先月、本を三冊まとめて購入した話を書きました。

それが、こちらのルドルフ・シュタイナーの「危機の時代の人智学①~③」です。

現状、②巻の途中まで読みました。

(だいぶ遅かったですが)

 

ネットで本を調べてみると、このような紹介文が表示されます。

 

人類は未来に「第五」の福音に接する。

イエスがキリストたらんとする契機はどこにあったのか。

キリスト本性と人類進化の秘密を開示する。『キリストと人間の魂』も収録。

(①巻の内容です。)

 

購入を検討されている方の役に立つかもしれないので、

簡単に①巻の内容を紹介しようと思います。

(僕の主観や感想は先入観になってしまうかもしれないので、なるべく書きません。

 あくまで紹介のみ書きます。)

 

本が出版されたのは2021年の8月です。

1913年~14年の、Rシュタイナーの講話の内容が文面になっています。

①巻はキリストの人生に関する内容がメインで、②巻は異なった内容になります。

講話以前にRシュタイナーが解説した用語などが登場しますので、

少なくとも「神秘学概論」を読んでいないと理解するのが難しいかもしれません。

できれば「神智学」も読んでおくと、より理解しやすいと思います。

 

キリストや聖書の話が登場しますが、

Rシュタイナー自身は幼少期から聖書に触れていたわけではない

と記載されています。

僕自身は、聖書を部分的に取り上げて解説した本などを読んだことがある程度です。

 

Rシュタイナーの人智学①巻には、聖書には無い内容も記載されています。

この点に関して、もしかしたら幼少期から聖書に触れている方などは

合わないと思ったり、抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれません。

先入観無く読めるか、内容の判断などは各人で異なる部分があるかなと思います。

 

内容は主にはキリストの人生などです。

たとえば、エッセネ派という東方から伝わってきた、

聖なる修行者集団とキリストとの出会いと交流の様子が記載されています。

このエッセネ派が仏陀の教義の影響を受けた集団と解釈できます。

交流の後、瞑想中のキリストが仏陀と対話する様子が記載されています。

そこからキリスト存在の役割と意味などの話に繋がっていきます。

 

他には

幼いイエスが異教の祭壇で悪霊を見る様子

洗礼の前後で具体的にイエスに何が起こったのか

ゴルゴダの出来事にどのような意味があったのか

行によって道徳を身に付けた人が地球に与える影響

などが記載されていました。

 

本に関しては以上です。

 

聖書に関しては、当時の印刷・翻訳技術が低かったことや検閲の都合などから

誤ったまま普及した箇所もある、という指摘内容を時々見ます。

右にブックマークしてある「シルバーバーチの霊訓」というサイトにも

取り上げられていますので、もし興味のある方は参考にしてみてください。

シルバーバーチも100年以上前の本で、

聖書の誤りに対して痛烈に記載されています。

抵抗を感じそうな方は心の準備をして読まれるのがいいかなと思います。

 

少しだけ抜粋します。

 

これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判に対して多くの人は、

いささかなのではないかと思われることであろう。

が、シルバーバーチをよく知る人なら、

よほどの根拠がないかぎり批判は口にしないことをご存じであろう。

シルバーバーチは常に理性に訴え、

理性が納得できない宗教の教えに鋭い批判を向けている。

 

*シルバーバーチの教え下 21章 青年牧師との論争 の一部

 

牧師「キリストが地上で最高の人物であったことは全世界が認めるところです。

それほどの人物が嘘を言うはずはありません。

キリストは言いました――“私と父とは一つである。

私を見た者は父を見たのである”と。

この言葉は、キリストがすなわち神であることを述べたものではないでしょうか。」

 

バーチ「もう一度、バイブルを読み返してごらんなさい。

“父は私よりも偉大である”と言っているでしょう。」

 

牧師「はい、言っています。」

 

バーチ「またイエスは、

“天にまします我らが父に祈れ”と言っていないでしょうか。

“私に祈れ”とは言っておりません。

父に祈れと言ったイエス自身が、

天にまします我らが父であるはずはないでしょう。

“父に祈れ”と言ったのであって、“私に祈れ”とは言っておりません。」

 

牧師「キリストは“あなた方の神”と“私の神”という言い方をしています。

“私たちの神”とは決して言っていません。

ご自身を他の人間と同列には置いていません。」

 

それを聞いてシルバーバーチは、次のように繰り返した。

 

バーチ「イエスは、“あなた方の神と私”とは言っておりません。

“あなた方は私よりも大きな仕事をするでしょう”と言っております。

あなた方クリスチャンは、

バイブルを読む際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をしますが、

それをやめないといけません。霊に照らして解釈しなくてはいけません。

霊こそが、宇宙のすべての謎を解くカギなのです。

イエスが譬え話を用いたのは、そのためです。」

 

というような内容です。

 

ここから私的な内容です。上記までの内容と全く関連ありません。

 

僕は通勤など日常の移動手段で中型スクーターを使用していたのですが、

中古で購入して5~6年乗ったスクーターが、とうとう寿命がきてしまいました。

こんな感じのスクーターでした。

(2人乗れて、シート下に荷物も入って、車検も必要無いので便利でした。)

廃車して新しいスクーターを購入することにしました。

最近は新規車両登録のための住民票を取りに行ったり、

やりたいことや用事が重なりました。

 

まだ人智学②巻以降読み終わるのに時間かかりそうですが、

のんびり読み進めようと思います。

 

どうもありがとうございました。

前回の記載から少し間が空いてしまいました。

ここ数ヶ月、ルドルフ・シュタイナーの内容を中心に書いていました。

最初にRシュタイナーの内容を書き始めた頃は、

紹介する程度の形式で3~4回書いてみようと考えていたのですが、

書いているうちに色々追記したくなり、予定よりも多く書きました。

 

Rシュタイナーの説明は難しい箇所が多くあります。

このことは著書にも記載されているのですが、

読み手自身に思考して気づいてもらえるように、という筆者の意図もあるようです。

そのこともあって、

難しい箇所を砕いて書いてしまうのも筆者の意図に反してしまうのではないかな

と思い、まとめ方や記載の仕方が難しいところもありました。

 

最近、面白そうな本を数冊まとめて購入しました。

(瞑想や精神的修行に関する本です。)

今までブログで書きたいことがある時に、まとめて書いて

書いたらしばらく休んでを数回繰り返してきたのですが

またしばらく休んで本を読んで勉強したりしようと思います。

 

また書きたい内容が見つかった時に、のんびり書いていこうと思います。

たまにRシュタイナーの内容を追記したりするかもしれません。

 

読んでくださった方々、どうもありがとうございました。

またよろしくお願いします。

今回また瞑想に関する説明箇所を、

ルドルフ・シュタイナーの著書を参照にして記載します。

前回より少し進んだ内容になりますので、

前回のタイトルを瞑想①にして、今回のタイトルを瞑想②にしました。

 

■Rシュタイナーは瞑想・沈潜に関して

 内的沈潜の手段は、

 魂が感覚的な知覚から切り離され、身体的な感覚器官による印象が意味を失い

 微唾んでいる内的な能力が有効に働くことができるように魂を促す目的がある

 と説明しています。

 その上で、自身に合った修行方を見出すことと、修行に対する忍耐の説明です

 

人間の本性は様々であるから、

一人一人に相応しい修行の手段を見出すことが大切である。

沈潜する時間に関しては、

沈潜が平静に慎重に行われれば行われるほど、その効果も大きい。

けれども過度に走ることは避けなければならない。

何を基準にしたらいいかは、

修行そのものから生じる、一種の内的な時の流れ方が教えてくれるであろう。

内的沈潜の修行は、一般に自らその成果を実感できるようになるまで

長い間実行し続けなければならない。

霊的修行に不可欠なのは、忍耐と持続力である。

この二つをしっかりと保って、

惑わずに修行を続けるのでなければ、多くを達成することはできない。

忍耐と持続力が常に魂の中に生きているのでなければならない。

 

*著書では沈潜方の例として、特定の形象をイメージして日常的な感覚を一切退けて

形象に集中する方法が紹介されています。

この際の形象は何でもいいわけではなく、一定の条件があります。

今回はこちらは省きます。

 

 

■瞑想時は物事の本質をとらえる認識能力が高くなります

 喜びの感覚を例に挙げた説明です

 

通常の生活課程においては、

喜びを促す外的な刺激が存在するとき、魂は喜びを体験する。

心の善良さを感じさせる行為を目のあたりにする人は、

その魂が健全である限り、満足し喜びを感じるであろう。

しかし魂は、こうした行為について思いを巡らし、こう言うこともできる。

「心の善良さから行う行為とは自分自身の利害ではなく、

 相手の利害に従って行う行為のことだ。それが道徳的に善なる行為なのだ」

魂は喜びや満足感を与えてくれた周囲の出来事から離れて、

心の善良さ一般についての理念を作ることができる。

善良な心が現れるのは、魂が他人の利害をいわば呑み込んで、

それを自分の利害にすることができたときである、と考えて

心の善良さについての道徳理念に喜びの感情をもつことができる。

これは感覚世界におけるあれこれの事象への喜びなのではなく、

理念そのものへの喜びである。

そのような喜びを、時間をかけて魂の中に生かそうと試みるとき

感情への沈潜が体験できる。

内なる魂の能力を目覚めさせるのは、この場合は理念なのではなく

時間をかけて

外的印象によって惹き起こされたのではない感情に没頭することなのである。

超感覚的な認識は、

通常の思考活動よりも事物の本質の中に深く入り込むことができるので

どのような感情を内的沈潜の対象にすれば、

魂の能力を発達させることができるかを語ることができる。

高度の霊的な修行のためには、このような感情への沈潜が必要不可欠なのであるが

心の善良さに関して述べたような感情への精力的な沈潜は、

特に有効に遙か彼方へ導いてくれることを知っておく必要がある。

 

 

■瞑想・沈潜によって自分自身を知覚し観察する

 自分自身を客観視できるようになるという説明です

 

この道の(行・訓練の)途上で最初に体験するのは、

身体器官から自由になることである。

(瞑想で身体の感覚が無くなって宙に浮いているような感覚になりますが、

 ある程度訓練を積んで慣れてきてからと考えていただけるといいと思います。)

その時、次のように言うことができる。

「感覚的な知覚や通常の知的な思考が働かないときでも、

 私の意識は失われずにいる。

 私は身体から離れて、

 それまで私であった存在の傍らにいる自分を感じることができる」

自分の魂的・霊的な本性を観察すること、これが最初の純粋に霊的な体験である。

この魂的・霊的な自我本性は

身体的な感覚と身体的な知性とに結びついていた自分自身から引き上げられた

新しい自分自身なのである。

もしも人が沈潜への修行をすることなく

感覚的・知的な世界から切り離されてしまったなら

意識を失い「無」の中に沈んでしまったであろう。

もちろん人はこの魂的・霊的な本性を沈潜を修行する以前にも所有していた。

けれどもその本性は霊界を観察する道具をまだ所有しておらず、

見るための目や聞くための耳を持たない身体のような在り方をしていた。

沈潜の行の中で用いられた力が、

これまで組織化されていなかった魂的・霊的な本性の中から、

魂的・霊的な諸器官を作り上げる。

このようにして人は、自ら作り上げたものの働きを、まず始めに知覚する。

したがって最初の体験は、この意味では自己知覚なのである。

修行という自己教育による魂の進化のこの時点で、

修行の結果現れる霊視内容の中で、

まず自分自身を知覚するのだということを

完全に意識しておくことは霊的修行の本質に属する。

 

*瞑想の言葉や文章で表現することが難しい部分を

上手く説明していて凄いなぁと感じます。

瞑想始めて間もない方などは、もしかしたら分かりにくいかもしれませんが、

瞑想を続けて半年後・一年後などに改めて読んでみると

分かるようになっているのではないかなと思います。

 

GW終盤頃から、発熱や頭痛などは無かったのですが咳だけがよく出るようになり

瞑想中も咳で呼吸が乱れて、集中が途切れてしまうという状態でした。

10日程で直りましたが、改めて普通に呼吸できて集中できるということが

ありがたいことなんだなぁと実感できました。

 

どうもありがとうございました。