将軍は朝5時起床

前回は大名のふだんの食事がどうだったかについて、旧広島藩主だった浅野長勲の例をご紹介しました。

 

では、武家のトップである将軍の食事はどうだったのでしょうか。

 

これについては明治の中頃に朝野新聞社が、かつて大奥に勤仕した上﨟・中﨟ほか各職掌にわたる数十人にインタビューした記録の中にありました。

 

そのころまで生存していた人たちですから、ここで語られているのは江戸城で暮らした最後の将軍である14代家茂だと思われます。

(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にしています。原文はこちら

 

まずは将軍のお目覚めから。

 

将軍は朝六ッ時、只今で言ば五時頃に起出るを例とす。

お小姓の朝まだきに御寝所へ立入るをば「入コミ」と唱う。

すでにお目覚めになればお小姓は「モウ」と触れ出し、是れを相図に御小納戸など皆それぞれの用意をなす。

用意とはうがい、お手水[ちょうず:原ルビ]さては御膳を調理するをいう。(中略)

さてお小姓の介添にて白木綿の糠袋もて顔を洗い、おわって袴を召し、御仏間にて御代々の位牌を拝するなり。
【「将軍の日課」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 下(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍は、午前5時に起床後うがいと歯磨き・洗顔をし、それから袴を着用して仏間で歴代将軍の位牌を拝みます。

 

当時の日本にはせっけんがなかったので、米ぬかの入った小袋で顔を洗っています。

 

 

徳川家茂肖像(『幕末・明治・大正回顧八十年史』より)

 

将軍の朝食

拝礼をおえた将軍は袴を脱ぎ「御小座敷」でお茶を飲んで一息入れたら、いよいよ朝食です。

 

御膳の出づる時刻となれば、お小姓また「モウ」と触れるなり。

右の触れにて、かねて御膳所にて用意したるを器物に入れ「御膳立の間」へ運ぶ。

ここにて御膳奉行の毒味あり、御膳番の御小納戸これを受取りてさらに「お次」へ運ぶ。

ここに七輪のごとき大いなる炉あり、鍋など幾個となく掛け御膳所番取揃えて御前へ出す。

御膳を運ぶはすべて御小納戸の役なり。

御給仕はお小姓の任なり。

さて御膳といえるは掛盤と唱うる物にて、四足の膳へ飯椀、汁椀、香の物を載す。

二の膳をつくることもあり。

元来将軍の食物は質素なるものにて、朝は「汁」と「向うつけ」「平」二の膳に「吸物」「皿」等あるのみ。

皿へは「キス」両様と唱えて、鱠残魚[きす:原ルビ]を塩焼にしたると漬焼にしたるとを付るなり。

三日(朔日、十三日、二十八日)にはこの鱠残魚に代えるに尾頭附と唱え、鯛、比目魚[ひらめ:原ルビ]の類を焼てつけるを例とす。
【前掲書】

 

小姓の「モウ」というかけ声で、準備した朝食が配膳室に持ち込まれ、ここで毒味が行なわれます。

 

御膳奉行による毒味をパスした朝食は次の間で温め直され、四本の足がついたお膳にのせられて、小納戸役が将軍の前に置きます。

 

メニューは、ご飯、汁物、香の物(つけもの)、吸物、焼き魚(ふだんはキスの塩焼と漬け焼、1日・13日・28日だけはタイやヒラメの尾頭付きを焼いたもの)です。

 

広島藩主の朝食はご飯、汁物に焼味噌か豆腐という一汁一菜でしたが、将軍になると二汁(汁椀、吸物)三菜(向付、平、皿)とかなり豪華になります。

 

また毒味や運搬の間に冷めてしまったものがそのまま出されていた大名家とは異なり、将軍家では汁物は温めなおしてから提供されていることがわかります。

 

 

「料理人」(『諸芸画』絵巻より:国立国会図書館デジタルコレクション)

 

食べた量をハカリで計測

給仕するのは小姓の役目です。

 

御膳を盛るはお小姓の役なり。

御膳番の御小納戸はお次に控えたり。

然し将軍少しにても病いあれば御膳番御飯をもりてお小姓へ渡す。

是は跡にて何程召上がりしやを秤にかけて見るが諚(おきて)なれば、御膳番が盛らねばならぬことなり。
【前掲書】

 

将軍家も大名家とおなじく、殿様の体調管理のために食事量をチェックしています。

 

ふだんは小姓がご飯を盛っていますが、将軍が体調不良の時は御膳番が盛って小姓にわたします。

 

御膳番は食後のご飯の重さをハカリにかけて将軍が食べた量を確認するとありますので、当然食前の重さもはかっているのでしょう。

 

広島藩では目分量でしたが、将軍さまはハカリできちんと計量するところがすごいですね。

 

 

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浅野老公の話

前2話で、大名は食べ物も旧例に従わなければならなかったという話を紹介しました。

 

ところで、そもそも大名はふだんどのような食生活をおくっていたのでしょうか?

 

じつは大名の日常生活についてはあまり分っていません。

 

島津家の歴史博物館である尚古集成館が所蔵している島津家の古文書でも、特別な日の献立は残されていますが、ふだんの食事が書かれたものはないそうです。

 

大名の生活については、「江戸学の祖」と呼ばれる時代考証の大家三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)が旧広島藩主の浅野長勲(あさの ながこと)から聞いた話が参考になります。

 

浅野長勲は天保13年(1842)生れで、昭和12年(1937)に96才で亡くなりました。

病気がちの養父長訓(ながみち:広島藩11代藩主)にかわって藩政を主導し、大政奉還後の方向を決めた小御所会議にも広島藩世子として出席しています。

 

孝明・明治・大正・昭和と4代の天皇にじかに接した経験をもつ貴重な存在で、「最後の大名」と呼ばれました。

 

その長勲が鳶魚に語った大名のふだんの食事はこうでした。(同様の話が『浅野長勲自叙伝』にもあります)

 

平常でも大名の食事は奢(おご)っとるだろうといいますが、私の方などは極めて質素なもので、朝は焼味噌に豆腐くらいです。

昼と晩が一汁二菜です。

好みなどということは、いつでもありません。

台所から前日に板に書いて持って来る。

ろくに見たことはないが、それでよしよしということになる。

それから、多く食ったり、少く食ったりすることも出来ない。

食い方が減りでもすると、何か調進の仕方が悪いのではないかというようなことを、台所奉行が調べる。

二ぜんなら二ぜんの飯に対して、おおよそ菜をどのくらい食うということがきまっておる。

それ以下も以上もうっかり食えんのです。

食物は台所奉行がまず食味をします。

それから近習の者が毒味をするので、これは、食味がまずくても、加減が悪うても、一言も言えない。

何か嫌いのものが出たために、目を白黒して呑み込んだという話もある。
かえって面倒なものです。

【「浅野老公のお話」三田村鳶魚 朝倉治彦編『武家の生活』中公文庫】

 

(浅野長勲『浅野長勲自叙伝』より 国立国会図書館蔵)

 

またこのようなやりとりも残っています。

 

昭和7年6月2日の夕刻に、当時の地名で本郷区向ヶ丘弥生町にあった浅野邸において代々木会会員に語ったもので、聞き手の中には三田村鳶魚もいました。

(読みやすくするために現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にしています。「 」内は浅野長勲の応答)

(問)お食事はどういうもので、何時に召し上がりますか?
「別に何時という事はなく、午前に食べますな」

(問)お腹の具合で一碗お減らしになる事もございますか?
「いや、余計食べます。努めて食べます。食べとうなくても食べます。

食べるものが少し少ないと、台所奉行がやって来ましてな、何ぞ加減が悪いのではないかと聞きます。
加減の悪い所は無い、というと直ぐ医者になる。

ご飯は何も変わっていない。それで食べないのは何か悪いのだろうという訳です」

(問)窮屈でございますな。お大名生活は楽ではございませんな。
「楽どころか、窘(くるし)められます」

(問)時に試みをすると申しまするか、お食物の味のよい悪いというのは誰がみますか?
「台所奉行が見ます。それを済ましますと、側詰が毒味をするのです。
いやもう甘いの不味いの、好い悪いのといわれんのです。
こういうのを経過して来る訳ですから」

(問)手数がかかりますな。
「だから熱いものは冷たくなる。熱いものをたべるのは難しい。

一度困った事がありました。御飯の中に芥でも落ちていれば、大抵は隠しますが、隠しおおせぬ事があります。
一度鼠の糞が入っておった。隠そうと思ったが隠せませんで、それが露れたのです。

困りました。
切腹するといってきかないので、漸(ようや)くいいぐさつけて殺さずに済みましたが、実に困りましたよ」

(問)一体平常でも、腹をお立てになる事は出来ぬ訳でございますな。
「出来ませんな。腹を立てても、怒りつけるという事は出来ませぬ」

(問)大変な事になるもんでございますな。
「いや、再び大名になるものではありませんよ」

【「浅野長勲侯懐旧談・代々木会談叢27」森徳一郎編『浅野史蹟輯録』】

 

『浅野史蹟輯録』(国立国会図書館の個人送信サービスで閲覧可能)にある代々木会の講演や、先に紹介した三田村鳶魚の聞き書きは、大名の日常がわかる貴重な史料です。

 

そこに残されているけっこう長いやりとりの中から食事の話を抜き出しましたが、好き嫌いを言えない上におかずは少なく、料理は冷めている、‥‥話を聞いていると、現代の私たちの方が江戸時代の大名よりずっとリッチな食事をしているようです。

 

浅野長勲がくり返し「大名になるものではない」と語っているとおり、大名の日常生活を知れば、大名というのは気楽なように見えるが、じっさいは窮屈で大変なポストだということがよくわかります。

 

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旧例をもちだす家老を一蹴

以前”大名の意見<家来の意見”で、岩瀬忠震が「家臣を制御できる大名は、水戸斉昭、鍋島閑叟、島津斉彬、山内容堂だけ」と言った話を紹介しましたが、前回紹介した『想古録』にそれを示すエピソードがありました。

 

鍋島閑叟が第10代佐賀藩主に就任したころのできごとです。

 

閑叟は毛利の殿様が家老にたしなめられて意見を変えたのとは違い、家老たちをやり込めて自分に従わせました。(読みやすくするため現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にして、句読点とカギ括弧「 」をおぎなっています)

 

毛利家、君臣の家例を重んじて松魚(かつお)を擯斥せしは一見識ありて面白けれども、佐賀侯が家例を破りて鰯(いわし)を臣下に賜わりしも、また一種の卓見にして面白し。

侯[閑叟公:原注]初めて国へ下がられけるとき、鰯のぬたにて一家中へ酒を賜わらんとありければ、老臣等旧例に鰯を用いたること無ければとてこれを止めけるに、侯冷然として一笑し、

「旧例とか家格とか、とかく大層なることを申し立てるゆえ、物事渋滞して時機を誤るに至るなり。

試みに二百余年前を回顧せよ、我が先祖は一箇の鍋島平右衛門にて、難をおかし険を踏み、矢石の間に出入して鍋島一族の基礎を建てられたるものにあらずや。

この時にあたり、我が祖先と卿等[なんじら:原ルビ]の祖先とは、時ありては山野に露宿し、時ありては糧食に事を欠き、いやしくも腹を肥やすに足る物を見出すときは取りて以て兵糧となしたること、卿等の耳底に残る所ならずや。

しかるに卿等太平の昭代(しょうだい:よく治っている御代)に慣れて鰯を食うの食わぬのとは片腹痛き次第なり」

とて、老職の止めるをきかず、吏に命じてその酒肴を一同へ下されければ、藩士はかえって侯の快活なるに服しけるとぞ。

このほどその筋より偵吏[おんみつ:原ルビ]を各大藩に派遣して、その動静を探らしめけるに、九州は乱の形なけれども乱の兆しあり、また西国九州の大侯は各々その施政を異にするも、機あらば乗ぜんとの一物を腹中[はら:原ルビ]に貯うるは、各藩一般にその情を同じうす、との復命をなしたるよしなれば、前途如何なる風雲の起るやも測るべからず。

白川楽翁(松平定信)を地下より呼び起こし、天のいまだ陰雨(いんう:ふりつづく陰気な雨)せざる内に寛政の改革を復習したきものなり。(岡本花亭)
【「六九三 鍋島閑叟公、家例を破りて鰯を賜ふ」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】

 

若き日の鍋島閑叟(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

毛利の殿様は紀州家で出されたカツオが美味しかったので、藩邸でもカツオ料理を出すようにと言ったところ、家老に「前例がありません、当家は徳川のような新参者ではなく鎌倉以来の名門ですから、旧例にないことをしては御先祖様に申し訳が立ちませんぞ」と言われて、考えを改めました。

 

しかし鍋島閑叟の対応はちがいます。

 

閑叟は天保元年(1830)に17才で家督を相続し、藩主に就任しました。

 

そしてはじめてのお国入りのとき、家臣一同を招いての宴席でイワシのぬた(イワシの切り身を酢味噌で和えたもの)を出そうとして家老から前例がないと反対されると、こう言い返したのです。

 

「わが先祖も、おまえたちの先祖も、昔は山野を駆けめぐって戦った。

 

時によっては兵糧がなくなり食べられるものなら何でも手当たり次第に食べたという話を、聞いているだろう。

 

それなのに太平の時代になれて、イワシを食べるとか食べないとかの議論をするなど片腹痛いわ」

 

と言って、家老の反対を無視して家臣たちにイワシのぬたをふるまいました。

 

これを知った家臣たちは、前例にしばられない新藩主の快活さに心服したそうです。

 

話者は最後に、

 

「幕府隠密の情報によれば、九州は反乱の様子こそないがその兆候はある。

 

九州など西国大藩の大名たちはやり方は異なるが、チャンスがあれば幕府に一泡吹かせてやろうと皆考えており、この先何がおこるかわからないと報告している。

 

幕府の治政をたてなおした寛政の改革の主導者である松平定信侯をあの世から呼びもどし、天下が乱れる前に寛政の時のような改革をもう一度行なって、幕政をしっかりさせたいものだ」

 

という意味のことをのべています。

 

話者の岡本花亭(おかもと かてい)は旧幕臣で、前回の語り部である川路聖謨と同じ勘定奉行(就任は川路の10年前)でした。

 

この岡本は、NHK大河ドラマ「蒼天を衝け」で堤真一さんが演じた、一橋慶喜の腹心平岡円四郎の実父でもあります。

 

幕府の重職にいたので隠密の報告を知る機会があり、幕府の前途に不安を感じたのでしょう。

 

岡本の不安は的中し、変革することができなかった徳川幕府はほろび、西国・九州の薩長土肥を中核とする明治新政府に取って代わられました。

 

 

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食べたいものを食べさせてもらえない

島津斉彬のエピソードで、斉彬がニンニク料理を所望したら料理長が「歴代の殿様でニンニクを召し上がった方はいないから、ニンニクを出すことはできない」といって断った話をしました。

 

これは島津家だけの話ではなく、大名家の一般的なルールだったようです。

 

江戸時代は「天下泰平」の時代でした。

 

約260年間つづいた江戸時代においてもっとも重視された価値基準、それは「現状維持」です。

 

つまり「前例踏襲=変化させないこと」がいちばん大切でした。

 

それは食生活にまでおよんでいたようで、このような話が伝わっています。(読みやすくするために現代仮名づかいに改め、一部漢字を仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています)

 

毛利侯、紀州邸へ招待せられけるとき、いまだ口にしたることなき味旨き魚肉(うお)を饗せられければ、

「何という魚なるや」

と尋ねられしに、

「松魚(かつお)なり」

とありければ、帰邸ののち、命を御台所の吏に伝えて、

「以来時々松魚を料理して出せよ」

といいつけられたり。

料理方はこれまで慣例になき御所望を受けければ、御用部屋へ伺い出でけるに、評議まちまちにして決せず。

結局、急使を国元に馳せて、国老等の意見を問い合わすこととなりければ、国元の老職等はこの飛報に接するや、それは怪しからぬことなりとて直ちに一人の国老を江戸に上らせ、侯に諫言をたてまつらせたり。

侯は国老等の承知せざるを不平に思われ、

「これを食うて害なく、これを味わって旨き物を料理して出せよというに何の不都合かあるべきや。

かつ、彼の松魚は紀州の大納言も食せられ、将軍家にもまた食せらる。

しからば今余がこれを食したればとて、何の差しつかえがある」

と声荒らかに詰められけるに、老職は頭をたれたるままハラハラと涙を流し、

「これまで御家中一同末頼もしき君公と存じ上げ候いしが、只今の仰せの世上に漏れ候節は、さぞかし失望仕るべく候。

そもそも御当家は鎌倉以来の旧家にて、徳川一族のごとき新家にこれなく、徳川は天文(てんぶん:室町時代の元号、1532~1555)以来の新家に候えば、松魚はさておき、鰯(いわし)にても秋刀魚(さんま)にても召し上がらるべく候えども、御当家は彼と日を同じうして論ずべき家筋にこれなく候ゆえ、鎌倉以来の御家法をお破りなされ候ては、御先祖に対し申し訳これあるまじくと存じ候」

と諫めければ、侯は黙してその説を聞かれけるが、聞きおわりて首肯し、

「卿(なんじ)が申し立てるところ、もっともなり」

とて、前日の命令を取り消さしめけるとぞ。

この君あり、またこの臣あり、大国の深意測るべからず、四海波平かにして西の丸に有平糖の橋を渡すも、天下は枕を高くして安眠すべきの秋(とき)にあらざるなり。(川路聖謨)

【「六八九 毛利家の国老、自尊の見識を落さず」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫】

 

広重魚尽「鰹・さくら」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

毛利の殿様が紀州家でご馳走になったとき、はじめて口にしたカツオが美味しかったので、藩邸に戻ってから「ときどきカツオ料理を出すように」と命じました。

 

ところがカツオは殿様が食べた前例がなかったので、料理番が藩邸の重役に可否をたずねたところ藩邸では判断できず、国元の家老たちに問い合わせるという大騒ぎになりました。

 

殿様の希望が伝えられた国元の家老たちは「とんでもない!」と反対して、一人の家老がただちに江戸に行き、殿様に「カツオはダメです」と諫言しました。

 

すると殿様は怒って、

 

「食べても毒ではないし、美味しいのに、どこがいけないのか。

 

御三家の紀州藩主や将軍も召し上がっているのに、予が食べるのに何の問題がある!」

 

と詰め寄ると、国元からきた家老はハラハラと涙を流し、

 

「いままで家中一同が末頼もしい殿と慕っていましたのに、今の言葉が知れわたれば皆失望します。

 

そもそも毛利家は鎌倉以来の名門で、徳川のような新参者ではありません。

 

徳川家は天文年間に起った家なのでカツオはもちろん、イワシでもサンマでも召し上がればよろしいが、当家はレベルが違いますから鎌倉時代以来守ってきた家のルールを破っては、ご先祖様にもうしわけが立ちません」

 

と説いたところ、殿様はだまって聞いていたが、聞き終わってうなづき、

 

「そちの言うことはもっともだ」

 

と、カツオ料理を出せと言った前回の指示を取り消したという話です。

 

この話を語った川路聖謨(かわじ としあきら:江戸幕府の勘定奉行や外国奉行をつとめた能吏)は、このような君臣の関係を評価して、「雄藩の深意はうかがいしれないので、幕府も安穏としていられない」との意見を述べています。

 

川路は進歩的な考えの持ち主で斉彬たち一橋派を支持していたため、安政の大獄で左遷されて、その後辞職します。

 

引退後は病気で半身不随となり、薩長を中心とする官軍による江戸城総攻撃が予定されていた慶応4年3月15日に自害しました。

 

毛利家(=長州)に対する不安が的中してしまったと言えそうです。

 

 

 

 

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7日7夜のあいだ居合を続ける

前回、しっかりした見識の持ち主で、きちんと家来を制御できた大名は、水戸斉昭・鍋島閑叟・島津斉彬・山内容堂の4人だけという勝海舟の見解を紹介しました。

 

このうち山内容堂については、以前に容堂と島津久光が二条城内で取っ組み合いになった話と、久光の襟首をつかんで2mほど引きずった話をご紹介していますが、傍若無人というイメージがつよい人物です。

 

たしかに容堂という人は学識にくわえて体力も相当なものだったようで、旧土佐藩士で容堂のそば近くつかえた板垣退助が明治45年に開催された維新史料編纂会委員会でこんな話を披露しています。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、句読点と仮名づかいを改めています。原文はこちら

 

容堂は相当の教育があり、そうして中継ぎ養子になりまして、さて藩政をとって見ると、どうも自分にも力の足らざるを感じたものと見えまして、非常な勉強をしたものであります。

机にもたれてふとんをかけて書見をしておる、眠る、目が覚めるとまた読むというような訳で、非常に勉強をしまして、わずかの間に立派な学者になりました。

そういう人でありますから、すべてが非凡でありまして、武芸の方では抜刀術を好みまして、家来を相手に七日七夜続けて居合をやられたというようなことがあります。

それは二十人ぐらいの相手でございますから、二十人が、一人が十二本ずつ即ち二百四十本の居合を抜きますると元の順番が来ます。

それは初めのうちは順番の来るのを待つような気味がありますが、しまいにはハヤ廻りが来たかというようになるもので、なかなか苦しいものであります。

それが臣下の人たちも、もとより主人に負けぬように思うて、熱心にやったには相違ありませぬが、それを仕舞いまで堪えた者は、わずかに五人ばかりしか無いようでありまして、皆中途で倒れる、倒れると代りがはいります。

そうして七日七夜の間、容堂はズット堪えてやったようであります。
【板垣退助「維新前後経歴談」『維新史料編纂会 第四回講演速記録』】

 

 

東京(品川区の大井公園)にある容堂の墓(ブログ主撮影)

 

じつは情の深い殿様だった

1週間ぶっ通しの居合稽古では、交替で相手をする家来20人のうち15人が脱落しているのに、容堂はひとりで耐え抜いたと板垣は語っています。

 

そういうことを聞くと容堂はいかにも武骨な殿様のように思えますが、じつは家臣への情愛も深かったそうです。

 

先ほどの板垣の講演ではこのようなエピソードも紹介されています。(同様に書き直しています。原文はこちら

 

まことに情も深い人でありまして、その一例をあげれば、木戸(孝允)君が容堂に言うに、

「あなたは吉田元吉(東洋:容堂の抜擢で土佐藩の参政となり藩政改革を行なう。土佐勤王党に暗殺された)という者をお用いになった様子であるが、あれは非勤王・非攘夷論の人であって、どうも奸物である」

こう木戸君が言われたら、

「それはけしからぬことを承る、吉田元吉という者はそんな者ではない、かくかくの者である。

土佐の行政・経済を改革したのはまったく彼の力である」

という話をした。

そのおりに木戸君が、

「どうもああいう君に仕えておれば実に愉快である、感心なものだ。

今日誰も弁護しないところを、それを弁護して、あれは私が愛した者であるというお話をせられたが、どうもああいう情の厚い人に仕えておれば、さぞ愉快であろう」

こういうことを木戸君が言われたことがある。

そういう訳であって、小姓などが、脇差を脱いで入らねばならぬところを、つい忘れて行きおるというようなことがあると、コレコレと言って腰を叩いて見せるというような訳で、まことに小姓などを叱るということは滅多にないくらいの人でありました。

 

最初にのべたように容堂という人は傍若無人な言動で知られているので傲慢な性格と思われがちですが、そうではなく人格的にもすぐれていたというのが、そば近くで仕えていた板垣の感想です。

 

久光もそうですが、容堂も人々がいだいているイメージとじっさいの姿は違っていたようですね。

 

 

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家来が承知しなければダメ

前回は、名君といわれた大名の多くは家来のサポートがあったからだという話をしました。

 

同じことを徳川慶喜が明治42年7月の昔夢会でこのように語っています。

 

兵庫開港について、慶喜が4藩の代表(藩主または代理)に説明して承諾を得たのに、翌日家来たちが押しかけて、「そんなことは言っていない」と話を蒸し返したことがあったという回想です。

 

あの時分は諸侯というものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といったようなもの。

そこで主人がそう言っても、家来が承知しなければそれは通らない。

それでまだ言わぬと言うのだ。

けれども言ったんだ。

此方では当人が言ったからという、家来の方ではまだそういうことは言わぬ、こういうわけ。
【渋沢栄一編 大久保利鎌校訂『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』平凡社東洋文庫】

徳川慶喜(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大名家においては藩主よりも部下の意見が勝っていたようで、そんな様子がうかがえるエピソードを勝海舟も書いていました。

 

日米修好通商条約(締結は安政5年[1858]6月)に関する出来事です。(「岩瀬忠震」勝海舟『追賛一話』 読みやすくするため現代文になおしています。原文はこちら

 

アメリカとの条約ができたとき(条約の条文ががほぼまとまった安政4年末)、ひろく諸大名を江戸城にあつめた。

そこで彦根大老(勝の記憶違い、老中首座の堀田正睦)がその主旨を伝えて言うには、

「今日皆さんを集めたのはほかでもない、和親と貿易は今では世界共通のことなので、回避することはできないばかりでなく、上手に運営すればたいへんに富国強兵の基となる。

詳しいことは(条約交渉を行なった)目付の岩瀬肥後守(忠震:ただなり)に説明させるので、よく聞いた上で各々の意見を述べてほしい」

ここで大老がしりぞき、岩瀬肥後守が進み出て条約交渉の顚末や条理をこまかく説明したが、はっきりした言葉でわかりやすかったことから、聴衆はよく理解してすこしの意見を言う者もおらず、皆がこの条約は時世に適しているので、これでなければならないと賛同し、主旨を理解して退席した。

しかし、あにはからんや、各大名が戻ってのちにそれぞれの意見書を幕府に出したところ、前日の賛同とまったく違い、前後の事情もわきまえない粗暴で軽率な意見ばかりで、ほとんど自分で言ったことを破毀しようとするものだった。

岩瀬はおおいに驚き、はじめてその意見書が臣下によって書かれ、君主といえどもこれを止める力がないことを悟った。

それで、各藩主のうちでその威権が臣下を制圧しており、かつ政治上の重要事項を相談できる才覚を持った人物を求め、その力を借りなければ目的を達成することができないと考えた。

そうして、水戸斉昭、鍋島閑叟、島津斉彬、山内容堂の諸公に説明したところ、彼らも岩瀬の説を理解しておおいに岩瀬を信頼したので、岩瀬の声望は世間に高くなったという
【勝海舟「岩瀬忠震」『追賛一話』】

 

岩瀬が助力を求めた4名は、原文では「水戸老侯、鍋島閑叟、薩摩世子、土州容堂」となっていますが、この時斉彬はすでに藩主であり薩摩世子は斉彬の幼い息子哲丸になりますから、勝の書き間違いです。

 

さらにいえば、斉彬は参勤交代で安政4年(1857)4月に江戸を立ち5月に鹿児島に着いていますから、岩瀬が説明したころには江戸にいなかったはずです。

 

勝の文章にはこのような間違いがあるので注意して読む必要がありますが、ここで注目したいのは、当時の藩主たちの中でしっかりした見識があって家臣をきちんと制御できていたのはこの4名だけで、あとは家臣の方が藩主をあやつっていたというところです。

 

先ほどの慶喜の回想ともあわせると、当時の様子がうかがえます。

 

岩瀬忠震の弁舌

ついでにいうと、勝の記述でもう一つはっきりしているのは岩瀬の説明がたいへん上手であったということです。

 

それについては、福地源一郎も著書『幕末政治家』のなかでこう書いています。

 

岩瀬は堀田を勧めて諸大名を招集せしめ、己れ自ら其中に進み出で、開鎖の利害を堂々と弁じ、幕府が条約を結ぶを以て国家の大利益を謀るの趣意を説きたり。

諸大名は内心その条約には不服の向きもありしかど、岩瀬の才弁に説伏せられては、目のあたり一語の異議を提出すること能わずして、皆謹聴し、敢て反対の詞を発する者も無かりけり。
【「岩瀬肥後守」福地源一郎『幕末政治家』】

 

つまり岩瀬の説明があまりにも上手だったので、条約締結について内心不服に思っていた者も反論できなかったということです。

 

岩瀬は井上清直とともに、日本側の全権として日米修好通商条約の交渉にあたり、米側のハリスから「こうした全権を持つ日本は幸福である」と言わしめた人物です。

 

安政5年(1858)6月の条約締結時は目付でしたが、翌7月には外国奉行に昇進しています。しかし、一橋派であったことから井伊大老にうとまれ、同年9月には作事奉行に左遷、安政6年(1859)9月には御役御免となって蟄居を命ぜられ、2年後には失意の中で44才の人生を終えました。

 

当時、幕府の現状に危機感をいだいていた優秀な幕臣たちは、現状維持の南紀派ではなく、体制改革をめざす一橋派の主張に賛同していました。

 

安政の大獄ではこのような幕臣たちも一掃され、現状に危機感をいだかない凡庸な役人に置きかえられてしまいました。

 

体制の安定をめざした井伊直弼でしたが、それが幕府の滅亡を早めてしまったといえるでしょう。

 

 

 

 

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優秀な家臣がいるから名君と呼ばれる

前回、大隈重信が初対面の島津久光を「尋常の君主と同一視すべきでない」とほめた話を紹介しました。

 

「尋常の君主」つまり「普通の大名」というのは、政治を家老にまかせて優雅な日々を送っている殿様というイメージです。

 

しかし、19世紀に西欧列強が周辺のアジア諸国を次々と植民地化していく状況のなかでは、殿様がのほのんとしているわけにはいきません。

 

そういう時代になったので、幕末の日本には島津斉彬(没後は久光)、松平慶永(春嶽)、伊達宗城、山内豊信(容堂)の「四賢侯」をはじめ、名君(当時の表記は「明君」)と呼ばれる大名が何人もあらわれました。

 

しかし、そういう「明君」の全員が優秀な人物というわけではなかったようです。

 

薩摩藩の洋学者で江戸に留学していた中原猶介(なかはら なおすけ)が、そのころの「明君ランキング」をこう伝えています。

(カッコ内はブログ主の補記、読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

即今大小諸侯の中に明君と唱うるは水戸(徳川斉昭)、福井(松平慶永)、尾張(徳川慶勝)、薩州(島津斉彬)、宇和島(伊達宗城)、佐賀(鍋島直正:閑叟)、岡山(池田慶政)、外に一橋(慶喜公:原注)及び土州候(山内豊信)等、これを九明候と唱う。

中について我公(斉彬)を以て第一地位に称し奉り、二に水戸、福井、佐賀、宇和島とす。

その他はみな混唱して明候と唱う。

水戸は臣下に博識の名家多し、補佐を以てその名なかば以上に貴し、福井も然り。

ひとり薩候(斉彬)は臣下に人なく輔佐なし。

薩州には只公あるのみ。才あり器あり、創業守成ふたつながら兼備の君なり
【 「江戸其他諸藩ニオイテ御名誉ノ事」 『島津斉彬言行録』岩波文庫】

 

中原によると第1ランクは斉彬だけで、

 

次のランクが水戸の徳川斉昭(烈公)・福井の松平慶永(春嶽)・佐賀の鍋島直正(閑叟)・宇和島の伊達宗城、

 

3番目のランクが、御三家尾張藩の徳川慶勝・御三卿一橋家の徳川慶喜・岡山の池田慶政・土佐の山内豊信(容堂)

 

で、第3ランクの大名は「明君」より少し落ちる「明侯」と呼ばれたとのことです。

 

では第2ランクにいる大名であればトップの斉彬に準ずる知見や手腕の持ち主かというと、じつはそうでもなかったようです。

 

中原によれば、ほとんどの大名は優秀な部下のサポートがあるから明君と呼ばれているのだとし、斉彬だけは部下に人材がおらず、したがってサポートもない「真の明君」なのだと語っています。

 

 

中原猶介(『洋学者伝』ブログ主蔵)

 

ブレーンを失った烈公と春嶽はパワーダウン

中原は第2ランクのはじめにあげた水戸藩の徳川斉昭と越前藩の松平慶永(春嶽)を例にあげて、「補佐を以てその名なかば以上に貴し」つまり、その名声の半分以上は優秀な家臣のサポートによるものだと述べています。

 

おなじことを家臣の実名をあげて書いている人物がいました。

 

旧幕臣で、明治になってからはジャーナリストとして活躍した福地源一郎(桜痴)です。

 

福地はその著書『幕末政治家』のなかで、このように書いています。

(読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

春嶽殿は越前守と呼ばれし時よりして、薩州侯(斉彬)とその令名を同じくし、幕府の親藩にては、水戸の烈公に続いて名望ありし人なりき。

但し水戸にては藤田虎之助(東湖)、戸田忠太夫の両雄を、安政の大地震に失われてより、烈公の識見は大いに降られたるが如く、越前にても戊午の大獄に橋本左内を殺されてより、春嶽殿の智略もすこぶるその活動を欠きたりければ、今やその総裁職たるに及びて、幕閣の諸老および諸有司が意外の想いをなしたるも、けだしその故なきにあらざりしなり。
【「松平大蔵大輔(春嶽殿)」福地源一郎『幕末政治家』】

 

安政の大地震で藤田東湖と戸田忠太夫が圧死してから水戸斉昭はそれまでの識見がなくなったし、安政の大獄で橋本左内を刑死させている松平春嶽も、幕府の政治総裁職についたものの以前のような知恵が出せず、老中や諸役人は意外に思ったが、どちらも理由ははっきりしているというのが福地の見解です。

 

福地源一郎(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

さらに福地は追い打ちをかけるように、春嶽の理解力についても疑問を呈しています。(読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

春嶽殿は、橋本左内が存命中には、その誘掖(ゆうえき:導き助けること)によりて開国を今日に必要なりとは知り得たれども、何故に開国は必要なりや何故に鎖国は不可なりやというにいたりては、心底十分に了解し得たる政治家とも思われず。
【「春嶽殿及板倉水野諸老」福地源一郎 上掲書】

 

松平春嶽は橋本左内が生きているときは左内に教えられて開国が必要であることを知っていたが、何故それが必要なのかという理由までしっかりと理解していたとは思えないという論評です。

 

春嶽のために弁解すると、福地は幕府が衰退した原因のひとつは文久の改革だと考えているため、改革主導者の春嶽には辛口の記述になりがちです。

 

文久の改革の内容は島津斉彬の考えにしたがったものですが、久光によって政権の座(政事総裁職)についた春嶽がそれを実行しました。

 

主旨は国防を強化するための資金捻出で、幕府がその資金を提供出来ないのであれば、諸大名が経費を削減して、それを国防費に振り向けるというものです。

 

大名にしてみれば経費の最たるものは参勤交代ならびに妻子(正室と世子)の江戸居住にともなう費用ですから、これを軽減しようという趣旨で行なわれたのが文久の改革です。

 

参勤交代は1年ごとに江戸と領地を往復して1年間江戸在住だったのを、3年に一度で100日間江戸滞在にあらため、妻子の江戸居住は廃止しました。

 

妻子の江戸居住というのは大名の家族を人質にとることにほかならず、幕府はこの仕組みによって大名を抑えていたのですが、それを撤廃したので大名が幕府を軽視するようになり、幕府が弱体化したというのが福地の見解です。

 

つまりこれは、日本の国防が大事か徳川幕府の維持が大事かという優先順位の問題です。

 

幕臣の福地としては、春嶽は親藩の筆頭である福井藩主なのだから当然幕府を優先すべきだという思いだったのでしょう。

 

その思いが、春嶽に対するきびしい見方につながったのではないでしょうか。

 

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久光の説得に大隈を指名

急激な西洋化に反発する島津久光に明治政府の施策を理解させようとして、木戸孝允板垣退助が面談しましたが、彼らはいわば前座で、きちんとした説明を行なう人物が必要でした。

 

そこで駆り出されたのが旧佐賀藩出身の大隈重信です。

 

大隈が久光と会ったときの様子が、大隈の回想録『大隈伯昔日譚』に書かれていました。

 

読みやすくするため、一部を現代語訳にしてご紹介します。(原文はこちら

 

さて久光はすでに上京しているので、三条(実美)首相をはじめ中央政府の枢機をにぎる人々は、親しく内外の事情を久光に説明して、その誤信・迷信をとくことで彼の不満不平の念をなくそうと望んだが、その説明を誰にやらせるかで大変困った。

薩摩藩の出身者は多く、長州藩の出身者も少なくなかったが、これらの人々は同じ藩または藩同士の関係といった事情から適任でないとされた。

そのような関係も事情もないものを求めると、私以外いないので、三条や勝(海舟)らは私に久光を説得させようとし、西郷(隆盛)も深くこれに同意して、私に要請した。

私は西郷その他の人々にくらべれば、久光との関係ははなはだ疎遠なのは、もとより言を待たないが、久光に嫌われている点では西郷よりもむしろこちらが上だ。

というのも私は急激な改革党の一人、というよりむしろ過激な破壊党の一員として、ありとあらゆる旧物を破壊し、百事の改革を企てたため、いまだに封建時代の習慣を抜け出せず何事にも保守をとうとぶ久光のような人は、これを喜ばないばかりか、さらに私を内閣から引退させろとの意見すら持っていると聞いた。
【円城寺 清『大隈伯昔日譚』】

 

急激な西洋化に怒り心頭の久光を誰が説得するかを明治政府の要人たちが押しつけあって、薩長以外の出身で、かつ改革の当事者でもある大隈に白羽の矢を立てたということです。

 

大隈は久光が西洋化の旗振り役である自分を嫌っており、内閣から追放せよと言っていることも聞いていましたので、久光の説明役から逃げようとしますが、三条や勝に説得されて、三条邸で勝が同席するという条件でしぶしぶ了承します。

 

 

大隈重信(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

久光、大隈に意外な反応

『大隈伯昔日譚』には、久光に会ったときのようすが書かれています。

さきほどと同様に、一部を現代語訳にしてご紹介します。(原文はこちら

 

私と久光は互いにその姓名を聞いているとはいえ、その時まで一度も会ったことがなかった。

したがって今回が初対面となるだけでなく、その久光からたいへん嫌われているので、彼を説得してその誤信・迷信をとき、その不平不満の念をなくすことができるか否かは、当事者である私もたいへんおぼつかない思いであった。

しかし三条邸で会って互いにその胸の内を吐露したところ、私の想像と現実は正反対であることを知った。

さすがに彼〔久光:原注〕は大藩の君主だ、英俊の聞こえが高いとおり、風采言動も尋常の君主と同一視すべきでないものがある。

彼は頑固者でも、強情者でもない。

社交的で、学識があり、度量が大きく、ウイットに富む。

他の凡庸な人物とははなはだしく異なり、あっぱれ当時の名君、一世の英俊として毫も恥じるところがない。

 

大隈が話したのは中央集権国家の必要性です、内容と反応はこうです。

 

今日すべきは、内は百般の政治を整理統一して太政親裁の実をあげ、外は条約改正の大業を早く達成して、わが国を世界万国と並び立てることにある。

そのためには、先づ封建制を撲滅して藩を廃止し県を置き、かつこれまで続いてきた門地・門閥の仕組みを破壊し、優秀で才能のある者を登用して、中央集権の実効を完遂することだ。

そのために中央政府が断固として旧態を破壊しすべてを改めようとしている、その外のことを考えてはいない。このような話を五~六時間かけ、内外の情勢などさまざまなことを丁寧に反覆して、ほとんど余すところなく説明した。

久光もその大体においては、さしたる反対の議論を唱えることもせずに快く私の解説に頷いていたことから、私はひそかに案外の好結果として満足しただけでなく、わずか一夕の談話にて、当世の名君、一世の英俊として、深く彼を尊敬する気持ちになった。

 

久光を融通のきかないガンコじいさんだと思っていた大隈でしたが、じっさいに会ってみると洗練された知識人で、久光とは正反対の意見をのべる大隈に対し、くってかかることもせずにきちんと話を聞いていました。

 

大隈は、そのような久光の態度に敬服して、「当世の名君、一世の英俊」をほめたたえたのです。

 

ただし久光は大隈の意見に賛同したわけではありません、「大隈のいうことは理解するが、自分の考えはそうではない」というのが久光のスタンスです。

 

久光は相手が真摯であれば、異なる意見でもきちんと耳を傾けています。

 

最近のテレビ討論番組でよく見られる、相手の話をさえぎって自分の主張をまくしたてるというスタイルとはだいぶ違うようですね。

 

 

 

 

 

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板垣、久光説得に駆り出される

前回、板垣退助が史談会で語った、明治政府の急速な近代化に反対する島津久光を上京させて、木戸孝允が久光のところへ説明に行った時の話をご紹介しました。

 

今回はその話の続きです。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にしてあります)

ついでに申しますが、とうとう私にも久光公の所へ行けという事でありまして、参りました。

そのとき私は久光公に向って、 

「今日はお叱りをこうむりに参りました、私は常々容堂に叱りつけられて居りますから、お叱りを受けることは案外慣れて居ります」 

と言って、四民平等論廃刀論とを致して、しきりに久光公にお逆い申して帰って来た。

そこで三条公がドウであったかと言わるるから、 

「始めお断り申上げた通り、盛んにお怒らせ申して参りました」

 と申しました。

その後二日程経って大久保〔利通:原注〕が来て、

「板垣さん非常に好都合でありました。
久光が申すに、今迄乃公(だいこう:自分)の所へ来る者は、皆乃公の機嫌をとり、やれ横浜を見物するがよかろうなど人を馬鹿にするが、板垣のみは真面目に四民平等廃刀という事を説いて行ったと言って、非常に喜んで居りまする。
ドウかたびたびお出を願いたい、貴方に感謝します」

 というので、私は

「それは実に意外である、久光公は余程お怒りになって居らるるであろうと思って居りました」

と言って笑ったことがござります。

これでも久光公の人物がわかるだろうと思う。

【板垣退助「山内容堂公行実幷(ならびに)板垣伯同公世評の弁明附六十二節」 『史談会速記録第223輯』】

 

板垣退助(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

兄の斉彬もそうでしたが、久光もリアリストでお世辞やおべっかを嫌います。

 

たとい自分と反対の意見でも、堂々とそれを述べた板垣には好感をおぼえたようです。

 

本来であればこの説明は大久保利通がすべきだと思いますが、西郷と同じく大久保も旧主の久光を苦手としていたことがよくわかります。

 

ベルツの驚き

久光が明治政府の進めている急速な西洋化に反対していたのは、それが日本人の道徳感や伝統的な考え方(久光は「大和魂」と呼んでいます)をこわして、社会が不安定になってしまうことを恐れていたからです。

 

久光は教養人ですから、文明と文化の違いを理解していました。

 

しかし、下級武士出身で学問よりも討幕運動に力を注いでいた明治政府の高官たちには、そのような理解力は備わっていません。

 

西洋の進んだ工業製品を目の当たりにして、なんでもかんでも西洋化すればいいと短絡的に考えたのでしょう。

 

しかもこのような考えは明治政府高官だけでなく、当時の「教養ある人々」に共通していたようで、明治9年(1876)に来日したドイツ人医師ベルツがこのように書いています。

 

日本人に対して単に助力するだけでなく、助言もすることこそ、われわれ西洋人教師の本務であると思います。

だがそれには、ヨーロッパ文化のあらゆる成果をそのままこの国へ持って来て植えつけるのではなく、まず日本文化の所産に属するすべての貴重なものを検討し、これを、あまりにも早急に変化した現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと、しかも慎重に適応させることが必要です。

ところが――なんと不思議なことには――現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。

それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。

「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした〔言葉そのまま!:原注〕」

とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと

「われわれには歴史はありません、われわれの歴史はいまからやっと始まるのです」

と断言しました。

【トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳『ベルツの日記(上)』岩波文庫】 

 

江戸時代の日本は儒教の一派である朱子学を唯一の正統な学問とした結果、儒学者が学問の権威として君臨していました。

 

彼らは日本の歴史や文化を知ろうともせず、ひたすら中国をあがめていたようです。

薩摩藩の藩校造士館の教員も同様で、斉彬はこのように布告しています。

 

造士館の学風は、程朱の学(朱子学)のみ講習し、我が生国(日本)の史籍は度外に措き、人によりては却って我国を賤しめ唐土(中国)を尊重し、何も彼も唐風にせんと謂うものもありと聞及べり、甚だ心得違いなり。

【国学館幷洋学所開設御目論見、付、関八田後醍院石川ノ四名ヘ取調御内命ノ事」『島津斉彬言行録』岩波文庫】

 

時代が江戸から明治にかわったので、あがめる対象が中国から西洋にかわっただけです。

 

むしろ西洋人のベルツの方が日本文化の価値を理解していて、久光に近い気がします。

 

現代の日本でも、外国を称讃して日本をおとしめる「知識人」がマスコミによく登場します(というか、そういう人しか出してもらえない?⇐個人の感想です)が、これは文明開化の頃から進歩していないということでしょうか。

 

 

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容堂、久光には遠慮せず

島津斉彬を尊敬していた山内容堂ですが、弟の久光に対してはそうでもなかったようです。

 

旧土佐藩士の板垣退助が明治44年の史談会で、こんな話をしていました。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、送り仮名を加えています)

 

明治六年に島津久光公が出て来られた。

ところが三条(実美)公と岩倉(具視)公とが頭を抱えて苦んでおられた。どうか(板垣)参議などから一つ久光公を説いてくれということで、私にもそういうお話がありました。

 「私はとてもそういう気の利いたことは出来ませぬ、出ればお怒りを受くるに違いないから外の人をおやりなさい、しかし他に行く人が無くてお怒りを受けてもよいとなる場合には私が行きましょう」 と申しました。

そこで木戸〔孝允:原注〕が行った。

ところが色々話になっている内に、久光公が言わるるには 

「どうも大名などという者はこのごろは馬鹿扱にせられておる。せめて容堂が生きておれば、こうも馬鹿扱にはせられまいが」

 と言われたので、木戸は誠に意外に思って、 

「これはどうも不思議なことを承わります、あなた様と容堂公とはよほど御性質が違う様に伺っておりますが、今のお言葉はどういう理由でございましょう」 

と言うたら、久光公は、 

「イヤそれは容堂という奴は随分ひどい奴ぢゃ、あれは私の義理の甥になるが、あるとき二条城に出ておって、閣老に建言をしようということがあって、いっしょに行こうと容堂が言うから、自分はその前の意見に大同小異であって、小異のあるだけお前と一所に行くのを好まぬから、別に行こうと言った。

スルト何の行かぬことがあるものかと言って私の襟首を捉まえて一間(1.8m)ほど引張った。それで私は煙管(キセル)で思う様捉まえている手を殴ったら、容堂はアハハと笑て突放して行ってしまった。

義理と言っても伯父甥の間であるのにこの始末で、彼は誠に乱暴この上なしであるが、しかし彼は人物ぢゃった、彼が生きておれば大名なども馬鹿扱にされぬであろうに」

 と言われたので、木戸が驚いて帰って来て私に言うには、
 
「自分は久光公という人はむずかしいゴツゴツしたおじいさんであるとばかり思っていた。所が、どうもあの容堂公の乱暴をひそかに賞賛されたのを見ると、公もまた凡人では無い。ああいう余裕はあのお方に無いと思ったが、今日は感服をした」 

と申しました。

そうして見ると、誠にちょっとしたお話であるけれども、双方の人となりは分ると思う。

【板垣退助「山内容堂公行実幷(ならびに)板垣伯同公世評の弁明附六十二節」 史談会速記録第223輯】 

 

明治政府は鹿児島にいる久光が政府批判を続けているのに手を焼いて、政府の考えを説明するために東京に呼び寄せたのですが、みな説明役を尻込みしたので、木戸が久光のところに行きました。

 

すると久光が、前年に亡くなった容堂を賞賛して、「容堂が存命なら、大名も馬鹿扱いされなかっただろう」と語ったので、久光の度量に木戸が感服していたという話を板垣が披露したのです。

 

 

木戸孝允(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

同じ話も小説では‥‥

 

前回の話もそうでしたが、板垣の話からも、久光と容堂は義理の叔父・甥(容堂の義母祝姫は島津家出身で久光の姉)という関係ながら、うちとけた友人としてつき合っていた様子がうかがえます。

 

しかし、同じエピソードを元にしたと思われながら、小説の中で使われると、全く別の関係のように書かれることもあります。(読みやすくするため、文中の漢数字をアラビア数字に変えています。カッコ内の平仮名は原ルビ)

 

 慶応3(1867)年春、いよいよ時勢は煮えつまり、幕府も、日本の公式政権としての力をほとんどうしなった。
 久光が、大久保におだてられて京へのぼったのは4月12日である。去年の12月25日、討幕派にとって大きな障碍(しょうがい)であった孝明帝が崩じ、この正月、16歳の新帝が践祚(せんそ)された。公卿の岩倉、それに西郷、大久保ら討幕計画者たちは、このときに事をおこそうとしていた。
 久光と前後して、雄藩の諸侯たちもぞくぞく入洛してきた。大久保と西郷のお膳立によれば、久光が肝煎(きもいり)となって招(よ)んだことになっている。諸侯会議によってこの混乱を打開しようというものであった。
 京での久光は、いそがしかった。久光は行列を練っては議場にゆき、そこで大久保に教えられたとおりのことをしゃべった。大久保はいつも黒子(くろこ)として次室にひかえていた。
 ある日、二条城で会議がおわったあと、数人の諸侯が、
「これから、閣老に会おう」
 といって立った。べつに閣老に用事があるわけではなく、ちょっとあいさつ程度の気軽な会見である。が、久光は、昨日今日、大久保から
 ――もはや、幕府関係者とは会われませぬように。
 といわれていた。大久保らの討幕の秘計はほとんど実現寸前にきていた。無用のことを久光に喋(しゃべ)られてはかなわぬとおもったのであろう。
「さあ、参ろう」と、諸侯たちが立ったが、久光は立たなかった。
 それを、土佐の山内容堂が気づき、ひきかえしてきた。容堂はすでに久光の挙動があやしいことを勘づいている。
「隅州(久光)、参られい」
 と、容堂は突っ立ったままいった。久光は無言で表情を固くしている。
「参られい、と申すのに」
 と、容堂はいきなり久光のえりがみをつかみ、ぐっとひきよせた。大力できこえた大名である。引き倒されかけて久光は、
「なにをなさるっ」
 と、もがき、かろうじて扇子をあげ、容堂の手をたたいた。容堂はぱっと手をはなすふりをして久光を突きころばした。小柄な久光は勢いよくころんだ。うまれて、こんなことを人にされたことはない。
 容堂もさすがに間がわるいと思ったのか、はじけるように笑い、
「冗談じゃ、冗談」
 といいながら廊下へ出た。徳川家を温存しようとしている容堂は、薩摩の討幕の陰謀に対してにえかえるほどの怒りをもっていた。それがたまたまこんな行動になってでたのであろう。
 久光はみじめであった。討幕計画などというものも、そう標題をうてるほどの内容のものはなにもまかされていない。すべて大久保らがやっている。やっている当の大久保の身はなんの故障もなくて、知りもせぬ久光だけが殿中でつきころばされていた。
【「きつね馬」 司馬遼太郎『酔って候』文春文庫】

 

この短編小説の中で久光は、

「大久保におだてられて京へのぼった」

「大久保に教えられたとおりのことをしゃべった」

「大久保から(中略)といわれていた」

「なにもまかされていない。すべて大久保らがやっている」

など、いかにも無能な人物のように設定されています。

 

馬鹿扱いされている久光ですが、じつは斉彬が「弟周防〔久光公旧名:原注〕は学問もあり、咄相対(はなしあいて)になるは此一人なり」【「二四九 黒田長溥公市来廣貫ヘ御親話」『鹿児島県史料斉彬公史料第三巻』328頁】と語っていたほどの人物です。

 

生年も久光が文化14年(1817)、大久保は天保元年(1830)で、久光が13歳年上ですから、慶応3年(1867)であれば、数え年で久光51歳、大久保38歳になります。

 

地位・経験・見識のすべてにおいて久光の方が大久保より上だと見るのが素直だと思いますが、小説では全く逆のイメージになっています。

 

事実は無視されて、容堂が久光の襟首をつかまえる話が使われ、「容堂はアハハと笑て突放し」たことが、「容堂はぱっと手をはなすふりをして久光を突きころばし」て「久光はみじめ」に「殿中でつきころばされていた」という話に置き変わるのです。

 

小説というのはフィクションですからいたしかたないとはいえ、久光には気の毒な話です。

 

 

 

 

 

 

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