前回の続きです。

 

一般的な見解などと異なる点もあると感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが

ルドルフ・シュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。

 

※最初に、ルツィフェルとアーリマンの簡単な説明を過去記事から転用します

 

キリスト教の聖書での「サタン」がRシュタイナーの述べている「アーリマン」で、

同様に「ディアボロス」が「ルツィフェル」のことになります。

 

△手塚治虫先生の漫画ブッダ

 

仏教でも悪魔的存在の解説がされています。

古代インドの文献では「ナムチ」として悪魔が記されています。

 

▽霊的存在(ヒエラルキア)の位階

 

1 セラフィーム

2 ケルビーム

3 トローネ(意志霊)

4 キュリオテテス(主天使、叡智霊)

5 デュナミス(力天使、運動霊)

6 エクスシアイ(能天使、形態霊) ←エロヒム(キリスト)の位階

7 アルヒャイ(権天使、人格霊、時代霊) 

8 アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊) 

9 アンゲロイ、ディアニス(天使)

 1~3を第一ヒエラルキアといい=東洋では五仏、ディヤーナ存在と呼ぶ

 4~6を第二ヒエラルキア、7~9を第三ヒエラルキアという

10番目が現在地球で進化している「人間」になります。

 

現在、人間よりも高次位階の霊的存在も、

以前には、現在地球期の人間と同じように進化を辿っていた進化期がありました。

 

現在の地球進化期には私たち人間が進化を目指しています。

一つ前の宇宙進化期に進化していたのが「ディアニス(天使)」でした。

この進化期の正常な進化から取り残された存在が「ルツィフェル」になります。

ルツィフェルは現在の地球期の人類に内側から影響を及ぼします。

「アーリマン」は二つ前の宇宙進化期に正常な進化から取り残された存在で、

現在ルツィフェルが人類に影響を与えているのと同じように、

一つ前の宇宙進化期のディアニス(天使)に内側から影響を及ぼしていました。

現在ではアーリマンは外側から人類に影響を及ぼしています。

 

アーリマンの本来の力は、物質にとって必要な破壊と死の力です。

この力がもし無かったら、生物が地上に溢れて収拾がつかなくなってしまいます。

アーリマンは本来の領分を超えて人間の思考に作用を及ぼそうとします。

そうすることで

人間は感覚(物質)世界のことしか考えなくなり、霊的な考えをしなくなります。

このことが唯物主義、唯物論の起因となります。

 

ルツィフェルは人間のアストラル体(内側)から人間に誘惑・影響を及ぼし、

アーリマンは感覚・物質界(外側)から誘惑・影響を及ぼしますが、

もし内側の影響を克服できていれば、

外側に誘惑があったとしても影響を受けることがありません。

たとえば、物質的に自身の欲望を刺激する何かが外界に存在しても、

その欲望を自身が内面で制御することができれば、どちらの影響も受けません。

アーリマンの影響は、ルツィフェルの影響が在ることで成立します。

ルツィフェルとアーリマンの影響は混在していて

ルツィフェルの影響があるからアーリマンの影響を受けるといえます。

 

■ルツィフェルとアーリマンの影響

 

しかし、宇宙進化の過程には、

アーリマン、ルツィフェルという別の種類の霊的存在たちが働いており、

人間をその歩むべき道から引き離そうとしています。

そして、このことは神の摂理に従っていることでもあるのです。

 

□ルツィフェルの働き

 

本来人間は、自己固有の本性に従う限り、

天使が人間のアストラル体の中で行う働きを直観できるはずです。

ですが、ルツィフェルたちは人間の自由意志の働きを妨げることによって

天使の位階の働きを人間が洞察できないようにしています。

ここで述べる観点から言えば、ルツィフェルたちは、

人間を自由意志を持たぬ自動人形のような善なる存在にしようとしているのです。

(言い換えると、自由意志を行使し始めると、

 どうしたらいいのか分からなくなるような人間にしようと試みています。)

ルツィフェルたちは人間に見霊能力を与えようと努めているのですが、

その霊的な性質には自由意志が欠けているのです。

 

ルツィフェルは別の進化段階に留まり続けている存在たちですから、

正常な進化過程に、異質な要素を持ち込みます。

つまり、自分が自由意志を獲得しなかったので、

人間も自由意志を持てなくなるように願っています。

 

自由意志は地球紀においてしか獲得することができません。

ルツィフェルたちは人間の自由意志を憎んでいます。

彼らの行動は高度に霊的なのですが、その行動は自動人形的です。

彼らは人間を、そのような彼らのいる霊界の高みに引き上げようとするのです。

彼らは人間を

霊的であればある程、機械的にならざるを得ない存在にしようとします。

その結果、一方において人間は、十分に意識魂を発達させる前に、

あまりにも早くから霊的に機械人形的な存在になってしまう危険が生じます。

そうなってしまえば(前半記事で解説された)来たるべき啓示を

眠り込んだままで見過ごしてしまうでしょう。

 

□アーリマンの働き

 

アーリマンたちもこの啓示に対抗して働いています。

彼らは人間が自分の霊性を意識化できないようにしようとし、

『自分が完全な進化を遂げた動物なのだ』

という直観を人間に持たせようと努めます。

アーリマンは唯物論的ダーウィン主義の偉大な教師であり、

地球紀における全ての技術開発の偉大な教師でもあります。

技術開発は全て人間の外的感覚活動の及ぶ範囲内で行われ、

基本的には動物が求めるのと同じ衣食住の要求を満たすために、

技術を応用しようとしているのです。

人間が神の模造であるという意識を人間の中から消し去ることを、

アーリマンたちは、

あらゆる手段を用いて、現代の私たちの意識魂に対して行っています。

 

15世紀以来(第5文化期)になると、

人間の思考力は力強く発達するようになりました。

思考力が強力になったあまり、その思考によって、

自分の存在の根拠をも否定することができるようになったのです。

 

そして現在、私たちが体験しているのは、科学理論が意識的な仕方で、

神性や神的存在を認めることを許さなくなったということです。

このことは意識魂の時代でなければ不可能なことです。

ですから、今、アーリマンたちは

人間の神的起源を理解できなくさせる教えを広く普及しようと努めています。

人間の正常な進化に反する、このアーリマンの意図を知ることができれば、

私たちは、それぞれ自分で自分の人生の軌道を修正して、

人類進化のための啓示を前に、眠り込んだりしないで済むようにできます。

そうしませんと大きな危険が至る処に待ち構えています。

この危険によく注意しなければなりません。

そうしませんと、地球進化の未来を形成する大切な働きを忘れて、

人類を危険な脇道へ逸らせるきっかけを生じさせてしまいます。

 

△R・シュタイナーが表現したアーリマン

 

■人類が霊的に目覚めなかった際に起こるかもしれない事柄

 

ある種の霊的存在者たちは、

進化を遂げる人間を通して、その人間と共に進化していきます。

天使たちも人間を通して自らの進化のために何かを得ようとしているのです。

人間自身が、もし意識魂を獲得した後でも、

人類の進化のための課題をゆるがせにしておくならば、

進化そのものをいい加減なものにしてしまい、

天使たちも人間のアストラル体の中で、

ただ遊び戯れるのと同じことになるでしょう。

天使が人類進化のための現実の力となり得るときにのみ、

天使の働きは遊びではなく、真剣なものとなるのです。

 

もし地上の人間が未来にとっての重要な霊的啓示の前で眠り込んでいるなら、

いったい宇宙の進化はどうなるのでしょうか?

人間が課題を前にして、眠り込んだままそれを迎えるとするなら、

天使が人間のアストラル体の中にヴィジョンを産み出すことによって

達成されるべきものが、

別の道の上で天使によって達成されなければならなくなります。

覚醒時の人間が眠り込んでいるために、天使が達成できずにいる事柄を、

天使はベッドに横たわっている人間の睡眠時の肉体とエーテル体との中で

達成しようとするでしょう。

 

このことは意識魂の時代にとって大きな危険となります。

それは人間がいつまでも霊的生活に向かおうとしなかったときに、

天使によって遂行されることになるかもしれないような出来事です。

(西暦2000年初頭頃~とされています)

その際、人間はその天使の働きに共に参加してはいないでしょう。

何故なら、その人間がその際、目覚めていたとすれば、

きっとそれに協力するのではなく、妨げてしまうでしょうから。

 

前述した天使の働きによって、

三つの事柄が人類の進化の中に、どうしても生じてしまうことになるでしょう。

 

1、人間の誕生、受胎、性行為のいとなみ全てに関係のある本能の行為が

 有害なものになる危険が生じるのです。

 

天使の働きによって、天使たち自身もある種の変化を遂げることになりますが、

この変化は高次の秘密に属しており、まだ語ることが許されておりません。

次のように言うことは許されると思います。

『人類進化の過程でこれから生じる事柄は、明るい目覚めた意識の中で、

 有益な仕方で生じるのではなく、有害な破壊的な仕方で、

 ある種の本能が性行為のいとなみから、性行為の在り方から生じてくる。

 その本能は個人的な迷いを生じさせるだけでなく、

 社会生活の中へ移行して、社会生活の中で影響を及ぼすであろう。

 とりわけ性行為のいとなみの結果、血の中に入ってくるものによって、

 地上に友愛が生じるのではなく友愛に反抗するようなものが本能になってしまう。』

 

ですから人類は分岐点にいるのです。

この出来事について自然科学は何も気付かないでしょう。

何故なら自然科学は、人間が性行為本能によって、半ば悪魔的になるとき、

当然のように、そのことを自然の必然であると見なすでしょうから。

全てが自然科学によって、いつかは理解されうるという考え方があるとしても、

本能の問題は霊的認識・超感覚的認識によってのみ洞察できるのです。

 

2、ある種の医薬による本能的な認識です。

 その認識は有益というよりは、むしろ有害な認識になるのです。

 

医療は今後、唯物論的な意味で巨大な進歩を経験するでしょう。

ある種の成分の治癒的作用を本能的に洞察するでしょう。

それによって恐るべき弊害を惹き起こしますが、

人々はその弊害を有益なことだと言うでしょう。

人々は病的な状態を気に入り、健全なことだと言うでしょう。

それゆえ、ある種の治癒力を認識する力が高められますが、

その認識力はまったく有害な方向に進んで行くでしょう。

とりわけ、ある種の本能によって、ある種の薬剤の治癒力を知るようになり、

それによって人々は、まったく利己的な動機に従って、

病気を生じさせたり、生じさせなかったりすることができるようになるでしょう。

 

3、機械の作り出す波動を合成するというような、容易な手続きだけで、

 世界に大きなエネルギーを放出することができるようになるでしょう。

 

そのようにして機械を霊的に支配する技術を本能的に認識するようになるでしょう。

その際の技術全体が荒涼とした水路をとるようになりますが、

これは人々の利己主義にはよく奉仕し、人々も気に入ることでしょう。

 

以上は一例ですが、

このことの理解は、唯物的な生き方では本質的な生き方になりえないことを、

よく知っている人だけに可能なことなのです。

人類に有害な医療が生じるとき、

一方では唯物的な生き方をする人に性的本能の恐るべき興奮を生じさせ、

他方では霊的な力で自然力を利用し、

そして全世界の機械化を達成しようとするでしょう。

唯物的な世界観では、そのような事柄を洞察できないでしょうし、

正しい進化の道から迷い出しても、それを知ることができないでしょう。

 

■霊的に目覚めて生きること

 

全ての霊学の中には、ひとつの義務が、ひとつの生き方が示されているのです。

この世の何処に立っていても、そこで何を行うにしても、

大切なのは次のような考え方をすることなのです。

『我々の行為は霊学的意識に貫かれていなければならず、

 霊学からの照明をうけていなければならない。』

このような考え方ができたとき、正しい意味で人類が進化を遂げることのために、

少しでも寄与できるのです。

 

もし誰かが、

『霊学に真剣に取り組むと、実際的な仕事に励むことができなくなる』

と考えるとしたら、その人は間違った考え方をしていることになります。

真の霊学は(今回の講義のような事柄について)意識を目覚めさせてくれるのです。

 

私たちは『目覚めた生活は眠りにとって有害なのか?』

と問うことができなければなりません。

通常の目覚めが眠りからの目覚めであるとすれば、

霊界への参入は、通常の目覚めから更に高次の目覚めなのです。

この比較を正しく理解するために、次のような問いを発してみて下さい。

『いったい覚醒生活は眠りにとって有害なのか?』

もしも、その覚醒生活が、まともなものでなければ、眠りにとって有害なのです。

けれども、まともな覚醒生活を送るなら、健康に眠ることができるでしょう。

働くことなく、ぼんやりと怠惰に、安易に過ごすならば、

それによって眠りは不健康なものになるでしょう。

霊的に目覚めたときにも同じことが言えます。

霊学によって自身の中に霊界との直接の関係をつくるなら、

霊界に対する正しい関係によって、

通常の日常生活もまた、正しい軌道に導かれるのです。

 

色々な事柄に注意を向けて生きれば、

今すぐにでも私たちは目覚めることができるのです。

そうなったとき、

日常生活の中に、奇蹟の起こらない日が一日もないということに気付くでしょう。

 

また次のように言うこともできます。

『もし、ある一日の生活の中に何も奇蹟らしいものを見出さなかったとすれば、

 それは、ただ、うっかりそれを見過ごしたからにすぎない。』

 

毎日、夜になったら、その日の生活を振り返ってみてください。

その日に起こった出来事を思い起こし、

『それが私の生活の中に生じたのは不思議なことだ。

 それはまったく思いがけない仕方で生じた。』と言うことができるでしょう。

 

視野を十分に広げ、生活の諸分野を包括的に考察するならば、

このことが可能になるのです。

人々は普通、『ある事柄によって何が妨げられたのか?』

という問いかけをしようとはしないのです。

実現しそうになって妨げられてしまったことも、

もしそれが生じていたら、人生が根本的に変化したであろうこと、

そのような事柄を私たちは、あまり考えようとしません。

何かしらの仕方で生活から排除されてしまった事柄の背後には、

私たちを目覚めた人間にしてくれたはずの、実に多くの事柄が存しているのです。

『今日一日の間に、どんなに多くのことが私に起こりえたであろうか?』

そう問いかけてみてください。

 

毎晩このような問いを自分に投げかけ、ひとつひとつ改めて考察するとき、

この問いかけは目覚めのための自己教育を可能にしてくれます。

それは、おのずとそこから更に先へと私たちを導き、

そして最後には、例えば私たちが朝10時半に外出しようとしたとき、

出かけなしに誰かがやって来て引き留められた、というような場合が

生活の中で何を意味するのかを突き止めるようにまでなるのです。

普段は引き留められたことで気分を害しますが、

予定通りの時間に実際に外出したとすれば、何が起こりえたのか、

『そのことで何が変化したのか?』と問うことを私たちはしないのです。

 

生活の中の否定的な事柄でありながら、

人生の叡智に充ちた導きを証言してくれているような出来事を観察するところから、アストラル体の中で働いている天使を観察するところまでは、

真っ直ぐな一本の道で通じているのです。

そして安全なその道を私たちは歩み続けることができます。

 

 

△今回紹介させていただいた 「1918.10.9 チューリヒ」 の講義録は、

 こちらの著書に収録されています。

 

著書内の講義録全文は30ページ程あります。

ブログ記事の内容は省略などしているため、実際の著書の文面とは異なります。

御了承下さい。

今回の内容は、

人間より一段階上の霊的高次存在である天使の、人間に対する働きかけと

それによって人類の未来に生じること です。

 

前半と後半に分けて記載します。

 

一般的な見解などと異なる点もあると感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが

ルドルフ・シュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。

 

■近代の高次存在に対する認識

(R・シュタイナー講義は100年前)

 

※世界幻想文学大系第26巻(アカシャ年代記)に記載

 

キリスト教の教義を本当に理解している人は、

人間よりも上位に位置するこれらの霊的存在についての教義が、

その中に含まれていることを知っている。

ただ、しばらく前から、これらの存在を正しく表象する仕方が、

外面化されたキリスト教教義の中から失われてしまった。

この問題と真剣に取り組み、そこに深い洞察の眼を向ける人は、

神秘学に敵対する理由など、

キリスト教の側にはまったく存在しないことを認めるであろう。

 

反対に神秘学は真のキリスト教と完全に一致している。

 

もし神学者や宗教学者が神秘学の研究に携わろうとするなら、

キリスト教のための最上の協力者と促進者を神秘学の中に見出すに違いない。

けれども多くの神学者は、その思考方法において、唯物論的である。

 

だから今日、大衆的な出版物においても、キリスト教的な知識を促進するために、

『天使たち』など『幼児や保母たち』のためにしか存在していない、

と述べられている。

 

このような言い方は

真のキリスト教精神をまったく誤解しているからこそ可能なのである。

 

キリスト教の神髄を自称『科学の進歩』のために犠牲にしようとする人だけが、

このような主張を敢えてする。

 

しかし新しい高次の科学が、このような主張の幼稚さを超えて、

一般の意識に浸透するようになる時代が来るであろう。

 

 

▽霊的存在(ヒエラルキア)の位階です

 

1 セラフィーム

2 ケルビーム

3 トローネ(意志霊)

4 キュリオテテス(主天使、叡智霊)

5 デュナミス(力天使、運動霊)

6 エクスシアイ(能天使、形態霊) ←エロヒム(キリスト)の位階

7 アルヒャイ(権天使、人格霊、時代霊) 

8 アルヒアンゲロイ(大天使、火の霊) 

9 アンゲロイ、ディアニス(天使)

 1~3を第一ヒエラルキアといい=東洋では五仏、ディヤーナ存在と呼ぶ

 4~6を第二ヒエラルキア、7~9を第三ヒエラルキアという

10番目が現在地球で進化している「人間」になります。

 

※以降の解説で下記の高次存在の位階が参考になります。

 今回の講義録では解説されていません。『霊的宇宙論』などで解説されています。

 

 

 

△ここから、こちらの著書に収録されている 1918.10.9 チューリヒ 

 での講義録の紹介です。

 

講義録の3分の1程の尺に省略などしたため実際の文面とは異なるので御了承下さい。

 

■アストラル体(魂)の発展

 

人は誰でも、子供のとき、中年になったとき、老年になったときに

それぞれ異なる能力を発揮しつつ、外界と関わっていきます。

人間と外的環境との関係は、当の人間の内的進化を顧慮しなければ理解できません。

人類の進化過程においても同様のことが言えます。

20世紀の人間、15世紀の人間、更にそれ以前の時代の人間が

それぞれ本質的に異なっていることに注意しなければなりません。

 

この点を具体的に顧慮できるようになるために・・・

 

※講義録では各文化期の人間のアストラル体の発展について解説されています。

 この解説は以前の記事内容と重複するので、その内容を引用します。

 

□アストラル体に関する概要

 

エーテル体・・

生命活動が持続する間、形状の崩壊を止めようとする作用・働き。(生命エネルギー)

Rシュタイナーは、エーテル体のことを生命体・形成力体とも呼んでいる。

東洋ではエーテル体を微細身(リンガシャリーラ)と呼びます。

 

アストラル体(魂)・・

人間の内部にある、快と不快・喜びと悲しみ・情熱・欲望・衝動などのこと。

R・シュタイナーは、アストラル体のことを魂とも呼んでいる。

仏教では低次のアストラル界を欲界と呼んでいる。

 

感覚魂ー外界・外部から受け取った印象(情報)に対して、反応を返す作用の源。

 

悟性魂・心情魂ー感覚魂を通じて受け取った印象から思考が生じる。

 感覚・印象に対してそのまま反応するだけでは、

 野生の動物と同じになってしまうので、思考を仕えさせる働きが必要になる。

 この働きが悟性魂・心情魂。

 

意識魂ー魂が真理や善として自らの内に担っているもの。

 好嫌・情熱・欲求を支配する(高貴なものに変える)ことによって、

 これらが強制されなくても義務として認められた事柄に自ずと従うようになると

 人間はいっそう高みに立つことになる。

 

たとえば、

①私は花を見る(感覚魂の働き)

②私は花を見て考える(悟性魂・心情魂の働き)

③私は花を誰かに見せて喜んでもらおうとする(意識魂の働き)

 

□時代の移行と文化期

 

現在はアーリア時代に分類されます。↓アーリア時代への移行の流れです。

 

 アトランティス時代(大洪水前)

  ↓

 大洪水(ノアの箱舟の伝説)

  ↓

 アーリア時代:七通の手紙の時代 BC7227~AD7893(現在)

 

「七つの○○」は新約聖書ヨハネの黙示録の解説講義の呼称

 

アーリア時代を更に詳細に文化期に分けると次のようになります。

 

 第一文化期:インド文化期 BC7227~5067 

 第二文化期:ペルシア文化期 BC5067~2907 

 第三文化期:エジプト・カルデア文化期 BC2907~747 

 第四文化期:ギリシャ・ローマ文化期 BC747~AD1413 

 第五文化期:ゲルマン・アングロサクソン文化期 AD1413~3573 (現在)

 第六文化期:ロシア文化期 AD3573~5733 

 第七文化期:アメリカ文化期 AD5733~7893 

 

▽各文化期を通して育成されるアストラル体とエーテル体

 

 第一文化期(BC7227~5067):エーテル体

 第二文化期(BC5067~2907):感覚体

 第三文化期(BC2907~747) :感覚魂(アストラル体の、外界に対する反応)

 第四文化期(BC747~AD1413):悟性魂(アストラル体の、反応に対する思考)

 第五文化期(AD1413~3573):意識魂(アストラル体の、真理や善)

 第六文化期(AD3573~5733):霊我(マナス)

 第七文化期(AD5733~7893):生命霊(ブッディ)

 

→現代は意識魂の育成を考えなければならないということが重要になってきます。

 

■意識魂育成の時代における天使

 

人間は上から下に向かって、

 自我→アストラル体→エーテル体→肉体 に区分されます。

 

私たちの意識に現れてくるものはすべて、

根本においては、私たちのこの自我によって意識化されます。

自我は体の働きを通して外界と結びついています。

もし外界とのこの結びつきが失われれば、

私たちは睡眠中のように意識をもたぬまま生きていくでしょう。

 

現代の文化期(意識魂育成の時代)において、

人間に最も近い霊的存在である天使が、

人間の自我に最も近いアストラル体の内部で何をしているか?

 

太古の見霊の時代(上記表の第一文化期以前の時代のこと)には、見霊体験の中で、

魂が受け取る像がアストラル体における天使の行為を曖昧に映し出してしまい、

受け取るそれ自体が天使のこの働きを見えなくさせてしまっていました。

(像=イメージ)

 

思考には近代という自然科学の時代の中で力強さが加わってきました。

第四文化期の思考は、今日ほど力強くはありませんでした。

意識魂の時代(第五文化期)は、前述した

 

現代の文化期(意識魂育成の時代)において、

人間に最も近い霊的存在である天使が、

人間の自我に最も近いアストラル体の内部で何をしているか?

 

のような問いに意識的に関わることのできる時代なのです。

 

私たちが理論で人の心を、たぶらかすのではなく、

生きる上で深い意味をもつ事柄を述べることができる中で、

生きる上での私たちの霊学の豊かな成果が示されているのです。

 

■天使が形成する3つの衝動

 

天使は形態霊の意図、導きに応じて人間のアストラル体の中に像を形成しています。

この事を認識するためには、少なくともある程度の霊視力を働かせ、

見霊的観察を試みて、私たちのアストラル体の中での営みを見なければなりません。

 

1、天使の第一の衝動 外的社会生活に関する一定の意図

 

現れては消えていく、この像が形成されないなら、

形態霊の意図に応じた未来への人類の進化は存在しないでしょう。

形態霊が人間と共に達成しようと望んでいるものは、まず像となって生み出され、

この像が、後には人間存在のなかで現実となって現れます。

 

どんな像が形成されるかは、見霊能力まで進化した思考によって認識できます。

 

この思考によってアストラル体の中に形成される像を辿ることができ、

この像が特定の衝動、特定の原則に従って形成されていることが分かります。

 

天使が人間のアストラル体の中に生み出す像は、

未来の人間社会における特定の状況を生じさせるためのもので、

この像の中に人類の未来への進化を促す力が備わっています。

 

天使によるこの像の形成には、特定の原則

『自分の傍らにいる他人が不幸であったら、

 未来においては、どんな人にも、安んじて幸福を享受させたりはしない』

という意図が働いています。

人類同胞の絶対的な支援、絶対的な統一への衝動、共同社会における本当の友愛衝動

が原則として働いているのです。

 

2、天使の第二の衝動 人間の魂の営みに関する一定の意図

 

未来において誰もが、できるだけ真剣に、できるだけ深く、人間を霊的存在として

理解することを、天使は今、既に像として示してくれているのです。

 

天使のこの作業意図によれば、

人間は理論的実践的に人間を高度に発達した動物であると見なすのではなく、

各人に向き合い、

『人間の中には神的宇宙的根拠に由来するものが血と肉を通して開示されている』

と感じるようになるべきなのです。

 

将来、発達すべき自由な宗教性は、各人の中に神の似姿を、理論としてのみならず、

生活実感として認める、ということに基づいています。

このことが認められれば、特定の宗教を強要する必要がなくなり、

人と人との出会いそのものが、始めから宗教的な行為、

ひとつの秘蹟(サクラメント=神の恩恵にあずかる儀式)になるでしょう。

生活全体が超感覚的なものの表現となり、

外的な制度として教会によって宗教生活を維持しようとは誰もしなくなるでしょう。

 

3、天使の第三の衝動は、第二の衝動に加わります

 

第三の衝動は、思考を通して霊に到る可能性、深淵を超えて霊体験に到る可能性を、

思考を通して人間に与えるという原則です。

 

■意識を目覚めさせて生きる

 

本当に目覚めている人の眼から見ると、

今日、大切な状況の中で眠り込んでいる人が大勢います。

そのような大勢の人たちが、今、この世の出来事に対して興味をもたず、

気にも掛けず、自分をそれに関わらせることもなく、生じるがままにしています。

しかし、人々が目覚めていながら、まさに特別大事な事柄の前で眠りこけているとき

(その人たちが知ろうとしているかどうかに関わらず、それとはまったく無関係に)

天使の重要な作業が、その人たちの中で行われているのです。

 

私たちは自分のアストラル体の中にこのことを認めることができます。

大切なのは、人間の意識がそのような事柄の中へ入っていくことです。

意識魂は、このようにして、

自分が見出せるものを本当に見出せるようにならなければなりません。

 

このことを前提に、

意識魂の時代に生じる霊的課題を理解していただけると思います。

この課題が実際に果たされるかどうか、どのように果たされるかは、

すべて人間の意識魂の在りように依存しています。

しかし、いつかは人類の進化の中で果たされなければならぬはずなのです。

(意識魂の働きである意識的な思考によって、

 人類の未来を用意する天使の働きを直観するという課題を

 私たちは必ず果たすに違いないのです。)

霊学がこの点で明らかにする事柄は、

人間生活の実際的な智慧にならなければなりません。

 

この課題をまったく意識的に受け取るとは、次のことを意味します。――

私たちは、今日、霊学を研究することができます。

瞑想を実践すればこの研究は更に深められます。

霊学を研究し、

それを正しく意識的に理解するだけでも、課題にとって必要なことが生じます。

偏見によって自分で道を閉ざすことが無ければ、

見霊能力を獲得しなくても、霊学を研究できます。

霊学の与える概念、理念を身に付けて霊学研究を続ける人は、

この課題を眠って過ごすのではなく、

意識的にそれに向き合うほどに意識を目覚めさせているはずです。

 

天使界を通して、

特定の時点に3つのことが人類に示されるという事実が生じなければなりません。

最悪の場合には全然生じないかもしれませんが、

人間の在り方次第で、この時点が遅かれ早かれ生じます。

 

第一に私たちが自分だけでなく、

私たちが今日もっているよりも遙かに深い関心をもって、

他人の人間本性の深層をも本当に深く、切実に理解できるようになることです。

この関心の高まりは、各人が自分の中で安易に生じさせるような、

単なる主観的なものとして生じるのではなく、

他人の秘密に充ちた本質が霊的側面から流れ込んでくるときの

その衝動によって生じるのです。

 

第二には『キリスト衝動』が完全な宗教の自由を人間に保証するでしょう。

このことを必ず天使が霊界から人間に明示するでしょう。

 

第三には各人は宇宙の、世界の霊的性質を必ず洞察するようになります。

 

この点は人類史の一つの関門なのです。

天使は、この意識魂の関門を通過できるように働いています。

しかし、この事情は人間の意志の働きと不可分です。

人間は色々と必要な事柄をするのを怠り、

多くの人が目覚めの体験へ導くことのできる多くの事柄を無視しているのです。

 

※前半ここまでになります。後半は次回に記載させていただきます。

 またよろしくお願いします。

 

後半の内容は、、、

■ルツィフェルとアーリマンの影響

■人類が意識的にならなかった場合に起こること

■現代において、どう霊学と向き合うか などになります。

 

しかし、宇宙進化の過程には、

アーリマン、ルツィフェルという別の種類の霊的存在たちが働いており、

人間をその歩むべき道から引き離そうとしています。

そして、このことは神の摂理に従っていることでもあるのです。

・・・・

という出だしです。

前回は、キリスト教伝道者パウロに関して記載させていただきました。

 

今回は、パウロの手紙に関する内容です。前回の内容の補足的な部分もあります。

 

一般的な見解などと異なる点があると感じられる方もいらっしゃると思いますが、

ルドルフ・シュタイナーの解説に沿って記載させていただきます。

 

■パウロ

 

 

キリスト教伝道者(西暦64年頃殉教)

早産だったために、物質の中に深く下っておらず、精神的世界洞察が容易であった。

キリスト教学院を創設し弟子デュオニシウス・アレオパギタがその代表者になった。

33歳頃、ダマスカスでキリストを体験して霊視者となり、

その後約33年間、布教活動をした。

ダマスカスでの体験まではヘブライの秘儀参入を通じて、

キリストが人体に下って死後に地球のオーラの中に存在することは知っていたが、

イエスがキリストだとは思っていなかった。

(キリストは人名ではなく救世主という意味)

パウロは『私ではなく、私のなかのキリスト』を説く。

キリスト教はパウロの書簡から出発しなければならない。

パウロの書簡の最良の代弁者はアウグスティヌスである。

 

パウロは、このダマスカスでのキリストの顕現によって、

ゴルゴタの秘蹟以後に復活したキリストが大地に結び付いて生きている、

と悟りました。

パウロは復活したキリストを認識してから、このキリストのことを語り続けます。

 

※パウロの書簡は新約聖書の一部になっています。

 

※ゴルゴタの秘蹟・・・

西暦33年4月3日、キリストの傷から血がゴルゴタの丘に流れた際に、

太陽霊キリストは地球の神霊となり、地球のオーラ(アストラル体)が変化した。

シュタイナーはこのことを「ゴルゴタの秘儀」と呼んでいます。

 

旧約聖書に登場するエロヒムは太陽に棲む太陽霊です。

エロヒムの一柱がイエスに降臨しキリストと呼ばれる存在になりました。

ゴルゴタの秘蹟以降、地球はエロヒム(キリスト)の体となりました。

人間も地球の素材、オーラから構成されているので体をエロヒムと共有しています。

 

※復活したキリストは、不可視の物質的身体のため霊視者にのみ認識できます。

 

(ここまでの解説は前回の内容を簡略化したものです)

 

 

□パウロに起こった変化 1992.4.24 ロンドンでのR・シュタイナーの講義より

 

パウロ(サウロ)は、カルデアの秘儀において、

『キリストは外なる宇宙の中に生きている。

 キリストが地球の中に生きると主張する者は誤謬に陥っている』と教えられた。

そのため、パウロがサウロであった頃、キリストの信奉者たちを迫害した。

 

パウロはダマスカスへの途上で、

『かつて太陽の中にしか見出せなかった力が、いま地球の力と結び付いた』

と知った。

パウロは自分は以前に真理であったもののみを信じていたために

誤謬に陥っていたことを悟ります。

以前は真理であったものは、いまや変化し、

かつては太陽の中にのみ住んでいた者が地上に下り、

それ以後地球の力の中に生きているのです。

ゴルゴタの秘蹟を最初に人々に伝えた者たちにとって、

ゴルゴタの秘蹟は単に地球的な出来事ではなく、宇宙的な出来事でした。

 

 

△この箇所の解説は、こちらの著書で解説されています。

 

 

■コリント信徒への手紙 異言に関して

 

※コリントにある教会の信徒への手紙

 

▽コリント(コリントス)周辺

 

パウロがコリント人へ宛てて書いた書簡の一節には、

仲間の中に存在する違った人間才能を

どのように協力させ合えるかが述べられています。

 

パウロはコリント人たちにこう告げます。

「あなたたちの誰かは、ある才能をもち、別の誰かは別の才能をもっている。

 人体の各部分が働き合っているように、あなたたちも互いに働き合うなら、

 霊的にひとつの統一した全体が、そこから生じるであろう。

 その全体にキリストの働きを完全に浸透させなければならない。」

 

ですからパウロは、共に働く人々のために、つまり多数の人々のために語るのです。

そして『異言』(舌語り)の能力が生じたとき、パウロは特定の人に向き合います。

パウロの書簡に出てくる異言とは、古い霊的な能力のことに他なりません。

 

現代に霊聴を獲得した人は、意識的に、この霊聴を体験します。

 

古い時代はそうではありませんでした。

当時の人は、高次の霊的本性たちの道具になったような語り方をしました。

高次の本性たちが高次の事柄を当時の人の舌に語らせたのです。

だから自分では全く理解できないような事柄を語ることができました。

霊界から通知が届いたとき、

それを語る人は、その言葉の意味を理解する必要はありませんでした。

 

語られる内容は、いずれにせよ霊界からの啓示なのですが、

ある人はこう語り、別の人は別のことを語ります。

何故なら霊界の分野は様々だからです。

ですから啓示内容が一致しなくなることも有り得ます。

一致するようになるのは、人が意識を十分に働かせて霊界へ参入するときだけです。

 

それ故、パウロはこう警告します。

「舌語りのできる人たちもいれば、それを解釈できる人もいる。

 その人たちは右の手と左の手のように互いに働き合うのでなければならない。

 そして、舌の語り手の言葉に注意を向けるだけでなく、舌語りの能力がなくても、

 誰かのもたらした霊界からの異言を解釈することのできる人たちの言葉にも

 注意を向けるべきである。」

 

このようにしてパウロは人々が一緒に働くことで可能となった教団(教会)全体の

霊的な課題に人々の注意を促します。

 

※講義録のR・シュタイナーの原語はドイツ語になります。

 教会という単語はドイツ語では Gemeinde とされていて、

 地方時自体、教区、同好会、支持者団体などの意味があります。

 

【コリントの信徒への手紙 1-12章~14章】 新共同訳

 

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことは是非知っておいてほしい。

あなた方がまだ異教徒だった頃、誘われるままに、

ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。

ここであなた方について言っておきたい。

神の霊によって語る人は、誰も「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、

また聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。

 

賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

務めには色々ありますが、それをお与えになるのは同じ主です。

 

働きには色々ありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。

一人一人に『霊』の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

ある人には『霊』によって知恵の言葉、

ある人には同じ『霊』によって知識の言葉が与えられ、

ある人にはその同じ『霊』によって信仰、

ある人にはこの唯一の『霊』によって病気を癒やす力、

ある人には奇跡を行う力、ある人には予言する力、ある人には霊を見分ける力、

ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。

これら全てのことは、同じ唯一の『霊』の働きであって、

『霊』は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。

 

体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、

体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、

奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、

皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。

足が「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、

体の一部でなくなるでしょうか?

耳が「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、

体の一部でなくなるでしょうか?

もし体全部が目だったら、どこで聞きますか?

もし全体が耳だったら、どこで匂いを嗅ぎますか?

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。

全てが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、

また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

私たちは、体の中で他よりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、

もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄え良くしようとします。

見栄えの良い部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分を一層引き立たせ、体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、

一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。

 

あなた方はキリストの体であり、また一人一人はその部分です。

神は、教団の中に色々な人をお立てになりました。

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、

次に奇跡を行う者、その次に病気を癒やす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

皆が使徒であろうか? 皆が預言者であろうか? 皆が教師であろうか?

皆が奇跡を行う者であろうか? 皆が病気を癒やす賜物を持っているだろうか?

皆が異言を語るだろうか? 皆がそれを解釈するだろうか?

あなた方はもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。

 

(パウロは、人体が個々の肢体部分を統合しているように、

 様々な部分を結合する『キリストの力』について語ります。

 全ての肢体部分の生命力のように、

 個々の人の中で生きることのできるキリストの力、

 信徒全体の中にも生きているキリストの力のことを、

 圧倒的な言葉でこう特徴づけます。―――)

 

そこで、私はあなた方に最高の道を教えます。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、

愛が無ければ、私は騒がしいドラ、やかましいシンバル。

たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、

たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、

愛が無ければ、無に等しい。

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、

誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとも、愛が無ければ、私に何の益もない。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。嫉まない。愛は自慢せず高ぶらない。

礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。

不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える。

 

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう。

私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。

完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、

私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。

成人した今、幼子のことを棄てた。

私たちは、今は鏡に朧(おぼろ)に映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

私は、今は一部しか知らなくとも、

そのときには、はっきり知られているように、はっきり知る事になる。

それ故、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。

 

愛を追い求めなさい。

霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。

それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

 

(パウロは異言の本質をよく知っていました。

 パウロは異言を語る人が霊界へ身を移し、神々と語っている、

 と言っているのです。)

 

しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、

人を造り上げ、励まし、慰めます。

異言を語る者がどこか自分に満足しているのに対して、

預言する者は教会を造り上げます。

あなた方皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、

それ以上に預言できればと思います。

異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、

教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。

 

だから兄弟たち、私があなた方のところに行って異言を語ったとしても、

啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、

あなた方に何の役に立つでしょう。

笛であれ堅琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化が無ければ、

何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。

ラッパがはっきりした音を出さなければ、誰が戦いの準備をしますか?

同じように、あなた方も異言を語って、明確な言葉を口にしなければ、

何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。

空に向かって語ることになるからです。

 

【手紙抜粋終わり】

 

パウロは同じ教会内における個人個人の相違に目を向けました。

各人はそれぞれ独自の個性能力をもっているからなのですが、

大切なのは、眼に見えない仕方で全てのものの上に働いている

キリスト衝動に目を向けることなのです。

 

個人としてどんな人の中にも存在しておらず、

どんな異なる人の中にも存在できるキリスト衝動にです。

キリスト衝動は人類の新しい集合魂のような何かなのですが、

この人類が意識的に求めなければ出会えない集合魂なのです。

 

以上の点をはっきりさせるために、一度次のようなことを思い描いてみましょう。

 

――霊界の中には、同じ教団に属する一定数の人が存在しており、

その人たちは存在の内奥の部分でキリスト衝動にも従っている。

一方そこにはクリシュナの弟子たちもおり、

それぞれの仕方でヨーガの神、すなわち自分自身の衝動にも従っている。

霊的な生活の中で、一人一人が与えられた同じ道を辿っている。

キリスト衝動の影響を受けた人たちは霊界の中でも同じ道を辿るのではなく、

身体を失っても、霊的社会のために、

一人一人自分の個性を、他とは異なる自分の霊の働きを保っている。

そしてその一人一人がそれぞれ個別の存在であることを踏まえて、

キリストは一人一人の魂の中に同じ衝動を送り込む。――

 

ですからキリスト教徒は、魂が体から離れたときにも、

互いに異なる人々が同じ集団(聖書訳では教会)を共有しています。

一方クリシュナの弟子たちの魂は、

身体から離れてもヨーガの神から教えられた道を、それぞれの仕方で辿っています。

魂たちの個性がますます互いに異なっていくのは、

人類進化にとって不可欠なことなのです。

 

語り口は霊的指導者によって違っています。

ギーターの場合、クリシュナは弟子アルジュナに個人的に語っています。

パウロはもともと教会内の全ての人に、同じ内容を語ろうとしています。

魂の成熟度は一人一人異なりますから、日常生活に没頭している人もいるし、

秘教段階で秘教に導かれて、道を辿る人もいます。

それは一人一人の進歩の問題なのです。

 

※ギーター = バガヴァッド・ギーター・・・

インドで約2200年~2500年前に成立したとされている、ヒンドゥー教の聖典の一つ。

王子アルジュナが神クリシュナから教えを受け、苦悩しながら同族と戦争をする物語

 

 

クリシュナの教えでは、

今立っているところから出発して、個人として一人一人が魂を高めていきます。

キリスト教では、そもそも一歩先へ進む前に、

教会内でキリスト衝動と結び付くことを最優先させます。

 

クリシュナへの霊的な道を歩むことができるのは、

クリシュナの教えを受け容れることのできる人だけで、その道は困難です。

キリストは全ての人のために秘蹟を与えてくれたので、

キリストへの道はもっと易行の道で、どんな人も歩むことができます。

善人であれ、悪人であれ、どんな人もこの秘蹟に関与できるのです。

しかしこの秘蹟はどこか外面的、日常的です。物質界で成就される何かなのです。

ですから第一歩は物質界の教団内での行為になります。

これがキリスト教の本質なのです。

 

このキリスト衝動の世界史的な意味が分かれば、まさに私たちの時代においては、

まったく反キリスト的な立場、キリストに無関心な立場からも

始めることができるのです。

私たちの時代の精神生活に心を向けて、

唯物主義の矛盾や愚かさにも関心を向けるなら、

特定の信仰の立場から出発しなくても、

まさに私たちの時代の最も暗黒な部分からこそ、キリストへの道が開かれるのです。

 

私たちの運動が、特定のキリスト教信仰から出発している、と言われるのは、

誹謗・中傷にほかなりません。

私たちが問題にしているのは、何らかの信条から始めることではなく、

精神生活そのものの有り様を問題にしているからです。

イスラム教徒であれ、仏教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒、

誰であろうと、人類進化にとっての『キリスト衝動』の意味が、

つまり愛の意味が理解できる、と言いたいのです。

 

このことは同時に、パウロの立場を、その根底まで洞察することでもあります。

この関連において、

まさにパウロこそ、キリスト衝動を世に初めて広めた人物なのです。

 

 

△コリント信徒への手紙の解説は、こちらの著書に収録されています。

記事ではギーターの解説箇所など省略したりしているので、

実際の講義録とは異なるので御了承下さい。

 

 

■ローマ人への手紙 オリーブの木について

 

【ローマ人への手紙 11章13-24】 フランシスコ会聖書研究所訳

 

さて、あなた方、異邦人に問います。

私は異邦人の使徒であればこそ、この奉仕を尊び、

なんとかして同胞に競争心を起こさせ、その幾人かでも救おうとしているのです。

彼らが見捨てられ、その見捨てられたことが、世界と神との和解をもたらすのなら、

そのことは、死者の中からの復活でなくて、なんでしょうか。

 

麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうです。

根が聖なるものであれば、枝もそうです。

しかし、枝のあるものが折り取られ、

野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、

元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、

元の木の枝に対して誇ってはなりません。

たとえ誇るとしても、

あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは、

「枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

確かにその通りです。

彼らは不信仰ゆえに折り取られましたが、

あなたは信仰によってしっかりと立っています。

しかし、思い上がってはいけません。むしろ、恐れなさい。

神が、自然のままに生えた枝を惜しまなかったとすれば、

あなたをも惜しむことはないでしょう。

ここに神の慈しみと厳しさがあります。

倒れた者に対しては厳しさがあり、あなたがその慈しみに留まっているかぎり、

あなたに対しては神の慈しみがあります。

もし留まらないならば、あなたも切り落とされるでしょう。

一方、彼らも不信仰に留まり続けないなら、接ぎ木されるでしょう。

神は彼らを再び接ぎ木することができるのです。

あなたは、もともと野生であるオリーブの木から切り取られたのですから、

そして手を加えて栽培されているオリーブに接ぎ木されたのですから、

まして、もともと栽培されているオリーブの枝であれば、

どれほどよく再び元の木に接ぎ木されることでしょう。

 

【手紙抜粋終わり】

 

地球は地理的にも多くの秘密をもっています。

オリーブの木の見られる地帯は、

オーク(柏、ナラ、カシの類)やトネリコ(モクセイ科の落葉高木)

の見られる地帯とは違っています。

オリーブの世界では、オーク、トネリコ、またはイチイの世界とは

別の仕方でざわめき、どよみ、うねるのです。

そして人間は肉身の物質存在としては元素霊と結び付いているのです。

地球と人間との関連を理解しようとするなら、

パウロがオリーブの木の見られる限りの土地で布教を続けた、

という特別の事情に眼を向けるのも必要なことなのです。

パウロの世界はオリーブの木の世界なのです。

 

 

オリーブの木は大地と密接に結び付いていて、いわば地質の事情を現わしています。

この植物に特徴的なオリーブ油のもつ根源的な自然力を踏まえて、

オリーブの木が別の木を接ぎ木するのに最も適している植物だということに

気が付くなら、オリーブの木が地上の油の力に深く浸透されているのを

魂で感じることができるでしょう。

オリーブの油の中には、地球の浸透力が脈打っているのです。

 

パウロは、古代ヘブライ文化にキリスト教を、

地質の教えとキリストの教えとを結び付ける使命をもっていたのです。

 

パウロはいわば樹木のオーラの中に樹木の根源的な力を感じ取り、

このオーラから霊感を受けるために地質の教えに沈潜するのです。

彼の活動はオリーブの木の地質の領域でなされるのです。

 

現代人は、古代の著述家たちの述べた事柄も抽象的に、

現代の著述家たちの言葉と同じように、ただ脳で理解しようとします。

ですから悟性や理性だけでなく、すべての魂の力が

大地の根源状態と関連していることを考慮しようとはしていないのです。

 

まるでパウロは、

ユダヤの地質の教えを自分の活動地域に取り込もうとしているかのように、

キリストに充たされた人間とキリストから遠い人間との関係について、

特別重要な発言をしているのです。

その言葉は、オリーブの木が彼にもたらした熱狂によるものなのです。

パウロの特別の言葉を抽象的に受け取るのではなく、

その言葉の中に、非ユダヤ文化圏のキリスト教徒とユダヤ人とを結び付けようとする

パウロの熱意を感じ取るとき、

パウロのあの不思議な言葉の意味を深く実感することができるのです。

 

パウロは言うべきことをユダヤの地質学から取り出してきたのです。

パウロは大地から生じてオリーブの木の中で働いている自然の根源力を

壮大な仕方で、言うべき事柄のために比喩したのです。

 

 

△ローマ人への手紙の解説は、こちらの著書に収録されています。

省略などしているので、実際の講義録とは異なるので御了承下さい。