1992年プラハ の旅(その1 モスクワまで) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

 1992年10月ソ連が崩壊した翌年、東欧が自由に旅行できる様になって、バウチャー(航空券と宿泊券がセットになっている)をチェドック(当時のチェコスロバキアの国営旅行会社)から購入してロシアの航空会社アエロフロートを利用して経由地のモスクワに向かった。
 アエロフロートは安全性とサービスに問題があったが、料金が安いので、ヨーロッパと日本間の移動に利用する人が結構いた。私の乗った便は少年合唱団とパンクっぽいバンドの一行が私の近くの席を占めた。隣の窓際の席は、ロシア人の大男で窮屈極まりなかったが、その後CAが彼に話しかけ別の席に移動させたので助かった。同国人には親切なようであった。しかし、少年合唱団とパンクはやたらうるさくて、後ろから機内食の残飯が飛んでくる状態であった。
 モスクワの空港(シェレメチェヴォ2国際空港)に着いて驚いたのは、とにかく暗くて人もいないし案内もない。何処へ行けばよいのか分からず制服制帽を着用した軍人っぽい若い男に声を掛けたら目を大きく見開いて何か言いながら逃げて行った。
その辺にいたおばさんに声をかけて航空券を見せたら、そこで待つようにと椅子を指し示した。
 座って待っているとパンクの連中もそこに来て座った。ロンドン行きの案内があると、乗り継ぎカウンターにさっきのおばさんが入って、パンクの連中を通した。その後日本人らしい若い男女数名がきて青年一人を残して乗り継ぎカウンターを通った。
青年は、おばさんと何か話していたが、やがてカウンターを通された。おばさんは、私においでおいでをしたので行くと、さっきの青年に付いていくように言った。追ってゆくと青年はポツンと一人で立っていたが、私を見ると「日本人ですか、ここで待っているように言われたのですが」と不安そうであったが、私は「あんたに付いていけと言われた」と言うと益々不安そうであったが、ゲート番号をみるとトランジットホテルへ行く番号であったので多分大丈夫だと思った。
 その後、女性があちこち声をかけて歩いて来て、私達がトランジットホテルに行くのか聞いてきた。彼女の後に付いて行くと空港から出るゲートかなんかで、彼女が乗り換え客のパスポートと航空券を出させて集めた。その後、客をマイクロバスに乗せると彼女が運転してホテルに向かった。車の窓の外は雪景色で、なんとも殺風景で寒々としていた、
 到着した所は、ホテルというより鉄条網を張り巡らした強制収容所みたいな建物であった。私と青年は同室で、彼の話を聞くと大学のスキー部の合宿地がスイスなので空路でジュネーブまで行き、鉄道に乗り換えて合宿地まで行くと言う。彼以外の部員は、既に合宿地に着いていて、自分一人が後追いで来たが、初めての海外旅行だと言う。先に着いた先輩が、航空会社に預けた荷物から金が無くなっていたというので、かなり不安を感じていた。当時のアエロフロートでは、預けた荷物から金品が無くなるのはよくあることであった。
 夕食時になって食堂で食事であるが、出てきた食べ物は酷かった。ぼそぼその不味い黒パン、紅茶、パサパサの小さい蕪、多分缶詰のオイル漬けの魚、老衰死した鳥のゴムみたいな筋だけの肉(だと思う)とりあえず出てきたものを口に詰め込んでいると、同じテーブルにいた西洋人男性と東洋人女性の夫婦らしい二人が私を不思議そうに見て、女性が日本語で「それ食べれるのですか?私達には無理なので、よろしければこれも食べて下さい」と言ってきたが、お断りした。
 翌朝、二人は早めに部屋を出てロビー(ただの狭い部屋)で待機していると、下働きのおばさん達がきて何かと物を売りつけようとした。当時のモスクワは経済状態が悪く、なんとかドルを稼ごうとしているようであった。
 前日の女性が来て、パスポートや航空券を返して空港に着いた。空港には「富士」という日本食レストランがあったが営業していなかった。驚いたのは毛布をかぶって死体のように寝ている人が多数いたことであった。ソ連崩壊で居場所がなくなり、何処かに逃れようとする人々なのかも知れないと思った。
 青年をジュネーブ行きのゲートまで送った。青年は、私の手をしっかりと握りしめ「お互い無事日本に帰りましょうね」と言った時の彼の眼が潤んでいるように思えた。
 青年と別れた後、私はプラハ行きのゲートに向かい飛行機に搭乗した。