八つ時は「おやつ」タイム

前回は将軍の正室である御台所の朝食についての説明でした。

 

引用した『千代田城大奥』には御台所の「おやつ」についても書かれていましたので、今回はその話。(読みやすくするため、現代仮名づかいになおし、句読点を打って、一部を平仮名にしています。原文はこちら

 

八ッ時(現在の午後2時)にお合[あい:原ルビ]の物を差し上ぐ。

御菓子は御舂屋[みつきや:原ルビ]製の羊羹、饅頭及び御菓子調進所なる白銀町二丁目大久保主水[おおくぼもんと:原ルビ]を始めとし、愛宕下長谷川織江、本石町二丁目金沢丹後、横山町三丁目鯉屋山城、本銀町二丁目宇都宮内匠製の蒸物等にて[主水をモンドというべきを、召し上り物を製するに音の濁るは即ち水の濁る形ちにて悪しとて、御本丸に限りモントとすみて呼ぶなり:原注]

これを一品五個ずつ、黒塗地に唐草形の金蒔絵をあらわし縁には金を置きたる中皿大の御菓子盆に盛りてたてまつる[夏季は神田須田町三河屋五郎兵衛より御菓子を納む:原注]。

御菓子の毒味は御飯の時の手続と同じ、但し一個を味わいてその他を類推するなり。

この時煎茶をたてまつる。

御茶器は唐草の毛彫に葵御紋と御生家の御紋とを散らせし銀瓶に、小室焼(おむろやき:水の毒を消すと言い伝えられているらしい)の御茶碗を添う。

さて御菓子は二個ばかりより多くは召し上がることなく、余の品は御側の女中御前にて頂戴するなり。
【「飲食」永島今四郎・太田贇雄編『千代田城大奥 上(朝野叢書)』朝野新聞社】

 

大奥では八つ時つまり午後2時になると、「お合いのもの」として、羊羹(ようかん)・饅頭(まんじゅう)・蒸し菓子などがでてきます。

 

御舂屋というのは江戸城内にある精米や餅をつくところですが、ここで羊羹と饅頭をつくっていたようです。

 

それに続いて住所付きで書かれているのは今風に言えば「幕府御用達」の菓子屋です、つまり江戸の超一流スイーツが提供されるわけです。

 

なかでも「御菓子調進所なる白銀町二丁目大久保主水」というのは、徳川家康の家臣で菓子作りが得意だった大久保藤五郎を祖とする名店で、御用菓子屋の筆頭として江戸市中の菓子屋をたばねていました。(余談ですが、大久保主水は幕府御用達に専念して店売りはしなかったそうで、明治維新で幕府がなくなると廃業しています)

 

現代におきかえれば、東京の超一流スイーツ店が腕によりをかけて製造したお菓子がズラリと並んでいるというイメージでしょう。

 

各品5個ずつ出てきたものから1個を毒味役が食べて安全確認したのちに、御台所が1~2個を取り、残りはそばにひかえる女官たちが御前で一緒に食べました。

 

 

揚州周延「千代田之大奥 元旦二度目の御飯」

(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

1回のおやつ代が3両!

この大奥のおやつについて、こんな話もあります。(読みやすくするため現代仮名づかいにあらため、一部漢字を平仮名にしています)

 

大奥の女中は意想外なる贅沢をきわむるものにて、老女中老の如き権勢ある女輩は、三度の食事の後一盆の菓子を供せしむるを例とせり。

松平定信閣老となりける時、その菓子の入費を取調べしめけるに、一盆の価値[あたい:原ルビ]三両ずつを要するとのことなりければ、それは過分なる取扱いなりとて、菓子の種類を饅頭羊羹今坂の類となし、一盆の価値を三匁以内にて弁ずべきことと定められたり。

元来定信は財政整理に熱心し、大奥のこと万事これに準じて節倹を加えられければ、奥にては大いに不平を鳴らし、囂々(ごうごう)勘定方の吏に迫り、勘定方はまた、奥を立てれば表に済まず、表に従えば奥に怨(うら)まれ、いわゆる板挟みの位地に立ちて、一方ならぬ心配しけるとぞ。

そのころ御勘定方を勤めたる人の話に、毎朝出仕のときは、今日こそ切腹せねばなるまいと覚悟して我家の敷居を跨ぎたりといえり。

大奥女権の盛んなること想い見るべし。(林主税)
【「四八三 女中の奢侈、閣老の検素と衝突す」山田三川著 小出昌洋編『想古録1』平凡社東洋文庫】

 

大奥では、御台所だけでなく幹部クラスの女官もぜいたくな暮らしをしていました。

 

これにストップをかけたのが、積極財政策をとって失敗した田沼意次の失脚後に老中となった松平定信です。

 

御三卿のひとつ田安家出身で、白河(現在の福島県白河市)藩主となった定信は「寛政の改革」とよばれる緊縮財政策(=経費削減)を行なったことで知られています。

その定信が目をつけたもののひとつが、大奥のおやつでした。

 

おそらく旧幕臣だと思われる林主税(はやし ちから)という人が語ったところによると、大奥の御年寄や御中老など幹部は、毎食後にデザートとして「一盆の菓子」を楽しんでいたようです。

 

そのデザートの値段が一盆3両(現在価値で30万円!)と知った定信は、ぜいたくな菓子ではなく、まんじゅう・ようかん・今坂(いまさか:大福の一種)などにして、3匁(同6,000円)以内におさえるようにと勘定方(会社でいえば経理部)に命じました。

 

(ちなみに、当時茶店で売られていた大福は1個8文(0.1匁)、今坂は1個12文(0.15匁)【塚原渋柿園著 菊池眞一編『幕末の江戸風俗』岩波文庫】だったそうですから、3匁は普通の大福なら30個買える金額です)

 

このような指示を出すなら、老中から事前に大奥と話をつけておくべきですが、どうもそうではなかったようです。

 

困ったのは勘定方の役人です。

 

老中からは経費削減を厳命されたものの、大奥の女官たちは承知していません。

 

たちまち勘定方にクレームが殺到しました。

 

老中と大奥の板挟みになって苦しんだ勘定方の役人たちは、毎朝出勤するときに「今日は責任を取らされて切腹しなければいけないかも‥‥」と悲痛な覚悟で家を出たということです。

 

 

 

 

via 幕末島津研究室
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