体を洗う家来に指示が出せない

食事の話がつづいたので、ついでに入浴の話もしておきます。

 

食事の話でもとりあげましたが、旧広島藩主で昭和12年まで存命だった ”最後の殿様” 浅野長勲(あさの ながこと)はこう語っています。

 

入浴なども随分困りました。

浴衣は夏でも冬でも麻の裏付きの浴衣で、冬は寒いものです。

湯殿に行く時は、戸口まで小姓がついて来る。

湯殿の中は、側坊主(そばぼうず)というものがおるけれども、これは身分が低いので、ものも言えず、お答えも出来ない。

湯が熱かったり、冷たかったりすると、熱い熱い、と独り言を言う。

坊主がそれを聞いて戸のところへ行って、「何か御意があります」、という。

小姓が、「何か」、と聞いて、はじめて、「湯が熱いという御様子でございます」、という。

その間、私は裸で立っておらねばならない。

形式でまことに困るのです。

風呂は焚くのではない、入れるのですから、加減は見るはずなのですが、こういうことがある。

多分あとで叱られるのでしょう。

これは表の話ですが、広敷で風呂に入ったことはありません。

入るのは一日に一度以上はない。

大概朝早く食事が済んでからで、私どもは隔日に入りました。

洗うのは、側坊主が糠(ぬか)袋の中に洗粉を入れてこする。

ろくに垢は出んでしょう。

手拭で拭くことはなしに、すぐ浴衣を着て、居間へ通ります。

居間へ帰ってから、ほかのものを着せるので、よくは拭けないだろうと思われます。

【「浅野老公のお話」三田村鳶魚 朝倉治彦編『武家の生活』中公文庫】

 

広敷とは表(公的スペース)ではなく、奥(私的スペース)を指します。

 

「広敷で風呂に入ったことはありません」というから、浅野長勲は仕事場近くの風呂を常用していたようです。

 

殿様ですから自分で体を洗うようなことはせず、体洗い専門の従者(側坊主)がいました。

 

殿様の身のまわりの世話をする小姓は、湯殿(ゆどの:風呂場)の入口までついてきますが、体を洗うような作業は身分の低い側坊主の担当です。

 

また、浴槽に湯を入れるのは別の係が行なっていました。

 

お湯係が湯加減を間違えてお湯が熱かった場合、殿様が「熱い!」といっても、身分の低い側坊主は殿様と口をきくことが許されないので、殿様の指示を直接受けることができません。

 

そのため外で待機している小姓のところに行って、「殿様が何かおっしゃっていらっしゃいます」と告げます。

 

そこで小姓が「どうしたのか?」と聞き、側坊主が「お湯が熱いようでございます」と報告して、小姓がお湯係に「水を入れて湯をうめろ」といった指示を出すことになります。

 

現代なら笑い話のようですが、当時はいちいち小姓を通さないと湯をうめることもできないという「形式(主義)でまことに困る」わけです。

 

このムダなやりとりのあいだ殿様は裸のまま洗い場でじっと待っているしかありません、冬場などはさぞや寒かったことでしょう。

 

さて、風呂から上がると、手拭で体をふくことはせず浴衣を着て居間にもどります。

 

そこで浴衣から着物に着替えるのですが、体をじゅうぶんに拭いていないので、さっぱりした気分にはなれなかったかも知れません。

 

鳶魚によると、浅野家では殿様の浴衣は夏冬関係なく常に麻の袷(あわせ:裏地のついた着物)だったそうです。

 

麻の浴衣にどれほどの吸水性があるかは知りませんが、「よくは拭けないだろう」と語っているので水気が残っていたことでしょう。

 

島津家別邸「仙巌園」の御殿にある殿様専用の湯殿(ブログ主撮影)
(左奥に見える細い石柱は大正時代につけられた水道)

上の写真は島津家別邸仙巌園の御殿にある殿様専用の風呂場ですが、浴槽にくらべて洗い場が大変広くなっています。

 

同じ御殿内に残っている家族用の風呂場(非公開)では、浴槽と洗い場がほぼ同じ位の広さでしたから、殿様だけは別待遇だというのがよくわかります。

 

将軍の入浴

では将軍の入浴はどうだったでしょうか?

 

以前紹介した『千代田城大奥』にはこのように書かれています。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

すでに夕景にもなれば御小姓をお供に必ず「御湯殿」へ入らせらる。

湯殿の構造は、前に述べたるごとし。

将軍湯殿に入れば、御小姓は先づ「お上り湯」という一間にて、脇差を床の刀掛に載せ、将軍の帯を解きて、御召台の上に置き、召物も同じく台に載す。

お小納戸はかねて白木綿の筒袖襦袢を着、白木綿の糠袋七八個を用意して傍に控え、湯の加減を測りまた上り湯を汲み取りなどす。

将軍風呂より出づれば、お小納戸の湯殿掛(ゆどのがかり)は糠袋にてその体を洗うに、顔に手に背に足に、ことごとく糠袋を取替え、一度肌につきたるをば再び他に用うることなし。

さて浴(ゆあみ)を終る時は別に用意の湯をさしわたし八九寸もある丸柄杓にて背中よりそそぎ掛け、然る後「お上り湯」という一間へ入れまいらす。

浴衣は十枚許りも[白木綿にて造り是も台へ載せおく:原注]あるべし。

一枚掛てすぐとってまた掛け、肌の乾く迄は何枚にても掛くるなり。やがて七八枚も掛て乾きたる後、召物を上るなり。

入浴の後、夕飯を食せらる。

【「将軍の日課」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 下(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

将軍の場合も小姓は脱衣の手助けまでで、洗い場には入りません。

 

洗い場の担当は「小納戸の湯殿掛」です。

 

将軍家の小納戸というのは、「将軍に近侍するものだが、小姓よりもやや軽く、将軍の理髪、食膳などの雑用を担当する」者で、「小姓からの上意伝達を受けて働き」ます。【稲垣史生編『三田村鳶魚 江戸武家事典』】

 

風呂の湯加減は湯殿掛がチェックするので、将軍が裸で待たされることはなかったでしょう。

 

大名と同様に体はぬか袋でこするのですが、こする場所ごとにぬか袋を新しい物と取替えて、一度使ったものは廃棄します。

 

そうして、湯から上がるときには、浴槽とは別に用意したお湯を湯殿掛が柄杓に汲んで、将軍の背中から注ぎかけます。

 

その後、隣接する「お上がり湯」の間に移動し、そこで白木綿の浴衣を何度も着せ替えて肌の水気をとります。

 

手拭で拭いた方が早いと思いますが、そういうことはせずに、かわいた浴衣を7,8回着せ替えていたそうです。

 

浅野長勲は朝風呂でしたが、家茂将軍は夕食前の入浴ですね。

 

殿様の生活は身のまわりのことをすべて家臣が行なってくれるのですが、かえって面倒な気がします。

 

風呂ぐらいはひとりで勝手に入りたいと思ったのではないでしょうか?

 

via 幕末島津研究室
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