新老中松平定信、大奥年寄をやり込める

 前々回では、老中の松平定信が大奥年寄や中老の高額なおやつ代を減額せよと指示を出し、反発する大奥との間で板挟みになった勘定方役人が、毎朝切腹覚悟で出勤していたというエピソードを紹介しました。

 

松平定信は譜代大名である白河藩の藩主ですが、出自は御三卿のひとつ田安家で、8代将軍吉宗の孫になります。

 

譜代大名の養子にはいったために将軍の家臣という地位になりましたが、もし田安家に残っていれば11代将軍の有力候補でした。

 

彼は「ワイロ政治」と批判された老中田沼意次の失脚後に28歳で老中首座となり、田沼の積極財政策で悪化した幕府財政を立て直すために「寛政の改革」を行ないます。

 

この改革はひとことで言えば「倹約の徹底」でした。

 

それで「大奥のおやつ代を削減せよ!」ということになったのです。

 

寛政の改革は一定の成果をあげましたが、厳しすぎる倹約策はひとびとの反感をかい、35歳で老中を退任しました。

 

この松平定信が幕臣のトップ※である老中首座となったときに、同様に大奥女官のトップである年寄とはじめて対面したときのエピソードが伝わっています。(※大老は臨時に置かれるポストなので、平常時は老中首座がトップになります)

 

中興の賢相白河楽翁(松平定信)が老中の上席を命ぜられて、始めて大奥の老女と対面しけるとき、両手を膝上に置き、応接せられけるに、老女は後にてこれを咎め、両手を膝より下ろして挨拶せざるは先例に違うて不都合なりとて、厳重なる難詰を発[おこ:原ルビ]しけり。


楽翁大いに怒り、我今老中を勤むればこそ越中守なれ、元来其方どもは我家の召使の身分なり、我いずくんぞ其方どもに手を突て挨拶する道理あらんやと、異議凜然、冒すべからざる風采を以て説破せられけるに、老女は語塞がり、二の句を出す能わずして引去りけるとぞ。


これ楽翁が大奥に向て下したる第一着の太刀風にして、この非凡なる答弁は一時大奥を震慄せしめけるとぞ。(泉本主水正)

 

【「一一一三 楽翁、大奥の老女を説破す」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】

 

松平定信肖像(物集高量『白河楽翁公:教訓道話』口絵)
(国立国会図書館)

 

新老中の挨拶に来た定信が、年寄の前で畳に手をつかず膝においたままであることを「先例と違う」と注意されたら、怒って「私は(将軍家の政治をあずかる)老中だ、その方らは将軍家の召使いではないか、私がなぜその方どもに手をついて挨拶せねばならないのか」といったので、大奥の年寄は言葉につまって引き下がったというエピソードです。

 

さきほど述べたように定信の出自は御三卿の田安家で、彼は8代将軍吉宗の孫になりますから、「其方どもは我が家の召使の身分なり」と言い切ったのでしょう。

 

しかし、このようなエピソードが伝わっているということは、裏返せば、通常は老中が年寄にやり込められていたからだと考えるのが普通です。

 

老中と大奥年寄

ところで、老中とはどのようなポストだったのでしょうか?

御老中といえば幕閣の大臣で、まことに権威赫々(かくかく:功名や声望などが立派で目立つさま)たるものであって、往来するのにも諸大名が道を譲る。


前田とか島津とか、国主大名と言われる大諸侯でも「その方」と呼びかけて命令する。


徳川の親類の尾張、紀伊、水戸の御三家からも大変な会釈をされた。
【稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』青蛙房】

 

いっぽう、大奥の年寄はこうです。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

すべて奥向きの万事を締め括り、表にて申せば御老中に比(たぐ)うべき大奥第一の重役なり。


されば其の威権他に秀でて高く、一言口を離るれば能く辞返(ことばが)えしするものなき程なり。


御三家、御三卿の御簾中(れんちゅう:正室)など参拝したるみぎりも頭を畳につけることなく、拝礼口儀(こうぎ)とも甚だしくは謙遜ならず。


されどもこれらの時にはよく御台所に介添して万事をとりなし、腕なきもののなかなかに勤め得べきものにあらず。
【「女官職制」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 上(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

余談ですが、「御簾中」というのは御三家・御三卿のみで、おなじ正妻であっても諸大名や5千石以上の旗本は「御内室」、目見え以上5千石未満は「奥方」、目見え以下(=御家人)は「御新造」と呼び名がちがっていたそうです。【薄井龍之「旧幕府の諸大名に関する慣例」『史談会速記録 第168輯』】

 

老中は国家の行政機関となる幕府の責任者ですから、将軍ファミリーの世話係のトップにすぎない大奥の年寄より上位にあると思うのがふつうです。

 

しかし、現実はそうではありませんでした。

 

老中水野忠邦、大奥年寄姉小路にやり込められる

ところで、江戸時代の三大改革というのは、8代将軍吉宗の「享保の改革」、老中首座松平定信の「寛政の改革」、そして老中首座水野忠邦の「天保の改革」を指します。

 

いずれも幕府の財政事情が悪化したことへの対応として行なわれたことから、毎回幕府の出費を抑えるための「倹約令」を出しています。

 

そうなると一番目につくのが年間20万両といわれる大奥の経費です。

 

天保の改革においても、水野老中は大奥のぜいたくな生活を改めさせようとしました。

 

そこで、老中みずから大奥のリーダーである年寄に説明に行きました。

 

対面した場所は大奥の入口近くにある御広座敷(御広敷)で、そのときの話を三田村鳶魚がこのように書いています。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、カギカッコをつけて、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

難物の大奥へ手をつけるとき、上﨟年寄の姉小路を説伏しないと、必ず異論が出て、行なわれないと考えたから、自身に面接して改革の御趣意を縷陳(るちん:事細かに述べること)した。


姉小路は仔細に聞き取って、「ごもっともの儀しごく御同意」だと答えたので、越前守もホッと溜息を吐くと、姉小路は「越前守殿に伺いたい、貴所にも定めて御内室や御部屋はおありであろう」と聞かれて、越前守は気も附かず「お尋ねまでもない」と云った。


姉小路は「如何にも左様あるべき筈と存じられる、一体人間には飲食男女の欲はきまったもののように思われるのに、大奥の女中一同はいずれも独身で暮らして居る、女は人間でなかろうか、男子と同じものならば、一方で欠けたところを美服美食にかえて欲情を満足させるのも拠はあるまいかと存じる、この辺の儀は越前殿には何とお考えなさるのか」と切り込まれて、返答につまったまま、忠邦は御広敷を逃げ出したという。


姉小路は傑出した女であったから、流石の越前守を閉口させたのみと考えては違う、

 

(中略)

 

貧乏公家や御家人の娘が立身出世した大奥女中、同輩猜疑(さいぎ:ねたみうたがうこと)娼嫉(しょうしつ:ねたみや嫉妬)の間をすりぬけて進んでいく才分は恐ろしい、大名の子が育った老中とは下地も違えば苦労も違う、相撲にならないのも無理はない。

【「帝國大学赤門由来」三田村鳶魚『大名生活の内秘』】

 

冒頭にあげた話は、松平定信が大奥年寄に着任の挨拶をした際のエピソードでした。

 

定信は勘定方の大奥担当に経費削減を命じましたが、大奥への対応は勘定方にやらせたので、板挟みになった勘定方の武士たちは、責任を取らされて切腹することを覚悟しながら出勤していました。

 

最後に書いた話では、水野忠邦は定信とは異なり、自身で大奥に説明に行っています。

 

相手は大奥女官の筆頭となる上﨟年寄の姉小路です。

 

ひととおり水野の説明を聞き終えた姉小路は、「ごもっともな話で、同意します」と答えて水野を安心させた後、攻撃に転じました。

 

「水野様にも、奥様や側室はおありでしょう?」

 

と切り出したのです、ホッとして気がゆるんでいた水野は、

 

「それは、お尋ねになるまでもなく、おります」

 

と答えました。

 

姉小路はすかさず、

 

「そうでしょうね、そもそも人間には食欲と性欲が必ずあるものです、しかし大奥の女中たちはみな独身で暮らすことを強いられています。

 

女は人間ではないのですか?

 

男と同様に二つの欲があるのに、片方を禁止されているため、その欠けたところを美服美食に換えて欲情を満足させているのも無理はないかと存じますが、このことについて水野様はどうお考えですか?」

 

と問いかけたので、忠邦は返答につまって、その場から逃げ出しました。

 

この話を紹介した三田村鳶魚は、大奥の年寄というのは「貧乏公家や御家人の娘」が猜疑や嫉妬がうずまく女の世界において実力でのし上がって頂点に立った人物であるから、ボンボン育ちの老中では相手にならないと看破しています。

 

大奥の年寄が老中より上位になっていたのは、職位ではなく力量の差だったということですね。

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd