重ね着と粕汁
元旦のカモたち
1月1日 神奈川では、元旦には暖かいことが多いと思います。今日も柔らかな日差しの一日でした。
まだ風邪の症状が抜けない正月となりましたが、世田谷まで出かけ、夕方には仙川近辺を散歩。2時間弱歩いてすっかり疲れてお腹が空きました。
夜は近しい者同士、そこに若者たちも参加して、すき焼きです。
山盛りの肉があれよあれよと消えていきます。グレタ・トゥーンベリーが見たら怒っちゃうなぁ。お正月です。
すき焼きは関東関西で違うといわれているけれど、お雑煮と同じように、家の数だけ味があるのでしょう。私も以前に教えてもらったのを思い出しながら焼く係になりました。
若い人と話をたくさんしました。実は60代70代の者より、たくさん話したがっていました。普段あまり機会がないからかな、、、戦争、政治、文化、、、家族、、、いろいろ。
世界は、社会は、困難なことばかりあって、実はここにいる一人ひとりだって抱える問題がある。そして今夜、ご馳走を食べながら、お互いの考えていることに耳を傾け、自分も語る。こんな時間、平和でなければ持つことはできない。相対的な刹那的な平和時間だけれど、鍋を囲み、過ごす、このひとときは幸せのなにものでもない。このひとときを持てることに感謝をします。
ふだん牛肉をたくさん食べつけてないので、肉を食べた夜はほんとうにおもしろい夢を見ます。初夢を楽しみに。
部屋干しの柿
1月5日国分寺gieeにて。
ギーの三輪さんから「年頭の一撃2023」というライブに声をかけてもらいました。
出演はイワイサトキ、中川五郎、そして私。
イワイさんの歌を初めて聴きました。ものすごくドスの効いた声と強い言葉なのに、どこか懐かしいメロディー、日本の良い民謡のような。それは共有しやすく優しいなあと思いました。五郎さんの新しい歌たちも同じように、強いはっきりした考えを唄っているのに、時々可愛かったりするのを、ヒューモア(人間的)のうただと思っています。私も思いをこめて唄いました。今年初ライブ、ありがとう!
1月6日横浜にて、84歳になる鶴間菩南座のタローさんを祝う会。主役のタローさんは店の入り口近くの座席で静かに聴いています。時々タバコを吸いに行くために杖で立ち上がります。舞台はズンズンと繰り広げられていきます。
二年前の誕生会、このステージの上で南正人さんが唄いながら倒れて逝きました。その場に居合わせた友だちの一人も去年亡くなった。
最後、沢山のミュージシャンの真ん中で、介助されてステージに上がってギターを弾く藤田ようすけさんの姿を見ることができました。この店のステージはまるであの世とこの世のクロスロードです。
帰り際に店の事務所にてスケジュールの予約をしました。
今年で再び唄い始めて20年になるので、腹を決めて節目の会をすることにしました。84歳でロックを愛し杖を振り踊る踊る人、病も受け入れギターを弾く人、、4時間近くそれを楽しむ人たち、、そんな場所にいたからその気になったのかもしれません。
20年なんて、成人式みたいなものです。ともあれ決めました。
1月8日江古田BUDDYにて。
e田橋crazys CD発売記念ライブ。
e田橋crazysはマンドリンとギター中心のアンサンブルです。
ここで使われるマンドリンは、クラシックマンドリン。後ろが丸いもの。このマンドリンを製作販売している嶋田茂さんの工房が飯田橋にあり、昨年夏に唄ったことがあります。その工房も都市計画でビル移転になるそうです。
今回は第三作目のアルバムで、その中、唯一のヴォーカル曲「はしのいえ」の歌を昨年夏、私の声で録音しました。
楽器を弾かずに唄うのはとても難しかったです。
ともあれ、発売記念ライブ、生で聴くのは私は初めて。楽曲も全部オリジナルなのです!
会場では作曲者の一人の女性とも話をしました。楽器曲のタイトル。言葉がない楽曲のタイトルに込める思いを尋ねると、彼女は「よく地名をつけることがある」というのです。
「聴く人にとって地名はイメージしやすい。その人だけの池袋や新宿があったりするから。。。」というのです。なるほど。。。
昼夜二部制の長い一日を、多くは初対面の、話してみると皆面白い人たちと過ごしました。
楽器の好きな人が沢山いて、私のダルシマーがモテモテでした。
それから、「高野君の焼き鳥屋」もうたったのですが、唄い終わってから、原発のこと、戦争のこと、話しかけてくれる若い人がいました。歌はこうして対話のきっかけをつくってくれました。
1月11日東中野じみへんにて。
二か月に一度唄う場所では、毎回いろいろ実験的なこともしてしまうのですが。準備をしながら、あれ、この曲もいいじゃない、こっちも久しぶりじゃない、、と、
大掃除の最中、畳裏に敷かれた古新聞の記事に夢中になってるような、そういう道草の時間が楽しいです。
今夜唄った曲で一番古いのは「凧」です。30年近く昔のうた。
人に聴いてもらうことも考えず自分のために作った歌にはちょっと特別な生命が宿っているような気がしました。
この店では客席にミュージシャンが沢山座っています。マンドリンとバンジョー、最後におつきあいありがとう。そして寒い夜出かけてくださった皆さんありがとう。ママみどりちゃん、とても久しぶりに笑顔をみることができてよかった。
1月14日友だちに誘ってもらいバロック時代の笛フラウト・トラヴェルソと、ヴァージナルという名前の鍵盤楽器を演奏するデュオ・リュタンのコンサートに行きました。
ヴァージナルはチェンバロと同じ発音の仕組み、鍵盤を押すと小さな爪が弦をはじきます。見た目が美しく、画家フェルメールもその姿をたびたび描いているという中世サロンの楽器。
今日弾かれていたヴァージナルは日本人が作ったということ。まさにフェルメールの絵を参考にした装飾で、日本の気候に合わせるために和紙を使っているという。
フラウト・トラヴェルソは穴が6つのシンプルな笛で、生で観て聴くのは初めての体験です。
こうして小さな会場で少人数の前で演奏するところだけは私とおんなじだなぁ、、笛は小さく軽いけれど、この鍵盤楽器は移動が大変だろうなあ。。
なかなか触れることはない音楽、声かけてくださってありがとう。
1月18日下北沢lawnにて。
小さいけれど、大きく感じる場所があって、それはどうしてなのかしら。照明の効果が大きいのでしょう。それから人数のわりに拍手が大きく感じることも理由の一つかもしれません。
今夜、お客さんは多くはなかったけれど、体感的には100人くらいの人の入る場所で唄っているような気分でした。
それから新しい歌をうたうのは、車のオイル交換したような感覚があります。
終わってから、店の夫妻に、「次回はいつにしましょうか?」と聞かれて、
「秋になるころ。。」と答えたら「え~、そんな先?」とあきれ顔。
そういえば、以前にほかの店でも同じように言ってしまい、「この店が嫌いなのか?」と言われてしまったことがありました。全くそんなつもりはないのですが、同じようなことをしたくないので少し準備の時間が欲しいだけの理由で。それだけ自分に余裕がなかったのです。
じゃあ6月頃にねと一件落着。
寒い中、みなさんありがとう!またここで大きな拍手を!
1月21日東中野ミュージックストリート初日にて。
3か所の会場を行ったり来たりします。そしてたくさんの音楽を聴き、たくさんの人たちと会って、あっという間の10時間です。
今日のために完成させた歌をうたいました。ジャクソンブラウンのつくった「Load Out~Stay」リクエストがあったので、いざとりかかってみると、これが本当に難しかった。
それでも昔から大好きな曲だったし、今までも一部だけなんとなく唄ったりしていたので、曲への敬意とミュージックストリートの参加者への想いの二つを言葉に込めてつくり上げようと思いました。
家を出て電車に乗っている間にも歌詞を書き換えたりと、、
じみへんでの自分のステージではドキドキしながら唄い切りました。よかったな、この清々しさに感謝。
遠くからやってきた友達の唄を聴いたり、合間にちょっと美味しいものをごちそうになったり。また明日。
1月22日ミュージックストリート二日目にて。
ここで聴くことができるのは、普段着の音楽。まだまだ聴いたことのなかった人たちのうたも沢山ある。浅はかな先入観を飛び越えて飛びこんでくる素敵な音楽も。たった20分に全霊こめ演奏する人たちが間断なく登場するのだから、その中で過ごすことは特別な普段着です。
サックスと笛の広瀬波子さん、そして昨年もぶっつけでお願いしたギターの藤縄てつやさんの二人には感謝です。二人とも何回ステージに上がっていたことでしょう。
お祭りは終わりましたが、参加した人たちの数だけ物語が生まれているのでしょう。
◆1月24日寒い夜、東京に来ているいとうたかおさんのライブに行きました。
何度も聞いているかもしれない話や歌であっても、その時々で感じ方が違います。
今夜は1969年大学1年の出会いを話してくれました。高田渡,加川良、岩井宏のコンサートに行って、コンサート後に楽屋まで行って渡さんと直接話をしたことから。。69年から70年代、カウンターで話を聴きながら私も自分の年表を心に広げてみます。
私は高校一年、訳も分からず音楽室の隅、夢中でギターを弾いていたころだ。中津川フォークジャンボリーには行けなかった。その代わり、東京のお茶の水YMCAのギター教室に行かせてもらった。
ライブ休憩時間、カウンターの隣に座っていたイサジツトムさんが、「僕は佳子さんより一つ下で、そのころはまだ田舎だったから、そういう世界はほど遠かった。」というようなことを言い始めた。それだから、求める思いは強烈だったと思います。
三上寛さんが、青森五所川原での少年時代、ギターのコードの押さえ方を知りたいために山を越えて遠くの町まで教えてもらいにいったという話を昔聴いたことがあります。
今夜、歌と話を聴きながら。。。
◆スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの「亜鉛の少年たち」を読み始めてひと月以上たっていますが、まだ読み終えません。寝る前の時間に半分布団にもぐって読んでいます。
戦場での体験を語る若者、戦死した息子の母親、それから看護師や衛生兵やその他諸々の事情で従軍した女性たち、彼らの話の聞き書きが詰まっている分厚い一冊。
背中に枕をあてて本を持ち上げて開いても、2ページくらいを読むのがやっとの日もあります。
1979年から89年まで9年1ヶ月と12日続いたソ連政府の行ったアフガニスタン軍事派遣。
1979年からの10年ころの私はといえば、ちょっと深刻な問題を抱えながらもなんとかもう一度新しく生きていこうとしていた時期だった。アフガンで起こっている戦争のことなど知ろうとはしていませんでした。
後になって知ったことばかり。それらも私にとっては遠い砂漠の地で繰り広げられた紛争のニュースのひとつ。
アレクシェーヴィチのおかげで小さいけれど沢山の真実の声を読むことができます。
「亜鉛の少年たち」が本となって出版されたのは1991年。その後、アフガニスタンで戦死した兵士の母親たちが作家を名誉棄損で提訴します。しかしこの裁判はもっと奥の深い問題を抱えているようです。
今読んでいる2022年版は、裁判の記録が本の三分の一ほどにわたり載っています。まだそこまで辿りついていません。
◆寒波襲来。我が家は古い建物だから隙間風だらけ、けっこう寒いです。
この季節には粕汁。ずいぶん前に大阪の蕎麦屋で、お通しに小さなお椀で粕汁が出てきたことがありました。お蕎麦の前に意外でしたがほっとできて嬉しかった。
大したものは入れないのですが、里芋が入るとトロっとクリームシチューのようで好きです。そして、一杯目は酒のお通しのようにご飯無しで食べます。最近は晩酌をしなくなったけれど、粕汁の湯気だけでお酒を飲んだような気分になります。二杯目は、ご飯と一緒。糠漬けも。
粕も糠もお米だなぁ。。。
今夜は三日目の粕汁です。まだ二日分はあるかな。
あとは、重ね着をいっぱいしています。家にいるときは外出の時の二倍は厚着しています。
ギターを背負って荷物を持って歩くときには、できるだけ軽いコートがいいなあと、最近はコートをネットの古着屋で見つけても、「何グラムですか?」と尋ねるので店の人にビックリされます。
そろそろゆっくりと、寒中見舞いと春の挨拶を書き始めようと思います。もうすぐ節分。桜の蕾。
heart of goldと点と点の邂逅
名残のバラに出会うとしばし眺めていたくなります。
秦野にて。
12月3日 朝まだき。親子ほどの年の差の二人で出発。
運転は若い歌うたい。助手席に年をとった歌うたい。
私はちょこんと座っているだけで何の役にも立ちませんが、それでもだれか横にいるだけで安心だといってくれる貴子さん。最近少し慣れてきたという運転。おつかれさま。
5時間ほどで着いた長野県阿智村清内路。閉校となった中学校のホールで小さなコンサート。唄う者たちは岡山、鳥取、石川、岐阜、福島、神奈川、そして地元長野各地から。一組2~3曲。思い描いていた以上の人たちが小さなコンサートを聴きに集まってきました。
機材や食事を皆で運び入れ、皆で唄って、また皆で片づけます。次の場所があるので大急ぎです。
少し山を下ると昼神温泉郷。旅館を貸し切って「雑花塾大忘年会」ここに音響をセットして夜通し唄うのです。雑花塾の創始者笠木透さんが亡くなる直前にもここで皆が集った話をこれまでも繰り返し耳にしていましたが、初参加の私には新鮮な時間。
新鮮に感じるのは生まれたばかりの曲が沢山唄われるからでもあります。皆、どんどん新しい歌を創ります。息をするように歌を創ります。そこにいるだけで全身に刺激を受けます。
トロっとした良い温泉と美味しい夕のご馳走と朝食、そしてにぎやかな笑顔。このエネルギーは「歌のように生きる」ことを実践している人たちが持っている力。
帰り道の中央道、山梨大月あたりからの富士。
12月9日国立のろーじな茶房にて、病を抱えた人と会いました。
余命を宣告されている彼は、思い浮かんだ人に会っていこうと決めたのだという。
二階の小さなテーブルをはさんで。大した話はしないけれど。そろそろ帰ろうかという頃に
「今度生まれるとしたら地球以外の星がいいな。戦争のない星。」という。
店を出て駅に向かう道すがら、私はとても小さなお守りのような数珠をあげた。最初彼は返せないからいいよと遠慮したけれど
「じゃあ、棺桶に入れてもらう。ありがとう。」と笑う顔はとても来年の桜を見ることはないだろうと宣告された人には見えなかった。
国立駅、私たちは、エレベーターの下でハグして別々のホームに上がりました。
12月10日茨城守屋ハコカフェにて。
昨年から誘ってもらう店の忘年会ライブ。
スーマー、広瀬波子、鈴木柚子、lico
そして、DJが盛り上げている骨董屋の店内。
皆がペさんと呼ぶ主の飯田さんが数日前から仕込んだ大量のご馳走。トリを務めるスーマーの歌声に身を震わせて泣いている女性達あり、踊るカップルあり、、
美味しいお酒、私も久しぶりに少し頂きました。
12月11日寒い一日、茨城から神奈川の秦野まで電車で縦断。佐渡山豊、国吉亮、よしだよしこの2days。
ツアーのタイトルは豊さんがつけました『復帰50年~点と点の邂逅する日に』
沖縄復帰50年の年に長い空白を経て一緒に唄う機会をくれた佐渡山さん。
そういえば、数年前に東京のあるイベントですれ違ったときに言葉交わして雪解けのような時間があった。あれは6月23日だった。そう、6月23日沖縄慰霊の日。忘れない。
ツアー初日は渋沢のぷかぷか島。この店も久しぶり。満員御礼。豊さんから、国吉亮さんにギターを弾いてもらうようにいわれ、「戦争の親玉たち」を一緒に。ギターが新しい言葉を叫んでいるようだった。初めて聴く圧倒的なギター。
豊さんは呟くように歌う。そして大音量なのに呟きは聴こえる。
ドゥチュイムニイは50年唄い続けている。その言葉は毎回新しい。そしてそのたびにしっかり耳を傾けなければ聞き逃してしまう言葉があることを、おしえてもらいます。
二日目は秦野にある月の輪にて。
ツアーには各地から佐渡山さんと一緒に旅をする人たちがいました。12月8日からですから1週間近く一緒の人もいます。佐渡山組という文字の染め抜かれたTシャツを着ている人もいます。そして客席の後ろでずっと一緒に唄っている人もいます。
皆をこんなに温かく幸せにしている中心に豊さんがいます。
点と点の邂逅、それぞれは点のような存在だけれど、それぞれが出会うことで創り出すもの。それがより良いものでありますように、人の幸せに役立つものでありますように。
秦野から帰宅する小田急線の隣の席には、札幌から聴きに来た人が座っています。この人とはちょうど一年前、渋谷から新宿でのほんの短い酒席で同席した間柄です。そしてそのあと北海道で大変お世話になったのです。点と点の邂逅はどこまでもどこまでも面白く不思議。
二日間お世話になった皆さん、遠くからも聞きに来てくださった皆さん、大切な友Yちゃんはじめスタッフのみなさん、亮さん、そして豊さん、ありがとうございました。
12月15日 前日から喉が痛く風邪の症状が始まりました。
家においてあるcovid19抗原検査キットで調べても陰性でした。
朝になって近くの小さな医院では検査ができないということで、出かける前にもう一度調べるとうっすらと陽性反応。
発熱外来に電話をすると、それは間違いないので病院までくる必要はないといわれ、診断は検査キットの写真をメールで送って。オンラインにて診療は終わり。
今日から唄いに行く場所に連絡をして。思いつく限りの連絡をして。それでも笠岡まで行ってしまった人あり。。。寒い夜に申し訳ありませんでした。
そして、大鍋にたっぷりのスープとかぼちゃの煮つけを作り始めました。ご飯も炊いて。。初日は熱もなく、軽症のような気もして、食欲もあったのです。
辛かったのは二日目、三日目。。。四日あたり。。。
1週間の在宅。何かできるかしらと思っていましたが、ボーっと過ごすだけでした。ぼんやりとYouTubeの画面を眺めているのが精いっぱい。横になっているより背中を起こしている方が息が楽です。
味覚もあまりなかったけれど、食欲があって助かり大量のスープとかぼちゃ作っておいてよかった。
罹らないに越したことはないけれど、こういうものなのだと知ったことは貴重な体験でした。不安の色合いが変わりました。
岡山のカフェド萌、鳥取鹿野町、米子大山町、行って唄うことができませんでした。ご心配をおかけした皆さん、また必ず機会がありますように。
甘いものが美味しく感じます。
今月の初めに頂いたシュトーレンがすっかり熟成していました。
12月22日京都わからん屋にて。
声がちゃんと出ない状態でしたが、楽しみにしていた人たちで客席は埋まっていくのをみながら、今夜京都に来ることができて本当に良かったと思いました。
前夜は出かけることにかなり不安になっていたからです。
共演の裏猫キャバレー二人のステージを見るのは初めてでした。
ピアノの闇斗さんは昔々ケメのファンだったのだという。全身黒装束にヘルメットという舞台衣装の彼女が「バイオリンのお稽古」を声色で唄うとちょっとコワイものがにじみ出てきます。それから板橋文夫作曲の「グッドバイ」浅川マキさんの、これをスナフさんが唄う世界も以外でした。
平賀さんとはつい2か月前に会っているのだけれど、ギターを持ってわからん屋の階段を上って楽しく3曲もうたってくれました。
そして、もう一人、園部大介くん。店に入るなり、唄ってと言われてびっくりしたことでしょう。
緊張したといいながら、長い物語の歌をやってくれました。
大介君と会うのはかれこれ20年ぶりです。
まだ唄おうかどうしようか迷っている頃の私を見つけてくれた彼はその時まだ10代。高校を出てしばらくふらふらとしていたころなんだという。立場は違っていてもお互いに漠然とした不安と同時に根拠のない夢のようなものを抱えていた二人が町の小さなライブバーで出会ったのかな。。。
そのあと私がボチボチと歌い始めて、それを何度か聞きに来てくれて、最後に会ったのは石垣島、離島の製糖工場の季節労働をしていると言っていた。
そのあと京都のライブに来てくれたりしたそうだけれど、気づいていなかった。
北海道の鮭缶工場でのバイトの経験を唄った曲は、とても良い歌で真っすぐ心に届きました。聴きながら、不思議な縁に思いが溢れました。今は京都に定住して、子供もいるのだという。唄っている人になっていたことがうれしい。そして私も唄い続けていてよかった。
自分のステージはいつもの半分ほどで許してもらいました。
裏猫キャバレーと一緒に、やなぎくんの「旅という生活 生活という旅」が唄えたこともよかった。裏猫の二人の音も優しかった。
山では雪が降っているような寒い夜でしたが、皆さん本当にありがとうございました。
12月23日岡山に移動。
翌日の禁酒會館マンスリーライブのため、OZAKI UNITと一緒にリハーサルをしました。
5月新緑の岡山ツアーが終わってしばらくしてから、尾崎ツトムさんと、12月はどんなステージにしたらよいかという話をしました。
いろいろ共演者の顔は浮かんだのですが、一番近くにその相手は存在していました。マンスリーライブをやり続けてきたOZAKI UNITです。
ギターの黒瀬尚彦さん、パーカッション渡辺学さん、キーボード大谷哲子さん、岡山に行けば必ず会う人たちなのに、私もバンドの一人になって唄うのは初めてです。
私の曲を3曲。そして尾崎さんの曲を1曲。私の曲はところどころ込み入っていて、何度か実際にやってみないとならないので、遅くまで付き合ってもらいました。バンドは楽しいものです。
あとは私の声がちゃんと出ますように。
12月24日禁酒會館にて。
OZAKI UNITのステージ、私は「夜明け」という新曲をリクエストしました。先日、昼神温泉で初めて聴いてとても感動したからです。社会の、世界の現実の闇に、平和の夜明けは遠く感じてしまうことがばかりだけれども、夜明けを信じて希望を捨てずに行動すること、それこそが「夜明け」なのだ!という強い叫びの歌でした。何度も聞きたい曲の一つとなりました。
私の曲「吹いていった風」「Sally Ann」「崩れ落ちるものを感じるかい?」、よくぞ短時間でここまでがっぷり四つに組んで演奏してもらいました。どの曲もパーカッションのビートとギターとキーボードの彩がしっかりと歌を支えてくれました。
最後に笠木透さんと尾崎ツトムさんの歌「メープルシロップ」を尾崎さんとデュエットできたことは嬉しかったです。
生前のピート・シーガー手作りのメープルシロップが人伝えに笠木さんの許にやってきて、つくられた曲だそうです。
偉大なフォークソングの父の焚いた砂糖カエデの樹液というだけで大きなロマンの物語です。それを受け取った「歌のように生きる」ことを生きた人が創った歌。歌はこうして広がれば広がるほどにその精神は薄まることはないんだ!とそんなことを思いながら唄いました。
寒い夜、禁酒會館の二階に足を運んでくださった皆さん、ありがとうございました。
すべてが終わり、ホテルに戻りましたが、やはり会っておこうと思う人あり、再びコートを着てその人の店に顔を出しました。
イヴということで小さなバーは賑わっていて、私も泡の立つワインを一口ごちそうになりました。またね、来年ね。会おうね。
翌日帰路に就く前に市場恵子さんに連れて行ってもらった「ぽん太」という食堂。美味しい魚とてんぷらの定食をごちそうになり女将の横田都志子さんから、 永瀬清子の詩を特集した雑誌を渡してもらいました。永瀬清子という詩人の言葉に触れるのは初めてのことです。
未だ、体と頭がボーっとした状態ですが、皆さんに支えてもらって今年最後の旅が無事にできたこと、本当にありがとうございました。
帰りの新幹線、富士山が美しく、新横浜では深い色の夕焼けが待っていてくれました。
12月30日亀有idboxにて。
喉の調子がちょっとぶり返して今年最後のライブ。
では、せめてもと、大鍋にカレー味のシチューをつくって持っていくことにしました。容器を持ったらギターは持てませんでした。
しかし、kidboxにはギターが売るほどあるのです。
なんとかカレーを運んだら、店の奥にはギルドとギブソンの重厚なギターが2本待っていました。それとマウンテンダルシマーも。
というわけで、借り物のギターはなかなかに手強かったです。ギルドは見た目より優しい音でした。ギブソンは弾きこなせなかったな。
先月ニールヤングのHeart of Goldを唄うために買ったハーモニカは少しだけマシになりました。Heart of Goldを唄うと勇気が湧いてきます。
しかし、唄うにつれて声がかすれて、気になると集中が途切れそうで歌詞が何度も飛びました。申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、ほんとにカレー持ってきてよかった!
10人ほどの顔のわかる者同士、持ち寄ったお寿司やパンやワイン、そして温かな鍋が2種類。
毎年この日に行う小さなライブ。また来年も皆で温まれますように。
スヴェトラーナ・アレクシェービィチの新しい本を読み始めたところです。アフガン戦争で戦ったソ連兵と家族の証言を聴きとった分厚い本です。初めの一人の母の証言だけで、もうやめてくれ!と叫びたい気持ちになります。これを読み切れるかな。。。とおもったりします。
ある新聞に載ったこの本の書評があります。
著者は同時代の「生きた声、生きた運命」を誠実に記録し、
「どうしたら、悪を増長させることなく悪の中を生き抜けるのか」を問う。
年末にいろいろなところから届いた美味しいもの嬉しいものが玄関先に置いてあります。
深谷のネギ、北海道のジャガイモ、愛媛からはミカンと一緒に松飾までありました。まだこれから飾るところ。。一夜飾りになってしまうけれど。お土産にお餅も、お米もありました。お米とお餅があると、なんだか大丈夫な気持ちが湧いてきます。
それから、コロナ感染の知らせをホームページに載せた翌日にCDの注文がありました。偶然かもしれないけれどとても嬉しかったです。
そしてカレンダーもたくさん。
ありがとうございます。
しっかり養生をして、適度に運動をして、晴れ晴れとした新年のスタートをします。
このブログをどこかで読んでくださっているあなた、いつもいつもありがとうございます!
会ったことのない人もいるのでしょう。。。今更ながらに不思議な縁に感謝します。
いろとりどり
11月4日奈良バンダメリリーにて。
唄う場所でお客さん同士が和やかに話をしているのを身に感じるのは幸せな時間です。お互いに名前も知らない間柄かもしれないけれど、この場所で袖すりあって、笑顔と言葉が交わされて、同じ歌を分け合って。
今夜は始まる前からそんな柔らかいものが溢れていました。
開演前わざわざ出来立ての釜めしをはこんでくれた、いちもとさんごちそうさま。
仕事帰りに駆けつけて心地よいバンジョーを弾いてくれたみつるくんありがとう。
終演後もいつになくゆっくり残ってお喋りをして過ごした皆さんありがとう。
こんな気持ちで唄わせてくれたバンダメリリーありがとう。
11月5日神戸まっちゃんライブにて。
まっちゃんライブは307回目。
かれこれ18年前、祝春一番コンサート服部緑地の芝生の上で紹介されて。ここで取り交わされるのは「春一の芝生外交」と呼ばれているらしい。
以来私がどんな状態の時にも受け入れてくれたまっちゃんと神戸の人たちの心の広さ。港町気質なのかしら、おおらかな海の文化のひとたちに感謝です。
今夜焼酎BAR vocalistは満席となり、主催のまっちゃんも、私もビックリしながら始まりました。
マンドリンのじゃんぼさん、いつも寄り添ってくださりありがとう。
初めて出合う人もありました。そして18年前から聴いてくれる人もありました。幾たびも病を乗り越えて店を続けているマスターもまた会いましょう!必ずね。
11月6日岐阜北方ワタルカフェにて。
神戸からJR新快速で米原まで。車窓からの景色に時間を忘れました。秋の京都、滋賀、そして岐阜まで。
ワタルカフェには新しく小上がりのステージ、立ってみるとちょっと景色が変わりました。
運営陣の顔ぶれも変わったという。
変わらない渡さんの大きな写真ふたつ。
三度目のワタルカフェ、みなさんありがとうございました。
岐阜羽島駅まで戸谷さんに車で送ってもらい、駅構内に入ると沢山の人で溢れかえっていました。なんでも有名芸能人の見送りに来ているという。
人をかき分けてなんとか新幹線に乗り込みました。
先ほどまでのライヴとは一転、人はいるところにはいるものです。
11月11日高山ピースランドにて。
東京から車に乗せてくれる人あり、秋晴れの中央高速八ヶ岳サービスエリアにて蕎麦を食べ、早めに着いた高山では珍しくカフェなどに入り、アメリカからの観光客と店主との会話を聴きながらすごす私も観光客気分。高山ビーフの美味しい店を尋ねるアメリカ人に、カフェ店主は、あまりよく知らないと答える。地元の人間は高山ビーフは食べないからと。。
絵本の店ピースランドでは毎年絵本を買います。最初は1冊、それから2冊、今年は3冊。送る子供たちが増えたからです。
唄いだすとピースランドの部屋の奥は胎内にいるような世界だと感じます。
このまま朝まで歌っていたい気分でした。一緒に過ごしてくださった皆さんありがとう。
これを読んでくださっている皆さんも、いつかここでのライブに来てみてください。
11月12日各務ヶ原6-21にて。
あたたかな秋晴れ、高山から関市洞戸村で寄り道。
こんな動きができるのも車に乗せてもらっているから。
東京の友人Mさんに洞戸に住む古い友達を紹介したかった。Mさんは、岐阜の山中に住んでいる私の古い友人ときいて、世捨てたヒッピーを想像したらしい。
板取川畔、キャンプ場だった場所は今ではバーベキューとカフェ営業。「カフェ」という看板を出してみると意外に遠方からのお客が増えたという。
ともあれ、Mさんのヒッピー予想は外れて、キッチンでいそいそと料理を作る旧友かっちゃんに3年ぶりに会いました。
各務原6-21の立派なステージ、ここで一人唄うのは初めてでした。なじみの顔が集まってくださいました。そして初めて聴いてくれる人もあったので、新旧たくさん唄いました。
6-21の主、佐伯さんとギターのこと相談することができました。
昨日も今日も「光るクマ」をうたいました。美濃加茂ワンダーランドの修ちゃんが亡くなって6年です。
犬山ふうに一晩お世話になります。「珈琲ふう」もあと2年ほどで変化があるそうです。初めてふうで唄った翌日、一人犬山城天守閣に登ったときの足の疲れを覚えています。ピースランドも6-21で唄えるようになったのも「ふう」からはじまったのでした。変わっていくものが増えていきます。
11月13日付知鼓土里座にて。
朝早く犬山から付知まで車に乗せてもらっての移動です。
途中、「かしも明治座」に立ち寄ってもらいました。この芝居小屋のこけら落としは1894年、120年以上の歴史です。
以前、中津川の常盤座という芝居小屋で、沢山のフォークシンガーの仲間に入れてもらい唄ったことがありました。
今年の4月、9月には群馬は渡良瀬渓谷のながめ余興場でも花道から登場させてもらいました。貴重なステージです。
思い馳せるのは、旅回りの芸人たちの汗と、観客の笑い涙、どよめき。そして明治大正昭和から今日までの時代を生き抜いた大衆文化の館に棲みつく気配。
明治座の大舞台を見学してきたばかりでしたから、付知の鼓土里座はミニチュア版の芝居小屋です。しかしここにはここだけの熱い魂が宿っています。山から木を伐りだし、すべてを土着民と仲間たちで造りあげ、そこで唄を唄い、時には芝居をやり、遠くからも唄いに来る人聴く人が集まってくる小屋、ほかに見たことも聞いたこともありません。
鼓土里座は来年で出来上がって20年だそうです。
今夜の打ち上げのメインディッシュは、里芋とご飯をつぶした芋がい餅、ジャガイモのガレット、大学芋、ポテトサラダ、、という芋のフルコース。そして牡蠣鍋。
この日のゲスト、名古屋の神戸さんと筒井佳子さんから辺野古基地反対の座り込みでの話を聴きました。警備が撤去を行使するときの、身の処し方。
座り込みをする人たちの撤去が終わらないと工事が進まないので、できるだけ時間を稼ぐには、運ばれるときに脱力をするのだそうです。
脱力をすればするほど体は重くなり、警備の男の人でも一人では運べないそうです。ひたすら脱力する。
これをきいていた三尾房代さんがこんなことを話します。
房代さんは長年保育園の先生。園児の連れ去り防止の演習、不審者が子供を連れ去ろうという想定、子供たちにひたすら脱力をさせるのだそうです。「連れ去り防止訓練」というのがあるのにもびっくりです。
脱力は最強の非暴力の抵抗であるのか。
11月18日風に吹かれてにて。
「同志」と書いて「友」と読ませることがあります。修さんとはこの「同志~とも}という言葉が似合うような気がする時があります。
瀬戸口修さんとは、彼がコロンビアレコードからデビューしたころ、私はそろそろ音楽から遠ざかろうとしていたというタイミングの悪さ。それから月日がたち話をするようになったのはこの20年足らずのことです。お互いにちょっと似たような体質で、「明るいひきこもり」の修さんと「明るい鬱」の私。よく長電話をしました。
時々かわす長電話と、年に一度ほどの共演を重ねてきて、思うのは「良いともに会えてよかったな」というしっとりとしたウールのマフラーを触るような安心です。
最近はお酒でつぶれることもないようです。みんな以前のように沢山飲めなくなった。
そのかわり修さんのギターと歌声は長い年月をかけて醸されたワインのよう。
また次に味わうときにはどんな風に熟成されているでしょうか。その時のために私もまた丁寧に育てた果実を大切に仕込んでおきましょう。
11月19日下北沢ベースメントバーにて真黒毛ぼっくす37周年。
突然決まったこの日の出演。一度もリハーサルせずに大槻ひろのりさんから提案された曲。直前になって私がkeyの変更を頼むのですが、これがトロンボーンには辛いkeyで、本当にごめんなさい。
ドラムス、ベース、エレキギター、ピアノ、アコーディオン、フルート、トロンボーンという大掛かりなバンドと一緒に唄うのは、まるで素人のど自慢(出たことはないけれど)の舞台に立たせてもらったくらいに気持ちの良いものでした。
そして大槻さんが書き下ろしてくれた「惑星の旅人」は、唄いながら泣き出しそうでした。ミラーボールが回りました。大槻さんは、私の歌をしっかりと理解をしていてくれて準備をしてくれました。リハーサルも参加したかった。
真黒毛ぼっくすのステージも堪能しました。
昼の12時過ぎからのライブ、地下のホール、演奏中は銀河に抱かれているような時間でしたが終わって外に出るとまた昼間がありました。
彼の思い描く世界とそれを愛し共につくりあげていく若いミュージシャンたち。
終演後「鳥肌が立ちました」と言って帰る人がいました。
11月22日相模大野にて、井上ともやすのおよびつけライブでした。
一年に一度11月に呼びつけてくれるのですが、井上君とのデュエット課題曲が必ずあります。
前回よりも息が合ったと思うのですが。。「どうしてこんなに悲しいんだろう」「今日までそして明日から」
この日のためだけに練習するのも楽しいのです。だから、井上君にまた来年と言われるととてもうれしいのです。
聴きに来てくれた人の中に、マザーグースというバンドの京田由美子さんが大好きだと話す女性がいました。井上君の高校の先輩でした。
中学生の時に、マザーグースのステージを見て、ギターの上手い歌の上手い由美ちゃんのファンになったという。
影響されて楽器を始めたのだそうです。
バンドは短命でしたから、猶更思いは募っているのでしょう。
金沢の由美ちゃんにメールしてみました。
「来年あたり、演る?」と返事がきました。
もっきりやあたりで。
11月23日鴨宮きらきら食堂にて。
かかわる人たちが快く協力をしてくれました。
共演のオフトーンズとは数日前にリハーサルをやってもらいました。
きらきら食堂ができて8年になるそうですが、私ははじめてのライブ。食堂のメニューはどれも安くて、食べた鯖の定食はとてもおいしかった。そしてなにより素敵なのは店主がんちゃんの割烹着姿です。鴨宮に何度も何度も来ているのに、私の知っている鴨宮は唄う場所以外はよくしらないのです。そして、ここから伊豆大島や御殿場へも唄いに行けるようになった、基地でもありました。
20年近く唄う場所をつくってくれた鴨宮のひとたち。ありがとう。また会いましょう!
あえないひと、病とともにいるひとにも、また会えますように。
11月25日吉祥寺MANDALA2にて。
サスケ大垣カツ氏かっちゃんのバースデーライブ。
かつては双子の弟タカちゃんとふたりでサスケでした。
二人分の誕生祝いだとステージでかっちゃんは言います。
9年前亡くなった弟のことを今でも毎晩夢に見るといいます。
双子に生まれて育つことは、双子でない者にはわからない宿命です。
サスケの二人と会話をすると2対1でとっても忙しい気分になったことを思い出しました。ほぼ同時にほぼ同じことを話しかけてくるのです。
その一人がいなくなるって、体が半分無くなってしまうような感覚なのでしょうか。一人になった直後のかっちゃんのステージは本当に悲しかった。
そんなことも思い出しながら、今日は客席で一人になっても二人分頑張ってきたサスケを楽しみました。
11月27日大切な友達の一人と国立駅で待ち合わせ。
とても太くて硬い手打ちそばを啜るというよりもぐもぐ噛みながら食べました。
同じ通りのちょっと路地を入ったところの昔からの喫茶店ロジーナ。ここが満員でびっくりです。
彼女とはもうずっと長い友達。そんなに頻繁に会わないけれどずっと友達。同じ時にお互いの初めての子供を産んだ。
それ以外は越し方も今の暮らしぶりもそれぞれだけれども、会って話せば嬉しい。そして話に耳を傾けながら,ちょっと涙が溢れる。以外に昔話はしないことに気づきます。
私たち、まだまだこれからだよねぇ。古風な店のテーブルをはさんでケーキと甘いプリンを分け合いました。柔らかい毛のセーターを着た北国生まれの彼女は今もとても美しい。ずっと美しくあれ。大丈夫。
11月30日東中野じみへんにて。
昨日届いたばかりのハーモニカ、出かける寸前まで練習をしました。ニールヤングのHeart of Goldをこれで唄いたかったのです。
まだ一日しか吹いていないので偉そうなことは言えませんが、面白い楽器です。
体も楽器にしないと良い音が出ないのです。
今夜は店主のみどりちゃんが静養のために居ないなかで、お客さんがテキパキと働き、無事に安心してライブができたこと、そしてみどりちゃんの代わりに、私が一晩ちいママをやりますということで、お代わりもしてくれたやさしい皆さんありがとうございました。
帰り際、店主からリモートにてしっかりチェックは入りましたが。。。早くよくなってね。
毎月更新するこの長々したブログには
私の暮らしの中で、とても大切な場所でのことを書いています。
そこは人が集まり、人が語り、唄い、時には食べて飲んで、なにより歌と笑顔の集まる処。
広い世界のこんな小さな場所で出会う者同士、並々ならぬ縁なのかもしれません。
そうであれば、一緒に過ごす時間が愛おしくなります。
だから、毎月同じようなことを書き続けているのだと思います。これからも。
JVCジャパンボランティアセンターのカレンダーを毎年贈ってくださる人がいます。大きな封筒が届くと、ああ今年もそんな季節。。
そして35年間つくられてきたカレンダーでの支援は来年号ををもって終了とのこと。
紙のカレンダーの売れ行き鈍化のためだそうです。
アフリカ、アジア、中東、南米などの紛争、貧困、大きく困難を抱えている地域に生きる人たち、とりわけ子供たちの写真が多いのです。町のこども、海辺の子供、農村の子供、
その子供たちの笑顔が切り取られた写真。
この大型紙面からはみ出しそうな子供たちの笑顔が部屋にあるだけで、私の心も微笑みます。笑顔には力があります。カレンダーは我が家の食卓の正面の壁にあります。食後、残したおかずを捨てないようにしたり、開いたパソコンで買い物をするときにちょっと考え直してみたり、些細なことですが。。。こんな小さな部屋に来てくれた笑顔たち。