優秀な家臣がいるから名君と呼ばれる

前回、大隈重信が初対面の島津久光を「尋常の君主と同一視すべきでない」とほめた話を紹介しました。

 

「尋常の君主」つまり「普通の大名」というのは、政治を家老にまかせて優雅な日々を送っている殿様というイメージです。

 

しかし、19世紀に西欧列強が周辺のアジア諸国を次々と植民地化していく状況のなかでは、殿様がのほのんとしているわけにはいきません。

 

そういう時代になったので、幕末の日本には島津斉彬(没後は久光)、松平慶永(春嶽)、伊達宗城、山内豊信(容堂)の「四賢侯」をはじめ、名君(当時の表記は「明君」)と呼ばれる大名が何人もあらわれました。

 

しかし、そういう「明君」の全員が優秀な人物というわけではなかったようです。

 

薩摩藩の洋学者で江戸に留学していた中原猶介(なかはら なおすけ)が、そのころの「明君ランキング」をこう伝えています。

(カッコ内はブログ主の補記、読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

即今大小諸侯の中に明君と唱うるは水戸(徳川斉昭)、福井(松平慶永)、尾張(徳川慶勝)、薩州(島津斉彬)、宇和島(伊達宗城)、佐賀(鍋島直正:閑叟)、岡山(池田慶政)、外に一橋(慶喜公:原注)及び土州候(山内豊信)等、これを九明候と唱う。

中について我公(斉彬)を以て第一地位に称し奉り、二に水戸、福井、佐賀、宇和島とす。

その他はみな混唱して明候と唱う。

水戸は臣下に博識の名家多し、補佐を以てその名なかば以上に貴し、福井も然り。

ひとり薩候(斉彬)は臣下に人なく輔佐なし。

薩州には只公あるのみ。才あり器あり、創業守成ふたつながら兼備の君なり
【 「江戸其他諸藩ニオイテ御名誉ノ事」 『島津斉彬言行録』岩波文庫】

 

中原によると第1ランクは斉彬だけで、

 

次のランクが水戸の徳川斉昭(烈公)・福井の松平慶永(春嶽)・佐賀の鍋島直正(閑叟)・宇和島の伊達宗城、

 

3番目のランクが、御三家尾張藩の徳川慶勝・御三卿一橋家の徳川慶喜・岡山の池田慶政・土佐の山内豊信(容堂)

 

で、第3ランクの大名は「明君」より少し落ちる「明侯」と呼ばれたとのことです。

 

では第2ランクにいる大名であればトップの斉彬に準ずる知見や手腕の持ち主かというと、じつはそうでもなかったようです。

 

中原によれば、ほとんどの大名は優秀な部下のサポートがあるから明君と呼ばれているのだとし、斉彬だけは部下に人材がおらず、したがってサポートもない「真の明君」なのだと語っています。

 

 

中原猶介(『洋学者伝』ブログ主蔵)

 

ブレーンを失った烈公と春嶽はパワーダウン

中原は第2ランクのはじめにあげた水戸藩の徳川斉昭と越前藩の松平慶永(春嶽)を例にあげて、「補佐を以てその名なかば以上に貴し」つまり、その名声の半分以上は優秀な家臣のサポートによるものだと述べています。

 

おなじことを家臣の実名をあげて書いている人物がいました。

 

旧幕臣で、明治になってからはジャーナリストとして活躍した福地源一郎(桜痴)です。

 

福地はその著書『幕末政治家』のなかで、このように書いています。

(読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

春嶽殿は越前守と呼ばれし時よりして、薩州侯(斉彬)とその令名を同じくし、幕府の親藩にては、水戸の烈公に続いて名望ありし人なりき。

但し水戸にては藤田虎之助(東湖)、戸田忠太夫の両雄を、安政の大地震に失われてより、烈公の識見は大いに降られたるが如く、越前にても戊午の大獄に橋本左内を殺されてより、春嶽殿の智略もすこぶるその活動を欠きたりければ、今やその総裁職たるに及びて、幕閣の諸老および諸有司が意外の想いをなしたるも、けだしその故なきにあらざりしなり。
【「松平大蔵大輔(春嶽殿)」福地源一郎『幕末政治家』】

 

安政の大地震で藤田東湖と戸田忠太夫が圧死してから水戸斉昭はそれまでの識見がなくなったし、安政の大獄で橋本左内を刑死させている松平春嶽も、幕府の政治総裁職についたものの以前のような知恵が出せず、老中や諸役人は意外に思ったが、どちらも理由ははっきりしているというのが福地の見解です。

 

福地源一郎(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

さらに福地は追い打ちをかけるように、春嶽の理解力についても疑問を呈しています。(読みやすくするため一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

春嶽殿は、橋本左内が存命中には、その誘掖(ゆうえき:導き助けること)によりて開国を今日に必要なりとは知り得たれども、何故に開国は必要なりや何故に鎖国は不可なりやというにいたりては、心底十分に了解し得たる政治家とも思われず。
【「春嶽殿及板倉水野諸老」福地源一郎 上掲書】

 

松平春嶽は橋本左内が生きているときは左内に教えられて開国が必要であることを知っていたが、何故それが必要なのかという理由までしっかりと理解していたとは思えないという論評です。

 

春嶽のために弁解すると、福地は幕府が衰退した原因のひとつは文久の改革だと考えているため、改革主導者の春嶽には辛口の記述になりがちです。

 

文久の改革の内容は島津斉彬の考えにしたがったものですが、久光によって政権の座(政事総裁職)についた春嶽がそれを実行しました。

 

主旨は国防を強化するための資金捻出で、幕府がその資金を提供出来ないのであれば、諸大名が経費を削減して、それを国防費に振り向けるというものです。

 

大名にしてみれば経費の最たるものは参勤交代ならびに妻子(正室と世子)の江戸居住にともなう費用ですから、これを軽減しようという趣旨で行なわれたのが文久の改革です。

 

参勤交代は1年ごとに江戸と領地を往復して1年間江戸在住だったのを、3年に一度で100日間江戸滞在にあらため、妻子の江戸居住は廃止しました。

 

妻子の江戸居住というのは大名の家族を人質にとることにほかならず、幕府はこの仕組みによって大名を抑えていたのですが、それを撤廃したので大名が幕府を軽視するようになり、幕府が弱体化したというのが福地の見解です。

 

つまりこれは、日本の国防が大事か徳川幕府の維持が大事かという優先順位の問題です。

 

幕臣の福地としては、春嶽は親藩の筆頭である福井藩主なのだから当然幕府を優先すべきだという思いだったのでしょう。

 

その思いが、春嶽に対するきびしい見方につながったのではないでしょうか。

 

via 幕末島津研究室
Your own website,
Ameba Ownd