように旅をした瞽女さんや、ボサマたちの姿も思い浮かばれました。
She said NO!の尺八を吹いてもらいました。この歌に込めた決意と宇摩さんの思いが嵐のようです。写真は尾崎さんの投稿から。
準備が必要な曲もありましたが、それすらも飛び越えたところに行けたような気がしたのは、温かく見守ってくれた禁酒會館の聴き手の皆さんと、主催者のおかげです。そして蛯名宇摩という豊かな人間力のアーティストと一緒にソングラインを描くことができたことに感謝をします。
それから、この日12月21日は笠木透さんの10回目の
命日ということも思い合わせてオザキユニットが唄った「メープルシロップ」は心の奥までしみ込んでくる演奏と歌声でした。ピート・シーガーという偉大なフォークシンガーに思いを馳せながら書かれた笠木さんの詩に尾崎ツトムさんが曲をつけたもの。またソングラインにちなんでということでうたった中国地方の子守歌。岡山地方ではかつて歌舞音曲禁止令なるものが何度も発令された歴史があるという話をされていて、興味をそそられました。
風邪の症状は日ごとにすっきりとしてきました。
冬至であったこと、夜になって思い出しました。
なんだか、身体も新しい何かが湧いてくるようです。
12月28日泪橋ホールにて、真っ黒毛ぼっくす大忘年会にて。
今年の夏に脳梗塞で倒れた大槻ヒロノリさんの率いる真っ黒毛ぼっくすのメンバーたちが開いた大忘年会。
溢れんばかりの店の中、そこには、大槻さんが、ちょこんと座っていました。もうそれだけでよいなあと思っていたら、大槻さんは途中からマイクの前で唄いだしました。
一時は音楽活動は無理なのかな。。。と心配していたけれど、大槻さんは頑張ってリハビリを続け、歌を忘れずにいました。歌声はとてもしっかりとしていて、以前は酔っぱらってしまうと訳が分からなくなっていたけれど、歌詞がよーくわかるようになって、前よりいいんじゃないの?と皆はしきりに囁き合いました。まだまだリハビリは必要でしょうが、一番のリハビリは音楽。大槻ヒロノリさんには宝石のような名曲が溢れるほどあって、そして真っ黒毛ぼっくすという溢れるほどの愛のミュージシャンたちがいます。そして一緒に涙を流しながら歓ぶ仲間のような聴き手が溢れるほどいます。
一緒にこの場にいることが自分の倖せでした。
ありがとう真っ黒毛ぼっくす。
そして、今日、この場所にきっと一番居たかっただろうなあと思うK氏、夏の終わりに風のように旅立ってしまったけれど、
良い写真を広瀬波子さんからもらったので一緒に載せます。
12月30日亀有kidboxにて。
昨年一昨年と、カレースープ、粕汁をつくって亀有までバスと電車で運びましたが、たどり着くだけですっかり疲れてしまい、唄えなくなりそうだったので、今年は汁物はやめました。
そのかわり、チリの料理人クラウディオさんのエンパナーダというミートパイを20個頼んで持っていきました。
クラウディオさんの部屋はとても狭くて台所はなく、小さなコンロとオーブンが置いてあるだけ。よくもここで沢山の料理を作るなあと感心します。今日もほかにも頼まれたといって沢山のエンパナーダをつくっていました。ギターとダルシマーを担いで今年最後のライブはエンパナーダも抱えて。
亀有まで聴きに来てくれた人たちと、ひざ詰めで唄います。
今年よくうたった曲、一度もうたわなかった曲、いろいろ沢山うたった後は、店主の用意したおでんで乾杯です。今年はおでんの種が豊富で、皆沢山食べました。エンパナーダはお土産に。
今年も、あちらでこちらで、歌と一緒に会えた皆さん、本当にありがとうございました。
何年振りか、多分6~7年ぶりに、ブーツを新調しました。
あんなに底がボロボロになっているなんて、今月長野に行くまで気がつかなかった。
一緒に歩いてくれて、ステージに立ってくれて、ありがとう!
そして新しくやってきてくれた君、来年からはどうぞよろしくね。一緒に唄おう、一緒に歩こう、一緒に会いに行こう!
2024年12月31日 今宵は新月☆彡
海へ 山へ 街へ
11月3日
金沢にて。
土清水の公民館にて健康促進委員の美樹さんの企画でHISAさんと私で、歌とライブペインティングのワークショップ。
老若男女、保育園児、若いお母さん、70歳代まで、地域の人たちが集まって、最後には大きな障子紙の周りにほとんどの人が集まって絵筆を手に想いを描きました。
土清水つちしみずという地名は湧き清水の多い処であったから、このあたりの人たちは「つっちょうず」と呼んでいるそうです。若い人が中心になって地域の活動を続けていることに感動しました。
皆で描いた絵は公民館に飾られるようです。
ポカポカ陽気の午後からは、アトリエHISAでのホームライブ。10人ほどの人たちが畳に座って聴いてくれました。
ステージ脇には、今年の5月にHISAさんと訪れた岡山長島愛生園さざなみハウスで歌と一緒に描かれた絵が飾ってあります。さざなみハウスから時が経ち、絵にははっきりとした母子の顔や、船に乗る人が現れていました。
HISAさんの絵は、こうして少しずつ変化をして完成する絵が多いのです。そしてこの絵は特別に重厚感があります。
それは、HISAさんがハンセン病療養所である長島愛生園に行ったこと、その前後に入所者の一人宮崎かづゑさんという人のことを知り、苦難の人生をすべて感謝するかづゑさんの大きな魂に出会ったこと、それらがHISAさんの魂と響きあって生まれた絵だからでしょうか。
ライブが終わってもずいぶん長い時間、皆でお茶を飲みながら語り合うことができました。
集まった人たちそれぞれの抱えている大切なものを持ち寄って過ごせた時間でした。
前日の夜から、毎食を素晴らしい献立でもてなしてくれたじゅんさん、そしてエレキギターのレッスンの成果を披露してくれた次女のみっちゃん、青森からリンゴジュース4ダースも一緒にやってきた久見ちゃん、犬のコロン、ミルティ、猫たち、二日間みんなで団子のように賑やか、家族に混ぜてもらえてありがとう!
9月に陸前高田で預かった寄付金HISAさんに託すことができました。
能登へ上る手前、羽咋海岸。昔、仲間と海水浴をしたあたり。
11月4日穴水町へ。
朝、白山の川崎さん一家が迎えに来てくれて能登半島目指しました。
川崎正美さんのお姉さん家族が住む穴水町の諸橋地区。
その前に穴水の町中の復興店舗で洋品店を始めた親戚にも顔を出し、道中の被害の様子も車から見ることができました。
穴水町の諸橋地区の公民館は目の前が真っ青な海です。
川崎さんのバンドでえげっさのメンバーと川崎草汰くん、そして私、名もなき者たちのミニコンサートに40人近い地域の人たちが集まってくれました。用意していた青森の久見ちゃんからのリンゴジュースは足りなくなり、でえげっさメンバーのカンちゃんの奥さんが一人で焼いた100個近いパンも配られて、ライブは最後まで楽しんでもらえてホッとするばかりでした。公民館の館長さんは私と同じくらいの年頃のかたで、歌を聴いていて高校生時代に金沢の卯辰山のフェスに行ったのを思い出したと云ってくれました。その時、川崎正美さんも私も同じ場所にいました。今日ここで再会することなど想像もしなかった時代に。
夜は、川崎さんのお姉さん宅にお世話になり、数日前にやっと漁が再開したというタイミングで、能登の魚をたっぷりご馳走になりながら、元旦からのこと、そして9月の水害の時のこと、じっくりと聴かせてもらいました。「この年齢になってこんなことを経験するなんて、、、」この言葉を何度も何度も。
昼間のコンサートに足を運んでくれた人たちは、困難を乗り越えながらやっとなんとか普通の暮らしをはじめている人たちでしょう。そこにいない人のことは、想像をするしかありません。
波の音を微かに聴きながら眠りました。
穴水町諸橋の夕暮れ
11月5日川崎さんが、輪島の役所に電話をして、道の状況を聴いてくれて、なんとか車で行けそうなことがわかり、半島を北上しました。私にとって初めて訪れる地域です。
川崎さんがどうしても確認したい場所がありました。白米千枚田という広大な棚田です。地震で被害を受け、その後復興作業をする中で、今度は大雨で山が崩れ困難な状況にあるのでした。しかし、棚田にはこの日も数人の人が草刈りの作業をしていました。保存会の人たちだそうです。
私にとって初めて見る千枚田がこの景色です。一層心に焼き付け必ずまた来ようと思いました。
能登白米千枚田、来年の田植えにむけて手入れをする人たち
11月9日京都ハリーナにて。
京都の駅はタクシー乗り場も長蛇の列です。世界中の観光客が並んでいる。
しかし左京区の京大農学部のあたりは別世界のようにしずかです。
アカリトバリと一緒。アカリさんの唄う「山の唄」そして、
民俗学者の川島秀一さんが福島県新地町の漁師・小野春雄さんの言葉を本にした「春を待つ海」と同名の曲。
今年の春に西成の集い処はなで聴いた時よりずっと熟されていて心に届いた歌が体中に染みわたりました。
アカリさんの故郷は会津。3.11の直後、家族に会いに行って、皆の避難も願ったけれど、両親は高齢の祖父母を連れて動けないと。その時におじいちゃんから託された三味線、ハリーナには持ってこなかったけれど、アカリトバリの歌にはこうして深い物語が潜んでいます。漁師・小野春雄さんにも実際に会いに行っています。私はそういうアカリトバリと一緒に唄うのが好きです。最後は平和に生きる権利を皆で唄いました。トバリくんがマイクのセッティングを素早くやってくれて助かりました。
足を運んでくださった沢山の皆さんありがとうございます。客席にはアコシャン組、マホロバシスターズなど多彩!
夜ははじめてハリーナ友子さん宅に泊めてもらいました。広い広い部屋、熟睡。
11月10日大阪チャクラにて。
年に一度秋にはチャクラ。20年で大阪で少しずつ聴いてもらえる人ができた。その人たちが会いに来てくれる一日。
そして若い人も聴きに来てくれました。彼女のリクエストでじゃんぼさんのマンドリンと一緒にRidin' High。この曲は彼との十八番になりました。長田TACOとは何度一緒にやっても毎回スリリングであり続けます。
チャクラのたっちゃんのバースデーということで彼からのリクエストもありました。
リクエストをしてもらえることが最近とても嬉しいです。聴きたくて来てくれるんだもの。
また来年を約束しました。皆さんほんとうにありがとう。
賄のカレーと、たっちゃんが自ら買ってきたケーキを食べて、日曜日なので安かった塚本のホテルで熟睡。
11月12日相模大野アコパにて。
井上ともやすのお呼びつけライブ。毎回お題の曲があります。今回はBob Dylanがローリングサンダーレヴューのツアーでジョーンバエズとワンマイクでデュオしたバージョンの風に吹かれて。
ワンマイクにちょっと逃げ腰の井上君、でも雰囲気出したいからと私。しかし、リハーサルでわかりました。井上君のしぶきが凄いのです。なんとかマイクから少し離れ気味遠慮気味に本番。
この日はアンコールもあり、やっぱり二人でやった方がよいでしょうと、吉田拓郎のナンバー。
井上君との曲ファイルがずいぶん分厚くなりました。
今ではお呼びつけてもらうのは私くらいになってしまったらしいです。いつか、このファイル全曲のライブをしましょうかね。
11月15日高山ピースランドにて。
14番目の月の美しい高山の夜です。
今年もここでクリスマスプレゼントを買います。小さな子供たちに。最初は1冊、しばらくして2冊、今では3冊。
何を買ってあげたか忘れてしまいそうです。店主の中神さんにおススメを教えてもらいます。
中でも気に入ったのが薫くみこさんの「あのときすきになったよ」友情の話です。キーワードはおしっこです。
この本は今度小学生になる人に贈ります。
私は幼稚園で毎日オシッコを漏らしていて、小学校に入ってからはなんとかやっていたけれど、それでも毎日オシッコウンチ関連の問題が身近にありました。
本を買って、そして歌を聴いてもらって、、平和の国でのひとときに感謝です。
また来年も会いましょう!
11月16日犬山珈琲ふう にて
24年間、旅と本と歌を愛した珈琲ふうはもうすぐ店じまいをします。
私は20年ほど一年おきに唄いました。一年おきというのは、最初に主の小川さんとそういう約束をしてしまったからで、それはレパートリーも少ないのに毎年は無理な気がしたからです。そのかわり、美濃加茂のワンダーランドや高山のピースランド、後に各務ヶ原の6-21などに、小川さんは私を紹介してくれたのです。昨年の11月が私にとってふうのライブ「ちいさな唄に手を引かれ」だったのですが、なんだかとっても寂しくなって、初めて連続ライブ。
いっぱいの客席には20年間この場所で聴き続けてくれた人たちが沢山いて、胸がいっぱいになりました。
関東から楽器を積んでやってきてくれた らんぶりんまっく&ジャッキー磯江の両氏と一緒に唄うこともでき、客席にも唄う人や遠くからの友達もいます。温かな人たちに囲まれて最後のふうで唄えたこと、小川さん茉莉子さんありがとう!
今度は旅先で!沢山会いましょう。ふうのちいさな唄に手をひかれ」は来年の2月まで続きます。
11月17日付知の鼓土里座にて。
山の中の手作りの芝居小屋は11がつが過ぎると春まで閉じられます。そういうタイミングで私は鼓土里座に唄いにきます。昨夜の犬山で聴いてくれた福井のMWFのマスミ&フォーキーの二人が付知まで車で乗せてくれます。
今回の高山、犬山、付知はすべて車に乗せてくれる人がありました。本当にありがたいことです。
鼓土里座に初めて来た人もあり、土着民のパフォーマンスや二階席からの眺めに感動しているのを見るのも嬉しかったです。福井からのMWFとも一緒に唄えたし、多くの人たちが打ち上げの鍋の席に残りました。
東京から4日前に一緒に出掛けた友達と犬山で別れたのですが、その後彼らも付知まで来てくれたそうです。でももう一つ行きたい場所があったので、外から様子を感じて、中津川椛の湖フォークジャンボリー跡地へ行ったそうです。
高校生の時に参加した場所に再び来ることができてしばらく佇んでいたと。
岐阜というところ、各地にフォークソングを愛する人たちがいます。その礎をつくったのが中津川フォークジャンボリーにかかわった人たちでしょう。
11月21日渋谷ロフトHEAVENにて
昼過ぎから始まるライブです。
佐藤GWANさんと佐久間順平さんと。
朝9時前に家を出て、出勤途中の人たちに交じってバスと電車の中では楽器は迷惑な存在です。たどり着いてリハーサルを終えてもお昼です。
亡くなられたパートナーの散骨のためにネパールのポカラの湖へ行ってきたGWANさんからはお土産のお茶を頂きました。ネパールのブラックティーは好きな味のお茶です。
GWANさんと生きてきてはじめてのデュエット「ほんのちいさな歌」本当にあっという間に唄い終わってしまうちいさな歌でした。順平さんからは、白内障手術の病院の情報ももらいました。昼間のライブ、準備期間が短かったのでお客さんは少なかったけれど、なんだかとてもゆったりとした時間でした。
楽器を担いで外に出てもまだ明るい雨上がりの渋谷の街。
11月23日神戸メリケン波止場Wにて。
まっちゃんライブ25周年の集いです。沢山の出演者なので、休憩を入れて5時間近く。
私は新横浜から新幹線で、同じ車両には東京駅からのシバさんと斉藤哲夫さんが無事に乗っていました。なにしろ3人まとまって来てという主催者の要望、3人一緒の新幹線の切符を買って、でも待ち合わせは迷子になったら危険だから、それぞれに郵便で送って、あ~ほんとにひと安心だったのですが、、
新幹線が車両点検で1時間半も遅れてしまいました。すっかり疲れ切ってしまった関東組です。
哲夫さんのギターケースにはなんだか可愛いマスコットがぶら下がっていました。前回ギター取り違え事件があったから。。ね。。
まっちゃんライブには20年出してもらっています。昨年亡くなってしまったりんぼうさんはまっちゃんライブになくてはならない存在でした。りんぼうさんに出会った頃の歌をうたいました。どんな状態の時も黙って見守っていてくれた。まっちゃんライブの仲間たちに沢山支えてもらいました。
藤縄てつや、秋本節、長田TACO、よしだよしこ、じゃんぼ奥谷、黒田かなで、金森幸介、斉藤哲夫,シバ、豊田勇造、大塚まさじ、、そしてまっちゃん、、それぞれが世界でたった一つの最高のステージを繰り広げた夜です。
つぎは30周年ですって!
最後は皆で、Forever Young と I shall be released。
11月24日宝塚ハッセルハウスにて。
夫婦デュオデイジーヒルの久永洋子さんはこれまでもライブに来てくれたり、一緒に唄ったり。相方の雅史さんとは初めて言葉を交わしました。そして歌声のキーが高いことも今日知りました。選曲は素晴らしく、私の好きな昔のマリア・マルダーや洋子さんの敬愛するヘイゼル・ディケンズの曲、まさにブルーグラスの声というのかな、好きな声。
そしてもう一組も夫婦ユニットのタケQ(スワンピータケシ&杉本Q仁美)。タケちゃんの声には深くて哀愁があります。彼の歌うwayfaring strangerをひさしぶりに聴けました。そしてQちゃんのハーモニカで私も一緒に唄えました。素晴らしい音色です。
この日は95歳になるQちゃんのお母さんがお姉さんとともに一番前の席で最後まで聴いてくれました。生まれ育ちは花巻。宮沢賢治の弟の清六さんと同級生であること。私の歌の中に賢治の世界を感じてくれたこと、そんな素敵な話ができました。
駆けつけてくれて前日同様にマンドリンをひいてくれたじゃんぼさん、足を運んでくれた皆さん、ありがとうございます。
そして手作りの丁寧なライブを開いてくれた吉川さん、ほんとうにありがとうございました。
それから、私が唄った「クラウディオさんの手」について、久永洋子さんと少しだけ話が出来たことが良かったです。クラウディオさんというのはチリ人の料理人で、事情があり日本の在留資格を失い数年前まで入管施設に収容されて、現在は仮放免措置の人です。この歌の中で私は入管施設で起きた死亡事故や暴力行為について暗に触れているのですが、
久永洋子さんの家族の一人が入国管理局に勤めていることを教えてくれました。もし彼女がこの歌を聴いたら、また違った受け止め方をするかもしれない。と。
まさに、私がこの歌を一年間つくるのを躊躇していたのは、立場が違えば見方も違ってくることに対応するのが大変だと思ったからでした。でも、この歌は一方的にだれかをなにかを批判攻撃しているのではないこと。そのためにももしかしたら少しだけ歌詞を加えたほうが良いのかな、、、とも気づかせてもらった出来事でした。
ひとつの歌を巡って、対話ができることが、うまくは言えないけれど、おおきな意味のあることかもしれない、、、と思いました。
能登の海岸は海岸線が隆起してしまった場所が沢山あります
11月25日大森にて。
大森風に吹かれての店主であり、昔の仲間金谷君がアルバム録音をしています。やっと重い腰を上げたようです。プロデュースは西海孝、ピアノには宇土俊秀。
録音最終日に、丸山圭子と私が呼ばれてコーラス参加。
私たち3人が一緒に録音するのはたぶん半世紀ぶりかしら。マイクの前に立てば自然にハモりたくなります。譜面も書かずにやるので、何回か録りなおしますが、そのシツコサが昔のままです。大切なともだちです。
11月27日茅ヶ崎ボチボチにて。
武蔵小杉から乗った電車が茅ヶ崎に必ず行くとは限らないことを今日初めて知りました。大船を過ぎて気づけば鎌倉に来てしまいました。大急ぎでまた大船まで戻り、熱海行の線に乗り換えたのですが、これが足が浮いて体がもっていかれそうに混んでいて、楽器が潰されそうでした。そばにいた女性が大声で、「楽器ですよね!大丈夫?」と言ってくれたので近くの人も少し詰めてくれました。満員電車に大きな荷物を持ち込むのは気がひけることです。こんなふうに声をかけてくれる人は素敵です。
ボチボチのライブは沢山唄ってしまいます。それはきっと1年に2度ほどを楽しみに集まってくれる人でいっぱいになるから。それから杉本さんと中村寿彦さん二人の助っ人でアンコール珍しく3曲もやってしまいました。店の主の俊さんは、一人で飲食の切り盛りしながら、ちゃんと歌を聴いている人です。すこしずつここで聴いてくれる人が増えてきたことに感謝します。
11月29日中野 座ポケットにて。
旧い友達の出演する芝居の初日公演を観ました。
中野は演劇の街、小さな劇場がいくつもあります。中野は時々来たい街です。
若いころにやっていたけれど、長年遠ざかり、それでも役者を続けてきた彼女。観るたびに役になり切っていく、その姿に感動します。友達がかっこよくなっていくのは自慢です。
芝居は一家の大黒柱が亡くなった家族のはなし。一昨年連れ合いを亡くした彼女にはちょっとリアルな脚本でしたが、、そうやって本物の人生からにじみ出てくる演技に引き込まれました。
秋晴れのなかを
10月5日長野へ。斉藤哲夫さんとの旅です。
ちょうど9年前の今日やはり二人で、その時は大阪京都のツアーだったことFacebookで知りました。9年前の哲夫さんは、脳梗塞から生還して間もなく、ステージに臨む姿には緊張感がありました。40分以上は唄えない、高い声は血管が切れたらと思うと出せないと。
この頃はとても元気そうで、本当に嬉しいです。
長野の拓郎Age(タクロウエイジ)という店が主催をして、店の入っているビル丸ごとがライブ会場となるイベントの前夜祭に呼んでもらいました。
哲夫さんとハーモニーをつけて唄うのが大好きです。あまり打ち合わせはないのですが、そのちょっとドキドキしながらハモれるとみんなに聴いてもらいたくなります。今夜は「もうひとつの世界」瀬戸口修の名曲を一緒に。
店に溢れるほどのお客さん、尽力してくれたまるちゃん、小林マスターありがとうございます。
夜は共演してくれたエスプレッソの小山さん宅に。子供たちが巣立った広い家の二階はホテルルームのようで、うまれてはじめてマイクロバブルのお風呂に入りました。ジャグジーとは違うシャンパンの泡のようなお湯。
車に乗せてくれる人たち、泊めてくれる人たち、初日から沢山の人たちにお世話になっています。
10月6日新潟の浦佐というところ。はじめての町です。
都内から二日間車に乗せてくれるMさんも越後の人なので道に詳しくて安心です。
哲夫さんはとても若いころからこの近く六日町に来ていたのだそうです。
哲夫さんの50年近く昔のうた「ここは六日町あたり」~目を閉じれば今すぐにそこに行くことができる~と唄われている町は当然ずいぶん景色が変わっているようだけれど、旧友の家に入ったとたんに哲夫さんはまるで田舎に帰ってき子供のよう。
私の祖母は今の上越市のあたりの育ち。時々一緒に田舎に連れて行ってもらうと親戚がたくさん集まってご馳走をつくり餅つきをして迎えてくれた。祖母の言葉使いがガラッと変わることに驚いた記憶があります。越後訛りは柔らかくほっとする音色とメロディーだった。集まってきた哲夫さんの友人たちの話し声は私を60年以上も昔に連れていってくれるよう。
ライブ会場のレオンという店は上越新幹線の浦佐という駅の目の前で、ツアーのミュージシャンが沢山立ち寄るという。
ほぼ満席にしてくれたのは六日町あたりの人たち。
哲夫さんとは「風景」をハモりました。
たった二泊三日だけれども、皆さんにほんとうに良くしてもらいました。
tomoちゃんからもらったシャインマスカットは途中で食べたけれど、湯沢温泉の道の駅で買ってしまった大粒の栗2キロ、六日町でいただいたコシヒカリの新米2キロ、、二泊三日にしては帰りのスーツケースがすっかりパンパンです!
さてさて、湯沢から新幹線に乗ってあとはもう家に帰るばかり。哲夫さんは大宮で先にお疲れさま!ウトウト私は終点東京でまで。ところが列車が到着してギターケースを背負ったとたんにビックリ!ギャッ!私のギターじゃない!
どうしてそれまで気づかなかったかというと、実は、哲夫さんと私のギターケースが同じメーカーの同じ色のもので、旅の間も気を付けていたのですが、、なんと最後にやられました!
東京駅から何度電話してもメールしても音信不通の哲夫さん。。。寝ちゃったんだな。。。しようがないので、栗と米入りの重い重いスーツケースも引きずって斉藤宅のある赤羽まで。
二時間後、短パンにサンダルで首から高齢者パスを下げた哲夫さんが私のギターを背負ってワルイワルイと言いながら
やってきました。
ツアーはおうちに着くまでがツアーというけれど、おうちについて昼寝の後までツアーでしたね、哲夫さん。。。
今度一緒の時には、お互いにケースに目印をつけましょう高齢者パスとか。
10月11日晩御飯を食べながらパソコンでニュースを流していたら、今年のノーベル平和賞を日本被団協が受賞したことを知りました。正式には日本原水爆被害者団体協議会だけれど、スポークスマンは「ニッポンヒダンキョウ」と言いました。「ヒバクシャ」がいまでは世界に通ずる言葉になったように、広島長崎で被爆した人たちの団体の活動がヒダンキョウという堂々とした名前になって世界中に響きわたりました。日本被団協は1954年のビキニ事件で第五福竜丸が被ばくしたことを機に、その二年後に結成されたことを今夜知りました。
ノーベル賞委員会が11日発表した平和賞授賞理由の全文の後半にこうあります。
以下抜粋,,,,,,
『いつか歴史の目撃者としての被爆者はわれわれの前からいなくなる。しかし、記憶を守る強い文化と継続的な関与により、日本の新たな世代は被爆者の経験とメッセージを引き継いでいる。彼らは世界中の人々を鼓舞し、教育している。そうすることで彼らは、人類の平和な未来の前提条件である核のタブーを維持することに貢献している。』
日本の政府は核禁止条約にいまだに批准をしていません。
しかし、その政府の方針も、アメリカとの関係も世界の核の地図をも、少しずつ変化させる力を持っているのは、小さな声の集合です。とりわけ若い世代のひとたち。
そういえば、第五福竜丸展示館の学芸員でもある市田まりさんが「語り継ぎ部」と自らを称していました。
人類の抱えている最大問題の核。核に依存すること、これは大きな大きな「依存症という病気」なのだとそれぞれが自覚したら、治すことができないのかしら。。。
やめたほうがよいにきまっているけれど、やめられない。
依存症とはそういうこと。
広島の平和公園、原爆資料館に、G7の首脳たちが集まった昨年のG7サミットの映像を思い出しながら、こんなことを考えました。
オレもかなり苦しんでるけど、アンタも大変だよねぇ、、
アンタがやめたらオレもやめると思ってたけれど、先にやめたほうがいいかんじじゃない?
君、どうやって克服したの?え~私もやってみようかな!
やっぱり、手放した方がかっこいいよねえ。。。
10月12日数年ぶりに行く九州です。
辻井貴子さんとの二泊三日の旅の始まりは貴子さんが我が家に車で迎えに来てくれるところから始まりました。
この車を羽田近くの安い駐車場においていきます。彼女の持ち楽器はギターとオートハープと今回は少ないのですが、帰りの飛行機が最終便なのでこうなったわけです。
二人だからとっても安心、お天気も上々、わくわく嬉しい、、出発ターミナルを間違ったこと以外は!
貴子よしこコンビ、お互いの性格が二乗になってしまったようです。でも早めに出かけたおかげで、羽田のターミナル(第一第二の距離はかなりあるのですが、無料巡回バスで間に合いました。これ以上悪いことが起こりませんように。
大丈夫、飛行機を降りたら皆さんのお世話になるもの。
二人きりにはならないものね。
小倉ののどかな田園地帯に民家をきれいに手入れして作られた場所グリーンスペース。風通しの良い和室には、照明も設えてあり、外が暗くなると小さなホールのようです。
この家の大きな仏壇の前で、コカリナグループのイーストバレーと主催の山田としひこさん、貴子さん、私が唄います。イーストバレーコカリナクラブのフルメンバーを聴いたのははじめてです。
打ち上げにも沢山の人が残り、家の主である美登里さんの手作りのおでんや持ち寄りのご馳走を食べながら。。打ち上げにたくさんの人が残ることが素敵です。地域に根を張っていなければ出来ないこと。すてきだなあ。
驚いたのは東京で聴きに来てくれていた古端千裕夫妻がその場にいたこと。親の介護で戻ってきたという二人、打ち上げで唄ってくれたのが嬉しかったです。
初日から良い夜です。
美登里さんのお父さんが手作りしたという建て増しの部屋に貴子さんと並んでぐっすり眠ることができました。
10月13日飯塚にて。
4年前,赤べぇこと赤木一孝さんと九州の旅をしました。飯塚とフォークグループマウンテンゴリラを教えてくれたのは赤べぇです。そして、今年の初めにマウンテンゴリラの山田さんから、貴子さんと私に声をかけてもらったわけです。
この街にはCAMINOという素敵なカフェがありました。4年前にそこでライブをしたあと、お店は道路拡張に伴い壊されました。大正時代からの建築でした。
CAMINOはなくなったけれど新たな場所でオーナー夫妻は良い食べ物と雑貨店をはじめていました、今日のお昼はフルコースのご馳走でした。
はるばる鳥取から、ぺんぺん草の大森隆、典子夫妻が、出来立てのCD「うたはひびく」を携えてやってきました。このCDのディレクターが山田さん。山田さんの詩、大森隆さんの曲で「遠賀川~おんががわ」は昨日も聴いたのですが、今日は歌詞がもっとよくわかりました。それは川を実際にみたからもありますが、ぺんぺん草、山田さん、ピアノに美登里さんの4人の音が川の流れのように豊かだったから。
筑豊を流れる川。昔は石炭を洗う水路、チョコレート色だった。小倉から飯塚への車窓から教えてもらった遠賀川はもうチョコレート色ではありません。ふるさとの移り変わりを歌にしていること、、川は歌なんだな。
ライブの最後は共演のアルゴ探検隊も一緒に皆で「海に向かって」をうたいました。元々はアメリカのフォークソングですが海に向かっては笠置透さんの歌詞です。同じメロディーラインで「生活の柄」がありますが、歌う人場所によって違う歌詞になること、懐深い歌です。
10月14日みやま市徳円寺にて。
福岡もなかなか広いです。飯塚から2時間弱ほど走って着いた徳円寺の本堂は大きくて立派です。
以前は笠木透さんやフォークス、そして今日の共演グループのマウンテンゴリラなどのコンサートが開かれていた場所だそうです。
この寺の美紀子さん、、住職夫人、なんて呼べばよいの?ときくと「坊守~ぼうもりさん」だという。その名も坊を守る人で坊守というんだ。入り口にある掲示板に「遠くのできごとに人はやさしい、近くのできごとに人はだまりこむ~」石川逸子さんの詩で私がうたっている「吹いていった風」の一節が坊守の美紀子さんの字で書かれてありました。事前に歌を聴いて迎えてくださったことが嬉しかったです。
マウンテンゴリラを聴くはとても久しぶりで心に響きました。
君の上には君なにもない、君の下にもなにもない、君よりほかには君はない~と唄われる「かがやき」、「生命のバトン」
こういう歌をすこし孤独だった自分の小学校時代に聴いていたかったなあ。。。徳円寺の本堂でじっと聴けてよかった。
貴子さんとの三日間、お互いに毎日の選曲は色とりどりでした。そして、一緒に唄ったのは「きみのともだち」「おやすみいとおしいひと」など。きみのともだちの私のギターとコーラスは三日目になんとかハモるようになってホッとしました。
貴子さんのステージを三日間身近に観て聴くことができました。誠実に歌に向かう姿と、聴く人に優しいステージに「ああ、私もがんばろう」と思うのです。人の心をそういう風に元気づけてくれる力が貴子さんという歌うたいにあります。
そして三日間連日お世話になった皆さん、ほんとうにありがとうございました。
福岡空港にて、貴子さんと別れ、ほんの束の間、家族全員と再会しました。3~6~9歳たちも元気です。9歳君とはいろいろ深い対話もできるようになって面白いです。私と息子の二人きりでは到底できなかったような話も、皆でいるとちょっとずつできることに驚いています。
タクシー乗り場まで、6歳と9歳でギターとダルシマーを背負ってくれました。ありがとう、またね!
10月15日福岡から仙台へ飛ぶ飛行機,初めての空路、小さな飛行機は低空を飛び、地上の景色も楽しみました。仙台空港は2011年の震災直後以来です。鈴木しのぶさんのパートナーの小松さんが迎えに来てくれて岩手水沢の鈴木しのぶさんの実家まで。
明日は、この家の蔵で唄います。
写真Ryoiti Komatsu
10月16日峰八州子原画展の最終日に絵とともに唄いました。蔵には名前がついています。「蔵スタジオ鈴貞」醤油醸造をやっていたころの屋号だそうです。
1980年代にしのぶさんのお母さんがジャズミュージシャンなどを呼んでイベントをはじめ、数年前に亡くなった次女のいずみさんがダンススタジオにしていたこともある場所。いずみさんとは同じ水沢のギャラリー1231で亡くなる前の年に私の唄うハレルヤで踊ってもらいました。
昨日、峰さんの絵を前にして、どうしても気になることがありました。
峰さんは2015年の8月3日に亡くなっているのだけれど、、そして私は峰さんのことを詳しく知らないのだけれど、昔々、どこかで会っているような気がしてならないのです。どうしても思い出せないけれど、どこかで。。昨日から本物の絵を前にしてより一層強く思われました、
もしここに峰八州子さんがいたら、私たち昔どこかで会っていませんか?ときけるのだけれど。。
天井の高い醸造蔵の白い壁に展示された女の人の顔の絵は想像よりも大きくて迫力のあるものでした。濃く鮮やかな色を使っているけれど、その人物たちの顔だけは色が塗られていない「WOMAN」というシリーズ。東洋人も黒人も白人、インディアンも同じキャンバスの地色。
そして、小さな子供の椅子に一枚一枚飾られているのはサラエボの子供たちの愛らしい顔。
WOMANの4人とたくさんの子たちの前で1時間半ほど唄うことができました。
サラエボのこの子達、今元気なら皆40歳から50歳代になっているはず。
瀬川伸さんが貸してくれたマイクとアンプのおかげで響きの良い蔵の音がよりふくよかになりました。
終わってから半数以上の人が残って、しのぶさんの妹かおるさんの芋の子汁、そして持ち寄りのご馳走で、ライブよりも長い時間を過ごしました。しのぶさんのお母さんの想いも受けついで良い場所になっていけばと思います。
峰さんが90年代にユニセフのアーティストとしての仕事をしていたこと。もし会っていたとしたら,そのころではないかしら。。。私はその頃画廊に勤めていた。きっとそうだ。。。何か話したと思う。。。年もさほど変わらない同士だったし。。。
そのころわたし、暮すだけで精いっぱいだったな。。
翌日は朝はやく水沢駅まで送ってもらい花巻へ。宮沢賢治記念館に連れて行ってもらいました。車を運転してくれた石毛さんとも、もう20年になります。初めての出会いは、宮古のカントリーカフェだった。やなぎ君に連れて行ってもらった初めての岩手ツアー。お客さんが少ないから、何ヵ所も連日来てもらったりしていました。
賢治記念館では、賢治と信仰や天文、地質の研究についての展示も詳しくされていて、今まで読んだり聴いたりして知ってるつもりになっている私の頭の中をやさしく上書きしてくれるようです。それにしても短い人生の膨大な知識と行動力です。
農学校教師をやめた賢治が、農耕をしながら独居自炊生活をしていた羅須地人協会(らすちじんきょうかい)跡地から見下ろすと下の畑と北上川が見下ろせます。花巻は賢治が描いてくれる地図。
以前も行ったことのあるつばめ食堂でハンバーグとごはんと食後のコーヒーどれもが美味しい。石毛さんと個々の主は古い付き合いとのこと。数年前に連れてきてくれた小平さんは賢治の生き方に共鳴して北海道から岩手のりんご農家に嫁いだ求道の人でした。その後亡くなってしまったのだけれど、亡くなってからいろいろ人から教えてもらいました。
賢治記念館で買った宮沢清六の文庫本「兄のトランク」を新幹線で読みながら。
飛行機と新幹線に連続乗ったので、耳鳴りが収まらず、少しふらつきます。それでも帰宅した夜は妙に目がさえて、、ビールを飲みながら映画「銀河鉄道の父」を観ました。
映画の中では、今日、数時間前に私も立って下を見下ろしていた羅須地人協会(らすちじんきょうかい)跡地で、賢治と父が話をしていました。すっかり賢治の一日です。
10月27日東村山の竹田商店工場跡にて「神々の謡」を観に行きました。ずっと見たくてやっとタイミングが合いました。
舞香さんという役者さんの一人芝居、脚本も本人が書いて音楽を担当するのは、いわさききょうこさんです。
今から100年前、滅びようとしていたアイヌの伝承物語ユーカラの翻訳編さんをしアイヌ神謡集を書き上げ、その原稿の校正をし終わった夜に心臓発作で倒れ19歳で亡くなった知里幸恵の短い生涯の物語です。
舞香さんはたった一人で何人もの人物を演じ分けました。まるで、それぞれの人物が一瞬にしてのりうつります。
ちょうどひと月前に北海道で出会った豊川容子さんのことを思い出しました。容子さんも沢山の神が降りてきて彼女の体を借りて謡っているようでした。
容子さんも北海道でこの芝居「神々の謡」を見たそうで、涙が止まらなかったと言っていました。
そのことを今日本番前の舞香さんに伝えることができて良かったです。
芝居の圧巻は、知里幸恵の書いたアイヌ神謡集の序文を詠みあげるシーンでした。、自然を敬い、自然と共に生き、文字を持たぬけれど親から子へと大切なものを伝え、戦を好まないために迫害と世の変化に翻弄されゆくアイヌ。この北方の民の伝承の物語を残すことが、平和につながり、人の心を差別から解放し、世の中の倖せに繋がることなのだと19歳の知里幸恵は確信して命を削って書き上げた本。
一時間半の芝居に引き込まれ,織り込まれた沢山のメッセージを受け取りました。いわさききょうこさんのkeyboardと歌を駆使した生の音楽にはとても力があり演技と息の合ったものでした。アイヌの伝承音楽ではなくてきょうこさんのオリジナルの歌をメインにしているところも面白いと思いました。たった二人でもう15年やり続けている小さいけれどおおきな物語。
沢山の場所で上演してほしいお芝居です。今日の主催者である樹よう子さんとそういう話をしました。
帰宅をして、晩御飯を食べながら衆議院選挙速報をみました。
私の応援していた人たちの何人かは落選したようです。
世界も日本の社会も、加速度を増して変わっていて、決して良い方へとは思えないことが多すぎるこの時に生きている意味を考えます。
あれもこれもこっちもあっちも、目が回りそうです。当選した人は命がけで仕事をしてください。、落選した人も政治の仕事に責任をもって頑張ってください。私も目の前の自分の仕事を頑張ります。時々窓から遠くを眺めながら。
10月31日なかなか寒くならない10月に、気分もゆるゆるしてしまっていましたが、修繕していた楽器も昨日手元に戻りました。
抽斗の奥から出す毎年最初のセーターの匂い、あと何回嗅げるのだろう。
昨夜鍋いっぱいにつくった豚汁、明後日金沢に出かけるまでに食べきります。