鎌倉もののふ隊
  • 20May
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      平安時代の烏帽子についてのあれこれ

      烏帽子のルーツは古代中国の頭巾烏帽子(えぼし)は、冠(かんむり)と同じく頭巾(ときん)という羅(うすもの)でできた薄い布の袋でできていました。羅(うすもの)とは絡み織(からみおり)をした目の粗い絹織物のことで、絹で織った網のような薄い布のことです。羅は元々は「鳥や小動物を捕獲するための網」という意味でした。4世紀前半に中国から渡来し、飛鳥時代には国産品も製作できるようになっていましたが、応仁の乱のころに技法の継承が途絶えたとされています。※古代中国では、冠や烏帽子(烏帽子の起源とされる圭冠)よりさらに古い頭巾(ときん)あるいは幞頭(ぼくとう)は紀元前770年ころから存在していたと『詩経』や『論語』に確認でき、四脚巾(しきゃくきん)や冠に発展したとされています。頭に被りものをすることが渡来人(貴族)の証Y染色体ハプログループOのDNAである弥生人、古墳人(天皇家)が中国や朝鮮から日本列島に移住し、ハプログループDのDNAである先住民の縄文人(毛人あるいは蝦夷)を奴隷化していきます。古墳の分布が古墳人(天皇家)が制圧した領土を表しています。古墳より出土した人物埴輪に冠を被る者が見られますが、『日本書紀』には大化3年(647年)に七色十三階の制という頭に被る冠(絹)の色で階級付けされていたことが記されています。天智2年(663年)の白村江の戦いで敗れてさらに百済人や高麗人、そして後には新羅人といったいずれもハプログループOのDNAの渡来人が入り、日本を統治していきます。皮肉にも白村江の戦いでの敗戦が日本を国家にしていきます。大宝元年(701年)の大宝律令(養老の衣服令)で礼服・朝服・制服の規定が定められ、階級や被る場面によって形式化していきました。いずれにしても絹の袋を被って髻(もとどり)に固定するもので、古代から中国では髪を切らずに髻を結ってきた民族的な風習が大前提にありました。つまりハプログループOの民族の証でもあるのです。上級貴族だけが威儀のために烏帽子に黒漆を塗って固めたそもそも烏帽子とは黒塗の帽子のことを指す、つまり漆を塗っている帽子のことという説が一般的ですがおそらく違います。冠に漆を塗る唐冠あるい漆紗冠(しっしゃかん)なども存在しており、また平安時代において漆を塗っていたのは平安時代末期に貴族の威儀のため薄く漆を塗って烏帽子を立てた立烏帽子だけであることから、烏帽子は単に黒色の帽子と解釈した方が自然です。圭冠(はしごこうぶり)をルーツとした公家や下級貴族の日常の被り物、つまり私服に用いられていたしなやかな絹紗(けんしゃ)の紗帽(さぼう)のなかで特に黒いものを烏帽子といい、冠と同じように階級によって被り方や素材、文様などが異なっていました。五位以上(上級貴族)は平絹や紗に黒漆を薄く塗った立烏帽子、それ以下は絹や麻など布帛で柔らかな揉烏帽子(萎烏帽子)や、折って用いる折烏帽子(侍烏帽子)です。特に下級貴族(侍)は動きやすいように折っていますが、中級貴族は兜を固定するために揉烏帽子である必要がありました。後の時代には風折烏帽子や平礼烏帽子、引立烏帽子など様々な烏帽子が登場しますが、平安時代に存在しているのは立烏帽子、揉烏帽子、折烏帽子ぐらいです。身分の低い庶民は被り物をしない公家や侍(仕える下級貴族)たちの日常のかぶり物として徐々に庶民にも広まっていき、武士たちも着用するようになりました。小結(こゆい)という烏帽子の内側の紐を髻(もとどり)の根元に結びつけて固定します。平安時代には羅(うすもの)つまり薄い布でできていたため軽く小結だけでも十分に固定できました。特に侍(下級貴族)たちは折烏帽子にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。武士(武装農民)たちも侍(下級貴族)に習い折烏帽子を用いていったと思われます。そもそも長髪は大陸の影響を大きく受ける貴族の特徴であり、武士(武装農民)は元々は臣籍降下した元貴族であって、農作業や狩猟、領地争いにおける戦争で邪魔になるため古代から短髪だったという説もありますが、平安時代ころには武士(武装農民)たちも元貴族であるプライドで長髪に烏帽子をしていたと思われます。ただし、注意しなければならないのは、庶民とはあくまで京畿に住む者たちぐらいであって、地方にいけばいくほど被る風習はなかったとされています。まして、長髪であることが被り物を必要とする所以であり、それこそが貴族であることの証でもあるので、下人(ハプログループDの原住民・縄文人・毛人)たちは短髪であり必然的に被ることを許されない身分です。髻(もとどり)は髷(まげ)とは違う飛鳥時代以降大陸から伝わり、髻は冠や烏帽子また兜などをかぶるために頭頂部で髪(肩を越すぐらいまで伸びた髪)をまとめて結って立てている部分で、このような貴族の髪型を烏帽子髪もしくは烏帽子下と言いました。武士(武装農民)たちも髻をして烏帽子をかぶるようになりましたが、室町時代以降には月代(さかやき)を剃って頭頂部で曲げて結うようになり髷(まげ)と言われるようになり、烏帽子そのものをかぶらなくなりました。髪型は人に見せられない髪型は実際に文献や図面資料に見られることはほとんどありません。冠や烏帽子を人前で外すことはいわば人前で下着(パンツ)を脱ぐぐらい恥だったからです。ただし自宅や親しい人との寛いだ場では冠や烏帽子を外すこともあったとされます。とはいえ前述したように恥を感じるのは貴族にとっての風習であり、貴族に習って着けていた武士(武装農民)らは室町時代以降はしだいに日常的にかぶらなくなっていきます。織田信長などをテーマにした戦国時代のドラマや映画などでは烏帽子姿の武士が少ないイメージで、しだいに月代をしている武士たちも見られるようになります。「てっぺん」の語源は髻と烏帽子を出すための兜の孔平安時代までは兜をかぶるときに髻と烏帽子を兜の天辺の孔から出して固定しました。冠や烏帽子だけでなく、兜も頭頂部で結わなければかぶることができないので、必然的にかなり高い位置で結っているのが分かると思いますが、天辺の孔が語源となり最も高いところを「てっぺん」と言うようになったとされています。鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さなくなり(戦いのなかで掴まれてしまったり孔を弓矢で狙われるため)、髻を結わずに烏帽子をかぶるようになります。また室町時代から戦国時代にかけてしだいに烏帽子そのものがかぶられなくなっていきます。侍(下級貴族)は烏帽子を折って着用した侍(下級貴族)たちは折烏帽子(おりえぼし)にしてかぶっていたため侍烏帽子とも称されていました。折烏帽子は立烏帽子を数回折り畳んだもので、基本は立烏帽子と同じ小結を髻の根元に結ぶ着用方法となります。つまり、折烏帽子は元々は立烏帽子と同じかたちの頭巾(ときん)ということになります。烏帽子の内側左右に乳輪(ちのわ)をつけて紙捻(こびねり)という掛緒(かけお)を通して顎の下で結ぶ忍掛(しのびがけ)という着用方法も生まれ、さらに烏帽子がずれたり外れたりしてはいけない儀式や出陣の際には、頂頭掛(ちょうずがけ)という掛緒を用いてさらに安定させました。揉烏帽子は兜をかぶることが前提兜をつけるときには烏帽子を柔らかく揉み、髻にぐるぐると烏帽子を捻じりつけて、兜の天辺の孔から髻と烏帽子を引き出して兜と頭の固定をはかりました。烏帽子だけで出陣する際に折烏帽子にするのとは異なり、兜をかぶることを前提にした烏帽子の着用方法が萎烏帽子もしくは揉烏帽子になります。烏帽子に鉢巻を巻いて固定します。兜を脱ぐと引き立てて儀容を整えたことから引立烏帽子(ひきたて)と言われたとされています。絵巻などで捻じれて引き立てられた烏帽子の絵は兜を脱いだときの様子かと思われます。萎えているかたち(萎烏帽子)を梨子打烏帽子(なしうち)と称したとも言われています。鎌倉時代以降は兜の天辺の孔から髻と烏帽子を出さないようになったため後頭部の方へ烏帽子が垂れるようになっていきました。髪は髻にせず乱髪乱鬢の状態で烏帽子をかぶると後頭部の方に髪が出て、こめかみのところから鬢(びん)を出すようになりました。鎌倉武士の店で折烏帽子を販売しております。ご購入をご希望の方はぜひ鎌倉武士の店をご利用くださいませ。出土した烏帽子坪ノ内遺跡(神奈川県平塚市)から出土した烏帽子は、井戸跡下層部からほぼ完存で発見され、幅27.5cm・高さ30.5cmで、2つ折りの痕がありますが立烏帽子の状態です。生地はイネ科の食物繊維で、4回ほど漆が塗布されています。中世ころとされていますがはっきりとした年代は不明です。烏帽子の全体像が分かるものとして希少です。中世遺跡(神奈川県鎌倉市)で出土した烏帽子の断片。詳細不明。西野遺跡(千葉県市原市西野字南口)から出土した烏帽子は、川の沖積地の溝の底面から出土したもので分解が進み、生地はほとんど残っておらず、塗布された漆に布の繊維がわずかに残っている状態です。白山遺跡(千葉県市原市村上)から出土した烏帽子は、鎌倉時代後期から室町時代にかけての土坑から発見されました。里字屋敷添遺跡(埼玉県鳩ケ谷市)から出土した烏帽子。里字屋敷添第2遺跡から出土したもので、土圧によってつぶれた状態ですが幅23.9cm・高さ14cmの大きさで、折り重なった状態であることから折烏帽子と推定されます。非常に脆く薄い絹製で、2度ほど漆塗りされています。中世のものであると推定されていますが詳しい年代は不明です。自然科学分析の結果、細い絹を利用した繊維で構成された生地と判明しています。柳之御所跡(岩手県平泉町)から出土した烏帽子は、井戸跡から発見され、井戸埋め戻しのときに廃棄されたものとされています。立烏帽子と推定され、極細の絹で縒り、外面に漆のような樹脂が塗布されています。内面には塗布されていません。平安時代後期のものではないかとされていますが年代は不明です。沖ノ羽遺跡(新潟県新津市)で出土した烏帽子。中世の井戸跡から漆加工された烏帽子が発見されました。松河戸遺跡(愛知県春日井市松河戸町)から出土した烏帽子は、溝状遺構から発見されています。大石城遺跡(滋賀県大津市)から出土した烏帽子は、室町時代のころの折烏帽子で、比較的よく残っています。苧麻製の2枚の薄い布を袋状に貼り合わせて黒く塗り、平織りの絹を漆で貼りつけて折烏帽子の形に固めています。栗栖山南墳墓群(大阪府茨木市佐保字)から出土した烏帽子は2つあり、1つは土葬墓から発見され、土圧により押しつぶされていますが全形が復原できるほど残存状況がよい折烏帽子です。平織りの麻布に漆を何度も塗布しています。もう1つは絹布と麻布を何枚も重ねて漆を塗布して仕上げています。前方を右側頭部に向けて折り、さらに後方を左側頭部に向かって折っている折烏帽子です。湊遺跡(大阪府泉佐野市湊)から出土した烏帽子は、室町時代のものと推定されています。平安京跡(京都府)から出土した烏帽子は、平安京左京七條三坊の西側の井戸跡から発見されています。詳細は不明。石盛遺跡(福井県福井市)から出土した烏帽子は、鎌倉時代後期から室町時代にかけての遺物と思われます。塗膜のみが遺存する状態ですが形状はよく残っており、折ってあったため折烏帽子と推定されています。宮保遺跡(石川県白山市宮保町)から出土した烏帽子は、鎌倉時代から室町時代にかけての集落跡(宮保館跡)の墓とされる長方形の土坑から発見されました。布を折って漆で固めた折烏帽子と推定されます。大友遺跡(石川県金沢市大友町・近岡町)から出土した烏帽子は、大友E遺跡から発見されたもので、鎌倉時代から室町時代のものと推定されています。詳細は不明です。鹿田遺跡(岡山県岡山市)から出土した烏帽子は、鎌倉時代中期と推定される木棺墓の中に埋葬された遺体の人骨が装着していたもので、頭骨を包むようにつぶれた状態で幅25cm・高さ17cmで出土しました。塗膜の顕微鏡観察から素材には紙と布が用いられ漆が何度も重ね塗りされた紙芯布張りであることが判明しました。鎌倉時代中期には紙に漆で固めた烏帽子があったことが推定されます。古大里遺跡(山口県山口市)から出土した烏帽子は、室町時代ころと推定される2墓の木棺墓から出土した布に漆を1度簡単に塗ったもので、折った痕が残っています。

  • 15May
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第19回感想

      2022年5月15日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第19回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。第19回「果たせぬ凱旋」なお、キャストの順番は以下の通り。北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、弁慶(佳久創)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、九條兼実(田中直樹)、土肥実平(阿南健治)、三善康信(小林隆)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、静御前(石橋静河)、里(三浦透子)、藤原泰衡(山本浩司)、藤原国衡(平山祐介)、土佐坊昌俊(村上和成)、大姫(落井実結子)、藤原秀衡(田中泯)、比企能員(佐藤二郎)、文覚(市川猿之助)、源行家(杉本哲太)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で34名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで 第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで 第17回 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)6月 一條忠頼や藤内光澄を誅殺するまで 第18回 元暦2年(1185年)1月~3月 源義経が鎌倉に入れず京へ戻る 第19回 元暦2年(1185年)8月~12月 守護地頭を認めさせるまで が描かれています。元暦2年(1185年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 47歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 28歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 22歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 38歳 大姫 治承2年(1178年)生 7歳 源範頼 久安6年(1150年)生 35歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 32歳 源義経 平治元年(1159年)生 26歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 17歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 50歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 58歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 17歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 38歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 45歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 75歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 73歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 73歳 工藤祐経 久安3年(1147年)生 38歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 18歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 67歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 55歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 45歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 43歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 40歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 42歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 37歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 45歳? ※13人の1人  文治元年(1185年)6月22日、源頼朝(大泉洋)の怒りを買って鎌倉に入れず、京都に戻っていました。文治元年(1185年)8月16日、源義経(菅田将暉)が受領、伊予守に補任されます。ドラマでは源頼朝が推挙したとして描いていますが、後白河法皇(西田敏行)の院給分国である伊予守補任は後白河法皇の意向であり、源頼朝が関わっていないという見方もあります。いずれにしても源義経は検非違使と伊予守を兼任することになりますが、本来は兼任することができないことからドラマでも描かれていたように九條兼実(田中直樹)は『玉葉』に「未曽有」と記しています。 文治元年(1185年)8月、源頼朝が源行家(杉本哲太)追討を計ります。9月、源頼朝は梶原景季(柾木玲弥)を入洛させ、源義経に源行家追討を要請しますが、源義経に断られます。さらに、源義経は平時忠の娘(蕨)を妾にしており、そのことで5月20日に配流が決まっていた平時忠が在京したままになっており、源義経と源頼朝の対立が加速していきます。源頼朝の怒りによって結局9月23日に平時忠は能登国へ配流されますが、平時忠の子平時実は周防国へ配流されるはずが義兄弟となった源義経のもとを離れず、後に源義経と都を落ちています。これを受けて源頼朝は源義経と源行家が結託しているだけでなく、平時実とも結託していると確信し、源頼朝は源義経追討も計ります。ドラマでは静御前(石橋静河)と里(三浦透子)のみが描かれていますが、蕨姫の存在も非常に大きな事態を引き起こしていました。 源頼朝は後白河法皇に依頼して父源義朝の首を探し出してもらい、大江公朝に届けてもらいます。ドラマでは文覚(市川猿之助)が発見して持参したと描かれています。文治元年(1185年)9月3日、源頼朝は父源義朝の首を南御堂に埋葬し、10月24日、堂舎完成の落慶供養を行いました。大御堂(勝長寿院)は源義朝の菩提を弔うため前年の元暦元年(1184年)に建立された寺院で、鶴岡八幡宮と永福寺と並び三大寺社に数えられる源氏の菩提寺の性格の濃い寺院です。10月13日には源頼朝の命により、児玉党30余騎が源義経を襲撃し、10月17日には土佐坊昌俊(村上和成)ら60余騎が源義経を襲撃しています(堀川夜討)。ドラマでは10月24日の大御堂(勝長寿院)での供養に源義経を呼び寄せると描かれていますが、この当時、上記したようにすでに源頼朝は源義経追討を実施しており、源頼朝と源義経の関係は完全に悪化していることから考えにくいです。 10月18日、源義経と源行家の要請により、後白河法皇は源頼朝追討の院宣を発します。源行家は四国地頭に、源義経は九州地頭に補任されます。10月22日、源頼朝追討の院宣が鎌倉に伝わります。10月29日、源頼朝は自ら鎌倉を出陣し、黄瀬川(伊豆国北條の少し先)まで進軍します。11月3日、源義経と源行家、そして前述した平時実らは都を落ちます。11月4日、摂津国で摂津源氏の多田行綱と戦い(河尻合戦)、源義経は多田勢を撃退したものの手勢はわずかとなってしまいました。源義経は緒方氏を頼り摂津国大物浦から九州へ向かおうとしますが、暴風雨で一艘も残らず難破し、九州行きは頓挫します。源義経は吉野に1年ほど潜伏します。平時実は捕らえられ、翌年文治2年(1186年)1月に上総国に配流されました。源行家も潜伏していましたが、翌年の文治2年(1186年)5月に地元民に密告され、北條時定(北條時政の弟)に捕らえられ、山城国赤井河原で長男源光家、次男源行頼とともに斬首されています。6月には源有綱も大和国で討ちとられています。※源有綱は鎌倉智士が最も重要視する人物です。以仁王の令旨を掲げて挙兵したときには源頼朝は源有綱を匿いましたが、木曽義仲(青木崇高)が皇位継承への介入で後白河法皇と不和になったこともあり、源有綱は価値を失っただけでなく、むしろ邪魔な存在になっていました。源義経との対立の影響は、里の実家、河越氏にも及びます。11月12日、里の父河越重頼は領地を没収され、後に長男河越重房とともに誅殺されます。河越重頼の娘婿下河辺政義も連座しています。源義経はドラマ上で「里を連れていくのは比企の娘だからだ、いざというときの人質だ」と言っていましたが、もはや人質の意味を成していませんでした。源頼朝の命によって源義経と婚姻関係を結び源義経の後見人となった河越氏にとってあまりに理不尽な仕打ちであり、後に源頼朝は自らしたことをまるで他人事のように「憐れである」と河越尼(里の母)に河越荘を安堵しています。河越尼は比企尼の娘であり、源頼朝にとって乳兄弟(同じ乳を飲んで育った)にあたりますが、それだけでは河越一族は許されなったのです。文治元年(1185年)10月20日、鎌倉に問注所が設置され、三善康信(小林隆)が任命されます。三善康信は源頼朝の乳母の妹の子(あるいは乳母の子)であり、源頼朝が流人時代に長年京都の状況を知らせていた功労者の1人であり、源頼朝にとっては親戚といってもいい関係です。なお、問注所は訴訟事務を所管する機関のことです。11月7日、源義経は検非違使と伊予守を解任されます。11月25日、源義経と源行家に対し追討の院宣が下されました。 11月28日、北條時政(坂東彌十郎)が京都へ進軍し、守護と地頭の設置を認めさせる文治の勅許が行われます。ドラマでは昇殿してしまっていますが、北條時政は昇殿を許されるような立場にはいません。ましてや武装した状態で昇殿するなどもってのほかです。史実でも北條時政は直接ではなく吉田経房を介して要請しています。また、ナレーションで京都守護としてと描かれていますが、洛中の警護や朝廷と幕府の間の連絡の任であり、ドラマで描かれていたような「とんでもねえお役目だぜ、おっかねえよ~」というようなそこまで重い任務ではなく、北條時政、一條能保、一條高能、土肥実平(阿南健治)、牧国親、五條有範、中原親能(川島潤哉)、里見義直、平賀朝雅、中原季時、伊賀光季、大江親広といった順番で継承されていきます。なお、守護と地頭を認めさせた文治の勅許は、寿永二年十月宣旨と並び鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられていますが、いわゆる守護・地頭は鎌倉時代後期の概念であり、この当時はやや性格が異なるという見方があります。また、大江広元の献策であると伝わるものの、『吾妻鏡』の件を鵜呑みにはできないという見方もあります。ただいずれにしてもここまで政治を動かしてきたのは中原広元(栗原英雄)や三善康信、藤原俊兼、藤原邦通らの活躍があったことは間違いないと思われます。

  • 08May
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第18回感想

      2022年5月8日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第18回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。第18回「壇ノ浦で舞った男」なお、キャストの順番は以下の通り。北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、平知康(矢柴俊博)、中原親能(川島潤哉)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、静御前(石橋静河)、里(三浦透子)、弁慶(佳久創)、藤平太(大津尋葵)、平清宗(島田裕仁)、大姫(落井実結子)、安徳天皇(相澤智咲)、二位尼(大谷恭子)、一万(大藤瑛史)、箱王(加賀谷光輝)、比企能員(佐藤二郎)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で33名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで 第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで 第17回 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)6月 一條忠頼や藤内光澄を誅殺するまで 第18回 元暦2年(1185年)1月~3月 源義経が鎌倉に入れず京へ戻るまで が描かれています。元暦2年(1185年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 47歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 28歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 22歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 38歳 大姫 治承2年(1178年)生 7歳 源範頼 久安6年(1150年)生 35歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 32歳 源義経 平治元年(1159年)生 26歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 17歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 50歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 58歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 17歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 38歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 45歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 75歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 73歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 73歳 工藤祐経 久安3年(1147年)生 38歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 18歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 67歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 55歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 45歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 43歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 40歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 42歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 37歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 45歳? ※13人の1人 元暦2年(1185年)1月、江間義時(小栗旬)は源範頼軍にあって兵糧も少なく、周防国から九州に渡る船も集められず苦戦していましたが、豊後国緒方氏から船を借りて九州へ渡ることに成功します。和田義盛(横田栄司)がもう鎌倉へ帰ろうとう有名なシーンも和田義盛の冗談として描かれています。2月、摂津国の渡辺津にいた源義経(菅田将暉)は暴風雨に行く手を阻まれていましたが、暴風雨を利用して奇襲をかけて阿波国に渡り、平家は屋島を捨てて長門国彦島へ落ち延びました(屋島合戦)。源義経が「わしのことを一番理解しているのはお前だ、へいぞう」と言いますが、梶原景時は平三郎、つまり略称は「へいざ」です。「へいぞう」なんて呼ばないでほしいです。3月、長門国に到達した源義経は船の漕ぎ手を狙い、敵船が立往生したところを攻める策(禁じ手)を提唱し、3月24日に禁じ手を用いた源義経は劣勢を逆転し、ついに源平合戦は源氏の勝利(壇ノ浦合戦)。ただし、漕ぎ手を狙い撃ちにしたという史料はないため、創作エピソードとなります。  滅亡を覚悟した二位尼(大谷恭子)が宝剣を持ったまま入水し、安徳天皇も入水してしまいます。平宗盛は臆病で入水自殺に失敗したとされていますが省かれています。 御家人の前では三種の神器のうち宝剣を失ったことと安徳天皇を救えなかったことを責めますが、北條政子(小池栄子)と2人きりになると源頼朝は源義経の功績を称えて涙を流します。ただ、源頼朝は三種の神器を朝廷(後白河法皇)との交渉や取引のために確保しておきたかったとされており、宝剣を紛失しただけでなく、源義経が他の2つの神器を勝手に朝廷に返してしまったことも咎められる原因だとされています。ドラマでは、1月は梶原景時(中村獅童)の逆櫓論争、2月は六日菖蒲(屋島合戦)、3月は梶原景時の讒言(壇ノ浦合戦)など、梶原景時と源義経のエピソードがしっかりと描かれています。 前年の元暦元年(1184年)9月15日には源義経は昇殿を許され、9月18日には従五位下へ昇進しています。元暦2年(1185年)2月に平家を滅ぼした源義経が後白河法皇(西田敏行)に褒め称えられるシーンでも、源義経だけが昇殿しており、中原親能(川島潤哉)だけ昇殿できずにいる描写が描かれています。 妻の里(三浦透子)がじっと影から見ているところで、静御前(石橋静河)と遊ぶ源義経。「それはそれ、これはこれ」とまさに女性遊びは兄源頼朝そっくりです。そして、何と平清盛(松平健)の義弟平時忠の娘をも娶っています(妾としたともされています)。この件も実は源頼朝の反感を買った一因となったようです。  4月15日には源頼朝の推挙なく朝廷から無断任官を受けた者たちに対して、源頼朝は罵り、京での勤仕を命じ、東国(墨俣川より東)への帰還を禁じます。梶原景時の讒言によって源義経は鎌倉入りを許されず腰越で足止めされます。ドラマではすでに梶原景時は鎌倉に戻って直接讒言していましたが、実際は元暦2年(1185年)4月21日に梶原景時は「源義経は追討の功績を自分一人の物としている」と記した書状を送っています。ドラマでも御家人たちが手柄を独り占めされたと不満を募らせている場面が描かれていました。源義経の多大な戦功は、恩賞を求めて源頼朝に従って命を懸けて戦っていた東国武士たちの戦功のチャンスを奪ってしまい、結果的に源義経の独断専行は御家人たちの不満の的になっていたのです。元暦2年(1185年)4月26日、壇ノ浦合戦で敗戦し捕虜となっていた平宗盛(小泉孝太郎)は土肥実平(阿南健治)や伊勢義盛らに厳重に警護され帰京しました。見物人が群れをなして見送っていたとされています。5月7日、平宗盛と平清宗(島田裕仁)は源義経に連行されて鎌倉に向かいます。4月15日に東国への帰還を兄源頼朝から禁じられていたにも関わらず、源義経は従わずに鎌倉へ向かったことになります。九條兼実(田中直樹)が「配流の儀にあらず」と記しているとおり、死罪が決定しているなかでの鎌倉行きであり、ドラマでもいったんは鎌倉へ向かって、その後京都に戻ってから首を刎ねるようにと源義経は丹後局(鈴木京香)に指示されています。5月16日、平宗盛は輿に乗り、平清宗は騎馬して鎌倉に入りました。ドラマでも描かれていたように、源義経だけは腰越で足止めされ、平宗盛父子だけが鎌倉入りを許されています。6月7日、平宗盛は源頼朝の前に引き出されます。源頼朝は御簾の中から平宗盛を眺め、比企能員(佐藤二朗)に自らの言葉を伝えさせたとされており、ドラマでも同じように描かれていました。また、『吾妻鏡』や『平家物語』では平宗盛は卑屈な態度で終始助命を乞い、周りから非難嘲笑されたとされていますが、ドラマでは全く逆に描かれています。そもそも臆病で入水自殺に失敗したシーンも省かれており、平宗盛の印象ががらりと変わっています。6月9日、平宗盛は京都に送還されます。腰越状は弁慶(佳久創)ではなく平宗盛(小泉孝太郎)がしたためますが代筆だとすぐにバレてしまい、兄弟の溝は埋まらないまま源義経は京都へ平宗盛父子や平重衡らとともに戻っていきます。この辺りも平宗盛の印象を良くするエピソードになっています(逆に弁慶ではないというところが気になります)。藤平太(大津尋葵)とのエピソードは伏線の回収となります。6月21日に平宗盛は源義経の命を受けた橘公長の手により近江国篠原で斬首されました。享年39歳。嫡男の平清宗、次男の平能宗らも順次処刑され、平宗盛の男系血統は途絶えたとされています。また、源義経は平重衡を平重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送っています。6月23日、平宗盛や平清宗らの首は、六條河原で検非違使平知康(矢柴俊博)らが受け取り、さらし首になったとされています。次回第19回は京都に戻った源義経と、鎌倉の源頼朝との対立、そして第20回ではとうとう源義経の最期が描かれます。

  • 01May
    • 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第17回感想の画像

      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第17回感想

      2022年5月1日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第17回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第17回「助命と宿命」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、工藤祐経(坪倉由幸)、仁田忠常(高岸宏行)、中原親能(川島潤哉)、弁慶(佳久創)、一條忠頼(前原滉)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、平知康(矢柴俊博)、静御前(石橋静河)、大姫(落井実結子)、海野幸氏(加部亜門)、藤内光澄(長尾卓磨)、比企能員(佐藤二郎)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)、一万(大藤瑛史)、箱王(加賀谷光輝)の順で35名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで 第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで 第17回 寿永3年(1184年)2月~元暦元年(1184年)8月 源義経が無断任官するまで が描かれています。寿永3年(1184年)当時の登場人物の年齢を確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 46歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 27歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 21歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 37歳 大姫 治承2年(1178年)生 6歳 源範頼 久安6年(1150年)生 34歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 31歳 源義経 平治元年(1159年)生 25歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 16歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 49歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 57歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 16歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 37歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 44歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 74歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 72歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 72歳 工藤祐経 久安3年(1147年)生 37歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 17歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 66歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 54歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 44歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 42歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 39歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 41歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 36歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 44歳? ※13人の1人 木曽義高 承安3年(1173年)生 11歳 第17回は寿永3年(1183年)2月の一ノ谷合戦で平家軍を破った源義経(菅田将暉)が後白河法皇(西田敏行)から功績を称えられる場面から始まります。鵯越の逆落としについて褒められた源義経に対し、一ノ谷と鵯越は全く別だと言う梶原景時(中村獅童)。源義経は「鵯越の方が響きがいいし、馬で駆け降った方が絵になる、歴史はそうやってつくられていくんだ」とまるで時代考証をうるさく言う人に対してドラマとはこういうものだと三谷幸喜さんからのメッセージのような気がしてなりません。この件はとにかく脚本が素晴らしいですね。まさにその通り!と感嘆いたしました。 工藤祐経(坪倉由幸)がドラマ上では8年ぶりの登場です。安元元年(1175年)に源頼朝(大泉洋)に伊東祐親(浅野和之)殺害を命じられて以降姿を消していました。実はドラマでは完全に省かれていましたが安元2年(1176年)に工藤祐経は伊東祐親の命を狙ったものの討ち漏らし、流れ矢が伊東祐親の長男河津祐泰(山口祥行)にあたり河津祐泰は亡くなりました。河津祐泰には2人の遺児がおり、一万(大藤瑛史)と箱王(加賀谷光輝)です。一萬丸は後の曽我祐成、箱王は後の曽我時致です。「人殺しー!!」と石を投げつけられていたのはこういった背景があり、この件は曽我兄弟の仇討ちへの伏線となっています。ただ兄を殺された八重が「ご自分が何をしたか分かっておられるはず」と言うだけで済むのが不可解で、それだけの大事を江間義時(小栗旬)が「何をしたんだ?」と知らないのも不自然です。なお、曽我祐成は承安2年(1172年)生まれなので、このとき11歳。曽我時致は承安4年(1174年)生まれなので、このとき9歳です。テロップには工藤祐経は八重(新垣結衣)の従兄と記載されていますが、工藤祐経は伊東祐親の従弟にあたり、八重にとっては従弟叔父にあたります。つまり八重は工藤祐経にとっていとこ姪です。ところが工藤祐経は伊東祐親の娘を娶っていたことがあります(離縁させられています)ので、かつては八重の義兄だったことがあります。元暦元年(1184年)4月、とうとう木曽義高(市川染五郎)が最期を迎えます。  寿永3年(1184年)1月に粟津合戦で討死した木曽義仲(青木崇高)の長男木曽義高は、人質として鎌倉にいたため、「わしは木曽義高にとって父の仇、あれが生きている限り枕を高くして眠れん」と源頼朝によって木曽義高誅殺の命令が下ります。4月21日、大姫(落井実結子)は密かに木曽義高を逃そうとし、信濃国から木曽義高に随行してきていた海野幸氏(加部亜門)を身代わりとし、木曽義高に女装をさせて鎌倉を脱出させます。ドラマでは北條政子(小池栄子)が中心となって行っており、第1回で北條政子が源頼朝を逃したシーンの伏線の回収となります。海野幸氏は寿永2年(1183年)閏10月1日に水島合戦で討死した木曽義仲軍の総大将の海野幸広の弟で、後に弓馬四天王の1人に数えられる弓馬の達人です。弓馬四天王は海野幸氏、望月重隆、小笠原長清、石和信光の4人です。海野幸氏と望月重隆は木曽義高に随行して信濃国から鎌倉に来ていましたが、後に御家人となる祢津宗通など、海野氏・望月氏・祢津氏は滋野三家と称されます。    木曽義高逃亡を知った源頼朝は堀親家に木曽義高を討ち取るよう命じます。元暦元年(1184年)4月26日、武蔵国の入間河原で木曽義高は堀親家に捕らえられ、堀親家の郎党藤内光澄(長尾卓磨)によって討たれました。ドラマでは生まれ故郷の信濃国に戻るといって逃げていましたが、討たれたのは武蔵国入間川と伝わります。木曽義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまい、北條政子(小池栄子)は木曽義高を討ったせいだと怒り、6月27日に藤内光澄は晒し首となりました。藤内光澄にとってあまりにも理不尽です。ドラマでは大姫はまだ病床に伏してはいませんが、おそらく今後伏線として描かれていくものと思われます。なお、木曽義高の塚(木曽塚)は常楽寺の向かいの木曽免という田畠にありました。現在は常楽寺の裏山に移されて供養塔が建っています。  元暦元年(1184年)6月16日、一條忠頼(前原滉)が誅殺されます。武田信義(八嶋智人)にもう対抗することはしないと起請文を書かせたことで「もう甲斐に攻め込むことはない」と江間義時が警告しますが、実際には甲斐国に攻め込んでいます。甲斐国の武田一族はそもそもまとまって同一行動を取っておらず、内部分裂を起こしてしまったことで源頼朝にしだいに淘汰されていくことになります。治承4年(1180年)8月23日の石橋山合戦で、平井義直(平井清隆の義父)は大庭景親軍に従軍して相模国へ攻め込み仁田忠俊(仁田忠常の兄)と戦い討死しています。その後平井氏は御家人として史料に見られますが大きな活躍は確認できません。なお、甲斐国平井郷から相模国の石橋山までおよそ100kmほどあり、進軍に4日ほどかかることから遅くとも8月18日ころには甲斐国平井郷を出兵していたと考えられます。武田信義の弟(あるいは叔父)の加賀美遠光の妻は三浦義明の長男杉本義宗の娘であり、加賀美遠光は和田義盛の義兄弟にあたります。ただし加賀美遠光の長男秋山光朝や小笠原長清らは京都に出仕(在京)しており、源頼朝の挙兵には加わりませんでした。武田信義の子逸見有義も在京して平重盛に仕えており、源頼朝挙兵当初は旗幟を鮮明にしていない者が多かったのです。『山槐記』によれば8月21日に以仁王の令旨を掲げて武田信義と一條忠頼父子が挙兵し平家派の同族と戦っており、武田信義が甲斐国を掌握しきれていなかったことを物語っています。武田信義の挙兵によって在京していた逸見有義の妻子は斬首されています。武田信義は挙兵後は9月には信濃国伊那郡へ出兵し諏訪社と同盟すると、10月には駿河国へ進軍しています。武田信義の叔父(あるいは弟)の安田義定は武田信義とは別行動しており、源頼朝に与していた伊豆国の狩野茂光(米本学仁)の一族である工藤景光、工藤行光、市川行房らとともに救援に向かっています。甲斐源氏は伊豆国狩野工藤氏と婚姻関係を持つ氏族が多く、その1人が工藤景光であり、源頼朝ではなく狩野茂光救援のために向かったものと思われます。8月24日に大庭景親軍の侍大将俣野景久と駿河国目代橘遠茂と激突し、翌8月25日には駿河国波志田山合戦で安田義定は俣野景久軍を破ったと『吾妻鏡』に記されていますが誤りで、石橋山合戦で戦っていた俣野景久が翌日に駿河国にいることは不可能であり、10月13日に駿河国目代の橘遠茂と橘為茂父子や長田忠致と長田景致父子が捕らえられ斬首された端足峠(はしだとうげ)の鉢田合戦のことであると考えられます。この鉢田合戦は北條時政(坂東彌十郎)、江間義時、土屋宗遠、加藤光員、加藤景廉らの先導で、武田信義、一條忠頼、板垣兼信、逸見有義、安田義定、逸見光長、河内義長、石和信光らが富士北麓から若彦路を通り駿河国井出へ侵攻し合戦となりました。10月16日には平家方の80人の首級が富士川にさらし首となりました。俣野景久は平家方として篠原合戦まで戦いつづけています。富士川合戦で勝利すると武田信義は駿河国を制圧し、近江源氏と連携を行います(『玉葉』)。この当時は東国では源頼朝、武田信義、木曽義仲の三者が並立して東国の棟梁として朝廷から見なされていたことが『玉葉』に記されています。安田義定は武田信義とは別行動しており、平家を打ち破って都に進撃する木曽義仲とともに東海道から都に上洛し、その功績によって遠江守に任官しており、完全に独立した立場にいました。一方で加賀美遠光とその次男小笠原長清、武田信義の子石和信光は源頼朝に接近し、源頼朝を利用して武田一族内での立場を優位にしていきますが、逆に武田一族の力は弱まり、次第に御家人に組み込まれていきます。養和元年(1181年)に後白河法皇が武田信義を源頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、武田信義は鎌倉に召喚され「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」と起請文を書かされています。ドラマでは3年後の元暦元年(1184年)6月に再度起請文を書かされたことになります。元暦元年(1184年)6月16日、武田信義の子一條忠頼が鎌倉に招かれて宴席で誅殺されました。この前後には木曽義高残党討伐という名目で源頼朝は甲斐国や信濃国に出兵しており、何だかの関係性が示唆されます。ドラマでもやはり木曽義高との内通を疑われて一條忠頼は誅殺されたと描かれています。さらに一條忠頼の次男甘利忠行も翌元暦2年(1185年)に常陸国に配流されて後誅殺されています。一條忠頼死後は弟の板垣兼信が武田氏の時期棟梁と目されていましたが、あくまで源頼朝とは同盟関係であると認識していた板垣兼信は平家追討にあって土肥実平の配下に加わることに不満を持ち、源頼朝に訴えたものの「実平優位である」と退けられています。源頼朝からすれば板垣兼信はもはや御家人の1人にすぎないと認識していたのです。ドラマでは武田信義の「頼朝を一度も主人と思ったことはない」というセリフで描かれています。板垣兼信は建久元年(1190年)に勅命違反を問われて隠岐国へ配流され失脚しています。一條忠頼や板垣兼信の弟の逸見有義は在京しており、高倉天皇中宮の侍長を務め、左兵衛尉に任官し平重盛に仕えていました。富士川合戦のころには父武田信義軍に合流しており、治承4年(1180年)12月24日に妻子が都で殺害され梟首されています。正治2年(1200年)に梶原景時と同心していると弟石和信光に嫌疑をかけられ没落。以後石和信光は武田信光と統一して記されるようになることから武田氏棟梁の地位が石和信光に移ったと考えられます。逸見有義と同じように平家に仕えていた秋山光朝(加賀美遠光の長男)は、木曽義仲にも仕えたとされ、源義経の指揮下に加わり屋島合戦や壇ノ浦合戦など平家追討で活躍したものの、平重盛の娘婿となっており、文治元年(1185年)に謀反の罪で誅殺されています。一方でその父加賀美遠光は文治元年(1185年)に源頼朝によって推挙され信濃守に任官しており、娘大弐局は文治2年(1188年)以後は源頼家や源実朝の養育係となって女房の筆頭格にまでなります。以上のように、武田一族の内部分裂が武田一族の弱体化を招き、源頼朝の御家人に成り下がっていくのでした。 元暦元年(1184年)6月5日、源頼朝の推挙のあった平頼盛、平光盛、平保業、一條能保、源範頼(迫田孝也)、太田広綱、大内義信らが任官されました。しかし源義経は源頼朝の推挙がなくこのときは任官から洩れていました。8月6日、源義経が源頼朝の推挙なく無断で検非違使や左衛門少尉に任ぜられます。8月17日に鎌倉に届いた報告によれば、無断任官について源義経は「自分が望んだわけではないが、後白河法皇に当然の褒美であると言われ、断ることはできなかった」と弁明していますが、無断で任官したことで源義経は源頼朝と対立することになります。ドラマでは無断任官についてあまり強調視されていませんでしたが、源頼朝からすれば自分の家臣が無断で勝手に任官することは許されることではありません。9月15日には源義経は昇殿を許され、9月18日には従五位下へ昇進しています。御家人のなかには源義経と同じように無断任官した者がおり、源頼朝の激怒を買っています。元暦2年(1185年)4月15日以降、無断で任官した者について源頼朝は墨俣川より東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し処罰する命令書を発しています。兵衛尉義廉、佐藤忠信、師岡重経、渋谷重助、小川馬允、後藤基清、波多野有経、酒匂朝景、酒匂景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、本間能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、足利忠綱、平子有長、平山季重、梶原景季、首藤重俊、宮内丞舒国、首藤経俊、八田知家、小山朝政ら24名です。1人1人にあてた罵詈雑言は「ハゲのくせに」とか、なかなかユーモアがあって笑えます。 元暦元年(1184年)9月14日、源頼朝の命により河越重頼の娘里(三浦透子)が在京していた源義経の許に嫁ぎます。河越重頼の妻つまり里の母である河越尼は比企能員(佐藤二朗)の妻道(堀内敬子)とともに源頼朝の長男万寿(源頼家)の乳母になっています。河越重頼と河越重房の父子は源義経の木曽義仲追討に従軍しており、後白河法皇の御所にも源義経とともに参院しています。また源義経が検非違使に無断任官した折にも、河越重頼の弟師岡重経も随行して無断任官しています。このように武蔵国の有力者が源義経の最大のスポンサーになっていったのは源頼朝による計らいでしたが、源義経の無断任官はその恩を仇で返す行いであり、源頼朝の怒りを買う十分な理由でした。

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      平安時代の直垂を考える

      もう10年近く、直垂を普段着のようによく着てきて、ずっと疑問に思っていたことがある。古くから狩衣と同じように庶民の服、つまり活動着として用いられてきた直垂。にも関わらず、とにかく動きにくい。どうもおかしい。・狩りをする上で矢を射る・騎射するために乗馬する・戦うために鎧を着用する・農作を行うなど、普段着として着用されてきたはずだが、どうも動きにくいので調べてみた。結論からいうと、巷で販売されている直垂(鎧直垂)の類は、鎌倉時代後期以降の礼服化した後の直垂であって、決して活動に適したものではないことが分かった。※間違いがあったらぜひコメント欄でご指摘いただきたい。さて、直垂がいつから着用されていたのかというと、埴輪に直垂らしき装束を見ることができるので、古墳時代にはあったとみられている。埴輪が着用しているという点は古墳人(朝鮮から渡ってきたハプログループOのDNA)つまり当時の貴族が装着しているということを意味する。しかし俗には、直垂は古来は庶民の服であったとされている。平安期や鎌倉期の絵巻などにも直垂が散見されるからである。しかし絵巻の類は京都の貴族社会や鎌倉幕府などを主に描いており、田畑を耕す農民や狩りをする庶民を描いている絵は決して多くない点は注意が必要だと考える。古墳人が朝鮮から入ってきて列島を制圧し、縄文人(ハプログループDのDNA)を駆逐し奴隷化していった制圧区域は日本の古墳の分布に合致する。古墳人(天皇を中心とする貴族)、臣籍降下し地方に散って直接的に在地を支配する元貴族、奴隷(下人ともいう)となった縄文人(毛人)など人種的な階級は様々で、現代人が想像できるいわゆる庶民が着用していたかどうかは疑わしい。奴隷となった毛人(蝦夷)は革の服を着ていたとされており、ここでいう庶民とは下級の貴族(侍)の可能性が高い。平安時代には、上衣を直垂と言い、袴とは別物であった。古来は寝巻だったものが活動しやすいために普段着になったとされている。読んで字のごとく、真っ直ぐ垂らすので直垂と言い、着物のように首元で合わせることなくそのまま真っ直ぐ下へ下す。狩衣や束帯などと異なり活動しやすくするため、上衣を袴の中に全て入れ込むのが最大の特徴である。袖は筒袖で小さくて活動しやすく、括り袖にはなっていない。袴は短く、括り袴になっており膝の下辺りで括って動きやすいようになっている。見た目はほぼズボンである。腰紐は袴と同じ生地が用いられた簡易的なものである。※帯ではないことも重要である。つまり腰刀を差すことを想定していない。上記したようにここで言う庶民とは下級の貴族であるため折烏帽子を着用していたことが考えられる。現代人が考えるいわゆる庶民は、農作を行ったり狩りをして生活をしている者たちのことを安易に考えがちであるが、農民は烏帽子を被る文化はない。鎌倉時代は平安期までに比べれば治安が比較的整い、いわゆる平和ボケした時代である。生きるか死ぬかの命のやりとりを常に迫られることがなく、しかも武士たちの地位が高まったことで正装という概念に変化していく。つまりもはや普段着ではなく、直垂は礼服化してしまったのである。袖は大きくなって一応括り袖(籠括)になっているが戦うには不向きである。上衣と袴は同じ生地で作られるようになり、合わせて直垂と称するようになる。腰紐は白が基本となって、さらに腰刀を差すことを基本とするためしっかりとした帯となっていく。水干などに見られる菊綴を装飾として付けるようになる。直垂の場合は菊綴ではなく小露という。模様や装飾がしだいに増えていく。袴は踝の辺りまで長くなる。一応括り袴(籠括)になっているが非常に動きにくい。南北朝から室町時代のころになると、直垂は普段着ではなく完全に礼服となってしまったため、普段着としても着用できるような簡易的なものが生まれる。格式の高い直垂以外に、格を下げた大紋直垂、素襖直垂といった単衣でつくられた簡素な直垂が登場する。つまりこのころになると直垂は単衣ではなくなっていることを意味する。素襖直垂については袖が括り袖になっていない上に、腰紐が白ではなく袴と同じ生地でつくられているなど、古代の直垂に似た部分が見られる。胸紐の付け根が♡型(猪の目)になる。袴は切袴(大口袴)になっていて括り袴になっていない。江戸時代のころになると長袴が登場し、引きずって歩くようになる。戦いに不向きだとかそんな次元ではない。平安期には烏帽子は貴族の立烏帽子、兜をかぶるための揉烏帽子、下級貴族(普段着として)の折烏帽子といった用途に合わせた烏帽子しか存在していない。用途が限定的だからである。ところが江戸時代になると用途ではなく礼服としての格付けのために用いるため、無意味に形だけが様々に変化していく。舟形烏帽子や引立烏帽子など意味不明だがそういった烏帽子が江戸時代ころには直垂に合わせて付けられていた。

  • 24Apr
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第16回感想

      2022年4月24日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第16回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第16回「伝説の幕開け」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、大江広元(栗原英雄)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、今井兼平(町田悠宇)、弁慶(佳久創)、中原親能(川島潤哉)、大姫(落井実結子)、海野幸氏(加部亜門)、小六(中村士輝)、平知盛(岩男海史)、平清宗(島田裕仁)、安徳天皇(相澤智咲)、北條泰時(松澤禾蘭)、初(久野楓名)、比企能員(佐藤二郎)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で38名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで 第16回 寿永2年(1183年)12月~寿永3年(1184年)2月 一ノ谷の戦いまで が描かれています。寿永2年(1183年)当時の登場人物の再年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 45歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 26歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 20歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 36歳 大姫 治承2年(1178年)生 5歳 源範頼 久安6年(1150年)生 33歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 30歳 源義経 平治元年(1159年)生 24歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 15歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 48歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 56歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 15歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 36歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 73歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 71歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 71歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 16歳 上総広常 保安元年(1120年) 63歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 65歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 53歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 41歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 38歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 40歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 35歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 43歳? ※13人の1人 木曽義仲 久寿元年(1154年)生 29歳 木曽義高 承安3年(1173年)生 10歳 第16回は寿永2年(1183年)12月下旬から話がはじまります。上総広常(佐藤浩市)が誅殺されてからすぐのことで、北條時政(坂東彌十郎)が伊豆国から呼び戻され、御家人たちをまとめていく役割を命じられます。『吾妻鏡』では北條時政が伊豆国から鎌倉に戻った時期の巻が欠落しているためどのように描かれるのか楽しみでしたが、上総広常の誅殺や御家人の謀反に絡めてくるあたりはさすがです。源頼朝追討が後白河法皇(西田敏行)から発せられましたが、これは木曽義仲(青木崇高)が裏で暗躍しているものだと確信した源頼朝(大泉洋)が木曽義仲成敗を決めます。これは寿永2年(1183年)10月20日の件(実際に源頼朝追討の院宣が発出されたのは12月)で、結局源頼朝追討は失敗、つまり実際には行われることはありませんでした。また、寿永3年(1184年)1月15日、木曽義仲(青木崇高)は征夷大将軍(旭将軍)となりますが、ドラマ上ではこの件は一切触れられませんでした。梶原景時(中村獅童)を軍奉行に、御家人たちは木曽義仲追討、そして平家追討のため出兵することになります。 鎌倉からの援軍である源範頼(迫田孝也)と合流した源義経(菅田将暉)は近江国へ進軍し、瀬田合戦、宇治川合戦で木曽義仲軍を撃破します。美濃国墨俣で合流した源範頼と源義経。ドラマでは源義経が兵の数を少ないと偽った噂を流す流言を行う姿がありました。近江国瀬田(勢多)から宇治へ向かいます。この件は『玉葉』に記されるもので、関東は飢餓で兵力を動員できず、源義経の兵は1,000騎ほどだという情報が入っていたため、木曽義仲は後白河法皇を奉じて北陸道へ下る計画を中止して源義経迎撃を決めたとされています。この話をドラマでは源義経の計略によるものだとしたのです。 1月20日、宇治川に兵を集結させた源義経。兵数に関して噂を鵜呑みにして騙されていた木曽義仲は敗北を悟り、今井兼平(町田悠宇)に橋を壊すよう命じると北陸へ逃亡します。水島合戦での敗北によって木曽義仲の軍勢も1,000騎余りに激減していたのでもはや勝ち目はありませんでした。史実では、木曽義仲は征夷大将軍になったその日、1月15日の夜に敵の実勢を把握しており、1月16日には源範頼の軍勢が瀬田に到着して包囲されてしまいます。木曽義仲は今井兼平に500騎を与えて瀬田の唐橋を守らせ、根井行親と楯親忠父子には300騎で宇治を守らせ、木曽義仲自身は100騎で院御所を守備していました。1月20日に源範頼が30,000騎で瀬田を攻め、源義経が25,000騎で宇治を攻めたとされていますが、兵数が当時の人口的には多すぎで0が1つ多いかと思われます。ここで佐々木高綱(見寺剛)と梶原景季(柾木玲弥)の宇治川の先陣争いが行われます。ドラマでも当初は描かれていたようですが、カットされてしまったようです。源義経に宇治川を突破された木曽義仲は源義経を迎撃しますが敗走。後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所に向かいますが、源義経に追撃されて後白河法皇を連れ出すことを断念して瀬田で交戦中の今井兼平のもとへ向かいます。ドラマ上では感動的なシーンとして描かれていましたが、実際にはなかったようです。 木曽義仲に院御所へ立ち入らせることなく、後白河法皇を確保した源義経。後方に控えているのは中原親能(川島潤哉)と土肥実平(阿南健治)です。なお、大和大路から入京した源義経の軍勢のなかに、鎌倉智士の姿が!! 1月21日、琵琶湖の粟津合戦で源範頼・源義経と戦い、木曽義仲は討死します。瀬田で源範頼と交戦中だった今井兼平は退却し、粟津で木曽義仲と合流します。木曽義仲と今井兼平は北陸へ脱出をはかりますが、粟津合戦で奮戦虚しく敗北。木曽義仲が顔面に矢を受けて討死。今井兼平も木曽義仲を追って自害しました。 『平家物語』と『源平盛衰記』に登場する巴(秋元才加)。これらの史料にあるように巴は落ち延びました。個人的にはともに討死してほしかったですが、和田義盛(横田栄司)の妻になって朝比奈義秀を産んだとする説もあります。ただ朝比奈義秀は安元元年(1176年)にすでに生まれているため創作だとされています。とはえ、これらを伏線づけるために和田義盛が捕らえたシーンを描いたのでしょう。なお、巴は木曽義仲の妾とされています。妾といえば、亀(江口のりこ)は源頼朝の妾実衣(宮澤エマ)は阿野全成(新納慎也)の妾巴は木曽義仲の妾亀も実衣も巴も生まれた環境や立場が違えば暮らしや容姿や性格もだいぶ異なりますが、同じ妾なのです。 木曽義仲を討ち取ったことを喜ぶ源頼朝。木曽義高(市川染五郎)の身を案じる北條政子(小池栄子)が描かれます。木曽義仲の最期の言葉「心残りがあるとすれば…」は当然、遺してしまった木曽義高のことでしょう。勢力を立て直していた平家は、大輪田泊に上陸して福原まで進出し、数万騎の兵力を回復していました。平家は瀬戸内海を制圧して中国・四国・九州を支配していました。源範頼は56,000騎を率い、源義経は10,000騎を率いて京を出発し摂津国へ進軍します。 寿永3年(1184年)2月4日、源義経が播磨国の三草山の平資盛(平重盛の次男)・平有盛(平重盛の四男)らの陣に夜襲を仕掛けて撃破します(三草山合戦)。平資盛や平有盛への追撃は土肥実平が行い、源義経は山道を進みます。 2月6日、福原の平家のもとに後白河法皇から使者が訪れ、和平(交戦禁止)を勧告します。平家一門がこの勧告を信用していたことがこの後の勝敗に影響を与えたともされています。ドラマ上では源義経の計略に、日本第一の大天狗と称される後白河法皇が乗ったと描かれています。時間的にかなり無理のある設定のようにも思えますが、源義経の軍略の才を際立たせる面白いストーリー展開です。2月7日、平知盛(岩男海史)(平清盛の四男)や平重衡(平清盛の五男)ら平家軍主力の守る生田口に向かい、源範頼率いる梶原景時、畠山重忠ら50,000騎が布陣。梶原景時と梶原景季父子の「梶原の二度懸け」という奮戦もありましたが、激戦でなかなか突破できずにいました(生田合戦)。平忠度(平清盛の弟)の守る塩屋口には熊谷直実や平山季重らが攻めかかり、土肥実平7,000騎が駆けつけ激戦となり、夢野口には安田義定や多田行綱らが攻めかかっていましたが、平重衡が8,000騎の軍勢で夢野口に救援に向かっており、どの戦地も激戦で一進一退だったようです。ドラマでは畠山重忠は「馬を背負ってでも降りて、末代までの語り草にする」と源義経とともに逆落としに向かっています。 鉢伏山の断崖絶壁から駆け下って意表を突いた源義経。ドラマでは駆け降りるシーンはありませんでしたが、源義経は「心して降れば馬を損なうことはない」といい、佐原義連は「三浦では常日頃からここよりも険しい崖を駆け落ちている」と真っ先に駆け下ったとされます。畠山重忠が馬を背負うのは『平家物語』の描写であり、『吾妻鏡』には前述したように源範頼の軍に属していて崖にはいないはずです。つまりドラマではこの件は『吾妻鏡』ではなく『平家物語』が採用されました。ドラマでは梶原景時が提案した鵯越の逆落としを源義経が却下し、鉢伏山から駆け下っています。一般的には鵯越は一ノ谷からだいぶ離れていることから現在ではやや否定されつつあり、一ノ谷の裏手にある鉄拐山から駆け下ったとする説が通説だと思っていましたが、鉄拐山ではなく鉢伏山という新説が出てきているのですね。こうして一ノ谷合戦がはじまります。さて、当初はなかったシーンで、後から付け加えられたようですが、三浦義村(山本耕史)が子の初(久野楓名)を八重(新垣結衣)のもとへ連れてきます。初が誰なのかが不明なのですが、年代が合いませんが文治3年(1187年)に生まれた矢部禅尼のことかもしれません。矢部禅尼は北條泰時の最初の正室になっています(後に離縁)。今後の伏線として必要な描写なのでしょう。なお、初がもし男子だったとしたら、三浦義村の長男三浦朝村の可能性ありです。次男三浦泰村は元久元年(1204年)生まれなので、年代的にはやはり三浦朝村の方になります。はてさて、いったい初は誰のことなのでしょうか。 この兜は使ってはダメです!いくら歴代の使い回しだと言っても、あまりに時代が違いすぎる!情けない…・矧が源平合戦(平安期)に比べて数が多い平安期は最大18枚・矧の二方白も平安期にはないはず・天辺孔が小さすぎる 平安期は径5cmほど・畠山重忠天辺孔から烏帽子と髻出してないけど髪はどこへいった?固定もできていない・𩊱が小札ではなくアルミで𩊱でも錣でもない・𩊱の段数が少ない・吹返は当世で平安期のものではない・菱縫が菱綴になっており平安期では考えられない・響孔からの忍緖が見えない 鎧については改めて細かく解説したいとは思いますが、木曽義仲と巴の鎧は胴丸なのに栴檀板と鳩尾板が付いている不思議。ただ木曽義仲の右肩が杏葉なのに左肩だけ大袖というのはなかなか格好いい演出ですね。第16回から大袖を付けはじめた北條義時(小栗旬)ですが、腹巻に大袖は無理があります。背中に鐶がないので当然総角もありませんし、懸緒と水呑緒が浮いています。

  • 22Apr
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      5月29日(日)もののふ撮影会@フォトメリー湘南

      5月29日(日)に、春のもののふ撮影会をフォトメリー湘南で開催いたします。①弁慶プラン   ②義経プラン   ③静御前プラン  第一弾 春のもののふ撮影会PhotoMerryShonan(フォトメリー湘南)で撮影会を行います。まるで俳優さんや女優さんみたいに撮影いたします!!【日時】5月29日(日)※雨天決行①10:00~11:00②11:00~12:00③12:00~13:00④13:00~14:00⑤14:00~15:00⑥15:00~16:00【場所】PhotoMerryShonan神奈川県藤沢市片瀬3-16-2着替え(集合)やメイク場所については追って連絡いたします。【衣装】鎌倉もののふ隊の衣装を①弁慶②義経③静御前から1着お選びいただきます。他に希望があればご相談ください。【サイズ】①弁慶は身長140cm以上②③義経・静御前は120cm以上※全装束、胴回りは100cm未満※全衣装、足28cmまで④マイ鎧(鎌倉もののふ隊)※自前の衣装での撮影は受け付けていません。予めご了承ください。【写真について】10カットの写真をデータでお渡しいたします。撮影後2週間程度お時間いただきます。データは後日メールにて配送いたします。※10枚のうち1カット、ご希望の方はエフェクト加工と文字入りサービス付!!【参加費】税込11,000円(衣装&撮影代データ送付込)※鎌倉もののふ隊会員は割引※マイ鎧(レンタル一切なし)は割引【オプション】・CDオリジナルジャケットつき+税込1,100円・メイク+税込3,300円※メイクはuchino yukiさん専属となります。メイクの締め切りは5月19日までになります。【ご予約&お問い合わせ】ご予約は事前にご入金いただいて予約完了となります。鎌倉智士info@izakamakura.jpお問い合わせの際は、必ずお名前とお電話番号をご明記の上お問い合わせください。【キャンセルについて】撮影・衣装・メイクともに10日前までキャンセル可。10日前までであれば返金いたします(振込手数料はご負担いただきます)。【注意事項】※写真の著作権は撮影者(PhotoMerryShonan長田由夏里)にあります。送付したデータ(写真)については非営利利用であれば自由にお使いいただいて大丈夫です。※駐車場はありません。近隣にコインパーキングは空きがあれば駐車できます。路上駐車はご遠慮ください。※撮影時の撮影はご遠慮ください。

  • 17Apr
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第15回感想

      2022年4月17日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第15回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第15回「足固めの儀式」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、三浦義村(山本耕史)、善児(梶原善)、和田義盛(横田栄司)、道(堀内敬子)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、今井兼平(町田悠宇)、弁慶(佳久創)、足立遠元(大野泰広)、梶原景季(柾木玲弥)、大姫(落井実結子)、源頼家(藤原響)、上総広常(佐藤浩二)、比企能員(佐藤二郎)、文覚(市川猿之助)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で37名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで が描かれています。寿永2年(1183年)当時の登場人物の再年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 45歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 26歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 20歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 36歳 大姫 治承2年(1178年)生 5歳 源範頼 久安6年(1150年)生 33歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 30歳 源義経 平治元年(1159年)生 24歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 15歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 48歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 56歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 15歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 36歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 73歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 71歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 71歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 16歳 上総広常 保安元年(1120年) 63歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 65歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 53歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 41歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 38歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 40歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 35歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 43歳? ※13人の1人 木曽義仲 久寿元年(1154年)生 29歳 木曽義高 承安3年(1173年)生 10歳 寿永2年(1183年)11月19日、平知康(矢柴俊博)が法住寺殿で武装化をはかり、公然と木曽義仲(青木崇高)に対立姿勢を示します。追い詰められた木曽義仲は法住寺合戦で後鳥羽天皇(尾上凛)と後白河法皇(西田敏行)を幽閉します。閏10月17日(ドラマ上では閏10月8日)に鎌倉から出陣した中原親能(川島潤哉)と源義経(菅田将暉)の先発隊は、近江国に到達したものの軍勢が少なく入京できず、伊勢国で待機しながら鎌倉からの援軍を待ちます。鎌倉では、千葉常胤(岡本信人)を筆頭にクーデター計画が進みます。そのクーデターの動きを利用して源頼朝(大泉洋)と中原広元(栗原英雄)による上総広常(佐藤浩市)誅殺計画が裏で行われていきます。第12回の中原広元の発言が伏線となり、いよいよ伏線の回収となります。「鹿狩り」「謀反の疑い」というと源範頼(迫田孝也)、岡崎義実(たかお鷹)、懐島景義らが失脚した曽我兄弟の仇討ちへの伏線でもあるように感じます。こっそり武装して二心を抱いて寝返る気でいた比企能員(佐藤二郎)、鎧の音でバレてしまいますが、この当時の鎧はほぼ韋でできているため、ドラマのような音はしません。演出とはいえこういったドラマが与える誤った認識が世間で固定されてしまうことへの懸念があります。クーデターは失敗したものの、源頼朝(大泉洋)から謀反に加担していないことを証明するよう詰め寄られた梶原景時(中村獅童)。つまり上総広常誅殺を命じられたのです。梶原景時の嫡男、梶原景季(柾木玲弥)が盤双六を用意します。12月22日、梶原景時は躊躇いつつも、上総広常誅殺を実行します。『吾妻鏡』は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)ころに成立した北條氏にとって都合のよい歴史史料で、曲筆が多く、古くは「信じるに値しない」と評価されてきました。特に上総広常やその一族について陥れるような記事が散見され、逆に千葉常胤やその一族については多大な功績や英雄伝説的な千葉贔屓の記事が多く記される傾向にあります。上総広常がなぜ誅殺されてしまったのかの理由や、事件のあらましについては一切記されていないものの、上総広常を傍若無人な人物として記すことで評価を大きく損ね、誅殺されて当然であると正当化された内容になっており、また逆に房総半島における千葉氏の盤踞を正当化する内容にもなっています。史料から分かっていることは以下の通り・源頼朝の命令により梶原景時が上総広常を誅殺した・梶原景時は万寿(源頼家)の乳父に加えられる・上総広常は謀反を疑われていたが後に無実だと判明した(謀反の動きはあったかもしれないが少なくとも上総広常は謀反に加担していなかった)・上総広常の遺領(所領)は千葉氏と三浦氏に分け与えられた・『吾妻鏡』には上総広常を悪く書き、千葉常胤をよく書く「正当化」ともみられる内容になっている・上総広常の誅殺は結果的に御家人への見せしめとなったこれらの史実をドラマ化するにあたり、今回の「謀反の動きはあったかもしれない」「源頼朝が命じて上総広常を誅殺させた」「上総広常は無実だった」「千葉常胤による正当性」などを踏まえた上で、脚本も演出も実によくできていたなと感じます。クーデターに参画していた武士たちの名前です。上総広常 千葉常胤千葉胤正 千葉胤頼岡崎義実 三浦義澄三浦義村 和田義盛畠山重忠 下河辺行平下河辺政義 海老名季久安田義定 大内惟義佐々木定綱 佐々木経高佐々木盛綱 佐々木高綱榛谷重朝 塩屋惟広愛甲季隆 横山時兼逸見清光 河越重頼河越重房 糟屋有季熊谷直実 平山季重相馬師常 加賀美遠光板垣兼信 国分胤通阿曽沼広綱 佐貫広綱猪俣範綱 甘糟広忠不明 不明加藤景員 不明中村景平 大見家秀多田朝実 久下重光読み取れない部分もあるので分かる方は補足いただけると嬉しいです。安田義定はまだこのころは上洛していたので、この企てには加わることは難しいかと思います。また、クーデターの理由から考えると佐々木四兄弟も含まれているのは不自然です。他にもこの人は謀反に加わるはずないだろうなあという人物が浮かびますが、そもそもこの脚本がオリジナルなのでどうでもいいかもしれませんね。 北條時政(坂東彌十郎)が「立派な北條の後継ぎを産んでもらわないとな」というセリフに横でりく(宮沢りえ)が不機嫌な顔をします。りくによる牧の方陰謀事件への伏線が随所に描かれています。北條時政にとって八重は義妹で、江間義時(小栗旬)にとって八重は伯母です。12月22日、八重(新垣結衣)が北條泰時を出産します。赤子の泣き声が「ぶえい、ぶえい」聞こえて戦慄する江間義時。上総広常が「武衛、武衛」と死んでいったこととの対比で描かれていてよくできた脚本です。

  • 10Apr
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第14回感想

      2022年4月17日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第14回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第14回「都の義仲」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、足立遠元(大野泰広)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、道(堀内敬子)、九條兼実(田中直樹)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三善康信(小林隆)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、今井兼平(町田悠宇)、弁慶(佳久創)、海野幸氏(加部亜門)、大姫(落井実結子)、源頼家(田代瑞希)、安徳天皇(相澤智咲)、後鳥羽天皇(尾上凛)、上総広常(佐藤浩二)、比企能員(佐藤二郎)、文覚(市川猿之助)、源行家(杉本哲太)、丹後局(鈴木京香)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で、43名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで 第14回 寿永2年(1183年)3~10月 木曽義仲討伐のため源義経が鎌倉を発つまで 第15回 寿永2年(1183年)11~12月 上総広常が誅殺されるまで が描かれています。寿永2年(1183年)当時の登場人物の再年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 45歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 26歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 20歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 36歳 大姫 治承2年(1178年)生 5歳 源範頼 久安6年(1150年)生 33歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 30歳 源義経 平治元年(1159年)生 24歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 15歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 48歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 56歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 15歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 36歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 73歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 71歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 71歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 16歳 上総広常 保安元年(1120年) 63歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 65歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 53歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 43歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 41歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 38歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 40歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 35歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 43歳? ※13人の1人 木曽義仲 久寿元年(1154年)生 29歳 木曽義高 承安3年(1173年)生 10歳   寿永2年(1183年)3月、表向きは大姫(落井実結子)の許嫁でありながら実質的には人質として、清水冠者木曽義高(市川染五郎)が鎌倉に入ります。このとき木曽義高は10歳、大姫は5歳です。木曽義高と一緒に鎌倉に随行したのが海野幸氏(加部亜門)や望月重隆で、海野幸氏と望月重隆は後に鎌倉幕府の御家人となり「弓馬四天王」に数えられるほど弓の名手で、同じく弓の名手と名を馳せた祢津宗直・祢津宗道父子など、海野氏・望月氏・祢津氏は滋野三家と称されます。真田幸村や真田十勇士でも有名な一族たちです。江間義時(小栗旬)が「見合って、いんじゃん」とかけ声をします。中国から伝わったとされる呼吸を合わせるための合図です。   木曽義仲(青木崇高)の話になりますが、ほとんどナレーションですっ飛ばされますので、木曽義仲について流れを追っていきたいと思います。木曽義仲について木曽義仲は源義賢の子で久寿元年(1154年)生まれですが、久寿2年(1155年)の大蔵合戦で源義賢が源義平(源義朝の子)に殺され、2歳の遺児駒王丸(木曽義仲)は畠山重能や斎藤実盛らに救われ、乳父中原兼遠が匿い信濃国木曽谷で育てられます。中原兼遠は木曽中三(木曽の中原三郎)と称されます。乳兄弟の樋口兼光、今井兼平(町田悠宇)、巴御前(秋元才加)ら兄弟とともに育ちます。木曽義仲の兄源仲家は在京していたため源頼政(品川徹)が養子にして育てていました。治承4年(1180年)5月、源頼政が以仁王(木村昴)と挙兵します。木曽義仲の兄源仲家も参戦しており宇治橋合戦で討死します。木曽義仲にとっては源義朝(源頼朝の父)は父の仇、平清盛は兄の仇ということになります。9月7日、木曽義仲は挙兵します。市原合戦(善光寺裏合戦)で平家方の笠原頼直と戦い撃破。笠原頼直は越後国城氏のもとへ逃亡しています。源頼朝(大泉洋)が石橋山合戦で敗れて房総半島に渡り安房国で安西景益(猪野学)の庇護を受けているころです(第7回)。10月13日、木曽義仲は父源義賢の拠点上野国多胡郡へ向かいます。このころ上野国は足利俊綱、新田義重、源頼朝らが勢力を拡げてきていました。木曽義仲は足利俊綱(下野国足利荘)と対立。新田義重は上野国八幡荘寺尾城で兵を集めつつ中立を保ちどちらにも与しませんでした。源頼朝が鎌倉に入り、懐島景義に命じて鶴岡八幡宮を建立しはじめていたころです(第8回)。 12月、木曽義仲は源頼朝との交戦を避けて信濃国に戻り、信濃国小県郡依田を拠点にしました。ようやく鎌倉へ参じた新田義重は源頼朝の勘気をこうむりました。美濃国・尾張国・近江国など各地で反平家の蜂起が起こり、南都の東大寺や興福寺を平重衡が焼き討ちしたころです(第11回)。治承5年/養和元年(1181年)治承5年(1181年)2月、木曽義仲追討の命を受けていた城資永が急死し、弟城助茂が継ぎます。養和元年(1181年)6月、越後国の城助茂(このころは城長茂と改称)が信濃国へ侵攻します。木曽義仲は信濃国依田で拠点に、小県郡白鳥河原に木曽・佐久・上州総勢3,000騎で布陣します。6月13日、木曽義仲は横田河原合戦で越後国の城助茂(城長茂)を撃破します。信濃国から越後国へ進軍し、越後国府に入り越後国の実権を握ります。木曽義仲の活躍も契機の1つとなり、若狭国や越前国など反平家勢力の活動が活発化していきます。木曽義仲は甲斐武田氏や源頼朝との衝突を避けて北陸道へ進みます。鎌倉では大工の馬事件で源義経(菅田将暉)が馬を引くことを嫌がって一悶着あったころです(第12回)。9月4日、越前国水津合戦で根井行親が平通盛を撃破します。根井行親は望月重国の子で木曽四天王の1人です。木曽四天王には根井行親の六男楯親忠もいます。つまり、信濃国・越後国から北陸道を越中国、能登国、加賀国、越前国へ兵を進めて行ったことになります。ただし次の年に集中して北陸道で戦っているため年代に疑問があります。寿永元年(1182年)8月、木曽義仲は以仁王の遺児北陸宮を越中国で擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を表明します。つまり兄源仲家がやろうとしていた大義を継承します。鎌倉では北條政子(小池栄子)が長男源頼家を出産していたころです(第12回)。寿永2年(1183年)2月23日、下野国の野木宮合戦で足利俊綱・足利忠綱父子が志田義広と挙兵するものの源頼朝軍に敗退します。木曽義仲は敗れた志田義広と新宮行家を庇護し、源頼朝と対立することとなります(第13回)。3月、木曽義仲は嫡男木曽義高を鎌倉に人質として送ります(第14回)。4月、平維盛(濱正悟)が兵糧の供給地北陸道の回復のため北陸に出陣します。越後国の火打城合戦で平家軍が勝利し、加賀国でも平家が連戦連勝します。5月9日、越中国の般若野合戦で平盛俊を奇襲して撃破し、平家軍を倶利伽羅峠まで追いこみます。5月11日、越中国と加賀国の境界倶利伽羅峠合戦で平維盛を撃破します。5月12日、能登国と越中国の境界志保山合戦で平忠度を撃破します。6月1日、加賀国で篠原合戦に勝利します。木曽義仲は斎藤実盛を撃破。大庭景親の弟俣野景久が討死し、伊東祐親の子伊東祐清もこの戦いで討死したともいわれています。6月10日、越前国に入ります6月13日、近江国に入ります6月末、延暦寺と交渉し、木曽義仲の参謀大夫房覚明に書状を書かせ延暦寺を恫喝します。 7月25日、木曽義仲が比叡山延暦寺の東塔に城郭を構えて戦いに備えていたことや、安田義定ら源氏の将が攻め上ってきていたり、摂津国多田行綱も不穏な動きを見せていたことから、平家は都の防衛を断念し安徳天皇(相澤智咲)を擁して三種の神器とともに西国へ逃れます。後白河法皇(西田敏行)は逃走し比叡山に身を隠します。 7月28日、木曽義仲は都落ちした平家を追って上洛します。源氏一門に対し恩賞が下され、勲功第一は源頼朝、第二は木曽義仲、第三は源行家とされ、木曽義仲と源行家は不服を申し立てます。 8月14日、ドラマ上では省かれていますが、木曽義仲は皇位継承問題へ介入します。都から平家を排除した大功は自分にあり、以仁王の系統こそが正統であると北陸宮を擁立します。そもそも木曽義仲が挙兵した最大の大義は以仁王挙兵の継承にありますので当然の主張です。8月20日、後白河法皇は安徳天皇を諦め、後鳥羽天皇(尾上凛)を即位させます。後鳥羽天皇は北陸宮の従弟にあたります。北陸宮は18歳、後鳥羽天皇は5歳です。この即位には丹後局(鈴木京香)の夢想が影響したという説もあります。   9月、京都の治安が悪化していきます。京都守護軍は木曽義仲の部下だけでなく、源行家(杉本哲太)、安田義定、近江源氏、美濃源氏、摂津源氏など混成軍のため統制できずにいました。9月19日、治安悪化を責められた木曽義仲は、平家追討に向かうことを奏上します。ドラマでは源頼朝の到着を待ちたいと主張しています。樋口兼光を京に残して播磨国へ下向します。当初ドラマでは木曽義仲は牛車の折り方を三善康信から教わる件があったようですが、どうやらカットされたようです。 10月1日、平重衡との海上戦、備中国水島合戦で大敗 総大将海野幸広、足利義清(矢田義清)らが討死します。10月12日、備前国の福隆寺縄手合戦で今井兼平が妹尾兼康を討ちます。   源頼朝は木曽義仲不在の京の後白河法皇に接近するため引出物を送ります。飢饉で兵糧がないといって出陣できなかった鎌倉になぜこれだけの貢物を用意できるほどの財力があったのか疑問です。   10月14日、寿永二年十月宣旨が下され、東海道、東山道の両道諸国の事実上の支配権が源頼朝に与えられます。これによって源頼朝は罪人ではなくなり、従五位下に復帰し、さらに後白河法皇から助けを求められ、上洛する大義名分を得ます。10月15日、木曽義仲は少数の軍勢で帰京します。後白河法皇の宣旨によって源頼朝と木曽義仲の対立が決定的となります。     閏10月17日(ドラマでは閏10月8日)、中原親能(川島潤哉)と源義経が先発隊として出陣します。源義経は源頼朝に「戦いが終わったら、木曽義仲をどう討ったか、平家をどう滅ぼしたかをお話しします」と話しますが、もう二度と会えない兄弟の最後のやりとりになります。また、源義経は木曽義仲を討てば人質の木曽義高も殺されると哀れに思い、木曽義高も源義経は木曽義仲に勝てるはずがないと哀れに思い、お互いに哀れに思っているシーンが描かれています。なお、仁田忠常(高岸宏行)が呼んだ渋谷重助は、源義経と一緒に無断で官位をもらってしまい源頼朝の怒りを買った人物ですが、コロコロと主従を変える人でこのころはまだ木曽義仲方として京都にいるはずではないかと思います。 10月20日、木曽義仲は源頼朝追討を試みるが失敗します。このことによって源行家と不和が公然となります。「生涯の遺恨」と木曽義仲は後白河法皇を痛烈に批判します。11月19日、鼓の判官平知康(矢柴俊博)が法住寺殿の武装化をはかり公然と木曽義仲に対決姿勢を示します。追い詰められた木曽義仲は法住寺合戦で後鳥羽天皇と後白河法皇を幽閉します。このころに木曽義仲は松殿伊子(正室)と婚姻します。11月に中原親能と源義経は近江国に到達したものの軍勢が少なく入京できず、伊勢国で待機しながら鎌倉からの援軍を待ちます。寿永3年(1184年)1月15日、木曽義仲は征夷大将軍(旭将軍)となります。 1月20日、鎌倉からの援軍源範頼と合流した源義経は近江国へ進軍し、瀬田合戦、宇治川合戦で木曽義仲は源義経軍に敗れます。1月21日、琵琶湖の粟津合戦で源範頼・源義経と戦い木曽義仲は討死します。 寿永2年(1183年)に生まれる北條泰時。ところが前回八重(新垣結衣)と急接近したシーンは2月23日の野木宮合戦以降として描かれており、計算が合いません。本当に江間義時の子なのでしょうか???なお、一般的に母の名は阿波局とされており、時代考証の坂井孝一氏の阿波局=八重という説が採用されています。   千葉常胤(岡本信人)を筆頭とする御家人が、木曽義高を擁立してクーデターを画策します。何の主典に基づく説なのか不明ですが、この動きを利用して中原広元(栗原英雄)と源頼朝が上総広常(佐藤浩市)失脚を目論みます。第12回の最後に中原広元が「ひとつだけ懸念がある」と源頼朝に話していたシーンの伏線回収がいよいよ行われていきます。次回上総広常が御家人への見せしめとして暗殺されます。

  • 03Apr
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第13回感想

      2022年4月3日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第13回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第13回「幼なじみの絆」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、木曽義仲(青木崇高)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、仁田忠常(高岸宏行)、岡崎義実(たかお鷹)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、道(堀内敬子)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、大江広元(栗原英雄)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、木曽義高(市川染五郎)、巴御前(秋元才加)、里(三浦透子)、今井兼平(町田悠宇)、くま(田中なずな)、常(渡辺梨香子)、義円(成河)、上総広常(佐藤浩二)、比企能員(佐藤二郎)、文覚(市川猿之助)、源行家(杉本哲太)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)の順で、36名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで 第12回 治承5年(1181年)~寿永元年(1182年)11月12日 牧宗親の髻を切るまで 第13回 寿永元年(1182年)11月13日~寿永2年(1183年)2月 源行家を庇護した木曽義仲が人質を出すまで が描かれています。寿永2年(1182年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 44歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 25歳 江間義時 長寛元年(1163年)生 19歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 35歳 大姫 治承2年(1178年)生 4歳 源範頼 久安6年(1150年)生 32歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 29歳 源義経 平治元年(1159年)生 23歳 郷御前(里) 仁安3年(1168年)生 14歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 47歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 55歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 14歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 35歳 ※13人の1人 梶原景時 保延6年(1140年)生 42歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 72歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 70歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 70歳 仁田忠常 仁安2年(1167年) 15歳 上総広常 保安元年(1120年) 62歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 64歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 52歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 42歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 40歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 37歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 39歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 34歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 42歳? ※13人の1人 木曽義仲 久寿元年(1154年)生 28歳 木曽義高 承安3年(1173年)生 9歳  寿永元年(1182年)11月12日、牧宗親(山﨑一)が源頼朝(大泉洋)によって髻を切られ、一族が恥辱を受けた抗議として北條時政(坂東彌十郎)は一族を引き連れて伊豆国へ籠居してしまいます。寿永2年(1183年)2月、源行家(杉本哲太)が源頼朝(大泉洋)に所領を求めて拒否されたことで、木曽義仲(青木崇高)を頼ると言い出します。源行家は、治承5年(1181年)3月10日の尾張国での墨俣川の戦いに敗れ、熱田に籠るも撃破され、三河国での矢作川の戦いでも平重衡軍に惨敗し敗走。源頼朝のもとへ逃れて相模国松田に住み着き、調子に乗って源頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立したのでした。ドラマでは墨俣川の戦いで源頼朝の弟義円(成河)を死なせたのは源行家だと責められていますが、敗北の要因は源行家と義円の先陣争いによる指揮系統の乱れによるもので、一概に源行家が全て悪いとは言い切れないように思います。とはいえ、源行家は惨敗してから1年近くは相模国松田に住み着いていたというのですから、ある意味では源頼朝が匿っていたようなものです。寿永2年(1183年)2月20日、野木宮合戦で源頼朝軍は志田義広を打ち破ります。志田義広は源頼朝の叔父で、志田義広と源行家は兄弟です。志田義広は常陸国で挙兵すると下野国の足利俊綱と足利忠綱父子とともに進軍します。迎え撃つは下野国の小山朝政(中村敦)で、源範頼(迫田孝也)、結城朝光、長沼宗政、佐野基綱らが援軍に加わり、2月23日、激しい戦いとなりましたが、源頼朝軍が志田義広を撃破し、志田義広は敗走しました。以上のように源行家も志田義広も源頼朝と対立しており、源行家と志田義広は木曽義仲を頼っていきました。木曽義仲も叔父たちを相応に遇し、決して終生裏切ることなく庇護しつづけましたが、これが源頼朝との対立を招いてしまいます。源行家が木曽義仲に対して「そなたこそ源氏の嫡流」と言っていますが、考え方によっては正しいです。源義朝は源為義から廃嫡されており、嫡男は源義朝の弟源義賢になっていましたので、その子木曽義仲こそが嫡男であるという考え方があります。同じく寿永2年(1183年)2月、『平家物語』や『源平盛衰記』などによれば、武田信光が娘を木曽義仲の嫡男木曽義高(市川染五郎)に嫁がせようとして断られたことで、その腹いせに「木曽義仲が平家と手を結んで源頼朝を討とうとしている」と讒言したといわれています。ドラマでは武田信光ではなく武田信義(八嶋智人)がわざわざそのことを伝えに鎌倉まで来ていますが、いよいよ源頼朝と木曽義仲の対立が決定的となっていきます。阿野全成(新納慎也)が藤原秀衡(田中泯)を呪い殺すため、江の島に籠って祈祷しつづけていました。しかし効果が得られないようで、源頼朝が「藤原秀衡がぽっくり逝ってもらわねば困る」と平清盛(松平健)を呪い殺したという者を京から呼び寄せたところ、その人物が文覚(市川猿之助)でガッカリします。文覚は養和2年(1182年)に江の島に弁才天を勧請し、藤原秀衡調伏のため江の島に21日間籠って断食して祈祷しつづけたといわれています。というもの、前年の養和元年(1181年)8月に平宗盛(小泉孝太郎)が藤原秀衡を陸奥守に推挙し、源頼朝追討令を出していたことで、源頼朝はその脅威にさらされていたのでした。しかしながら、1つ疑問があります。ドラマ上ではすでにこのときに文覚は後白河法皇(西田敏行)の覚えもめでたく、京の神護寺の再興を任されていると言っていますが、文覚は承安3年(1173年)に神護寺再興を後白河法皇に強訴したために流罪となって伊豆国に配流されていました。つまり源頼朝と同じく罪人として伊豆国にいたのです。その後神護寺を再興できたのは源頼朝が平家を滅ぼして権力を掌握していった後のことです。つまりこのころはまだ源頼朝と同じく罪人の身分に過ぎず、後白河法皇の覚えもめでたいなどという状況ではないのです。文覚は源頼朝とは40年間朝夕を一緒に食べる仲であると『愚管抄』には記されているほど、罪人仲間として仲良しだったとされています。ただ実際に配流された承安3年(1173年)以降源頼朝が亡くなる(1199年)まで40年間もないので誇張しすぎ(実際は26年ほど)ですが…源頼朝に影響を与えた人物であることが窺い知れます。ちなみに阿野全成は史料上では源頼朝が亡くなるまで一切登場しないので、文覚との祈祷合戦はオリジナルシナリオです。 比企尼(草笛光子)の孫として、里(三浦透子)と常(渡辺梨香子)が登場します。常の存在を忘れていました!!比企尼の孫娘たちが嫁いだ先は、源範頼(=常)、源義経(=里)、源頼家(=若狭局)、江間義時(=比奈)ということで4人いましたね。常は比企尼の長女丹後局と小野田盛長の間に生まれた娘ということになります。考えていた以上に比企一族の力の強さが感じられます。北條時政の娘たちが嫁いだ先と比べてみるとその家柄という部分については比企氏と北條氏にはかなりの格差があったのではないか、と感じられます。源頼朝は亀(江口のりこ)のもとへ密会しようと懲りもせずに会いに行きますが、北條政子(小池栄子)に見つかってしまい、次は八重(新垣結衣)に会いに行きます。今にはじまったわけではない源頼朝の女性問題。噂のあった9人を紹介します。①伊豆国流人時代から寵愛していた亀の前②波多野経家の娘利根局一般的に大友能直は近藤能成と利根局との間の生まれた子とされていますが、大友能直の養父が源頼朝の従兄中原親能です。承安2年(1172年)に生まれたとされているので八重との子千鶴丸と同じ歳です。近藤能成には弟に武藤頼平、又従兄弟に近藤国平など、源頼朝挙兵を支えた一族で、大友能直は大友氏系図には源頼朝庶子と記されています。③伊東祐親の娘八重承安2年(1172年)に千鶴丸が生まれていますが、千鶴丸は安元元年(1175年)に伊東祐親によって殺害されています。④北條時政の娘北條政子治承2年(1178年)に大姫が生まれていることから北條政子との婚姻は少なくとも治承元年(1177年)以前です。⑤小野田盛長の妻丹後局現在では丹後局と丹後内侍は別人という説が一般的かと思いますが、一説によれば、源頼朝の乳母比企尼の長女丹後局は小野田盛長の妻(後妻という説あり)となっており、比企尼の命により小野田盛長は源頼朝の流人時代を支えた侍です。まさか家臣の妻に…と思いますが、実は当時の貴族は母親や姉、あるいは伯母などが性教育係(最初の性交の手ほどき)を担うこともあるらしく、それを考えると乳母の娘が担った可能性は決してないことはない。当の子は島津忠久といい、治承3年(1179年)に生まれています。⑥兄の妻祥寿寿永元年(1182年)7月、源頼朝は兄源義平の妻(未亡人)である祥寿に手を出そうとしますが、祥寿の父新田義重は北條政子の恨みを恐れて別の男に嫁がせて源平合戦に参戦することすら自粛した結果、その後冷遇されていきます。⑦従兄伊達朝宗の娘大進局源為義の娘婿伊達朝宗の娘大進局は、つまり源頼朝の従兄の娘ということになります。文治2年(1186年)2月26日に生まれた貞暁は、源頼家の4歳下の弟で、源実朝の6歳上の兄にあたります。貞暁は建久3年(11923年)に仁和寺に入っています。⑧北條義時の妻姫の前比企朝宗の娘で、北條義時に嫁いだ娘ですが、もともとは源頼朝の妾で、源頼朝が仲を取り持って北條義時と結婚させたという伝承があります。⑨三崎の妙子建久5年(1194年)に源頼朝が建てた3つの山荘のうち三崎の椿の御所に住んでいた妾の妙子(妙悟尼)。向ケ崎の長塚氏の娘とも言われており、亀の前とほぼ同じような伝承が残っています(亀の前と同一人物説あり)。『吾妻鏡』には源頼朝が建久5年(1194年)8月1日、建久5年(1194年)9月6日、建久6年(1195年)1月25日、建久6年(1195年)8月26日と三崎に出かけていることが確認できます。源頼朝死後は出家し菩提を弔ったとされており、三崎港近くの大椿寺が妙悟尼の屋敷跡と伝わります。源範頼(33)、江間義時(20)、三浦義村(15)が信濃国木曽へ向かいます。鎌倉から木曽までは直線距離でもおよそ250kmほどで、往復500kmです。馬でだいたい2週間ほどの距離です。木曽義仲は平家と手を結んでいない証として「源頼朝や南信濃へ侵攻していた甲斐武田と衝突を避けるため越後から北陸道へ進む」と弁明していますが、結局人質を求められ、人質として嫡男の木曽義高を出すことを決めます。「自分を頼ってきた者を追い出すようなマネはできぬ」と叔父の源行家や志田義広を人質として差し出すことなく、「男には守らねばならぬものがある」と身内を決して裏切らない義理人情の厚さ、ただそれが仇となることを表現しています。ちなみに、生魚を食べて腹を下した源範頼ですが、これは『平家物語』の「平茸と猫おろし」という話があって、無塩という言葉を木曽義仲が誤って使用していたことから転じて「ぶえん」を「生である」という意味で使われるようになったという話です。巴御前(秋元才加)がヤツメウナギを捕獲するための罠をつくっているシーンでは、倶利伽羅焼き(次回の倶利伽羅峠の戦い)を連想させる伏線ですね。寿永2年(1183年)3月、こうして木曽義高は人質として鎌倉へ送られました。次回第14回がここからの話になります。

  • 27Mar
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第12回感想

      2022年3月27日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第12回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第12回「亀の前事件」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、牧宗親(山崎一)、道(堀内敬子)、千葉常胤(岡本信人)、大江広元(栗原英雄)、梶原景時(中村獅童)、藤原行政(野仲イサオ)、中原親能(川島潤哉)、足立遠元(大野泰広)、弁慶(佳久創)、小山朝政(中村敦)、大姫(落井実結子)、源頼家(丸山蒼來/田代瑞希)、上総広常(佐藤浩二)、比企能員(佐藤二郎)、比企尼(草笛光子)、源行家(杉本哲太)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)の順で、31名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 源範頼 久安6年(1150年)生 30歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 27歳 義円 久寿2年(1155年)生 25歳 源義経 平治元年(1159年)生 21歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 ※13人の1人 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 梶原景時 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 50歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 38歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 35歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 37歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 32歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 40歳? ※13人の1人 伊東祐親(浅野和之)は自害ではなく殺されたのだと確信する八重(新垣結衣)。伊東祐親が自害したのは寿永元年(1182年)2月14日のことなのですが、この件は治承5年(1181年)の話として描かれており、またまた大河ドラマあるあるですが時系列がバラバラです。実衣(宮澤エマ)と阿野全成(新納慎也)の婚儀の話になりますが、『吾妻鏡』では実衣こと阿波局は阿野全成の妾と記されており、この後阿野全成の四男阿野時元を産みます。つまり阿野全成の長男(阿野頼保)次男(阿野頼高)三男(阿野頼全)は正室の子もしくは他の妻の子であり、少なくとも実衣の子ではありません。実衣は阿野全成の側室ではなく妾というところが、亀の前事件とリンクしていて実に面白いです。ドラマ上で阿野全成は「お前も見習えと(源頼朝に)言われたが、私はそんなつもりはない」と言いつつ、本当は阿野全成もばっちり兄を見習って妾をつくっていたことになります。ちなみに、阿野全成については、源頼朝挙兵を聞いて駆けつけ、治承4年(1180年)8月26日に佐々木定綱兄弟らに相模国高座郡渋谷荘に匿われ、10月1日下総国鷺沼で源頼朝と対面して以降、源頼朝が生きている間は『吾妻鏡』に阿野全成本人は一切登場しないため(名前は2回見確認できますが)、人物像が全く不明なので、ドラマの登場人物としては実に描きやすい人物です。案の定、当初ドラマでは阿野全成が北條義時(小栗旬)と八重の行く末を占い「相性がよくないと出たので結ばれても長くは続かない、振られて正解だ」と話して北條義時を憤慨させたシーンがあったようですがカットされています。この件だけでなく他にもカットされているシーンはいっぱいあるのでガイドブックを読み込んでどこが削られたのかを調べてみるのも面白いかもしれません。北條義時は、江間荘を与えられ今後は江間義時と称するという件があります。『吾妻鏡』で「江間四郎」と確認できるのは養和元年(1181年)4月に、北條義時が源頼朝の寝所を警護する11人「寝所近辺祇候衆」の筆頭(親衛隊長)に選ばれ、源頼朝から厚い信頼を得て「家子専一」という側近の地位を与えられた件になります。なお、「寝所近辺祇候衆」は、江間義時、下河辺行平、結城朝光、和田義茂、梶原景季、大見実政、榛谷重朝、葛西清重、佐原義連、千葉胤正、八田知重です。北條氏の家督は誰が継ぐのかという話になり、りく(宮沢りえ)が「自分が男子を産めばその子が後継ぎになる」と言います。ただ、この当時は家制度が確立しておらず、親兄弟親族全員別の名字を名乗っている(全員別の土地に住んでいる)ことも珍しくありません。長男だから同じ名字(親の土地)を継ぐとも限らない時代です。いずれにしてもこのりくの発言から、北條時房はりくの子ではないことが分かります。ちなみに第1回で北條時房は登場していました。北條時房はりくの前妻の子であり、北條義時の異母弟にあたる設定のようです。※写真は第1回。北條政子と実衣の間に見える赤子が北條時房です。比企尼(草笛光子)がいよいよ源頼朝(大泉洋)と対面です。源頼朝が比企尼の20年にもわたる無償の仕送りに感謝し、比企尼こそが最大の功労者であると言ったともされており、このことが比企能員(佐藤二郎)が乳父に選ばれた最大の理由でもあると考えられます。中原親能(川島潤哉)、大江広元(栗原英雄)、藤原行政(野仲イサオ)が登場します。三善康信(小林隆)の推挙により長年朝廷に仕え政に精通していた3人が京都から鎌倉に下向してきたと紹介されますが、実際には三善康信の推挙ではなく源頼朝の母由良御前の親族を呼び寄せたというのが妥当で、しかも中原兄弟については比較的下級の貴族とされています。中原親能と中原広元は源頼朝の母方の従兄弟にあたります。中原兄弟については父親が異なるという説もあるものの、血を分けた兄弟というのが現在の定説です。また工藤行政は源頼朝の母由良御前の従弟にあたり、源頼朝にとっては従伯父にあたります。つまり3人とも源頼朝と血のつながった親族ということです。なお、中原広元は大江広元として登場していますが、大江姓を称するのは建保4年(1216年)のことであり、このころはまだ大江姓を称していません。 産養つまり出産後の3日、5日、7日、9日目の夜を祝す(現在はお七夜の祝い)話になります。お祝いを縁起のよい奇数日や奇数年(中国の風習)に行うのは、七五三とも共通しています。七五三についても、3歳、5歳、7歳にお祝いを行います。かつては7歳までは神の子といわれており、7歳まで生き残る子どもは決して多くはない時代で、幼い子どもが夭折することを「神が連れて帰ってしまった」と考えていたのです。平均寿命が短かった理由は子どもが育たなかったからでもあります。ドラマ上では三夜を小山朝政(中村敦)、五夜を上総広常(佐藤浩市)、七夜を千葉常胤(岡本信人)、九夜を北條時政(坂東彌十郎)が担うことになります。小山朝政は小山政光の子であり、小山政光は後妻として寒河尼(源頼朝の乳母)を迎えており、寒河尼にとって小山朝政は義理の子になります。なお、源頼朝の乳母である寒河尼は、治承4年(1180年)10月2日に小山政光との子小山朝光と弟八田知家を源頼朝の隅田川の陣営に参上させ、12歳小山朝光の元服の儀を源頼朝が烏帽子親となって行っています。小山朝光は小山朝政にとって異母弟にあたり、源頼朝にとっては乳母の親族ということになります。引目役(蟇目)に上総広常が選ばれます。引目役は鏑矢を射て、音で魔除けを行う儀のことです。ただドラマ上では弓の弦を鳴らして災いを祓う儀である鳴弦の儀が行われていました。厳密には異なるように思いますが、どうなのでしょうか。安産祈願のため鶴岡八幡宮に神馬を奉納するという話があります。馬を神社に奉納することは当時はよくあって、現在でも名残で絵馬があります。ただ、この件は実際は大工の馬事件というもので、北條政子(小池栄子)の安産祈願とは全く別の話、まだ北條政子が懐妊する前の話です。養和元年(1181年)7月20日、鶴岡八幡宮社殿の上棟式(骨組の棟上げが終わったことを祝すとともに、工事が無事に終わることを祈る儀式)で、大工に褒美として馬を与える話です。馬を引くことを命じられた源義経(菅田将暉)は御家人たちと自分の身分が合わない、要するに御家人と一緒にするな!と一旦は断ったものの(ドラマでも「私が馬引き~!?」と嫌がって、さらに「ウマの扱いがウマくない」なんて親父ギャグまで言っていましたが)、怖くなって2回も引いたという件です。1回は畠山重忠(中川大志)と引き、2回は佐貫広綱と引きました。他にも土肥実平(阿南健治)、工藤景光、仁田忠常(高岸宏行)、佐野忠家、大見実政らが引きました。なので実際は神馬1頭というわけではなかったようです。  北條政子が出産前に比企能員の館(現在の妙本寺境内)に移ることになります。災難除けの懸守がステキですね!「母上!!」と寂しそうに駆け寄る大姫(落井実結子)は4歳…4歳にしては大きすぎないか???寿永元年(1182年)8月12日、北條政子は源頼朝を出産します。源頼朝は亀(江口のりこ)に館を与えて密会を重ねていたという件になりますが、実際には館を与えていたわけではなく(一応外聞を憚って亀の館は遠くに構えてはいたが)、寿永元年(1182年)6月には中原光家の小坪の邸宅に預けられており、8月12日には伏見広綱の飯島の邸宅に預けられていることが『吾妻鏡』に記されており、その都度その都度会う場所を近場で変えていたようです。「(源頼朝の)世話は心配しないで」と言っているように亀は侍女であり、実は『吾妻鏡』には伊豆国で流人だった時代から侍女である亀は寵愛されていたことが記されています。ドラマでは安房国の漁師権三(竹内まなぶ)の妻でしたが、源頼朝の寵愛を受けると「ついでに夫も殺して」と言います。このセリフだけみると袈裟御前を思い浮かべてしまいましたが性格は全く異なりますね。 りくが北條政子に告げ口したところから亀の前事件へと発展します。りくが「後妻(うわなり)打ちで仕返ししましょう」と言っていますが、北條政子が「前妻ってやめてください」と言っているようにそもそも意味合いが異なります。後妻打ちではなくただの報復です。寿永元年(1182年)11月10日、亀を預かっていた伏見広綱の館がりくの兄牧宗親によって破壊されました。亀は伏見広綱とともに大多和義久の鐙摺の邸宅に逃れていました。ドラマ上では北條義時と三浦義村が救出に行って上総広常の館に匿ってもらっていました。11月12日、源頼朝は激怒し、牧宗親の髻を自ら切ったとされています。ドラマ上では源頼朝が梶原景時に命じて切らせて恥辱を与えました。牧宗親は駿河国駿河郡大岡牧を本拠とする豪族。平親盛(平清盛の異母弟)に仕えます。娘(りく)は北條時政の後妻となり、りくの兄大岡時親は北條時政の娘婿となっています(『愚管抄』)。ただしりく(牧の方)は『吾妻鏡』では牧宗親の妹としており、ドラマでは『吾妻鏡』を採用しています。寿永元年(1182年)11月10日、北條政子の命で源頼朝の愛妾亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊したことで、2日後に源頼朝に髻を斬られる恥辱を受け、北條時政は抗議として一族を引き連れて伊豆国へ籠居してしまいました。その後は御家人に列しています。中原広元が「鎌倉は安泰」と言いつつ「ひとつだけ懸念がある」と顔を曇らせました。これは上総広常の存在のことを懸念に思っているという、上総広常暗殺への伏線として描かれているのでしょう。ちなみに、上総広常は字も書けないという描写がありますが、上総広常ほどの者が字を書けないとはまたかなり上総広常の評価を陥れていますね。

  • 20Mar
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第11回感想

      2022年3月20日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第11回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第11回「許されざる嘘」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、義円(成河)、伊東祐清(竹財輝之助)、三浦義村(山本耕史)、善児(梶原善)、和田義盛(横田栄司)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、三善康信(小林隆)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、足立遠元(大野泰広)、大姫(落井実結子)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、源行家(杉本哲太)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で、34名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで 第11回 治承4年(1180年)11月~寿永元年(1182年)2月14日 伊東祐親の自害まで が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 源範頼 久安6年(1150年)生 30歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 27歳 義円 久寿2年(1155年)生 25歳 源義経 平治元年(1159年)生 21歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 ※13人の1人 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 梶原景時 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 50歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 38歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 35歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 37歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 32歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 40歳? ※13人の1人 八重(新垣結衣)は北條義時(小栗旬)の叔母にあたりますが「中世では身内同士の婚姻はよくあること」とナレーションが入り、ドラマ上の演出の1つだったことが分かります。とはいえ安元元年(1175年)の時点で八重は3歳の千鶴丸がいることからしても若くても20歳近く。治承4年(1180年)は25歳ぐらいになっているはずです。北條義時は長寛元年(1163年)生まれで治承4年(1180年)は17歳ですから、八重の方が10歳近く年齢が上のはずです。 急いで有能な事務方の人材を揃えようという話になり、京都の三善康信(小林隆)に推挙させることとなります。侍所別当として和田義盛(横田栄司)だけでは心許ないので、源頼朝(大泉洋)は梶原景時(中村獅童)をぜひ家人に迎え入れようと考えます。梶原景時は大庭景親(國村隼)の従弟であることは『尊卑分脈』『系図纂要』などの史料に記されています。梶原景時の父梶原景長(梶原景清)と大庭景親の父大庭景宗が兄弟であるだけでなく、実は梶原景長と大庭景宗の妻はどちらも横山孝兼の娘であり、母親も姉妹ということになり、父方も母方も両方とも兄弟・姉妹ということになります。梶原景時は大庭景親と最後まで平家方として戦い抜き、大庭景親が降伏して首を刎ねられた治承4年(1180年)10月26日以降も潜伏を続け、12月になってようやく土肥実平(阿南健治)を頼って降伏しました。大河ドラマでも描かれていたように大庭景親の重臣としてともに戦っており、裏切って本拠の鎌倉郡梶原郷に帰って呑気に盆栽などやっているはずがないのです(梶原の地は源頼朝の軍勢に攻め込まれ占領されていたはずです)。ドラマで「梶原景時の館」と出てきますが、なぜ御家人が集まっている鎌倉においてすぐ目と鼻の先の梶原だけが戦火に包まれていないのでしょうか?あり得ないです。11月7日(11月17日とも)、和田義盛(横田栄司)が侍所別当に任命されます。何をするのかも分からないでとりあえず侍大将になりたいと言っていた和田義盛。そもそも和田義盛が侍大将になりたいと願い出たのは、伊藤忠清を意識してのことだったとされており、今後の和田義盛と梶原景時の立場や関係性への伏線が描かれているように思います。 12月12日、普請奉行懐島景義によって大蔵の御所建設が終わり、源頼朝が新居に入りました。ドラマでは源頼朝が功に応じて恩賞を与える件があり、北條義時(小栗旬)に伊豆国田方郡江間が与えられることとなり、江間義時を称することになります。江間義時と江間次郎(芹澤興人)が別人という説をとった今回のドラマも、ようやく整合性がとれました。武功をまとめた書類に「安達盛長」と記されていますが、まだこのころは安達姓を称していません。小野田盛長(野添義弘)が安達姓を称するのは文治5年(1189年)奥州合戦での恩賞として陸奥国安達郡を拝領して以降です。北條時政(坂東彌十郎)が「姫~」と言っていますが、平賀朝雅に嫁ぐ娘でしょうか。だとすると、この娘婿平賀朝雅と畠山重保の喧嘩をきっかけに畠山重忠は討伐されます(牧の方陰謀事件)。それにしても、北條時政とりく(宮沢りえ)の間に安元元年(1175年)に生まれているはずの北條時房(後の北條時連)がまだ生まれていないのはなぜなのでしょうか?それとも北條時房(瀬戸康史)はりくの子ではない設定で登場するのでしょうか。 時系列が前後しますが12月1日、美濃国・尾張国・近江国などで源氏(反平家)が蜂起します。12月2日、平知盛(平清盛の四男)を総大将とする平重衡(平清盛の五男)、平清房、平貞能ら10,000騎が近江源氏らを討伐するために東へ出兵します。12月11日、平家軍は以仁王(木村昴)を匿った園城寺に攻め込みます。12月12日、平家軍が園城寺を焼き討ちしました。園城寺や興福寺は近江源氏の蜂起に呼応して平清盛(松平健)の怒りを買ったともされています。12月28日、南都(奈良)の東大寺や興福寺を平重衡が攻め、焼き討ちしました。治承5年(1181年)1月11日、梶原景時が源頼朝に初めて謁見し、仕えることとなります。大庭景親が斬首されてからおよそ3か月後のことです。ドラマ上では鎌倉郡梶原郷を本拠としていたため鎌倉の土地に詳しく警護の任を担いたいと話していた件がありましたが、警護をこのとき任命されたのは懐島景義を筆頭に、三浦義澄(佐藤B作)、畠山重忠(中川大志)らで、鶴岡八幡宮や鎌倉御所周辺の警護を命じられています。すでに鎌倉郡梶原郷は攻め落とされていたため、梶原景時は十二所に屋敷(現在の明王院境内とその周辺)を与えられ御家人に列することとなり、侍所所司(次官)に任じられます。ドラマ上では仕官する前にすでに「梶原景時の館」と出てきてしまっていますので、十二所の件はスルーされています。 2月4日、平清盛が死去します。『草燃える』など、平清盛を討ち果たせなかったことを誰よりも源義経が悔しがる描写がイメージできますが、今回のドラマでは源頼朝が泣きながら平家にとどめを刺すと誓っていました。後白河法皇(西田敏行)が今様歌を謡いながら祝宴をしている様子が描かれています。 2月15日、平清盛の死によって中断していましたが、平重衡を将とする平家軍が尾張国へ出兵。3月10日、墨俣川で平重衡と源行家(杉本哲太)の軍勢と対峙し、合戦(墨俣川合戦)となると源行家軍は大敗。源頼朝の弟義円(成河)は平盛国の孫平盛綱によって討ち取られてしまいました。その後、源行家は源頼朝を頼りますが対立し、木曽義仲へ走ったため源頼朝と木曽義仲の対立を招きます。なお、義円は、ドラマ上では源頼朝のもとで源行家に勧誘されて与したことになっていますが、源頼朝と源行家は治承4年(1180年)11月7日の佐竹征伐の折に常陸国府で対面しており、義円が鎌倉入りした史料は確認できませんが、義円を含めた血を分けた兄弟たちを少しでも勢揃いさせたいドラマ上の演出だと思われます。源義経(菅田将暉)が嫉妬して義円を陥れたという件も、むしろ源義経を陥れるためのドラマ独自の演出ですね。さらに、源行家のかぶっていた兜は戦国時代以降のもので、大鎧の源行家がかぶっていてはいけない別の時代のもので、ずれた兜を抑えながら逃げているシーンはがっかりしてしまいます。なお、この時期に重要なことが起こっています。3月、後白河法皇が武田信義(八嶋智人)を源頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、武田信義は鎌倉に召喚され「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」と起請文を書かされています。このとき源頼朝は用心のため三浦義澄、下河辺行平、佐々木定綱(木全隆浩)、佐々木盛綱(増田和也)、梶原景時を両脇に座らせています。ドラマ上では富士川合戦のころには大きな態度に出ていた武田信義ですが、もうこのころになると源頼朝の軍門に下っています。その後、ドラマは治承5年/養和元年(1181年)の1年間をほぼすっ飛ばし、年末(冬)に北條政子(小池栄子)が妊娠します。ドラマ上では「飢饉のため戦がなかった1年」とナレーションだけで1年がすっ飛ばされました。養和元年(1181年)にも鎌倉の街を実際につくっていった普請奉行である懐島景義の活躍がたくさんあるのですが、完全に割愛されています。さらに翌年も、養和2年(1182年)1月、北條政子の安産祈願のため、普請奉行懐島景義を中心に鶴岡八幡宮参道に段葛を造営します。4月、懐島景義は鶴岡八幡宮前の水田を利用して放生池(源平池)を造営します。9月、懐島景義は鶴岡八幡宮西麓(御谷)に二十五坊の供僧の坊舎を建立します。 さて、時系列が前後しましたが、2月14日、三浦義澄の助命嘆願(北條政子の安産祈願)によって伊東祐親(浅野和之)の恩赦が決まります。ところが伊東祐親は自害してしまいます。伊東祐清(竹財輝之助)はかつて源頼朝の命を救ったことを評価され、許されただけでなく恩賞をも与えられることになりましたが、伊東祐親に殉じて自害したとも、あるいは平家方として戦いつづけ寿永2年(1183年)の篠原合戦で討死したとも言われています。ドラマ上では2人とも暗殺されてしまいました。第10回で大庭景親が斬首され、第11回で伊東祐親が暗殺され、平清盛も呪い殺され、平家方の大物が次々といなくなって寂しいものです。次回は、いよいよ中原親能、中原広元、工藤行政ら3人が登場です!!

  • 13Mar
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10回感想

      2022年3月13日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第10回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第10回「根拠なき自信」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、源範頼(迫田孝也)、義円(成河)、伊東祐清(竹財輝之助)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、文覚(市川猿之助)、牧宗親(山﨑一)、首藤経俊(山口馬木也)、平知康(矢柴俊博)、藤原泰衡(山本浩司)、藤原国衡(平山祐介)、足立遠元(大野泰広)、佐竹義政(平田広明)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、藤原秀衡(田中泯)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順で、36名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで 第10回 治承4年(1180年)10月中旬~11月初旬 佐竹征伐から帰るまで が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 ※13人の1人 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 ※13人の1人 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 源範頼 久安6年(1150年)生 30歳 阿野全成 仁安3年(1153年)生 27歳 義円 久寿2年(1155年)生 25歳 源義経 平治元年(1159年)生 21歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 ※13人の1人 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 ※13人の1人 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 ※13人の1人 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 梶原景時 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳 足立遠元 大治5年(1130年)生 50歳? ※13人の1人 三善康信 保延6年(1140年)生 40歳 ※13人の1人 八田知家 康治元年(1142年)生 38歳 ※13人の1人 比企能員 天養2年(1145年)生 35歳 ※13人の1人 中原親能 康治2年(1143年)生 37歳 ※13人の1人 中原広元 久安4年(1148年)生 32歳 ※13人の1人 工藤行政 保延6年(1140年)生 40歳? ※13人の1人 源義経(菅田将暉)が「御館(藤原秀衡)に文を送り、3,000の兵をお願いいたしました」と「お願い」の文字を強調した辺りやその他の文言から、完全に源義経が源頼朝(大泉洋)のことを見下してることが伝わってきます。この時点では周りは苦笑いしてやりすごしていますが、この数年後にはとうとう耐えられなくなってくるという伏線でしょう。9月4日に発せられた源頼朝追討の官符が、ようやく平泉に到着したようで、藤原秀衡(田中泯)が双方に承知したと返事をする意向であると描かれています。11月、平維盛(濱正悟)がわずか10騎の兵で京都へ逃げかえってきました。前回第9回「決戦前夜」で10月20日夜に富士川合戦で大敗して以降、京都へ向かって逃走していたことになります。『平家物語』では70,000騎とされていた官軍ですが、実際には4,000騎ほどだったとされています。平宗盛(小泉孝太郎)が「飢饉で兵糧が尽きて」と言っているように、兵糧が不足していて士気は落ちており逃亡する者なども多く、富士川で対峙したころには2,000騎程度だったとされています。後白河法皇(西田敏行)が祈祷によって平清盛(松平健)を支えると言いつつ、祈祷によってある者を呪い殺すための呪いを行うために文覚(市川猿之助)を呼びつけます。まあ、流れからすると平清盛を呪い殺すための呪いでしょうけど…あれ?でもちょっと待てよ。文覚は承安3年(1173年)に後白河法皇に強訴したために伊豆国へ罪人として配流されている身です。文覚を流罪としたのは後白河法皇自身です。この件が正しければ後白河法皇は流人の文覚の罪を許したということなのでしょうか。 「平家の坂東支配の大幹部として名を轟かせた大庭景親」とナレーションが入ります。大庭景親(國村隼)は上総広常(佐藤浩市)の刀を見るなり観念して胡坐から正坐に座り直し、斬首の準備を自ら行います。あえてケラケラと大庭景親を笑わせていたのは、笑い声がなくなったときがつまり斬首されたそのときであると、シーンを際立たせるためかと思います。まず、ナレーションについては正当に評価していただきとても嬉しいです。大庭景親は「東国の御後見」として坂東の実質的な支配を任され、鎮西の原田種直、四国の粟田成良(田口成良)らとともに地方にあって平清盛を支えた人物です。ただ斬首したのは大庭景親の兄懐島景義で、源頼朝から助命嘆願をするか問われると懐島景義は源頼朝の裁断に全て任せ助命嘆願はしませんでした。ただし斬首が決まると「他人の手にかかるよりは」と自ら処刑者を担うと申し出て固瀬河原で弟大庭景親を斬首しました。 ドラマ上では斬首された地は固瀬河原ではなく屋敷の軒先のようでしたが、さらし首されたのは固瀬河原だったようです。この件では、上総広常が源頼朝を武衛と呼んでいる場面、源頼朝の乳母山内尼が首藤経俊(山口馬木也)の助命嘆願を行ったこと、このとき上総介ではないのに上総介と呼ばれる上総広常、といった気になるシーンが多かったです。なお、三浦義澄(佐藤B作)が大庭景親のことを「悪い男ではなかった」といい人振ってを言っていますが、鎌倉党と三浦党は因縁の関係で、三浦義澄にとってみれば長年所領争いで戦ってきた宿敵を討ち果たした瞬間だったはずです。前回北條時政(坂東彌十郎)が「武士にとって一番大事なのは所領と一族、それらを守るために死に物狂いで戦う」と力説していましたが、今回は北條も三浦も中村も上総も千葉も、それぞれが自分たちの所領(縄張り)を守るだけでなく拡大させるために源頼朝を担ぎ上げ、その結果平家方で戦った武士たちの所領を奪い取り、恩賞として植民地である鎌倉をみんなに分け与えられたことを忘れてはなりません。騙されたと知って悔しがる伊東祐親(浅野和之)と、バカみたいにペラペラとおしゃべりしている伊東祐清(竹財輝之助)この件は、いずれ伊東祐親が自害することへの伏線となっているように思います。伊東祐清はかつて源頼朝の命を救ったことがあったため許されますが、伊東祐清も伊東祐親とともに自害したとも、平家方として戦いつづけて戦死したとも言われています。さて今後この親子はどのように描かれて死んでいくのでしょうか。今回の大河ドラマでは脇役たちの死に方があまりに酷いので、もう少し尊厳ある死に方をさせてあげてほしいです。ちなみに、三浦義村(山本耕史)に「あんた、何でもしゃべればいいってもんじゃない」と一喝された伊東祐清ですが、伊東祐清は三浦義村の伯父です。いくら囚われの身であっても伯父さんに対して「あんた」呼ばわりは失礼な12歳です。さらに三浦義村は八重(新垣結衣)を口説いていい寄っていますが、三浦義村にとって八重は伯母です。全くおませな12歳です。佐竹征伐の前とはいえ、なぜ弓に弦が張ってあるのか意味不明です。訓練をしているようにも見えませんし、戦の準備としてなら遠征ですから、戦の直前で張らないとさすがに弦が切れてしまいます。なお、佐竹征伐には三浦義村は出兵しなかったという件がありました。腐った草餅を食べて腹を下したからだとのこと。あれだけ固く干された餅なら腐っているとは思えないのですが、この草餅というのがなかなか面白くて、茹でたヨモギの葉やゴギョウなどを混ぜてついた餅で、葉の香りには邪気を祓う力があるとされており、宮中行事の一つとして上巳の節句で疫病除けに草餅を食べる風習となりました。いわゆる菱餅というやつの起源です。赤い餅は先祖を尊び厄を祓うとされています。解毒作用のあるクチナシの実で赤味をつけて健康を祝っています(桃の花を表現しています)。白い餅は清浄を表しています。また残雪を模しているともされています。緑の餅は古くはハハコグサ(ゴギョウ)の草餅でしたが、増血効果のあるヨモギが使われるようになっていきました。春先に芽吹くヨモギの新芽によって穢れを祓うとされています。宮中行事では縁起を担いで菱形の餅にしていますがドラマ上では楕円の餅になっていました。また、矢開き(儀式)では、赤、黒、白の三色の餅(矢口餅)をつくり武運を祈って食す風習があります。『吾妻鏡』でも富士の巻狩りで源頼家12歳の初めての狩猟での獲物獲得を祝う儀式が行われた件が記されています。 ドライフルーツ、食器など当時の食べ物や生活用品が気になります。 りく(宮沢りえ)の兄牧宗親(山﨑一)が登場です。このドラマでは牧宗親は都人で筆も立つことから源頼朝に仕えさせようとりくが呼び寄せていました。ただこの時期には源頼朝の右筆である藤原邦通もいますし、いずれ文官として中原広元や三善康信が加わるのでこのポジションでの仕官についてはちょっと疑問があります。そもそも牧宗親は本当に都人なのでしょうか。やっと鎌倉殿の13人の1人、足立遠元(大野泰広)の登場です。13人のなかでは三浦義澄と並ぶ年長(この当時は50歳ぐらい)ですが、どうやら今回のドラマでは若い人として描くようです。足立遠元は武蔵国足立郡を本拠とする藤原氏の一族。小野田盛長の甥という説もありますが、血縁関係はないという説もあります。平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝に従い「源義平十七騎」の1人として奮戦しました。治承4年(1180年)10月2日に源頼朝が下総国から武蔵国に入ると陣に加わり配下となりました。 源頼朝のもとに、血を分けた4人の兄弟たちが集います。源頼朝(大泉洋)33歳、源範頼(迫田孝也)30歳、阿野全成(新納慎也)27歳、義円(成河)25歳、源義経(菅田将暉)21歳です。この5人が一時的にも一斉に揃ったのはこれが最初で最後の場面になるかもしれませんね。八重が源頼朝の膳を運ぶことになり(亀の悪巧みで)、源頼朝と亀(江口のりこ)の逢引場面に八重が遭遇します。北條政子(小池栄子)、りく、亀の3人の女性が絡む「亀の前襲撃事件」への伏線がドラマ上であちこちに散りばめられているように感じます。  和田義盛(横田栄司)が捕まえてきたツグミを、三浦義澄がヒヨドリと間違えていましたが、鵯越の逆落としの伏線ですね。今回の佐竹征伐では源義経の奇策が実りませんでしたが、これからの大活躍が大いに予想されるところです。さて、クライマックスですが、軍議において上総広常が源義経に対して「身勝手な振る舞いが全軍を総崩れに追いやることもある」と叱責しておきながら上総広常自ら身勝手な振る舞いをしてしまうというオチへ。上総広常をどうしても『吾妻鏡』寄りの人物に描いていきたいようで、残念でなりませんが、致し方ありません。それにしても平田広明さん演じる佐竹義政、秒殺されてしまいましたが、もっとしゃべってほしかったなあ、残念。10月27日、源頼朝が常陸国に向けて出兵。11月4日、鎌倉を発って8日後、常陸国府に入り軍議を開きます。上総広常が佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺。11月5日、革島義季が源頼朝に内通し、佐竹秀義が守っていた難攻不落の金砂城が陥落。佐竹秀義は逃亡。11月7日、源頼朝は常陸国府で叔父の志田義広、新宮行家らと対面。彼らが後に木曽義仲のもとに走ったことで源頼朝と木曽義仲の対立へと発展していきます。金砂城の戦いは、佐竹義宗によって強奪された相馬御厨、片岡常春(常陸国鹿島郡片岡を本拠)によって盤踞されていた下総国香取郡などに、圧迫されていた上総広常、千葉常胤らの利害が一致して所領回復のために戦を仕掛け、上総広常と婚姻関係のある三浦義澄が加担して平家方の豪族を房総半島から追い出したという背景があります。源頼朝はその所領争いに担ぎ上げられていただけなのです。ただ、この戦いで源頼朝は佐竹氏を屈服させたわけではなく、この後も奥州合戦直前までは佐竹氏は抵抗をつづけていたことが明らかとなっています。それにしても当時こんな階段あったのでしょうか?

  • 06Mar
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第9回感想

      2022年3月6日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第9回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第9回「決戦前夜」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、三浦義村(山本耕史)、善児(梶原善)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、弁慶(佳久創)、平維盛(濱正悟)、上総広常(佐藤浩二)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)の順です。25名です。 第1~2回 安元元年(1175年) 伊豆国での源頼朝と八重の騒動 第3回 治承4年(1180年)5~6月 以仁王の挙兵のころ 第4回 治承4年(1180年)8月16~17日 山木襲撃事件直前 第5回 治承4年(1180年)8月17~23日 山木襲撃事件後から石橋山合戦まで 第6回 治承4年(1180年)8月23~29日 石橋山合戦敗北から安房国へ 第7回 治承4年(1180年)9月2~19日 安房国で再挙 第8回 治承4年(1180年)9月19日~10月10日 武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流まで 第9回 治承4年(1180年)10月13~21日 富士川合戦後の源義経との対面まで が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳 伊東祐親(浅野和之)が捕縛されます。実際には富士川合戦の後なので10月20日以降(一説には10月19日)に捕らえられていますが、ドラマでは富士川合戦より以前に捕らえられていました。源頼朝(大泉洋)の追手から北條義時(小栗旬)と三浦義村(山本耕史)が伊東祐親を守りました。実際には八重(新垣結衣)を助けに来たわけですが…。三浦義村が「あんな爺さんでも、俺の身内なんでね」と言って伊東祐親を助けたわけですが、北條義時と三浦義村にとって伊東祐親は祖父にあたります。ちなみに、北條義時と三浦義村にとって八重は伯母です。 ドラマ上では北條義時と北條政子(小池栄子)が助命嘆願をします。源頼朝は「伊東祐親を生かしておくわけにはいかない」と言っていましたが、結局は命をとらず、身柄を三浦に預けることになりました。このパターンはけっこうあったようで(実際には投降してきたほとんどの人を御家人に受け入れています)、例えば首藤経俊(山口馬木也)も後に源頼朝の乳母山内尼の助命嘆願によって最終的には許されました。 北條義時と三浦義村にとって伯母にあたる八重。源頼朝のもとには戻らないと言っていたにも関わらず、源頼朝の侍女になって源頼朝の大願成就のために力になりたいと言い出します。北條政子にとっても八重は伯母です。どうしても八重という存在はドロドロの恋愛ドラマにしたいために用意されたキャラクターのようですね。10月13日、平維盛(濱正悟)が東海道を進み、駿河国に入りました。下人に兜を被らせているあたりは素晴らしいのですが、その兜が𩊱が3段(後ろ1段の計4段)しかない実在しない創作の兜になっており、鎧の時代考証の杜撰さにはガッカリです。10月16日には平家軍は70,000騎、駿河国清見が関に到着。しかしこの時代には70,000人は徴兵できないでしょうね。大変な飢饉ですし、天下分け目の関ケ原合戦でさえ両軍合わせて150,000人ですよ。いくら官軍とはいえ人口を考えても70,000人はとても集められないでしょうね。 10月15日、北條時政(坂東彌十郎)がなぜか鎌倉に帰ってきます。武田信義(八嶋智人)を鎌倉に連れて来ることができず、武田信義は黄瀬川に向かったと伝えるためだけに。北條時政と北條義時について甲斐国から何度も往復していますが、このころはまだ大庭景親國村隼)の軍勢が潜伏しており、簡単には突破することはできませんし、史実と異なりどう考えても不可解です。史実では10月13日に北條時政、北條義時、土屋宗遠、加藤光員、加藤景廉らは武田信義、一條忠頼、武田兼頼、武田有義、安田義定、逸見光長、河内義長、石和信光らとともに富士北麓の若彦路を通り、奈良原、鳥坂峠、芦川、大石(富士河口湖)を経由して駿河国井出に侵攻しており、10月14日には端足峠(はしだとうげ)での鉢田合戦で駿河国目代の橘遠茂、橘為茂父子、長田忠致、長田景致父子らを捕え、長田父子はその場で斬首(『吾妻鏡』)。その後橘遠宗父子も斬首しています。史実では北條時政が武田軍を先導して北條義時とともにそのまま駿河国へ侵攻しており、鎌倉に帰ってくることはできないはずですが、大河ドラマあるあるで仕方ないですね。ちなみに鉢田合戦は「はちた」や「はしだ」と訓みます。波志田山合戦と同じ訓みなので同じ合戦との説もあります。8月25日にあったとされる波志田山合戦はそもそも石橋山合戦の直後で日数的にも厳しい(本当はなかった)という説もあります。なお、駿河国目代橘遠宗は10月1日に駿河国と遠江国から兵を集めて出兵して甲斐国へ侵攻していました。10月16日には武田信義は駿河国目代橘遠茂以下80人の首級を並べ、平家軍に見せつけています。そして不可解といえば、第1回から北條屋敷にいたはずの他の幼い子どもたちはいったいどこへ行ったのでしょうか???10月16日、源頼朝軍は鎌倉から出兵します。10月17日、源頼朝の命で下河辺行平が追討した波多野義常は松田郷で自害しました(『吾妻鏡』)。波多野義常は大庭景親の妹婿です。ちなみに、波多野氏はかつて源義朝の子源朝長を輩出した一族ですが、平家政権下では一貫して平家方として戦って最期は潔く自害しています(自害させられたともいえます)。10月18日、1,000騎で潜伏していた大庭景親ですが、足柄山で敵に囲まれてやむなく兵を解き河村山へ向かいます。すでに駿河国を武田信義に抑えられていたことで平家軍と合流することを断念したため「大庭は色を失い仰天」して多くの者が逃亡しました。ちなみに武田軍は20,000騎いたとされていますが、人口的に難しいですね。この時代に甲斐国で徴兵できる人員はせいぜい1,500~2,000人程度かと推測いたします。このとき大庭景親は一の草摺を切り落とし伊豆山権現と箱根権現に奉納し、足柄河村山から北星山へ移りました。  10月18日、黄瀬川の陣で武田信義と源頼朝が対面します。荻野俊重と曽我祐信が黄瀬川の陣に軍営に降りました(『吾妻鏡』)。この日に大庭景親が軍を解散しているので当然投降者は続出します。ただこの時点でもまだ梶原景時(中村獅童)は大庭景親と潜伏していたものと思われます。ドラマではとっくに裏切って内通していたという裏切り者に描かれていますが…(源頼朝側から見れば美談ですかね)。ドラマ上では武田信義と源頼朝が対面したその日の夜に酒宴をして、すぐに武田信義は「源頼朝を出し抜いてやった」と夜襲をかけますが、実際には「では明後日に」と言っていたように10月20日の夜に富士川合戦が起こるので、辻褄が合わないです。上総広常(佐藤浩市)が「総大将、俺がやってやるよ」と刀を研いでいるシーン、さりげない件ですが、いいですね。ただ何度も言うようにこの時期はまだ上総介ではありません。しかも直垂の片袖を脱いでいるのに、胸紐をしっかりと結っていないのも非常に気になります。すぐ着崩れてしまうのではないかと…。 10月20日、夜になり武田軍が夜襲をかけると、突然一斉に飛び出した水鳥の羽音に驚いた平家軍は戦わずに逃げ出します。ドラマ上では酔っ払ってたはずの北條時政と三浦義澄がなぜか富士川まで来ていて水鳥をわかせていましたが、黄瀬川にいるはずの北條時政と三浦義澄がなぜ富士川にいるのか不可解でしかありません。ドラマの演出としては面白いですけどね。ちなみに、北條義時の腹巻も、武田信義の大鎧も南北朝時代の鎧で、この時代にはまだありません。 10月21日、源頼朝は一気に西上をしようとしましたが、千葉常胤(岡本信人)と上総広常が押しとどめてそれぞれの所領に帰ることになりました。ドラマ上では常陸国の佐竹が攻め込んできたためや兵糧が足りなくなったと言っていましたが、むしろ逆に佐竹義宗を早く討って下総国の所領を回復したかったそれぞれの都合があったのです。それは北條時政に言わせていますが、「佐殿は所領を持っていないから分からないだろうが、武士にとって一番大事なのは所領と一族で、それらを守るため死に物狂いで戦う」「平清盛が憎いわけではなく己が所領がかかっているから戦うまで、戦で命を張るのはわしらだ」と坂東武士たちにとって一番大事なのはそれぞれの所領であって、そのために源頼朝を担ぎ上げただけということなのです。 10月21日、奥州から源義経が黄瀬川の陣に馳せ参じます。その前に、阿野全成(新納慎也)が源義経(菅田将暉)を追い返します。黄瀬川の陣で初対面を果たすはずなのに第8回ですでに鎌倉に来ていた理由がこれで分かりました。一度追い返すためだったのですね。富士川から黄瀬川や箱根を超えて鎌倉へ帰還する途中で対面したともされていますのでこの説を強引に合わせたようにも思います。源義経が櫓から飛んでいましたが、6mならもう八双飛びをしてくれちゃっていますね。

  • 27Feb
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回感想

      2022年2月27日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第8回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第8回「いざ、鎌倉北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、畠山重忠(中川大志)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、岡崎義実(たかお鷹)、平知康(矢柴俊博)、弁慶(佳久創)、藤平太(大津尋葵)、野武士(慈五郎)、大姫(難波ありさ)、くま(田中なずな)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。37名です。第1回と第2回は安元元年(1175年)伊豆国での源頼朝と八重の騒動第3回はその5年後の治承4年(1180年)5~6月、以仁王の挙兵のころ第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、山木襲撃事件直前第5回は治承4年(1180年)8月17~23日、山木襲撃事件後から石橋山合戦まで第6回は治承4年(1180年)8月23~29日、石橋山合戦敗北から安房国へ第7回は9月2~9月19日、安房国で再挙第8回は9月19~10月10日、武蔵国から相模国鎌倉へ入り、北條政子と合流までが描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳  9月2日に平家の追手から逃れるため、伊豆山権現を脱出して文陽坊覚淵(諏訪太朗)の計らいで秋戸郷の民家に移って潜伏していた北條政子(小池栄子)のもとに手紙が届き、鎌倉へ向かうことになります。『吾妻鏡』によれば8月19日から9月2日にかけて伊豆山神社にいたことになります。一説によると文陽坊覚淵は加藤景員の子(加藤光員・加藤景廉の兄弟)ともいわれており、そうなるとこのころ齢20代の若者ということになります…。なお、仁田忠常(高岸宏行)が度々知らせに来ていますが、源頼朝が安房国へ渡ったことは史実では土肥実平(阿南健治)の子早川遠平が伝えに来ていたとされています。 上総広常(佐藤浩市)を先陣に武蔵国へ進軍する源頼朝軍。その規模は都にはまだ伝わっていないとナレーションが入ります。このドラマでは珍しく伝わるのが遅いです。ドラマ上では9月27日のことです。上総国から下総国をどのように経由していたのかはドラマでは第7回の9月13日に千葉常胤(岡本信人)が下総国目代の首を刎ねて、9月17日に源頼朝へ土産として首を持参した件以外はすっ飛ばされてしまいましたが、9月14日に結城浜合戦で千葉常胤と上総広常連合軍が下総守藤原親政を撃破して以降もしばらくは上総国や下総国で平家方と戦っており次第に形成が変わっていきました。第7回では9月19日に下総国衙で上総広常が源頼朝に「礼儀知らずは帰れ」といわれた件がありましたが、実際にはもうこのころは上総広常はすでに上総国で平家方と戦っており、単に上総広常を陥れるだけのエピソードです。武蔵国へ進軍するにあたって、武蔵国の豪族を味方に引き入れることは必至で、9月3日に小山氏、下河辺氏、豊島氏、葛西氏に密書が送られ、また、9月28日に江戸重長に密書を送り、9月29日には葛西清重に中原維茂が派遣され、9月30日には新田義重に密書が送られています。特に9月28日の密書には江戸重長に「秩父重能や小山田有重らが在京している今、汝が武蔵国の棟梁であり、最も頼りにしている」と伝えている一方で、9月29日に葛西清重には「江戸重長を誘い出して討ち取れ」と密書を送っています。この辺りは真実の密事と同じようにそれぞれに「お前だけが頼りだ」と送っていたと思われます。10月2日に大井川、隅田川を渡り武蔵国に入ると、足立遠元、豊島清元、葛西清重らが出迎えました。隅田川の陣には源頼朝の乳母寒河尼の子で12歳の小山宗朝(小山朝光)も参じており、源頼朝が烏帽子親となって元服しています。寒河尼の弟八田知家もおそらくこのときに一緒に参じていると思われます。また下野国小山氏の一族で源頼政配下の下河辺行平も麾下に加わっています。8月17日に伊豆国で挙兵して伊豆国滞在は3日間、8月20日に相模国土肥に入って8月23日に石橋山合戦で敗れ、椙山で潜伏して8月28日に真鶴岬から脱出するまで相模国滞在は9日間8月29日に安房国平北郡猟島に到着して9月10日に丸御厨を巡視し、9月13日に下総国へ向けて出兵するまで安房国滞在は16日間(上総国に4日間)9月19日に下総国国衙に入って10月2日に大井川・隅田川を渡って武蔵国に入るまで下総国滞在は14日間平家方の抵抗が全くなかったらむしろ34日もかかるわけがありません。房総半島にいて形勢逆転を果たしたこの34日間こそとても重要だと思うのです。もっと丁寧に細かく着目したいと思いますので、この辺りは別でブログを書きます。9月27日、平清盛(松平健)がなぜ1か月以上も出陣しないのかと怒ります。それもそのはずで源頼朝挙兵を知らせる早馬は9月2日には福原に到着しており、9月4日には源頼朝追討の官符が発せられていたのです。平宗盛(小泉孝太郎)が明後日9月29日の吉日に出陣しますと答えて怒られていますが、平宗盛の失態ではありません。これは平維盛(濱正悟)はすぐに出兵すべきだと主張していたにも関わらず、伊藤忠清が吉日を選んですぐに出陣しべきではないと内輪もめしており、遅れに遅れていたのです。しかし史実では、すでに9月19日の時点で福原を発って京都に入っており、9月29日に京都を発つまでの間のこととすれば平清盛はわざわざ福原から京都へ来ていたことになります。ここはドラマ上での矛盾点です。源義経(菅田将暉)が登場します。騙し討ちをする辺り、今後の活躍の伏線となっています。源頼朝のもとへ向かっていたにも関わらず、急に思い立って富士山へ行ってしまったり、腰越までたどり着いて鎌倉はすぐ目の前なのに海へ出てしまったりといった源義経のキャラクター像がなかなか素晴らしいです。ただ史実では10月18日の黄瀬川の陣で初対面しており、まだこのころは近くにたどり着いていなかったはずです。10月9日に伊豆国から鎌倉へ向かっていた北條政子が稲瀬川付近の民家に宿泊しており、10月9日にはすでに腰越に源義経が到着していた(実衣(宮澤エマ)が目撃した)とドラマ上では描かれていますが、次回どのように対面するのかが楽しみです。 10月2日の隅田川の陣において、すでに鎌倉入りした後に鎌倉御所をどこにするかの話が出ています。まだ鎌倉を攻め落としていないのに気が早い。なお、岡崎義実(たかお鷹)が「源義朝様の館があった亀谷に御堂を建ててずっと源義朝様の御霊を祀ってきた」と言っていますが、これは事実とは考えられません。「上総御曹司」と称された源義朝の拠点は上総国にあり、また鎌倉郡沼浜で三浦義明の娘との間に生まれた源義平が育っています。源義朝の館が敵地である鎌倉のど真ん中の亀谷にあるはずがありません。勝手に出入りできるような場所ならわざわざ攻め込む必要もないのです。勝者が勝者の都合のいいように歴史を塗り替えてしまっている典型で、滅ぼされた側の鎌倉氏にとって屈辱以外の何物でもありません。悲しいことに、亀谷に源義朝の館があり、岡崎義実が源義朝の菩提を弔う御堂を立てていたが、狭いため鎌倉御所は別の場所に建設し、御堂跡に後に北條政子が寿福寺を建立したという話が定説となってしまっています。勝者側ではなく敗者側からみたら史実は全く異なります。なお、10月1日に阿野全成(新納慎也)が源頼朝と対面を果たしています。10月3日、隅田川の陣に馳せ参じなかったことから謀反の疑いありとして、千葉常胤が伊北常仲を攻め滅ぼしています。伊北常仲は伊西常景(上総広常の兄)の子であり長狭常伴の甥にあたります。上総広常にとっても甥にあたります。上総国では初めて源頼朝に謁見したものの、隅田川の陣に参上しなかったことで滅ぼされてしまいました。10月4日、畠山重忠(中川大志)、河越重頼、江戸重長らが参陣します。畠山重忠によって8月27日に三浦義明が攻め殺されており、三浦義澄(佐藤B作)や和田義盛(横田栄司)は畠山重忠への恨みごとを言いますが、「味方になりたいといってきた者を斬るわけにはいかない」「大義のため畠山重忠が欠かせぬかどうか」という話になります。岡崎義実も子真田義忠を討った長尾定景を後に許していますし、北條義時が「佐殿は降伏してきた者には寛大だ」と言っているように、降伏してきた者は基本的には処罰しませんでした。なお、江戸重長は武蔵国の在庁官人などを統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えており、「江戸重長が武蔵国の棟梁だから最も頼りにしている」という内容の密書が事実だったことが分かります。 史実では9月8日に北條時政(坂東彌十郎)と北條義時(小栗旬)は甲斐国へ向かってそのまま甲斐国にいるはずですが、ドラマ上ではその後も北條義時は上総国に残っていました。ところが10月4日に急遽また甲斐国へ向かうことになります。北條時政が油を売っていて武田信義(八嶋智人)と交渉が進んでいないためでした。そしてあっさり北條義時が交渉を終えると、なんと10月5日のうちには武蔵国へ帰ってきているのです。隅田川の陣から甲斐国まで片道で直線距離でもおよそ130kmほど、往復で260kmです。早馬で走っても7日はかかる道のりをたった1日で日帰りしてきてしまうのです。ドラマとはいえさすがに…。そして武田信義が南北朝時代の足利尊氏の褄取縅の鎧を着ている…この時代にはまだない鎧です。なお、北條義時が任されたという御家人の屋敷の構想図。敵から奪った所領を誰にどのように分配するかという大事なことを17歳の北條義時に決めさせるってすごいですね。ドラマ上功労者と考えられている武士たちの名前がこの図で明らかです。第7回にも「安達殿」と呼んでいましたが、今回も「安達」と書かれた石が置いてあります。小野田盛長(野添義弘)が安達姓を称するのは、文治5年(1189年)の奥州合戦での恩賞として陸奥国安達郡を拝領してからなので、この時点では安達姓ではありません。 10月5日には源頼朝軍は武蔵国から相模国へ入り、鎌倉郡世野郷の相辺沢の鎮守諏訪明神に一泊しています。「武衛」の件はドラマとしてはとても笑えましたが、上総広常をどこまでコケにするのか、あまりに上総広常をおバカなキャラクターに描いており、その点については非常に残念です。 10月6日、畠山重忠と飯田家義を先陣に、千葉常胤を殿にした軍勢は相模国を進軍し、鎌倉(化粧坂)で六本松合戦となります。大庭景親(國村隼)、俣野景久、梶原景時(中村獅童)らの最期の抵抗でした…が、あっさりと省かれていました。なお、六本松古戦場は『相模国鎌倉郡村誌』にも記されているように、鎌倉道(武蔵路)上にあり化粧坂のすぐ近くの山地で、梶原丘(葛原岡)と化粧坂の間に位置します。いまでいう源氏山公園の一角です。応永23年(1417年)の上杉氏憲の乱で上杉氏定が源満隆20,000騎の攻撃を防戦した地としても知られています。10月5日に鎌倉郡世野に入っていますので、その後鎌倉道(武蔵路)を南下し上飯田、和泉、俣野、村岡、洲崎、梶原、六本松という順路で10月6日に六本松合戦となります。これは元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めをした順路と同じです(新田義貞は六本松にたどり着けませんでしたが)。ドラマ上では源頼朝軍は総勢3万騎とのことです。しかも大庭景親の従弟である梶原景時が「それがしは大庭殿の家人ではござらん、ここまででござる、では御免」とさっさと見限って出て行ってしまいました。「大庭殿とは袂を分かった、粗暴な者は苦手でな」と言わせていましたが、梶原景時は最期まで一族とともに戦い、一族たちが次々降伏していっても潜伏しつづけ、10月26日に大庭景親が斬首されてから1か月以上経ってようやく12月になって土肥実平を頼って降伏してきています。一族としてはこんな裏切り者として描かれるのは残念でなりません。そして、平三郎景時のことを「へいぞう」と呼ぶのをやめてほしい。「へいざぶろう」の略は「へいざ」です。 10月19日伊東祐清が囚われます。鯉名泊(南伊豆町手石小稲)から駿河国へ向かおうとしていたところを天野遠景に捕えられています。話としてはちょっと時期が早すぎなのですが、どうしても北條義時が八重(新垣結衣)を助けに行かなければならないのであえて伊東祐清を早めに捕えさせたドラマ上の都合です。 仮御所の建設が進むなか、源頼朝が亀(江口のりこ)と密会するために、北條政子の鎌倉入りを明後日にしてもらえと言います。そのことからこの件が10月8日だということが分かります。ただ史実では仮御所(仮居所)の建設は大庭景義が奉行となって行っており、源頼朝が仮御所に入ったのは10月15日なので、まだ10月8日の時点では仮御所はありません。 10月9日、伊豆国から鎌倉へ向かっていた北條政子。稲瀬川付近の民家で宿泊しています。北條政子らの衣服を梶原景時が用意します。盆栽…って江戸時代に庶民に伝わったもので、平安時代には上流階級の貴族ぐらいしかやらないと思います。何かの史料に登場するのでしょうか。いずれにしても、前述したようにこの時期はまだ梶原景時は平家方として潜伏しており、鎌倉郡梶原にはいないはずです。どうしても梶原景時を一族を裏切った面汚しに描きたいようで、残念でなりません。なお、すでに腰越まで到着していた源義経一行。芋の件は、芋洗い勧進帳の首いっぱいの話を連想させます。 10月10日、懐島景義(42)が北條政子を鎌倉で出迎えます(『吾妻鏡』)。つまりこの『吾妻鏡』から分かることは、源頼朝が出迎えたわけではない、ということです。ドラマ上では感動的な出迎えシーンになっていますが…。「ここに源氏ゆかりの由比若宮をお遷しする、鶴岡八幡宮じゃ、この丘の下に社殿を築く、八幡神は源氏の守り神」と源頼朝が力説します。通説では元八幡(由比若宮)にもともと源頼義が建立した八幡宮があって北山に遷したというのが現在の通説となっていますが、元八幡のあたりはもともと海で通常神社を建立するような場所ではありません。源頼義と関係があったとこじつけで生まれた伝承だと考えられ、よって遷宮ではなく、石清水八幡宮を勧請し新たに建立したとみる方が妥当です。10月12日、源頼朝は鎌倉郡鎌倉郷鶴岡にあった八幡宮を小林郷北山に移す造営奉行として懐島景義(43)に命じました。10月15日、普請奉行懐島景義(42)が建設していた仮御所(仮居所)が完成し、源頼朝が御所に入りました(『吾妻鏡』)。10月23日、懐島景義(42)が大庭景親(40)から奪った大庭御厨を所領として安堵されます。これを機に懐島景義は大庭景義と称されることもあります。12月12日、普請奉行懐島景義(42)が大蔵御所の建設を終え、源頼朝が新居に入ります。治承5年(1181年)5月、懐島景義(43)が一品房昌寛、梶原景時(41)とともに小御所、厩、若宮大路などの造営奉行をつとめます。また鶴岡八幡宮遷宮(若宮造営)にあたって懐島景義(43)が造営奉行をつとめ、鶴岡八幡宮の俗別当として境内の掃除や警護も任されるなど重用されます。養和元年(1181年)7月18日、懐島景義(43)や梶原景時(41)らの奉行によって遷宮が行われます。養和2年(1182年)1月、北條政子の安産祈願のため鶴岡八幡宮参道の若宮大路に段葛を造営します。4月、鶴岡八幡宮前にあった水田を利用し放生池(源平池)を懐島景義(44)と専光坊良暹が奉行となり造営します。9月、懐島景義(44)は鶴岡八幡宮西麓(御谷)に別当坊を建立する造営奉行となり、二十五坊の供僧の坊舎を建立します。というように、基本的に鎌倉内の様々な普請奉行は懐島景義もしくは梶原景時といった地元鎌倉の豪族が担っていることが分かります。なお、最後に亀谷の紹介がなされ、「鎌倉への北からの入口は当時は亀谷坂のみ」という話になっていましたが、武蔵路は村岡から洲崎を経由して六本松や化粧坂を経て鎌倉に入るルートが主要道です。亀谷坂ではありません。時代考証しっかりしてほしい。所詮ドラマだからといって何でも有りってわけじゃないはずです。

  • 20Feb
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第7回感想

      2022年2月20日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第7回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第7回「敵か、あるいは」北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、源義経(菅田将暉)、北條政子(小池栄子)、亀(江口のりこ)、阿野全成(新納慎也)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、千葉常胤(岡本信人)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、平宗盛(小泉孝太郎)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、平知康(矢柴俊博)、安西景益(猪野学)、弁慶(佳久創)、権三(竹内まなぶ)、長狭常伴(黒澤光司)、平清盛(松平健)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、藤原秀衡(田中泯)、丹後局(鈴木京香)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。34名です。第1回と第2回は安元元年(1175年)、第3回はその5年後の治承4年(1180年)5~6月、第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、第5回は治承4年(1180年)8月17~23日、第6回は治承4年(1180年)8月23~29日、第7回は9月2~9月19日が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 千葉常胤 永久6年(1118年)生 62歳  9月2日、福原の平清盛(松平健)のもとに大庭景親(國村隼)からの早馬が到着し、源頼朝(大泉洋)挙兵の知らせが届きます。史実では、この時点では挙兵したことのみが知らされたにすぎませんが、なぜか平清盛は石橋山合戦で源頼朝が敗北したことを知っていて、さらに源頼朝が安房国へ逃れたことを平宗盛(小泉孝太郎)が知っていました。大庭から福原京までおよそ560kmほどの距離があり、普通に馬で走って15日以上はかかる距離です。つまり9月2日に到着したということは逆算すると8月17日前後には早馬が大庭を発したことになります。史実でも8月17日と8月28日に早馬を走らせたとあるので日数の辻褄は合います。もちろん8月28日に走らせた早馬はまだ到着していません。つまりこの時点ではまだ8月23日の石橋山合戦の勝敗はおろか、8月29日に源頼朝が安房国に逃れたことなどは伝わりようがありません。少なくとも源頼朝が安房国で生きているということは8月29日から4日しか経っていませんので福原に知れることはまず不可能でしょう。史実では、源頼朝が挙兵したことを知った伊藤忠清は、「相模国には大庭兄弟、武蔵国には秩父、伊豆国・駿河国合わせて4か国の武士たちがみんな平家方として戦っていることだろう」と油断しており、また平維盛と伊藤忠清は出陣日について内輪もめしており、追討軍の出陣は遅々として進みませんでした。ドラマ上でも大庭景親が「東国のことは東国で方を付ける、清盛様もそれをお望みだ」としきりに言っているように、大庭景親は事前に源頼朝挙兵の動きを知っていながら平清盛や伊藤忠清には報告せずにむしろ源頼朝側へ情報を送る(敵に塩を送る)など、自らの手で東国を治めようとしていた様子が史実からも分かります。結果論ではありますが、大庭景親と伊藤忠清の油断や判断ミスが平家滅亡のきっかけを招いたと言えると思います。なお、平宗盛が源頼朝を「源氏の嫡流」と言っていましたが、源頼朝は源氏の嫡流ではありません。かつて名を馳せた源義家の血脈を受け継いでいる源氏のうちの1人にすぎません。今の時代だからみんな源頼朝のことを知っていますが、当時は誰も知りません。第1回で平清盛が源頼朝の存在を覚えていなかったように、後白河法皇(西田敏行)や丹後局(鈴木京香)が源頼朝の名前を口に出すほど知られていたとはとても思えません。いずれにしても、9月4日、源頼朝追討の官符が発せられ、正式に源頼朝討伐が決まります。 9月4日、上総広常のもとに和田義盛が派遣されます。ドラマ上では北條義時も一緒です。「損得で動く、源頼朝に与したらどんな得があるのか教えてくれよ」という上総広常(佐藤浩市)。損得で動くのは上総広常だけではなく、まさに当時の武士たちの内面を表現していると思います。損得以外で動くような武士はいなかったとさえ思います。「この間、大庭のやつが無礼を働いたんで懲らしめてやったんだ、そのお詫びだとよ」という上総広常の言葉は、そもそも8月2日に大庭景親が上総広常を京都に召し出すようにと命令を受けて相模国へ帰国しており、それに上総広常が従わなかったということを表現しています。つまり完全な平家への反抗です。源頼朝に与するかどうかは別問題としても、平家に謀反の徴候が見えると断定されていた上総広常が露骨に反平家路線をとっていたことは間違いないのです。つまり上総広常もこの時点ですでにクーデターを起こしていたのです。ドラマ上で上総広常が「この戦、オレが与した方が勝ちだ」と言っていますが、ここで1つ疑問点は、上総広常が平家方の御後見である大庭景親に反抗できるほどの軍事力を本当に持っていたかどうかです。この点は後述したいと思います。この時点で馬に乗った梶原景時が現れるのは不自然です。大庭から長柄郡一宮まで直線距離(ほとんど湿地帯だったはず)130kmほどの距離があり、馬で突っ走っても3~4日はかかります。どうしても梶原景時はしとどの窟のシーンで源頼朝に内通していたという流れにしたいため、北條義時に会わせて会話させておきたいというドラマ側の意図が感じられますが、ここで会うのはかなり苦しいです。北條義時「石橋山ではありがとうございました、梶原殿も来ませんか」、梶原景時「刀は切り手によって名刀にもなれば鈍にもなる、斬り手の腕しだい(オレみたいな有能なやつでないと頼朝は輝かない)」と言わせたかっただけのような気がします。ちなみに、9月3日、長狭常伴と戦い勝利しています。ドラマ上では後に描かれています。9月4日、長狭常伴を倒した勢いそのままに上総国に進軍しましたが、抵抗にあい安房国の安西景益の屋敷に引き返します。このときに、小野田盛長を千葉常胤のもとへ、和田義盛を上総広常のもとへ派遣しています。9月5日、源頼朝は洲崎明神に参詣。9月6日、和田義盛が上総国から帰参。9月8日、北條時政・北條義時を甲斐国へ派遣。9月9日、小野田盛長が千葉から帰参。9月10日、源頼朝は丸御厨を巡視。9月13日、源頼朝は下総国へ向けて安西から出兵。といった流れで安房国に滞在しています。ドラマで大庭景親が「上総広常が源頼朝に味方しなければそれでいい」と言っていますが、上総広常が反平家として露骨に謀反の徴候を見せており、しかも平清盛の「京都へ召し出せ」という命令にも従わないような反抗的な態度をとっているのに、今更「大庭景親に味方したら左衛門尉の官位を」なんて交渉をするなど矛盾しているのです。上総広常は謀反を起こし、京都召喚の指示に従わなかった時点で討伐される側なのです。平家に勘当されてしまっていたほど平家と因縁の関係の上総広常が今更平家方に味方するなどまずあり得ません。北條義時が「全てを手に入れてしまった者は何で動くのでしょうか」と言っていましたが、上総広常は全てを手に入れていたわけではなくもう失うものがないから恐れるものがなかったように思います。「増やしてもらわなきゃいけないほどうちは困っていない」と言っていましたが、上総広常は平治の乱で敗れて以降は相当平家からの圧迫を受けて所領などわずかだったはずです。上総広常はかつて流罪となって上総国に配流された伊藤忠清にすり寄って歓待したほどの人物。平家の後ろ盾を得て、兄から上総権介を奪い、一族間の所領争いで優位に立ちたかったはずですが、逆に平家と対立して勘当されてしまうほど窮地に立っていたのです。上総広常は「源頼朝は利用する値打ちがあるのか、担ぐに足る人物なのか」と尋ねていますが、かつて「上総御曹司」と称された源義朝を担いで上総国に大きな力を誇った上総氏や三浦氏からすれば、房総半島に源頼朝を召致することは念願であり、源頼朝を担いで「坂東武者のための世」を最も切実に願っていたのは上総広常その人だと思われます。ドラマ上でたびたび「上総介」と紹介されていますが、当時の上総介は伊藤忠清であり、上総権介は印東常茂です。彼ら2人が上総広常にとっても最も邪魔な存在なのです。 9月17日、千葉常胤が下総国府で源頼朝と対面します。千葉常胤の父千葉常重は、かつて天養2年(1145年)に上総広常の父佐賀常澄が担ぎ上げた源義朝によって相馬御厨(相馬郡布施郷)を奪われてしまいました(南相馬だけは何とか回復)。その数年前の保延2年(1136年)には下総国守藤原親通によって逮捕監禁され相馬郡立花荘を強奪された事件を好機として佐賀常澄が介入してきたのでした。佐賀常澄は下総国香取郡に根を張る豪族ですが、安房国に進出していた三浦義明と好を通じ、三浦義明の子三浦義澄元服の保延7年(1141年)ころに烏帽子親を務めるなど三浦氏や源義朝と関係を強化することで上総国へ勢力を一気に拡大していきました。つまり、千葉常胤にとって、藤原親通も、源義朝も、佐賀常澄も、侵略者であり、親の代からの敵であり、千葉常胤にとってみれば藤原親通の孫藤原親政、源義朝の子源頼朝、佐賀常澄の子上総広常も憎き敵なのです。保元の乱(1156年)で千葉常胤は源義朝に従軍していますが、天皇の命令で従軍していた(天皇側の武士は官符によって国衙が徴兵)にすぎず、大庭景親同様に、千葉常胤も源義朝の家人であったからなどではありませんでした。平治の乱(1159年)で源氏方の武士が没落すると常陸国の佐竹義宗が平家方の藤原親盛(藤原親通の子)の後ろ盾で下総国に介入してきており、千葉常胤は所領をめぐって佐竹義宗とも争うことになります(相馬御厨全域を奪われてしまいます)。千葉常胤は決して源氏方の武士ではなかったにも関わらず、平家方の圧迫に非常に苦しんでいた豪族であり、治承4年(1180年)9月14日に起こった結城浜合戦は、千葉常胤にとって積年の恨みをはらす絶好の機会だったのです。9月13日に千葉常胤が下総国目代を殺害したことを契機に、下総守の藤原親政が千葉常胤を攻めます。これが結城浜合戦です。平忠盛の娘婿である藤原親政は平清盛の義兄弟にあたりますが、千葉常胤は藤原親政の軍勢を破ることで積年の恨みをはらしたのです。千葉常胤は匿って育ててきた源頼隆を伴って参陣したことで源頼朝から「司馬を以て父となす」と感涙したといわれていますが、千葉常胤が源義朝に所領を奪われて恨みを持っていた背景を考えると、この『吾妻鏡』の美談をそのまま事実とすることはできません。石橋山合戦後、8月26日に佐々木定綱兄弟たちと出会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われていた阿野全成が現れます。史実では10月1日に源頼朝に対面しますが、このタイミングで登場です。この登場シーンは今後の伏線なのでしょうか。9月8日、北條時政と北條義時の父子が甲斐国へ派遣されます。北條父子が房総半島へ渡っていたという説に基づいています。このタイミングで甲斐国へ行かせるのであればなぜ石橋山合戦のときに無理に行かせたのか分かりません。また、石橋山合戦の折には源頼朝は武田信義を頼るぐらいなら自害するとまで断固拒否していたのに、今度は武田信義を味方に付けろと真逆のことを言っているのも非常に気になります。なお、しつこいぐらいに源頼朝は「わしは鎌倉に行きたいのだ」と言っていますが、何度も言うように鎌倉は源氏ゆかりの土地ではありません。ただ敵から奪って恩賞として分け与えた植民地にすぎないのです。第5回で「政のはじまりは土地を分配すること」と敵から奪った土地を分け与えたいと言っていました。まさに鎌倉が敵から奪った分配する土地だと言っているのです。鎌倉が敵地であると断言しているのです。 時系列があべこべですが、9月3日、長年仇敵である三浦義澄と長狭常伴が合戦となります。平家方の後ろ盾で勢力を拡大していた長狭氏と、逆に平家の圧迫で苦しみつづけた三浦氏の安房国における覇権争いです。それまで源義朝を担ぎ上げて上総にまで勢力を拡げていた三浦氏ですが、源義朝が敗れて以降は逆に圧迫を受けており、長寛元年(1163年)には伊西常景と長狭常伴に攻められて三浦氏は杉本義宗が討死しています(実際は戦でのケガが原因で翌年に死亡)。三浦義澄にとっても、千葉常胤にとっても、上総広常にとっても、それぞれの立場は異なりますが、思惑や利害は一致しており、平家方から長年受けてきた積年の恨みをはらす絶好のチャンスだったのです。長狭常伴が源頼朝の不倫による騒動に巻き込まれて討ち取られてしまったのは残念でなりません。堤信遠も、狩野茂光も、長狭常伴も、もう少し死にゆく人たちに華を持たせて壮絶な討死をさせてあげてほしかったです。源頼朝ら主人公を引き立たせるためにあまりにちょい役の無様な死に方が目立っており、残念です。9月4日、まずは安房国での平家方の長狭氏を討って、いよいよ上総国に出兵というところで、いったん引き返します。上総国で何らかの抵抗にあい、進めなかったとされています。安西景益は「長狭常伴と同じように反抗する者が他にもいる。上総広常も信用ならない。使者を出して迎えに参じるよう命じた方がよい」と進言しています。おそらく上総国でも下総国でも平家方として源頼朝の進軍を阻んでいたのは上総権介の印東常茂の一族たち(印東常茂は京都大番役で在京中)と思われます。伊西常景の子伊北常仲は源頼朝に謁見したもののその後参陣しなかったため謀反を疑われて10月3日に千葉常胤によって攻め滅ぼされています。伊北常仲は長狭常伴の甥であり、平家方として上総国に勢力を持っていました。「源頼朝を担いで坂東を取り戻す、それだけで腰を上げるわけにはいかない、囚われて首を刎ねられたら終わりなんだ」と上総広常に言わせていますが、上総広常にはその動機がしっかりあるのです。房総半島で上総広常と千葉常胤が反平家派として立ち上がったことで、周辺豪速たちはみな同じ思いでどちらへ与するか選択を迫られたはずです。9月19日、下総国府に上総広常が参上します。上総広常の軍勢は20,000騎いたのか、問題。史実では、上総広常が9月14日の結城浜合戦に率いた上総武士団は『源平闘諍録』では1,000騎です。それが急に9月19日に20,000騎に膨れ上がってしまうのは不思議な話です。上総広常が当初率いた軍勢は、長柄郡、周淮郡、伊甚郡の3郡です。当時の石高から考えると3郡で徴兵できるのは800騎ぐらいのはずです。それが上総広常の軍事力の精一杯だったはずです。9月13日に千葉常胤によって下総国目代が誅殺されると、翌日9月14日には藤原親政が1,000騎の軍勢を率いて結城野に進軍して千葉常胤と合戦になりました。これが結城浜合戦です。これは相模国で起こった石橋山合戦と同じレベルの合戦、石橋山合戦の房総版です。藤原親政1,000騎が翌日に出兵できた裏には、千葉氏の動きを察知してすでに準備していたことを意味しており、千葉常胤は300騎なので藤原親政は1,000騎で鎮圧に向かったのは十分な数でした。ところが千葉常胤300騎に、上総広常の1,000騎が加わって、藤原親政の軍勢を打ち破り、敗走させています。この『源平闘諍録』の結城浜合戦をそのまま史実として鵜呑みにすることは難しいのですが、それでも、上総広常が上総国をここぞとばかりに掌握していたこと、上総広常の軍勢によって平家方が駆逐されていったことは考えられるのです。ドラマ上では何もせず(戦いもせず)に20,000騎で陣に遅れてやってきて、馬上から降りようともしないので、源頼朝が「遅参した挙句馬上から降りようともしない礼儀知らずは帰れ」といった逸話がドラマで少し表現されていましたが、上総広常を陥れるための後世の創作なのです。「大将の器がなければその場で首を刎ねて平家に持っていくところだった」というのもあたかもどちらに与するか決めかねていたようにしていますが、上総広常だけは唯一反平家派として一貫した態度をとってきた人物です。当時の人口を考えれば20,000騎は上総国では徴兵できません。そして戦うために兵を挙げているのであってただ謁見するためだけに20,000騎を率いてわざわざ進軍したりなどしません。忠常の乱(1028年)以降房総半島は餓死者が出るほど飢饉がつづいてきた土地です。荒廃がひどく住民は家を棄てて逃散し、田畠は荒野と化して耕作をする者がいなくなり、いたるところに餓死する者が出ていた時代に、誰が彼らの兵糧を維持できるのでしょうか。上総広常にそこまでの奴隷を囲っておくだけの経済力があったとはとても思えません。また、恩賞もないのに朝敵(逆賊)として追従する者が20,000騎もいるわけないでしょう。

  • 13Feb
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第6回感想

      2022年2月13日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第6回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第6回北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、畠山重忠(中川大志)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、武田信義(八嶋智人)、道(堀内敬子)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、岡崎義実(たかお鷹)、佐々木秀義(康すおん)、文陽坊覚淵(諏訪太朗)、安西景益(猪野学)、千鶴丸(太田恵晴)、大姫(難波ありさ)、上総広常(佐藤浩二)、大庭景親(國村隼)、比企能員(佐藤二郎)、比企尼(草笛光子)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。第1回と第2回は安元元年(1175年)、第3回はその5年後の治承4年(1180年)5~6月、第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、第5回は治承4年(1180年)8月17~23日、第6回は治承4年(1180年)8月23~29日が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 工藤茂光 天仁3年(1110年) 70歳? 仁田忠常 仁安2年(1167年) 13歳 上総広常 保安元年(1120年) 60歳 「必ず起つと信じておりました」と養子の比企能員(佐藤二郎)に戦支度を迫る比企尼(草笛光子)。それに対し「ずっと仕送りをしていたのを知っていました」と言いつつ夫比企能員に出陣を留まらせようとする妻の道(堀内敬子)。『吾妻鏡』に「北條時政と比企遠宗が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企んでいる」と京都に企てが露見していたことが記されていたことからも、主犯格は北條時政(坂東彌十郎)と比企遠宗であり、比企遠宗が治承4年(1180年)のころにはすでに亡くなっていたことから後家である比企尼、そしてその養子比企能員が引き継いでいたものと思われます。要するに比企尼が完全に主犯格の1人なのであって、人的にも経済的にもずっと支えてきたことを敢えて道にツッコミを入れさせているわけです。ただ主犯格であるのになぜ挙兵時に比企氏が積極的に関わっていなかったのかという矛盾点がこのような描写を生んでいます。とはいえ比企尼の娘婿小野田盛長(野添義弘)がずっと源頼朝に近侍していますので、比企氏もやはり挙兵に協力してきたと言えるかとは思いますが…。 8月23日しとどの窟のシーン。梶原景時(中村獅童)が源頼朝(大泉洋)を見逃したという件は『源平盛衰記』の有名な話であり、『吾妻鏡』にも見られますが、後世の創作になります。梶原景時は大庭景親(國村隼)の従兄弟であり、石橋山合戦のみならずその後も大庭景親に従軍しており、六本松合戦で敗走して以降、大庭景親が降伏したときでさえも潜伏しており、大庭景親が斬首されてしばらくしてからようやく投降し、その翌年になって鎌倉幕府の御家人に加えられた経緯を考えれば、平家方として戦い抜いており、事前に裏切っていたとは到底思えません。一族としても梶原景時が裏切り者の汚名を着せられるのはつらいところです。そもそも正安2年(1300年)ころに書かれたとされる『吾妻鏡』は伝承や日記、曲筆などで構成されているため、研究者の間では「信憑性に欠ける」「信じることはできない」と長年評価されてきました。史実は事実ではないのです。もっと言ってしまえば三谷幸喜さんが「99%史実をもとにしている」とは言うものの、そもそもいくつもの作り話をもとにドラマを作っているのだからほぼ作り話なのです。そう思ってドラマを観ることが重要なのでしょう。 「甲斐源氏、武田信義はその長である」とナレーションで紹介されます。武田信義(八嶋智人)が「頼朝に力を貸すつもりはないが、北條は助けてやってもいいぞ」と言います。さてこのころの武田氏の動きを確認しておきたいと思います。まず平井義直が石橋山合戦で大庭景親軍に従軍しており、討死しています。甲斐国平井郷から石橋山までおよそ100kmほどで到着までに4~5日を要することから遅くとも8月18日ころには出兵したと考えられます。加賀美遠光の一族である秋山氏、小笠原氏、武田有義など在京して平家方に仕えている者も多く、源頼朝挙兵当初は旗幟を鮮明にしていません。8月21日に武田信義、安田義定、一條忠頼らが挙兵し平家派の氏族と戦っており、武田信義が甲斐国を掌握しきれていなかったことを物語っています(『山槐記』)。要するに「長である」というナレーションにはこの時点ではやや矛盾があるのです。ドラマでは援軍を断られてしまっていますが、実は安田義定とともに工藤景光、工藤行光、市川行房らが救援に向かっています。ただこれは「頼朝に力を貸すつもりはないが、北條は助けてやってもいい」という言葉は本来は「頼朝に力を貸すつもりはないが、狩野は助けに行かなければならない」でしょう。甲斐源氏は伊豆国の狩野工藤氏と姻戚関係をもつ氏族が多く、その1人が工藤景光であり、狩野工藤茂光(米本学仁)救援のために向かっていたものと思われます。ところで、北條時政(坂東彌十郎)と北條義時(小栗旬)は8月24日の早朝に椙山を発って甲斐国へ向かい、8月28日の真鶴岬からの脱出の折には相模国に帰ってきているので、往復3日で甲斐国へ行っていたことになりますが、場合によっては片道100km近くあるので早馬でも往復で5~6日はかかります。敵と戦いながらゆっくり歩いていたのでまず難しいかと思います。北條父子は房総半島には行っていないという説を覆して、どうしても房総半島に行かせようとするからこういった無理が出てきてしまいます。9月8日に房総半島から甲斐国へ派遣されたという説もあるわけですからこのタイミングで無理に甲斐国へ行かせなくてもよかったはずです。さらに、当の武田信義は8月21日に以仁王の令旨を掲げて挙兵して以降は甲斐国で反平家派と戦って信濃国へ侵攻しており、また、8月24日には大庭景親軍の侍大将俣野景久と駿河国目代橘遠茂と激突し、8月25日には駿河国波志田山合戦で安田義定が俣野景久軍を破っています(『吾妻鏡』)。武田信義が北條父子とこのタイミングで話せるほど余裕があったかどうかも怪しいです。『吾妻鏡』では甲斐源氏は源頼朝の指示でともに行動していたように記されていますが、この時期は源頼朝の指揮下に入る理由がないので、武田氏は単独で動いていたものと思われます。なお、『吾妻鏡』では武田氏は20,000騎で駿河国へ侵攻したと記されていますが、当時の人口や石高を考えると、甲斐国から出兵できる人員はせいぜい1,500~2,000人程度です。しかも甲斐国を完全に掌握できていたわけではないのでせいぜい武田信義軍は1,000騎ほどかと考えられます。どこぞの山中で敵に囲まれ、2対4でも勝ってしまう強い北條時政。そんな北條時政に「佐殿では先が見えた」「手を切るにはいい機会」「他に生き延びる手立てがない」「覚悟に縛られて命を落とすのはバカげてる」と言わせていますが、この言葉は確かに当時の武士たちの生きざまそのものだと思います。ただ主犯である北條時政に言わせてはいけないセリフであるとも思います。北條宗時(片岡愛之助)やりく(宮沢りえ)のキャラクターを際立たせるためにどうしても今回の北條時政の性格をこのように優柔不断に形成させてしまっていますが、本来は北條時政がバリバリ推し進めたその張本人です。土肥実平(阿南健治)が潔く自害する作法について説こうとしますが、源頼朝は拒否します。潔く自害するような性格なら平治の乱(1160年)のときにとっくにしていたでしょう。なお、小野田盛長(野添義弘)のすすめで箱根権現へ移ろうという話になり、「北西に25里」というと源頼朝は「25里、遠い~!!」とげんなりします。ちなみに『草燃える』では箱根権現へ行ってから安房国へ向かっていますが、今回のドラマでは結局「箱根権現へ向かったが敵が多く途中で引き返してきた」と箱根権現へは行かなかったとなっています。25里は、東泉寺/廿五里(ついへいじ)と関連づけたネタですね。10年前に亡くなった北條政子(小池栄子)と実衣(宮澤エマ)の母についての話題に。りくと母は性格が正反対、ただそれは北條時政にとってよかったという話になり、りくが「戦が終わったらもっともっと焚きつけてやります」と言うところでこの件は終わりました。ただここで気になるのは、北條時房の存在です。北條時政と牧の方(このドラマ上ではりく)との間に安元元年(1175年)に生まれた北條時房(後の北條時連)がこのころに5歳になっているはずなのですが、第1回と第2回で生まれている描写もなかったですし、外で遊んでいる子どもたちのなかの1人なのかもしれませんが、第5回で実衣が「本当に妊娠しているのか全くお腹が大きくなっていない」という言葉に北條政子が「そういう人もいるみたいよ」といった会話があるように、りくの出産を過去に見たことがないような描写でした。この点は『草燃える』でも矛盾がありましたが、このドラマでは今後どのように描かれていくのでしょうか。 北條時政と北條義時は石橋山へ向かっていたはずなのに、なぜか岩浦へ出てきます。いやいや相当遠回りですよ。そしてなぜか12歳の三浦義村(山本耕史)がタイミングよく岩浦に。「頼朝を助けに来たが、居場所が分かず引き返すところだった」とうまくツッコミを入れていますが、不自然極まりないです。当然岬にいれば敵にすぐ見つかります。三浦義村と北條時政は「逃げるが勝ちじゃ」と言って源頼朝を待たず岬を出て行ってしまいます。 8月24日に由比ガ浜で対峙した畠山重忠(中川大志)と三浦義澄(佐藤B作)の軍勢。一説によれば畠山重忠は三浦義澄の甥にあたります。和平がなりかかっていたところで遅れてきて事情を知らない和田義盛(横田栄司)の弟和田義茂が畠山勢に斬りかかってしまい大混戦(ドラマ上では和田義盛が張本人になっていましたが)。由比ガ浜から小坪坂にかけて合戦(由比ガ浜・小坪坂合戦)となり、三浦勢は衣笠へ退いていきます。そして畠山重忠軍に河越重頼や江戸重長らの軍勢も加わり衣笠を包囲するのが8月26日。さて、そんななかで三浦義村だけなぜ源頼朝を助けに行けるのでしょうか???結局、これもどうしても岩浦の件を出したいからこういった無理が出てくるのです。伊東祐親(浅野和之)に「岩浦から船で逃げた者がおる、すぐ調べろ」と言わせている辺り非常に忖度が見えますが、脱出した岬が岩浦なのか真鶴なのかの論争はあるけれど、無理やりで矛盾が出てくるのです。なお、8月27日に衣笠は陥落し、88歳の三浦義明が討死します。外孫の畠山重忠に攻め殺されたことになります。『吾妻鏡』では「我は源氏累代の家人として老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛に捧げ、子孫の手柄としたい」と壮絶な最期を遂げたとしていますが、『延慶本平家物語』では老齢の三浦義明が足手まといとなって置き去りにしたと記されています。今回のドラマでは前者が採用されたようです。いずれにしてもそんな重要な一族の合戦に、三浦義村がいなくてよかったのかな?  八重(新垣結衣)が明け方に夢枕に源頼朝が立って無事を知らせてくれたと話します。当時の人たちが夢のお告げを信じる件は以前にもあったことですがわざわざ確証もないことを話にくるでしょうか。北條政子が悔しがってバケツを蹴飛ばしますが、蹴鞠をやっていたときの伏線の回収でしょうか…(笑)さて、5年間も放っておいた千鶴丸(太田恵晴)のことをふと思い出した八重は文陽坊覚淵(諏訪太朗)に会わせてほしいと願います。すると立派な五輪塔(墓)に案内され泣き崩れるのでした。ちなみに第7回でも八重が伊東祐親に問い詰めるシーンがあり、孫でも平気で殺害するという描写は第5回の北條宗時殺害のときにもありましたし、千鶴丸生存説は0%ではないと思っていたのですが、もうほぼ0%のようです。 大庭屋敷で首実験が行われます。すでに大庭に引き上げていたということになるのですが、裏切った三浦攻めと甲斐武田攻めがここで決まります。実際は8月24日には甲斐国に向かって出兵していますし、8月26日には衣笠攻めも行っているため、このような首実験を悠長に行っているような余裕はなかったはずです。ましてや大庭に引き上げてからなんて余裕はありません。また、ギリギリまで味方と思わせて裏切ったとされる三浦への報復で畠山重忠を向かわせますが、大庭景親はもともと三浦が敵方であることを知っていたはずです。第5回でもこの辺りの「三浦はもともと敵だった」という描写は梶原景時に言わせていました。『吾妻鏡』などの記述からは、大庭景親には「北條時政と比企遠宗が伊豆国の流人源頼朝を擁立して謀反を企てている」こと、「北條館に三浦義澄と千葉胤頼が出入りしている」ことが知られており、そのことからも京都で情勢を把握している三善康信(小林隆)が「勝てるはずがない」「奥州へ逃げるべきだ」と弟三善康清を派遣しています。さらに、6月の時点で源頼朝からの使者は大庭景親のもとにも訪れており、「三代にわたって源家相伝の家人であったのだから源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と伝えられたところ、大庭景親は「保元の戦(1156年)では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家相伝の家人ではない上に、天養の戦(1144年)で源義朝に攻め込まれた恨みを我ら一族決して忘れてはいない」と拒否したともされています。ただドラマ上で首藤経俊(山口馬木也)が「武士の情けだ、言わないでおいてやる」と言っていた言葉は本来大庭景親の言葉であり、平清盛(松平健)や伊藤忠清には言わずに相模国へ帰国しました。その後、8月9日には大庭景親は鎌倉一族で軍議を開いた折、兄懐島景義と弟豊田景俊が源頼朝に与することを容認しており、特に兄懐島景義とは「どちらが勝っても負けてもお互いに助け合うことを誓おう」と袂を分かつことを決めていることからも、おそらく鎌倉党でありながらも三浦義明の娘婿長江義景が三浦方に与することもこの時点で明らかになっていたであろうし、三浦の動きも把握されていたものと思われます。また、第5回も第6回も源頼朝の首の話になっていますが、刑法に問われ処刑された者はわずか「十か一つ」と記録されており、斬首されたのはせいぜい1割にすぎないことからも、特に降伏してきた者についてはほとんど首を刎ねるようなことはしないことがうかがえます。このことは三浦義村が「この戦に勝算はない」「大庭も伊東ももとは仲間だ、頭を下げれば大目に見てくれるだろう」「源頼朝を差し出す、それしか手はない」「頼朝と心中するつもりはない、早いところ見切りと付けた方がいい」と言っているように、当時は敵対しても降伏した者はほとんど処刑されるようなことはなかったことを物語っています。  岩浦まで25里と聞いた源頼朝はまた「また25里~」と再びうんざりしています。しかも岩浦に着いてみれば誰もいない。結局土肥実平に真鶴岬へ行けば土肥の船を出せると聞いて「ではなぜ最初からそちらへ行かないのか」と源頼朝にツッコミを入れさせています。8月28日、真鶴岬から脱出し、安房国へ目指します。 8月29日、安房国平北郡猟島に到着します。安房国平北郡は古くから三浦氏の所領です。ここで三浦義澄の娘婿安西景益が迎え入れます。平治の乱(1160年)で敗れて以降衰退した三浦氏は長寛元年(1163年)に平家派の安房国長狭郡の長狭常伴と所領をめぐって争っており、三浦義澄の兄であり和田義盛の父杉本義宗が負傷し亡くなっています。安西景益は安房郡西部を領しているため安西を称しており、「千葉大系図」「安西氏系図」では千葉氏の一族とも記されますが、三浦氏の一族であり、特に三浦義澄の娘婿である安西景益は敗走する三浦義澄と源頼朝を支援するのは当然の流れといってもいいでしょう。安房国朝夷郡丸御厨を本拠とする在地領主の丸信俊も恭順したとされていますが、かつて源義朝が源頼朝の官位昇進を祈願して平治元年(1159年)に伊勢神宮に寄進した縁の深い土地であり、丸信俊が20年も前のことを理由に迎え入れる義理はないのですが、平家討伐の宿望が果たされたときには親御厨を立て重ねると源頼朝が約束したため丸信俊は恭順したと『吾妻鏡』には記されています。   北條時政の変わり身の早さに目を細める北條義時。この描写今までも何度か描かれていますね。仁田忠常(高岸宏行)によって観音像が届けられると、いよいよ北條宗時死亡が濃厚となります。そこで北條時政は確信し「これからはお前が北條を引っ張っていくんだ、三郎がやりかけていたことをお前が引き継ぐんだよ」と言うと、北條義時はその直前まで「オレに聞くな」と言っていたのに豹変。「石橋山で佐殿をお守りして死んでいった者が浮かばれません」「佐殿がいなくても戦はつづけます」と源頼朝を再度奮い立たせます。ガイドブックには「兄の無念を分かっていただきたいのです!」と書いてありましたが、ドラマ上ではそんなことは言っていませんでした。ただ、北條時政から「お前が引き継げ」という言葉や第5回の「兄との約束」を受けて北條義時の心境の変化が起こっていることは明白です。  和田義盛が「大願成就した暁には侍大将にしてほしい」と願い出ます。源頼朝は「侍の別当にすることを約束しよう」と返しました。これは史実ですが、平清盛の侍大将伊藤忠清のことを意識してのことだとされています。伊藤忠清は東国の侍別当でもあります。別当というのは長官なので、要するに侍たちのリーダーという意味になります。最後に上総広常が登場します。ナレーションでは「上総介広常、頼朝の運命は今この男の肩にかかっている」と言われていましたが、上総広常はこの時点ではまだ上総権介になっていません。この当時の上総権介は兄の印東常茂です。印東常茂は下総国印旛郡の領主であり、平家の親族藤原親政を後ろ盾に上総国にも勢力を拡げており、この当時は京都大番役で在京していました。上総広常は佐賀常澄の八男として保安元年(1120年)ころに生まれたとされ、佐賀常澄は三浦氏と親交が深く下総国から上総国へ勢力を拡大させ、上総広常は保元の乱(1156年)に源義朝に、平治の乱(1159年)には源義平に従軍したことから「義平17騎」の1人に数えられるほど源家累代の家人として活躍しました。ところが平治の乱で源義朝が敗れると平家政権下で力を失い、さらに兄たちと家督や領地をめぐる内紛が起こっており、上総広常は兄弟たちとの所領争いやお家騒動を20年以上、つまり源頼朝挙兵後までつづけています。上総広常は上総国長柄郡一宮を領しており、他の兄弟たちと同じように呼ぶのであれば正確には長柄広常となります。文献上でも平広常とあり上総広常を称したことはないとされています。上総広常は上総氏の惣領として上総国を掌握し一族を束ねていたわけではなく、源頼朝の陣に馳せ参じた折には長柄郡・周淮郡・伊甚郡の三郡の兵で参陣していることからも上総国の一部にしかその勢力が及んでいないことが分かります。長南重常や周淮郡の周西助忠はおそらく上総広常に従っていたものと思われますが、天羽郡の天羽秀常(天羽直胤)、埴生郡の埴生常益、市原郡の佐是円阿、山辺郡の大椎惟常らは上総広常の兄ですがこの段階では旗幟を明らかにしておらず、源頼朝に与した形跡はありません。武射郡には印東常茂の子南郷師常が勢力を拡げていますがやはり動向は不明です。また上総広常の兄匝瑳常成や叔父たちが下総国に多く分布していますが動向は不明です。なお、安元3年(1177年)に伊藤忠清が上総国に配流されたとき監視役として歓待したのが上総広常であったものの、治承三年の政変(1179年)に解官された藤原為保に代わり伊藤忠清が上総介となり東国武士団を統率する権限を与えられたことによって上総広常と次第に対立するようになり、陳弁のために上洛した上総広常の子上総能常を伊藤忠清が拘禁するほど悪化し、ついに上総広常は平清盛から勘当されてしまうのでした。さらに治承4年(1180年)8月2日、大庭景親は「謀反の徴候の見える上総広常を京都へ召し出すように」と命令を受けて京都から帰国しています。そんななかで源頼朝が挙兵して房総半島にやってきた。上総広常にとって平家の圧迫は兄印東常茂からの圧迫でもあり、上総広常にとって平家方からの圧迫と家督争いの決着という千載一遇のチャンスでもあったのです。ただし、『吾妻鏡』にあるように20,000騎で源頼朝を出迎えたというのは当時の人口や石高を考えるとまず難しく、上総国を完全に掌握していたとしてもせいぜい3,000騎ほどとされており、長柄郡・周淮郡・伊甚郡の三郡では3,000騎ですら難しく、『源平闘諍録』に記される1,000騎が妥当なところであろうと思われます。鎌倉幕府はなぜ鎌倉が選ばれたかの真相源頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用される千葉常胤の献策は、創作話です。千葉常胤にとっては源頼朝の父源義朝は「御恩」を感じるような相手ではありません。鎌倉党が大庭御厨を源義朝に攻められたときと同じように、千葉常胤も相馬御厨を源義朝に攻め取られているのです。鎌倉党にとっても千葉常胤にとっても源氏は侵略者でしかないのです。第5回に源頼朝が「政のはじまりは土地を分配すること」と敵から奪った所領を分け与えると言っていましたが、まさに鎌倉は敵から奪った所領であり、植民地だったのです。事前に鎌倉を選ぶなどという大義名分は全くなかったのです。千葉常胤の一族、そして上総広常が源頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が源家累代の家人であったからなどではなく、彼らにとっては上総介となった東国侍別当伊藤忠清や、平家親族藤原親政、そして下総国に侵攻してきた常陸国の佐竹氏の圧迫に対して、源頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されています。それは、関東で源頼朝の元に参じた他の有力領主たちにも全く同じことが言えるのです。

  • 06Feb
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第5回感想

      2022年2月6日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第5回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第5回北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、工藤茂光(米本学仁)、三浦義村(山本耕史)、善児(梶原善)、和田義盛(横田栄司)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)、堤信遠(吉見一豊)、岡崎義実(たかお鷹)、佐々木秀義(康すおん)、文陽坊覚淵(諏訪太朗)、中原知親(森本武晴)、佐々木定綱(木全隆浩)、佐々木経高(江澤大樹)、佐々木盛綱(増田和也)、佐々木高綱(見寺剛)、大庭景親(國村隼)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。第1回と第2回は安元元年(1175年)、第3回はその5年後の治承4年(1180年)の5~6月、第4回は主に治承4年(1180年)8月16~17日、第5回は治承4年(1180年)8月17~23日が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳ぐらい? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳  8月17日、源頼朝軍が平兼隆(木原勝利)と堤信遠(吉見一豊)の館に攻め込みました。忠臣蔵さながらの戸の多さ、平安期の館にあれほどの戸はないだろうなあと思いつつ、剛勇として知られる堤信遠の最期はあっけなく残念です。これまでだいぶ嫌な人に描いてきたのできっと三谷幸喜さんならせめて最期ぐらいは花を持たせて剛勇らしく華々しい討死を用意してくれるのだろうと思いきや、最後まで残念なキャラでした。しかも後見人は地元の豪族であるはずなのに「田舎者めがー!!」と言っていたので、最初のシーン同様にそれなりの貴族出身ということだったのですね。いくつか気になったのは、そもそも接近戦を想定して戦っており、弓を持っていないのに、なぜか箙と矢を装着している点。特に北條義時(小栗旬)、北條宗時(片岡愛之助)、北條時政(坂東彌十郎)の3人は弓を持っていないのに箙を付けており不自然です。特に胴丸の北條義時と北條宗時は弓戦を想定していないので引っ張られてしまったり引っかかってしまうなど、接近戦にはむしろ箙と矢は邪魔だと思われます。また大袖付胴丸が多すぎます。この時代はまだ大袖付胴丸は多用されていないはずだと思います。また大鎧は騎馬用鎧のため兜を装着することが大前提です。しかしながら後の石橋山合戦でも源頼朝(大泉洋)と大庭景親(國村隼)の2人以外は誰も付けていません。北條時政、梶原景時(中村獅童)、首藤経俊(山口馬木也)らが騎馬しながら折烏帽子なので非常に違和感があります。一騎打ちなどの騎馬戦はしないつもりなのでしょうか…。3,000の兵がいたら相当の矢の雨が降り注ぎます。兜なしでよく戦えるなと想像しただけで恐ろしいです。戦を舐めてるとしか思えません。それと、箙への矢の挿し方や矢の本数がおかしいです。あれでは瞬時に矢を抜いて番えることは不可能だと思います。8月18日早朝、当時の刀の使い方について時代考証を行ったそうで、斬首の仕方などにも注目でした。この辺りの演出はさすがだなと思いました。ただ刀に詳しい方はいろいろと言いたいことあるかもですね。首実験の場面、首を見て気分を悪くしている北條政子(小池栄子)、手を合わせている源頼朝、意気揚々としている武士たちの対比が描かれています。ここで北條時政(坂東彌十郎)が「伊東に攻め込みましょう!」と言ったところ8月18日は観音様の縁日で、殺生をせずに神仏に祈る日となりました。北條時政に言わせてはいるものの伊東に攻め込もうという発言には非常に大きな意味があると思います。本来これを言うべきは狩野工藤党、強いていうなれば狩野茂光(米本学仁)です。本来この戦にはまだ中村党はおらず、ほぼ伊豆国の豪族だけで戦に挑んでおり、その背景には狩野工藤党の尽力があります。狩野工藤党にとっても北條氏にとっても最大の目的は伊豆国での領地拡大なのです。北條宗時が「伊東はいつでも落とせる」と言って、伊東攻めが後回しにされてしまった理由として観音様の縁日をあげていますが、源頼朝が富士川合戦で勝利したときに勢いそのままに京都へ攻め込もうとすると、平家方の佐竹征伐が先だと千葉常胤や上総広常ら豪族たちが反対したように、狩野茂光が伊東征伐が先だと主張して当然の場面だと思います。ここで伊東を無視して土肥実平のいる土肥郷に合流していく背景には源頼朝を担ぎ上げている豪族たちのそれぞれの思惑が垣間見られます。8月18日同じころ、早朝に伊東に伝わります。距離的に考えるとやや伝わるのが早い気もしますが…。 8月19日、源頼朝が「政のはじまりは土地を分配すること」と敵から奪った所領を分け与えることを行いたいと言います。中原知親(森本武晴)が平家の威光を笠に着て領民を苦しめているということで捕らえられますが、中原知親は伊豆国目代として下田の蒲屋御厨に住み知行(執務)を行っていたいわゆる代官です。中原知親は代官として赴任してきていた貴族であり土地の所領があったわけではありません。ましてや蒲屋御厨は伊勢神宮領です。源頼朝が奪った(剥奪した)のは伊勢神宮の所領ではなく、中原知親の目代としての権限や権益です。源頼朝が伊豆国で初めて土地に関して行った下知(命令)ではあるものの、所領を奪ってその土地を分配するという話とは全く別の話なのです。伊東祐親(浅野和之)から大庭景親(國村隼)に伝わり、大庭景親が「いよいよ源頼朝を成敗するときだ」と言っていますが、そもそもの命令を忘れていませんか?第2回で大庭景親は「伊豆に逃げた源頼政の縁者を捕えるよう仰せつかった」と言っているように平清盛から命令を受けて京都から帰ってきています。8月2日に帰ってきてからの2週間、大庭景親はいったい何をしていたのでしょうか。なお、大庭景親が8月9日に佐々木秀義を呼びつけて敵に塩を送った(情報を送った)のは、敢えて挙兵させるためだったという説もあります。それは源頼朝を担ぎ上げた三浦・中村ら敵の狙いが鎌倉一族の土地であることと同じように、やはり大庭景親にとっても三浦・中村を攻める大義名分(口実)を得ることができるのです。後に「頼朝が生きていようが死んでいようが」という発言をしていますが、実は大庭景親からしても源頼朝を挙兵させるよう仕組んだ、つまり源頼朝を利用しただけにすぎないという解釈もあります。「へいぞう」と呼ばれた梶原景時(中村獅童)が作戦を練っています。まるで鎌倉軍の軍師です。梶原景時は平三郎です。通常「平太(へいた)」「平次(へいじ)」「平三(へいざ)」と略されるはずですので、梶原景時は本来「へいざ」であるはずです。すぐ出陣だ!と言って出陣しますが、兵がいきなり一瞬で3,000も集まるわけないです。これから早馬を各方面に走らせて兵を募っていたのでは何日もかかるのです。直線距離でも140kmもある武蔵国熊谷郷の熊谷直実らは早馬で知らせるのに2~3日ほど、出兵して3~4日ほど、つまり1週間ぐらいはかかる距離です。もっともっと前に招集されていないと間に合いません。ところが、北條宗時が「大庭が動き始めました、その数3,000!」と人数がはっきりしています。人数は陣に集まってもさほどはっきりした人数は分からないはずです。源頼朝が「まずは鎌倉じゃ、1日も早く父が治めた鎌倉に入り、わしが源氏の棟梁であることを世に知らしめる」と言っていますが、前回解説したようにまず源頼朝の父源義朝は鎌倉を治めていません。むしろ三浦氏から側室をもらい三浦氏に加担して鎌倉領を攻めており、朝廷の官宣旨を受けて鎌倉から引き下がり鎌倉郡と三浦郡の境界線である鎌倉郡沼浜郷(現在の逗子市沼間)に館をもって源義平が生まれ育っています。現在の寿福寺のある地にはかつて源義朝の館があったという説もありますが、敵地に源義朝が館を建てたり、岡崎義実(たかお鷹)が敵地に源義朝の菩提を弔う堂宇を建てるなどまずできないことを冷静に考えなければなりません。伊東祐親は善児(梶原善)に北條宗時暗殺を命じます。伊東祐清(竹財輝之助)が「三郎は父上にとって孫ではありませんか」と言っていますが、伊東祐親が「絶対に討ち漏らすな」と言って孫でも平気で殺害できるところをみると、千鶴丸生存説の希望は薄くなりましたね。ちなみに、北條宗時と千鶴丸は2人とも伊東祐親の孫であり、従兄弟同士です。8月21日、源頼朝挙兵の動きが甲斐国へ伝わると、甲斐源氏の一族のうち安田義定を筆頭に工藤景光、工藤行光、市川行房ら源頼朝と近い氏族が源頼朝救援に向かったことが『吾妻鏡』に記されています。ドラマ上では小野田盛長が「甲斐国の武田信義殿がこの機に乗じて兵を挙げたとのこと、源氏の棟梁を名乗っておるのです」といい(これは本人が称したというより、後の源頼朝・木曽義仲・武田信義の三つ巴への伏線)、北條義時が「どなたですか?」と尋ね、源頼朝が「武田なぞ、血筋ではわしに比べるまでもない、忘れてよい」と言っているように、いかにも血統でも知名度でも自分の方が上だと印象づけています。しとどの窟のシーンで、武田信義に援軍を依頼しようとなっていますが、武田軍はすでに出兵しているのです。ただここで重要なのは北條父子が甲斐国へ逃れて武田軍と今後合流して富士川へ進軍するという史実にいかにつなげられるかなのです。 源頼朝は妻北條政子らに伊豆山神社へ行き勤行せよと命じておきながら、自らは八重(新垣結衣)に会いに行きます。こうやって普段から亀の前(江口のりこ)にも会っているのでしょう。源頼朝は八重に「久しぶりだのぅ」なんて言ってますが、八重の最後の微笑みをみると、ひょとすると北條政子と結婚した後も会っていたかもしれません。八重にも亀の前にも「お前だけだ」と真実の密事を行っていたら、八重がストーカーになるのも無理ないように思えてきました。 8月20日、以仁王(木村昴)の令旨を掲げて北條館を出発し相模国土肥郷を目指します。北條時政が騎馬していますが兜をかぶっていません。兜がないと非常に怖いです。後に伊東が挟み撃ちにすると発覚しますが、冷静に考えたら地形的に当たり前の話です。八重の夫でありながら下人扱いされてしまう江間次郎(芹澤興人)、「侮るな」と必死に訴えますが、結局は泣きながら八重に尽くすのでした…。 関東でも指折りの霊場である伊豆山神社で、北條政子は「これは私たちの戦い」と文陽坊覚淵(諏訪太朗)からの指示で寺女として雑事に励みつつ、りく(宮沢りえ)に「戦で亡くなった者を敵味方関係なく祈る」と助言され源頼朝からの言いつけにより勤行しつづけます。北條政子らが勤行しているとりくが勤行に加わります。第4回で「敵の身内も祈っているのだから祈っても意味がない」と言い放っていたりくが急に祈りはじめたことに対して、北條政子らがびっくりして勤行を止めてしまうほどの描写があります。りくは何も見ないでも勤行できるところが教養ある人としての描写なのでしょう。この辺りは、りくが「戦は男がするもの」と言っていた言葉と対比して北條政子が「これは私たち(女)の戦い」と言っている1つの伏線の回収と思われます。実衣(宮澤エマ)が「(りくに)いいように使われているのでは」と言わせているように、りくの性格を強調しています。 8月23日、石橋山に布陣した両軍。梶原景時によって作戦は進められます(『吾妻鏡』では大庭景親の考えです)。首藤経俊(山口馬木也)が「三浦は大庭の命に応じて向かってきていますが、酒匂川の氾濫で足止めされています」と言うと、梶原景時が「三浦は北條に近い、油断するな」と忠告しますが、三浦がすでに北條に出入りしていることは大庭景親にも伝わっていたはずです。前回の解説のときにもお話ししましたが、三浦氏がそもそも伊豆国での挙兵時(8月17日)に加わらなかったこと、大庭軍は武蔵国の軍勢と合流して8月23日にはすでに石橋山にいるのに、三浦氏が8月22日というだいぶ遅れて出兵したこと(最初から石橋山まで間に合わない)、三浦氏の動きは全て後手なのです。源氏に与するか平家に与するか迷っていたという説もありますが、首藤経俊に「我ら3,000の兵を前に敵に回るわけがなかろう」としっかりと矛盾点を突っ込ませています。挟み撃ちにするために後から寝返ったように見せたという説は実は苦しいのです。なぜなら石橋山の後方にはまだまだ平家方の軍勢がいるからです。事前に源頼朝の挙兵に加わるつもりなら8月17日に伊豆国へ馳せ参じることができただろうし、仮に大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のように大庭景親側に与するつもりなら8月23日に石橋山にたどり着いているはずなのです。いずれにしても矛盾があるのです。 三浦義澄(佐藤B作)に「無二の友の小四郎もおる」と言われると三浦義村(山本耕史)は「小四郎、すまん」とあっさり見捨てます。後の和田の乱で従兄の和田義盛(横田栄司)をあっさり見捨てることや、乳父でありながら公暁を見捨てるあたりの伏線になっているものと思います。なお、北條義時と三浦義村は従兄弟で、三浦義村と和田義盛も従兄弟になります。三浦義澄の「味方と思わせての不意打ちなど三浦のすることではない」と言いつつ、大庭景親の命で出兵している時点で敵対していることを表明していないわけですし、当然挟み撃ち(不意打ち)にするつもりがあるので矛盾しています。三浦義村の言うとおりわざわざ敵対している立場を明らかにする必要はないのです。でなければ大庭景親からの命をその場で拒否すればよかったのです。なぜ8月17に伊豆に参集しなかったのか、仮に平家方・源氏方どちらに与するか迷っていたとしてもなぜ8月22日に遅れて出兵したのか、このときの三浦氏の動きには様々な不可解な点が残りますが、いずれにしても丸子河(酒匂川)で宿し平家方の館に火を放ったことで三浦軍が反平家の動きを明らかにしたことが『吾妻鏡』に記されています。首藤経俊が「裏切ったな」と言ったところ梶原景時が「もともと敵だったんだ」と突っ込ませていますが、もともと敵だったはずの三浦氏の動きには文献上様々な矛盾があるためこのようなストーリーになっているのだろうと思います。  北條宗時が北條時政を「親父殿」と呼ぶのですが、実の父に「父上」ではなく「親父殿」って呼ぶことあるのですね。さて石橋山合戦のはじまりです。丸子河(酒匂川)では大雨なのに石橋山では雨が止んでいるのが気になります…。「その差を例えればあたかもカマキリが牛車に挑むがごとし」と大庭景親が嘲笑します。いわゆる言葉戦いです。北條時政が「一時の恩にひたって先祖代々の主を捨てるとは情けない」と言っていますが、先祖代々源氏に従っていたわけではありません。『吾妻鏡』や『平家物語』に記されているのはあくまで「かつて源義家に従軍した子孫ならばなぜ弓を引くか」と答えているにすぎず、このことからも先祖代々源氏に従ってきたわけではないということが分かります。大庭景親が「今は敵である、平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い、恩こそ主」とも言っていますが、天養の乱以降、源氏は鎌倉党にとって侵略者でしかない、鎌倉党は一貫して平家派なのです。保元の乱で源義朝に従軍したのは朝命だったからであって、平治の乱では平家方に与しています。このことからもずっと立場を明らかにしてこなかった三浦の動きの方こそ不可解であることがよく分かります。なお、大庭景親がかぶっている兜は𩊱が4段しかなく、遺物には見られない完全な当世兜です。また、この当時の兜は髻で固定して響孔からの忍緒で首元を結ぶので、大庭景親の兜の眉庇を上に上げる仕草からしても当時のかぶり方ではありません。これでは兜がずれてしまいます。鎧兜に関する時代考証は完全に不備があります。 後方を伊東祐親、前方を大庭景親に囲まれた源頼朝軍は敗走します。このとき源頼朝が矢を射るシーン、ドラマ上仕方ないとは思いますが、弓は遠くから敵を射るもので、敢えて味方の一番前に出て敵に接近して射るものではありません。なお、このときには真田与一郎義忠と俣野景久の死闘が繰り広げられているころで、やはり真田義忠も俣野景久も登場しないことが決定的となりました。残念です。源頼朝を支えた伊豆国最大のマフィア狩野組のボス狩野茂光が討死し、仁田忠常の兄仁田忠俊も討死しました。この後しとどの窟に隠れるシーンになるのですが、椙山六騎(あるいは頼朝七騎)が描かれないのも残念ですね。史実では源頼朝が逃亡する際に大勢いると目立つことから信頼できる少数のみで逃げることになり、狩野工藤党や北條一族は別行動となっています。椙山で源頼朝とともに行動していたのは、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、小野田盛長、新開実重、田代信綱、そして早川遠平です。『吾妻鏡』では北條義時、加藤景員、加藤光員、加藤景廉、宇佐美祐茂、堀親家、大見廣政らは北條時政とともに箱根権現へ逃れて、後に源頼朝と合流したとされています。戦が終わっていないのにもう宴会がはじまってしまうところ、大庭景親の油断が描かれています。大庭景親は「頼朝が生きてようが死んでようが勝敗はついた」と言っていますが、平清盛から受けた命令は源頼朝追討ではありません。まだ命令を遂行できていません。大庭景親にとってこの戦いで最も利益となるのは「三浦・中村を攻める口実」なのです。梶原景時が「自分の目で首を見てからだ」と言ったり、伊東祐親が「頼朝が生きているかぎり勝ったとは言えない」と言っているのは確かにそうなのですが、その一方で、その当時の戦いでは必ずしも敵将の首を取るまで戦うとは限りません。それを不服そうにしている梶原景時がこの後しとどの窟のシーンを経て源頼朝に与していくという伏線になります。梶原景時がしとどの窟で源頼朝を見逃すのは『源平盛衰記』に記されていますが、その後も梶原景時は大庭景親軍で源頼朝と戦いつづけ、大庭景親が投降して首を刎ねられて以降もしばらくは潜伏し、翌年にやっと投降してきています。平家方として最後まで忠義を貫いていることからしとどの窟は創作であり、一族としては裏切り者の汚名を着せられているのはつらいところです。 『草燃える』では左源太(神山卓三)でしたが、今回は仁田忠常(高岸宏行)が北條政子に敗北を知らせに行きます。仁田忠常は完全に活躍しているシーンがありません。この後の活躍を考えるともっと戦で活躍していてもいいと思うのですが…。仁田忠常はこのとき13歳なのでまだ弱いけれど、いずれは比企能員を殺害するまでに成長していく、ということなのでしょう。  第2回で首藤経俊の矢に名前が書かれていたシーンの伏線の回収が行われました。ただ源頼朝の大袖にうまく挟まっていますが、本来は鎧に刺さっているはずです。後に首藤経俊の母山内尼が助命嘆願した際にはその鎧に刺さった矢を見せた件があります。源頼朝が髻に隠していた観音をしとどの窟に置いていく件も確かに史実ではありますが、烏帽子の小結をいったん外さないと髻の中から観音を出すことはできません。なぜあんなに簡単に出せてしまったのか謎です。そして最も不可解で残念な狩野茂光の死に方。今更鎧が合わないとかないでしょう。70歳の歴戦の勇士ですよ。堤信遠のときもそうですが、もう少し尊厳ある死に方をさせてあげてほしいです。大庭景親軍に囲まれて自害した説や足手まといで自ら自害したという説、孫の田代信綱に介錯させたという説などもありますが、伊豆国最大のマフィア狩野組の70歳のボス、せめて華々しく散ってほしかったです。さて、今回の最大の山場である北條宗時の死について『草燃える』では伊東祐親の軍勢に囲まれて架空の人物伊東祐之(滝田栄)によって殺されていますが、史実では伊豆国小平井領主の小平井久重によって討たれています。今回はそれとはまた全く別の展開で闇討ち(暗殺)されてしまいました。一応討たれた場所はガイドブックでは伊豆国平井郷になっています。そのころ甲斐国へ向かっていた北條時政が「このまま逃げてもいい」「大庭に頭を下げよう」「頼朝の首を持っていけば許してもらえる」「頼朝は大将の器じゃねえ」と言っています。これは当時の武士たちの性質を非常によく表していると思います。またそれを裏付けるように北條宗時も別のシーンで「実は平家とか源氏とかどうでもいい」と言っています。担ぎ上げている(利用している)だけで、源家の家人だからという意識はありません。「西からきたやつらの顔色をうかがって暮らすのはもうまっぴら」「坂東の世をつくる、そしてその天辺に北條が立つ」というのはかつて坂東で平将門が掲げたスローガンです。しかし大義名分は立派でも滅んでしまっては元も子もないのです。そのときそのとき情勢を睨み自分が生き残れる方法を探して北條時政のようにあっちへ付いたりこっちへ付いたりは当たり前の世で、大義名分は大きなことを言っても所詮は私利私欲に土地を拡げることが最大の目的なのです。ただ「そのために頼朝の力がどうしても必要だ、辛抱しようぜ」という言葉が後に北條義時を執権として鎌倉幕府の頂点に立つまでの「兄との約束」につながるのでしょう。

  • 01Feb
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』伊豆国を再考察

      大河ドラマは伊豆国からはじまっています。伊豆国を再考察してみたいと思います。流刑の地伊豆国伊豆国は平治の乱(1160年)で敗れて流罪となって源頼朝が配流された地です。意外と知られていませんが伊豆国は代表的な流刑の地であり、源頼朝以外にも流人として配流されてきた人たちがいます。保元の乱(1156年)後に源為朝、承安3年(1173年)に文覚、治承3年(1179年)に平兼隆、他にも伊勢国の加藤景員は平家の侍を殺害し伊豆国へ流罪となっています。なお流罪で伊豆大島に配流されていた源為朝(31)が謀反を起こしたため嘉応2年(1170年)に狩野茂光(60)が討伐しています。源為朝は監視役の藤井忠重の娘婿となっており、伊豆諸島を次々と支配下に置いていきました。このとき源為朝討伐に従軍したのは伊東祐親(51)、北條時政(32)、大見政光(33)、大見実政(30)ら500騎、その他、狩野茂光の娘婿加藤景員(40)、加藤光員(20)、加藤景廉(14)らが従いました。加藤景廉がすでに自害していた源為朝の首を刎ねて持ち帰ったとされています。伊豆国の勢力治承4年(1180年)当時の伊豆国の石高は、推定で20,889石ほどと考えられており、募れる兵はおよそ500騎ほどと考えられています。このことは嘉応2年(1170年)の伊豆大島合戦で狩野茂光が率いた兵数が500騎であったことや、治承4年(1180年)の石橋山合戦で官軍の伊東祐親(61)が300騎、謀反を起こした賊軍側の狩野茂光(70)が50騎、北條時政(42)が30騎ほどを率いたとされている点でほぼその徴兵数は一致します。君沢郡 5,736石 143人田方郡 6,308石 158人賀茂郡 7,689石 192人那賀郡 1,156石 29人※参考値(あくまで推定値です)伊豆国最大派閥 狩野工藤党狩野牧(牧ノ郷)を中心に勢力を拡げた狩野茂光。工藤家継の子であり伊東祐親の叔父にあたります。狩野茂光は狩野工藤党の棟梁として加藤・天野・田代・仁田・堀・鮫島など諸氏を統率しています。狩野茂光には狩野宗光、狩野兼光、狩野行光、狩野親光ら子どもたちがいますが、治承4年(1180年)8月17日の源頼朝挙兵のときには狩野茂光(70)は狩野親光(50)とともに源頼朝(33)に与して戦っています。狩野茂光の娘婿加藤景員(50)、加藤光員(30)、加藤景廉(24)、狩野茂光の娘婿田代為綱の子田代信綱(25)、狩野茂光の娘婿天野遠景(39)、天野政景(19)、天野光家(37)、工藤一族の堀親家(20)、仁田忠俊(20)、仁田忠常(13)、狩野茂光の甥の鮫島宗家(34)、鮫島宣親(28)らも狩野茂光に従軍しました。また8月21日には工藤一族の工藤景光(67)、工藤行光(40)も甲斐国から救援に駆けつけています。8月17日山木襲撃事件の主な顔ぶれ(狩野工藤党)狩野茂光(70)狩野親光(50) 狩野茂光の子加藤景員(50) 狩野茂光の娘婿加藤光員(30) 加藤景員の子加藤景廉(24) 加藤景員の子天野遠景(39) 狩野茂光の娘婿天野政景(19) 天野遠景の子天野光家(37) 天野遠景の弟堀親家(20) 堀宗俊の次男堀助政田代信綱(25) 狩野茂光の孫仁田忠俊(20)仁田忠常(13)鮫島宗家(34) 工藤家光の子(狩野茂光の甥)鮫島宣親(28) 工藤家光の子(狩野茂光の甥)宇佐美祐茂(28) 工藤祐経の弟伊豆国の目代たち伊豆国には国主源頼政、伊豆守源仲綱の時代に、伊豆国目代として源仲綱の次男源有綱がいたとされています。治承4年(1180年)5月に以仁王(29)のクーデーターに加担した源頼政(76)と源仲綱(54)は討死してしまい、伊豆国に残っていた源有綱(25)追捕の命令が平清盛(62)によって下されました。すると源有綱は流人の源頼朝(33)を頼ります。源頼朝は源有綱を匿いました。治承4年(1180年)6月29日に伊豆国の国主は平時忠(50)が就任し、伊豆守に平時忠の養子平時兼(12)が決まりました。かつて平時忠の側近で流人として伊豆国山木郷に配流されていた平兼隆が許されて伊豆国目代に就任し、伊豆国山木郷で平兼隆の監視役であった堤信遠が後見人となりました。堤信遠は伊豆国田方郡の豪族であり、北條氏と所領争いをしていたといわれていますが、一説によると堤信遠は伊豆国の豪族ではなく豊後国日田郡出身の貴族で、平兼隆の一族ともいわれています。平兼隆は伊勢国鈴鹿郡関の出身で、関兼隆とも記されます。祖父平盛兼も父平信兼、そして平兼隆も検非違使少尉(判官)など歴任していましたが、治承3年(1179年)に不祥事を父平信兼に告発され伊豆国に流罪となっていました。平兼隆は伊豆国目代に就任してわずか1か月ほどで源頼朝配下の加藤景廉(24)に討たれました。他にも伊豆国目代として平兼隆の縁戚中原知親が蒲屋御厨で執務を行っていましたが、挙兵した源頼朝によって職務権限を止められ京都へ帰っています。伊豆国の他の豪族たち伊豆国で源頼朝が挙兵した治承4年(1180年)に、狩野工藤党以外で名のある豪族は、北條時政(42)を筆頭とする桓武平氏がいます。北條時政(42)には北條宗時、江間義時(17)、北條時定らが源頼朝に与して戦いました。また、同じく桓武平氏の大見氏も源頼朝に与して戦っています。大見家秀(55)、大見政光(42)、大見実政(40)です。大見実政の娘は後に源頼朝の乳母寒河尼の弟八田知家の子八田宗基に嫁いでいます。他には、那古谷頼時(橘次郎)、澤宗家、源有綱の配下近藤国澄の子近藤国平、鎌田正清の子新藤俊長らが源頼朝に与して戦いました。8月17日山木襲撃事件の主な顔ぶれ(狩野工藤党以外)北條時政(42) 源頼朝の舅北條宗時(22) 北條時政の子江間義時(17) 北條時政の子北條時定(35) 北條時政の弟北條時綱(15) 北條時定の子大見家秀(55) 大見家信の子大見政光(42) 大見祐光の子大見実政(40) 大見祐光の子那古谷頼時澤宗家近藤国平 源有綱配下新藤俊長(25) 鎌田正清の子狩野茂光伊豆国最大派閥の狩野工藤党の棟梁。一族の加藤・天野・堀・田代・仁田・鮫島など諸氏を統率する。かつて保元の乱(1156年)で伊豆大島に配流された源為朝の監視役となり、嘉応2年(1170年)に謀反を起こした源為朝を討伐している。平家の後ろ盾で台頭した伊東工藤党との確執から治承4年(1180年)に源頼朝を擁立して挙兵し伊豆国の掌握を謀るが敗れ、孫の田代信綱に介錯させて自害した。伊東祐親伊豆国久須美荘を本拠とする工藤(藤原)一族。伊勢の藤原を称する伊藤氏とは同族であるが、伊東は伊豆の東という意味の地名であり、伊藤は名字ではないが伊東は名字である点が異なる。父伊東祐家が早世したとき祖父工藤家継から伊東祐親は河津荘を与えられ、叔父工藤祐継に伊東荘が与えられた。父伊東祐家から継承するはずだった総領の地位や伊東荘が叔父に奪われたことに不満を持ち、叔父工藤祐継死後にその子工藤祐経に家督が譲られると、工藤祐経が上京して不在の間(1172~1174年)に伊東荘を奪い、工藤祐経に嫁がせていた娘万刧を離縁させ、土肥実平の子早川遠平に嫁がせてしまった。このことが原因で長男河津祐泰は安元2年(1176年)に工藤祐経に射殺され、後に曽我兄弟の仇討の原因となる。北條時政、三浦義澄、早川遠平など周辺豪族を娘婿に取り入れことで伊豆国での一大勢力を誇った。平清盛からの信頼を得て平治の乱に敗れ伊豆国に配流された源頼朝の監視を任される。河津祐泰伊東祐親の長男。かつて伊豆国目代だった源仲成に嫁いでいた狩野親光の娘(満江)を娶り、曽我祐成、曽我時致、伊東実英(律師)の3人の子どもが生まれている。河津祐泰は安元2年(1176年)に叔父工藤祐経によって殺害された。妻満江は伊東祐親のすすめにより曽我祐信と三度目の結婚をし、正治元年(1199年)に没した。曽我兄弟は満江の連れ子として養父曽我祐信に育てられたが、伊東実英(律師)は伊東祐清とその妻(比企尼の三女)が育てている。なお、満江には源仲成との間に生まれた源信俊(原小次郎)と娘(二宮朝忠室)がいたが、源信俊は建久4年(1193年)の曽我兄弟の仇討ちのときに連座して処刑された。伊東実英(律師)は同じく連座して鎌倉の甘縄で自害している。伊東祐清伊東祐親の次男。河津祐泰の弟。源頼朝の乳母比企尼の三女を妻とし、安元元年(1175年)に伊東祐親が源頼朝を殺害しようとしたときには伊東祐清が源頼朝の逃亡を手助けした。治承4年(1180年)に源頼朝が北條時政と挙兵するとその後は一貫して平家方として戦うが敗れ、10月に捕らえられると養和2年(1182年)に父伊東祐親とともに自害した。一方でその後も平家方として戦いつづけ寿永2年(1183年)の篠原合戦で討死するまで生きていたとする説もある。堤信遠伊豆国の豪族で武勇に優れた剛勇として名高い(豊後国日田郡有田郷堤の出身ともされる)。伊豆国に配流された平兼隆の監視役であったが、治承4年(1180年)7月以降に平兼隆が目代となると後見人となる。田方郡での所領や覇権争いで北條時政と対立しており、源頼朝を擁立して挙兵した北條時政に攻められ、佐々木四兄弟と死闘の末に討死した。中原知親多くの武官・文官を歴任した博識高い貴族。平兼隆の縁戚として伊豆国目代として下向し、蒲屋御厨(下田)で執務を行っていたが、治承4年(1180年)に突如として挙兵した源頼朝に攻められ目代(代官)としての職務を失い、京都へ戻った。顔が長かったことから面長進士と称されたとも言われている。源頼政平治の乱で源義朝方から平清盛方へ鞍替えし、平家政権下で平清盛に仕え伊豆国主となり、子の源仲綱は伊豆守となっていた。治承4年(1180年)5月に以仁王の挙兵に呼応し平家打倒を掲げて戦ったが討死。享年77歳。源頼政と源仲綱の戦死によって伊豆国主と伊豆守が空席となり、平清盛の義弟平時忠と養子平時兼が選ばれ、伊豆国に平家の勢力がさらに拡大。目代にはかつての平時忠の側近で、罪人として伊豆国に配流されていた平兼隆が選ばれている。源仲綱の子源有綱は当然追捕されることとなるが、源頼朝を頼ると源頼朝は源有綱を匿っている。源頼政が以仁王のクーデターに加担したことをきっかけに源頼朝のいる伊豆国は風雲急を告げることとなる。源有綱源仲綱の次男。治承4年(1180年)5月、祖父源頼政、父源仲綱、兄源宗綱は以仁王を擁して挙兵(クーデター)を起こしたものの敗死。源有綱と弟源成綱らは祖父の知行国の伊豆国に滞在していたため難を逃れたものの、6月には祖父の知行国伊豆国主は平時忠がなり、伊豆守は平時兼が任命され(目代は平兼隆)、伊豆国において源有綱は危険因子とみなされ平清盛により追討の命が下されると、配流の身であった源頼朝を頼る。源頼朝に匿われた源有綱はその後、父祖の仇敵である平家討滅のため挙兵の麾下に加わる。源有綱は源義経の部将として行動しており、源頼朝と源義経が対立した後も源義経一行に加わっており、文治2年(1186年)、源頼朝の追手(北條時定)によって捕えられ自害した。文覚本名は遠藤盛遠。摂津国出身。父は左近将監遠藤茂遠。19歳で出家し文覚と称した。空海を崇敬しその旧跡である神護寺に仁安3年(1168年)から住みはじめ、承安3年(1173年)に神護寺再興を後白河天皇に強訴したため伊豆国に配流される。文覚は伊豆国近藤国高に預けられ奈古屋寺に居住。同じく伊豆国蛭島に配流されていた源頼朝と知遇を得たといわれ、『愚管抄』には文覚と源頼朝は40年間朝夕慣れ親しんだ仲であると記している。治承3年(1179年)に平清盛が後白河法皇を幽閉したことを憤り、源頼朝に挙兵を促している。後に源頼朝や後白河法皇の庇護を得て神護寺を再興し、その他各地の寺院を勧請するなど活躍した。『平家物語』では源頼朝の挙兵に大きく影響を与えたり、外交交渉を行っている姿が描かれており、『玉葉』では源頼朝が文覚を木曽義仲に遣わしている。『源平盛衰記』では出家の原因として渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまった創作話が描かれている。藤原邦通治承4年(1180年)8月に小野田盛長の推挙により源頼朝に仕えて、初期の源頼朝を支えた右筆。有職故実に通じ、文筆に長じ、絵や占いその他百般の才能があったとされ、平兼隆の屋敷に潜入して見取り図を書いて源頼朝の勝利に貢献したという伝説が残る。中原広元に並ぶ文官として厚い信頼を得た。

  • 30Jan
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      大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第4回感想

      2022年1月30日(日)に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第4回の感想です。完全ネタバレなので、ご注意ください。NHK出版ガイドブックなどを補足で参考にいたします。なお、キャストの順番は以下の通り。第4回北條義時(小栗旬)、八重(新垣結衣)、北條政子(小池栄子)、北條宗時(片岡愛之助)、実衣(宮澤エマ)、安達盛長(野添義弘)、伊東祐清(竹財輝之助)、仁田忠常(高岸宏行)、江間次郎(芹澤興人)、工藤茂光(米本学仁)、三浦義村(山本耕史)、和田義盛(横田栄司)、土肥実平(阿南健治)、三浦義澄(佐藤B作)、首藤経俊(山口馬木也)、岡崎義実(たかお鷹)、佐々木秀義(康すおん)、堤信遠(吉見一豊)、山木兼隆(木原勝利)、佐々木定綱(木全隆浩)、佐々木経高(江澤大樹)、佐々木盛綱(増田和也)、佐々木高綱(見寺剛)、くま(田中なずな)、大姫(難波ありさ)、大庭景親(國村隼)、伊東祐親(浅野和之)、北條時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)、源頼朝(大泉洋)、後白河法皇(西田敏行)の順です。第1回と第2回は安元元年(1175年)、第3回はその5年後の治承4年(1180年)の5月から6月にかけてのことでした。第4回は主に治承4年(1180年)8月16日と8月17日が描かれています。治承4年(1180年)当時の登場人物の年齢を再確認しておきましょう。 北條時政 保延4年(1138年)生 42歳 北條政子 保元2年(1157年)生 23歳 北條宗時 不明 21歳ぐらい? 北條義時 長寛元年(1163年)生 17歳 源頼朝 久安3年(1147年)生 33歳 小野田盛長 保延元年(1135年) 45歳 三浦義澄 大治2年(1127年) 53歳 三浦義村 仁安3年(1168年) 12歳 伊東祐親 元永2年(1119年) 61歳 和田義盛 久安3年(1147年)生 33歳 大姫 治承2年(1178年)生 2歳 平清盛 永久6年(1118年)生 62歳 大庭景親 保延6年(1140年)生 40歳 土肥実平 天永元年(1110年) 70歳 岡崎義実 天永3年(1112年) 68歳 佐々木秀義 天永3年(1112年) 68歳 名字(苗字)には「の」が入るのは当然『日本人のおなまえ』という番組で、名字(苗字)と名の間に「の」を入れない方が正しいという話がありました。そして時代考証を否定するような発言がありましたが、当時の史料や文献を読めば人名に「ノ」とカナがふってあります。名字も苗字も漢字の意味のまま、字(土地)の名、あるいは苗(耕す)字(土地)という意味ですから、武士たちが「どこの誰だ」と名乗っていたことによります。墾田永年私財法が制定されて以降、豪族たちは土地を開拓し拡大させ、より豊かな土地を目指してきました。縄張りを持っていれば必ず避けて通れないのが争いです。桓武天皇が律令の軍隊を解散したこともあいまって、武士たちは自らの土地を守るために武装してきました。多くの下人たちを従えて土地を守り、あるいは攻めとるのです。「どこの誰か」は土地を持つ者だけに許されたステータスであり、アイデンティティなのです。土地をめぐって親兄弟と争い殺しあう日本人は血筋より土地が大事、一所懸命、それが現代の名字(苗字)につながっているのです。鎌倉智士は今回、時代考証で「の」が入っていることにとても感動した1人です。 まずは占いの描写からはじまりました。第3回でもナレーションがあったように当時の人々は夢のお告げや占いなどを信じ、信心深く迷信深く何事も神仏の思し召しとすがって生きている傾向にあるため、逆に言えば、りく(宮沢りえ)が「日が悪いと挙兵を取りやめると言い出しかねない」と言うように大きく左右されやすいため、りくの細工によって御籤(みくじ)は全て17日と記されていました。ということで挙兵は8月17日と決まります。和田義盛(横田栄司)が「三島明神の祭りの日だ(日が悪い)」というと三浦義村(山本耕史)が「敵の守りが手薄になって都合がいい」と言います。確かにこの話は史実ではありますが、冷静に考えると非常に矛盾があるように思います。そもそも古くから祭は政と密接なつながりがあり、同義ととらえることができるほどです。周辺の豪族たちの長が一堂に集まる政の場であり、よって家人やら下人たちは駆り出されるというわけです。でなければ伊豆国目代やら後見人やらがわざわざ祭に参ずる意味がありません。ということは、当然のことながら北條氏も含めた周辺豪族も家人や下人をしっかり手伝いに出した上で、しっかりと貢物を持って参列しなければならない立場です。例え伊豆国目代が都合が悪くて(落馬して足をケガするなんて都合のいいことが起きまして)参じることができなかったとしても、その後見人がしっかりと祭(政)の場にいなければならないし、後見人に周辺豪族はお伺いを立てにいそいそとやって来るわけです。祭ということの本質や、こういった機会に村々の長たちが集まって様々な取り決めやらを話し合う場(政の場)だと思うのです。敵が手薄なら本来自分たちだって手薄なはずです。なお、この企てに参画しているのは、源頼朝(大泉洋)、北條時政(坂東彌十郎)、北條宗時(片岡愛之助)、北條義時(小栗旬)、三浦義澄(佐藤B作)、和田義盛、三浦義村、小野田盛長(野添義弘)です。この話し合いの場でもう1つ不可解なことがあります。後に源頼朝が「初戦が大事だと言ったのは誰だ!」や第3回で三浦義村が「初戦に兵をどれだけ集められるかしだいだ」と言っているように、とにかく初戦に勝たなければ全ては終わりです。ところが、三浦義澄のみが8月17日に伊豆国北條に集結するという話になっていないのです。三浦より遠いところから馳せ参じる佐々木四兄弟がまだ来ないまだ来ないと焦っている描写はありますが、初戦に三浦は来なくていいの?実はこれ、そもそも辻褄が合わないからこういう設定になっているのです。なぜ三浦義澄が8月22日に挙兵したのかは後ほど鎌倉智士の考察を解説いたします。なお、第3回では平兼隆(木原勝利)という名で登場していて、今回の時代考証は素晴らしいと解説していたのですが、なぜか第4回では山木兼隆という呼ばれ方に統一されてしまいました。むむむ…なぜだ?源頼朝が「蛭が島頼朝」と呼ばれるようなものです。 さて、つづいて、北條義時が「平家方に与したらどうなるか見せしめに堤信遠も討ちましょう」と言います。第2回と第3回でたっぷりといじめられているので、北條時政もその話ににっこりご満悦です。しかしながら、北條氏にとってこの挙兵がどういう意味を持つのかをしっかりと考えておく必要があります。北條義時は八重(新垣結衣)に対して「このままでは飢饉で飢え死にする者が出てくる!」ともっともらしい大義名分を言っていますが、平家政権が終われば朝廷への年貢が軽くなるなんて話にはなりません。なぜ源頼朝挙兵の傘下に三浦氏が加わったのか、土肥氏が加わったのか、千葉氏や上総氏が加わったのか、全ては領地争いで利があると思っていたからであって、全ては自分たちの領地を広げるための自己都合にすぎないのです。堤信遠(吉見一豊)は伊豆国目代の後見人です。後見人は地元の人間が行い、目代と庶民との間を調整する役割でもあります。流罪で配流されてきた罪人の平兼隆を後見しているのが堤信遠であれば、同じ罪人の源頼朝を後見しているのは北條時政です。同じ伊豆国田方郡に領地を持つ堤氏と北條氏の覇権争いや領地争いが今回の北條氏の挙兵の根本的理由であることは踏まえておきたいところです。三浦義村が「いやにやる気じゃないか」と言っていますが、「バカ言え、それ以外にオレたちに何の動機があるっていうんだ」というのが本音です。なお、年寄扱いしていますが、北條時政は42歳、三浦義澄は53歳です。53歳はまだまだ現役バリバリなのですが、この後、もっと年寄りが出てくるのでその伏線としてわざわざ50代も強調して年寄扱いしてみせていると思われます。それと「佐殿は総大将なのでここでドーンと構えて待っていてください」と北條宗時が言っていますが、総大将だからこそ陣頭指揮をしなければ本来士気は十分には上がらないと考えられます。ま、三谷幸喜さんは99%史実だとのことなので、これも何かしらの史料からなのでしょうが…うーむ。鎌倉一族の名誉にかけて、これだけは言わせてください。鎌倉は源義朝の本拠地ではない!坂東各地から兵を集めて拠点をつくる話になり、源頼朝の父源義朝が本拠地とした鎌倉が相応しいという話になりますが、鎌倉は源氏にほぼゆかりがありません。もちろん平忠常の乱の鎮圧に功があった源頼信・源頼義父子は坂東に進出してきましたが、平直方の娘婿である源頼義が譲られた鎌倉は荘園であって、平直方は京都から平忠常の乱の鎮圧のために進軍してきた貴族であり(鎮圧に失敗して京都へ帰ります)、実は鎌倉に住んだこともなければ足を踏み入れたことさえないかもしれません。源頼義にしても、旗立山の伝説や由比八幡宮建立の話がありますが、おそらく実際には鎌倉には来ていないものと考えられます。後に源義家にも荘園の寄進があったため鎌倉には源氏山や甘縄で誕生伝説など源義家の伝説もいくつも残っていますが、やはり同じく、実際には源義家も鎌倉に足を踏み入れたことはないでしょう。源義家は朝廷から荘園の寄進を禁じられるほど全国から多くの荘園の寄進を受けており、鎌倉だけでなく同じような伝説が日本全国にあります。荘園とはそんなものなのです。一時は力を持っていた源氏に全国の武士がこぞって田畠寄進をしたように鎌倉氏も寄進したわけですが、その後源氏の衰退によって源氏の土地という名分では土地を守り切ることができず、鎌倉氏が次に寄進先に選んだのは伊勢神宮でした。よって鎌倉周辺には伊勢神宮の分社である御霊神社と神明社が多く建立されていきます。当然、源義朝が鎌倉に本拠を構えた形跡も全くありません。源義朝が「鎌倉の盾は先祖から伝得した」と主張していますが、その道理はもはや通用していなかったのです。源義朝が鎌倉に現れたのは三浦義明の娘を側室にして、当時は鎌倉氏と三浦氏は相模国をめぐって領地争いが絶えず、三浦氏は源義朝を担ぎ上げて天養元年(1144年)に鎌倉の領地である大庭御厨(伊勢神宮の寄進地)へ攻め込みました。源義朝は翌年の天養2年(1145年)にも三浦氏と縁戚関係にある上総氏とともに千葉氏の領地である相馬御厨に攻め込んでもいます。つまり、鎌倉氏や千葉氏からしたら源義朝は単に侵略者でしかないのです。結局朝廷による官宣旨を受けて源義朝は鎌倉からは引き下がりますが、源義朝は上総御曹司の異名を持つほど房総半島で勢力を拡げていました。一時的に朝廷による調停がなされた鎌倉氏と三浦氏ではありますが、ここで鎌倉景継の子である長江義景が三浦義明の娘婿となり、三浦義明の子である杉本義宗が鎌倉景継の娘婿となることで決着しました。相模国鎌倉郡沼浜郷で鎌倉悪源太と称される源義平が生まれ育つわけですが、沼浜郷は鎌倉郡と三浦郡の境界線で、三浦氏にとっての鎌倉侵攻の足掛かりとする最前線の拠点となります。源義朝を前面に出して(担ぎ上げて)三浦氏が鎌倉へ侵攻しようとしていた様子をうかがい知ることができます。保元の乱では鎌倉党は源義朝に与して戦っていたことから、永井路子さんは鎌倉党は源義朝の家人になったと解釈していましたが、源義朝に与したのは朝命(天皇の命令)によるものであって源氏の家人になったからではありませんでした。三浦氏にとってみても鎌倉を攻め滅ぼすために用心棒を立てたのに、敵がその用心棒の家来になってしまったなんて全く得がありませんよね。源義朝にとっても天皇に背てまで好き勝手にはできなかったので、それ以上三浦に加担して鎌倉を攻めるわけにはいかなかったのです。 りくの細工によって御籤(みくじ)は全て17日と記されていたことで挙兵は8月17日と決まったわけですが、これまで北條政子(小池栄子)と八重との対比、北條政子とりくとの対比が非常によく描かれていると思います。史実では、源頼朝挙兵の主犯格は北條時政と比企遠宗、つまり舅と乳父です。ところが『鎌倉殿の13人』では一貫して主犯は北條宗時であって、北條時政は蚊帳の外でした。さらに後家である比企尼も「源氏をお支えしましょう」に留まっており主犯的な扱いにはなっていません。そこにはいかにりくの野心の高い性格を強調させたいかが表れているように思います。北條時政は流されやすくて利用されやすい自分の意志に欠けており、りくによって操られている描写が随所に描かれているように思うのです。心配で気が気でなく神仏に祈っている北條政子に対して「神仏に祈っても意味がない」とありますが、戦に出る夫への心配をしていないとも受け取れます。むしろ戦に出て戦功を上げるよう促しています。りくの雅な服装と北條政子の地味な服装との見た目の対比だけでなく、性格的な対比も非常に面白いです。「戦は男がするもの」というりくの言葉はむしろ策をめぐらし敢えてけしかけて「戦は男にさせるもの」とも受け取れるわけです。これは第5回に北條政子が「女の戦」というセリフがありますが、今後の対比が益々楽しみです。※ガイドブックにはりくは不安を和らげるために先のことを考えようと助言したとなっています。8月16日、挙兵の前日になって集まった兵は、北條9名、仁田4名、加藤5名、合わせて18名とのことです。おいおい!第3回でどこの誰か存じないドクロを持って「三郎、すぐに兵を集めろ」と源頼朝が命じてからもう2か月は経ちますよ。後白河法皇(西田敏行)の密旨だと誰も信じてくれないということなのですが、北條宗時が「以仁王が生きて伊豆国に来ていると流言しましょう」と言いますが、後白河法皇の密旨を信じないのに以仁王(木村昴)生存説を信じる人なんていないでしょう。源頼朝が「そのような小細工で兵は集まるのか」としっかりと突っ込んでいます。そりゃ源頼朝が怒って当然だと思います。だって前日ですよ。この2か月いったい何をしていたのですか。そして仁田忠常(高岸宏行)は北條で何をやっているのでしょうか。というか誰もかれも北條に集まりすぎです。もうこんなに北條に集まってきていたらこの時点で周辺から不自然極まりない、バレバレですよ。ただ、北條宗時の「出方をうかがっているのだ、流れができれば何とかなる」は事実で、後に甲斐国の武田信義(八嶋智人)や安田義定ら甲斐源氏がその流れをつくることになります。 北條宗時は「天野、宇佐美のところへ行ってくる」ということで、天野も宇佐美も工藤党です。源頼朝挙兵時(初期)の顔ぶれは以下の通りです。鎌倉智士調べなので、他にももっといるかもしれません。ちょっと1人読解不能な人もいるのですが、北條義時の名簿には以下のような人たちが記されていることでしょう。[比企党]小野田盛長[鎌倉党]懐島景義、懐島景兼、懐島景連、豊田景俊、豊田景次[工藤党]狩野茂光、狩野親光、加藤景員、加藤光員、加藤景廉、宇佐美祐茂、天野遠景、天野政景、天野光家、堀親家、堀助政、田代信綱、仁田忠俊、仁田忠常、鮫島宗家、鮫島宣親、[中村党]土肥実平、早川遠平、新開実重、土屋宗遠、土屋義清、土屋忠光、岡崎義実、真田義忠、中村景平、中村盛平[北條党]北條時政、北條宗時、江間義時、北條時定、大見政光、大見実政、大見実秀[三浦党]平佐古為重、[橘党]那古谷頼時[佐々木党]佐々木定綱、佐々木経隆、佐々木盛綱、佐々木高綱[横山党]義勝房成尋(中條成尋)[その他]中原維茂、中原維平、中原光家、澤宗家、新藤俊長(鎌田正清の子)、源有綱(源仲綱の子)、近藤国平など 北條政子が突然「佐殿と八重の間に何かあったら、何するか分からない」と言うシーン。「そう言われても…」と北條義時しっかりと突っ込みを入れますが、後ほど八重との会話で「佐殿がそう言ったのですか?」と未だに会っているのか?という源頼朝不倫疑惑につなげつつ、実はこのころすでに亀の前(江口のりこ)にも会ってるんだよね~という裏話も含みつつ、亀の前の館襲撃事件への伏線でもあります。後に源頼朝が「八重と人の目を忍んで会っていた」と語っているのですが、北條政子が大姫(難波ありさ)を妊娠していたときには同じように人目を忍んで亀の前と遊んでいたということです。この辺りの伊豆国流人時代の亀の前との描写はタッキーの『義経』のときにしっかりと描かれていました、それにしても八重がず~っと立って見てる様子や「佐殿は不幸で、政子ともうまくいっていないのでしょう、可哀そう」というセリフに対して北條義時が全否定していますが、未練とかって類ではなく、完全なストーカーですね…怖っ。 八重伯母さんと甥っ子北條義時、この距離感、好きですね~。ところで、八重は貴族ではないので、鬢批(びんそぎ)があるのがとても気になりますが、これは既婚や婚約を意味します。つけ毛感半端ないですが…。あ、ちなみに北條政子も鬢批が見られます。第1回ではなかったのですが第3回以降は鬢批が見られるので、北條政子も既婚したことと、源頼朝の妻としてやや貴族化していった描写なのかと思われます。 次のシーンではもうすぐに脱いでしまうのですが、どうしてもこのシーンが必要なのでしょう。兜をかぶるシーンはこれだけなので。北條義時が冷めた目で「早すぎませんか」ときれいにツッコミ入れています。りくの服装が雅すぎるので、はっきり言って田舎者の北條時政ではつり合いが取れません。こんな田舎に嫁いでくるようなことはあまり考えにくいですよね。ただここは、りくが「立派な大鎧を都から取り寄せましょう」と言っているので、今後北條時政がりくによって姿かたちが次第に立派になってつり合っていく変化を楽しみたいですね。ところで、大鎧についてですが、まず兜と鎧が別物です。絵韋も異なりますし。ただ別物であるだけならまだ敵から剝ぎ取って自分の物にしたからなどの理由は考えられるのですが、鎧の方は南北朝時代のものです。菱縫が赤韋ではなく赤絲ですし、大袖は七段もありますし、絵韋は南北朝期以降の藻獅子ですし、笄金物など平安時代にはまだないものばかりです。仕方ないことなのですが…。 大姫かわいいですね~!歴史サロンでご参加いただいた友人から瓶子について、常滑焼だと教えていただきました。滑床焼ではないよとのことです。ただ常滑焼もまだこの時代には田舎にはないはず…とのことでした。  またまた「どこでもドア」登場です。北條義時が突然、相模国土肥郷へ行ってしまいます。さっきまで歩いてたのに、どうやって突然???で、しかも次の瞬間には今度は伊豆国田方郡北條へ土肥実平(阿南健治)とともに帰ってきてるし…。北條から土肥までは山を越えて行かなければならないのですが、直線距離でも40kmほどあります。馬でも普通に日帰りできない距離なんですよ。※ガイドブックでは伊豆国に土肥実平は来ていたことになっています。これは第2回と第3回に北條義時にも用いていた「お前だけに伝える」「兄にも内緒だぞ」「お前だけが頼りだ」という伏線の回収、真実の密事です。源頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らに同じことを行っています。なお、土肥実平は、北條義時の祖父伊東祐親の妻、つまり北條義時の祖母の兄です。よって、北條義時のおばあちゃんの兄貴です。ちなみに、源頼朝の乳母が中村党から出ており、源頼朝の乳母の一族でもあります。岡崎義実(たかお鷹)は三浦義明の弟、三浦義澄の叔父であり、土肥実平の義弟でもあります。伊東祐親、土肥実平、岡崎義実が義兄弟ということになります。このとき伊東祐親は62歳、土肥実平は70歳、岡崎義実は68歳です。「わしは源氏の棟梁だぞ、坂東の田舎者なぞに頭など下げられるか」と怒る源頼朝ですが、あくまで源義朝の系統であって、清和源氏のなかの一派にすぎず、源氏の棟梁というわけではないのですよね。いずれにしてもプライドは捨てず、口八丁でうまく懐柔するところがさすが源頼朝です。なお、岡崎義実だけ「平四郎」と呼ばれていたのは、おそらく北條時政が四郎、北條義時が小四郎と使い分けているからでしょう。次郎と呼ばれていますが土肥実平だって本来なら平次郎です。北條時政も北條義時も平四郎です。後に出てくる佐々木秀義は源三郎です。 小野田盛長(野添義弘)が首藤経俊(山口馬木也)に会いに行き源頼朝の挙兵に加わるよう話しますが、首藤経俊は悪口雑言を吐いて小野田盛長を追い返します。原文では「佐殿が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫を獲るようなものだ」と嘲笑したとされますが、『鎌倉殿の13人』では「鼠が虎を獲り、富士山に犬の糞が挑むようなもの、犬の糞にたかるハエにはなりたくない」という感じでアレンジされています。猫を虎にしたのは、虎年だからかなやっぱり。なお、このやりとりは、8月16日ではなく、7月10日のことです。第3回同様、時系列がバラバラになっています。 佐々木秀義(康すおん)が現れます。源頼朝の祖父源為義の娘婿と紹介されます。つまり源頼朝の叔母の夫にあたります。このとき68歳。なので伊東祐親62歳、土肥実平70歳、岡崎義実68歳と同年代です。にしてはなぜか年寄すぎな気が…。なお「大庭に呼ばれて佐殿の謀反…」というセリフがかすかに聞き取れましたが、実は佐々木秀義は8月9日に大庭景親の屋敷に招集され、「伊藤忠清から聞いた話だが、北條時政と比企遠宗(すでに亡くなっている)が謀反を起こそうと企てていることが京にバレている、そなたとは義兄弟の間柄だから話す、そなたの息子たちは佐殿に与するものと思うから、しっかりと準備をさせるように」と告げられています。佐々木秀義はすぐに佐々木定綱(木全隆浩)を源頼朝のもとへ送りました。一説によればこれが源頼朝の挙兵準備を急がせたとされているエピソードです。要するに、大庭景親が敵に塩を送ったということになります。これが、大庭景親が関兼隆(平兼隆)を見殺しにしたという説の根拠となっています。いわゆる佐々木四兄弟は、源頼朝にとっては従兄弟にあたります。源頼朝が頼みにしている理由もうなずけます。なお、『鎌倉殿の13人』では異なりますが、8月10日に伊豆国へ急行した佐々木定綱(木全隆浩)は8月13日にいったん居候先の渋谷重国のもとに帰り、再度戦の準備をしてから伊豆国へ戻ると言って出て行ったとされています。そこで源頼朝が平家方の渋谷重国に話が漏れてしまうのではないかと心配して挙兵をやめようと言い出した話があります。なお、佐々木秀義は渋谷重国の娘との間に生まれた佐々木義清を大庭景親の娘婿にしており、石橋山合戦では佐々木義清とともに平家方に与して戦っています。なので『鎌倉殿の13人』では源頼朝のもとへ直接自ら行っていますが、本来は源頼朝の陣営にはいなかったはずです。※諸説あり「工藤介茂光~!」と訳もなく大声で自分の名前を言っているこの人は、工藤茂光(米本学仁)です。ドラマ上では「もちみつ」と言っていました。一般的には狩野茂光(かののしげみつ)といわれ、伊豆国最大のマフィア(ヤクザなら工藤組)のボスで、当時70歳ぐらいです。狩野の工藤党は、狩野氏を筆頭に加藤氏、天野氏、堀氏、田代氏、仁田氏、鮫島氏、宇佐美氏などを束ねる伊豆国の大豪族です。伊豆国で源頼朝の挙兵を北條氏以上に支えたのはこの狩野工藤党になります。当然、狩野工藤党にとって目の敵は同じ一族である伊東工藤党です。伊豆国における領地や覇権争いで、伊東祐親率いる平家方の伊東工藤党と抗争してきたのが狩野工藤党なのです。 予想通りに『ステキな金縛り』のように上に乗ってくれていました。やっぱりそう来ましたね!前回もお話ししましたが、平清盛(松平健)が全く源頼朝のことを覚えていないのに、どうして後白河法皇が覚えているのか、ちょっとありえない気がしますが…まあ夢ですからね。でも毎晩ってのはすごい。 忘れ去られた長男河津祐泰皆さん、覚えていますでしょうか。第1回と第2回にはいた、伊東祐親の長男河津祐泰を…。第2回から5年後の第3回にはもういません。なぜならその間に死んでいるからです。しかも伊東祐親の従弟の工藤祐経に殺されてしまったのです。なのになぜこの伊東ファミリーは平然と暮らせているのか…まるで最初からいなかったように。安元2年(1176年)に河津祐泰が殺されてしまった話は、「源頼朝を励ます会」という狩りの集まりで、河津祐泰が相撲(すまい)で河津がけという技を編み出すのですが、その相手が天下無双の相撲人(すまいびと)である俣野景久です。大庭景親の弟です。鎌倉智士的にはこのお話があれば、大庭景親の兄の懐島景義や弟の俣野景久が出てきてくれるのではと期待していたのですが、ばっさりと省略されてしまっていました。残念すぎます。俣野景久は石橋山合戦では岡崎義実の子真田義忠と戦い、従弟の長尾為景・長尾定景兄弟たちとともに真田義忠を討っています。懐島景義は当初から源頼朝挙兵に与し、戦後は鶴岡八幡宮、若宮大路、段葛、大蔵御所などの建造奉行を行い、奥州合戦(1189年)の際には源頼朝に助言を行ったことで有名です。また『鎌倉殿の13人』では上総広常(佐藤浩市)が首を刎ねますが、本来は兄懐島景義が弟大庭景親の首を刎ねます。河津祐泰の死は今後、第17回の伏線をはじめ、曽我兄弟の仇討ちへ発展していく事件だったので、いろいろな意味で描かれなくて本当に残念です。8月17日、挙兵当日…伯父の伊東祐清(竹財輝之助)が甥っ子北條宗時に「これも定めだ」と言っていますが、甥っ子でかなり年下のくせに北條宗時ちょっと態度大きすぎですよね。って、伊東と北條はそんなにばったり会えるほど近くありませんって。市場で何が売ってるのかなあとすごい気になりました。 さて、大庭景親(國村隼)と伊東祐親(浅野和之)が源頼朝の挙兵の話をしています。本当はもうとっくに知ってます。そこへ首藤経俊が現れます。大庭景親は「正気の沙汰とは思えない」「兵を募るのに相当苦戦しているようで、これでは挙兵は難しいだろう」と言っていますが、このセリフを本来言っているのは東国侍別当の伊藤忠清です。伊藤忠清が大庭景親が在京中のときに言った言葉がまさに「源頼朝が謀反を起こそうなど、正気の沙汰とは思えない」でした。しかも、9月2日に大庭景親からの早馬が福原の平清盛のもとへ到着したとき、伊藤忠清は「相模国には大庭兄弟、武蔵国には畠山、伊豆国と駿河国合わせて4か国の武士たちが皆平家方として戦っているであろう」と悠長にしており、伊藤忠清の判断ミスが平家敗北の最大の要因のように思います。大庭景親自身も、謀反の動きを察知しておきながら伊藤忠清に黙っていたり、敵に塩を送るようなことをしたり、油断しすぎて致命的なミスをしてしまっていますので、このセリフを大庭景親に言わせるあたりは仕方ないのかなと思います。 8月18日はダメだ、という話は、観音信仰によるものですね。18日は観音様の縁日でもあります。 ちょっと番え方がやや下手な気がしますが、どうなんでしょうか…。北條義時が「これは何かの合図、山木兼隆が屋敷にいるという合図です!」って言葉通りには全く理解できなかったのですが、要するに人目を忍んで会っていたときの合図、今夜会いたい⇒今夜は会える⇒今夜は大丈夫⇒出陣して大丈夫って感じでしょうか。 北條時政、兜はどうしたのかな?北條時政が「蛭が島通りをこそっと行こう」の件は、史実ではありますが、三島明神の祭はもっと遠くで、山木の屋敷はもう目と鼻の先なのです。人目に触れてしまうという心配の声や実際に祭?の人々の往来がありますが、祭でにぎわうようなところは通るまでもなく山木には着いてしまうはずです。それとこれではっきりするのですが、源頼朝って、蛭が島じゃなくて北條にずっといますよね…。前述しましたが、佐々木秀義はいないはずです。それと、土肥実平は200騎を率いて後ほど合流するのでここにはいないはずです。 田舎者なのに、北條政子、髪の毛長すぎじゃありませんか?大河ドラマ『平清盛』のときの北條政子の方が田舎の女性って感じが出ていた気がします。ところで、源頼朝が「何もせんでいいと言ったはずだ」と言っていますが、北條政子結局何かしてました? 江澤大樹さんが佐々木経高役ってのは本当にすごいです。しっかりと考えられていましたね。本場もんですからね!江澤大樹さんの佐々木経高、期待通りでした!三浦義澄が8月22日に出兵した理由大庭景親の軍勢は8月23日の石橋山合戦の前に武蔵国の軍勢と合流しています。石橋山から直線距離で140kmの武蔵国熊谷郷の熊谷直実が合流していますが、馬で走っても4日はかかる距離です。数百人いますので当然馬に乗っていない徒歩の兵も多く、あるいは馬を引きて歩かなければならない場合もあります。武蔵国男衾郡畠山郷の畠山重忠(中川大志)は8月23日に金江河(平塚市花水川)に布陣しており、武蔵国入間郡の河越重頼や江戸重長らの名も8月26日の衣笠攻めで見られます。何が言いたいかというと、8月17日の夜に源頼朝が挙兵して山木へ攻め込んだことを早馬で武蔵国の各方面へ知らせに行ってから戦の準備をして相模国へ向かうのでは、8月23日に石橋山に間に合わないので辻褄が合わないのです。源頼朝の挙兵より先に、大庭景親軍は出兵していたのです。源頼朝が挙兵した8月17日の時点では、大庭軍は武蔵国の軍勢と合流し、西へ進軍していたのです。理由は第3回に大庭景親が「伊豆国にいる源頼政の残党の追捕を仰せつかった」と言っているように、命令によって必然的に伊豆国へ向かわなければならなかったのです。8月2日に京都から相模国へ帰ってきた大庭景親は武蔵国に号令をかけ、2週間ほど準備を行い伊豆国へ向けて出兵したと考えると遅いぐらいです。山木館襲撃事件の顔ぶれは、北條30騎、工藤50騎、源頼朝の配下数名合わせて90騎ほどで、実は工藤党ばかりです。中村党や三浦党、比企党の名も見られません。8月20日に相模国土肥郷に進出した源頼朝はようやく土肥実平200騎と合流しました。源頼朝軍は後手だったのです。そもそも、三浦軍が伊豆国へ向かうことはできません。鎌倉郡、高座郡、大住郡、餘綾郡の南部は鎌倉党の領土であり、三浦軍が敵の領地を突き進むだけの兵力はありません。石橋山合戦が起こった8月23日に三浦軍は酒匂川が氾濫して渡れなかったとされていますが、8月23日には畠山重忠軍が金江河に布陣しているのです。畠山重忠軍を無視して進めたとはとても思えません。さらに8月22日に出兵した場合、次の日に石橋山まで到着できる距離ではありません。また、8月24日に由比ガ浜・小坪坂で畠山重忠の軍勢と小競り合いになっていますので、大庭景親軍の出兵を知った三浦義澄は戦の準備を行い8月22日に出兵、鎌倉郡に入ったところで敵地を突破することはできず民家に火を放っていたところ、平塚方面から畠山重忠軍が押し寄せ、8月24日に由比ガ浜・小坪坂で合戦となり衣笠へ退き、8月26日衣笠で大庭軍に囲まれて落城した。と考えられます。要するに『鎌倉殿の13人』はどこでもドアがあるので問題ないかもしれませんが、8月17日の時点で大庭景親が大庭でのんびりしていたら、8月23日に武蔵国の軍勢と合流して石橋山に3,000騎で布陣することはできないのです。