前回の続きです。
一般的な見解などと異なる点もあると感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが
ルドルフ・シュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。
※最初に、ルツィフェルとアーリマンの簡単な説明を過去記事から転用します
キリスト教の聖書での「サタン」がRシュタイナーの述べている「アーリマン」で、
同様に「ディアボロス」が「ルツィフェル」のことになります。
△手塚治虫先生の漫画ブッダ
仏教でも悪魔的存在の解説がされています。
古代インドの文献では「ナムチ」として悪魔が記されています。
▽霊的存在(ヒエラルキア)の位階
1 セラフィーム
2 ケルビーム
3 トローネ(意志霊)
4 キュリオテテス(主天使、叡智霊)
5 デュナミス(力天使、運動霊)
6 エクスシアイ(能天使、形態霊) ←エロヒム(キリスト)の位階
7 アルヒャイ(権天使、人格霊、時代霊)
8 アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊)
9 アンゲロイ、ディアニス(天使)
1~3を第一ヒエラルキアといい=東洋では五仏、ディヤーナ存在と呼ぶ
4~6を第二ヒエラルキア、7~9を第三ヒエラルキアという
10番目が現在地球で進化している「人間」になります。
現在、人間よりも高次位階の霊的存在も、
以前には、現在地球期の人間と同じように進化を辿っていた進化期がありました。
現在の地球進化期には私たち人間が進化を目指しています。
一つ前の宇宙進化期に進化していたのが「ディアニス(天使)」でした。
この進化期の正常な進化から取り残された存在が「ルツィフェル」になります。
ルツィフェルは現在の地球期の人類に内側から影響を及ぼします。
「アーリマン」は二つ前の宇宙進化期に正常な進化から取り残された存在で、
現在ルツィフェルが人類に影響を与えているのと同じように、
一つ前の宇宙進化期のディアニス(天使)に内側から影響を及ぼしていました。
現在ではアーリマンは外側から人類に影響を及ぼしています。
アーリマンの本来の力は、物質にとって必要な破壊と死の力です。
この力がもし無かったら、生物が地上に溢れて収拾がつかなくなってしまいます。
アーリマンは本来の領分を超えて人間の思考に作用を及ぼそうとします。
そうすることで
人間は感覚(物質)世界のことしか考えなくなり、霊的な考えをしなくなります。
このことが唯物主義、唯物論の起因となります。
ルツィフェルは人間のアストラル体(内側)から人間に誘惑・影響を及ぼし、
アーリマンは感覚・物質界(外側)から誘惑・影響を及ぼしますが、
もし内側の影響を克服できていれば、
外側に誘惑があったとしても影響を受けることがありません。
たとえば、物質的に自身の欲望を刺激する何かが外界に存在しても、
その欲望を自身が内面で制御することができれば、どちらの影響も受けません。
アーリマンの影響は、ルツィフェルの影響が在ることで成立します。
ルツィフェルとアーリマンの影響は混在していて
ルツィフェルの影響があるからアーリマンの影響を受けるといえます。
■ルツィフェルとアーリマンの影響
しかし、宇宙進化の過程には、
アーリマン、ルツィフェルという別の種類の霊的存在たちが働いており、
人間をその歩むべき道から引き離そうとしています。
そして、このことは神の摂理に従っていることでもあるのです。
□ルツィフェルの働き
本来人間は、自己固有の本性に従う限り、
天使が人間のアストラル体の中で行う働きを直観できるはずです。
ですが、ルツィフェルたちは人間の自由意志の働きを妨げることによって
天使の位階の働きを人間が洞察できないようにしています。
ここで述べる観点から言えば、ルツィフェルたちは、
人間を自由意志を持たぬ自動人形のような善なる存在にしようとしているのです。
(言い換えると、自由意志を行使し始めると、
どうしたらいいのか分からなくなるような人間にしようと試みています。)
ルツィフェルたちは人間に見霊能力を与えようと努めているのですが、
その霊的な性質には自由意志が欠けているのです。
ルツィフェルは別の進化段階に留まり続けている存在たちですから、
正常な進化過程に、異質な要素を持ち込みます。
つまり、自分が自由意志を獲得しなかったので、
人間も自由意志を持てなくなるように願っています。
自由意志は地球紀においてしか獲得することができません。
ルツィフェルたちは人間の自由意志を憎んでいます。
彼らの行動は高度に霊的なのですが、その行動は自動人形的です。
彼らは人間を、そのような彼らのいる霊界の高みに引き上げようとするのです。
彼らは人間を
霊的であればある程、機械的にならざるを得ない存在にしようとします。
その結果、一方において人間は、十分に意識魂を発達させる前に、
あまりにも早くから霊的に機械人形的な存在になってしまう危険が生じます。
そうなってしまえば(前半記事で解説された)来たるべき啓示を
眠り込んだままで見過ごしてしまうでしょう。
□アーリマンの働き
アーリマンたちもこの啓示に対抗して働いています。
彼らは人間が自分の霊性を意識化できないようにしようとし、
『自分が完全な進化を遂げた動物なのだ』
という直観を人間に持たせようと努めます。
アーリマンは唯物論的ダーウィン主義の偉大な教師であり、
地球紀における全ての技術開発の偉大な教師でもあります。
技術開発は全て人間の外的感覚活動の及ぶ範囲内で行われ、
基本的には動物が求めるのと同じ衣食住の要求を満たすために、
技術を応用しようとしているのです。
人間が神の模造であるという意識を人間の中から消し去ることを、
アーリマンたちは、
あらゆる手段を用いて、現代の私たちの意識魂に対して行っています。
15世紀以来(第5文化期)になると、
人間の思考力は力強く発達するようになりました。
思考力が強力になったあまり、その思考によって、
自分の存在の根拠をも否定することができるようになったのです。
そして現在、私たちが体験しているのは、科学理論が意識的な仕方で、
神性や神的存在を認めることを許さなくなったということです。
このことは意識魂の時代でなければ不可能なことです。
ですから、今、アーリマンたちは
人間の神的起源を理解できなくさせる教えを広く普及しようと努めています。
人間の正常な進化に反する、このアーリマンの意図を知ることができれば、
私たちは、それぞれ自分で自分の人生の軌道を修正して、
人類進化のための啓示を前に、眠り込んだりしないで済むようにできます。
そうしませんと大きな危険が至る処に待ち構えています。
この危険によく注意しなければなりません。
そうしませんと、地球進化の未来を形成する大切な働きを忘れて、
人類を危険な脇道へ逸らせるきっかけを生じさせてしまいます。
△R・シュタイナーが表現したアーリマン
■人類が霊的に目覚めなかった際に起こるかもしれない事柄
ある種の霊的存在者たちは、
進化を遂げる人間を通して、その人間と共に進化していきます。
天使たちも人間を通して自らの進化のために何かを得ようとしているのです。
人間自身が、もし意識魂を獲得した後でも、
人類の進化のための課題をゆるがせにしておくならば、
進化そのものをいい加減なものにしてしまい、
天使たちも人間のアストラル体の中で、
ただ遊び戯れるのと同じことになるでしょう。
天使が人類進化のための現実の力となり得るときにのみ、
天使の働きは遊びではなく、真剣なものとなるのです。
もし地上の人間が未来にとっての重要な霊的啓示の前で眠り込んでいるなら、
いったい宇宙の進化はどうなるのでしょうか?
人間が課題を前にして、眠り込んだままそれを迎えるとするなら、
天使が人間のアストラル体の中にヴィジョンを産み出すことによって
達成されるべきものが、
別の道の上で天使によって達成されなければならなくなります。
覚醒時の人間が眠り込んでいるために、天使が達成できずにいる事柄を、
天使はベッドに横たわっている人間の睡眠時の肉体とエーテル体との中で
達成しようとするでしょう。
このことは意識魂の時代にとって大きな危険となります。
それは人間がいつまでも霊的生活に向かおうとしなかったときに、
天使によって遂行されることになるかもしれないような出来事です。
(西暦2000年初頭頃~とされています)
その際、人間はその天使の働きに共に参加してはいないでしょう。
何故なら、その人間がその際、目覚めていたとすれば、
きっとそれに協力するのではなく、妨げてしまうでしょうから。
前述した天使の働きによって、
三つの事柄が人類の進化の中に、どうしても生じてしまうことになるでしょう。
1、人間の誕生、受胎、性行為のいとなみ全てに関係のある本能の行為が
有害なものになる危険が生じるのです。
天使の働きによって、天使たち自身もある種の変化を遂げることになりますが、
この変化は高次の秘密に属しており、まだ語ることが許されておりません。
次のように言うことは許されると思います。
『人類進化の過程でこれから生じる事柄は、明るい目覚めた意識の中で、
有益な仕方で生じるのではなく、有害な破壊的な仕方で、
ある種の本能が性行為のいとなみから、性行為の在り方から生じてくる。
その本能は個人的な迷いを生じさせるだけでなく、
社会生活の中へ移行して、社会生活の中で影響を及ぼすであろう。
とりわけ性行為のいとなみの結果、血の中に入ってくるものによって、
地上に友愛が生じるのではなく友愛に反抗するようなものが本能になってしまう。』
ですから人類は分岐点にいるのです。
この出来事について自然科学は何も気付かないでしょう。
何故なら自然科学は、人間が性行為本能によって、半ば悪魔的になるとき、
当然のように、そのことを自然の必然であると見なすでしょうから。
全てが自然科学によって、いつかは理解されうるという考え方があるとしても、
本能の問題は霊的認識・超感覚的認識によってのみ洞察できるのです。
2、ある種の医薬による本能的な認識です。
その認識は有益というよりは、むしろ有害な認識になるのです。
医療は今後、唯物論的な意味で巨大な進歩を経験するでしょう。
ある種の成分の治癒的作用を本能的に洞察するでしょう。
それによって恐るべき弊害を惹き起こしますが、
人々はその弊害を有益なことだと言うでしょう。
人々は病的な状態を気に入り、健全なことだと言うでしょう。
それゆえ、ある種の治癒力を認識する力が高められますが、
その認識力はまったく有害な方向に進んで行くでしょう。
とりわけ、ある種の本能によって、ある種の薬剤の治癒力を知るようになり、
それによって人々は、まったく利己的な動機に従って、
病気を生じさせたり、生じさせなかったりすることができるようになるでしょう。
3、機械の作り出す波動を合成するというような、容易な手続きだけで、
世界に大きなエネルギーを放出することができるようになるでしょう。
そのようにして機械を霊的に支配する技術を本能的に認識するようになるでしょう。
その際の技術全体が荒涼とした水路をとるようになりますが、
これは人々の利己主義にはよく奉仕し、人々も気に入ることでしょう。
以上は一例ですが、
このことの理解は、唯物的な生き方では本質的な生き方になりえないことを、
よく知っている人だけに可能なことなのです。
人類に有害な医療が生じるとき、
一方では唯物的な生き方をする人に性的本能の恐るべき興奮を生じさせ、
他方では霊的な力で自然力を利用し、
そして全世界の機械化を達成しようとするでしょう。
唯物的な世界観では、そのような事柄を洞察できないでしょうし、
正しい進化の道から迷い出しても、それを知ることができないでしょう。
■霊的に目覚めて生きること
全ての霊学の中には、ひとつの義務が、ひとつの生き方が示されているのです。
この世の何処に立っていても、そこで何を行うにしても、
大切なのは次のような考え方をすることなのです。
『我々の行為は霊学的意識に貫かれていなければならず、
霊学からの照明をうけていなければならない。』
このような考え方ができたとき、正しい意味で人類が進化を遂げることのために、
少しでも寄与できるのです。
もし誰かが、
『霊学に真剣に取り組むと、実際的な仕事に励むことができなくなる』
と考えるとしたら、その人は間違った考え方をしていることになります。
真の霊学は(今回の講義のような事柄について)意識を目覚めさせてくれるのです。
私たちは『目覚めた生活は眠りにとって有害なのか?』
と問うことができなければなりません。
通常の目覚めが眠りからの目覚めであるとすれば、
霊界への参入は、通常の目覚めから更に高次の目覚めなのです。
この比較を正しく理解するために、次のような問いを発してみて下さい。
『いったい覚醒生活は眠りにとって有害なのか?』
もしも、その覚醒生活が、まともなものでなければ、眠りにとって有害なのです。
けれども、まともな覚醒生活を送るなら、健康に眠ることができるでしょう。
働くことなく、ぼんやりと怠惰に、安易に過ごすならば、
それによって眠りは不健康なものになるでしょう。
霊的に目覚めたときにも同じことが言えます。
霊学によって自身の中に霊界との直接の関係をつくるなら、
霊界に対する正しい関係によって、
通常の日常生活もまた、正しい軌道に導かれるのです。
色々な事柄に注意を向けて生きれば、
今すぐにでも私たちは目覚めることができるのです。
そうなったとき、
日常生活の中に、奇蹟の起こらない日が一日もないということに気付くでしょう。
また次のように言うこともできます。
『もし、ある一日の生活の中に何も奇蹟らしいものを見出さなかったとすれば、
それは、ただ、うっかりそれを見過ごしたからにすぎない。』
毎日、夜になったら、その日の生活を振り返ってみてください。
その日に起こった出来事を思い起こし、
『それが私の生活の中に生じたのは不思議なことだ。
それはまったく思いがけない仕方で生じた。』と言うことができるでしょう。
視野を十分に広げ、生活の諸分野を包括的に考察するならば、
このことが可能になるのです。
人々は普通、『ある事柄によって何が妨げられたのか?』
という問いかけをしようとはしないのです。
実現しそうになって妨げられてしまったことも、
もしそれが生じていたら、人生が根本的に変化したであろうこと、
そのような事柄を私たちは、あまり考えようとしません。
何かしらの仕方で生活から排除されてしまった事柄の背後には、
私たちを目覚めた人間にしてくれたはずの、実に多くの事柄が存しているのです。
『今日一日の間に、どんなに多くのことが私に起こりえたであろうか?』
そう問いかけてみてください。
毎晩このような問いを自分に投げかけ、ひとつひとつ改めて考察するとき、
この問いかけは目覚めのための自己教育を可能にしてくれます。
それは、おのずとそこから更に先へと私たちを導き、
そして最後には、例えば私たちが朝10時半に外出しようとしたとき、
出かけなしに誰かがやって来て引き留められた、というような場合が
生活の中で何を意味するのかを突き止めるようにまでなるのです。
普段は引き留められたことで気分を害しますが、
予定通りの時間に実際に外出したとすれば、何が起こりえたのか、
『そのことで何が変化したのか?』と問うことを私たちはしないのです。
生活の中の否定的な事柄でありながら、
人生の叡智に充ちた導きを証言してくれているような出来事を観察するところから、アストラル体の中で働いている天使を観察するところまでは、
真っ直ぐな一本の道で通じているのです。
そして安全なその道を私たちは歩み続けることができます。
△今回紹介させていただいた 「1918.10.9 チューリヒ」 の講義録は、
こちらの著書に収録されています。
著書内の講義録全文は30ページ程あります。
ブログ記事の内容は省略などしているため、実際の著書の文面とは異なります。
御了承下さい。








