塩竈大好き倶楽部(案内人)

塩竈大好き倶楽部(案内人)

「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

 5月22日(水),仙台市,名取市,多賀城市からお越しの3人の方について,志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)をガイドしました。写真で報告します。

 

 午前10時,鹽竈神社博物館前に集合しました。

 

鹽竈(1)

 

 藤塚知明旧宅跡の碑です。藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗)と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

鹽竈(2)

 

鹽竈(3)

 

 鋳銭釜です。鋳銭釜自体は志波彦神社鹽竈神社とは無関係です。JR石巻線(仙石線)・石巻駅(石巻市鋳銭場)周辺は「鋳銭場」(いせんば)という地名ですが,江戸時代にここで鋳銭(貨幣を鋳造)していたからです。仙台藩は領内の銭貨不足を理由に,江戸幕府にしばしば鋳銭を願い出ていました。幕府の許可を得て,第2代藩主・伊達忠宗の寛永14年(1637年)及び第5代藩主・吉村の享保3年(1728年)に銅銭の「寛永通寶」を,同じく吉村の天文4年(1739年)及び第7代藩主・重村の明和5年(1768年)からは鉄銭の「寛永通寶」を鋳造しています。仙台藩は,領民に対し幕府鋳造の「寛永通寶」の使用を禁止しています。それらを仙台藩の収入にするためです。また,幕府の許可を得て,重村の天明4年(1784年)からは独自の通貨である「仙臺通寳」を鋳造しています(材質が悪く,5箇年の期限を待たずに鋳造中止)。

 

鹽竈(4)

 

 志波彦神社遷祀150年記念事業として志波彦神社鳥居塗替工事中で,通行止めになっています。

 

鹽竈(5)

 

 御文庫です。「此の建物は嘗て鹽竈神社が神仏混交の時代,別宮の南側透塀外に有った鐘楼堂で,後に此の場所に移し替えたものである。室町時代の建物と言われ当社では最も古い建築物であります。」との説明があります。令和元年屋根を葺き替えました(社務所の屋根も同年の葺き替えです。)。

 

鹽竈(6)

 

鹽竈(7)

 

 志波彦神社です。志波彦神社は,「延喜式神名帳」(延長5年(927年))に記載されている名神大社です(「延喜式内名神大社」と言います。)。鹽竈神社は「弘仁式主税帳」(弘仁11年(820年))及び「延喜式主税帳」に国家の正税(しょうぜい,租稲)から1万束の祭祀料を受ける神社として記載されているのですが,何故か「延喜式神名帳」には記載されていません(「式外社」と言います。)。宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた志波彦神社は,明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額,神官職制等規則」により国幣中社に列せられたものの,長い歴史の中で境内は狭隘で祭典の執行にも差し障るようになっていたことから,明治7年12月24日鹽竈神社別宮へ遷祀しました。鹽竈神社はそれまで官国幣社等のいずれにも列せられていませんでしたが,国幣中社・志波彦神社が鹽竈神社境内に遷祀されることになったことから,鹽竈神社も国幣中社に列せられたのです(明治7年12月23日国幣中社列格奉告祭斎行)。志波彦神社の社殿は,昭和13年竣工し,同年9月遷座しました。昭和38年塩竈市文化財に指定されています。

 

鹽竈(8)

 

鹽竈(9)

 

 茅の輪です。夏越大祓式(なごしのおおはらえしき,毎年6月30日斎行)以外にも,適宜くぐることができます。半年間の罪や穢れを取り除き心身を清らかにします。

 なお,志波彦神社鹽竈神社の茅の輪のくぐり方は,一般的なものではないと思います。私が理解している一般的なくぐり方は次のとおりです。

 ① 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,左回りで正面に戻る

 ② 正面でお辞儀,右足で茅の輪をまたぎ,右回りで正面に戻る

 ③ 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,左回りで正面に戻る

(④ 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,参拝へ)

 志波彦神社鹽竈神社の「茅輪のくぐり方」(当日巫女さんが配布します。)には「茅輪は左記の古歌を唱え,①左廻り②右廻り③左廻りと三度くぐります。(中略)第三首・・・左廻り 今日くれば 麻の立ち枝にゆふかけて 夏水無月の祓ひをぞする」と書いてある(原文は縦書き)のですが,志波彦神社鹽竈神社では③の「茅の輪をまたぎ」までで,「左回り」が無いのです(神職,来賓などは茅の輪をまたいだ後右折し,社務所へ向かっています。)。理由は不明です。

 

鹽竈(10)

 

 「推定樹齢279年」のエドヒガン(江戸彼岸)です。何故そこまで細かく言えるのでしょうか。鹽竈神社七曲坂入口の四方跡(よもせき)公園(塩竈市西町)に「奉植一宮御境内櫻木五百株」の碑があるからです。延享2年3月10日(1745年4月11日),桃生郡深谷北村(現・石巻市北村)の「月参講中九十四人」が鹽竈神社及びその周辺に桜木500本を植樹した記念碑です。そのうちの1本がこれであると言われています。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)であるとのことです。

 

鹽竈(11)

 

 祓所(はらえど)です。

 

鹽竈(12)

 

 ロウバイ(蠟梅)です。石碑は明治33年7月大内源太右衛門(仙台の呉服商)が奉納したもので,鈴木省三(現・岩沼市出身の医師・漢学者,号は雨香)の撰文です。それによると,林子平が長崎に遊学の際,支那(清)から渡来のロウバイに魅せられ,これを持ち帰って藤塚知明に贈ったもので,知明邸の離れ(「金華亭」)にあったのを,知明没後この地へ移植したものであるとのことです。ただし,何代目かのものではないかと思われます。

 

鹽竈(13)

 

鹽竈(14)

 

 志波彦神社及び鹽竈神社の由緒です。鹽竈神社由緒には,「当神社は,武甕槌神と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は,当地に留まって人々に塩つくりを教え広められたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並び「延喜式」に「鹽竈の神を祭る料壱萬束」と記されていることから,当時すでに重要な神社であったと考えられる。その後も武家による崇敬を集め,特に江戸時代には,仙台藩主伊達家は厚い崇敬を寄せ,歴代の仙台藩主は,社領などを寄進するとともに,自ら祭事を司った。」とあります。

 律令制度は,律(刑法に相当),令(行政法・民法に相当),格(きゃく,律令の修正・補足のための法令と詔勅),式(律令の施行細則)によって運用されます。弘仁(こうにん)式は弘仁11年(820年)に,延喜式は延長5年(927年)に完成しました。それらの主税帳に,「祭鹽竈神料壱萬束」とあります。当時陸奥國運営のための財源に充てられていた正税(しょうぜい)が60万3000束(そく)です。つまり,正税の約60分の1の祭祀料を受けていたということになります。1万束が何石に相当するのか諸説があり,はっきりしません。

 仙台藩初代藩主・伊達政宗は,元和5年(1619年)鹽竈神社に社領として24貫336文(仙台藩では1貫文は10石ですので,約243石)を寄進しています(うち約146石が社家分,その余は別当・法蓮寺及び脇院分)。ただし,高橋正己「鹽竈神社旧社家の歴史」(昭和56年12月)によれば,政宗は留守氏時代の社領を没収した上で改めて寄進しており,寄進された社領は元の知行高をはるかに下回ったとのことです。

 第4代藩主・綱村は,寛文3年(1663年)鹽竈神社に社領として7貫584文(約75石)を寄進しています。ただし,すべて法蓮寺に渡っています。ここで,法蓮寺側が社家側を知行高で上回ることになりました。綱村は当時5歳ですから,この寄進は隠居した第3代藩主・綱宗の意志によるものと思われます。 

 第5代藩主・吉村は,寶(宝)永元年(1704年)鹽竈神社に社領として55貫文(550石)を寄進していますが,併せて「一山の社家社僧は法蓮寺の下知に従え。」と命じています。

 最終的に,伊達氏から寄進された「石高は1035石2斗で,このうち170石を祭料とし,その余りは法蓮寺別当社家社僧で配分した。」(志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社))とのことです。

 江戸幕末まで鹽竈神社には宮司家が存在せず,初代・伊達政宗以降歴代の仙台藩主は大神主として自ら祭事を司っていました。実質祭祀を行っていたのは禰宜家です。寶(宝)永年間の社家は29家で,上位の5人(左宮一禰宜,右宮一禰宜,別宮一禰宜,祝詞大夫,左宮二禰宜)を番頭とし,他の社家23人を指揮していました。また,御釜神社専従の社家(御釜守)が1人いました。左宮一禰宜が神職中筆頭の地位を継承していたのは明らかです。

 

鹽竈(15)

 

 志波彦神社鹽竈神社令和甲辰歳大絵馬です。大絵馬は縦2.5m,横3.8m,重さ約300kgとのことで,親子の竜(龍)が悠々と飛んでいる様子が描かれています。

 

鹽竈(16)

 

 「皇族下乗」とあります。皇族でも乗り物から降りてくださいということです。

 

鹽竈(17)

 

 鹽竈神社馬場です。7月第2日曜日,ここで流鏑馬神事が斎行されます。流鏑馬神事は陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。鹽竈神社別宮・左宮・右宮それぞれに一頭の馬を立て,三人の騎手が三つの的を次々と射抜いて行きます。矢が的中することは除災招福の瑞祥とされています。

 なお,志波彦神社鹽竈神社HPでは,家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行ったのを「室町時代」としており,マス・メディアなどもほとんどこれを引用しています。しかし,家景は平安時代末期から鎌倉時代初期の御家人(?~承久3年(1221年))ですので,「室町時代」ではまったく時代が合いません。「鎌倉時代初期」でしょう。流鏑馬神事斎行の直前にも,神職が放送で「今からおよそ830年前」云々と説明しています。家景が陸奥國留守職に任ぜられたのは文治6年(1190年)ですから,それ以降ということになります(伊澤氏は家景の子・家元以降も陸奥國留守職を世襲したため,留守氏を称します。)。

 

鹽竈(18)

 

 鹽竈神社表参道(表坂)上から表参道を望みます。表参道は202段の急な階段です。氏子三祭(帆手まつり,花まつり,みなと祭)において神輿(重さ約1t)はここを下り,上ります。国指定重要文化財・表参道石鳥居の柱に,「鹽竈宮大明神奉献建石華表一基」,「寛文三年癸卯七月十日松平龜千代」の刻銘があります。寛文3年(1663年)仙台藩第4代藩主・伊達綱村の奉献です。伊達氏は将軍・徳川氏から「松平」を与えられ,初代藩主・政宗以来代々の藩主は「松平陸奥守」を称していましたので,「松平龜千代」と刻したのでしょう。綱村は当時わずか5歳です(当時は,幼名の「龜(亀)千代」)。

 なお,表参道石鳥居以外にも,建物14棟,太刀2振,棟札11枚が国指定重要文化財になっています。

 

鹽竈(19)

 

 鹽竈神社随身門です。「随身」(ずいじん)とは,本来天皇・貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで,藤原道長の随身・下毛野公時(しもつけののきんとき)が有名です。金太郎のモデルで,近衛府官人「第一の者」と言われていたとのことです。随身姿の守護神像を左右に安置した神社の門を「随身門」と言います。

 

鹽竈(20)

 

 菊の御紋(十六弁八重表菊紋)です。明治2年太政官布告第195号によって天皇の紋章とされました。

 

鹽竈(21)

 

 推定樹齢約800年の御神木杉です。

 

鹽竈(22)

 

 鹽竈神社の境内末社です。向かって右から神明社,八幡社,住吉社,稲荷社です。

 

鹽竈(23)

 

 鹽竈神社四足門(よつあしもん)前の延享4年(1747年)8月吉日奉納の石造狛犬です。出川哲朗さんに似ていると言われています。通称「仙台狛犬」と言い,有名です。志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社)には「グロテスクな顔が捨てがたい。」とあります。

 

鹽竈(24)

 

 鹽竈神社四足門です。国指定重要文化財としての名称は,単に「門」です。

 

鹽竈(25)

 

 鹽竈神社別宮拝殿です。別宮本殿に鹽竈神社の主祭神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が祀られています。

 

鹽竈(26)

 

 昇龍です。

 

鹽竈(27)

 

 降龍です。

 

鹽竈(28)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿です。拝殿は一つですが,本殿は二つです。左宮本殿に武甕槌神(たけみかづちのかみ,鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の主祭神),右宮本殿に経津主神(ふつぬしのかみ,香取神宮(千葉県香取市香取)の主祭神)が祀られています。

 左右宮は仙台城(仙台市青葉区川内,現在は「仙台城跡」)を向いて建てられているという人がかなりいます。例えば,「週刊日本の神社第97号 志波彦神社鹽竈神社」(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン)18頁「伊達政宗築城の仙台城」には,「伊達家の守護神である武甕槌神と経津主神を祀る鹽竈神社左右宮拝殿は,この城と相対するように南南西に向けて建てられている。」と記載されています。

 志波彦神社鹽竈神社HP「鹽竈神社の御由緒 社殿の不思議」にも,「通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが,鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに,門を入って右手に主祭神たる鹽土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て,大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し,海上守護の鹽土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。」と記載されています。

 鹽竈神社左右宮がほぼ南南西を向いて建てられていることは間違いのないところです。では,その方角に仙台城はあるでしょうか。ありません。地図を見れば簡単にわかります。お手元の地図(地図アプリ)を御覧ください。仙台城は,鹽竈神社から見て南西(正確には,南西よりももっと西向きです。)の方角にあります。従って,鹽竈神社左右宮は仙台城を向いていません。

 

鹽竈(29)

 

 「文治の燈籠」です。鹽竈神社左右宮拝殿の前(東側)にあります。松尾芭蕉は河合曾良とともに,元禄2年5月9日(1689年6月25日)鹽竈神社に参拝しました。その際,「文治の燈籠」を見学しています。そして,「神前に古き宝燈有。鉄の戸びらの面に文治三年(1187年)和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて,そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士也。佳命今に至りて,慕はずといふ事なし。誠人能道を勤,義を守るべし。名もまた是にしたがふと云り。」(「おくのほそ道」)と,忠衡を絶賛しています。忠衡は父・藤原秀衡(奥州藤原氏第3代)の遺言である源義経保護を強く主張して,その取扱いを巡って兄・泰衡(奥州藤原氏第4代)と対立し,誅殺されました。

 現在の「文治の燈籠」は,文化財指定されていませんので,新しいものと考えるのが自然でしょう。芭蕉らが来た頃の「文治の燈籠」とは屋根の形や飾りが違い,当時は石の柵もありませんでした。場所も違います。かつては,御神木杉の西側に「文治の燈籠」があったようです。石の柵が設置されたのは享和3年(1803年)のことで,仙台の俳人を中心として44句の俳句が刻まれています。「鶯の 朝読みいそく 寝ぼほけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

鹽竈(30)

 

鹽竈(31)

 

鹽竈(32)

 

 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計とのことで,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。

 

鹽竈(33)

 

鹽竈(34)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿前(西側)のタラヨウ(多羅葉)です。宮城県指定天然記念物です。葉の裏面を傷つけると字が書けることから「葉書」の語源とされ,郵便局の木となっています。

 

鹽竈(35)

 

鹽竈(36)

 

鹽竈(37)

 

 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。竿(さお,火袋を乗せる台を支えるもの)には儒学者・田辺匡敕の由来記が刻銘されています。高さは丈六(1丈6尺=約4.8m)です。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。

 江戸時代までの北海道が日本でなかったような主張をしてる人がいますが,ふざけ過ぎというものです。鎌倉幕府は安藤(後に,安東)氏を蝦夷管領に任命しています。室町幕府もそれを踏襲しています。蠣崎(松前)慶廣(広)は豊臣秀吉から蝦夷地(北海道)支配の朱印状を得ています。同じく慶広は徳川家康から黑印状を得ています。松前藩の成立です。江戸幕府は2度にわたって北海道を直轄地にしていますが,そればかりでなく千島列島も北蝦夷地(樺太)も直轄地にしています。文化燈籠は第1次直轄時のものです。第2次直轄時に仙台藩の元陣屋(「元」は拠点という意味)になったのが白老(しらおい)で,同地には鹽竈神社(白老塩釜神社,北海道白老郡白老町陣屋町)があるとのことです。仙台藩は白老から択捉島までの警護を担当したほか,交代で樺太の警護を担当しています。北海道,千島列島,樺太の警護を担当したのは東北諸藩です。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は北海道測量から始まったのです。間宮林蔵は樺太を探検し,大陸にも渡り,海峡(間宮海峡)を確認しています。

 

鹽竈(38)

 

鹽竈(39)

 

鹽竈(40)

 

 国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」です(ただし,「標準木」ではありません。)。青いタグが付いています。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」と国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,見た目はまったく同じです(合計で68本あるそうです。)。カスミザクラ(霞桜)の八重咲きがスイショウザクラ(水晶桜)で,鹽竈ザクラは水晶桜の突然変異であると考えられていますが,雌蕊(めしべ)が葉化してしまうため,接ぎ木で増やします。その接ぎ木の台木が異なるのです。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」は,台木がマザクラ(真桜)です。国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,台木がヤマザクラ(山桜)です。山桜への接ぎ木を繰り返すと,花が山桜化してしまい,「まり(毬、鞠)のような八重桜」でなくなってしまうと言われています。また,「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」ですので,志波彦神社鹽竈神社境内にあるものに限られます。境内に27本あるようです。ただし,立入禁止区域内にあるものがあり,すべてを確認することはできません。

 なお,真桜(アオバ(青葉),アオハダ(青膚)とも言います。)を「花の咲かない桜」と言っている人がいますが,花は咲きます。接ぎ木の台木に適しているため,真桜の花を見る機会がないだけでしょう。

 

鹽竈(41)

 

 伊達綱村公顕彰碑です。塩竈市史によると,御舟入堀(貞山運河)が通じると物資は塩釜港を経由せず直接仙台城下へ運ばれるようになり,塩竈は著しく衰退してしまったのですが,貞享2年(1685年)綱村は塩竈村の年貢を軽くし,鮮魚や材木の荷揚げは塩釜港だけにするなどの特別の命令(「貞享の特例」)を出して,塩竈を衰退から救ったのです。そのため,塩竈は仙台藩随一の港として発展しました。塩竈市民は綱村を「塩釜開港恩人」と呼び,現在でも毎年法要が開催されているのです。綱村が死没したのは享保4年6月20日(1719年8月5日)です。300年遠忌(おんき)に当たる平成30年伊達綱村公顕彰碑除幕式が挙行されました。

 

鹽竈(42)

 

 鹽竈神社東神門です。日支飼料株式会社社長・片倉直人が造営費(1万5千円)を寄進し,昭和16年10月竣工したものです。日支飼料株式会社は,その後片倉飼料株式会社,片倉チッカリン株式会社,片倉コープアグリ株式会社と社名変更しています。

 

鹽竈(43)

 

 鹽竈神社東神門へ上る階段の左側に四重塔があります。仙台市(現・青葉区)大町五丁目の梅津源右衛門が大正7年4月25日に奉納したものですが,塔がいかにも寺院っぽいのです。鹽竈神社は江戸時代まで,真言宗の法蓮寺が別当寺でした。神仏習合(混淆)と言うだけでなく,法蓮寺が鹽竈神社の社務一切を支配していたのです。しかし,神仏判然令によって明治3年廃寺となりました。それ以後である大正7年に寺院っぽい塔が奉献されているのが不思議です。もっとも,鹽竈神社東参道下にはもっと寺院っぽい五重塔がそれ以降(大正10年)に奉納されていますので,あまり拘らなくて良いのかも知れません。

 ちなみに,梅津源右衛門は「清酒醸造法」という本を書いた杜氏のようです。

 

鹽竈(44)

 

 萬多奈能岡(亦無岡,またなのおか)の碑です。明治天皇は,東北巡幸の際の明治9年6月29日,鹽竈神社に参拝されました(天皇は皇室の祖先が祀られている所にしか参拝(親拝)しないので,それ以外の所で「参拝」の語を使用するのは誤りで,「行幸」とすべきであるとの意見がありますが,ここでは一般的な「参拝」とします。)。「陛下は午前七時,行在所(あんざいしょ,「勝画楼」のこと)を御出門,板輿に召され,社前より御徒歩で進まれ,拝殿階下で御脱帽され,各社正殿で御拝…」(「歴代宮司列伝」初代落合直亮宮司から)とのことです。その際,「ここから松島の景色を御覧になり,この良い景色に感心されて,「またとない良い景色だ。」とおっしゃった。」とのことです。また,この日供奉した侍従番長・高崎正風が和歌を詠んでいます。

 

鹽竈(45)

 

 鹽竈神社二之鳥居です。鹽竈神社東参道,七曲坂上にあります。寛政9年(1797年)に造立されたもののようです。扁額は神社本庁統理・徳川宗敬(むねよし,水戸徳川家第12代・篤敬の二男,一橋徳川家第11代・達道の養子,一橋徳川家第12代当主)が揮毫したもので,平成21年に鋳物で更新されたとのことです。

 

鹽竈(46)

 

 鹽竈神社で最も古い参道である七曲坂です。七曲坂は奈良時代にはあったものと推定されていますが,もっと古いかも知れません。

 

鹽竈(47)

 

鹽竈(48)

 

 鹽竈神社東参道(裏坂)です。明治3年に廃寺となるまで法蓮寺僧侶の鹽竈神社への「通勤路」でした。鹽竈神社二之鳥居から旧・法蓮寺門前までの約300mが稲井石の敷石になったのは,天保3年(1832年)のことです(藤橋経雄氏「裏坂と道路改修記念碑」7頁)。

 

鹽竈(49)

 

 約1時間のガイドを終了し,鹽竈神社博物館前で解散しました。

 なお,実際のガイドでは,このBLOGのような詳細な説明はしていません。できるだけわかりやすい説明を心掛けているつもりです。

 

  ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

【無料ガイドします。】

 塩竈大好き倶楽部(案内人)は,志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)とその門前町を巡るまち歩きガイドをしています。ガイド時間は1時間30分から2時間程度,集合場所はJR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口前。
 また,志波彦神社鹽竈神社境内のみのガイドもしています。ガイド時間は45分から1時間程度。集合場所は鹽竈神社博物館前。
 料金はいずれも無料です。ただし,何らかの損害が発生しても案内人は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみガイドをお受けしています。
 御希望の方(1人から最大7人程度まで)は,メールで①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号,④希望日時・所要時間,⑤「まち歩きガイド」か「神社ガイド」かの別を,希望日時の7日(168時間)前までにお知らせください。案内人の都合等により,お断りする場合があります。ガイドをお受けした場合には,メールで案内人の携帯電話番号をお知らせします。
 メールアドレス sea-and-shrine@ymail.ne.jp

(注)令和5年11月15日(水),メールアドレスをsea-and-shrine@ymail.ne.jp に変更しました。

 5月17日(金),2人の方について浦戸諸島(宮城県塩竈市)の有人4島の一つ・寒風沢島のガイドをしました。写真で報告します。

 

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)です。午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。寒風沢島までの運賃は630円です。

 

寒風沢(1)

 

寒風沢(2)

 

 午前10時16分頃寒風沢島桟橋に到着しました。所要時間は約46分です。

 

寒風沢(3)

 

 「寒風沢港の歴史」です。

 

寒風沢(4)

 

 造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),鹿児島藩(「薩摩藩」とも。島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

寒風沢(5)

 

 「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。

 

寒風沢(6)

 

 日和山展望台です。日和山は標高22.2mとのことです。

 

寒風沢(7)

 

 西側の海を望みます。

 

寒風沢(8)

 

 天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

寒風沢(9)

 

 (参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

 

寒風沢(10)

 

 庚申塔です。向きが変わってしまっています。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

 

寒風沢(11)

 

 聖観世音菩薩のようです。

 

寒風沢(12)

 

 しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

 

寒風沢(13)

 

 長南和泉守菅原道本(ちょうなんいずみのかみ すがわらのみちもと)の墓を目指します(以下,長南道本を「和泉守」と表記します。)。和泉守は天正8年(1580年)安房國に生まれたようですが,出生地の詳細や父の諱(いみな=本名)は不明です。この頃長南氏の大部分は安房里見氏(曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」で有名です。)に仕えていたようです。和泉守が家督を相続したのは天正13年(1585年)です。里見義康は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後,論功行賞によって常陸國鹿島(現・茨城県鹿嶋市)3万石を加増され,12万2000石の大名になりました。しかし,慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣改易事件に連座したのか,安房國を没収され,常陸國鹿島の代替地である伯耆國倉吉(現・鳥取県倉吉市)3万石に転封を命ぜられました(しかし,実際には4千石で,後に100人扶持となり,配流と同じ扱いでした。元和8年(1622年)死去し,男子がいたにもかかわらず,無嗣絶家となりました。)。和泉守は里見氏から1万2000石を与えられていた船手奉行(上総湊を根拠とした裏水軍の首将)であったとのことですが,浪人となり,慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際豊臣秀頼方に加わろうとしましたが,(多分参陣前に)豊臣方は敗れてしまいました。和泉守は3隻の船を奪取し,上総國興津(現・千葉県勝浦市)から出航し,仙台藩伊達氏の飛び地である常陸國信太郡青宿(現・茨城県稲敷郡阿見町大字青宿)を経て,同年12月4箇月掛けて寒風沢島に落漂したのです。一族近臣60余人の大勢で小さい島にいつまでもいられないため,一族近臣は東北地方各地へ落ち延びました。和泉守は隣の野々島との間の海峡に船を浮かべ,船から寒風沢島へ通い,崖を崩したり谷を埋めたりして生活しやすいように工事をし,3年目にやっと上陸して島の暮らしに移りました。その後(豊臣氏再興は不可能であることがはっきりしたためか,)和泉守は得意の船を使って海運業(長南屋)を始め,その頭領として運営に当たる一方,仙台藩の客分として船山航蔵の名で仙台藩水軍操練の指南役となりました。和泉守は長男・茂左衛門(先妻の子,丈八郎道村とも)を石巻に分家(湊長南家)させて廻船問屋を始めさせましたが,これも繁盛しました。和泉守の跡取り(寒風沢長南家)は杢之助(後妻の長男,清八郎道時とも)と言い,江戸幕府から御城米浦役人に任命され,刀を差して寒風沢港の仕事を監督しました。和泉守は寛永17年(1640年)に,松島にある伊達氏,長南氏の菩提寺である瑞巌寺(松島青龍山瑞巌円福禅寺)の雲居希膺(うんごきよう,雲居国師,把不住軒,瑞巌寺第99世住持職)から賞状を貰いました。賞状には,「松には赤松と黒松があるが,松島は元々赤松ばかりで黒松は無かった。ところが寒風沢の長南和泉守が浜松地方から黒松の種を持って来て,ここの海岸や島々に植えてくれた。それが大きくなって島々浦々が見事な風景となった。これは和泉守の大きな功績と言わなければならない。その後和泉守が法名を付けてくれるように希望したので,「栽松道本」(さいしょうどうほん)と付けてあげた。」というようなことが書かれているそうです。即ち,世の人々が松島を天下の名勝と称え,今も松島が観光名所となっているのは,和泉守がこうして松を植えていたことも大きな力になったことは間違いありません。

 長南和泉守や長南氏について知りたい方は,中村就一氏の「長南氏の研究」(全国長南会)などを参照してください。

 

 全国長南会の「長南家先祖代々霊位有縁無縁萬霊位」の供養塔です。

 

寒風沢(14)

 

 長南家の墓です。「栽松道本」とあります。

 

寒風沢(15)

 

寒風沢(16)

 

寒風沢(17)

 

寒風沢(18)

 

 田んぼです。株式会社佐浦の「純米吟醸 浦霞 寒風沢」は寒風沢産ササニシキを原料にしています。

 

寒風沢(19)

 集落のはずれに佇む六地蔵です。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。六地蔵は,六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。私は,六地蔵の六道への配当(どれが天道の地蔵で,……どれが地獄道の地蔵なのか,ということ)を考えて,印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)を観察して来たのですが,まったくわかりません。しばらく前に諦めました(苦笑)。

 

寒風沢(20)

 

 松洞山寒澤寺(真言宗,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。江戸時代鹽竈神社(塩竈市一森山)の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺)の末寺であったとのことです。鳥居があるので,神社かなと思ってしまいます。本尊は不動明王です。寒澤寺は明治時代初期に廃寺になっているはずです(法蓮寺は明治3年廃寺)が,現在も島民によって護られているようです。

 

寒風沢(21)

 

寒風沢(22)

 

 さて,「百万遍供養碑」は「縦140cm,横85cm」とされています(平成22年3月宮城県教育委員会「特別名勝松島保存計画」,塩竈市HPなど多数)が,どれでしょうか?「鎌倉時代製」ともあります(「浦戸諸島〔資源目録〕」,「文化の港 シオーモ」など)。不思議なことですが,「浦戸諸島 島歩きマップ」に記載されている「寒澤寺百万遍供養碑」がどれか,はっきりしません。私は「百万遍供養碑」は写真中央やや左の光明真言供養碑であると考えていますが,「元禄十二」年(1700年),「長南喜右衛門五十六歳敬建石」とあるそうです。何故「元禄12年(1700年)建石」ではなく,「鎌倉時代製」なのかは不明です。

 

寒風沢(23)

 

 寒澤寺の歴代住持職の墓碑などです。

 

寒風沢(24)

 

 寒風沢島桟橋で塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜までの運賃は630円です。

 

寒風沢(25)

 

 午後零時45分頃,マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約38分です。

 

寒風沢(26)

 

寒風沢(27)

 4月20日(土),「(第13回)菜の花咲く浦戸諸島を巡ろう!」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は4月17日(水)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。仙台市から2人の方に参加していただきました。また,朴島を巡った後朴島桟橋で知り合った4人の方(宮城県塩竈市,宮城郡利府町など)も御案内しました。

 なお,昨年もそうだったのですが,今年も強風の影響で野々島桟橋−石浜桟橋間の無料渡船が運航中止となってしまったため,コースをかなり変更しました。

 

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)です。午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。朴島までの運賃は630円です。

 

浦戸(1)

 

浦戸(2)

 

浦戸(3)

 

 午前10時24分頃朴島桟橋に到着しました。所要時間は約54分です。

 

浦戸(4)

 

 神明社(塩竈市浦戸野々島字朴島鱈)です。主祭神は天照皇大神,豊受姫神です。

 

浦戸(5)

 

浦戸(6)

 

 「朴島の菜の花畑」として「浦戸諸島 島歩きマップ」にも載っている浦戸諸島で最も有名な菜の花畑です。正に満開です。例年4月中旬から下旬に見頃になります。黄色のジュータンとタブノキ(タブ,椨)の緑が美しく,畑からはのどかな海が見渡せます。この菜の花は「仙台白菜」の採種用として栽培されているものです。

 

浦戸(7)

 

浦戸(8)

 

浦戸(9)

 

浦戸(10)

 

浦戸(11)

 

 弘安10年(1287年)銘供養碑(「弘安の碑」)がある場所へ向かいます。こちらにも菜の花畑があります。

 

浦戸(12)

 

浦戸(13)

 

浦戸(14)

 

 「弘安の碑」です。梵字の碑文が刻まれているのですが,イエス・キリストを抱いたマリアらしきものが描かれているとの説があります。鎌倉時代に隠れキリシタン(切支丹)はいないはずですから,これがマリア像であれば,江戸時代に隠れキリシタンが「弘安の碑」を利用して描いたものと考えられます。

 

浦戸(15)

 

 朴島桟橋から寒風沢島桟橋へは渡船に乗ります。電話をかければ迎えに来てくれます。塩竈市の道路扱いですので,運賃は無料です。今日の担当は顔なじみの船長・S氏です。S氏から強風の影響で野々島桟橋−石浜桟橋間の無料渡船が運航中止となったことを教えていただきました。ここで4人の方と知り合いました。

 

浦戸(16)

 

 寒風沢島桟橋に到着しました。

 

浦戸(17)

 

 「寒風沢港の歴史」です。特に「長南和泉守菅原道本(長南道本)」という人物が重要です。

 

浦戸(18)

 

 鹽竈ザクラです。

 

浦戸(19)

 

 菜の花畑です。令和3年8月に宇宙から帰還した種から育てた白菜を栽培しています。「浦戸宇宙白菜」と言うそうです。

 

浦戸(20)

 

浦戸(21)

 

 造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),鹿児島藩(「薩摩藩」とも。島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

浦戸(22)

 

 「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。

 

浦戸(23)

 

 日和山展望台から西側の海を望みます。日和山は標高22.2mとのことです。

 

浦戸(26)

 

 天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

浦戸(24)

 

 (参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

 

浦戸(25)

 

 しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

 

浦戸(27)

 

 砲台場跡です。慶應3年(1867年),仙台藩は寒風沢港を海防上最も重要な地点として寒風沢-石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造しました。「加農砲」(カノン砲,Canon砲)3門を据え,弾薬庫,見張所を備え,また沖砲台として船入島には鉄の大巨砲2門を置き,別に石浜崎黒森に1門を据え,仙台藩から大砲方士卒(たいほうかた・しそつ)50人余りが霊亀山松林寺に駐屯して警備に当たったとのことです。

 

浦戸(28)

 

 砲台場跡から西側の海を望みます。

 

浦戸(29)

 

 向かって右から大根神社,船入島弁財天大神社,船入島龍神大権現社です。

 

浦戸(30)

 

 この後昼食休憩です(写真はありません。)。

 

 集落のはずれに佇む六地蔵です。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。六地蔵は,六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。私は,六地蔵の六道への配当(どれが天道の地蔵で,……どれが地獄道の地蔵なのか,ということ)を考えて,これまで印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)を観察して来たのですが,まったくわかりません。諦めました(苦笑)。

 

浦戸(31)

 

 霊亀山松林寺(臨済宗妙心寺派,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。

 

浦戸(32)

 

浦戸(33)

 

 化粧地蔵です。白い粉を塗って祈願すると,美しい子が授かると言われているそうです。

 

浦戸(34)

 

 本堂です。伊達氏の家紋・竪三引両(たてみつひきりょう)が見えます。松林寺が伊達氏所縁(ゆかり)の寺院であることが判ります。竪三引両は,伊達氏第1世・朝宗が文治5年(1189年)源頼朝から拝領した幕紋二引両(まくもんふたつひきりょう)を後代竪三引両に改め輪郭に入れ図案化し定紋としたもので,伊達氏の家紋では最も古いものです(伊達家伯記念會「伊達家の家紋」から引用)。

 

浦戸(35)

 

 延命地蔵です。この石仏は元観音堂参道にあったものを明治37年聖観世音菩薩像(行基作)と同時にこの地に遷座されたものであるとのことです。この地蔵像は享保年間(1716年~36年)江戸で作られ,千石船によってこの地へ搬送されましたが,この船は順風に恵まれ1日1夜で到着したと言われ,そのことから一夜地蔵の別名もあるそうです。

 

浦戸(36)

 

 松洞山寒澤寺(真言宗,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。江戸時代鹽竈神社(塩竈市一森山)の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺)の末寺であったとのことです。鳥居があるので,神社かなと思ってしまいます。本尊は不動明王です。寒澤寺は明治時代初期に廃寺になっているはずです(法蓮寺は明治3年廃寺)が,現在も島民によって護られているようです。

 

浦戸(37)

 

浦戸(38)

 

 さて,「百万遍供養碑」は「縦140cm,横85cm」とされています(平成22年3月宮城県教育委員会「特別名勝松島保存計画」,塩竈市HPなど多数)が,どれでしょうか?「鎌倉時代製」ともあります(「浦戸諸島〔資源目録〕」,「文化の港 シオーモ」など)。不思議なことですが,「浦戸諸島 島歩きマップ」に記載されている「寒澤寺百万遍供養碑」がどれか,はっきりしません。私は「百万遍供養碑」は写真中央やや左の光明真言供養碑であると考えていますが,「元禄十二」年(1700年),「長南喜右衛門五十六歳敬建石」とあるそうです。何故「元禄12年(1700年)建石」ではなく,「鎌倉時代製」なのかは不明です。

 

浦戸(39)

 

 寒風沢桟橋から野々島学校下桟橋へは無料渡船に乗ります。

 

浦戸(40)

 

 野々島学校下桟橋に到着しました。

 

浦戸(41)

 

 宇内浜(うねはま)です。「ゆるりと過ごす 大人の島じかん」,爽やかな晴れの日は最高です。

 

浦戸(42)

 

 野々島共葬墓地に夜泣き地蔵,六地蔵があります。向かって一番右が夜泣き地蔵,一つ置いて六地蔵です。夜泣き地蔵は子供の夜泣きが治ると言い伝えられ,各家々ではこのお地蔵様にお願いしたそうです。

 

浦戸(43)

 

浦戸(44)

 

浦戸(45)

 

 椿のトンネルです。

 

浦戸(46)

 

 菜の花畑です。東日本大震災年から仙台大学附属明成高等学校食文化創志科の生徒たちが白菜の採種文化の保存活動を行っているとのことです。

 

浦戸(47)

 

浦戸(48)

 

 浦戸諸島開発総合センター(ブルーセンター,塩竈市浦戸野々島字河岸)です。「研修目的の宿泊や貸室も行っている。市役所支所や診療所,コミュニティスペースを兼ねる。」(塩竈市観光振興ビジョン推進委員会「島歩きマップ【補足版】 浦戸諸島の歩き方」)とのことです。

 

浦戸(49)

 

 待合所兼コミュニティスペース「うらとラウンジ~菜の花~」です。

 

浦戸(50)

 

 野々島桟橋です。マリンゲート塩釜行き午後2時23分発の塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜までの運賃は580円です。

 

浦戸(51)

 

 午後2時54分頃マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約31分です。

 

浦戸(52)

 

浦戸(53)

 

 浦戸諸島には1年間に5,6回は行っていますが,島歩きをしながら,自然,歴史,文化に触れることができ,毎回感動します。読者の皆さんも浦戸諸島を巡ってみませんか。

 

  ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

【参考】残念ながら桂島を巡ることはできませんでしたが,下見の際の写真の一部及び桂島海水浴場の動画を掲載しておきます。

 

 石濱神社(塩竈市浦戸石浜字山神)です。主祭神は花園天皇で,宮城県神社庁によると由緒は「花園天皇の文安(1444年~9年)年中邑民等の奉祀するところにして山神と称した。元津山森東北砂木と呼ぶ岬に祀られていた。後今の産土神森に移祀したと伝えられる。」とのことです。

 

浦戸(54)

 

浦戸(55)

 

 小さいですが,菜の花畑があります。

 

浦戸(56)

 

 「浦戸諸島に海と花のコラボした美しい風景を作りたぁ〜い‼️ 」と「”小さなボランティア”をしながら島歩きする任意団体」・浦戸諸島「海と花の物語」が管理する花壇(桂島ガーデン)です。チューリップなどが咲き誇っています。詳しくは,浦戸諸島 「海と花の物語」 (facebook.com)を御覧ください。

 

浦戸(57)

 

浦戸(58)

 

浦戸(59)

 

 桂島海水浴場(塩竈市浦戸桂島字庵寺)です。

 

浦戸(60)

 

 4月13日(土)開催予定の「(第12回)桜咲く志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう!」は最少催行人数に達しませんでしたので,中止しました。今年はサクラ(桜)が何時見頃になるかの予想が困難でしたが,4月8日(月)には志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内のソメイヨシノ(染井吉野)が満開(8分咲き)になりました。その後も境内に37種類300本超あると言われている桜が次々に開花しています。昨年に引き続いての中止は残念ですが,人気が無かったようです。8日午後に撮影した染井吉野の写真を御覧ください。

 

染井吉野(1)

 

染井吉野(2)

 

染井吉野(3)

 

染井吉野(4)

 

染井吉野(5)

 

染井吉野(6)

 

染井吉野(7)

 

染井吉野(8)

菜の花

                    (写真は朴島の菜の花畑)

 

◇浦戸諸島(宮城県塩竈市)の菜の花は4月中旬から5月上旬に見頃を迎えます。海を眺めながら菜の花咲く浦戸諸島を巡り,自然や歴史,島の文化に触れてみませんか。
日時 令和6年4月20日(土)午前9時15分から午後3時00分頃まで
◇コース マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目,1階待合室(塩竈市営汽船発券機,松尾芭蕉像が目印)集合)→朴島桟橋→神明社→菜の花畑→弘安十年銘供養碑→(無料渡船)→寒風沢桟橋→菜の花畑→「開成丸」造艦の碑→日和山展望台(十二支方角石・しばり地蔵)→六地蔵→松林寺(化粧地蔵・延命地蔵)→寒澤寺(百万遍供養碑)→寒風沢桟橋→(無料渡船)→野々島学校下桟橋→宇内浜→野々島共葬墓地(夜泣き地蔵・六地蔵)→菜の花畑→柳浜→ブルーセンター(浦戸諸島開発総合センター)→野々島桟橋→(無料渡船)→石浜桟橋→石濱神社→桂島ガーデン(浦戸諸島「海と花の物語」)→桂島海水浴場→桂島桟橋→マリンゲート塩釜(塩竈市営汽船マリンゲート塩釜午前9時30分発,午後2時54分着,歩く距離は8km程度)

◇小雨決行。荒天の場合は4月21日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)

料金無料 汽船運賃(マリンゲート塩釜→朴島630円,桂島→マリンゲート塩釜520円)は各自負担

◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)

◇昼食,飲み物は各自準備してください。島内にコンビニはありません。

◇歩きやすい靴・服装で。ハチ(蜂)などの虫除け対策をお願いします。

◇体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 

◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス sea-and-shrine@ymail.ne.jp 

 2月24日(土)開催予定の「(第11回)塩竈の雛人形を巡ろう!」は,キャンセルがあり最少催行人数に達しませんでしたので,中止しました。中止は残念ですが,人気が無かったようです。

 御案内予定であった9箇所(宮城県塩竈市内の「塩竈deひなめぐり」連携28会場のうち8会場及び旧亀井邸)について,簡単に紹介させていただきます。御協力ありがとうございました。

 

 太田與八郎商店(宮町2-42)です。弘化2年(1845年)創業の老舗味噌醤油醸造元で,古き佇まいを守り続けています。曾祖母の愛した雛人形(江戸文化感じる雛,豪華御殿飾り雛)を展示しています。

 

雛巡り(1)

 

雛巡り(2)

 

 丹六園(宮町3-12)です。国の登録有形文化財の商家で,塩竈銘菓「志ほかま」製造元,お茶,茶器,お雛様も販売しています。享保雛,古今雛,芥子雛などを展示しています。案内人はここで志ほかま・長寿楽お試しセット(100円)を購入しました。

 

雛巡り(3)

 

雛巡り(4)

 

 旧亀井邸(宮町5-5)です。東北を代表する商社であるカメイ株式会社の初代社長・亀井文平氏が大正13年に建てた別荘兼迎賓館で,伝統的な日本建築に西洋建築が増築された和洋併置式住宅です。

 

雛巡り(5)

 

雛巡り(6)

 

 荻原醸造(西町3-12)です。明治21年創業で,無添加味噌・きあげ醤油などを醸造しています。建物自体は約170年前の江戸時代後期に建てられたものです。癒しのつるし雛,大正雛などを展示しています。

 

雛巡り(7)

 

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 熊久商店(本町11-5)です。案内人は日本酒をしばしばここで買っています。代々伝わる享保雛などを展示しています。

 

雛巡り(9)

 

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 浦霞酒ギャラリー(本町2-19)です。浦霞醸造元・株式会社佐浦は享保9年(1724年)創業の老舗造り酒屋です。親王飾りなどを展示しています。

 

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 市川紙店(本町2-15)です。創業明治35年,約120年続く老舗の紙屋です。和紙で作ったお雛様のつるし飾りなどを展示しています。季節の折り紙体験実施中です。

 

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 栄太楼本店(本町4-5)です。創業明治42年,110年以上続くお菓子の銘店です。平成23年3月11日の東日本大震災で津波を被った被災雛を展示しています。この辺りでは,3月10日に斎行される鹽竈神社帆手祭頃まで雛人形を飾っておく家・店が少なくないようです。

 

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 矢部園(海岸通1-20-B)です。サクラ色のお雛様が展示されています。ここで,抹茶のサービスがありました。

 

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鹽竈ザクラ

   (画像は,国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」(標準木))

 

◇志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内には37種類合計300本超のサクラ(桜)があると言われています。桜咲く志波彦神社鹽竈神社境内及びその門前町(鳥居前町)を散策し,歴史探訪します。
日時 令和6年4月13日(土)午後1時30分から3時30分頃まで
◇コース JR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口(集合・出発)→本町(もとまち)→西町→鹽竈神社七曲坂→志波彦神社鹽竈神社→鹽竈神社東参道(裏坂)→宮町→本塩釜駅(歩く距離は3km程度)
◇小雨決行。荒天の場合は4月14日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。) いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。) 
料金無料 御朱印料(志波彦神社鹽竈神社は500円,御釜神社は300円)などは各自負担 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメールで。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス sea-and-shrine@ymail.ne.jp 

 

【参考】

 BLOG投稿時点で仙台のサクラ(桜)開花予想は,開花日が昨年よりも2日遅い3月28日(木),満開日が昨年よりも4日遅い4月4日(木)です。昨年の志波彦神社鹽竈神社のソメイヨシノ(染井吉野)の開花は3月28日,満開は4月2日,国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」の開花は4月8日,満開は4月12日でした(いずれも塩竈大好き倶楽部案内人の調査)。予想どおりであれば,第12回イベントが開催される4月13日(土)は国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」(立入禁止区域内にあるものを含め27本あると言われています。)を含む鹽竈ザクラ(同じく,68本)がまさに見頃になっているでしょう。

雛巡り

               (写真は太田與八郎商店の雛人形)

 

 令和6年の「塩竈deひなめぐり」は2月23日(金,祝)から3月10日(日)まで開催されます。そこで塩竈の雛人形を巡るイベントを企画しました。

日時 令和6年2月24日(土)午前10時15分から午後零時15分頃まで

◇コース JR仙石線・本塩釜駅(宮城県塩竈市海岸通)神社参道口(集合・出発)→市内連携会場(商店など)のうち8会場程度の雛人形を見学→本塩釜駅(歩く距離は2km程度)。
◇小雨・小雪決行。荒天の場合は3月2日(土)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)。
◇料金無料 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。会場内では陳列中の商品を落下させたりしないよう特段の注意をお願いします。

◇体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス sea-and-shrine@ymail.ne.jp 

 11月18日(土),「(第10回)紅葉の志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう!」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内の紅葉以外のほとんどの写真は11月16日(木)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。山形県から2人の方に参加していただきました。

 

 午後1時30分JR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口前出発の予定でしたが,早く集合しましたので,1時15分頃出発しました。

 

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 鹽竈神社東参道(裏坂)を上って,志波彦神社鹽竈神社に向かいます。バス駐車場北側のジュウガツザクラ(十月桜)です。

 

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 東参道途中のコブクザクラ(子福桜)です。

 

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 東参道を挟んで鹽竈神社博物館の反対側にある四阿(あずまや)付近に,かつて藤塚知明邸の離れ(「金華亭」)があったようです。

 

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 博物館前の「藤塚知明旧宅跡」の碑です。藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

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 博物館前(志波彦神社鳥居前)のシキザクラ(四季桜)です。貴賓館前の四季桜の子木とのことですが,例年親木よりも遅く咲きます。今年は例年よりかなり遅い開花です。

 

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 貴賓館前の四季桜です。

 

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 志波彦神社鳥居付近の紅葉です。見頃を迎えています。ただし,見頃のピークかどうかは,過ぎてみないとわかりません。

 

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 社務所西側の斜面にあるコバザクラ(小葉桜,木葉桜。別名・フユザクラ(冬桜))です。「冬桜」は冬に咲くサクラ(桜)の総称として用いられることもあるため混同に注意が必要とのことです。

 

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 ロウバイ(蝋梅)です。蝋梅の碑は明治33年7月大内源太右衛門(仙台の呉服商)が奉納したもので,鈴木省三(現・岩沼市出身の医師・漢学者,号は雨香)の撰文です。それによると,林子平が長崎に遊学の際,支那(清)から渡来のロウバイに魅せられ,これを持ち帰って藤塚知明に贈ったもので,知明邸の離れ(金華亭)にあったのを,知明没後この地へ移植したものであるとのことです。ただし,何代目かのものではないかと思われます。

 

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 鹽竈神社東神門から鹽竈神社社殿に向かいます。ここの紅葉も見事です。

 

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 御神木杉近くの子福桜です。境内で冬に咲く4種類6本のサクラ(桜)はすべて開花しています。

 

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 鹽竈神社別宮拝殿です。

 

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 鹽竈神社左右宮拝殿です。

 

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 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計で,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。現代でも国家(国民とその政府)にとって最も重要な国防がまったくわかっていない人(政治家を含む日本国民)が多過ぎます。

 

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 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。「アイヌ先住民族説」なる何の学問的(分子人類学(遺伝学など),考古学,言語学など)根拠の無い政治的主張によるのでしょう。江戸時代までの北海道が日本でなかったような主張がなされています。ふざけ過ぎというものです。鎌倉幕府は安藤(後に,安東)氏を蝦夷管領に任命しています。室町幕府もそれを踏襲しています。蠣崎(松前)慶廣(広)は豊臣秀吉から蝦夷地(北海道)支配の朱印状を得ています。同じく慶広は徳川家康から黑印状を得ています。松前藩の成立です。江戸幕府は2度にわたって北海道を直轄地にしていますが,そればかりでなく千島列島も北蝦夷地(樺太)も直轄地にしています。鹽竈神社境内の文化燈籠は第1次直轄時のものです。第2次直轄時に仙台藩の元陣屋(「元」は拠点という意味)になったのが白老(しらおい)で,同地には鹽竈神社(白老塩釜神社,北海道白老郡白老町陣屋町)があるとのことです。仙台藩は白老から択捉島までの警護を担当したほか,交代で樺太の警護を担当しています。北海道,千島列島,樺太の警護を担当したのは松前藩,仙台藩(伊達),弘前藩(津軽),盛岡藩(南部),秋田藩(佐竹),庄内藩(酒井),會(会)津藩(松平)です。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は北海道測量から始まったのです。間宮林蔵は樺太を探検し,大陸にも渡り,海峡(間宮海峡)を確認しています。

 

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 鹽竈神社で最も古い参道である七曲坂を下ります。七曲坂は奈良時代にはあったものと推定されていますが,もっと古いかも知れません。

 

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 塩竈市本町・宮町~西町の鹽竈海道(県道北浜沢乙線,幅員18m~26m,総延長843m)にある屏風サインの一つで,「伊勢物語 塩竈(八十一段)」です。左大臣・源融(みなもとのとおる)は,嵯峨天皇の皇子で,紫式部「源氏物語」の光源氏のモデルの一人と言われています。貞観(じょうがん)6年(864年)中納言に任ぜられた後,陸奥按察使(むつあぜち,陸奥出羽按察使とも。現在の東北管区行政評価局長に相当)にも任ぜられていますが,当時は中納言のような高官が地方の任地に赴くことはなかったようですので,融が国府多賀城に下向することはなかったでしょうし,塩竈に来たこともなかったでしょう。従って,融が帰京後も塩竈の風景が忘れられず,塩竈の風景を模した大庭園(六条河原院)を造って栄華風流を極めたというのも,「見て来たような嘘」か,誰かから聞いた話に基づいて庭園を造り,そこで皇族,貴族が「どんちゃん騒ぎ」をしたということになります。しかし,そのお陰で塩竈は都人にとって「あこがれの地」,「美しいものの代名詞」になったのです。

 

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 愛宕神社(塩竈市泉ヶ岡)鳥居です。

 

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 煙波亭は藤塚知明の別邸の称です。ここには林子平ら多くの遊人墨客が来亭しました。その邸内に石碑「芭蕉翁晩鐘」が建立されています。それに,「おくのほそ道」の塩竈に関する部分と「天明二年壬寅六月」(1782年)とあり,基部に鶴里・魚行・文之らの俳人名が刻まれています。

 

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 「煙波亭」とあります。現在は地域の集会所として利用されているようです。

 

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 愛宕神社は,宮城県神社庁の神社検索によると,主祭神は軻遇突智命(かぐつちのかみ,火の神),由緒は「何時誰の勧請にかかるか審でないが,古くこの地に鎮座し火防の神又は辰巳生れの者の守護神として,全市の崇敬がある。」とのことです。

 

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 「東北遊日記 三月」の屏風サインです。吉田松陰(矩方)は,嘉永4年12月15日(1852年1月6日)出発日の約束を守るため,萩藩(長州藩)からの過書手形(通行手形)を持たずに(脱藩して),熊本藩士・宮部鼎蔵(増実)とともに東北遊学の旅に立ちました。江戸留学中,ロシア船の北方出没を知り,その防備を確かめるためです。嘉永5年3月18日(1852年5月6日)塩竈に立ち寄り,鹽竈神社に参拝しています。この屏風サインには書かれていませんが,松陰は「東北遊日記」の中で「仙台は行ふ所は,銅銭甚だ少なく,皆銑銭(ずくせん,銑鉄で鋳造した銭)の極めて弊悪なるものなり。 鈔幣(紙幣)には一歩札・二朱札あり,原(もと)は金と相抗せしも,漸く其の権を失ひ,今は即ち一歩札,三百七十五銭若しくは四百銭のみ。」と,仙台藩の貨幣政策を痛烈に批判しています。1両=4分(歩)=16朱=4000文ですから,1歩札は1000文のはずですが,その37.5%か40%の価値しかないというわけです。仙台藩の貨幣政策は,完全に失敗でした。ひたすら商取引を混乱させ,物価を高騰させたのです。結局,人々は通貨よりも米にしがみ付かざるを得なかったのです。

 

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 祓ヶ崎稲荷神社です。江戸時代仙台藩主が鹽竈神社参拝の折はこの地において祓い清めた後参拝したことなどから,鹽竈神社の祓所としての役割を担っていたとのことです。宮城県神社庁の神社検索によると,祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ),猿田彦神(さるたひこのかみ),大宮賣神(おおみやのめのかみ)です。由緒は,「創祀年月は不明ですが,文政3年(1820年)7月社殿を再建し,京都の伏見稲荷大社から霊璽を奉遷して正式に稲荷神社となりました。平成元年11月に現在の社殿を改築し竣工」したとのことです。鹽竈神社氏子三祭(帆手祭,花まつり,みなと祭)において,祓ヶ崎稲荷神社宮司・榊原久康氏が鹽竈神社の神輿を先導する猿田彦役を務めています。

 

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 午後3時25分頃,JR仙石線・本塩釜駅アクアゲート口前で解散です。写真は構内の塩竈市観光案内所です。

 

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紅葉

              (写真は,志波彦神社鳥居付近)

◇志波彦神社鹽竈神社境内の紅葉が見頃になると予想される時季に志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策します。
日時 令和5年11月18日(土)午後1時30分から3時45分頃まで
◇コース JR仙石線・本塩釜駅(宮城県塩竈市海岸通)神社参道口(集合・出発)→鹽竈神社東参道(裏坂)→志波彦神社鹽竈神社→鹽竈神社七曲坂→塩竈公園(融ヶ岡)→煙波亭跡(愛宕神社)→吉田松陰「東北遊日記 三月」屏風サイン→祓ヶ崎稲荷神社→本塩釜駅(解散。歩く距離は4km程度)。ただし,一部変更になる場合があります。
◇小雨決行。荒天の場合は11月19日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)
◇料金無料 御朱印料などは各自負担 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。飲み物は各自準備してください。虫除け対策をお願いします。

◇体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者(案内人)は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス  sea-and-shrine@ymail.ne.jp

(注)令和5年11月15日(水),メールアドレスをsea-and-shrine@ymail.ne.jp に変更しました。