竹姫の縁で一橋家の姫と結婚

 前々回、重豪に江戸社交界の教育をほどこしたのが将軍吉宗の養女竹姫だったという話をしました。

 

一部繰り返しになりますが、竹姫は京都の公家清閑寺煕定(せいかんじ ひろさだ)の娘で、宝永2年(1705)に生まれています。

 

5代将軍綱吉の側室大典侍(おおすけ)は竹姫の叔母(父の妹)ですが、彼女は子がなかったため、宝永5年(1708)に綱吉に願って竹姫を将軍の養女(つまり自分の娘)にしました。

 

竹姫は会津藩嫡子松平久千代との婚約が決まったものの、久千代が間もなく死んだことから縁組は流れ、その2年後に決まった縁組も相手の早世で不縁になり、ずっと大奥で暮らしていました。

 

これをあわれんだ8代将軍吉宗が自分の養女にし、島津継豊の後室(後妻)に押し込んだのです。

 

さて、享保14年(1729)に竹姫が島津家に嫁いだことで、島津家と徳川一族との関係が大きく変化しました。

 

それまでなかった徳川一族からの縁談が来るようになったのです。

 

まずは竹姫の義理の息子となる宗信(継豊の側室の長男)に、御三家筆頭である尾張藩主徳川宗勝の娘房姫との縁談が持ち込まれ、婚約にいたりました。

 

しかし房姫が亡くなったため、妹の嘉知姫とあらためて婚約したものの、今度は宗信が早世して縁組は流れてしまいます。

 

その後重豪が江戸に出てきたとき、また尾張藩からの縁談がありましたが、以前のこともあって竹姫は乗り気ではなかったようです。

 

そうしていると、今度は御三卿の一橋宗尹(むねただ)の娘保姫(やすひめ)との縁談が舞いこみました。

 

しかもこの話は9代将軍家重の「思し召し」だということで、直接竹姫に持ち込まれたものです。

 

将軍家重も、一橋宗尹も、ともに吉宗の子供ですから、竹姫の義弟になります。

 

そこで竹姫のゴーサインがでて、重豪は保姫を正室として迎えることになりました。

 

周延「千代田之大奥 婚礼(部分)」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

竹姫の遺言

宝暦12年(1762)、保姫は重豪のもとに嫁ぎました。

 

翌宝暦13年(1763)二人の間には女子が生まれましたが早逝し、その後保姫は子宝に恵まれなかったことから、心配した竹姫が重豪に側室を持たせるなどの面倒をみています。

 

すっかり都会人となっていた重豪は国元の女性を好まなかったため、竹姫が従兄弟甘露寺規長(かんろじ のりなが)の娘綾姫と、同格の公家堤代長(つつみ としなが)の娘於千万(おちま)を江戸に呼び寄せました。

 

明和6年(1769)に保姫が病没したため綾姫は後室となり、安永元年(1772)に竹姫が亡くなった後に於千万も側室となって、安永2年(1773)12月に後の26代当主斉宣(なりのぶ)を産んでいます。

 

また斉宣が誕生する半年前の安永2年6月、重豪と側室於登世との間に女子お篤(とく)が生まれました。

 

そして同じ年の10月には保姫の弟で一橋家の2代当主である治済(はるなり)にも、嫡男豊千代が誕生していました。

 

安永4年(1775)、島津家はお篤と豊千代の縁組を申し入れます。

 

これは島津家と徳川家の血縁が長く続くようにと願った竹姫(継豊没後の名は浄岩院:じょうがんいん)が、「重豪に娘が生まれたら、徳川一族と縁組をさせるように」という遺言を残していたから(原文はこちらの461頁1275号)でした。

 

保姫の実家である一橋家の方も異存はなく、お篤は茂姫と名をあらためて豊千代の婚約者になりました。

 

この段階では島津家と一橋家という大名同士の婚約です。

 

しかし、二人の婚礼までの間に環境が激変しました。

 

大名の娘が御台所に

安永8年(1779)に10代将軍家治の世子家基が急逝したため、天明元年(1781)閏5月に豊千代が将軍の養子になったのです。

 

豊千代は江戸城西の丸に入り、名も家斉とあらためました。

 

同じ閏5月に茂姫も一橋家に引き取られ「御縁女様」と呼ばれるようになりました、婚約者として教育するためです。

 

最初は一橋屋敷に入った茂姫ですが、その後江戸城本丸大奥に新築された御殿に迎えられています。

 

この時点では茂姫はまだ将軍世子の婚約者という立場でした。

 

しかし、天明6年(1786)8月に家治将軍が亡くなり家斉が11代将軍に就任すると、大名家の娘が将軍の結婚相手にふさわしいかという議論がおこりました。

 

というのも、徳川政権が安定した3代家光以後、将軍の正室(御台所)はすべて皇族か公家のトップである摂関家の姫君だったからです。

 

江戸時代は格式が何よりも重んじられたため、将軍家と大名家しかも外様では家格がつり合わないので不適当だという意見がでてきました。

 

そのような意見を押さえたのが、「竹姫様の遺言」です。

 

じつは将軍家の縁組みについては、大奥が多大な影響力を持っていました。

 

さきに述べたように竹姫は幼少期に将軍の養女となってから島津家に嫁ぐまで20年以上大奥にいたため、一時期は将軍家の女主(おんなあるじ)ともいうべき地位にあったそうです。(畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書 による)

 

かつて大奥の最高実力者だった竹姫様の遺言となれば、大奥の老女たちも従わざるを得ません。

 

また、すでに江戸城に「御縁女様」として迎えられ、世子の婚約者であることを家治将軍が承認していたことも大きかったと思われます。

 

茂姫は形式要件を整えるため、島津家と関係の深い摂関家筆頭近衛家の養女となり、名を寔子(ただこ)とあらためて、寛政元年(1789)2月に将軍家斉の御台所になりました。

 

茂姫が御台所になれば重豪は将軍の岳父(舅)にあたります。

 

大名が将軍の岳父では幕政に不都合だろうということから、茂姫の婚姻に先立つ天明7年(1787)1月に重豪は隠居を願い出て、藩主の座を茂姫の弟斉宣に譲りました。

 

とはいえ藩主の権限を手放す気はなく、「藩政を後見する」という名目で、薩摩藩の実権を握りつづけていました。

 

将軍の岳父となった重豪の権勢は大変なもので、高輪の薩摩藩邸に居住していたことから「高輪下馬将軍」と呼ばれるようになります。

 

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薩摩人はすぐケンカして死人が出る

 薩摩藩の8代藩主重豪は、粗野な国風を変えようとしてさまざまなことを行なっています。

 

前回は身だしなみや振る舞いを都会風にしようとして失敗した話でしたが、成功したと思われるケースもあります。

 

それは「すぐに刃傷沙汰」という気風を変えたことです。

 

藩内に風俗矯正の布告を出したのは安永元年(1772)でした。

 

それから10年後の天明2年(1782)8月に薩摩を訪れた医師で旅行家の橘南谿(たちばな なんけい)が、日本各地を巡歴したときの記録『東西遊記』の中にこのような記述があります。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

 

(薩摩は)勇気をたっとびて臆病を笑うゆえに、武士、町人、百姓ともに喧嘩はなはだ多く、切り死する者一月の中に数十人なり。

天明の頃は太守(重豪)人徳をもっぱらにし給うゆえに、小事に喧嘩を起こし一命を落とす者多きをはなはだ憎ませ給い、私の喧嘩を起こし命を軽ろんずるは不忠第一なれば、これ以後は喧嘩を起こし刃傷に及ぶ事はきっと致すまじき由、きびしく仰せ出されしにより、近年大かた静まりしよし聞こえしかど、予がわずかに百日余りの逗留の間にも切腹に及びし者六人までぞ有りし。

【「九〇 義烈(鹿児島)」橘南谿著 宗政五十緒校注『東西遊記2』平凡社東洋文庫】

 

薩摩の人びとは勇気がある者を尊敬して臆病者をあざ笑うので、武士・町人・百姓の身分にかかわらず、すぐにケンカになって、それが斬り合いに発展して、斬り死にする者が月に数十人いたそうです。

 

念のために付け加えておくと、南谿は「武士、町人、百姓とも」と書いていますが、薩摩は武士が人口比で他国の5倍くらいいたために貧しい武士が多く(武士の収入は年貢なので藩の年貢を武士の数で割ったものが平均年収、武士比率が高いと平均年収は少なくなる)、ふだんは町人や百姓のようなことをやっている武士もたくさんいました。

 

とうぜん身なりもそれに近い粗末なものだったでしょうから、南谿が町人や百姓だと思ったのは身分の低い武士だった可能性が大です。

 

重豪が私闘をきびしく禁じた結果、南谿が鹿児島を訪れたころには刃傷沙汰がめっきり減っていたとはいえ、百日あまり滞在している中でケンカが原因で(相手を殺したために)切腹した者が6人いたと書いています※。

 

※橘南谿が書いたこの『東西遊記』については、文政から天保にかけて(1818~1843)薩摩を6回訪れた大阪の商人高木善助が著書『薩陽往返記事』の中で「南谿子の西遊記は、文章奇に過ぎて実を失う事多し」と書いているように、受けようとしてオーバーに言うクセがあるので、少し割り引いて見る方がよさそうですが、まったくのデタラメではないでしょう。

 

毛利正直『大石兵六夢物語』挿絵(国立国会図書館)

 

居合わせた者の連帯責任にして刃傷沙汰をなくす

藩主が「きびしく仰せ出され」たので刃傷沙汰が減ったとはいえ、なくなったわけではありません。

 

それで重豪は新たなルールを決めました。

 

なんと、刃傷の場に居合わせた者は全員切腹を命じると定めたのです。

これは天保時代前後における著名人物の逸話を集めた『想古録』という本に収められているエピソードです。

 

文中「栄翁」というのは重豪の隠居後の名前です。

 

重豪は天明7年(1787)に隠居し、寛政12年(1800)に名を「栄翁」に改めています。

 

とすればこの指示は寛政12年から重豪が89歳で亡くなる天保4年(1833)までの間に出されたのでしょう。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえています)

 

薩藩にては戦国時代の遺風依然として存在し、いささかの無礼あれば必ず刃傷に及ぶの習慣ありし。

しかるにその死生を決するに至るは、多くは傍観者の尻押しに出で、これが為めに青年壮士の空しく決闘に斃(たお)るるもの、その数少なからざりしかば、栄翁これを憂え、新令を発して、自今双士刃傷の場所に居合わせたるものは、その人数の十人たり二十人たるに拘わらず、すべて両士の死に殉じてその場に切腹せしむべしとの制を定められぬ。

これよりして人々刃傷の場に行逢わせたるときは、懇々説諭し双方を止め、決闘殆どその迹(あと)を絶たんとするに至りけるとぞ。

老隠居の政略隈々(くまぐま:すみずみに)見るべきものあり。(宮内清之進)

【「八六二 栄翁公の新法、決闘を抑止す」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】

 

語り手の宮内清之進は、薩摩出身で日清・日露の両戦争を戦い海軍大将となった日高壮之丞の実父だと思われます。

 

宮内によると、薩摩ではちょっと無礼なことがあるとすぐ刃傷沙汰になってしまい死人がでるが、その多くは周囲の者がはやし立ててけしかけたからだそうです。

 

薩摩の侍が修行する示現流(ないし自顕流)では、刀を抜いた以上は相手を斬り殺すか自分が死ぬかのどちらかしかないと教えています。

 

そして相手を殺した者はその責任を取って切腹するというのが決まりでした。

 

つまりいったん刃傷沙汰となれば、両者とも死ぬしかないのです。

 

そのようなことで若者が命を落とすのを憂えた重豪は、無責任にけしかける者たちに強烈なペナルティーを与えると宣言しました。

 

それは「刃傷沙汰になれば、命をかけた当事者だけでなく、現場に居合わせた者も彼らに殉じてその場で全員切腹せよ」と定めたのです。

 

それまでは諍いがあると面白がってはやし立てた面々も、居合わせた者全員がその場で切腹となると話がちがってきます。

 

トラブルが起こりそうなときはまわりが必死に止めるようになったので、刃傷沙汰はほとんどなくなったそうです。

 

重豪は隠居後も藩政を後見して実質的な最高権力者でしたから、このような新令を出してもおかしくありません。

 

今回は効果があったようですね。

 

 

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バンカラだった薩摩の習俗

 努力して都会人に変わった重豪ですが、そうなると目につくのが国元の田舎くささです。

 

そこで薩摩の習俗を改めさせようと考えました。

 

市来四郎が史談会でこのように話しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

 

そこで政務万端野鄙(やひ)な国風を一変して江戸風にしようということになりまして、種々なことにお手を付けられたそうです。

即ち江戸や上方の言葉遣いをも稽古せよということの布令も出されたそうです。

政務はもちろん、藩吏の職名組織までも幕府の制にならわれまして改革なされたそうです。
 

それよりして、風俗も都会風にやや赴いたそうです。

 

そういう訳で、野卑なる言語動作ではいけないという憤慨の思し召しから、そこになったそうです。

 

【「薩摩国風俗沿革及国勢推移の来歴附二十六節」『史談会速記録 第34輯』】

 

「野鄙」の「野」は「洗練されていない」、「鄙」は「いなか」という意味ですから、「野鄙な国風」とは「洗練されていない田舎者ぞろいの国柄」という感じです。

 

倭文麻環挿絵(国立国会図書館)

侠客の習俗中頃変じて又客気狂簡の弊を引出し横暴凌轢の悪風に流れたるの光景

 

「ぼっけもん」がヒーロー

薩摩がそのような国柄だったのにはわけがあります。

 

薩摩の侍たちから神のごとくしたわれた戦国時代の猛将島津義弘(17代当主)は、平時には無礼・無作法であってもいざ合戦の時となれば死をおそれずに戦う、薩摩の言葉でいう「ぼっけもん」を高く評価していました。

 

そしていざというときに主君のために平然と死ぬような家来を育てるため、日ごろから主従の交わりを親密にし、身分上のわけへだてをなくすように努めていました。

 

朝鮮の戦いにおいて島津軍があまりにも強かったので、加藤清正がその秘密を知ろうとして夜にこっそり島津の陣地をのぞきにいったという話があります。

 

そこで大将の義弘が兵士たちと交ざり合ってたき火にあたりながら歓談しているのを見て、「島津兵が強いわけがわかった」とつぶやき、静かに帰っていったそうです。

 

当時の薩摩では、戦において勇猛果敢であることが重要で、身だしなみや礼儀作法は二の次という気風でした。

 

義弘は人の姿かたちは国の風儀であり軽薄な他国のまねをすれば薩摩も弱くなってしまうと考え、「田舎者は田舎者らしきがよし」として、薩摩から都にのぼる者に国風を守るとの誓詞をとっていたほどです。

 

その結果、薩摩ではいつまでもこのような戦国の気風が残ることとなりました。

 

都会風に矯正しようとした結果‥‥‥

重豪が藩主になったのは宝暦5年(1755)、家康が将軍となって江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)ですから、殺伐とした戦国の世が終わって約150年が過ぎています。

 

平和な時代が続いていることで、武士の仕事も戦闘員から行政官に変化しました。

 

したがって武士に求められるものも、武芸と戦術から知性と社交術に変わっています。

 

そのような中で、薩摩の武士たちは依然として戦国スタイルをつらぬいていたのです。

 

重豪は江戸で馬鹿にされて、この問題に気づきました。

 

勇猛果敢であることだけが自慢で、身だしなみを気にせず、言葉遣いは乱暴、礼儀作法に無頓着で目上の者に対する態度もぞんざい‥‥‥。

 

戦国時代なら勇者として尊敬されたでしょうが、太平の世ではイキがった乱暴者にすぎません。

 

こんな連中が薩摩藩士として社交の場に出て行けば、他藩の洗練された武士たちから軽蔑されることは、重豪自身の経験でよく分かっています。

 

それで、安永元年(1772)に言語容貌の矯正を命じる布告を出しました。

 

その一部を紹介します。(漢文を書き下してあります。原文はこちらの311頁)

 

御領国辺鄙(へんぴ)の儀に候えば、言語甚だ宜しからず、容貌も見苦しく候ゆえ、余所(よそ)の見聞もいかがわしく、畢竟(ひっきょう)御国の面目にも相掛かる儀に付き、御上に於いても御気の毒に思し召し上げられ候。

急に上方向き程には改め難かるべく候えども、九州一統の風儀大概相並び候程の言語行跡には相成るべき事に候
(中略)

之に依って向後人々此の旨をわきまえ、容体・言葉づかい等相嗜み、他国人へ応答についても批判之れ無き様常々心掛くべく候。

【「852 重豪公御譜中写正文在文庫 口達之覚」『鹿児島県史料 旧記雑録追録六』】

 

内容は、

「薩摩はへんぴなところなので、言葉がよくないし、容貌も見苦しいため、よそからはいかがわしく見られている。

 

これは国の面目にもかかわるので、御上(おかみ:殿様)も気にしておられる。

 

急に上方(文化の中心である京・大坂)並みになるのはむずかしいかもしれないが、せめて九州標準くらいの言動レベルになるべきである。

 

このため、今後は誰もがこの趣旨を理解して、容貌や服装・言葉遣いに注意し、他国の人に応答するときも批判されることのないよう、日ごろから心がけるべし」

 

ということです(布告は家老からの通達なので、殿様の意向を伝える形になっている)。

 

ここで九州標準と言われても、薩摩にいるかぎり他国の様子を知ることはできませんから、どのようなものが標準なのかが藩士たちにはわかりません。

 

かといって、すべての藩士を他国視察に行かせることも無理です。

 

そこで重豪は、他国人の薩摩への入国を自由にして、薩摩の国内で他国の洗練された文化に触れさせようとしました。

 

そのために上方から芝居や相撲、芸妓までも大いに招き、舟遊びや花見も奨励します。

 

これらは薩摩のひとびとに大きな刺激をあたえるものでしたが、その結果は重豪の望んだ文化的向上をとおり越してしまいます。

 

遊びの楽しさをおぼえたことで薩摩の士風は急速に軟化し、文化人はふえずに蒙昧で軽薄な侍が増加してしまいました。

 

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薩摩訛りでイモ呼ばわり

 宝暦4年(1754)7月、10歳の島津重豪は藩主である父重年に同行して江戸に着き、島津家の世子として幕府に届け出ています。

 

翌宝暦5年、病弱だった重年が亡くなったため、重豪は11歳で薩摩藩の8代藩主(島津家25代当主)になります。

 

祖父継豊(つぐとよ:5代藩主)が後見することになったのですが、彼も病気がちだったことから、幕府の許可を得て温泉治療のため薩摩に帰っていました。

 

この継豊はその後江戸に出ることなく、薩摩滞在のまま5年後の宝暦10年(1760)に亡くなっています。

 

つまり、重豪は藩主となったものの、教え導いてくれるはずの祖父は遠く離れた薩摩にいるという状況だったのです。

 

当時の様子を、島津家事績調査員の市来四郎が史談会でこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

 

重豪公は世子となられて江戸にお出になって、大広間の大名方のご交際も始められて、その時分はお大名中のご交際ははなはだ放逸(ほういつ:節度をわきまえず勝手気ままにふるまうこと)なものであったそうですが、言詞が薩摩唐人とか或いは芋武士とか言われたことも毎々(まいまい:しばしば)あったそうです。
【「薩摩国風俗沿革及国勢推移の来歴附二十六節」『史談会速記録 第34輯』】

 

「大広間の大名方」というのは、江戸城の殿席(でんせき:城中の控え室)として大広間が割り当てられている大名で、外様の国持大名(=大大名)クラスと御三家の分家などの家門大名(徳川一族)がこれにあたります。

 

大名で最も石高が大きいのは加賀百万石の前田家ですが、外様でもここだけは別格で御三家と同じ最高ランクの「大廊下」(松の廊下に面した部屋)が控え室になります。

 

島津家は前田家に次ぐ77万石なので、大広間では最大の石高です。

 

そういう島津家の世子なら一目置かれそうなものですが、重豪が江戸城デビューしたときはまだ無位無冠でした。

 

大名の社交ランクで重視されるのが殿席と官位です。

 

下にあげたのは「武鑑」という大名・幕府役人のデータブックですが、殿席と官位がトップ(名前の右肩)に書かれています(石高は末尾に記されるので、このページにはなし)。

 

『大成武鑑(嘉永5年)』より島津斉彬部分(ブログ主所蔵)

 

藩主の世子は江戸に住まなければならないのですが、前回のべたように重豪は分家にいたため薩摩育ちで言葉は薩摩弁、藩主教育を受けていないので大名の作法も知りません。

 

大広間の同僚となった大名たちは江戸暮らしの長い「都会人」ばかりですから、マナーを知らず訛りもひどい無位無官の田舎者が来たといって馬鹿にしたのでしょう。

 

じっさい江戸時代に薩摩で書かれた『倭文麻環(しずのおだまき:以前紹介した男色本とは別の書物)』という本には、薩摩から江戸に出たばかりの藩士が日本橋の呉服屋でフンドシを買おうとして言葉が通じず、荒物屋に行けと言われて、そこでも言葉が通じずにスリコギを出されたという話が紹介されています。

 

『倭文麻環』挿絵(国立国会図書館)

「或人荒物屋に行きまはしを買はんといへば屋の女大摺木を出せし故肝を禿したる所」

 

重豪はそこで、猛発憤して江戸スタイルを勉強し始めました。

 

市来は先ほどの話につづけて、「それがご残念で、言行共にご研究なされ、元来英邁機敏でござりますから、直ちに衆に抜きんでられたそうです」と語っています。

 

負けん気の強い重豪は、江戸の言葉や大名の作法・しきたりを必死で習得して、すぐにマスターしたようです。

 

そんな重豪にとってラッキーだったことには、身近なところに最高の先生がいました。

 

祖母竹姫

後見役となっている祖父継豊は療養のため薩摩に戻っていますが、彼の後室(後妻)である竹姫は江戸藩邸に住んでいました。

 

竹姫は京都の公家清閑寺(せいかんじ)大納言煕定(ひろさだ)の娘で、叔母が五代将軍綱吉の側室であったことから綱吉の養女になりましたが、婚約者が二度続いて若死にしたため不縁となり、気の毒に思った八代将軍吉宗が養女にして、妻を亡くしていた島津継豊の後室に押し込んだものです。

 

この竹姫は「器量は勝れないが、ことのほか利発で孝心にあつい」女性だったそうです。【畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書】

 

将軍家の息女というのは、実子・養子の区別なく、嫁いだのちも将軍姫君として優遇されます。

 

したがって結婚後も嫁ぎ先を見下すような姫君も多かったようですが、孝心のあつい竹姫は「嫁入りした後は島津家の家風にしたがう」としていました。

 

彼女には男の子が生まれなかったので、継豊の側室が生んだ宗信(重年の兄)を大変可愛がっていましたが、宗信は23歳という若さで亡くなりました。

 

その悲しみを補うかのように、江戸のことも大名のことも知らない10歳の少年重豪が出現したのですから、はりきって重豪の教育に取り組んだはずです。

 

本人の能力に加え、江戸城のしきたりを熟知している竹姫に養育されたことによって、重豪は短期間で都会人に変貌できたのだと思われます。

 

 

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大名のもっとも重要な仕事は子作り?

 前回の後半で、老中水野忠邦が大奥年寄姉小路にやり込められたエピソードを紹介しました。

 

その中で姉小路が「御内室や御部屋」と語っていますが、これは「正室と側室」つまり「正妻と妾」ということです。

 

江戸時代においては、ほとんどのポストが「家業」でした。

 

要するに、職業や地位は「家」に附随していたのです。

 

そのような状況でしたから、家がなくなるということはイコール職を失うことです。

つまり、大名家にとって跡継ぎの有無は家の存続にかかわる最重要事項になるわけです。

 

じっさい藩主に跡継ぎがいないという理由で取りつぶされた藩はいくつもありますし、そうなれば家臣たちも失業します。

 

まさに「お家の一大事」です。

 

そのため各大名は、正室だけでなく数人の側室をおいて、子作りに励んでいました。

側室は人数制限がない上に入れ替えもできますから、各大名は複数の側室をおいていました。

 

いっぽう、正室は一人だけです。

 

死別か離別しないかぎり後室(後妻)を迎えることはできませんし、後室を迎えず側室のみで過ごす事例もありました。

 

子作りのためといっても、正室と側室では大きな違いがあります。

 

というのも、相続権は生まれた順ではなく、正室の子供が優先するからです。

 

そこで大名は正室がいなかったり、いても男子が生まれていなかったりした場合、側室の子供が生れてもすぐには幕府に届け出ることをしません。

 

(当時は乳幼児の死亡率が高かったので、あるていど成長してから届け出るのが一般的だったこともあります)

 

そうして、正室に子供ができないとわかった時に、はじめて届け出ました。

 

そうしないと、どちらを世子(後継者)にするかで御家騒動がおきるからです。

 

たとえ先に生まれていても、その後正室に男子が誕生すれば、正室の子(嫡子)が優先されて世子となります。

 

その場合、側室の子(庶子)は兄であっても藩主にはなれないので、日陰者として暮らすか他家の養子となるほかはありませんでした。

 

揚州周延「千代田之大奥 婚礼」(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大名の夫人には停年があった

興味深いのは、正室・側室にかかわらず、女性が30歳になれば子作りは卒業ということです。

 

稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』(青蛙房)の「一.公方と諸侯 5.大奥の真相 定年と身代りの推薦」には、

 

「将軍家でも諸侯(大名家)でも、その正夫人であると妾であるとに拘らず、停年制があって、女が三十になると御褥(しとね)御断りということがある。

 

そうなると正夫人であれば自分の召使いのうちから、器量、人柄相応なものを自分の代りに殿様へ進上する。」

 

と書かれています。

 

正室であっても30歳を過ぎると出産に関しては現役引退で、自分の代わりとして若い女中を推薦しますが、その女中が産んだ子供は正室の子ではないため庶子になります。

 

このような制度になっていたので、大名の世子で正室の子供というのはごく少数です。

 

たとえば島津家では、初代藩主の家久(当主としては18代)から最後の藩主となった忠義(29代当主)まで11人の藩主がいましたが、正室の子は重豪(しげひで:25代当主)と斉彬(28代当主:正室弥姫の長男)の2人だけです。

 

しかも、重豪が生れたときは父重年(しげとし)はまだ藩主になっておらず、加治木(かじき)島津家という分家の当主だったため、重豪は嫡子ですが藩主の子ではありませんでした。

 

つまり11人のうちで、生まれながらの世子は斉彬だけです。

 

斉彬に多大な影響をあたえた曾祖父重豪

重豪が生まれた加治木(かじき)島津家というのは、島津家の「一門家」(加治木・重富:しげとみ・垂水:たるみず・今和泉:いまいずみ の4家)で、将軍家でいえば御三家にあたり、本家の跡継ぎがいない場合に藩主を出す資格がある、薩摩藩では最高の家格になります。

 

なかでも加治木島津家は、初代藩主家久の次男で19代光久の弟となる忠朗(ただあきら)を家祖とする、一門家の筆頭格でした。

 

重豪の父重年は、5代藩主継豊(つぐとよ:22代当主)の次男として生まれ、加治木島津家の養子となっていましたが、藩主だった兄宗信が寛延2年(1749)に22歳で亡くなったため、本家に復して7代藩主(24代当主)となりました。

 

このとき重豪は5歳で、鹿児島城下にあった加治木島津家の屋敷で暮らしていましたが、藩主に就任した父に代ってひとまず加治木家を継ぎました。

 

そうして宝暦4年(1754)5月、10歳になった重豪は父とともに鹿児島を発して江戸に向い、7月に江戸到着後、幕府に島津家世子として届け出をしています。

 

翌宝暦5年(1755)に父重年も若くして亡くなったことから、わずか11歳で藩主となりました。

 

この重豪は斉彬の曾祖父で斉彬をたいそう可愛がり、斉彬の人格形成にも多大な影響をあたえた人物ですが、たいへん個性的で、興味深いエピソードがたくさんあります。

 

次回以降は重豪について、お話ししていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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新老中松平定信、大奥年寄をやり込める

 前々回では、老中の松平定信が大奥年寄や中老の高額なおやつ代を減額せよと指示を出し、反発する大奥との間で板挟みになった勘定方役人が、毎朝切腹覚悟で出勤していたというエピソードを紹介しました。

 

松平定信は譜代大名である白河藩の藩主ですが、出自は御三卿のひとつ田安家で、8代将軍吉宗の孫になります。

 

譜代大名の養子にはいったために将軍の家臣という地位になりましたが、もし田安家に残っていれば11代将軍の有力候補でした。

 

彼は「ワイロ政治」と批判された老中田沼意次の失脚後に28歳で老中首座となり、田沼の積極財政策で悪化した幕府財政を立て直すために「寛政の改革」を行ないます。

 

この改革はひとことで言えば「倹約の徹底」でした。

 

それで「大奥のおやつ代を削減せよ!」ということになったのです。

 

寛政の改革は一定の成果をあげましたが、厳しすぎる倹約策はひとびとの反感をかい、35歳で老中を退任しました。

 

この松平定信が幕臣のトップ※である老中首座となったときに、同様に大奥女官のトップである年寄とはじめて対面したときのエピソードが伝わっています。(※大老は臨時に置かれるポストなので、平常時は老中首座がトップになります)

 

中興の賢相白河楽翁(松平定信)が老中の上席を命ぜられて、始めて大奥の老女と対面しけるとき、両手を膝上に置き、応接せられけるに、老女は後にてこれを咎め、両手を膝より下ろして挨拶せざるは先例に違うて不都合なりとて、厳重なる難詰を発[おこ:原ルビ]しけり。


楽翁大いに怒り、我今老中を勤むればこそ越中守なれ、元来其方どもは我家の召使の身分なり、我いずくんぞ其方どもに手を突て挨拶する道理あらんやと、異議凜然、冒すべからざる風采を以て説破せられけるに、老女は語塞がり、二の句を出す能わずして引去りけるとぞ。


これ楽翁が大奥に向て下したる第一着の太刀風にして、この非凡なる答弁は一時大奥を震慄せしめけるとぞ。(泉本主水正)

 

【「一一一三 楽翁、大奥の老女を説破す」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】

 

松平定信肖像(物集高量『白河楽翁公:教訓道話』口絵)
(国立国会図書館)

 

新老中の挨拶に来た定信が、年寄の前で畳に手をつかず膝においたままであることを「先例と違う」と注意されたら、怒って「私は(将軍家の政治をあずかる)老中だ、その方らは将軍家の召使いではないか、私がなぜその方どもに手をついて挨拶せねばならないのか」といったので、大奥の年寄は言葉につまって引き下がったというエピソードです。

 

さきほど述べたように定信の出自は御三卿の田安家で、彼は8代将軍吉宗の孫になりますから、「其方どもは我が家の召使の身分なり」と言い切ったのでしょう。

 

しかし、このようなエピソードが伝わっているということは、裏返せば、通常は老中が年寄にやり込められていたからだと考えるのが普通です。

 

老中と大奥年寄

ところで、老中とはどのようなポストだったのでしょうか?

御老中といえば幕閣の大臣で、まことに権威赫々(かくかく:功名や声望などが立派で目立つさま)たるものであって、往来するのにも諸大名が道を譲る。


前田とか島津とか、国主大名と言われる大諸侯でも「その方」と呼びかけて命令する。


徳川の親類の尾張、紀伊、水戸の御三家からも大変な会釈をされた。
【稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』青蛙房】

 

いっぽう、大奥の年寄はこうです。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

すべて奥向きの万事を締め括り、表にて申せば御老中に比(たぐ)うべき大奥第一の重役なり。


されば其の威権他に秀でて高く、一言口を離るれば能く辞返(ことばが)えしするものなき程なり。


御三家、御三卿の御簾中(れんちゅう:正室)など参拝したるみぎりも頭を畳につけることなく、拝礼口儀(こうぎ)とも甚だしくは謙遜ならず。


されどもこれらの時にはよく御台所に介添して万事をとりなし、腕なきもののなかなかに勤め得べきものにあらず。
【「女官職制」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 上(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

余談ですが、「御簾中」というのは御三家・御三卿のみで、おなじ正妻であっても諸大名や5千石以上の旗本は「御内室」、目見え以上5千石未満は「奥方」、目見え以下(=御家人)は「御新造」と呼び名がちがっていたそうです。【薄井龍之「旧幕府の諸大名に関する慣例」『史談会速記録 第168輯』】

 

老中は国家の行政機関となる幕府の責任者ですから、将軍ファミリーの世話係のトップにすぎない大奥の年寄より上位にあると思うのがふつうです。

 

しかし、現実はそうではありませんでした。

 

老中水野忠邦、大奥年寄姉小路にやり込められる

ところで、江戸時代の三大改革というのは、8代将軍吉宗の「享保の改革」、老中首座松平定信の「寛政の改革」、そして老中首座水野忠邦の「天保の改革」を指します。

 

いずれも幕府の財政事情が悪化したことへの対応として行なわれたことから、毎回幕府の出費を抑えるための「倹約令」を出しています。

 

そうなると一番目につくのが年間20万両といわれる大奥の経費です。

 

天保の改革においても、水野老中は大奥のぜいたくな生活を改めさせようとしました。

 

そこで、老中みずから大奥のリーダーである年寄に説明に行きました。

 

対面した場所は大奥の入口近くにある御広座敷(御広敷)で、そのときの話を三田村鳶魚がこのように書いています。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、カギカッコをつけて、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

難物の大奥へ手をつけるとき、上﨟年寄の姉小路を説伏しないと、必ず異論が出て、行なわれないと考えたから、自身に面接して改革の御趣意を縷陳(るちん:事細かに述べること)した。


姉小路は仔細に聞き取って、「ごもっともの儀しごく御同意」だと答えたので、越前守もホッと溜息を吐くと、姉小路は「越前守殿に伺いたい、貴所にも定めて御内室や御部屋はおありであろう」と聞かれて、越前守は気も附かず「お尋ねまでもない」と云った。


姉小路は「如何にも左様あるべき筈と存じられる、一体人間には飲食男女の欲はきまったもののように思われるのに、大奥の女中一同はいずれも独身で暮らして居る、女は人間でなかろうか、男子と同じものならば、一方で欠けたところを美服美食にかえて欲情を満足させるのも拠はあるまいかと存じる、この辺の儀は越前殿には何とお考えなさるのか」と切り込まれて、返答につまったまま、忠邦は御広敷を逃げ出したという。


姉小路は傑出した女であったから、流石の越前守を閉口させたのみと考えては違う、

 

(中略)

 

貧乏公家や御家人の娘が立身出世した大奥女中、同輩猜疑(さいぎ:ねたみうたがうこと)娼嫉(しょうしつ:ねたみや嫉妬)の間をすりぬけて進んでいく才分は恐ろしい、大名の子が育った老中とは下地も違えば苦労も違う、相撲にならないのも無理はない。

【「帝國大学赤門由来」三田村鳶魚『大名生活の内秘』】

 

冒頭にあげた話は、松平定信が大奥年寄に着任の挨拶をした際のエピソードでした。

 

定信は勘定方の大奥担当に経費削減を命じましたが、大奥への対応は勘定方にやらせたので、板挟みになった勘定方の武士たちは、責任を取らされて切腹することを覚悟しながら出勤していました。

 

最後に書いた話では、水野忠邦は定信とは異なり、自身で大奥に説明に行っています。

 

相手は大奥女官の筆頭となる上﨟年寄の姉小路です。

 

ひととおり水野の説明を聞き終えた姉小路は、「ごもっともな話で、同意します」と答えて水野を安心させた後、攻撃に転じました。

 

「水野様にも、奥様や側室はおありでしょう?」

 

と切り出したのです、ホッとして気がゆるんでいた水野は、

 

「それは、お尋ねになるまでもなく、おります」

 

と答えました。

 

姉小路はすかさず、

 

「そうでしょうね、そもそも人間には食欲と性欲が必ずあるものです、しかし大奥の女中たちはみな独身で暮らすことを強いられています。

 

女は人間ではないのですか?

 

男と同様に二つの欲があるのに、片方を禁止されているため、その欠けたところを美服美食に換えて欲情を満足させているのも無理はないかと存じますが、このことについて水野様はどうお考えですか?」

 

と問いかけたので、忠邦は返答につまって、その場から逃げ出しました。

 

この話を紹介した三田村鳶魚は、大奥の年寄というのは「貧乏公家や御家人の娘」が猜疑や嫉妬がうずまく女の世界において実力でのし上がって頂点に立った人物であるから、ボンボン育ちの老中では相手にならないと看破しています。

 

大奥の年寄が老中より上位になっていたのは、職位ではなく力量の差だったということですね。

 

 

 

 

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体を洗う家来に指示が出せない

食事の話がつづいたので、ついでに入浴の話もしておきます。

 

食事の話でもとりあげましたが、旧広島藩主で昭和12年まで存命だった ”最後の殿様” 浅野長勲(あさの ながこと)はこう語っています。

 

入浴なども随分困りました。

浴衣は夏でも冬でも麻の裏付きの浴衣で、冬は寒いものです。

湯殿に行く時は、戸口まで小姓がついて来る。

湯殿の中は、側坊主(そばぼうず)というものがおるけれども、これは身分が低いので、ものも言えず、お答えも出来ない。

湯が熱かったり、冷たかったりすると、熱い熱い、と独り言を言う。

坊主がそれを聞いて戸のところへ行って、「何か御意があります」、という。

小姓が、「何か」、と聞いて、はじめて、「湯が熱いという御様子でございます」、という。

その間、私は裸で立っておらねばならない。

形式でまことに困るのです。

風呂は焚くのではない、入れるのですから、加減は見るはずなのですが、こういうことがある。

多分あとで叱られるのでしょう。

これは表の話ですが、広敷で風呂に入ったことはありません。

入るのは一日に一度以上はない。

大概朝早く食事が済んでからで、私どもは隔日に入りました。

洗うのは、側坊主が糠(ぬか)袋の中に洗粉を入れてこする。

ろくに垢は出んでしょう。

手拭で拭くことはなしに、すぐ浴衣を着て、居間へ通ります。

居間へ帰ってから、ほかのものを着せるので、よくは拭けないだろうと思われます。

【「浅野老公のお話」三田村鳶魚 朝倉治彦編『武家の生活』中公文庫】

 

広敷とは表(公的スペース)ではなく、奥(私的スペース)を指します。

 

「広敷で風呂に入ったことはありません」というから、浅野長勲は仕事場近くの風呂を常用していたようです。

 

殿様ですから自分で体を洗うようなことはせず、体洗い専門の従者(側坊主)がいました。

 

殿様の身のまわりの世話をする小姓は、湯殿(ゆどの:風呂場)の入口までついてきますが、体を洗うような作業は身分の低い側坊主の担当です。

 

また、浴槽に湯を入れるのは別の係が行なっていました。

 

お湯係が湯加減を間違えてお湯が熱かった場合、殿様が「熱い!」といっても、身分の低い側坊主は殿様と口をきくことが許されないので、殿様の指示を直接受けることができません。

 

そのため外で待機している小姓のところに行って、「殿様が何かおっしゃっていらっしゃいます」と告げます。

 

そこで小姓が「どうしたのか?」と聞き、側坊主が「お湯が熱いようでございます」と報告して、小姓がお湯係に「水を入れて湯をうめろ」といった指示を出すことになります。

 

現代なら笑い話のようですが、当時はいちいち小姓を通さないと湯をうめることもできないという「形式(主義)でまことに困る」わけです。

 

このムダなやりとりのあいだ殿様は裸のまま洗い場でじっと待っているしかありません、冬場などはさぞや寒かったことでしょう。

 

さて、風呂から上がると、手拭で体をふくことはせず浴衣を着て居間にもどります。

 

そこで浴衣から着物に着替えるのですが、体をじゅうぶんに拭いていないので、さっぱりした気分にはなれなかったかも知れません。

 

鳶魚によると、浅野家では殿様の浴衣は夏冬関係なく常に麻の袷(あわせ:裏地のついた着物)だったそうです。

 

麻の浴衣にどれほどの吸水性があるかは知りませんが、「よくは拭けないだろう」と語っているので水気が残っていたことでしょう。

 

島津家別邸「仙巌園」の御殿にある殿様専用の湯殿(ブログ主撮影)
(左奥に見える細い石柱は大正時代につけられた水道)

上の写真は島津家別邸仙巌園の御殿にある殿様専用の風呂場ですが、浴槽にくらべて洗い場が大変広くなっています。

 

同じ御殿内に残っている家族用の風呂場(非公開)では、浴槽と洗い場がほぼ同じ位の広さでしたから、殿様だけは別待遇だというのがよくわかります。

 

将軍の入浴

では将軍の入浴はどうだったでしょうか?

 

以前紹介した『千代田城大奥』にはこのように書かれています。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

すでに夕景にもなれば御小姓をお供に必ず「御湯殿」へ入らせらる。

湯殿の構造は、前に述べたるごとし。

将軍湯殿に入れば、御小姓は先づ「お上り湯」という一間にて、脇差を床の刀掛に載せ、将軍の帯を解きて、御召台の上に置き、召物も同じく台に載す。

お小納戸はかねて白木綿の筒袖襦袢を着、白木綿の糠袋七八個を用意して傍に控え、湯の加減を測りまた上り湯を汲み取りなどす。

将軍風呂より出づれば、お小納戸の湯殿掛(ゆどのがかり)は糠袋にてその体を洗うに、顔に手に背に足に、ことごとく糠袋を取替え、一度肌につきたるをば再び他に用うることなし。

さて浴(ゆあみ)を終る時は別に用意の湯をさしわたし八九寸もある丸柄杓にて背中よりそそぎ掛け、然る後「お上り湯」という一間へ入れまいらす。

浴衣は十枚許りも[白木綿にて造り是も台へ載せおく:原注]あるべし。

一枚掛てすぐとってまた掛け、肌の乾く迄は何枚にても掛くるなり。やがて七八枚も掛て乾きたる後、召物を上るなり。

入浴の後、夕飯を食せらる。

【「将軍の日課」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 下(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍の場合も小姓は脱衣の手助けまでで、洗い場には入りません。

 

洗い場の担当は「小納戸の湯殿掛」です。

 

将軍家の小納戸というのは、「将軍に近侍するものだが、小姓よりもやや軽く、将軍の理髪、食膳などの雑用を担当する」者で、「小姓からの上意伝達を受けて働き」ます。【稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』】

 

風呂の湯加減は湯殿掛がチェックするので、将軍が裸で待たされることはなかったでしょう。

 

大名と同様に体はぬか袋でこするのですが、こする場所ごとにぬか袋を新しい物と取替えて、一度使ったものは廃棄します。

 

そうして、湯から上がるときには、浴槽とは別に用意したお湯を湯殿掛が柄杓に汲んで、将軍の背中から注ぎかけます。

 

その後、隣接する「お上がり湯」の間に移動し、そこで白木綿の浴衣を何度も着せ替えて肌の水気をとります。

 

手拭で拭いた方が早いと思いますが、そういうことはせずに、かわいた浴衣を7,8回着せ替えていたそうです。

 

浅野長勲は朝風呂でしたが、家茂将軍は夕食前の入浴ですね。

 

殿様の生活は身のまわりのことをすべて家臣が行なってくれるのですが、かえって面倒な気がします。

 

風呂ぐらいはひとりで勝手に入りたいと思ったのではないでしょうか?

 

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八つ時は「おやつ」タイム

前回は将軍の正室である御台所の朝食についての説明でした。

 

引用した『千代田城大奥』には御台所の「おやつ」についても書かれていましたので、今回はその話。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

八ッ時(現在の午後2時)にお合[あい:原ルビ]の物を差し上ぐ。

御菓子は御舂屋[みつきや:原ルビ]製の羊羹、饅頭及び御菓子調進所なる白銀町二丁目大久保主水[おおくぼもんと:原ルビ]を始めとし、愛宕下長谷川織江、本石町二丁目金沢丹後、横山町三丁目鯉屋山城、本銀町二丁目宇都宮内匠製の蒸物等にて[主水をモンドというべきを、召し上り物を製するに音の濁るは即ち水の濁る形ちにて悪しとて、御本丸に限りモントとすみて呼ぶなり:原注]

これを一品五個ずつ、黒塗地に唐草形の金蒔絵をあらわし縁には金を置きたる中皿大の御菓子盆に盛りてたてまつる[夏季は神田須田町三河屋五郎兵衛より御菓子を納む:原注]。

御菓子の毒味は御飯の時の手続と同じ、但し一個を味わいてその他を類推するなり。

この時煎茶をたてまつる。

御茶器は唐草の毛彫に葵御紋と御生家の御紋とを散らせし銀瓶に、小室焼(おむろやき:水の毒を消すと言い伝えられているらしい)の御茶碗を添う。

さて御菓子は二個ばかりより多くは召し上がることなく、余の品は御側の女中御前にて頂戴するなり。
【「飲食」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 上(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

大奥では八つ時つまり午後2時になると、「お合いのもの」として、羊羹(ようかん)・饅頭(まんじゅう)・蒸し菓子などがでてきます。

 

御舂屋というのは江戸城内にある精米や餅をつくところですが、ここで羊羹と饅頭をつくっていたようです。

 

それに続いて住所付きで書かれているのは今風に言えば「幕府御用達」の菓子屋です、つまり江戸の超一流スイーツが提供されるわけです。

 

なかでも「御菓子調進所なる白銀町二丁目大久保主水」というのは、徳川家康の家臣で菓子作りが得意だった大久保藤五郎を祖とする名店で、御用菓子屋の筆頭として江戸市中の菓子屋をたばねていました。(余談ですが、大久保主水は幕府御用達に専念して店売りはしなかったそうで、明治維新で幕府がなくなると廃業しています)

 

現代におきかえれば、東京の超一流スイーツ店が腕によりをかけて製造したお菓子がズラリと並んでいるというイメージでしょう。

 

各品5個ずつ出てきたものから1個を毒味役が食べて安全確認したのちに、御台所が1~2個を取り、残りはそばにひかえる女官たちが御前で一緒に食べました。

 

 

揚州周延「千代田之大奥 元旦二度目の御飯」

(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

1回のおやつ代が3両!

この大奥のおやつについて、こんな話もあります。(読みやすくするため現代仮名づかいにあらため、一部漢字を平仮名にしています)

 

大奥の女中は意想外なる贅沢をきわむるものにて、老女中老の如き権勢ある女輩は、三度の食事の後一盆の菓子を供せしむるを例とせり。

松平定信閣老となりける時、その菓子の入費を取調べしめけるに、一盆の価値[あたい:原ルビ]三両ずつを要するとのことなりければ、それは過分なる取扱いなりとて、菓子の種類を饅頭羊羹今坂の類となし、一盆の価値を三匁以内にて弁ずべきことと定められたり。

元来定信は財政整理に熱心し、大奥のこと万事これに準じて節倹を加えられければ、奥にては大いに不平を鳴らし、囂々(ごうごう)勘定方の吏に迫り、勘定方はまた、奥を立てれば表に済まず、表に従えば奥に怨(うら)まれ、いわゆる板挟みの位地に立ちて、一方ならぬ心配しけるとぞ。

そのころ御勘定方を勤めたる人の話に、毎朝出仕のときは、今日こそ切腹せねばなるまいと覚悟して我家の敷居を跨ぎたりといえり。

大奥女権の盛んなること想い見るべし。(林主税)
【「四八三 女中の奢侈、閣老の検素と衝突す」山田三川著 小出昌洋編『想古録1』平凡社東洋文庫】

 

大奥では、御台所だけでなく幹部クラスの女官もぜいたくな暮らしをしていました。

 

これにストップをかけたのが、積極財政策をとって失敗した田沼意次の失脚後に老中となった松平定信です。

 

御三卿のひとつ田安家出身で、白河(現在の福島県白河市)藩主となった定信は「寛政の改革」とよばれる緊縮財政策(=経費削減)を行なったことで知られています。

その定信が目をつけたもののひとつが、大奥のおやつでした。

 

おそらく旧幕臣だと思われる林主税(はやし ちから)という人が語ったところによると、大奥の御年寄や御中老など幹部は、毎食後にデザートとして「一盆の菓子」を楽しんでいたようです。

 

そのデザートの値段が一盆3両(現在価値で30万円!)と知った定信は、ぜいたくな菓子ではなく、まんじゅう・ようかん・今坂(いまさか:大福の一種)などにして、3匁(同6,000円)以内におさえるようにと勘定方(会社でいえば経理部)に命じました。

 

(ちなみに、当時茶店で売られていた大福は1個8文(0.1匁)、今坂は1個12文(0.15匁)【塚原渋柿園著 菊池眞一編『幕末の江戸風俗』岩波文庫】だったそうですから、3匁は普通の大福なら30個買える金額です)

 

このような指示を出すなら、老中から事前に大奥と話をつけておくべきですが、どうもそうではなかったようです。

 

困ったのは勘定方の役人です。

 

老中からは経費削減を厳命されたものの、大奥の女官たちは承知していません。

 

たちまち勘定方にクレームが殺到しました。

 

老中と大奥の板挟みになって苦しんだ勘定方の役人たちは、毎朝出勤するときに「今日は責任を取らされて切腹しなければいけないかも‥‥」と悲痛な覚悟で家を出たということです。

 

 

 

 

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御台所の朝食

前回ご説明した将軍の朝食は二汁三菜でした。

 

では将軍の正室である御台所(みだいどころ)の朝食はどうだったでしょうか?

 

『千代田城大奥』にはこのように書かれています。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

さてご飯の砌(みぎり)、御着座の次第は御台所の後ろに御小姓二人並びて坐し、
御座の前正面へ一の膳、側へ二の膳を据え、
御座へ対し少し下りて御年寄真先に坐し、少しく下りて右に中年寄着座し、
(中略)
また御年寄の左り少し下がりて御中﨟着座し(以下略)
【「飲食」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 上(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍の給仕は小姓でしたが、御台所の場合は後ろに小姓2名、正面に御年寄、その左右に中年寄と御中﨟がいて、正面の3名が給仕をつとめます。

 

(大奥の職名はわかりにくいのですが、幕府におきかえれば、御年寄は老中、中年寄が若年寄、御中﨟は側役というイメージです)

 

配膳は次の図のように、正面に「一の膳」、その横に「二の膳」が置かれます。

それぞれの膳に置かれるものは下の図のとおりです。

 

一の膳は中央に「腰高」と書かれているので、二の膳より少し高くなっていたのでしょう。

 

御台所の膳(『千代田城大奥 上(朝野叢書)』明治25年朝野新聞社刊より)

 

一の膳の上にある「チギ箱」と「鳩」は飾り物で、縁起物のようです。

 

食事の内容は季節によって変わりますが、この本で紹介されているものは

 

「一の膳」

 

汁(しる):味噌汁に落し玉子

 

平(ひら):さわさわ豆腐の淡汁(つゆ)にて、これには花の香を充分に入れる

 

置合(おきあわせ):カマボコ、クルミの寄せ物、金糸、昆布、鯛の切り身、寒天

 

「二の膳」

 

焼物:魴鮄(ほうぼう)

 

お外物(ほかのもの):玉子焼へ干海苔を巻きたるもの

 

御壺(おつぼ):煎豆腐(いりどうふ)

 

香の物:瓜粕漬(うりかすづけ)、大根の味噌漬

 

となっています。

 

香の物(漬物)は、メインキッチンである御広敷(おひろしき:大奥勤務の男子役人が詰めている区画)御膳所のものは不味いといって大奥の御膳所で独自に調理しているほか、お外物も同様に大奥でつけ加えています。

 

夫である将軍よりもリッチな食事ですが、サラリーマンの夫が社員食堂の定食を食べているときに奥様はホテルのランチバイキングを満喫しているようなものでしょうか。

 

一口ごとに魚を取替え

ところで上の図で一の膳の左上にある箸ですが、これは正面に座っている御年寄が御台所のために使うものです。

 

具体的には‥‥。

 

御飯を召し上がる時、御年寄は御膳の向こうに乗せある柳箸をとりて、御肴などムシリて差し上ぐ。

御肴は一箸にても召し上ればただちに「おかわり」と御年寄申し出すを御中﨟承りて、かたわらなる三方を両手にて目八分にささげ、三膝ばかり摺り出でて御年寄より御下がりを受け、元の座に摺り返りて後ろの敷居外に控えたるお次の者へ「何々のおかわりを」と申しつくる。

お次の女中居並びおる次の間には小さき御番立を置き、ここに表使控え、かたわらには御仲居一名陪席す。

さて御中﨟の命によりて、お次の者お仲居と、この間にておかわりを受け渡しするに、一々表使の検査を受く。

御飯のおかわりは中年寄これを承る。

すべて膳部に上つりし品は三度迄おかわりを差し上ぐる例なれども、最後の一人前は手つかずに下ること多く、即ち一品につき二箸づつを召し上がる割合なり。

御飯三碗(食は三碗に限る例なりとぞ)を召し終れば御中﨟は起きて、お次の者に「お茶を」と申しつくる。
【前掲書】

 

御台所が食事をするときには、正面に座った御年寄がさっきの箸で焼き魚を一口分むしって御台所に差し出します。

 

そして御年寄が「おかわり」というと、左に控えていた御中﨟がにじり出て、ささげ持った三方で一口食べただけのお皿を受け取り、もとの位置にもどって敷居の向こうにいるお次(役名)の女中へ「何々のおかわりを」と告げます。

 

敷居の向こう、つまりとなりの部屋にはお次の女中たちが控えていて、その横には小さなついたてがあり表使(おもてつかい)という監督担当の女官と仲居がいます。

 

(仲居は大奥御膳所所属の調理スタッフですが、各人に「お鯛」「お蛸」など魚にちなんだ名が付けられたそうです)

 

仲居はおかわりを準備して、表使の検査を受けたのちにお次の女中にわたし、お次の女中はそれを御中﨟にわたして、御台所のもとに届けられるという手順です。

 

一口分だけむしって皿を「おかわり」するということは、焼き魚の真ん中一口分だけしか食べないということです。

 

また、おかわりは三度までですが、御台所が食べるのは一品につき二箸までなので、最後のおかわりは手つかずで残されます。

 

つまり三食分のおかずを用意して食べるのは二食(二口)だけ、もったいない話です。

 

御飯を食べた量は毎回計測

さらに言うと、おかずのおかわりを渡すのは御中﨟でしたが、御飯のおかわりは御年寄の右に控えている中年寄の担当になります。

 

そうして、御台所が御飯を三碗食べ終わったら、御中﨟が「お茶を」と声をかけて食事タイムが終了します。

 

なお、将軍と同様に御台所の食事量も計測されていました。

 

御飯は三度とも奥御膳所にて必ず権衡(はかり)に掛けて見る例なり。

三度共に飯櫃に盛りし重量は六百目を定規とし、御飯済みて後再び量り見るにいつも四十目乃至五十目を減ずるに過ぎずとなり。
【前掲書】

 

「目」は「匁」とおなじで、1匁は3.75グラムですから「四十目乃至五十目」は150グラム~187.5グラムになります。

 

ごはん1合は330グラムですからその約半分、1合でコンビニサイズのおにぎりが3個できるので、御台所は毎回おにぎり1個半程度のごはんを食べているという計算になります。

 

一日のほとんどを部屋ですごしていることを考えると、まあこんなものでしょうか。

しかし、40~50匁しか食べないとわかっているのに、毎回その10倍以上の量を準備しているわけです。

 

1回の食事に10食分を準備

もっとあきれるのは、毎回おかずも10食分つくっていることです。

 

御膳部は初め十人前調理するを、御広敷番頭及び中年寄の御毒味にて二人前を減じ、八人前となり、此の中御台所に差し上ぐべき分三人前の内、最後の一人前だけはお手を触れずして下ぐること多く、詰り六人前は手附かずに残るなり。

残りの分は当番のお目見え以上にていただく。
【前掲書】

 

さきほど述べたように御台所が口にするのは実質2食ですが、御台所にだす前に御広敷番頭と御用達添番という男子2名の毒味役がすべての料理(1食分)を一口ずつ食べ、さらに毒味役の中年寄がひととおり(1食分)食べてチェックしています。

 

準備された10食から、この4食を引いた残りの6食を「当番のお目見え以上」がいただくということです。

 

「お目見え」というのは、「御台所にお目通りが許される者」ですから、仲居のような裏方は含まれません。

 

ついたての向こう側でおかわりを準備していた仲居さんたちにとっては、美味しそうな料理も目の毒に過ぎなかったということですね。

 

 

 

 

 

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将軍は朝5時起床

前回は大名のふだんの食事がどうだったかについて、旧広島藩主だった浅野長勲の例をご紹介しました。

 

では、武家のトップである将軍の食事はどうだったのでしょうか。

 

これについては明治の中頃に朝野新聞社が、かつて大奥に勤仕した上﨟・中﨟ほか各職掌にわたる数十人にインタビューした記録の中にありました。

 

そのころまで生存していた人たちですから、ここで語られているのは江戸城で暮らした最後の将軍である14代家茂だと思われます。

(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にしています。原文はこちら

 

まずは将軍のお目覚めから。

 

将軍は朝六ッ時、只今で言ば五時頃に起出るを例とす。

お小姓の朝まだきに御寝所へ立入るをば「入コミ」と唱う。

すでにお目覚めになればお小姓は「モウ」と触れ出し、是れを相図に御小納戸など皆それぞれの用意をなす。

用意とはうがい、お手水[ちょうず:原ルビ]さては御膳を調理するをいう。(中略)

さてお小姓の介添にて白木綿の糠袋もて顔を洗い、おわって袴を召し、御仏間にて御代々の位牌を拝するなり。
【「将軍の日課」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 下(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍は、午前5時に起床後うがいと歯磨き・洗顔をし、それから袴を着用して仏間で歴代将軍の位牌を拝みます。

 

当時の日本にはせっけんがなかったので、米ぬかの入った小袋で顔を洗っています。

 

 

徳川家茂肖像(『幕末・明治・大正回顧八十年史』より)

 

将軍の朝食

拝礼をおえた将軍は袴を脱ぎ「御小座敷」でお茶を飲んで一息入れたら、いよいよ朝食です。

 

御膳の出づる時刻となれば、お小姓また「モウ」と触れるなり。

右の触れにて、かねて御膳所にて用意したるを器物に入れ「御膳立の間」へ運ぶ。

ここにて御膳奉行の毒味あり、御膳番の御小納戸これを受取りてさらに「お次」へ運ぶ。

ここに七輪のごとき大いなる炉あり、鍋など幾個となく掛け御膳所番取揃えて御前へ出す。

御膳を運ぶはすべて御小納戸の役なり。

御給仕はお小姓の任なり。

さて御膳といえるは掛盤と唱うる物にて、四足の膳へ飯椀、汁椀、香の物を載す。

二の膳をつくることもあり。

元来将軍の食物は質素なるものにて、朝は「汁」と「向うつけ」「平」二の膳に「吸物」「皿」等あるのみ。

皿へは「キス」両様と唱えて、鱠残魚[きす:原ルビ]を塩焼にしたると漬焼にしたるとを付るなり。

三日(朔日、十三日、二十八日)にはこの鱠残魚に代えるに尾頭附と唱え、鯛、比目魚[ひらめ:原ルビ]の類を焼てつけるを例とす。
【前掲書】

 

小姓の「モウ」というかけ声で、準備した朝食が配膳室に持ち込まれ、ここで毒味が行なわれます。

 

御膳奉行による毒味をパスした朝食は次の間で温め直され、四本の足がついたお膳にのせられて、小納戸役が将軍の前に置きます。

 

メニューは、ご飯、汁物、香の物(つけもの)、吸物、焼き魚(ふだんはキスの塩焼と漬け焼、1日・13日・28日だけはタイやヒラメの尾頭付きを焼いたもの)です。

 

広島藩主の朝食はご飯、汁物に焼味噌か豆腐という一汁一菜でしたが、将軍になると二汁(汁椀、吸物)三菜(向付、平、皿)とかなり豪華になります。

 

また毒味や運搬の間に冷めてしまったものがそのまま出されていた大名家とは異なり、将軍家では汁物は温めなおしてから提供されていることがわかります。

 

 

「料理人」(『諸芸画』絵巻より:国立国会図書館デジタルコレクション)

 

食べた量をハカリで計測

給仕するのは小姓の役目です。

 

御膳を盛るはお小姓の役なり。

御膳番の御小納戸はお次に控えたり。

然し将軍少しにても病いあれば御膳番御飯をもりてお小姓へ渡す。

是は跡にて何程召上がりしやを秤にかけて見るが諚(おきて)なれば、御膳番が盛らねばならぬことなり。
【前掲書】

 

将軍家も大名家とおなじく、殿様の体調管理のために食事量をチェックしています。

 

ふだんは小姓がご飯を盛っていますが、将軍が体調不良の時は御膳番が盛って小姓にわたします。

 

御膳番は食後のご飯の重さをハカリにかけて将軍が食べた量を確認するとありますので、当然食前の重さもはかっているのでしょう。

 

広島藩では目分量でしたが、将軍さまはハカリできちんと計量するところがすごいですね。

 

 

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