物などに対する欲求に関しての、

仏陀の言葉を記載いたします。

 

最初の言葉は欲求意外にも当てはまる言葉ですが、

欲求の見解の参考にできるので、記載させていただきます。

 

自己の身体(の煩悩)を滅することが「安楽」であると

聖者たちは観る。

正しく見る聖者たちのこの考えは

世間の他の人々と正反対である。

 

他の人々が「安楽である」というものを

聖者たちは「苦しみである」と言う。

他の人々が「苦しみである」というものを

聖者たちは「安楽である」と言う。

真理は知り難いものであると見よ。

無知なる人々はここで迷うのである。

*スッタニパータ761・762

 

最初の、他の人々が安楽であると表現しているものは

快楽や欲を満たしている状態を指しています。

欲を満たしている間は安楽の状態ですが、

満たし終わると次の欲を求めて渇望(苦しみ)が生じるので、

欲を満たす→渇望で苦しむ→欲→渇望→欲→・・・・

というループが続くことを、

聖者は苦しみであると言う、と表現されています。

どこかでこのままだとループがずっと続くと考え

ここで十分だと、快楽・欲を必要な分だけに留めて抑えることで

苦しみのループから抜け出せると説明されています。

 

以前に、テーマ気づき内で

苦しみを正しく観察するという内容を記載させていただきました。

苦しみを観察して、

自分の中の苦しみの感情・感覚の発生~消滅過程と

自己の中の発生要因と解決策に気づくことによって

苦しみが解消に向かう(その苦しみに対して悟る)

とされています。

苦しみの解消後に、

あの時の苦しみがあったから、今の理解と成長があると

考えられるようになり、

あの時の苦しみに感謝するということもあると思います。

理解という安楽を得るために、苦しみがあったということになります。

聖者が考える苦しみは、

新しい理解と成長を得るための機会になるので

他の人々が嫌がる苦しみを

聖者は安楽であると言う、と表現されています。

(苦しみを気持ち良く感じるということではありません。)

 

所有欲などに関する言葉を記載いたします。

 

「これは自分のものだ」と執着して

慌てふためいている人々を見よ。

彼らの有様は、

ほとんど水の無い干上がりそうな流れの中にいる魚たちのようだ。

これを見たなら「自分のもの」という執着を起こすことなく

所有欲を離れて生きよ。

*スッタニパータ777

 

ああ短いかな人生よ。100歳に達せずして死ぬ。

たとえそれより長く生きても老衰のために死ぬ。

 

人々は「これは自分のものだ」と

執着したもののせいで悲しむ。

手に入れても、

それがそのままいつまでも続くことはないからである。

「この世のものは消滅していくものなのだ」と見て

在家生活にとどまってはならない。

 

人が「これは自分のものだ」と執着したものは

その人の死によって失われる。

私に従う者はこの真理を知って、

所有欲に屈してはならない。

 

目が覚めたとき、夢の中で会った人にもう会うことはできない。

それと同じく愛した人でも死んでこの世を去ったならば

再び会うことはできない。

(現世のこの世ではという意味だと思います。)

 

広く認知されるような名で呼ばれ、(有名)

かつては見られ、また聞かれた人でも

死んでしまえばただ名が残って伝えられるだけである。

 

「これは自分のものだ」として

執着したものを貪り求める人々は

憂いと悲しみと慳みとを捨てることがない。

それ故に聖者たちは所有を捨てていって安楽を見たのである。

(慳み=もの惜しみ・出し惜しみ・けちの意味)

*スッタニパータ804~809

 

言葉がハードに感じられるかもしれません。

例えば物質的に多く所有していても、

他者を救済するための事業を行うために、

多くの所有が必要なケースなどもあると思います。

誰かのためにいつでも手放せるなど

所有に対する気持ちなどの精神的な部分も含めて

上記の言葉のポイントになると思います。

 

手塚先生の漫画仏陀では、

必要最低限の所有・所得で堅実に働く父親と

お金をどんどん稼ぎたい息子の対比の物語が掲載されています。

(物語の内容はネタバレになってしまうので、

 控えさせていただきます。)

 

 

 

      仏陀が弟子に物語を語り始める場面です。

 

 

 

      上のセリフは分かり易くて良いなと思いました。