第十九 刀剣の稲妻(2/2)
ところで山三郎は年来の願いを達成して、勇んで進んで小幡の里に帰るが、この時すでに夜は明けてしまっていた。
さて伴左衛門の首を父の位牌に手向けようと思い、「お前のために、幾年月も二度とない苦労をしたのだ」と言いながら、編み笠の中から首を取り出して見ると、これはどうしたことか、伴左衛門ではなくて、葛城の首なので「これは夢か現実か」と言ってただあきれるだけであった。
さきほどは大勢に取り囲まれて心が急いでいて非常にさし迫った状況なので、気付かなかったが、えりに残った手首を見ると、何であろうか握っていた物がある。手首をもぎ剥(は)がして見ると、一通の手紙を握っていた。
いそいで開いて見ると、これはつまり書置きの手紙である。その手紙が伝えたのは「私はこの度不思議にも殿に巡り合って、御父上の仇である伴左衛門達を手引きして、討たせようと請け合いましたが、前の日に伴左衛門が私のところに来て話したのは『今までは知らなかったのだが、この頃偶然聞いたのは、お前は和州子守町の浪人高間粂衛門の娘で幼名は岩橋という者であると、確かにそうであるか。確かにそれに違いないのであれば、自分の腹違いの妹で妾の腹の子である。その妾は理由があって懐妊してから粂衛門のもとに嫁いで行き、そちらの方でお前を産んだ事は、以前父道犬の話で聞いた。その後は絶えて安否を聞くこともなかったが、この廓に身を売っていたとは夢にも知らなかった。このまま置いては父の恥私の恥なので、父にこの事を告げて金を調達して、すぐに買い戻してやる』と言って帰られ、すでに昨夜多額の金を持って、私の身を買いなさいました。伴左衛門の言うことは、いちいち私の身に覚えがあるので、別腹の兄であるのは疑いない。さて伴左衛門が密かに話したのは『このところ名古屋山三郎と言う者が、機会あるごとにお前のもとに通ってくる事、彼には私は深い恨みがあるので、お前は手引きして討たせてくれよ』との頼みです。これを聞いて胸が塞がって、兄の頼みを請け合えば、夫を殺す大罪です。あなたに付いて兄を討たせるのもまた大罪です。仇同士に縁がつながったのは、いかなる前世の因果でしょうと、我が身が一つである悲しさを推量してください。とても生きてはいられない身の上と覚悟を決めて、あなたには今夜伴左衛門達を討って下さいと連絡しておき、伴左衛門殿はあの者立と帰ると言うのを、用があるからと言って、別の座敷に留めておいて、家の者には伴左衛門は深く酔ったと告げて、私の部屋まで駕籠を入れさせて、私は伴左衛門殿の服装で駕籠に乗って出たのは、あなたの手に掛かって死ぬためです。望み通り御手に掛かりましたなら、伴左衛門を討ったと思って、かねての恨みを晴らして、なにとぞ兄の命をお助けください。これだけが現世の願いです。仇の妹と聞きますと、さぞ後悔なさるでしょうが、せめて来世の夫婦と思って、機会があれば一度の御回向を願うのでございます。伴左衛門殿はすでに私の身の代金を支払ったので、私が死んでも抱え主の道順の損にはなりません。あなたが手に掛けても(自分を殺した事)、もとは許嫁の妻なので、罪となる事もないです。書き残したいことは多いのですが、仕損じないようにと胸が高鳴って筆も立たず、涙で墨も散りますので、いろいろ申し残しました」と、細やかに書いてあって、最後の方に
壁に生(おう)るいつまで草(キヅタ・木蔦)のいつまでも、つきぬ恨みを思ひ斬りてよ
という辞世の歌を書いてあった。
山三郎は読み終わって十分におどろいて、しばし思案にくれていたが、ややあって葛城の首を取り上げて、つくづく見ると、お歯黒を落として白歯となり、みどりの髪(つやのある美しい黒髪)を切り、笑っているような顔であった。
山三郎は涙を落として思っている事は「昔、袈裟御前*が髻(もとどり・髪を頭の上に集めて束ねたところ)を切り、夫の身代わりとなって遠藤武者盛遠(もりとお)に殺されたのは、母と夫の命を救うためであった。この葛城は兄の命を助けるために身代わりとなって自分の手にかかった心の底は、袈裟御前にもほとんど劣らない。 その志は気の毒だとは言っても、晋(しん)の豫譲(よじょう)が衣を刺した例(巻之四 第十四(2/2)参照)とは出来事が違うので、彼女が願う様に伴左衛門を助けていては、自分の父親への孝の道が成り立たない。そうではあるが、伴左衛門は昨夜のことを聞いて、遠国に逃げるのは必ずである。結局自分の心が急ぐままに、名乗って返答を待たずに、討ち誤ったのは一生の不覚である。父の仇を討たなければならない者の振る舞いではない。世の中の人に笑われる事の悔しさよ。父の霊魂が夢の中で告げた時、許婚の女は仇の妹とであると告げて下さるべき道理なのに、それをしなかったのは、よほど逃れることのできない悪縁なのか。先年生駒山の麓で奥方を奪われた時に死なねばならない一命を、これまで生きて来たのも、御主人方の御行方を捜し、父の仇を討を報いる為だけなのに、未だに奥方の御存亡も分からない。父の仇も討てない事は、不忠というのか不孝というのか、我が身であるが愛想が尽きた。と言っても武運に尽きた身なので、腹を掻っ捌(かっさば)いて冥途に行って、なんとか父親に言い訳をしようと心に決めて、血刀を取り直して、しばらくして腹に突き立てようした時、外の方から「やれ早まるな!待って待って」と声をかけて入って来た人を見ると、これは誰でもない梅津嘉門景春である。後に従っているのは鹿蔵の弟の猿二郎である。
山三郎はあまりにも思いがけないので不審に思いながら、ひとまず刀を鞘にに納めて、出迎えると、嘉門は上座に通って言った「猿二郎の案内でこの隠れ家に来たのは、ほかの事ではない。私はしばらく河内の国金剛山に世の中を避けて、仕官の希望を絶っていたが、管領勝基公の懇望(こんもう・ひたすらな願い)を無視できず、さる冬に主君と家臣の契約をして、上京して今すでに勝基公の館に居る。軍師を用いる礼儀が厚いので、昔の貧しさと引き換えて、何不足ない身となった。それについて語らなければならないのは、先年私の母が病に苦しんだ時に、御父上の三郎左衛門殿が薬代の金を恵んで、母の命を救ってくれた大恩を肝に銘じ、せめてその報いをしようと思っていたが報われず、三郎左衛門殿は闇討ちにあい、あなたも行方知れずと聞いて、かねてからの願いも叶わずに過ごしてきましたが、この猿二郎の話によって、この所に隠れ住んでいるのを聞いて、対面して私が思っている事を告げようと密かに出立してきたが、途中で人が話すのを聞くと、あなたは五条坂の堤で古朋輩(こほうばい・昔の同僚) 四人の者を討って、人違いで葛城と言う遊女を手に掛けた事、今腹を切ろうとするのは、推察する所では人違いの誤りを恥じてのことと思う。もしそうであれば大変な心得違いだと思う。その理由は何故かと言うと、およそ主君や父の仇を報いようとする者は、何度も恥を忍び、命ある限りはたとえ千万里を走っても、探し出して仇を報いるのが孝行の道の極みである。今自殺するとは軽はずみの極みではないか」と言えば、山三郎その理屈に従って面目ない様子である。
嘉門がかさねて言ったのは「桂之助殿は私の為には主にあたる。そのわけは一度には話せない。それゆえに銀杏の前殿は、先年大和の国岩倉谷にて御首を討たれようとしたのを、自分が忍びの姿の扮装でそこえ行って、我が家に伝わる火術の道具を以って太刀取り(刑場で死罪の者の首を切る役目の人)を撃ち殺し、奥方を奪い取り、今すでに金剛山の隠れ家に母と共に無事におられる。桂之助殿も同居しておられる。佐々良三八郎の忠義によって月若殿も無事で、御夫婦御親子再開の時を得た。詳しいことは猿二郎がよく知っているので、後でゆっくり聞いてください。そうであれば少しでも心を安心させて、ただこのうえは復讐の事のみに心を集中してほしい。私は勝基公に申し上げて、伴左衛門がたとえ万里の外に走っても捜し出し、立ち合っての仇討ちをお許しになるように計らう。これは三郎左衛門殿の大恩をせめてあなたに報いるためである」と言えば、山三郎は安堵の思いをして喜ぶこと限りなかった。
その時、猿二郎は恐る恐る嘉門の前にはい出て言った「先ほど途中で聞いたのでは、兄の鹿蔵が人質となって、五条坂に捕らえている事、気がかりです。どのような処置をいたしましょうか」と訊ねると、嘉門は「その件は少しも心配ない」と懐より硯を取り出して、一通の証書を書き、花押(かおう・文書の署名の下に添えて書く、印判代わりのしるし。書き判)添えて猿二郎に与えて「お前はこの一通をあの地の郡司(ぐんじ・律令制で、国司のもとで郡の行政を行った役人)の家に持って行け。その時は復讐に間違いないことが明白になる」と言うと、猿二郎はうやうやしく受け取って、ただちにそこえ急いで行った。
嘉門はまた山三郎に向かって「私は思いもよらず一人の証人を捕えて、佐々木の家の騒動の根本は、執権不破道犬の逆心より出て、継母の蜘手の方に悪意を進めて、実子の花形丸を跡取りにして、後々は母子共に亡き者にして、おのれが家を奪い取り、濱名入道に味方する計略である事を明らかにする。近い日に私は勝基公の名代(みょうだい・代理人)としてあの館に出かけて行って、道犬を糾明して悪意をはっきりさせて、再び桂之助殿を世に出したいものだと思う」と、心底を残らず話すと、山三郎は三度拝んで喜んだ。
嘉門は立ち上がって「忍びの外出なので時間が取れない。ふたたびゆっくりと会おう」といいながら、門を出て咳きをすると、はるかかなたに控えていた供の者達は、忍びの乗り物を担いで来た。山三郎は門で送って礼をすると、嘉門は会釈して乗り物に乗り込んで、別れを告げて出て行った。
こうして山三郎は嘉門の教え諭(さと)しによって、ようやく心が開けて、葛城の首をとり、手水鉢(ちょうずばち・手洗いの水を入れる鉢)の水を汲んで、血潮を洗い、泣きながら仏壇にすえて、香を焚き水を手向け、鉦を打ち鳴らして「南無幽霊頓證仏果菩薩南無阿弥陀仏あみだ仏」と唱えていると、思いがけず床の下より、明るく光る剣の切先が危なく膝頭をかすってひらめいて出た。
山三郎はキッとみて、手早く手向けの水を取って剣に注いで、刀を取り身を傍らによせて様子を見ていると、床の下には、やり遂げたと思ったのか、板敷きをメリメリと押し破って飛び出したのは誰か、これはつまり誰でもない、不破伴左衛門である。
伴左衛門は声高く「こんなこともあるだろうと思ったので、今朝はだ暗いのを幸い、お前の後をつけて来て床の下にかくれ、終始の事を詳しく聞いた。草履打ちの恨みといい妹の仇だ、返り討ちにするぞ、観念しろ」と言いながら斬りつければ、山三郎は丁と受け止め「自分で来て灯火に飛び込む夏の虫、これは天が与えたものだ」と叫んで十数回打ち合って戦ったが、伴左衛門は運命の尽きる時であったのか、簀の子に足を踏み抜いて、よろめいたところを山三郎は、速く足を跳ばせてガバッと蹴り倒して、乗りかかって刀を持ち直して、首をふつっと掻き切ったのは心地よく見えた。
ちょうどこの時、猿二郎は廓の用事を済ませて、無事に鹿蔵を連れて戻り、この様子を見て二人とも天を拝み地を拝んで、うれし泣きに泣いたのは、実に頼もしい者たちである。
☆(訳者の注)
*袈裟御前は「源平盛衰記」に登場する源渡(みなもとのわたる)の妻。
北面の武士である遠藤盛遠から恋慕(ストーカー的行為)
をされ夫や母の生命を救うため、自らその身代わりとなって
盛遠に殺された。
盛遠は恥じて出家し、文覚と称した。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
葛城辞世壁に生るいつまで草のいつまでもつきぬ恨みを思ひ斬りてよ
山三郎、不破伴左衛門を打ちて父の仇をむくふ。
【国立国会図書館デジタルコレクション 明19・2 刊行版より】