この世のだれもが。。。。。
2月17日の富士
2月3日録音を少しずつ始めています。八王子にある建物の地下室を借りて、録音機材、操作、監督は近藤達郎さん。
これまで近藤さんと6枚のアルバムをつくりました。
今でも近藤さんのことを「だいちゃん」と呼んでしまいます。
出会いから46年経ったか。。。
その出会いから20年後、アルバムつくりをお願いしました。それが2003年の「ここから」というファーストアルバム。
いまでも全く変わらぬ少年の瞳のだいちゃんは、世界に誇る素晴らしい音楽家ですから、やっぱり近藤さんと呼んだ方が良いとは思うのですが。。。
厳しく透徹したその人と向き合う私と私の歌。しっかり唄って弾いていこうと思います。
2月12日久米川すなふきんにて。
中川五郎さんとのライブ。オープニングは冨井祐輔くん。
今日読んだ新聞のコラムで、今から102年前に作られた「福島原町電波塔」の存在を知りました。
電波塔完成から2年後の9月1日、関東大震災が起こり、その電波塔から世界各地に知らせが発信されました。
すぐさま世界各地から救援物資が送られました。
チェコの新聞社にコラムを発表した人物がいました。
「日本で地面が振動したその瞬間、他の民族の足下の地面は振動しなかったとしても、私たちの地球は振動してひびがはいったのです。」カレル・チャペック
後にチェコの国民的作家と呼ばれるようになったチャペックです。チャペックははじめは国民新聞に在籍していたそうですが1920年代初頭、チェコスロバキア政府は共産主義運動への弾圧を強め、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ、民衆新聞(リドヴェー・ノヴィニ)へ兄と共に移籍したそうです。。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けました。兄のヨゼフはナチの収容所で、カレルもまた肺炎で1939年に没しています。
関東大震災に寄せた小さなコラム。世界を大きく俯瞰し、しかも小さな島国の出来事を自分事として思い馳せるチャペックの精神。
今日の一曲目は「FORTUNE」を唄いました。
五郎さんのステージは、聴く私に息つく間も与えてくれませんでした。3曲を除いて初めて聴く曲ばかりです。息つく間がないのだけれど、ところどころに可愛い歌があります。私は五郎さんのユーモアが大好きです。
途中で、グラミー受賞したボニーレイットの話もしてくれました。
五郎さんは、元来、賞というものには興味がないけれど、ボニーのつくった曲がsong of the yearを受賞してとてもうれしいと。「just like that」という曲は息子の臓器を提供した女性のもとに、その心臓をもらった男性が訪ねてくるというストーリー。彼女がインタビューで、「曲作りが大切。ジョンプラインのようなソングライターの曲。自分も長く彼の曲を唄ってきた。」と。
帰宅してからずっと彼女のインタビューを見ています。
国際通りから小道に入り
2月16日下北沢FLOWERS LOFTにて。
松田岳二くんという私よりずっと若い世代のひとが声をかけてくれました。きれいなライブハウスに50人ほどの人たちがいました。
松田”チャーベ”岳二、鈴木健介そして私。
終わってからも気軽に話しかけてくれる人たちがいました。
戦争のこと、音楽のこと、さっき唄った私の歌のこと、、いろいろ。嬉しかった。
歌は、、聴く人の心に届いた歌は、聴いた人の心から新たな波動をつくりだします。
それを感じる時が一番幸せな時です。
2月17日5年ぶりの沖縄です。
那覇空港に降り立つと生温かな風。23℃。
Bar TAGのガーニーさん明美さんと去年亡くなった知り合いの話をしました。
犬山から、京都から、滋賀から、兵庫から大阪から、そして沖縄も遠くから近くから。店の中はチャンプルーです。
わざわざ那覇で会うことが嬉しいです。
ながいようさんも翌日は大阪なのに顔を出してくれました。そして東京で会う顔とはちょっと違うゆったりとした雰囲気で少ししゃべりました。
今夜と同じ顔ぶれでこの店で会うことはないのかもしれません。
ホテルに帰っても胸が温かいままです。
みなさん、ありがとう!
那覇の桜は盛りすぎ
2月19日首里アルテ崎山にて。
アルテ崎山の美也子さんは会わない間に大きな病気をしました。リハビリを続けて今はお手伝いをする人たちに恵まれて店に立っています。お連れ合いシンジさんも元気です。
今回一緒にステージをしてくれるハットさん、彼は小田原から沖縄に移住しました。小田原の時代も少し知っていましたが、今日は初めてゆっくりと話しました。良い友達に恵まれて仕事も音楽も楽しくやっている。その仲間の人たちも今日は一緒です。ありがとうございます。
懐かしい顔が集まってくれました。
遠い沖縄だけではないのですが、唄って動くというのは私のような者には大仕事です。それができるようになったのは呼んでくれて、場所を用意してくれて、時には車に乗せてくれ、また家に泊めてくれたり食事の心配までしてくれる人たちのおかげです。それは今夜目の前にいる人たちの中にもいます。そして聴きに来てくれた人たち。東京からもありがとう。
2月20日石垣カフェタニファにて。
那覇空港から小さな旅客機で40分。
機内は若いカップルが多く、昼時、着いたら何を食べようか、そんな会話が聞こえてきます。
那覇空港の滑走路へ向かう途中に旅客機とは違う種類の小型飛行機が並ぶ場所があります。
那覇空港は航空自衛隊の基地が併設されていて、海自、陸自の飛行機の格納庫もあります。
「カッケー!」と後ろの若い人がいいました。
小型で二人乗りの、鼻先が尖がった、銀色に日の丸の赤の飛行機。戦闘機なんだろうか?
迷彩色の大型のヘリコプターもありました。
金網の向こうの基地の中だけではなく、こうして駆け寄って触れるところに、戦争へつながるものがありました。
そして、私たちはこれから石垣島へ楽しむために飛びます。
私の乗るこの大きな旅客機は繰り返される戦争によって生まれた技術の子供の一人でもあるのか。。。
そういうことをじっと考えながら、石垣島に到着をしました。
「カッケー!」と叫んでいた若者もタクシー乗り場に消えていきました。
タニファには覚えていてくれた人たちが集まってくれました。
前回は来てくれた友だちが昨年亡くなったことを知りました。明るい彼女の不在は寂しいです。
それから病を乗り越えて、会いに来てくれた友だちがいます。もう好きだった京都や東北には行けなくなっちゃったね。。。でも私が島に来ればこれからもアエルネ。またね。
石垣島の石垣
2月21日たかしの店にて。
島では、遠いところからの人にも出会います。
今日も、茨城からの人がいました。「島で何をするの?」
「毎日歩いて、夜は飲み歩き、それだけ。」2週間、季節ごとに過ごすのだそうです。
たかしの店手作りのステージ小上がりに立って、2時間唄いました。
中に、初めて石垣で唄ったときに聴いてくれた人がいました。あれは18年前、すけあくろという良い店で。佐渡山豊さんに連れてきてもらったのでした。やっぱり石垣までやってきてよかったな。
じっくりと聞いてくださった皆さん、ありがとう!
2月25日大阪淀屋橋にて、「やなぎ一周忌」
デリシャスシスターズ、デイジーヒル、古川豪、辻井貴子、北村謙、当日参加はできなかったけれど木崎豊、そして私も声をかけてもらいました。
昨年2月6日、やなぎ君が倒れた知らせをもらって、私はそのまま北海道の旅に出かけました。雪道を歩きながら「かえって来いよ、生きていてね、元気な姿で会うんだよ」ブツブツと祈りながら。。。。
ほんとうはすでにやなぎくんは亡くなっていたのだけれど、その知らせを受けとったのは江別でのライブの直後。
今日の集いには、その夜に一緒だった阿知波一道さんが、北海道今金町から来ていました。
阿知波さんの姿を見たら蘇る思いが溢れてきてしまいました。昨年2月16日江別のライブ、やなぎ君が倒れたことは公になっていなかったから、阿知波さんにはライブ後にそっと話そうと思っていました。アンコールでなにを唄いましょう?ときいたら「トンネルの唄」と阿知波さん。それもクロウハンマーバンジョーで。なんだかここにやなぎくんがやってきたようでした。
その直後に届いた2月9日に亡くなったという知らせを阿知波さんと静かに分け合いました。
私は、一年経って、今日はさっぱりとした気持ちで唄おうと思っていたのですが、そんなこんなで予定通りにはいきませんでした。
今日の集いは、やなぎくんにふさわしい飾り気のない静かで温かなものだったと感じました。
中心者の片山明さんはじめスタッフをかって出たみなさん、
終始、参加した全員に丁寧に接していた貴子さん、
とっておきの話をそれぞれのポケットから出し合った人たち、そしてやなぎくんもおつかれさん!
近しい人が亡くなると、その人と小さな約束をします。
守れていないものもあるのだけれど、また新しく約束をします。やなぎくんとした約束は、躓いたり止まったりしながらも果たしていこうと思っています。向こう側からは全部お見通しですものね。
2月23日の空
2月26日和泉府中の花海にて。
昨日は受付、今日は付き添い、働き者の典子さんと4年ぶりの和泉府中へ。
花海の店主はすでに酔っぱらっていました。私のことも「姉さん」と呼びます。私は一人っ子なので、姉さんと呼ばれてちょっといい気分。
この店でしか会えない人たちがあります。
そしてちょっぴりさみしがりやの店主を支える良い仲間があり、温かな場所です。今日も唄うことができました。
アンコール曲にハーモニカをお客で来ていたクニさんにつけてもらいました。
終わってからちょっと練習の仕方を教えてもらいましたが、音色が圧倒的に違います。20年以上松田幸一アリさんのハーモニカ教室に通っているのです。20年か。。。
沖縄のおかげで飛行機に4回も乗った2月です。
鈴木亜紀の名曲「夕暮れ飛行」の歌詞に
【この世のだれもが幸せならと、殊勝なことを願ったりして】
地上を離れて少し高いところに行くと、私も同じようなことを思います。アポロの飛行士が青い地球を見下ろしながら、平和を祈ったように。
時々は鳥の目が必要だな。。。
たとえ飛行機に乗らなくても、それこそ、想像の翼を広げた鳥になって。
電波塔から受け取ったニュースを自分の言葉にして人々に伝えたカレル・チャペックのように。
2月23日の虹と雲
那覇の国際通りのビルの陰で見てしまった、路上生活者であろうお婆。
ビルの二階から流れてくるレゲエの爆音に合わせて美しいエイサーを踊っていた。壁に向かって。ひとり。本当に美しい踊りだった。
この世のだれもが。。。。
重ね着と粕汁
元旦のカモたち
1月1日 神奈川では、元旦には暖かいことが多いと思います。今日も柔らかな日差しの一日でした。
まだ風邪の症状が抜けない正月となりましたが、世田谷まで出かけ、夕方には仙川近辺を散歩。2時間弱歩いてすっかり疲れてお腹が空きました。
夜は近しい者同士、そこに若者たちも参加して、すき焼きです。
山盛りの肉があれよあれよと消えていきます。グレタ・トゥーンベリーが見たら怒っちゃうなぁ。お正月です。
すき焼きは関東関西で違うといわれているけれど、お雑煮と同じように、家の数だけ味があるのでしょう。私も以前に教えてもらったのを思い出しながら焼く係になりました。
若い人と話をたくさんしました。実は60代70代の者より、たくさん話したがっていました。普段あまり機会がないからかな、、、戦争、政治、文化、、、家族、、、いろいろ。
世界は、社会は、困難なことばかりあって、実はここにいる一人ひとりだって抱える問題がある。そして今夜、ご馳走を食べながら、お互いの考えていることに耳を傾け、自分も語る。こんな時間、平和でなければ持つことはできない。相対的な刹那的な平和時間だけれど、鍋を囲み、過ごす、このひとときは幸せのなにものでもない。このひとときを持てることに感謝をします。
ふだん牛肉をたくさん食べつけてないので、肉を食べた夜はほんとうにおもしろい夢を見ます。初夢を楽しみに。
部屋干しの柿
1月5日国分寺gieeにて。
ギーの三輪さんから「年頭の一撃2023」というライブに声をかけてもらいました。
出演はイワイサトキ、中川五郎、そして私。
イワイさんの歌を初めて聴きました。ものすごくドスの効いた声と強い言葉なのに、どこか懐かしいメロディー、日本の良い民謡のような。それは共有しやすく優しいなあと思いました。五郎さんの新しい歌たちも同じように、強いはっきりした考えを唄っているのに、時々可愛かったりするのを、ヒューモア(人間的)のうただと思っています。私も思いをこめて唄いました。今年初ライブ、ありがとう!
1月6日横浜にて、84歳になる鶴間菩南座のタローさんを祝う会。主役のタローさんは店の入り口近くの座席で静かに聴いています。時々タバコを吸いに行くために杖で立ち上がります。舞台はズンズンと繰り広げられていきます。
二年前の誕生会、このステージの上で南正人さんが唄いながら倒れて逝きました。その場に居合わせた友だちの一人も去年亡くなった。
最後、沢山のミュージシャンの真ん中で、介助されてステージに上がってギターを弾く藤田ようすけさんの姿を見ることができました。この店のステージはまるであの世とこの世のクロスロードです。
帰り際に店の事務所にてスケジュールの予約をしました。
今年で再び唄い始めて20年になるので、腹を決めて節目の会をすることにしました。84歳でロックを愛し杖を振り踊る踊る人、病も受け入れギターを弾く人、、4時間近くそれを楽しむ人たち、、そんな場所にいたからその気になったのかもしれません。
20年なんて、成人式みたいなものです。ともあれ決めました。
1月8日江古田BUDDYにて。
e田橋crazys CD発売記念ライブ。
e田橋crazysはマンドリンとギター中心のアンサンブルです。
ここで使われるマンドリンは、クラシックマンドリン。後ろが丸いもの。このマンドリンを製作販売している嶋田茂さんの工房が飯田橋にあり、昨年夏に唄ったことがあります。その工房も都市計画でビル移転になるそうです。
今回は第三作目のアルバムで、その中、唯一のヴォーカル曲「はしのいえ」の歌を昨年夏、私の声で録音しました。
楽器を弾かずに唄うのはとても難しかったです。
ともあれ、発売記念ライブ、生で聴くのは私は初めて。楽曲も全部オリジナルなのです!
会場では作曲者の一人の女性とも話をしました。楽器曲のタイトル。言葉がない楽曲のタイトルに込める思いを尋ねると、彼女は「よく地名をつけることがある」というのです。
「聴く人にとって地名はイメージしやすい。その人だけの池袋や新宿があったりするから。。。」というのです。なるほど。。。
昼夜二部制の長い一日を、多くは初対面の、話してみると皆面白い人たちと過ごしました。
楽器の好きな人が沢山いて、私のダルシマーがモテモテでした。
それから、「高野君の焼き鳥屋」もうたったのですが、唄い終わってから、原発のこと、戦争のこと、話しかけてくれる若い人がいました。歌はこうして対話のきっかけをつくってくれました。
1月11日東中野じみへんにて。
二か月に一度唄う場所では、毎回いろいろ実験的なこともしてしまうのですが。準備をしながら、あれ、この曲もいいじゃない、こっちも久しぶりじゃない、、と、
大掃除の最中、畳裏に敷かれた古新聞の記事に夢中になってるような、そういう道草の時間が楽しいです。
今夜唄った曲で一番古いのは「凧」です。30年近く昔のうた。
人に聴いてもらうことも考えず自分のために作った歌にはちょっと特別な生命が宿っているような気がしました。
この店では客席にミュージシャンが沢山座っています。マンドリンとバンジョー、最後におつきあいありがとう。そして寒い夜出かけてくださった皆さんありがとう。ママみどりちゃん、とても久しぶりに笑顔をみることができてよかった。
1月14日友だちに誘ってもらいバロック時代の笛フラウト・トラヴェルソと、ヴァージナルという名前の鍵盤楽器を演奏するデュオ・リュタンのコンサートに行きました。
ヴァージナルはチェンバロと同じ発音の仕組み、鍵盤を押すと小さな爪が弦をはじきます。見た目が美しく、画家フェルメールもその姿をたびたび描いているという中世サロンの楽器。
今日弾かれていたヴァージナルは日本人が作ったということ。まさにフェルメールの絵を参考にした装飾で、日本の気候に合わせるために和紙を使っているという。
フラウト・トラヴェルソは穴が6つのシンプルな笛で、生で観て聴くのは初めての体験です。
こうして小さな会場で少人数の前で演奏するところだけは私とおんなじだなぁ、、笛は小さく軽いけれど、この鍵盤楽器は移動が大変だろうなあ。。
なかなか触れることはない音楽、声かけてくださってありがとう。
1月18日下北沢lawnにて。
小さいけれど、大きく感じる場所があって、それはどうしてなのかしら。照明の効果が大きいのでしょう。それから人数のわりに拍手が大きく感じることも理由の一つかもしれません。
今夜、お客さんは多くはなかったけれど、体感的には100人くらいの人の入る場所で唄っているような気分でした。
それから新しい歌をうたうのは、車のオイル交換したような感覚があります。
終わってから、店の夫妻に、「次回はいつにしましょうか?」と聞かれて、
「秋になるころ。。」と答えたら「え~、そんな先?」とあきれ顔。
そういえば、以前にほかの店でも同じように言ってしまい、「この店が嫌いなのか?」と言われてしまったことがありました。全くそんなつもりはないのですが、同じようなことをしたくないので少し準備の時間が欲しいだけの理由で。それだけ自分に余裕がなかったのです。
じゃあ6月頃にねと一件落着。
寒い中、みなさんありがとう!またここで大きな拍手を!
1月21日東中野ミュージックストリート初日にて。
3か所の会場を行ったり来たりします。そしてたくさんの音楽を聴き、たくさんの人たちと会って、あっという間の10時間です。
今日のために完成させた歌をうたいました。ジャクソンブラウンのつくった「Load Out~Stay」リクエストがあったので、いざとりかかってみると、これが本当に難しかった。
それでも昔から大好きな曲だったし、今までも一部だけなんとなく唄ったりしていたので、曲への敬意とミュージックストリートの参加者への想いの二つを言葉に込めてつくり上げようと思いました。
家を出て電車に乗っている間にも歌詞を書き換えたりと、、
じみへんでの自分のステージではドキドキしながら唄い切りました。よかったな、この清々しさに感謝。
遠くからやってきた友達の唄を聴いたり、合間にちょっと美味しいものをごちそうになったり。また明日。
1月22日ミュージックストリート二日目にて。
ここで聴くことができるのは、普段着の音楽。まだまだ聴いたことのなかった人たちのうたも沢山ある。浅はかな先入観を飛び越えて飛びこんでくる素敵な音楽も。たった20分に全霊こめ演奏する人たちが間断なく登場するのだから、その中で過ごすことは特別な普段着です。
サックスと笛の広瀬波子さん、そして昨年もぶっつけでお願いしたギターの藤縄てつやさんの二人には感謝です。二人とも何回ステージに上がっていたことでしょう。
お祭りは終わりましたが、参加した人たちの数だけ物語が生まれているのでしょう。
◆1月24日寒い夜、東京に来ているいとうたかおさんのライブに行きました。
何度も聞いているかもしれない話や歌であっても、その時々で感じ方が違います。
今夜は1969年大学1年の出会いを話してくれました。高田渡,加川良、岩井宏のコンサートに行って、コンサート後に楽屋まで行って渡さんと直接話をしたことから。。69年から70年代、カウンターで話を聴きながら私も自分の年表を心に広げてみます。
私は高校一年、訳も分からず音楽室の隅、夢中でギターを弾いていたころだ。中津川フォークジャンボリーには行けなかった。その代わり、東京のお茶の水YMCAのギター教室に行かせてもらった。
ライブ休憩時間、カウンターの隣に座っていたイサジツトムさんが、「僕は佳子さんより一つ下で、そのころはまだ田舎だったから、そういう世界はほど遠かった。」というようなことを言い始めた。それだから、求める思いは強烈だったと思います。
三上寛さんが、青森五所川原での少年時代、ギターのコードの押さえ方を知りたいために山を越えて遠くの町まで教えてもらいにいったという話を昔聴いたことがあります。
今夜、歌と話を聴きながら。。。
◆スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの「亜鉛の少年たち」を読み始めてひと月以上たっていますが、まだ読み終えません。寝る前の時間に半分布団にもぐって読んでいます。
戦場での体験を語る若者、戦死した息子の母親、それから看護師や衛生兵やその他諸々の事情で従軍した女性たち、彼らの話の聞き書きが詰まっている分厚い一冊。
背中に枕をあてて本を持ち上げて開いても、2ページくらいを読むのがやっとの日もあります。
1979年から89年まで9年1ヶ月と12日続いたソ連政府の行ったアフガニスタン軍事派遣。
1979年からの10年ころの私はといえば、ちょっと深刻な問題を抱えながらもなんとかもう一度新しく生きていこうとしていた時期だった。アフガンで起こっている戦争のことなど知ろうとはしていませんでした。
後になって知ったことばかり。それらも私にとっては遠い砂漠の地で繰り広げられた紛争のニュースのひとつ。
アレクシェーヴィチのおかげで小さいけれど沢山の真実の声を読むことができます。
「亜鉛の少年たち」が本となって出版されたのは1991年。その後、アフガニスタンで戦死した兵士の母親たちが作家を名誉棄損で提訴します。しかしこの裁判はもっと奥の深い問題を抱えているようです。
今読んでいる2022年版は、裁判の記録が本の三分の一ほどにわたり載っています。まだそこまで辿りついていません。
◆寒波襲来。我が家は古い建物だから隙間風だらけ、けっこう寒いです。
この季節には粕汁。ずいぶん前に大阪の蕎麦屋で、お通しに小さなお椀で粕汁が出てきたことがありました。お蕎麦の前に意外でしたがほっとできて嬉しかった。
大したものは入れないのですが、里芋が入るとトロっとクリームシチューのようで好きです。そして、一杯目は酒のお通しのようにご飯無しで食べます。最近は晩酌をしなくなったけれど、粕汁の湯気だけでお酒を飲んだような気分になります。二杯目は、ご飯と一緒。糠漬けも。
粕も糠もお米だなぁ。。。
今夜は三日目の粕汁です。まだ二日分はあるかな。
あとは、重ね着をいっぱいしています。家にいるときは外出の時の二倍は厚着しています。
ギターを背負って荷物を持って歩くときには、できるだけ軽いコートがいいなあと、最近はコートをネットの古着屋で見つけても、「何グラムですか?」と尋ねるので店の人にビックリされます。
そろそろゆっくりと、寒中見舞いと春の挨拶を書き始めようと思います。もうすぐ節分。桜の蕾。
heart of goldと点と点の邂逅
名残のバラに出会うとしばし眺めていたくなります。
秦野にて。
12月3日 朝まだき。親子ほどの年の差の二人で出発。
運転は若い歌うたい。助手席に年をとった歌うたい。
私はちょこんと座っているだけで何の役にも立ちませんが、それでもだれか横にいるだけで安心だといってくれる貴子さん。最近少し慣れてきたという運転。おつかれさま。
5時間ほどで着いた長野県阿智村清内路。閉校となった中学校のホールで小さなコンサート。唄う者たちは岡山、鳥取、石川、岐阜、福島、神奈川、そして地元長野各地から。一組2~3曲。思い描いていた以上の人たちが小さなコンサートを聴きに集まってきました。
機材や食事を皆で運び入れ、皆で唄って、また皆で片づけます。次の場所があるので大急ぎです。
少し山を下ると昼神温泉郷。旅館を貸し切って「雑花塾大忘年会」ここに音響をセットして夜通し唄うのです。雑花塾の創始者笠木透さんが亡くなる直前にもここで皆が集った話をこれまでも繰り返し耳にしていましたが、初参加の私には新鮮な時間。
新鮮に感じるのは生まれたばかりの曲が沢山唄われるからでもあります。皆、どんどん新しい歌を創ります。息をするように歌を創ります。そこにいるだけで全身に刺激を受けます。
トロっとした良い温泉と美味しい夕のご馳走と朝食、そしてにぎやかな笑顔。このエネルギーは「歌のように生きる」ことを実践している人たちが持っている力。
帰り道の中央道、山梨大月あたりからの富士。
12月9日国立のろーじな茶房にて、病を抱えた人と会いました。
余命を宣告されている彼は、思い浮かんだ人に会っていこうと決めたのだという。
二階の小さなテーブルをはさんで。大した話はしないけれど。そろそろ帰ろうかという頃に
「今度生まれるとしたら地球以外の星がいいな。戦争のない星。」という。
店を出て駅に向かう道すがら、私はとても小さなお守りのような数珠をあげた。最初彼は返せないからいいよと遠慮したけれど
「じゃあ、棺桶に入れてもらう。ありがとう。」と笑う顔はとても来年の桜を見ることはないだろうと宣告された人には見えなかった。
国立駅、私たちは、エレベーターの下でハグして別々のホームに上がりました。
12月10日茨城守屋ハコカフェにて。
昨年から誘ってもらう店の忘年会ライブ。
スーマー、広瀬波子、鈴木柚子、lico
そして、DJが盛り上げている骨董屋の店内。
皆がペさんと呼ぶ主の飯田さんが数日前から仕込んだ大量のご馳走。トリを務めるスーマーの歌声に身を震わせて泣いている女性達あり、踊るカップルあり、、
美味しいお酒、私も久しぶりに少し頂きました。
12月11日寒い一日、茨城から神奈川の秦野まで電車で縦断。佐渡山豊、国吉亮、よしだよしこの2days。
ツアーのタイトルは豊さんがつけました『復帰50年~点と点の邂逅する日に』
沖縄復帰50年の年に長い空白を経て一緒に唄う機会をくれた佐渡山さん。
そういえば、数年前に東京のあるイベントですれ違ったときに言葉交わして雪解けのような時間があった。あれは6月23日だった。そう、6月23日沖縄慰霊の日。忘れない。
ツアー初日は渋沢のぷかぷか島。この店も久しぶり。満員御礼。豊さんから、国吉亮さんにギターを弾いてもらうようにいわれ、「戦争の親玉たち」を一緒に。ギターが新しい言葉を叫んでいるようだった。初めて聴く圧倒的なギター。
豊さんは呟くように歌う。そして大音量なのに呟きは聴こえる。
ドゥチュイムニイは50年唄い続けている。その言葉は毎回新しい。そしてそのたびにしっかり耳を傾けなければ聞き逃してしまう言葉があることを、おしえてもらいます。
二日目は秦野にある月の輪にて。
ツアーには各地から佐渡山さんと一緒に旅をする人たちがいました。12月8日からですから1週間近く一緒の人もいます。佐渡山組という文字の染め抜かれたTシャツを着ている人もいます。そして客席の後ろでずっと一緒に唄っている人もいます。
皆をこんなに温かく幸せにしている中心に豊さんがいます。
点と点の邂逅、それぞれは点のような存在だけれど、それぞれが出会うことで創り出すもの。それがより良いものでありますように、人の幸せに役立つものでありますように。
秦野から帰宅する小田急線の隣の席には、札幌から聴きに来た人が座っています。この人とはちょうど一年前、渋谷から新宿でのほんの短い酒席で同席した間柄です。そしてそのあと北海道で大変お世話になったのです。点と点の邂逅はどこまでもどこまでも面白く不思議。
二日間お世話になった皆さん、遠くからも聞きに来てくださった皆さん、大切な友Yちゃんはじめスタッフのみなさん、亮さん、そして豊さん、ありがとうございました。
12月15日 前日から喉が痛く風邪の症状が始まりました。
家においてあるcovid19抗原検査キットで調べても陰性でした。
朝になって近くの小さな医院では検査ができないということで、出かける前にもう一度調べるとうっすらと陽性反応。
発熱外来に電話をすると、それは間違いないので病院までくる必要はないといわれ、診断は検査キットの写真をメールで送って。オンラインにて診療は終わり。
今日から唄いに行く場所に連絡をして。思いつく限りの連絡をして。それでも笠岡まで行ってしまった人あり。。。寒い夜に申し訳ありませんでした。
そして、大鍋にたっぷりのスープとかぼちゃの煮つけを作り始めました。ご飯も炊いて。。初日は熱もなく、軽症のような気もして、食欲もあったのです。
辛かったのは二日目、三日目。。。四日あたり。。。
1週間の在宅。何かできるかしらと思っていましたが、ボーっと過ごすだけでした。ぼんやりとYouTubeの画面を眺めているのが精いっぱい。横になっているより背中を起こしている方が息が楽です。
味覚もあまりなかったけれど、食欲があって助かり大量のスープとかぼちゃ作っておいてよかった。
罹らないに越したことはないけれど、こういうものなのだと知ったことは貴重な体験でした。不安の色合いが変わりました。
岡山のカフェド萌、鳥取鹿野町、米子大山町、行って唄うことができませんでした。ご心配をおかけした皆さん、また必ず機会がありますように。
甘いものが美味しく感じます。
今月の初めに頂いたシュトーレンがすっかり熟成していました。
12月22日京都わからん屋にて。
声がちゃんと出ない状態でしたが、楽しみにしていた人たちで客席は埋まっていくのをみながら、今夜京都に来ることができて本当に良かったと思いました。
前夜は出かけることにかなり不安になっていたからです。
共演の裏猫キャバレー二人のステージを見るのは初めてでした。
ピアノの闇斗さんは昔々ケメのファンだったのだという。全身黒装束にヘルメットという舞台衣装の彼女が「バイオリンのお稽古」を声色で唄うとちょっとコワイものがにじみ出てきます。それから板橋文夫作曲の「グッドバイ」浅川マキさんの、これをスナフさんが唄う世界も以外でした。
平賀さんとはつい2か月前に会っているのだけれど、ギターを持ってわからん屋の階段を上って楽しく3曲もうたってくれました。
そして、もう一人、園部大介くん。店に入るなり、唄ってと言われてびっくりしたことでしょう。
緊張したといいながら、長い物語の歌をやってくれました。
大介君と会うのはかれこれ20年ぶりです。
まだ唄おうかどうしようか迷っている頃の私を見つけてくれた彼はその時まだ10代。高校を出てしばらくふらふらとしていたころなんだという。立場は違っていてもお互いに漠然とした不安と同時に根拠のない夢のようなものを抱えていた二人が町の小さなライブバーで出会ったのかな。。。
そのあと私がボチボチと歌い始めて、それを何度か聞きに来てくれて、最後に会ったのは石垣島、離島の製糖工場の季節労働をしていると言っていた。
そのあと京都のライブに来てくれたりしたそうだけれど、気づいていなかった。
北海道の鮭缶工場でのバイトの経験を唄った曲は、とても良い歌で真っすぐ心に届きました。聴きながら、不思議な縁に思いが溢れました。今は京都に定住して、子供もいるのだという。唄っている人になっていたことがうれしい。そして私も唄い続けていてよかった。
自分のステージはいつもの半分ほどで許してもらいました。
裏猫キャバレーと一緒に、やなぎくんの「旅という生活 生活という旅」が唄えたこともよかった。裏猫の二人の音も優しかった。
山では雪が降っているような寒い夜でしたが、皆さん本当にありがとうございました。
12月23日岡山に移動。
翌日の禁酒會館マンスリーライブのため、OZAKI UNITと一緒にリハーサルをしました。
5月新緑の岡山ツアーが終わってしばらくしてから、尾崎ツトムさんと、12月はどんなステージにしたらよいかという話をしました。
いろいろ共演者の顔は浮かんだのですが、一番近くにその相手は存在していました。マンスリーライブをやり続けてきたOZAKI UNITです。
ギターの黒瀬尚彦さん、パーカッション渡辺学さん、キーボード大谷哲子さん、岡山に行けば必ず会う人たちなのに、私もバンドの一人になって唄うのは初めてです。
私の曲を3曲。そして尾崎さんの曲を1曲。私の曲はところどころ込み入っていて、何度か実際にやってみないとならないので、遅くまで付き合ってもらいました。バンドは楽しいものです。
あとは私の声がちゃんと出ますように。
12月24日禁酒會館にて。
OZAKI UNITのステージ、私は「夜明け」という新曲をリクエストしました。先日、昼神温泉で初めて聴いてとても感動したからです。社会の、世界の現実の闇に、平和の夜明けは遠く感じてしまうことがばかりだけれども、夜明けを信じて希望を捨てずに行動すること、それこそが「夜明け」なのだ!という強い叫びの歌でした。何度も聞きたい曲の一つとなりました。
私の曲「吹いていった風」「Sally Ann」「崩れ落ちるものを感じるかい?」、よくぞ短時間でここまでがっぷり四つに組んで演奏してもらいました。どの曲もパーカッションのビートとギターとキーボードの彩がしっかりと歌を支えてくれました。
最後に笠木透さんと尾崎ツトムさんの歌「メープルシロップ」を尾崎さんとデュエットできたことは嬉しかったです。
生前のピート・シーガー手作りのメープルシロップが人伝えに笠木さんの許にやってきて、つくられた曲だそうです。
偉大なフォークソングの父の焚いた砂糖カエデの樹液というだけで大きなロマンの物語です。それを受け取った「歌のように生きる」ことを生きた人が創った歌。歌はこうして広がれば広がるほどにその精神は薄まることはないんだ!とそんなことを思いながら唄いました。
寒い夜、禁酒會館の二階に足を運んでくださった皆さん、ありがとうございました。
すべてが終わり、ホテルに戻りましたが、やはり会っておこうと思う人あり、再びコートを着てその人の店に顔を出しました。
イヴということで小さなバーは賑わっていて、私も泡の立つワインを一口ごちそうになりました。またね、来年ね。会おうね。
翌日帰路に就く前に市場恵子さんに連れて行ってもらった「ぽん太」という食堂。美味しい魚とてんぷらの定食をごちそうになり女将の横田都志子さんから、 永瀬清子の詩を特集した雑誌を渡してもらいました。永瀬清子という詩人の言葉に触れるのは初めてのことです。
未だ、体と頭がボーっとした状態ですが、皆さんに支えてもらって今年最後の旅が無事にできたこと、本当にありがとうございました。
帰りの新幹線、富士山が美しく、新横浜では深い色の夕焼けが待っていてくれました。
12月30日亀有idboxにて。
喉の調子がちょっとぶり返して今年最後のライブ。
では、せめてもと、大鍋にカレー味のシチューをつくって持っていくことにしました。容器を持ったらギターは持てませんでした。
しかし、kidboxにはギターが売るほどあるのです。
なんとかカレーを運んだら、店の奥にはギルドとギブソンの重厚なギターが2本待っていました。それとマウンテンダルシマーも。
というわけで、借り物のギターはなかなかに手強かったです。ギルドは見た目より優しい音でした。ギブソンは弾きこなせなかったな。
先月ニールヤングのHeart of Goldを唄うために買ったハーモニカは少しだけマシになりました。Heart of Goldを唄うと勇気が湧いてきます。
しかし、唄うにつれて声がかすれて、気になると集中が途切れそうで歌詞が何度も飛びました。申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、ほんとにカレー持ってきてよかった!
10人ほどの顔のわかる者同士、持ち寄ったお寿司やパンやワイン、そして温かな鍋が2種類。
毎年この日に行う小さなライブ。また来年も皆で温まれますように。
スヴェトラーナ・アレクシェービィチの新しい本を読み始めたところです。アフガン戦争で戦ったソ連兵と家族の証言を聴きとった分厚い本です。初めの一人の母の証言だけで、もうやめてくれ!と叫びたい気持ちになります。これを読み切れるかな。。。とおもったりします。
ある新聞に載ったこの本の書評があります。
著者は同時代の「生きた声、生きた運命」を誠実に記録し、
「どうしたら、悪を増長させることなく悪の中を生き抜けるのか」を問う。
年末にいろいろなところから届いた美味しいもの嬉しいものが玄関先に置いてあります。
深谷のネギ、北海道のジャガイモ、愛媛からはミカンと一緒に松飾までありました。まだこれから飾るところ。。一夜飾りになってしまうけれど。お土産にお餅も、お米もありました。お米とお餅があると、なんだか大丈夫な気持ちが湧いてきます。
それから、コロナ感染の知らせをホームページに載せた翌日にCDの注文がありました。偶然かもしれないけれどとても嬉しかったです。
そしてカレンダーもたくさん。
ありがとうございます。
しっかり養生をして、適度に運動をして、晴れ晴れとした新年のスタートをします。
このブログをどこかで読んでくださっているあなた、いつもいつもありがとうございます!
会ったことのない人もいるのでしょう。。。今更ながらに不思議な縁に感謝します。