7日7夜のあいだ居合を続ける
前回、しっかりした見識の持ち主で、きちんと家来を制御できた大名は、水戸斉昭・鍋島閑叟・島津斉彬・山内容堂の4人だけという勝海舟の見解を紹介しました。
このうち山内容堂については、以前に容堂と島津久光が二条城内で取っ組み合いになった話と、久光の襟首をつかんで2mほど引きずった話をご紹介していますが、傍若無人というイメージがつよい人物です。
たしかに容堂という人は学識にくわえて体力も相当なものだったようで、旧土佐藩士で容堂のそば近くつかえた板垣退助が明治45年に開催された維新史料編纂会委員会でこんな話を披露しています。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、句読点と仮名づかいを改めています。原文はこちら)
容堂は相当の教育があり、そうして中継ぎ養子になりまして、さて藩政をとって見ると、どうも自分にも力の足らざるを感じたものと見えまして、非常な勉強をしたものであります。
机にもたれてふとんをかけて書見をしておる、眠る、目が覚めるとまた読むというような訳で、非常に勉強をしまして、わずかの間に立派な学者になりました。
そういう人でありますから、すべてが非凡でありまして、武芸の方では抜刀術を好みまして、家来を相手に七日七夜続けて居合をやられたというようなことがあります。
それは二十人ぐらいの相手でございますから、二十人が、一人が十二本ずつ即ち二百四十本の居合を抜きますると元の順番が来ます。
それは初めのうちは順番の来るのを待つような気味がありますが、しまいにはハヤ廻りが来たかというようになるもので、なかなか苦しいものであります。
それが臣下の人たちも、もとより主人に負けぬように思うて、熱心にやったには相違ありませぬが、それを仕舞いまで堪えた者は、わずかに五人ばかりしか無いようでありまして、皆中途で倒れる、倒れると代りがはいります。
そうして七日七夜の間、容堂はズット堪えてやったようであります。
【板垣退助「維新前後経歴談」『維新史料編纂会 第四回講演速記録』】
東京(品川区の大井公園)にある容堂の墓(ブログ主撮影)
じつは情の深い殿様だった
1週間ぶっ通しの居合稽古では、交替で相手をする家来20人のうち15人が脱落しているのに、容堂はひとりで耐え抜いたと板垣は語っています。
そういうことを聞くと容堂はいかにも武骨な殿様のように思えますが、じつは家臣への情愛も深かったそうです。
先ほどの板垣の講演ではこのようなエピソードも紹介されています。(同様に書き直しています。原文はこちら)
まことに情も深い人でありまして、その一例をあげれば、木戸(孝允)君が容堂に言うに、
「あなたは吉田元吉(東洋:容堂の抜擢で土佐藩の参政となり藩政改革を行なう。土佐勤王党に暗殺された)という者をお用いになった様子であるが、あれは非勤王・非攘夷論の人であって、どうも奸物である」
こう木戸君が言われたら、
「それはけしからぬことを承る、吉田元吉という者はそんな者ではない、かくかくの者である。
土佐の行政・経済を改革したのはまったく彼の力である」
という話をした。
そのおりに木戸君が、
「どうもああいう君に仕えておれば実に愉快である、感心なものだ。
今日誰も弁護しないところを、それを弁護して、あれは私が愛した者であるというお話をせられたが、どうもああいう情の厚い人に仕えておれば、さぞ愉快であろう」
こういうことを木戸君が言われたことがある。
そういう訳であって、小姓などが、脇差を脱いで入らねばならぬところを、つい忘れて行きおるというようなことがあると、コレコレと言って腰を叩いて見せるというような訳で、まことに小姓などを叱るということは滅多にないくらいの人でありました。
最初にのべたように容堂という人は傍若無人な言動で知られているので傲慢な性格と思われがちですが、そうではなく人格的にもすぐれていたというのが、そば近くで仕えていた板垣の感想です。
久光もそうですが、容堂も人々がいだいているイメージとじっさいの姿は違っていたようですね。