大名のもっとも重要な仕事は子作り?

 前回の後半で、老中水野忠邦が大奥年寄姉小路にやり込められたエピソードを紹介しました。

 

その中で姉小路が「御内室や御部屋」と語っていますが、これは「正室と側室」つまり「正妻と妾」ということです。

 

江戸時代においては、ほとんどのポストが「家業」でした。

 

要するに、職業や地位は「家」に附随していたのです。

 

そのような状況でしたから、家がなくなるということはイコール職を失うことです。

つまり、大名家にとって跡継ぎの有無は家の存続にかかわる最重要事項になるわけです。

 

じっさい藩主に跡継ぎがいないという理由で取りつぶされた藩はいくつもありますし、そうなれば家臣たちも失業します。

 

まさに「お家の一大事」です。

 

そのため各大名は、正室だけでなく数人の側室をおいて、子作りに励んでいました。

側室は人数制限がない上に入れ替えもできますから、各大名は複数の側室をおいていました。

 

いっぽう、正室は一人だけです。

 

死別か離別しないかぎり後室(後妻)を迎えることはできませんし、後室を迎えず側室のみで過ごす事例もありました。

 

子作りのためといっても、正室と側室では大きな違いがあります。

 

というのも、相続権は生まれた順ではなく、正室の子供が優先するからです。

 

そこで大名は正室がいなかったり、いても男子が生まれていなかったりした場合、側室の子供が生れてもすぐには幕府に届け出ることをしません。

 

(当時は乳幼児の死亡率が高かったので、あるていど成長してから届け出るのが一般的だったこともあります)

 

そうして、正室に子供ができないとわかった時に、はじめて届け出ました。

 

そうしないと、どちらを世子(後継者)にするかで御家騒動がおきるからです。

 

たとえ先に生まれていても、その後正室に男子が誕生すれば、正室の子(嫡子)が優先されて世子となります。

 

その場合、側室の子(庶子)は兄であっても藩主にはなれないので、日陰者として暮らすか他家の養子となるほかはありませんでした。

 

揚州周延「千代田之大奥 婚礼」(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大名の夫人には停年があった

興味深いのは、正室・側室にかかわらず、女性が30歳になれば子作りは卒業ということです。

 

稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』(青蛙房)の「一.公方と諸侯 5.大奥の真相 定年と身代りの推薦」には、

 

「将軍家でも諸侯(大名家)でも、その正夫人であると妾であるとに拘らず、停年制があって、女が三十になると御褥(しとね)御断りということがある。

 

そうなると正夫人であれば自分の召使いのうちから、器量、人柄相応なものを自分の代りに殿様へ進上する。」

 

と書かれています。

 

正室であっても30歳を過ぎると出産に関しては現役引退で、自分の代わりとして若い女中を推薦しますが、その女中が産んだ子供は正室の子ではないため庶子になります。

 

このような制度になっていたので、大名の世子で正室の子供というのはごく少数です。

 

たとえば島津家では、初代藩主の家久(当主としては18代)から最後の藩主となった忠義(29代当主)まで11人の藩主がいましたが、正室の子は重豪(しげひで:25代当主)と斉彬(28代当主:正室弥姫の長男)の2人だけです。

 

しかも、重豪が生れたときは父重年(しげとし)はまだ藩主になっておらず、加治木(かじき)島津家という分家の当主だったため、重豪は嫡子ですが藩主の子ではありませんでした。

 

つまり11人のうちで、生まれながらの世子は斉彬だけです。

 

斉彬に多大な影響をあたえた曾祖父重豪

重豪が生まれた加治木(かじき)島津家というのは、島津家の「一門家」(加治木・重富:しげとみ・垂水:たるみず・今和泉:いまいずみ の4家)で、将軍家でいえば御三家にあたり、本家の跡継ぎがいない場合に藩主を出す資格がある、薩摩藩では最高の家格になります。

 

なかでも加治木島津家は、初代藩主家久の次男で19代光久の弟となる忠朗(ただあきら)を家祖とする、一門家の筆頭格でした。

 

重豪の父重年は、5代藩主継豊(つぐとよ:22代当主)の次男として生まれ、加治木島津家の養子となっていましたが、藩主だった兄宗信が寛延2年(1749)に22歳で亡くなったため、本家に復して7代藩主(24代当主)となりました。

 

このとき重豪は5歳で、鹿児島城下にあった加治木島津家の屋敷で暮らしていましたが、藩主に就任した父に代ってひとまず加治木家を継ぎました。

 

そうして宝暦4年(1754)5月、10歳になった重豪は父とともに鹿児島を発して江戸に向い、7月に江戸到着後、幕府に島津家世子として届け出をしています。

 

翌宝暦5年(1755)に父重年も若くして亡くなったことから、わずか11歳で藩主となりました。

 

この重豪は斉彬の曾祖父で斉彬をたいそう可愛がり、斉彬の人格形成にも多大な影響をあたえた人物ですが、たいへん個性的で、興味深いエピソードがたくさんあります。

 

次回以降は重豪について、お話ししていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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