バンカラだった薩摩の習俗

 努力して都会人に変わった重豪ですが、そうなると目につくのが国元の田舎くささです。

 

そこで薩摩の習俗を改めさせようと考えました。

 

市来四郎が史談会でこのように話しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

 

そこで政務万端野鄙(やひ)な国風を一変して江戸風にしようということになりまして、種々なことにお手を付けられたそうです。

即ち江戸や上方の言葉遣いをも稽古せよということの布令も出されたそうです。

政務はもちろん、藩吏の職名組織までも幕府の制にならわれまして改革なされたそうです。
 

それよりして、風俗も都会風にやや赴いたそうです。

 

そういう訳で、野卑なる言語動作ではいけないという憤慨の思し召しから、そこになったそうです。

 

【「薩摩国風俗沿革及国勢推移の来歴附二十六節」『史談会速記録 第34輯』】

 

「野鄙」の「野」は「洗練されていない」、「鄙」は「いなか」という意味ですから、「野鄙な国風」とは「洗練されていない田舎者ぞろいの国柄」という感じです。

 

倭文麻環挿絵(国立国会図書館)

侠客の習俗中頃変じて又客気狂簡の弊を引出し横暴凌轢の悪風に流れたるの光景

 

「ぼっけもん」がヒーロー

薩摩がそのような国柄だったのにはわけがあります。

 

薩摩の侍たちから神のごとくしたわれた戦国時代の猛将島津義弘(17代当主)は、平時には無礼・無作法であってもいざ合戦の時となれば死をおそれずに戦う、薩摩の言葉でいう「ぼっけもん」を高く評価していました。

 

そしていざというときに主君のために平然と死ぬような家来を育てるため、日ごろから主従の交わりを親密にし、身分上のわけへだてをなくすように努めていました。

 

朝鮮の戦いにおいて島津軍があまりにも強かったので、加藤清正がその秘密を知ろうとして夜にこっそり島津の陣地をのぞきにいったという話があります。

 

そこで大将の義弘が兵士たちと交ざり合ってたき火にあたりながら歓談しているのを見て、「島津兵が強いわけがわかった」とつぶやき、静かに帰っていったそうです。

 

当時の薩摩では、戦において勇猛果敢であることが重要で、身だしなみや礼儀作法は二の次という気風でした。

 

義弘は人の姿かたちは国の風儀であり軽薄な他国のまねをすれば薩摩も弱くなってしまうと考え、「田舎者は田舎者らしきがよし」として、薩摩から都にのぼる者に国風を守るとの誓詞をとっていたほどです。

 

その結果、薩摩ではいつまでもこのような戦国の気風が残ることとなりました。

 

都会風に矯正しようとした結果‥‥‥

重豪が藩主になったのは宝暦5年(1755)、家康が将軍となって江戸幕府を開いたのが慶長8年(1603)ですから、殺伐とした戦国の世が終わって約150年が過ぎています。

 

平和な時代が続いていることで、武士の仕事も戦闘員から行政官に変化しました。

 

したがって武士に求められるものも、武芸と戦術から知性と社交術に変わっています。

 

そのような中で、薩摩の武士たちは依然として戦国スタイルをつらぬいていたのです。

 

重豪は江戸で馬鹿にされて、この問題に気づきました。

 

勇猛果敢であることだけが自慢で、身だしなみを気にせず、言葉遣いは乱暴、礼儀作法に無頓着で目上の者に対する態度もぞんざい‥‥‥。

 

戦国時代なら勇者として尊敬されたでしょうが、太平の世ではイキがった乱暴者にすぎません。

 

こんな連中が薩摩藩士として社交の場に出て行けば、他藩の洗練された武士たちから軽蔑されることは、重豪自身の経験でよく分かっています。

 

それで、安永元年(1772)に言語容貌の矯正を命じる布告を出しました。

 

その一部を紹介します。(漢文を書き下してあります。原文はこちらの311頁)

 

御領国辺鄙(へんぴ)の儀に候えば、言語甚だ宜しからず、容貌も見苦しく候ゆえ、余所(よそ)の見聞もいかがわしく、畢竟(ひっきょう)御国の面目にも相掛かる儀に付き、御上に於いても御気の毒に思し召し上げられ候。

急に上方向き程には改め難かるべく候えども、九州一統の風儀大概相並び候程の言語行跡には相成るべき事に候
(中略)

之に依って向後人々此の旨をわきまえ、容体・言葉づかい等相嗜み、他国人へ応答についても批判之れ無き様常々心掛くべく候。

【「852 重豪公御譜中写正文在文庫 口達之覚」『鹿児島県史料 旧記雑録追録六』】

 

内容は、

「薩摩はへんぴなところなので、言葉がよくないし、容貌も見苦しいため、よそからはいかがわしく見られている。

 

これは国の面目にもかかわるので、御上(おかみ:殿様)も気にしておられる。

 

急に上方(文化の中心である京・大坂)並みになるのはむずかしいかもしれないが、せめて九州標準くらいの言動レベルになるべきである。

 

このため、今後は誰もがこの趣旨を理解して、容貌や服装・言葉遣いに注意し、他国の人に応答するときも批判されることのないよう、日ごろから心がけるべし」

 

ということです(布告は家老からの通達なので、殿様の意向を伝える形になっている)。

 

ここで九州標準と言われても、薩摩にいるかぎり他国の様子を知ることはできませんから、どのようなものが標準なのかが藩士たちにはわかりません。

 

かといって、すべての藩士を他国視察に行かせることも無理です。

 

そこで重豪は、他国人の薩摩への入国を自由にして、薩摩の国内で他国の洗練された文化に触れさせようとしました。

 

そのために上方から芝居や相撲、芸妓までも大いに招き、舟遊びや花見も奨励します。

 

これらは薩摩のひとびとに大きな刺激をあたえるものでしたが、その結果は重豪の望んだ文化的向上をとおり越してしまいます。

 

遊びの楽しさをおぼえたことで薩摩の士風は急速に軟化し、文化人はふえずに蒙昧で軽薄な侍が増加してしまいました。

 

via 幕末島津研究室
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