萬福寺② | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

先日の続き。

 

 黄檗宗が独立したのは明治以降のこと。江戸時代は正統派の臨済禅を伝える「臨済正宗」として、徳川幕府の庇護のもと発展してきました。威徳殿に徳川家の霊牌が祀られています。

 

 

 斎堂は衆僧(多くの僧侶)の食堂。

 

 

 斎堂に安置されている緊那羅王菩薩は、衆僧の食事を見守る火徳神。八部衆のひとりで、楽器を演奏し歌を得意とする音楽天でもあります。

 

 

   表の生飯台(さばだい)は、鬼界の衆生(生命あるもの全て)に施す飯を乗せるためのもの。

 

 

 斎堂入口の前には、日常の行事や儀式の刻限を報じる開梆(かいばん)と、朝と昼の食事と朝課の時に打つ雲版(うんばん)があります。

 

 

 修行者の域と高僧の域を分ける通玄門。観光寺院になる前は、限られた人しか通れなかったのでしょう。

 

 

 通玄門の正面に開山堂。開山堂には隠元劉琦(1592-1673)像が祀られています。

 

 

 隠元は中国臨済宗の僧で、63歳の頃、20人の弟子を連れて来日しました。寛文元年(1661)、4代将軍家綱から与えられた土地に寺を創建します。寺名は中国の自坊と同じ「萬福寺」にしました。

 

 

 松蔭堂は一線を退いた隠元禅師が隠居した所。没後は開山塔院になりました。

 

 

 回廊の途中にある雲文梵鐘。開山堂・寿蔵・舎利殿のいずれかで儀式が行われる時に鳴る鐘だとか。

 

 

 そして中和園。仏教の丸は縁、三角は社会、四角は法。この庭は信仰心を表したものと言えます。

 

 

 寿蔵は隠元禅師の生前に築造された墳墓。

 

 

 屋根の六方には、中国の仙人を表した鬼瓦が施されています。

 

 

 以上、広い境内を早足で散策しました。

 

 

 今度はハスの咲く季節に、2時間ぐらいかけて散策したいと思っています。

 

 

 行きがけに見落とした総門前の井戸。上空から見ないと分かりませんが、黄檗山全体を龍の身体に見立てると龍の眼にあたり、龍目井(りゅうもくせい)と呼ばれています。

 

 

 しばらく見ないうちに、「そうだ京都、行こう。」の観光モデルコースマップがなくなりました。やはり平等院と三室戸寺と萬福寺を1日で観光するのは無理でしょう。しばらく宇治ネタが続きます。