将軍は朝5時起床

前回は大名のふだんの食事がどうだったかについて、旧広島藩主だった浅野長勲の例をご紹介しました。

 

では、武家のトップである将軍の食事はどうだったのでしょうか。

 

これについては明治の中頃に朝野新聞社が、かつて大奥に勤仕した上﨟・中﨟ほか各職掌にわたる数十人にインタビューした記録の中にありました。

 

そのころまで生存していた人たちですから、ここで語られているのは江戸城で暮らした最後の将軍である14代家茂だと思われます。

(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、一部漢字を平仮名にしています。原文はこちら

 

まずは将軍のお目覚めから。

 

将軍は朝六ッ時、只今で言ば五時頃に起出るを例とす。

お小姓の朝まだきに御寝所へ立入るをば「入コミ」と唱う。

すでにお目覚めになればお小姓は「モウ」と触れ出し、是れを相図に御小納戸など皆それぞれの用意をなす。

用意とはうがい、お手水[ちょうず:原ルビ]さては御膳を調理するをいう。(中略)

さてお小姓の介添にて白木綿の糠袋もて顔を洗い、おわって袴を召し、御仏間にて御代々の位牌を拝するなり。
【「将軍の日課」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 下(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍は、午前5時に起床後うがいと歯磨き・洗顔をし、それから袴を着用して仏間で歴代将軍の位牌を拝みます。

 

当時の日本にはせっけんがなかったので、米ぬかの入った小袋で顔を洗っています。

 

 

徳川家茂肖像(『幕末・明治・大正回顧八十年史』より)

 

将軍の朝食

拝礼をおえた将軍は袴を脱ぎ「御小座敷」でお茶を飲んで一息入れたら、いよいよ朝食です。

 

御膳の出づる時刻となれば、お小姓また「モウ」と触れるなり。

右の触れにて、かねて御膳所にて用意したるを器物に入れ「御膳立の間」へ運ぶ。

ここにて御膳奉行の毒味あり、御膳番の御小納戸これを受取りてさらに「お次」へ運ぶ。

ここに七輪のごとき大いなる炉あり、鍋など幾個となく掛け御膳所番取揃えて御前へ出す。

御膳を運ぶはすべて御小納戸の役なり。

御給仕はお小姓の任なり。

さて御膳といえるは掛盤と唱うる物にて、四足の膳へ飯椀、汁椀、香の物を載す。

二の膳をつくることもあり。

元来将軍の食物は質素なるものにて、朝は「汁」と「向うつけ」「平」二の膳に「吸物」「皿」等あるのみ。

皿へは「キス」両様と唱えて、鱠残魚[きす:原ルビ]を塩焼にしたると漬焼にしたるとを付るなり。

三日(朔日、十三日、二十八日)にはこの鱠残魚に代えるに尾頭附と唱え、鯛、比目魚[ひらめ:原ルビ]の類を焼てつけるを例とす。
【前掲書】

 

小姓の「モウ」というかけ声で、準備した朝食が配膳室に持ち込まれ、ここで毒味が行なわれます。

 

御膳奉行による毒味をパスした朝食は次の間で温め直され、四本の足がついたお膳にのせられて、小納戸役が将軍の前に置きます。

 

メニューは、ご飯、汁物、香の物(つけもの)、吸物、焼き魚(ふだんはキスの塩焼と漬け焼、1日・13日・28日だけはタイやヒラメの尾頭付きを焼いたもの)です。

 

広島藩主の朝食はご飯、汁物に焼味噌か豆腐という一汁一菜でしたが、将軍になると二汁(汁椀、吸物)三菜(向付、平、皿)とかなり豪華になります。

 

また毒味や運搬の間に冷めてしまったものがそのまま出されていた大名家とは異なり、将軍家では汁物は温めなおしてから提供されていることがわかります。

 

 

「料理人」(『諸芸画』絵巻より:国立国会図書館デジタルコレクション)

 

食べた量をハカリで計測

給仕するのは小姓の役目です。

 

御膳を盛るはお小姓の役なり。

御膳番の御小納戸はお次に控えたり。

然し将軍少しにても病いあれば御膳番御飯をもりてお小姓へ渡す。

是は跡にて何程召上がりしやを秤にかけて見るが諚(おきて)なれば、御膳番が盛らねばならぬことなり。
【前掲書】

 

将軍家も大名家とおなじく、殿様の体調管理のために食事量をチェックしています。

 

ふだんは小姓がご飯を盛っていますが、将軍が体調不良の時は御膳番が盛って小姓にわたします。

 

御膳番は食後のご飯の重さをハカリにかけて将軍が食べた量を確認するとありますので、当然食前の重さもはかっているのでしょう。

 

広島藩では目分量でしたが、将軍さまはハカリできちんと計量するところがすごいですね。

 

 

via 幕末島津研究室
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