昔の鎌倉を考察する(1)
昔の鎌倉はどんなところだったのか?(1)140年前の記録から考察します。明治元年(1868年)の『旧高旧領取調帳』によれば、相模国内は680村で290,322石とあり、うち鎌倉郡の石高は90村で31,487石、人口は39,427人とあります。1石は1人が1年間に食べる米の量として計算されます。30,000石は、30,000人の民を養う経済力ということが言えます。1人が1日に食べる米はおよそ3合。1日3食なら1食1合ということになります。1石の米を収穫する土地面積を1反=360坪となるので、収穫面積は1人1日1坪となります。なお、判明している限りでは、相模国の石高は、 平安時代の推定 60,000石 慶長3年(1598年) 194,304石 慶長郷帳(1604年) 191,524石 寛永国絵図(1633年) 191,920石 正保郷帳(1644年) 220,617石 元禄郷帳(1697年) 258,216石 天保郷帳(1831年) 286,719石 明治5年(1872年) 289,776石 相模国の人口は、 明治6年(1873年) 359,598人 鎌倉郡の石高の推移までは推定することしかできませんが、石高に対しての人口比はやや人口が多い傾向にあること、そして江戸時代に比べて明治時代は格段に石高(生産力)が上がっていることが分かります。ちなみに、一説に鎌倉時代の相模国の石高は60,000石ほどと推測されており、鎌倉時代の鎌倉郡の石高はおよそ6,500石、人口はおよそ8,200人、現在の鎌倉市の区域では2,800人ほどと推定できます。※時代によって生産性は異なるため計算方法に問題はありますので、あくまで参考値。140年前、鎌倉には何人住んでいたのか?(現在の鎌倉市の区域)令和4年(2022年)7月の鎌倉市民の人口は172,623人、世帯は76,873世帯。1世帯あたり2.24人です。143年前の明治12年(1879年)の鎌倉市民(同区域)の人口は13,009人で、世帯は2,377世帯。1世帯あたり5.47人です(鎌倉郡全体では5.66人)。 明治12年(1879年) 13,009人 2,377世帯 1世帯あたり5.47人 令和4年(2022年) 172,623人 76,873世帯 1世帯あたり2.24人 (※鎌倉郡全体では人口39,427人、6,969世帯です)140年前、鎌倉の人々の職業は?(現在の鎌倉市の区域)明治12年(1879年)の資料で判明している職業は、83%が農家(農と商を営む世帯を含む)、8%は商業、4%は工業に従事しており、それ以外の雑業は5%となります。よって95%は自営業となり、鉄道も走っていない時代にはほとんどの世帯が自営業で、サラリーマンはほぼいないことが分かります。140年間でどれだけ自然が失われたのか?(現在の鎌倉市の区域)明治12年(1879年)の鎌倉郡の税地の割合は、田17%、畑37%、山林43%、宅地3%といった割合となります。田畑と山林だけで97%を占めています。一方で、143年後の令和4年(2022年)は総土地面積3,967haのうち、耕地面積は97haで2%、林野面積は1,279haで32%、前年令和3年(2021年)の宅地(商工地含む)は2,569haで65%となっています。 明治12年(1879年) 田畑 54% 山林 43% 宅地等 3% 令和4年(2022年) 田畑 2% 山林 32% 宅地等 65% 傾向としては、山林もだいぶ失われていますが、山林が激しく崩されて失われたというよりは、田畑がそっくり宅地・商工業地・公共地などに変わっていったという印象です。昭和39年(1964年)のナショナルトラスト運動や昭和41年(1966年)の古都保存法の制定などが一定の効果を残してきたと言えるかもしれません。税地が最も大きい村ランキング※鎌倉市区域でのランキング 1位 十二所村 73万坪 2位 大町村 52万坪 3位 粟船村 47万坪 4位 城廻村 41万坪 5位 極楽寺村 40万坪 ※鎌倉郡全体でのランキング 1位 瀬谷村 281万坪 2位 和泉村 201万坪 3位 上野村 151万坪 4位 阿久和村 136万坪 5位 永谷村 136万坪 人口が最も多い村ランキング※鎌倉市区域でのランキング 1位 腰越村 1,913人 2位 材木座村 1,136人 3位 山之内村 817人 4位 大町村 778人 5位 長谷村 687人 ※鎌倉郡全体でのランキング 1位 瀬谷村 2,057人 2位 富塚村(戸塚町) 1,995人 3位 腰越村 1,913人 4位 和泉村 1,509人 5位 片瀬村 1,238人 農家が83%を占める鎌倉郡内にあっては、土地の広い瀬谷村、和泉村に人が多く住んでいる一方で、東海道の宿町である富塚村(戸塚町)に多く人が集まってきていることは人の往来が大きく影響しており、富塚村(戸塚町)は農家35%、商工業40%、雑業27%と鎌倉郡内最大規模の商業都市であることが数字からも分かります。また、腰越村、片瀬村、材木座村、長谷村、坂之下村は港町であり、比較的他の地域に比べて人が多く住んでいる傾向を示しており、鎌倉が漁業の町であること、さらに四つ角以南の大町村と材木座村を合わせると1,914人と腰越村を超える人数が住んでおり、鎌倉随一の繁華街であることを示しています。さらに、鎌倉郡内の20%(鎌倉市区域では37%)を占める寺院を有している山之内村も比較的多くの人が住んでいることが分かります。人口と船の数 腰越村 1,913人 船 86 艘 29.4 % 片瀬村 1,238人 船 35 艘 11.9 % 材木座村 1,136人 船 55 艘 18.8 % 江島村 835人 船 62 艘 21.2 % 長谷村 687人 船 9 艘 3.1 % 坂之下村 654人 船 36 艘 12.3 % ※鎌倉郡内293艘のうちに占める割合ちなみに現在は、漁業従事者は64人、漁港は1か所、漁船は83隻あるそうです。鎌倉道(武蔵路)でかつては大きく栄えたとされる化粧坂の坂上梶原村、坂下扇谷村については、梶原村229人、扇谷村272人と村の規模はさほど大きくない(他と比べて特に大きな差はない)印象です。また現在の鎌倉駅や鎌倉市街地の北側、鶴岡八幡宮周辺である雪之下村については、46人の士族が住んでおり(鎌倉郡内の士族の70%を占める)、鎌倉駅から鶴岡八幡宮にかけての土地の物価の高さや旧鎌というプライド、排他的意識にも影響を与えているように感じます。鎌倉郡村誌では分からない部分明治12年(1879年)の鎌倉郡の範囲については、旧鎌倉郡とされていながら含まれていない地域があります。例えば藤沢郷、尺度(坂戸)郷、土甘郷、鵠沼郷など(藤沢市の一部)、小坪郷、久野郷、豆師郷、池子郷、沼浜郷、端山郷など(逗子市や三浦郡の一部)、金澤郷、六浦郷、釜利郷など(横浜市金沢区の一部)です。時代によって鎌倉郡の範囲が異なることは一概に鎌倉郡を断定して語り切れない点になります。