heart of goldと点と点の邂逅
名残のバラに出会うとしばし眺めていたくなります。
秦野にて。
12月3日 朝まだき。親子ほどの年の差の二人で出発。
運転は若い歌うたい。助手席に年をとった歌うたい。
私はちょこんと座っているだけで何の役にも立ちませんが、それでもだれか横にいるだけで安心だといってくれる貴子さん。最近少し慣れてきたという運転。おつかれさま。
5時間ほどで着いた長野県阿智村清内路。閉校となった中学校のホールで小さなコンサート。唄う者たちは岡山、鳥取、石川、岐阜、福島、神奈川、そして地元長野各地から。一組2~3曲。思い描いていた以上の人たちが小さなコンサートを聴きに集まってきました。
機材や食事を皆で運び入れ、皆で唄って、また皆で片づけます。次の場所があるので大急ぎです。
少し山を下ると昼神温泉郷。旅館を貸し切って「雑花塾大忘年会」ここに音響をセットして夜通し唄うのです。雑花塾の創始者笠木透さんが亡くなる直前にもここで皆が集った話をこれまでも繰り返し耳にしていましたが、初参加の私には新鮮な時間。
新鮮に感じるのは生まれたばかりの曲が沢山唄われるからでもあります。皆、どんどん新しい歌を創ります。息をするように歌を創ります。そこにいるだけで全身に刺激を受けます。
トロっとした良い温泉と美味しい夕のご馳走と朝食、そしてにぎやかな笑顔。このエネルギーは「歌のように生きる」ことを実践している人たちが持っている力。
帰り道の中央道、山梨大月あたりからの富士。
12月9日国立のろーじな茶房にて、病を抱えた人と会いました。
余命を宣告されている彼は、思い浮かんだ人に会っていこうと決めたのだという。
二階の小さなテーブルをはさんで。大した話はしないけれど。そろそろ帰ろうかという頃に
「今度生まれるとしたら地球以外の星がいいな。戦争のない星。」という。
店を出て駅に向かう道すがら、私はとても小さなお守りのような数珠をあげた。最初彼は返せないからいいよと遠慮したけれど
「じゃあ、棺桶に入れてもらう。ありがとう。」と笑う顔はとても来年の桜を見ることはないだろうと宣告された人には見えなかった。
国立駅、私たちは、エレベーターの下でハグして別々のホームに上がりました。
12月10日茨城守屋ハコカフェにて。
昨年から誘ってもらう店の忘年会ライブ。
スーマー、広瀬波子、鈴木柚子、lico
そして、DJが盛り上げている骨董屋の店内。
皆がペさんと呼ぶ主の飯田さんが数日前から仕込んだ大量のご馳走。トリを務めるスーマーの歌声に身を震わせて泣いている女性達あり、踊るカップルあり、、
美味しいお酒、私も久しぶりに少し頂きました。
12月11日寒い一日、茨城から神奈川の秦野まで電車で縦断。佐渡山豊、国吉亮、よしだよしこの2days。
ツアーのタイトルは豊さんがつけました『復帰50年~点と点の邂逅する日に』
沖縄復帰50年の年に長い空白を経て一緒に唄う機会をくれた佐渡山さん。
そういえば、数年前に東京のあるイベントですれ違ったときに言葉交わして雪解けのような時間があった。あれは6月23日だった。そう、6月23日沖縄慰霊の日。忘れない。
ツアー初日は渋沢のぷかぷか島。この店も久しぶり。満員御礼。豊さんから、国吉亮さんにギターを弾いてもらうようにいわれ、「戦争の親玉たち」を一緒に。ギターが新しい言葉を叫んでいるようだった。初めて聴く圧倒的なギター。
豊さんは呟くように歌う。そして大音量なのに呟きは聴こえる。
ドゥチュイムニイは50年唄い続けている。その言葉は毎回新しい。そしてそのたびにしっかり耳を傾けなければ聞き逃してしまう言葉があることを、おしえてもらいます。
二日目は秦野にある月の輪にて。
ツアーには各地から佐渡山さんと一緒に旅をする人たちがいました。12月8日からですから1週間近く一緒の人もいます。佐渡山組という文字の染め抜かれたTシャツを着ている人もいます。そして客席の後ろでずっと一緒に唄っている人もいます。
皆をこんなに温かく幸せにしている中心に豊さんがいます。
点と点の邂逅、それぞれは点のような存在だけれど、それぞれが出会うことで創り出すもの。それがより良いものでありますように、人の幸せに役立つものでありますように。
秦野から帰宅する小田急線の隣の席には、札幌から聴きに来た人が座っています。この人とはちょうど一年前、渋谷から新宿でのほんの短い酒席で同席した間柄です。そしてそのあと北海道で大変お世話になったのです。点と点の邂逅はどこまでもどこまでも面白く不思議。
二日間お世話になった皆さん、遠くからも聞きに来てくださった皆さん、大切な友Yちゃんはじめスタッフのみなさん、亮さん、そして豊さん、ありがとうございました。
12月15日 前日から喉が痛く風邪の症状が始まりました。
家においてあるcovid19抗原検査キットで調べても陰性でした。
朝になって近くの小さな医院では検査ができないということで、出かける前にもう一度調べるとうっすらと陽性反応。
発熱外来に電話をすると、それは間違いないので病院までくる必要はないといわれ、診断は検査キットの写真をメールで送って。オンラインにて診療は終わり。
今日から唄いに行く場所に連絡をして。思いつく限りの連絡をして。それでも笠岡まで行ってしまった人あり。。。寒い夜に申し訳ありませんでした。
そして、大鍋にたっぷりのスープとかぼちゃの煮つけを作り始めました。ご飯も炊いて。。初日は熱もなく、軽症のような気もして、食欲もあったのです。
辛かったのは二日目、三日目。。。四日あたり。。。
1週間の在宅。何かできるかしらと思っていましたが、ボーっと過ごすだけでした。ぼんやりとYouTubeの画面を眺めているのが精いっぱい。横になっているより背中を起こしている方が息が楽です。
味覚もあまりなかったけれど、食欲があって助かり大量のスープとかぼちゃ作っておいてよかった。
罹らないに越したことはないけれど、こういうものなのだと知ったことは貴重な体験でした。不安の色合いが変わりました。
岡山のカフェド萌、鳥取鹿野町、米子大山町、行って唄うことができませんでした。ご心配をおかけした皆さん、また必ず機会がありますように。
甘いものが美味しく感じます。
今月の初めに頂いたシュトーレンがすっかり熟成していました。
12月22日京都わからん屋にて。
声がちゃんと出ない状態でしたが、楽しみにしていた人たちで客席は埋まっていくのをみながら、今夜京都に来ることができて本当に良かったと思いました。
前夜は出かけることにかなり不安になっていたからです。
共演の裏猫キャバレー二人のステージを見るのは初めてでした。
ピアノの闇斗さんは昔々ケメのファンだったのだという。全身黒装束にヘルメットという舞台衣装の彼女が「バイオリンのお稽古」を声色で唄うとちょっとコワイものがにじみ出てきます。それから板橋文夫作曲の「グッドバイ」浅川マキさんの、これをスナフさんが唄う世界も以外でした。
平賀さんとはつい2か月前に会っているのだけれど、ギターを持ってわからん屋の階段を上って楽しく3曲もうたってくれました。
そして、もう一人、園部大介くん。店に入るなり、唄ってと言われてびっくりしたことでしょう。
緊張したといいながら、長い物語の歌をやってくれました。
大介君と会うのはかれこれ20年ぶりです。
まだ唄おうかどうしようか迷っている頃の私を見つけてくれた彼はその時まだ10代。高校を出てしばらくふらふらとしていたころなんだという。立場は違っていてもお互いに漠然とした不安と同時に根拠のない夢のようなものを抱えていた二人が町の小さなライブバーで出会ったのかな。。。
そのあと私がボチボチと歌い始めて、それを何度か聞きに来てくれて、最後に会ったのは石垣島、離島の製糖工場の季節労働をしていると言っていた。
そのあと京都のライブに来てくれたりしたそうだけれど、気づいていなかった。
北海道の鮭缶工場でのバイトの経験を唄った曲は、とても良い歌で真っすぐ心に届きました。聴きながら、不思議な縁に思いが溢れました。今は京都に定住して、子供もいるのだという。唄っている人になっていたことがうれしい。そして私も唄い続けていてよかった。
自分のステージはいつもの半分ほどで許してもらいました。
裏猫キャバレーと一緒に、やなぎくんの「旅という生活 生活という旅」が唄えたこともよかった。裏猫の二人の音も優しかった。
山では雪が降っているような寒い夜でしたが、皆さん本当にありがとうございました。
12月23日岡山に移動。
翌日の禁酒會館マンスリーライブのため、OZAKI UNITと一緒にリハーサルをしました。
5月新緑の岡山ツアーが終わってしばらくしてから、尾崎ツトムさんと、12月はどんなステージにしたらよいかという話をしました。
いろいろ共演者の顔は浮かんだのですが、一番近くにその相手は存在していました。マンスリーライブをやり続けてきたOZAKI UNITです。
ギターの黒瀬尚彦さん、パーカッション渡辺学さん、キーボード大谷哲子さん、岡山に行けば必ず会う人たちなのに、私もバンドの一人になって唄うのは初めてです。
私の曲を3曲。そして尾崎さんの曲を1曲。私の曲はところどころ込み入っていて、何度か実際にやってみないとならないので、遅くまで付き合ってもらいました。バンドは楽しいものです。
あとは私の声がちゃんと出ますように。
12月24日禁酒會館にて。
OZAKI UNITのステージ、私は「夜明け」という新曲をリクエストしました。先日、昼神温泉で初めて聴いてとても感動したからです。社会の、世界の現実の闇に、平和の夜明けは遠く感じてしまうことがばかりだけれども、夜明けを信じて希望を捨てずに行動すること、それこそが「夜明け」なのだ!という強い叫びの歌でした。何度も聞きたい曲の一つとなりました。
私の曲「吹いていった風」「Sally Ann」「崩れ落ちるものを感じるかい?」、よくぞ短時間でここまでがっぷり四つに組んで演奏してもらいました。どの曲もパーカッションのビートとギターとキーボードの彩がしっかりと歌を支えてくれました。
最後に笠木透さんと尾崎ツトムさんの歌「メープルシロップ」を尾崎さんとデュエットできたことは嬉しかったです。
生前のピート・シーガー手作りのメープルシロップが人伝えに笠木さんの許にやってきて、つくられた曲だそうです。
偉大なフォークソングの父の焚いた砂糖カエデの樹液というだけで大きなロマンの物語です。それを受け取った「歌のように生きる」ことを生きた人が創った歌。歌はこうして広がれば広がるほどにその精神は薄まることはないんだ!とそんなことを思いながら唄いました。
寒い夜、禁酒會館の二階に足を運んでくださった皆さん、ありがとうございました。
すべてが終わり、ホテルに戻りましたが、やはり会っておこうと思う人あり、再びコートを着てその人の店に顔を出しました。
イヴということで小さなバーは賑わっていて、私も泡の立つワインを一口ごちそうになりました。またね、来年ね。会おうね。
翌日帰路に就く前に市場恵子さんに連れて行ってもらった「ぽん太」という食堂。美味しい魚とてんぷらの定食をごちそうになり女将の横田都志子さんから、 永瀬清子の詩を特集した雑誌を渡してもらいました。永瀬清子という詩人の言葉に触れるのは初めてのことです。
未だ、体と頭がボーっとした状態ですが、皆さんに支えてもらって今年最後の旅が無事にできたこと、本当にありがとうございました。
帰りの新幹線、富士山が美しく、新横浜では深い色の夕焼けが待っていてくれました。
12月30日亀有idboxにて。
喉の調子がちょっとぶり返して今年最後のライブ。
では、せめてもと、大鍋にカレー味のシチューをつくって持っていくことにしました。容器を持ったらギターは持てませんでした。
しかし、kidboxにはギターが売るほどあるのです。
なんとかカレーを運んだら、店の奥にはギルドとギブソンの重厚なギターが2本待っていました。それとマウンテンダルシマーも。
というわけで、借り物のギターはなかなかに手強かったです。ギルドは見た目より優しい音でした。ギブソンは弾きこなせなかったな。
先月ニールヤングのHeart of Goldを唄うために買ったハーモニカは少しだけマシになりました。Heart of Goldを唄うと勇気が湧いてきます。
しかし、唄うにつれて声がかすれて、気になると集中が途切れそうで歌詞が何度も飛びました。申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、ほんとにカレー持ってきてよかった!
10人ほどの顔のわかる者同士、持ち寄ったお寿司やパンやワイン、そして温かな鍋が2種類。
毎年この日に行う小さなライブ。また来年も皆で温まれますように。
スヴェトラーナ・アレクシェービィチの新しい本を読み始めたところです。アフガン戦争で戦ったソ連兵と家族の証言を聴きとった分厚い本です。初めの一人の母の証言だけで、もうやめてくれ!と叫びたい気持ちになります。これを読み切れるかな。。。とおもったりします。
ある新聞に載ったこの本の書評があります。
著者は同時代の「生きた声、生きた運命」を誠実に記録し、
「どうしたら、悪を増長させることなく悪の中を生き抜けるのか」を問う。
年末にいろいろなところから届いた美味しいもの嬉しいものが玄関先に置いてあります。
深谷のネギ、北海道のジャガイモ、愛媛からはミカンと一緒に松飾までありました。まだこれから飾るところ。。一夜飾りになってしまうけれど。お土産にお餅も、お米もありました。お米とお餅があると、なんだか大丈夫な気持ちが湧いてきます。
それから、コロナ感染の知らせをホームページに載せた翌日にCDの注文がありました。偶然かもしれないけれどとても嬉しかったです。
そしてカレンダーもたくさん。
ありがとうございます。
しっかり養生をして、適度に運動をして、晴れ晴れとした新年のスタートをします。
このブログをどこかで読んでくださっているあなた、いつもいつもありがとうございます!
会ったことのない人もいるのでしょう。。。今更ながらに不思議な縁に感謝します。