第二十 積善の餘慶(しゃく⦅せき⦆ぜんのよけい・善行をつみ重ねると思わぬよろこびごとで報われるということ)
さて大和の国、佐々木の館には、家督(かとく・あととり)を決める事について、管領由利之介勝基公の名代として、梅津嘉門景春が今日、駕籠(かご)で着く事を、始めに知らせがあったので、判官貞国(桂之助の父親)は自ら命令して広座敷を掃除させて、礼服を着て待っていると、すぐに駕籠が着いたと聞こえたので、自ら玄関に出て迎えた。
梅津嘉門は、金紋紗の道服に、白精好の長袴を穿き、海老鞘巻を帯びて、中啓の扇を持って、威儀(いぎ・礼にかなった品位のある動作)堂々として入って来て、案内に付いて広座敷の中に通って、設けてある席に居ずまいを正すと、判官はうやうやしく礼をして「長旅のところ、苦労いたしましたでしょう」と述べると、梅津嘉門景春は一通りの挨拶を終えて「この度管領の名代として私が来たのは他でもない。まず先に次男の花形丸に家督の願いを出されたが、その件について疑う事があって、私に糾明せよとの厳命です。まず内室(正妻)の蜘手の方、花形丸、執権不破道犬をここに呼び出して下さい」と言うと、貞国は「承知致しました」と、この様にしなさいと言い伝えると、すぐに蜘手の方は礼服を着て、花形丸と共に出てきて、遥かに下がって礼をした。
不破道犬も礼服で、縁側に平伏すと、梅津景春は初めに貞国に言ったのは「まず始めに子息の桂之助が在京の時に、放佚無慙の不行跡、御館(義政公をさす⦅原注⦆)が御聞きになり、濱名入道により内命(内々の命令)があった。すでに勘当の身となったが、今になって深く先の誤りを悔んで、御館に対して仕えて、一つの功績をたてたので勘当を許して、家を譲ってあなたは隠居しなさいとの内命です。桂之助勘当を許されたので、銀杏の前、月若をも一緒に許して呼び戻しなさい」と述べると、貞国がまだ答えないのに道犬は進み出て「失礼になるので申し訳ないが、銀杏の前と月若は現在は母の蜘手の方を呪詛した罪人なので、たとえ桂之助のお許しがあっても、あの母子の二人をお許しになっては、御政道(政治の道)が成り立たないです。ことさら彼ら二人の行方も分かりません」と言うと、蜘手の方は「いかにもそうです。彼ら二人は私と花形丸を呪詛したことは、管領職にはいまだに知られていないのでしょう。貞国殿詳しく聞かせてあげて下さい」と片方の頬で笑って言うと、景春は、威圧的な態度になって二人を目を据えてにらみつけて「世間の言葉で盗人猛々しいと言うのはまさにお前らの事であろう。道犬は蜘手に悪意を進めて、花形丸の代継にしようと、二人で計略して月若を呪詛して、さらに奸計を以って銀杏の前と月若を罪に陥れて、貞国殿の命令と偽って、月若の首を斬ろうとしたことは、みなお前達の仕業ではないのか。桂之助の放埓の根本は、お前のせがれの伴左衛門に言いつけて進めた事に疑いない。ただし言い訳はあるのか」と言えば、肝の太い道犬は少しもひるまず作り笑いをして、「現在、管領職の軍師として尊敬される景春公の御言葉とは思われません。銀杏の前母子は蜘手の方を呪詛したのは、自筆の願書(神仏への願いを記した文書)、たしかな証拠があります。自分達の奸計と申すには何かの証拠があるのですか。恐縮ですがお聞きしたいです」と言うと、蜘手の方もその後に続いて「私が悪意などとは思わぬ濡れ衣を着ることだ」と、つぶやいていた。
その時、景春はすっと立って縁先に出て「先刻申し付けた縄付き(罪人)をすぐにここに引き出せ」と呼びかけると、庭の前に梅津の従者が大勢控えている背後から、名古屋山三郎が礼服を着て、修験者頼豪院が高手小手(両手を後ろに回し、首から肘・手首に縄をかけて厳重に縛り上げること)に縛り上げ、鹿蔵と猿二郎の二人に縄を取らせて、庭の上に引き据えた。
肝の太い蜘手の方と強悪な道犬もこれを見て仰天して、首をガックリ落としてうなだれた。
景春は言った「私がわけがあってあの者を捕えて、悪人達の奸計を逐一に糾明したが、この場に於て話さなければ証拠にならない。山三郎それを執り行え」と命じると、山三郎は刀の鐺(こじり・刀のさやの末端)でもって頼豪院を縛っている縄を締め上げて「はやく白状しろ」と言うと、頼豪院は顔をゆがめて蜘手の方と道犬の依頼によって月若を呪詛したことから、偽筆の願書を使って、銀杏の前母子を罪に落とした事の始めから終わりまで、こまかに白状したので、判官貞国は初めてこれを聞き、ただあきれていたが、たちまち怒りが天まで上って、道犬の髻をつかんで、ねじ倒し「私が多病なので、家の事をお前に任せていて、思慮が浅くて、お前達に騙された悔しさよ、肉醤(ししびしお・肉の塩漬け)にしても飽き足りない。たとえ私を欺いても、どうして晴天をあざむけるか」と、大小を取り上げて、庭の上に蹴落とすと、山三郎は飛び掛かって押さえつけて、高手小手に縛り上げた。
蜘手の方はこの様子を見て、積悪の罪を逃れられないと思ったのか、懐剣を抜くと素早く喉笛に突き立ててうつ伏せに倒れた。
考えてみると、年来の隠悪がこの様に一時に露見するのもすべてこれは、皇天(こうてん・天をつかさどる神。上帝。天帝)が罰することである。どうして恐れないのか。
その時、花形丸は蜘手の方に取り付き「そんなにまで悪い志があったとは、少しも思いませんでした。親の悪意を子の身として制止できなかった不孝の罪、お許し下さい。あさましい御身の果てです」と、悲嘆の涙にむせんだが「母の悪意も結局は、私を世に立てようと思って事がおこったので、自分も同罪です。申し訳はこの通りです」と言いながら、母が自害した懐剣を拾い取って、すでに腹に突き立てようとした時、梅津景春は押しとどめ「あなたは以前より誠意のある事を聞いている。せっかくの若者に武士道を捨てさせるのは惜しむべき事であるが、悪意の母につながる縁なのでしかたがない。自殺をとどまって、剃髪染衣に姿を変えて(僧侶になって)、母の菩提を弔いなさい。私の先祖梅津豊前左衛門清景より伝わる、大道国師の法語(仏教の教えを説いた訓話)の一巻がある。私は今は管領に使えていて軍務を管理する身なので、禅法を修める暇がない。その法語をあなたにあたえるので、今より禅学に励(はげ)んで教外別伝(禅宗で、悟りとは言葉や文字で示せるものではなく、直接心から心へと伝えられるものだということ)の素晴らしさを極めて、直指人心(他にとらわれず直ちに自己の心を見つめ、心中に仏の本性が備わっていることを悟ることをいう)の深い所をはっきりとさせて、後々は名僧知識(仏道の悟りを開いた優れた僧)と名をあげて、今の汚名をすすぎなさい」と言うと、花形丸は感佩(かんばい・深く心から感謝し、いつまでも忘れないこと)し、ようやく自殺をとどまって、髻をフッと切った。
花形丸は剃髪して法名を胸月(きょうげつ)と言い、後々一休禅師の弟子となって、ついに大悟(迷妄を脱して真理を悟ること)有徳(徳をそなえていること)の知識(徳の高い高僧)となり
西てらす月のひかりをその儘に因果がついのすみかなりけり
と言う歌を詠んで、世に因果禅師と呼ばれたとか。
さて、景春は蜘手の方の屍を取り除けさせて、貞国に言ったのは「道犬の悪意の元は濱名入道にこびへつらい、入道の権威を以ってあなたを押し込め、一旦、花形丸に跡を継がせて、遂には父子ともに亡き者にして、自分は御家を奪い濱名入道の仲間になる計画である事は明白です。今すでに勝基公と濱名と確執になって、世の中分かれた時期なので、濱名と組んだ道犬は、私が取り決める事は出来ない。管領の館に引き連れて、今出川殿の命令で誅戮(ちゅうりく・罪を犯した者を殺すこと)を科しなさい。 「さて山三郎、先ほど私が同伴して、東の館に控えさせておいた、桂之助夫婦をここに連れてきなさい」と言うと「承知致しました」と、渡り廊下の方に行って「さあ、こちらえ」と呼ぶと、前もって用意してあったのか、佐々木桂之助国知、折烏帽子(おりえぼし・頂端を折り伏せた烏帽子。特に、武士のかぶり物としての侍烏帽子さむらいえぼしをいう)に大紋の直垂(ひたたれ・主に武家社会で用いられた男性用衣服)を着て、右鞘巻き(鍔のない短い刀)を帯刀して来た。
続いて銀杏の前は纐纈(こうけつ・絞り染め)の小袖に摺箔(すりはく・金箔と接着剤を用いた衣類の装飾技法)の袿衣(うちぎ)をかけて、とめ木の香りが馥郁(ふくいく)として蓮歩を移す(美人のあでやかな歩み)。
次に月若はこの時十三歳、髪が生えて総角(あげまき・昔の子供の髪型の一種。振分け髪を左右の耳の上で丸く結い上げたもの)に結んで、小素襖(こすあを・武士の衣服の一つ。袖の小さい素襖。下には足首までの短い袴をつける)に烏帽子をかぶって共に従った。
はるかに下がって佐々良三八郎、剃髪の姿となって僧衣を着て、妻磯菜、娘楓を伴って出てきて、あの百蟹の巻き物をうやうやしく捧げて貞国に渡して、それぞれ座る場所を決めると、梅津嘉門春景は威儀(礼にかなった品位のある動作)を整えて「さて国知主人、今志を改めたことにより、家を相続する事を命じられて、御教書(貴人の意を承ってそれを伝えるために出す、公式の命令書)を頂いた。さあ受け取りなさい」と渡すと、桂之助国は押し頂いて「館の御慈悲管領の御仁心(なさけ深い心)、たいそう有難いです」と言って収めると、判官貞国をはじめとして皆一同に喜ぶこと限りなかった。
さて桂之助は父に向かって、佐々良三八郎夫婦の忠義、姉弟の子供達の孝行の話をして、名古屋山三郎は不破左衛門達五人者を討って父の仇を報いた終始、ならんで鹿蔵と猿二郎の忠義を仔細に話すと、貞国はそれを聞いて、ますます感嘆に耐えられなかった。
その時、梅津景春が言ったのは「悪人亡忠臣孝子(あくにんほろびちゅうしんこうし)現れるならば、当家は益々繁栄して子孫がながくつづくことは疑いない。時刻が来たので私はもう帰ります」と言って立ち上がり、従者に命令して道犬および頼豪院を、檻車(かんしゃ・罪人を乗せて運ぶ檻の形をした車)に乗せて担いで出させると、貞国、国知を始めとして皆一同景春を送り出して、うやうやしく礼をした。
景春はついに別れを告げて乗り物に乗って、行列を進ませて帰った。
ところで管領の館においては、再びまた道犬が糾明された。仲間の者達をことごとく捕まえて頼豪院と共に誅戮(ちゅうりく・罪ある者を殺すこと)にして、道犬は特に大罪の者なので重い刑を加えた。
さて名古屋山三郎と佐々良三八郎夫婦、娘楓、鹿蔵、猿二郎達まで呼ばれて、その忠義と孝行と貞節を称賛された。それぞれに幾らかの賞金を与えられたが、皆々感涙を落として帰った。
さて判官貞国は薙髪(ちはつ・髪を剃ること、剃髪)して桂之助にに家を譲り、平群の別館に移り住、名古屋山三郎を執権にして、父三郎左衛門殿の報酬に道犬の報酬を加えて与えたので、昔に比べて、十倍に裕福な身となり、鹿蔵と猿二郎に報酬を分け与えて忠義を称賛すると、二人とも面目を施して喜んだ。
さてまた浮世又平は、百蟹の巻き物を一度見て書道の奥妙(おうみょう・奥深くてすぐれていること)を極めて、師匠戸佐正見の怒りを許されて、戸佐又平重起と名乗り、梅津嘉門の推薦によって、義政公の絵所(宮廷の調度の模様や装飾の絵画制作の事をつかさどった役所)となり、妹阿龍は今まで兄に学んで自然に書道の素晴らしさを極めたので、世の中におりゅう絵と呼ばれてその名を広く知られた。
佐々良三八郎は抜群の忠臣なので、桂之助は多くの報酬を与えよう思ったが、今は世捨て人の身なのでと報酬を受け取らないので、しかたなくただ数百の金を与えると、身に応じた贈り物ではないと再三辞退したけれども、無理にでも与えると、その金で以って雲六の妹の八重垣を買い戻して家で養った。これは彼女の誠心を感じての事である。
さて山三郎は葛城の志を憐れみ、神林のもとに金を多く送って追福(死者の冥福を祈って善事を行うこと、追善)を行わせて、一生妻は迎えないと誓った事を三八郎は聞いて、跡継ぎがいないのは不孝の第一なのだと進めて、あの八重垣を送って妾にさせた。間もなく男子を産んで、のちにこの子供は名古屋小山三(こさんず)と呼んだ。
(この後の記述は後編「本朝酔菩提全伝」の原著者による宣伝{訳者})
この小山三は出雲の国の巫女阿国と言う舞姫を妻にして、歌舞伎、妓踊、狂言と言われる事を始めた理由は、後編に詳しい。
發兌(はつ だ ・書物などを印刷、発行すること。刊行)の時を待ち迎えて読むべし。
不破名護屋の文字に、自然不ㇾ破ㇾ名護ㇾ屋(おのずからなをやぶらずいえをまもる)と言う教訓があるのも、この稗史(小説)においてはとてつもない吉凶ではないか。
(この終わり方は、その後の時代劇にも受け継がれているようですね。
水戸黄門とか遠山金四郎とか、もとは歌舞伎や講談なので、類似の形式ではないでしょうか{訳者})
☆(訳者の解説)
名古屋山三郎は実在の人物で、美男であり文武両道であったが、私闘により慶長8年に死亡した。また妻は出雲の阿国で共に歌舞伎の創始者とする言い伝えもある。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
梅津嘉門、善悪邪正を糾明して忠心孝子に賞を玉ひ、積悪の徒に罰をくはふ。
五条坂神林のあるじ名古屋山三郎の帰参を祝して、あまたの舞妓をおくる、山三郎、銀子衣服をつみて、神林夫婦ならびに舞人どもにあたふ。
此一画英一蝶の画く所の名古屋山三郎絵巻物之図に模擬す。
【British Museum より 英(はなぶさ)一蝶 名古屋山三郎絵巻物之図】
【国立国会図書館デジタルコレクション 明19・2 刊行版より】
巻之五下冊終