烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。
羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。
羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。
4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。

公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、武士たちも着用するようになりました。
小結(こゆい)という烏帽子の内側の紐を髻(もとどり)の根元に結びつけて固定します。
平安時代には羅(うすもの)つまり薄い布でできていたため軽く小結だけでも十分に固定できました。
特に侍(下級貴族)たちは折烏帽子にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。武士(武装農民)たちも侍(下級貴族)に習い折烏帽子を用いていったと思われます。

そもそも長髪は大陸の影響を大きく受ける貴族の特徴であり、武士(武装農民)は元々は農作業や狩猟、領地争いにおける戦争で邪魔になるため古代から短髪だったという説もありますが、平安時代ころには武士(武装農民)たちもしだいに長髪になっていたと思われます。

 

髻(もとどり)は髷(まげ)とは違う

飛鳥時代以降大陸から伝わり、髻は冠や烏帽子また兜などをかぶるために頭頂部で髪(肩を越すぐらいまで伸びた髪)をまとめて結って立てている部分で、このような貴族の髪型を烏帽子髪もしくは烏帽子下と言いました。

武士(武装農民)たちも髻をして烏帽子をかぶるようになりましたが、室町時代以降には月代(さかやき)を剃って頭頂部で曲げて結うようになり髷(まげ)と言われるようになり、烏帽子そのものをかぶらなくなりました。

 

髪型は人に見せられない

髪型は実際に文献や図面資料に見られることはほとんどありません。冠や烏帽子を人前で外すことはいわば人前で下着(パンツ)を脱ぐぐらい恥だったからです。ただし自宅や親しい人との寛いだ場では冠や烏帽子を外すこともあったとされます。

とはいえ前述したように恥を感じるのは貴族にとっての風習であり、貴族に習って着けていた武士(武装農民)らは室町時代以降はしだいに日常的にかぶらなくなっていきます。織田信長などをテーマにした戦国時代のドラマや映画などでは烏帽子姿の武士が少ないイメージで、しだいに月代をしている武士たちも見られるようになります。

 

「てっぺん」の語源は髻と烏帽子を出すための兜の孔

平安時代までは兜をかぶるときに髻と烏帽子を兜の天辺の孔から出して固定しました。

冠や烏帽子だけでなく、兜も頭頂部で結わなければかぶることができないので、必然的にかなり高い位置で結っているのが分かると思いますが、天辺の孔が語源となり最も高いところを「てっぺん」と言うようになったとされています。

鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さなくなり(戦いのなかで掴まれてしまったり孔を弓矢で狙われるため)、髻を結わずに烏帽子をかぶるようになります。また室町時代から戦国時代にかけてしだいに烏帽子そのものがかぶられなくなっていきます。

 

侍(下級貴族)は烏帽子を折って着用した
侍(下級貴族)たちは折烏帽子(おりえぼし)にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。折烏帽子は立烏帽子を数回折り畳んだもので、基本は立烏帽子と同じ小結を髻の根元に結ぶ着用方法となります。
つまり、折烏帽子は元々は立烏帽子と同じかたちの頭巾(ときん)ということになります。
烏帽子の内側左右に乳輪(ちのわ)をつけて紙捻(こびねり)という掛緒(かけお)を通して顎の下で結ぶ忍掛(しのびがけ)という着用方法も生まれ、さらに烏帽子がずれたり外れたりしてはいけない儀式や出陣の際には、頂頭掛(ちょうずがけ)という掛緒を用いてさらに安定させました。

 

揉烏帽子は兜をかぶることが前提
兜をつけるときには烏帽子を柔らかく揉み、髻にぐるぐると烏帽子を捻じりつけて、兜の天辺の孔から髻と烏帽子を引き出して兜と頭の固定をはかりました。烏帽子だけで出陣する際に折烏帽子にするのとは異なり、兜をかぶることを前提にした烏帽子の着用方法が萎烏帽子もしくは揉烏帽子になります。
烏帽子に鉢巻を巻いて固定します。
兜を脱ぐと引き立てて儀容を整えたことから引立烏帽子(ひきたて)と言われたとされています。絵巻などで捻じれて引き立てられた烏帽子の絵は兜を脱いだときの様子かと思われます。
萎えているかたち(萎烏帽子)を梨子打烏帽子(なしうち)と称したとも言われています。鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さないようになったため後頭部の方へ烏帽子が垂れるようになっていきました。髪は髻にせず乱髪乱鬢の状態で烏帽子をかぶると後頭部の方に髪が出て、こめかみのところから鬢(びん)を出すようになりました。

 

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出土した烏帽子

坪ノ内遺跡(神奈川県平塚市)から出土した烏帽子は、井戸跡下層部からほぼ完存で発見され、幅27.5cm・高さ30.5cmで、2つ折りの痕がありますが立烏帽子の状態です。生地はイネ科の食物繊維で、4回ほど漆が塗布されています。中世ころとされていますがはっきりとした年代は不明です。烏帽子の全体像が分かるものとして希少です。

 

中世遺跡(神奈川県鎌倉市)で出土した烏帽子の断片。詳細不明。

 

西野遺跡(千葉県市原市西野字南口)から出土した烏帽子は、川の沖積地の溝の底面から出土したもので分解が進み、生地はほとんど残っておらず、塗布された漆に布の繊維がわずかに残っている状態です。

 

白山遺跡(千葉県市原市村上)から出土した烏帽子は、鎌倉時代後期から室町時代にかけての土坑から発見されました。

 

里字屋敷添遺跡(埼玉県鳩ケ谷市)から出土した烏帽子。里字屋敷添第2遺跡から出土したもので、土圧によってつぶれた状態ですが幅23.9cm・高さ14cmの大きさで、折り重なった状態であることから折烏帽子と推定されます。非常に脆く薄い絹製で、2度ほど漆塗りされています。中世のものであると推定されていますが詳しい年代は不明です。自然科学分析の結果、細い絹を利用した繊維で構成された生地と判明しています。

 

柳之御所跡(岩手県平泉町)から出土した烏帽子は、井戸跡から発見され、井戸埋め戻しのときに廃棄されたものとされています。立烏帽子と推定され、極細の絹で縒り、外面に漆のような樹脂が塗布されています。内面には塗布されていません。平安時代後期のものではないかとされていますが年代は不明です。

 

沖ノ羽遺跡(新潟県新津市)で出土した烏帽子。中世の井戸跡から漆加工された烏帽子が発見されました。

 

松河戸遺跡(愛知県春日井市松河戸町)から出土した烏帽子は、溝状遺構から発見されています。

 

大石城遺跡(滋賀県大津市)から出土した烏帽子は、室町時代のころの折烏帽子で、比較的よく残っています。苧麻製の2枚の薄い布を袋状に貼り合わせて黒く塗り、平織りの絹を漆で貼りつけて折烏帽子の形に固めています。

 

栗栖山南墳墓群(大阪府茨木市佐保字)から出土した烏帽子は2つあり、1つは土葬墓から発見され、土圧により押しつぶされていますが全形が復原できるほど残存状況がよい折烏帽子です。平織りの麻布に漆を何度も塗布しています。

もう1つは絹布と麻布を何枚も重ねて漆を塗布して仕上げています。前方を右側頭部に向けて折り、さらに後方を左側頭部に向かって折っている折烏帽子です。

 

湊遺跡(大阪府泉佐野市湊)から出土した烏帽子は、室町時代のものと推定されています。

 

平安京跡(京都府)から出土した烏帽子は、平安京左京七條三坊の西側の井戸跡から発見されています。詳細は不明。

 

石盛遺跡(福井県福井市)から出土した烏帽子は、鎌倉時代後期から室町時代にかけての遺物と思われます。塗膜のみが遺存する状態ですが形状はよく残っており、折ってあったため折烏帽子と推定されています。

 

宮保遺跡(石川県白山市宮保町)から出土した烏帽子は、鎌倉時代から室町時代にかけての集落跡(宮保館跡)の墓とされる長方形の土坑から発見されました。布を折って漆で固めた折烏帽子と推定されます。

 

大友遺跡(石川県金沢市大友町・近岡町)から出土した烏帽子は、大友E遺跡から発見されたもので、鎌倉時代から室町時代のものと推定されています。詳細は不明です。

 

鹿田遺跡(岡山県岡山市)から出土した烏帽子は、鎌倉時代中期と推定される木棺墓の中に埋葬された遺体の人骨が装着していたもので、頭骨を包むようにつぶれた状態で幅25cm・高さ17cmで出土しました。塗膜の顕微鏡観察から素材には紙と布が用いられ漆が何度も重ね塗りされた紙芯布張りであることが判明しました。鎌倉時代中期には紙に漆で固めた烏帽子があったことが推定されます。

 

古大里遺跡(山口県山口市)から出土した烏帽子は、室町時代ころと推定される2墓の木棺墓から出土した布に漆を1度簡単に塗ったもので、折った痕が残っています。